2015/4/5 門戸聖書教会礼拝説教イースター礼拝ルカ 24:13-35 復活からの出発 1. 二人の弟子みなさん イースターおめでとうございます 主イエス キリストの復活を心より賛美いたします 今日は また 2015 年度の最初の礼拝でもあります 新年度の新しい目標聖句 教会目標も書いていただきました 恵みを心に刻んで - 詩篇 103:2 のみことば わがたましいよ 主をほめたたえよ 主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな 昨日 週報に この新年度の目標を書き込みながら 恵みを心に刻んで -なかなか いい言葉だなあと 改めて思いました 心に刻む というのは これは 鑿とか 彫刻刀で 石の板に彫り付けるようなイメージですよね ただ さらさらと筆や鉛筆で書くというのとは違う 字を彫るというのは 中々 骨の折れる作業です ひとたび彫った字が消えることがないように 刻むわけです 刃物を当てるわけです それはもしかして 痛みを伴うことなのかもしれない けれども 主の良くしてくださった恵みを忘れないように 自分の心に鑿を当てる みことばを刻み込んでいく 門戸聖書教会のみんなが そんな 1 年を送れたら この 40 周年の年は 素晴らしい恵みの年となると思いました 一回 一回の礼拝を大切に 心にみことばを刻んでまいりたいと思います さて 今年のイースター この新しい年度の初めに みなさんはどんな思いを持って臨んでおられるでしょうか 就職が決まって 進学が決まって期待と希望に満ちておられる方もおられるかもしれませんし 反対に不安と絶望で暗く閉ざされた心でおられる方もいるかもしれません 今日 お読みした聖書の箇所に出てまいりました 二人の弟子は どちらかと言えば 暗く沈んだ心で 歴史上 最初のイースターの日を迎えておりました ルカ 24:13 ちょうどこの日 ふたりの弟子が エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった 24:14 そして ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた ちょうどこの日 というのは イエス様が十字架にかかられてから三日目の日曜日のことです ふたりの弟子 がエルサレム郊外のエマオという村へと歩いていた 二人のうち ひとりの名前は分かりませんが もう一人は 18 節に クレオパ という人であったと記されております 実は ヨハネ 19:25 に クロパの妻のマリヤ という人が マグダラのマリヤや イエスの母マリヤと共に 十字架のそばに立っていたということが記されています この クロパ が この クレオパ であったかもしれません すると この ふたりの弟子 は クレオパ夫妻かもしれませんし 他の弟子かもしれません いずれにせよ 十二弟子ではないけれども 最後にいたるまでイエス様について来た弟子たちです 1
そんな二人の弟子が この一切の出来事について 話しながら エマオへと歩いていた この一切の出来事 というのは ひとつには もちろん イエス様の十字架のことだったでしょう 彼らは直接 十字架を目撃した人であった可能性が高い 十字架を直接 見るということ それはどれほどの衝撃だったでしょうか 神学生の時 目の前で人が電車に飛び込むのを見て 献身に導かれたという先輩がおられましたが この方こそ救い主 キリストだと希望をかけて 従ってきたイエス様 本当に愛し慕っていた恩師が 目の前で釘づけられて死ぬ姿を見ることは どれほどショッキングな つらい出来事だったでしょう しかし この朝 とんでもないニュースが飛び込んできた 早朝に 何人かの女たちが イエス様が葬られたお墓に行ったところ 墓は空になっていて そこでイエス様に会ったという そういう ニュースを聞いてから このふたりの弟子は エルサレムを出発したわけです つまり それは イースターの朝の礼拝に出ている 私たちと非常に似ている状況だと言えます イエス様の復活の話を聞いた でも まだ 実際によみがえられたイエス様を見たわけではない 復活の主とまみえたわけではない そういう中で この二人は イエス様の十字架と復活というニュースについて 論じ合いながら歩いていたわけです 2. 復活のイエスに気づかない弟子たちそんな彼らに 近づいて来た人がいた それは何とイエス様でした ルカ 24:15 話し合ったり 論じ合ったりしているうちに イエスご自身が近づいて 彼らとともに道を歩いておられた 24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて イエスだとはわからなかった 24:17 イエスは彼らに言われた 歩きながらふたりで話し合っているその話は 何のことですか すると ふたりは暗い顔つきになって 立ち止まった 見知らぬ旅人から 何の話をしているのですか と聞かれただけで 彼らは 歩くのを止めて わざわざ立ち止まるわけです ちょっと 待ってください と ルカ 24:18 クレオパというほうが答えて言った エルサレムにいながら 近ごろそこで起こった事を あなただけが知らなかったのですか いったい エルサレムにいて 何をしていたんですか? 世間知らずにもほどがありますという感じでしょう どんな事ですか? と聞かれて 彼らはばーっと一気呵成にまくしたてます 19 節に ふたりは答えた とあるのに注目してください どちらか一人が答えたのではなくて もう それぞれに言いたいことがいっぱいあるものだから 互いの言葉に言葉をかぶせるようにして話したのでしょう ルカ 24:19 ナザレ人イエスのことです イエス様の素晴らしさ この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ この方こそ 救い主 キリストだと望みをかけてついてきたこと しかし 祭司長や指導者たちが 陰謀によってイエス様を十字架にかけてしまったこと けれども 不思議なことに 今朝 墓が空っぽになっていたこと そういうことを一息に話すのです 2
けれども これは 実に不思議なことですし 皮肉なことです 彼らは 暗い顔 をして落ち込んで 心の中の絶望 自分の希望や夢が破れてしまったこと-そういうことを 目の前にいる人に話すのだけれども まさに その目の前にいる人が 当のイエス様であるということ 彼らの絶望の全てを吹き飛ばしてしまう答そのものであるお方 復活の主イエスであるということに 気が付かないのです これは 実に不思議なことです おかしなことです これまで 寝食を共にして過ごしてきたイエス様が 目の前にいて気づかないということがあるのだろうか ここまで話しかけられていて 分からないということがあるのだろうか ひとつには 復活のキリストの姿が 以前のイエス様とは違っていた 特に十字架にかけられたイエス様を見たばかりですから そういう印象もあったかもしれない でも 意外と 人間とは 目の前にある真実に 気が付かない ものなのではないでしょうか 少し前に あるテレビ番組で こんな企画をやっておりました ちょっとお父さんを騙すようなドッキリのような企画だったと思います いつもは化粧気のない奥さんが プロのメイクアップアーティストによってばっちりお化粧されて髪もきれいにセットして マスクだけ着けて 全くの他人のふりをして お客さんの奥さんになりすまして家にやってくる その人が自分の妻だと気付くのにどれくらいかかるかという ちょっと意地悪な企画でした 子どもたちもみなグルです でも さすがに 自分の妻には気づくのではないかと思っておりましたが これが意外と気が付かないのです 先入観とは恐ろしいものです 趣味は何ですか などと質問して うちの妻といっしょですね なんて言っている 今日の この箇所のポイントのひとつは 目の前に復活のイエスがいながら そのことに気づけないでいる弟子たちのこっけいさです それが明らかに強調されている 復活のイエス様が 近づいて きて ともに道を歩いて くださって 語りかけてくださっている 耳を傾けてくださっている それなのに 暗い顔つき で 絶望している弟子たち でも あまり 彼らのことを笑えませんよ ここから見ていると けっこう 暗い顔つき でメッセージを聞いておられる方もおられます 仕方ないのかもしれません 日々の心配があり 様々な思い煩いがあり なすべきことが沢山あります 仕事や家事 育児の疲れ 生きることにまつわる重荷にはきりがありません でも 復活の主が 目の前におられるのではないか 共に歩み 私たちに語りかけてくださっているのではないか この ルカの福音書 が書かれた時 教会は迫害の時代の中を生きておりました 信仰のため 福音のため 命を奪われることもありました そういう困難な時代に生きるクリスチャンたちに向かって ルカは 復活の日の朝 御使いが女たちに告げたことばを語っているのです ルカ 24:23 イエスは生きておられる そして この イエスは生きておられる という 復活のメッセージをなかなか受けとめられないでいる 弟子たちの姿 そのこっけいさを浮き彫りにしているのです 3
3. 心の目が開かれてそういう弟子たちに イエス様は言われます ルカ 24:25 するとイエスは言われた ああ 愚かな人たち 預言者たちの言ったすべてを信じない 心の鈍い人たち 24:26 キリストは 必ず そのような苦しみを受けて それから 彼の栄光に入るはずではなかったのですか 24:27 それから イエスは モーセおよびすべての預言者から始めて 聖書全体の中で ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた これも不思議なことですね イエス様は ここで聖書の話をされるのです ご自身が復活したことを示すのに ほら わたしだよ イエスだよ と言われなかった その方がよほど手っ取り早いだろうと思うのですが 旧約聖書に書いてあるみことばを引いて 弟子たちに示される さらに いっしょにお泊りください と 無理に願う二人の願いに答え 彼らと食卓に着かれた そして そこで パンを取って祝福し 裂いて彼らに渡された (30)-これは何かと言えば 聖餐式です この姿を見た時に 彼らの目が開かれ イエスだとわかった のです これはいったいどういうことなのか これは 私自身の理解ですが 恐らく この時 イエス様は この二人の弟子たちを 私たち 後の時代になって 直接 復活のイエス キリストを見ることのできない者たちのための模範としようとされたのではないか この後 別の機会に 直接姿を現されて 御手の傷跡を見せたり 魚を食べたりなさっておられます ( ルカ 24:36-43) が このエマオ途上の弟子たちには 目に見える証拠ではなく 聖書のみことばと聖餐を通して ご自身を現そうとしておられる みことばと聖餐とは 何ですか それは礼拝です 復活のイエス様は 今も 礼拝において ご自身を現してくださるのです ルカ 24:31 それで 彼らの目が開かれ イエスだとわかった するとイエスは 彼らには見えなくなった これも不思議なことです イエス様だとわかった わかったら見えなくなった でも 見えなくなった というのは いなくなった というのとは違います さっきまでは 目の前に いた けれども 復活の主が わからなかった わけです 肉の目には見えていたけど 心の目には見えていなかった しかし 今は みことばを通し 聖餐を通し 見えない けれども 共に いてくださる ことがわかった 信仰によって イエスが生きておられる こと 私たちと共にあることがわかったのです ルカ 24:32 そこでふたりは話し合った 道々お話しになっている間も 聖書を説明してくださった間も 私たちの心はうちに燃えていたではないか 大切なのは このところです 心はうちに燃えていたではないか 主イエスのみことばが 心に刻まれる 主イエスの復活が 頭の理解ということだけではなくて 私の存在の深みに 私の心において明らかにされる 心はうちに燃えていたではないか - 復活のイエス キリストと 私たちひとりびとりが出会う もし 私たちが心を開いて みことばに向かうならば 信仰の目でキリストを見上げるならば そういう出会いが起こるのです 45 節にありますが 主が 聖書を悟らせるために 私たちの心を開いてくださるのです 4
4. 復活からの出発それから二人はどうしたのか 彼らはすぐにエルサレムへと引き返したのです ルカ 24:33 すぐさまふたりは立って エルサレムに戻ってみると 十一使徒とその仲間が集まって 24:34 ほんとうに主はよみがえって シモンにお姿を現された と言っていた 24:35 彼らも 道であったいろいろなことや パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した もう 日も暮れていたはずです そして そもそも この二人の弟子は 主イエスが十字架にかけられたことに 絶望し 女たちの復活の証しを聞きながら エルサレムを去って 暗い顔 でエマオへと下ってきていたのです 失望の道 絶望の道を歩み 復活のキリストから遠ざかっていたのです しかし その彼らが 今や危険が伴うエルサレムへともう一度引き返している そして 使徒たちに混ざって主イエスの復活を証ししている 彼らは使徒ではない いわば一般の信徒です でも そんなことは関係ない 復活の主に出会い 心がうちに燃やされて 主の復活の証人とされている ジョン ウェスレーという偉大な牧師 伝道者がおられました メソジスト派の教会を設立した 300 年ほど前のイギリスの先生です この近くの関西学院もメソジスト派の宣教師によって設立された大学です ウェスレーは若い日にオクスフォード大を優秀な成績で卒業し 司祭になります それから 意気揚揚とアメリカ ジョージア州に宣教師として渡ってゆくのです その船の上でも司祭のガウンを着て 乗っていた人々のお世話をしておりました しかし その船が大西洋の上で考えられないような嵐にあった それでウェスレーはすっかり動転してしまい船室にこもってしまうのですね ところが そこに賛美が聞こえてくる 何だろうこの賛美はと思い行ってみると それは同じくアメリカに渡る途中のモラビア派と言われるグループの人達でした その人達が嵐の船の中で みんなで神様を賛美していたのですね 中には女性も小さな子供もおりました その姿に打たれたウェスレーは小さな子供に聞いてみたのです 恐くないですか? と すると 恐くありません 私たちは神様の御手の中にあります 神様が私たちと共にいてくださいます という返事が返ってきました ウェスレーはこのことに非常なショックを受けるのです 自分には聖書の知識は山ほどあるけれども この信仰がない 神様がともにいてくださる という信仰がないことにショックを受けるのです それからウェスレーはジョージア州で 2 年あまり働くのですが その結果は惨憺たるものでした 最後には信徒から訴えられて ほうほうの態でイギリスに逃げ帰るのです そういう中でウェスレーは牧師でしたが もう一度真剣に神様を求めます そして 35 歳の時 アルダスゲートというところで開かれていた実に地味な集会で ルターの ローマ書へ講解 が朗読されているのを聞いて 本当の回心を経験するのです 復活の主と出会うのです ( その時 ) 自分の心があやしくも燃ゆるのを覚えた そしてキリストを ただひとりの救い主であるキリストを信じた と感じた ( 山口徳夫訳 ウェスレイ日記 ) 5
それからのウェスレーの獅子奮迅の活躍はとても常人が真似できないものでした 生涯に五万回の説教をし 400 冊の著作を記し 大リバイバルのために用いられる聖徒となる そのウェスレーが死の床で遺した言葉があります それはこういうものでした 私たちにとって最も良いことは 神様がともにいてくださるということです 目に見えないけれども 復活の主が よみがえられたキリストがともにいてくださる みことばの内に 聖餐のうちに この礼拝のうちに親しく臨んでくださっている 私たちの心をうちに燃やし 私たちをよみがえりのいのちで満たしてくださる この弟子たちがこの後 どのような人生を歩んだのか キリストの復活の証人として 歩んだことでしょう 私たちも 復活の主に目を開いていただけますように お祈りいたします 6