聖書 Ⅱ コリント 8:16~24 ( 第 30 講 ) 題 主に仕えるわざをするように導かれている意図 ( 序 ) 自分の信仰の土台をどこに置いているのか * パウロは コリントのクリスチャンたちに対して 救援募金について 途中やめしないで 最後まで続けてほしいと簡単に言えば済むと思えるこの勧めを いろいろな面から しつこいほど語り続けているのはどうしてでしょうか 主が重要なこととして語らせておられるというのはもちろんだと考えられますが それだけではなく 一つの事柄を通して 信仰者としてどのように受けとめるべきであり どのように向かい どのように対処し 霊的な信仰人生を生きるということはどういうことかを この一つの事柄を通して語り尽くそうとしているのでしょう * 信仰者というのは 神の御前に生きる者として生かされていますから 日々どのように向かっていくべきなのか 信仰人生において目の前に起きてくる様々な出来事に対して 問われていると言えるでしょう パウロはこの救援募金をいう事柄を通して 信仰によって向かうとはどうすることなのか 神は何を求めておられるのかを伝えようとし すべての事柄においても それを正しく適用して判断していくように導きたいと願っていたので 簡単に済むような内容をくどいほど語り続けていると言えます * 確かに一つの事柄に対するその人の向かい方 行動を見れば その人の信仰的生き方がすべて現れていると言えます 神の御前に生きているのか 人を前に置いて生きているのか 何を気にし どんな思いを大事にして向かっているのか 本音をどこに置いているのか 何を判断の基準にして 1
いるのか等々 一つの事柄への対応が その人の生き方すべてを現していると言っても過言ではないでしょう なぜなら 信仰理解という土台が積み上げられ 築かれていて そこから具体的な言動が出てくるからです * ある人が 牧師に向かって 先生 このメッセージを準備されるのにどれぐらいの時間をかけておられるのですか と聞いたところ 牧師は 40 年ですというようなことを言ったと聞きました その牧師は 伝道者となってから 40 年になっていたのでしょう 聞いた人は具体的にかかった時間を聞いたのでしょうが 40 年の土台の上に 具体的な準備に時間をかけていたのです すなわち牧師の 40 年かけた信仰的理解 生き方の積み重ねが このメッセージに現れていると言いたかったのでしょう * 私たちも パウロが コリントのクリスチャンたちの霊性を高めるために 救援募金を通して語られている内容から 自分の信仰の土台をどこに置いているのか ここに記された一つの事柄に対する信仰的向かい方を 自分にとって重要な信仰の判断すべき材料として学び取っていき それをすべての事柄に対する信仰的対処の基本として確立していくことが大事だと思わされるのです * 確かな信仰という土台なくして 表面だけの薄っぺらな信仰による生き方をするべきではないでしょう これまでの信仰理解 信仰による生き方 言動が 信仰の土台として積み重ねられていき それを基にして 目の前に起きてくる一つ一つの事柄に対して信仰的対処をしていくことが重要になってくるのです それでは 今日の箇所から私たちへの御心を学び取っていくことにしましょう 2
(1) 信仰者の内に霊の思いを与えられる神 * 前回のところにおいては 信仰者は 霊的には無限の資産を頂いている者であったとしても 地上においては 神の御心によって自分に与えられている分量が決められているので 与えられている分量に応じて主に仕えていくように導かれているということを見てきました 具体的に 今の状態の中で 救援募金を完成させるという形で 主に仕える信仰を現していくことの大事さを示してきたのです * 主に仕える信仰を現していく上で 最も注意しなければならないことは 救われてもなお 肉の思いが残っている人間にとって 人に目を向けやすい肉の心が出てくることが災いとなることを知って 神にのみ目を向けて 主に仕えたいと願って向かうことの大切さを示してきたのです これは 聖霊の助けなくして出来ないことです * パウロが コリントのクリスチャンたちに対して 霊的な生き方を回復し始めた人たちとして受けとめ 主に仕える信仰についてまで勧めることができる信頼関係に戻ることができたのは テトスによるところが大であると分かっていたので テトスのことをここでも触れていくのです * もちろん無意味に テトスのことを何度も取り上げようとしているのではなく テトスや他の兄弟たちのことを取り上げることによって示そうとしたことは 彼らの上に神がどのように働きかけておられるかを語り それによって 神はどのようにわざを進めておられるのかを語ろうとしているのです * そこで 16 節でこう言います 私があなたがたに対して持っていた思い すなわち あなたがたが主としっかりと結び合わされるためなら どんなことでもすると言わんばか 3
りのあの熱意を 神はテトスの心の中にも与えて下さった と言いました * これは 自分がどんなにあなたがたのことを思っていたかというパウロ自身の思いを伝えようとしたのではなく テトスや他の兄弟たちの思いの中に 神が働きかけられた結果 主に仕えたいという霊の思いが起こされたという霊的な事実を伝えようとするためでした テトス自身が熱心な人であったと言うのではなく あなたがたのことを熱く思う熱意は 神が与えられたものだと言ったのです * 神が 信仰者の内に霊の思いを与えられるということが パウロの信仰においては 重要な福音として捉えていましたから すべてはあなたがたのことを導こうと 御手を伸ばしておられる神による愛の働きかけだということを テトスや他の兄弟たちのことを取り上げることによって明らかにしようとしていることが分かります * すなわち テトスの今回の働きは 私が頼んだからではなく 彼の一存で私のために一肌脱ごうと考えたからでもなく テトス自身が熱心な性質を持っていたからでもなく 神が 彼の思いの中に働きかけられ 何としてでもコリントのクリスチャンたちの信仰を霊的に正しく整えたいと願われた その神の熱い思いが テトスの思いの中に与えられたと言っていることが分かります * テトスだけではなく 諸教会の中から主に仕えるこの務めのために仕える者として選ばれた兄弟のことがここに取り上げられ 救援を必要としているエルサレムの仲間たちのために 救援募金を持ち運ぶ協力者として 彼の思いの中に 神が霊の思いを与えられたと言っているのです * 諸教会から頼まれたので嫌々仕えようとしているのではな 4
く 又彼の思いの中にある正義感 困っている人たちのことを思う憐憫の思いなどがあったから同伴者として向かおうとしていたのでもありません 諸教会から選ばれたのですが 人間による選びというより そこに神が導きを与えられ 働かれたから私が選ばれ 神に仕えたいという強い思いが神によって与えられたから 主に仕える思いで向かおうとしていたことを ここに伝えようとしているのです このことをもう少し考えて見ることにしましょう (2) 私たちの内に聖霊によって起こされた信仰と思い * 神が信仰者の内に霊の思いを与えて下さるとはどのようなことでしょうか 具体的に見ていく必要があるでしょう パウロは第 1 の手紙でこう言っています 神の霊によって語る者はだれも イエスは呪われよ とは言わないし また 聖霊によらなければ 誰も イエスは主である と言うことができない と言いました (12:3) ここにパウロの信仰理解がはっきりと示されています * サタンが肉の思いをその人の内側に起こすと 主に敵対し イエスは呪われよと言うようにされるし 聖霊がその人の内に霊の思いを起こされると イエスは主であると心底告白するようになると言いました 信仰の思いは その人の思いから出て 現しているように見えますが 聖霊がその思いを与えて下さったから 主を信じる信仰を現すことができると言っているのです このことが分からなかったならば 神がよしとされる信仰を持つことはできません * もしこのことを本気にすることができないなら 神は霊の思いを私たち信仰者の内に起こして下さるということも 実感できない事柄ですから 全く分からないでしょう 信 5
じる思いも 従う思いも 主に仕える思いも 他の兄弟を愛する思いも 主に委ねていこうとする思いも すべて聖霊が起こして下さる思いによって与えられているのです * もちろんその人が その思いを否定する心が強ければ 神は その人の内に霊の思いを起こそうと働きかけられたとしても それは消されてしまい 信仰の思いは湧き上がってきません その人の思いを無視して 無理矢理霊の思いを起こすことはできないからです 言わば その人の思いを 信仰を持って向かうように促され 整えられ その人自身の思いのように形造って行かれるのです * ですから私たちの信仰は 神が私たちの内に聖霊によって起こされたものであり 信仰を持つように促され 自分の中から出てきた思いのように主が形造って下さるのですから 私の信仰というよりも 聖霊の贈り物なのです このことが分かれば 主に仕えようとする思いも 主が霊の思いを与えられ 導かれていることだと分かります * ヨハネも手紙でこう言っています あなたがたは こうして神の霊を知ることができるのです すなわち イエス キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は すべて神から出ている と (Ⅰ ヨハネ 4:2) 私たちの思いの中には 神から出ているものとそうでないものとがあります それを見分けなさいと言っているのです こうして聖霊が起こして下さる思いだけが 神からのものだと明らかにしているのです * これほど明白な語りかけはないと言えるのですが あいにく 神から出ていると言われるキリストを告白する霊は 肉の目には見えないので これが聖霊から出たものだと断言できない部分を残しており そこに難しさがあります 6
ここでは結果として そのように告白できるのは人間の思いではなく 神からの霊によると言われている神のお言葉を信じるかどうかにかかってくるのです * パウロと共に私たちが信じるのは 神が聖霊をもって私たちの霊に働きかけておられるから 私たちはキリストを贖い主だと信じることができるし 主に従い 主に仕えたいという思いが起きてくると信じているのです 私たちの信仰に何ら誇るものはありませんが 聖霊が与えて下さった霊による信仰は誇ることができるのです * このことを示してきたのは テトスやエルサレムに同伴する他の兄弟たちの思いは すべて神から出たものであり その思いを持ってあなたがたに接しており あなたがたの内にも 神から出た思いによって働きかけて下さり 主に仕える思いをもって救援募金をするならば それは神から出た思いだと示すためであったことが分かります (3) 主に仕えるわざに潜んでいる罠に注意する * これらのことを明らかにしようとした意図は 人間の思いには 肉から出てくる思いと霊から出てくる思いとがあり (Ⅰ ヨハネ 4:1) 肉の思いから出た思いに徹底して否定して従わず 神から出た思いを大事なものとして認識し 主に仕える信仰に立つように勧めるためであったことだと分かります * その向い方において パウロが特に注意してきたことを知らせようとしています それは 救援募金というわざには誘惑と疑惑の罠が潜んでいることをよく知っていたからです そこに潜む罠に極力落とし込まれないように十分注意してきたと言うのです 7
* それはどんな点だと言っているのでしょうか 第 1 は この募金の一部を私物化しているところがあると疑われないために また 不公平な集め方をしているのではないかとの疑惑の目で見られないために 諸教会から選ばれた中立の立場にいる兄弟に 鑑定人として加わってもらい それだけではなく もう一人の兄弟にも加わってもらい 公正な仕方で募金を行っていることを証言してくれるように気を配ってきたと言いました * ここまで気を配る必要があると考えていたのは 募金という性質上 それを集める人の心の中に入り込みやすい金銭的罠を 極力排除するためであったと考えられます 少しでも私物化していると疑われないために 中立的な人物の目を置くという 疑われないための対策を講じていたから信用してもらえるはずだと言いたかったのです * パウロがここまで対策しなければならなかったのは パウロが コリントの人たちのことを疑いやすいタイプだと考えていたからでしょうか そうではないでしょう 募金を集めて届けようとする者にとっても 募金を託す人たちにとっても その金銭トラブルという信頼関係を壊す罠をできる限り排除することによって 信頼関係を大事にしたいと考えていたからだと言えます * パウロにとっては 全て心の奥底まで見通すことができる神の御前に生きている者でしたから 人の目がなくても 金銭的罠に陥る人ではありませんでしたが それは その人と神との事柄であって 他の人との関係においては 気を配る必要があると考えていたのです * パウロは 金銭的罠がもたらす怖さをよく知っていたので 必要以上に注意していたのが見えます 集める側の内に起 8
こる誘惑 託す側への疑惑の目 これらが主にある兄弟の信頼関係を壊す恐ろしい罠となることは いつの時代においても同じです 極力注意をして誘惑と疑惑が入り込まないように気を配ることが必要になってくるでしょう * 救援募金を届けるという使命を受けた務めは この当時においては大変なことでありましたが 募金を託す人たちの愛を届けるために 主によって起こされた霊の思いに沿って 主に仕えたいとの思いで向かおうとしているのです ここに 募金によって仕えようとしている人たちと それを届けるために時間と労力と命とを懸けて仕えようとしている人たちの思いがこの救援募金に込められているのです * そして第 2 は 募金を託された私たちが 神と人の前において真実な思いで向かってきたことを証言してきただけではなく あなたがたの側も 私たちがあなたがたのことを 主に仕える信仰を貫き通してくれると信頼してきたように 主に仕える信仰を完成させる姿を 自分たちの意志で明らかにして下さいと言ったのです * 分かりやすく言うならば 私たちがあなたがたの信仰に対して抱いてきた思いに対する期待を裏切らないでくださいと言っているのです もちろんパウロは 自分が抱いた思いを壊さないでほしいと 自分のことだけを考えて言っているのではなく 神の願いとして伝えているのです * 神が私たちを救い上げ下さったのは 罪を赦すためだけではなく 霊性が整えられ 神が起こして下さった霊の思いを大事にして歩み 御国に迎え入れられるのにふさわしくなるまで霊を育て 喜びと感謝に溢れ 御国につながる今を生きるようにならせるためでありました そのための大事な一つの事柄として 主に仕える信仰を現し それを完 9
成させてほしいと願っておられるのです ( 結び ) 神が力あるお方だと信じた上での生き方に * 私たちは ともすれば このような救援募金の勧めなどについて読む時 これほど くどいほどに語り続ける必要があるのかと思って読んでしまいやすいのですが パウロにとっては違っていました この一つの事柄への対応の仕方において その人の信仰がすべて出てくるのだから 主に仕える信仰者として その対処の仕方を重要視するように語っているのが分かります * 確かに救援募金に対してどのように対処すべきか 土台に確かな信仰的理解があってこそできることですが パウロがここにおいて示してきたことは その思いが肉の思いから出てきたことなのか それとも神によって与えられた思いによってしていることなのか そこから明らかにしていこうとしているのです * 人間の思いの中には 人の目を気にしようとする肉の思いが強く残っており 特にこのような救援募金などに向かう時に入り込んでくる肉の思いは よほど信仰理解を確立していないと 肉の思いをとどめることができず 主に仕えるわざとならずに 肉の思いを満足させるためのもので終わってしまい 主に仕える信仰のわざとはならないのです * そればかりか 金銭的罠に注意が必要です 募金を集める側の内に起きる誘惑があり 届けてほしいとその募金を託す側に対して疑惑の目が消えない怖さ よほど注意をしないと主に仕えるわざがサタンに利用される罠になり 信仰者の間の信頼関係が崩される結果となります * 神は 私たちの思いの中をすべてご存じですから 私たち 10
が人に目を向けず 神にのみ目を向けて向かうならば 何の問題もないのですが 人間に対しては疑心暗鬼に陥るとどうにもなりません ですから 神にのみ目を向けるだけではなく 思いの中が見えない人間に対しては 真実な思いであることを証しするという気を配る必要があるのです * これは主にある兄弟姉妹の関係が 主を中心とした信頼関係にされているのですから 主の前においては主にのみ目を向ける信仰に立ち 人の前においては 主に目を向けつつも 兄弟姉妹に対しては 真実な思いで向き合っていることを示す気配りが必要なのです それは主が与えて下さった信頼関係を大事にするためです そこに その人の信仰的生き方がはっきりと表れてくるのです * パウロが テトスや他の協力者をも含めて 救援募金を届けるという働きは これほど大変で 自分にとって益になるどころか 戦いでしかないこのわざに向かおうとし そのわざに協力するように勧めている救援募金について なぜここまで大事なこととして向かっているのでしょうか * エルサレムの信仰者たちのことを思えば 大変で困っているからということもありますが これはどこまでも 救われた信仰者が 更に霊性が成長するために大事なこととして 神によって導かれている主に仕えるわざに勤しむことによって 信仰が高められ 神が望んでおられる天国人となっていく一つの事柄として 神がこの状況を与えられたと見ていたのです * 神が力のないお方であるなら 人間が必死になって助けてあげなければ 困っている人は落ち込むばかりでありますが 神が直接 困窮状態を解消しようと思われたらできるにもかかわらず それをされず そんな困窮状態にある者 11
たちのために祈り できる手を尽くすようにと 信仰者の内側に霊の思いを与え 導き 主に仕えるわざに勤しむようにされたことを思うと 他の信仰者を用いて 困窮の中にある信仰者を助けようとされている神の働きかけだと分かります 神は人を用いてみわざをなさっているのです * 助けられる側も助ける側も人を見ないで神にのみ目を向ける信仰に立たせるための 巧みな神のみわざだと思われます 神がこのようななさり方をされるのは 信仰者を育てたいために他なりません 序論のところで見ましたように あなたは神の御前に生きているのか 人を前に置いて生きているのか 何を気にし どんな思いを大事にして向かっているのか 本音をどこに置いているのか 何を判断の基準にしているのか等々 これらの点が確立されていくように あえて救援募金をするような状況に置かれたのでしょう 神のなさることの深さはただただ驚くばかりです 12