第二に 聖さを得るために 私たちはすべての人との平和を追い求めなければなりません 私たちの思いの内にある敵対心や闘争心などを放っておかず 平和的に生きるように努めなければなりません へブル書の著者は このことについて 非常に厳しく警告しています 私たちが神の聖さにあずかる者とならない限り 主を見るこ

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2011 年 07 月 17 日 ( 日 ) 18 日 ( 月 )29 ローマ人への手紙 8:12~17 聖化の力 ( 聖霊 )(3) 養子の霊 1. はじめに (1) 聖化 に関する 8 回目の学びである 最終回 1 最大の悲劇は 律法を行うことによって聖化を達成しようとすること 2この理解は ク

神学総合演習・聖霊降臨後最終主日                  2005/11/16

2011 年 06 月 26 日 ( 日 ) 27 日 ( 月 )26 ローマ人への手紙 7:14~25 律法からの解放 (3) ロマ書 7 章クリスチャン 1. はじめに (1) 聖化 に関する 5 回目の学びである 1 最大の悲劇は 律法を行うことによって聖化を達成しようとすること 2この理解は

2011年度 牧羊者 第Ⅳ巻

2013 年 3 月 10 日 ( 日 ) 11 日 ( 月 ) 51 回目 Ⅵ-054 山上の垂訓 山上の垂訓 054 マタ 5:1~2 ルカ 6:17~19 1. はじめに (1) 呼び名について 1マタ 5:1~8:1 は 通常 山上の垂訓 ( 説教 ) と呼ばれる 2しかし この名称は 説教

2017 年 10 月 8 日 ( 日 ) 9 日 ( 月 ) 15 回さらにすぐれた契約 さらにすぐれた契約 ヘブル 8:1~13 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし (2) ユダヤ教の 3 つの柱

(2) ロマ 7:1~6 の要約 1 律法の大原則 * 律法は 人に対して権限を持つ * 律法は 死んだ人には権限を持たない 2 結婚関係の例話 * 夫が生きている間は 結婚の律法によって制約されている * それを破れば 姦淫の女と呼ばれる * 夫が死ねば 結婚の律法から解放される * 再婚しても

2011 年 10 月 16 日 ( 日 ) 17 日 ( 月 )42 ローマ人への手紙 11:25~36 拒否の解決 (3) イスラエルの救い 1. はじめに (1)10 月 13 日 ( 木 ) の日没から仮庵の祭りが始まった 1 第 7 の月の 15 日 満月 2 満月を眺めながら イスラエル

Derek Prince Ministries Asia-Pacific THE TEACHING LEGACY OF DEREK PRINCE MINISTRIES ARCHIVE The Battlefield of the Mind - Derek

2012 年 2 月 26 日 ( 日 ) 27 日 ( 月 )59 ローマ人への手紙総まとめ 総まとめ 1. はじめに (1) 執筆の意図 1 使徒としての使命 * 所々 かなり大胆に書いた (15:15) 2 使徒としての奉仕の原則 * 他人の土台の上に建てない (15:20) * これまで ロ

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2013 年 3 月 24 日 ( 日 ) 25 日 ( 月 ) 52 回目 Ⅵ-054 八福の教え 八福の教え 054 マタ 5:3~12 ルカ 6:20~26 1. はじめに (1) 文脈の重要性 1 文脈を無視して 山上の垂訓のある言葉を取り出すことが余りにも多い 2イエスは 神の国の福音をも

2012 年 1 月 22 日 ( 日 ) 23 日 ( 月 )54 ローマ人への手紙 15:4~13 希望から希望へ 1. はじめに (1) 文脈の確認 11~8 章が教理 29~11 章がイスラエルの救い 312~16 章が適用 (2)14:1~15:13 は 雑多な問題を扱っている 1 超道徳

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創世記5 創世記2章4節b~25

た 義認 の祝福を述べたものでしょうか しかしこの 1 節は 2 節の頭に なぜなら という言葉があるように 2 節と密接に関連しています ですから 2 節を見て行くことによって 1 節の意味を確かめることができます 2 節が述べていることは何でしょうか それは罪と死の原理からの解放です 私たちが

2019 年 7 月 28 日 ( 日 ) 29 日 ( 月 ) 70 回 12 人の弟子たちの救い 12 人の弟子たちの救い 使徒 19:1~7 1. はじめに (1) 第三次伝道旅行が始まった 1 使 18:23~21:17( 紀元 53 年の春から 56 年の春 ) 2パウロは ひとりで出かけ

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聖書 : ピリピ 3:1~3 説教題 : 神の御霊による礼拝 日時 :2017 年 2 月 26 日 ( 朝拝 ) ピリピ人への手紙第 3 章に入ります この手紙は全部で 4 章からなっていますので 今日から後半部に入ることになります パウロは 最後に 私の兄弟たち と始めます この手紙はまだ半分ま

らしめ ということばが使われています 箴言 13:24 むちを控える者はその子を憎む者である 子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる また箴言 22:15 愚かさは子どもの心につながれている 懲らしめの杖がこれを断ち切る また申命記 8:5 あなたは 人がその子を訓練するように あなたの神 主 があ

2008 年 7 月 27 日 ( 日 ) 28 日 ( 月 ) ハーベストフォーラム東京創世記 8 創世記 8 創世記 3 章 14 節 ~24 節 アダム契約 イントロ : 1. 前回までの復習 (1) 創世記には 11 の区分 ( トルドット ) がある (2) 第 1のトルドットには 人類の

2012 年 1 月 15 日 ( 日 ) 16 日 ( 月 )53 ローマ人への手紙 14:13~15:3 キリスト者の自由 1. はじめに (1) 文脈の確認 11~8 章が教理 29~11 章がイスラエルの救い 312~16 章が適用 (2)12 章は 基本的には教会内の行動についての勧めであ

このメッセージは メシアの義とパリサイ人の義について学ぼうとするものである Ⅰ. 真の信仰者の特徴 (5:13~16) 1. 地の塩 (13 節 ) あなたがたは 地の塩です もし塩が塩けをなくしたら 何によって塩けをつけるのでしょう もう何の役にも立たず 外に捨てられて 人々に踏みつけられるだけで

大阪インターナショナルチャーチ アリステア・マッケナ師 2015/6/28

2 イエスの戒めを守るなら イエスの愛に留まることになる (2) その教えを話した理由は 弟子たちが喜びに満たされるためである 1イエスは 自分が経験している喜びを弟子たちに与えようとしている 2イエスの喜びは 父なる神への従順 ( 喜ばせること ) によって生まれる 3ヘブ 12:2 Heb 12

1 説 教 聖日礼拝 北浜チャーチ 黒田 禎一郎 2017 年 6 月 4 日 ( 日 ) 主 題 : すべてを感謝しましょう! テキスト :1コロサイ人への手紙 3 章 17 節 はじめに たった一度しかない人生 私たちはどのように生きているでしょうか? 生き方を知っている人は幸いです しかし 多

一 マリヤへの恵みある教会に 何かというと 恵まれた女よ おめでとう と言う人がいました 女性のための聖書のクラスで 誰かが正しい答えを言ったら 恵まれた女よ おめでとう 感謝なことの証しをしたら 恵まれた女よ おめでとう 誰かが牧師に祈ってもらっている姿を見たら 恵まれた女よ おめでとう 彼女はい

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2018 年 2 月 4 日 ( 日 ) 5 日 ( 月 ) 29 回 善行の勧めと信仰上の勧め 善行の勧めと信仰上の勧め ヘブル 13:1~17 1. はじめに (1) この手紙は ユダヤ教への回帰を考えていた第 2 世代のメシアニック ジューたちを励ますために書かれた 1 教理的学び 2 学んだ

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神殿とは 神の住まいです 自分の中に神が住まわれたということが救いであり このよ うにしてイエス様とつながっているから イエス キリストを知ることができるようになる のです 神とのつながりを断ち切ることはできない わたしは彼らに永遠のいのちを与えます 彼らは決して滅びることがなく また だれ もわた

イエスさまの公的な活動は 2 年から 3 年と言われます その短い時間の中で人々に与えた影響は 考えられないほど大きいものでした ここに今日 わたしたちが集まって礼拝しているのも そのせいです けれどもその 2 年ないし 3 年のイエスさまの活動はずっと順調であったわけではありません イエスを愛し慕

《 耕地を開拓せよ 》 羽石兄  ‘05

* ユダヤ人の歴史家ヨセフスもまた同じような書き方をしている 5 テオピロは ルカの執筆活動を支援するパトロンであった可能性が高い 6 もしそうなら テオピロはローマ人クリスチャンであったと思われる (2)1~2 節は ルカの福音書の要約である 1 前の書 というのは ルカの福音書 のことである 2

2017 年 8 月 13 日 ( 日 ) 14 日 ( 月 ) 7 回 第 2 の警告 (2) 第 2 の警告 (2) ヘブル 4:1~13 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし 2 彼らは 迫害と誤

2017 年 7 月 2 日 ( 日 ) 3 日 ( 月 ) 1 回 ヘブル人への手紙のテーマ ヘブル人への手紙のテーマ ヘブル 1:1~3 1. はじめに (1) 著者 1いくつかの名が上げられてきた * パウロ * ルカ ( パウロがヘブル語で書いたものを ルカがギリシア語に翻訳した ) * バ

  聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

2 奇跡 3 父 4 聖書 4. メッセージのゴール (1) イエスを誰だと言うか (2) イエスを信じる者の幸いとは何か このメッセージは イエスの業と主張について考えようとするものである Ⅰ. イエスと父は一体である (19~29 節 ) 1. 行動において まことに まことに あなたがたに告げ

2018 年 5 月 27 日 ( 日 ) 28 日 ( 月 ) 14 回 ペテロの第 2 のメッセージ (2) ペテロの第 2 のメッセージ (2) 使徒 3:17~26 1. はじめに (1) ペンテコステの日に教会が誕生した 1ペテロの第 1 回目のメッセージにより 3,000 人ほどの人たち

牧会の祈り

(3) まっすぐにしなさい 1 されば衰へたる手 弱りたる膝を強くし ( 文語訳 ) 2ギリシア語の アノルソオウ である 上げる まっすぐにする 強くする 3ルカ 13:13(18 年も病の霊につかれ 腰が曲がって 伸ばすことができない ) Luk 13:13 手を置かれると 女はたちどころに腰が

sermon

としたこと それに対してイエスは 今は 止めないでほしい 正しい ことをすべて行うのは 我々にふさわしいことです ( マタイ 3 15) と 言って ヨハネから洗礼をお受けになったと伝えています しかしマルコ福音書は そういうことは何も伝えていません イエス は ユダヤの全地方から集まって来た大勢の

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聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

大阪インターナショナルチャーチ ダン・ペリー師 2015/8/9

牧会の祈り

よと言っておられます あなたが思っているような安定した生活を送ることはできない 心地よい生活ではない 狐や空の鳥以下の生活であると なぜイエス様ともあろう大先生の生活がこういうものなのでしょう その答えは一言で言えば 私たちのため ということです マルコの福音書 10 章 45 節 : 人の子も 仕

良いこと となります ともするとクリスチャンは こう考えやすいかもしれません 私は人がどう考えるかは気にしない 神がどう思われるかだけを心に留める と 確かにそこに真理はあるのですが そのあまり 人々がどう考えるかを顧慮しない傍若無人な態度を取るのが良いのではありません パウロはここで 人々がどう見

私自身 OIC に来てまだ 2 年弱です ですから この教会の歴史は少ししか知りません けれども 神は OIC の歴史のすべてをご存じです 創立当時から 神ご自身がこの教会を支えてこられました そして この教会に来た人 去っていった人すべての心をご存じです この 42 年の歴史をとおして 神は OI

2000 年は二日です ですからこちらも 遅い! と言えるほど 時は経っていないと言えます もちろん 1000 年イコール一日と言われているのではなく 一日のようだと言われていますので 単純計算できる話ではないのですが 先ほど引用した詩篇 90 篇 4 節では 私たちの時間のはかなさ 些細さという側

は歯が痛くなるとズキンズキンとして何をしていても繰り返し襲って来る痛みに悩まされますが そのように 絶えず痛みがある と言わずにいられないような痛みを感じ続けていた 一体それはどんな悲しみ 痛みだったのでしょうか それが同胞ユダヤ人の不信仰に関することでした パウロがどんなに同胞 同国人のことを思っ

3 仲介者としての祭司たちが存在していた (2) 新約時代の状態 1すべての信者が まことの聖所に入ることができる * 天の聖所で 神の臨在の前に出ることができる 2これは 万人祭司の教えである 3 訳文の比較 こういうわけですから 兄弟たち 私たちは イエスの血によって 大胆にまことの聖所に入るこ

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た私の霊が住んでいる大事な住居として用いるようにされており 私であるという強い自意識を持ちながら からだも心も性格もあらゆる特徴も 私らしさという特質を持った者として生かされているのです * それは 後に与えられると言われている霊のからだ 朽ちないからだと表現されている 天に属するよみがえりのからだ

07/06/17  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師

このメッセージは 父なる神について考えようとするものである Ⅰ. 聖書が使用する比喩的言葉 1. 神という言葉について (1) ヘブル語でエロヒム ( エル ) ギリシア語でセオス 1 普通名詞 神々を指す言葉である 2 日本語の神も 多くの神々を指す言葉である 3 聖書の神は どういう神かを示す必

イゼベルという女は 商売繁盛のために信仰を妥協するよう しきりに教会の人々に勧めました では これらの背景を踏まえて 学びに入りましょう 今日の聖書個所には 大切なポイントが 5 つあります 1. イエスの描写 (18 節 ) ここでイエスは 燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足のお方だ

2014 年 10 月 7 日 ( 火 ) 60 分で分かる創世記 60 分で分かる創世記 1. はじめに (1) 60 分で分かる〇〇 のシリーズを開始する 11 節 1 節の解説も重要であるが 鳥瞰図的な理解も必要である 2その場合重要なのは センス オブ プロポーション である (2) 創世記

ヘブル人への手紙1章

1 それは キリストにのみ適用される御名である (2) 旧約聖書では 御使いたちは 神の子たち と呼ばれた Job 38:7 そのとき 明けの星々が共に喜び歌い / 神の子たちはみな喜び叫んだ 1 新約聖書では 信者が 神の子たち と呼ばれる ( ヨハ 11:52) 2しかし 御子 ( ヒュイオス

裁きます けれども 実は自分たち自身も その基準には到達できていないのです これが偽善の始まりです 律法主義に陥ると 相手をこき下ろし けれども こき下ろしている基準に自分自身が満ちていないことが起こります 高らかに主張している人ほど 実はその教えを行なっていないという問題が起こるのです パウロは

を与えられて 祈りつつ取り組んで行くように導かれる ですから私たちは自分の願い事を一方的に神に祈る祈りはやめて まず聖書を通してまず神を見上げること 御名を賛美することから始めたいのです そのような神への賛美また信仰告白から始まる祈りこそ祝福される祈りの基礎です さて第 2 の祈りは 御国が来ますよ

牧会の祈り

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2016 年 10 月 2 日 ( 日 ) 3 日 ( 月 ) 7 回 フィラデルフィアの教会 フィラデルフィアにある教会 黙 3:7~13 1. はじめに (1) 黙示録の 3 区分 1 黙 1:19 は 黙示録を 3 区分している Rev 1:19 そこで あなたの見た事 今ある事 この後に起こ

たと聞いて 一緒に集まった 22:35 そして彼らのうちの一人の律法の専門家がイエスを試そうと尋ねた 私が救われるためにどうしたらいいの 教えて -- そういう気持ちがなかったんです 22:36 先生 これも偽善的な態度でした 先生と言う時 結局教えてください どうしたらいいの 知らせて けれどそう

で宣教していると非難されないように そういう恐れがあるところでは一切 献金を受 けませんでしたが ピリピ教会との間にその心配はなかったのです このことから見て も いかにパウロと良好な関係にあった教会だったかが分かります さてパウロはこの手紙の執筆時 どこにいたのでしょう この手紙から分かることは

神学総合演習・聖霊降臨後最終主日                  2005/11/16

ヨハネの手紙講解 神のあかし ヨハネの手紙第一 5:1~21 1. 油注がれた者 新改訳改訂第 3 版 Ⅰヨハネ 5:1 イエスがキリストであると信じる者はだれでも 神によって生まれたのです 生んでくださった方を愛する者はだれでも その方によって生まれた者をも愛します イエスがキリストであると信じる

2017 年 2 月 5 日 ( 日 ) 6 日 ( 月 ) 22 回 イスラエルに対する戦い (2) イスラエルに対する戦い (2) 黙 12:7~17 1. はじめに (1) キリストの再臨の前に何が起こるかを見ている 110 章 ~14 章は 挿入箇所である * 物語の進展はなく 状況の説明が

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2 イエスは大胆に わたしは道です と言われました イエスが歩まれた道です イエスが示された道です 正しく この人を見よ! です それが聖書の教えです 私たちはこの一年間 幸いなみ言葉を心に覚えて進みたいと願います 今日は この年間聖句から次の2 点を考えてみましょう 大切なポイント 1. 勝利者イ

聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

                 

2017 年 7 月 16 日 ( 日 ) 17 日 ( 月 ) 3 回 御使いに勝る御子 (2) 御使いに勝る御子 (2) ヘブル 2:1~9 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし 2 彼らは 迫害と

(1) 神殿の聖所と至聖所を分ける幕である 1 長さが約 18 メートル 厚さが約 10 センチ 2この幕の内側に入れたのは 大祭司だけである それも年に一度だけ 3 大祭司 アロンの家系 ケハテ氏族 レビ族 イスラエルの民 全人類 (2) この幕が 上から下まで真っ二つに裂けた 1 神の御手がこれ

テモテへの手紙第一 5 章 節 指導の任への尊敬 1A 二重の尊敬 A 監督者への監査 B 公正な裁き B 慎重な按手 B 透明性 本文 テモテへの手紙第一 5 章を開いてください 17 節から読んでいきます 私たちは

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子たちも オリーブ山から神殿を眺めて これはまあ 何とみごとな石でしょう 何とすばらしい建物でしょう ( マルコ 13:1) と感嘆の声を挙げました しかし イエス様は この大きな建物を見ているのですか 石がくずされずに 積まれたままで残ることは決してありません ( マルコ 13:2) と言われたの

현장 전도를 위한 1단계 전도훈련교재 4

* ダニエル書 3 捕囚期後 (3) * ハガイ書 * ゼカリヤ書 * マラキ書 (5) 預言者たちが語ったメッセージの要約 1 神の主権と聖なるご性質 2 契約の民イスラエルの不従順の罪 3 悔い改めへの招き 4 迫り来る神の裁きと捕囚 5イスラエルの民を攻撃する周辺国への裁き 6 捕囚からのレム

2. アウトライン (1) 過去の回顧 (1~4 章 ) (2) 律法の解説 (5~26 章 ) (3) 未来の展望 (27~30 章 ) (4) 指導者の交代 (31~34 章 ) 3. 結論 (1) 律法の本質 (2) イスラエルの将来 (3) 申命記とイエスの教え 申命記を通して イエスの教え

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2 神はイスラエルをぶどうの木 ぶどうの実にたとえられました 神に選ばれたイスラエルは 本来その実を結ばせるべき存在でした しかし 聖書は次のように語っています エレミヤ書 2:21 わたしは あなたをことごとく純良種の良いぶどうとして植えたのに どうしてあなたは わたしにとって 質の悪い雑種のぶど

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6ユダヤ人は 人種的 宗教的理由によって サマリヤ人を軽蔑した * ユダヤの格言 私の目が サマリヤ人を見ることがないように 7サマリヤ人も ユダヤ人を軽蔑し 敵対した * ユダヤ人がエルサレムから下ることは許したが 上ることは許さなかった 8 現代もサマリヤ人の子孫たちが存在している ( 千名以下

2 を重んじてきた人たちがいたからでした そういう人たちに対して 自分は宗教に熱心であると思っても つまり 形 を整えることに一生懸命であっても と語りかけているのです 今の私たちに当てはめるならば 洗礼を受けたといっても とか どんなに礼拝を守っているとしても とか あるいは 奉仕を一生懸命やって

聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

2008 年 7 月 13 日 ( 日 ) 14 日 ( 月 ) ハーベストフォーラム東京創世記 6 創世記 6 創世記 2 章 4 節 b~25 エデンの園に置かれた人 イントロ : 1. 前回の復習 : ここまでで創造の 7 日間について学んだ (1) カオスからの創造であった (2) 神は 6

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Heb 11:7 信仰によって ノアは まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき 恐れかしこんで その家族の救いのために箱舟を造り その箱舟によって 世の罪を定め 信仰による義を相続する者となりました (1) ノアは 神から警告を受けた 1 創 6:17 Gen 6:17 わたしは今 いの

に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において 神の霊を満たした (2~3 節 ) (1) ユダ部族のフル その子ウリ その子ベツァルエル 1フルとはモーセの手を両側から支えた 2 人のうちのひとり ( 出 17 章 ) 2フルの孫がベツァルエルである (2) 神の霊を満たした 1 知恵 (wisdom)

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あなたへの 聖書メッセージ ヨハネの福音書 3 章 16 節 ヨハネの福音書 3 章 16 節 神は 実に そのひとり子をお与えになったほどに 世を愛された それは御子を信じる者が ひとりとして滅びることなく 永遠のいのちを持つためである この ヨハネ 3 章 16 節のみことばは 聖書 66 巻の

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Derek Prince Ministries Asia-Pacific www.derekprince.co.nz THE TEACHING LEGACY OF DEREK PRINCE MINISTRIES ARCHIVE: ISSUE Partakers of His Holiness - Derek Prince デレク プリンス教えの遺産アーカイブ 学びの書簡シリーズ 神の聖さにあずかる 神の聖さにあずかる 神は私たちをどのように聖めるか 聖さは 神特有の性質です 神は他にも 愛 知恵 力など多くのご性質を持っておられ それらの性質を表わす人々や自然界の物事などとの関係によって 私たちが理解できる範囲のものです しかし 聖さは 自然界に相当するものがなく 特有のものです ジョン ウェスレーは聖さを 完全な愛 と定義しました しかし 私はむしろ 聖さを 神の義と愛の結合したもの と定義したいと思います 愛はあなたを歓迎し 義はあなたは来るのにふさわしくないと言います 聖さの中に この固有の緊張感があるのです 神の民の特徴 神のことばは 聖さは神の民の特徴であると言っています へブル 12:9-10 を考えてみましょう さらにまた 私たちには肉の父がいて 私たちを懲らしめたのですが しかも私たちは彼らを敬ったのであれば なおさらのこと 私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか なぜなら 肉の父親は 短い期間 自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが 霊の父は 私たちの益のため 私たちをご自分の聖さにあずからせようとして 懲らしめるのです 神の願いは 私たちが神の聖さにあずかる者となることです へブル 12 章 14 節にはこう付け加えられています すべての人との平和を追い求め また 聖められることを追い求めなさい 聖くなければ だれも主を見るこ とができません 第一に 私たちは聖さを追い求めることを目標としなければなりません

第二に 聖さを得るために 私たちはすべての人との平和を追い求めなければなりません 私たちの思いの内にある敵対心や闘争心などを放っておかず 平和的に生きるように努めなければなりません へブル書の著者は このことについて 非常に厳しく警告しています 私たちが神の聖さにあずかる者とならない限り 主を見ることはないと言っているのです 神がご自身の民に聖くあるようにとの願いを表わしている聖句が Ⅰ テサロニケ 4 章 3 節にあります 神のみこころ は あなたがたが聖くなることです 聖くなるとは そもそもどういうことでしょうか それは 聖くされるプロセスです この聖句を正確に訳すこと このようになります 神のみこころは あなたがたが聖く造られることです あなたがた ひとり一人が聖さ ( 聖くあること ) と尊さの器を持つ方法を知らなければなりません この聖句には 現代英語の 方 法を知る という言い回しが含まれています 聖くされるための霊的方法を知るということです その人の器とは からだです 人間の霊の地上の器です 多くのクリスチャンは からだを何か悪いもの 恥ずかしいもののように言います からだは悪いものではなく 良いものです 神の創造の力の究極的なみわざの一つです ダビデは言いました あなたは私に奇しいことをなさって恐ろしいほどです ( 詩篇 139:4) ダビデは 自分のからだを畏怖と不思議をもった見方をしていたました なぜ 信者は自分のからだを聖い状態に保つ方法を知るべきなのでしょうか 二つの聖句から それに答えることができるかもしれません しかし いと高き方は 手で造った家にはお住みになりません ( 使徒 7:48) と あなたがたのからだは あなたがたのうちに住まれる 神から受けた聖霊の宮で (Ⅰコリント 6:19) 神は地上に住まわれる一つの宮を定められました それは 手で作られた宮ではなく 信者のからだです ですから 私たちひとり一人が 神が住まわれるのにふさわしい状態に自分のからだを保つ方法を知らなければならないのです 聖くさせる媒体 聖書は 聖くなるプロセスをどのように描き 私たちはどんな役割をすればいいのでしょうか 私の理解では 聖くさ せる 5 つの媒体があります 1. 聖霊 聖霊 あるいはへブル書で言われている 聖なる御霊 がなくては 私たちが聖くなる希望はありません しかし あなたがたのことについては 私たちはいつでも神に感謝しなければなりません 主に愛されている兄弟たち 神は 御霊による聖めと 真理による信仰によって あなたがたを 初めから救いにお選びになったからです (Ⅱテサロニケ 2:13) すべての贖いのプロセスと同様 聖くなることにおいて 主導権は神にあります 神が私たちを選ばれ 永遠のものとしてくださったことに始まります その後 以下のようなことが続けて起こります

聖霊が私たちを動かし始める 聖霊は 滅びから私たちを遠ざける ( マタイ7:13) 聖霊は 私たちを真理と向かい合せるようにする 聖霊は 真理を信じるための信仰を私たちに与える 真理を信じることによって 私たちは救いの中へ入る エペソ 2:8 でパウロは 私たちは 信仰によって救われた と言っており その信仰は私たちから出たものではなく 神による恵みとして私たちに与えられているということを思い出させます この認識から 私たちは聖くなることを 神のために分けられる と定義できるでしょう 多くの場合 聖くなるプロセスは 私たちが個人的に神を知る前に始まっています 使徒パウロは 自分は生まれたときから選び分けられた ( ガラテヤ1:15) と言っており 神はエレミヤに 母の胎内に形造る前から聖別したと告げています( エレミヤ 1:5) 神は私たちが何の知識もない時から ご自身のために私たちを選び分け始められたのです Ⅰ ペテロ 1:2 はそのプロセスに類似したものを表わしています 父なる神の予知に従い 御霊の聖めによって イエス キリストに従うように またその血の注ぎかけを受ける ように選ばれた人々へ 永遠になされる神の選びは 神の知識に基づいており それは決して無作為ではありません 聖くなることは 聖霊 が私たちをキリストの宣言と向き合う場所近くへと引き寄せるプロセスです 聖霊は私たちに福音に従う恵みを与え 私たちが従う時 イエスの血潮が私たちに注ぎかけられます Ⅱ テサロニケと Ⅰ ペテロの両方の聖句が 聖めのプロセスの主導権は人ではなく 神にあることを示しています 最 初の媒体は 聖霊です 2. みことば エペソ 5:25-26 に 二つ目の聖めの媒体があります キリストが教会を愛し 教会のためにご自身をささげられた ように あなたがたも 自分の妻を愛しなさい キリストがそうされたのは みことばにより 水の洗いをもって 教会を きよめて聖なるものとするためであり 旧約聖書によると 血が注ぎだされた後 すべてのいけにえは清い水で洗われました 新約聖書 Ⅰヨハネ 5:6 は イエスが 水と血とによって 来られたと言っています 血とは 十字架上で流されたキリストの贖いの血で 水は みことばの純粋な水です キリストは ご自身の血によって私たちを贖い みことばの水の洗いによって私たちを聖めてくださいました イエスは 弟子たちのために父に祈りました 真理によって彼らを聖め別ってください あなたのみことばは真理で

す ( ヨハネ 17:17) 神のことばが私たちを聖める主な方法の一つは 私たちの考え方を変えることです 聖めは内側から外側へと進むもので 外側から内側へ向かうものではありません 宗教的な聖めの方法は 衣服の丈を長くする 髪を切る 口紅を落とすことです しかし パウロは いや むしろ 神のみこころは何か すなわち 何が良いことで 神に受け入れられ 完全であるのかをわきまえ知るために 心の一新によって自分を変えなさい ( ローマ 12:2) また あなたがたが心の霊において新しくされ ( エペソ 4:23) と言っています 私たちの心を一新してくださるのは聖霊です 聖霊は 真理 すなわち神のことばを通してそのことをしてくださいます 私たちはよく 洗脳 という言葉を 良くない意味で用います しかし その言葉は 聖霊が私たちの心を一新し 神のことばの純粋な水で聖め洗ってくださる方法を表わすのに適切な言葉でしょう 3. 信仰 これは 主イエス キリストから異邦人に遣わされる者としてのパウロへの大宣教命令です それは彼らの目を開いて 暗やみから光に サタンの支配から神に立ち返らせ わたしを信じる信仰によって 彼らに罪の赦しを得させ 聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである ( 使徒 26:18) 聖められるために必須の要素は 信仰です 神の霊と神のことばは 決して変わることがありませんが 神が提供してくださるそれらのものを受け取ることを可能にするのは 信仰です 聖めのプロセスは 私たちの信仰の程度に応じた効果しか もたらしません さらに 神のことばと私たちの信仰には直接のつながりがあります それは 信仰は聞くことから始まり 聞くことは キリストについてのみことばによる ( ローマ 10:17) からです 神のことばに耳を傾ければ傾けるほど 信仰が拡大し 神が私たちの聖めのためにしてくださる完全な備えを受け取ることを可能にします 4. イエスの血 へブル 13:12 は言っています ですから イエスも ご自分の血によって民を聖なるものとするために 門の外で 苦しみを受けられました イエスは 様々な目的のために血を流されました 一つは私たちを贖うためです もう一 つは 私たちを聖める あるいは聖別させるためです 私たちはイエスの血によって守られ 聖められているので 私たちは 罪とサタンが私たちに触れることができないところで生きることが可能なのです しかし もし神が光の中におられるように 私たちも光の中を歩んでいるなら 私たちは互いに交わりを保ち 御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます (Ⅰヨハネ 1:7) この聖句で使われている時制は 継続現在形です もし 私たちが光の中を歩み続けるなら 交わりを持ち続け イエスの血が私たちを聖め続けてくださいます 私たちは異なる世界に生きるので 純粋で汚れなく保たれます この悪に満ちた世界の汚れと堕落に生きていません 私たちは神のために分けられ イエスの血によって聖別されています このことは 私たちをもう一つの重要な聖句に導きます 神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを 私た ちは知っています 神から生まれた方が彼を守っていてくださるので 悪い者は彼に触れることができないのです (Ⅰ ヨハネ 5:18)

これは 恐るべきチャレンジです ヨハネは 新生した人は 以後決して罪を犯さないと言っているのでしょうか 聖書の他の箇所は 私たち自身の経験と照らし合わせると この解釈はありえないと思われます この節を理解する鍵は ヨハネがここで言っているのは 個人についてではなく 性質についてであると私は思います 誰々さんが罪を犯さないというのではなく 新生によってそれぞれの信者が 罪を犯さない新しい性質を受け取るということです Ⅰペテロ 1:23 は この新しい性質について あなたがたが新しく生まれたのは 朽ちる種からではなく 朽ちない種からであり 生ける いつまでも変わることのない 神のことばによるのです と言っています 人生のいかなる状況にあっても 決して変わることのない一つの原則があります 種の性質は 種から来る命の性質を決定します りんごの種は みかんではなく りんごを生み出します 神のことばの朽ちない種も 同様に朽ちない性質を生み出します この性質とは 新しい人 で その人は朽ちません 彼は罪を犯しません これは 各信者を個人的に見ると 誰にもできないことですが すべての信者の 新しい人 の性質に当てはまるのです これは Ⅰヨハネ 3:9 と一致します だれでも神から生まれた者は 罪を犯しません なぜなら 神の種がその人のうちにとどまっているからです その人は神から生まれたので 罪を犯すことができないのです ここでのヨハネのことばは さらに強いものです そのような人は 罪を犯さないだけでなく 罪を犯すことができないと言っているのです なぜでしょうか それは 朽ちない神のことばが 朽ちない種のように彼にとどまるからです 新しい人は 罪によって朽ちさせられないのです この解釈は ヨハネが書いた 3 つの聖句によって確かにされます Ⅰヨハネ 3:9 は だれでも神から生まれた者は 罪を犯しません ヨハネ 3:6 は 肉によって生まれた者は肉です 御霊によって生まれた者は霊です そして Ⅰヨハネ 5:4 は なぜなら 神によって生まれた者はみな 世に勝つからです これらの聖句を一つにすると 私たちは神から生まれた者 御霊によって生まれた者 神によって生まれた者を持っているのです となります ある一人の人のことを言っているのではなく すべての信者に 新生することによってもたらされる性質のことを言っています この新しい性質は 朽ちず 負けることがありません 罪を犯さず 罪を犯すことができないのです 私は新生しているので 私の人生は 新しい人 あるいは古い人のどちらの性質が私をコントロールするかにかかっています もし 私が敗北させられるなら 私は新しい性質と自分の問題を向き合わせていないからです 新しい性質は敗北することがありません 人生で際立った勝利を得た一人の年配の女性が ある時 どのように誘惑に打ち勝ったかと質問されました 彼女はこう答えました 悪魔がドアをノックしたら イエスさまに応対してもらうだけです これこそ キリストが内におられる 新しい人です サタンが触れることができるのは 古い人だけです 神は人の肉をちり.. から造られ 人は罪を犯しました 神はその時から 蛇にちり.. を食べるようにと言われました 肉的な性質は まさにサタンのえじきですが サタンは新しい性質に 触れることができません 新しい人は罪を犯すことができず 朽ちることもできず 敗北することもできず サタンに触 れられることもありません Ⅰ ヨハネ 5 章 18 節に戻ってみましょう 神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを 私たちは知っていま

す 神から生まれた方が彼を守っていてくださるので 悪い者は彼に触れることができないのです このことは 新生したひとり一人に責任があるということです 私たちは 自分自身を守るように求められています どのようにでしょうか 血によってです そして Ⅰヨハネ 1 章 7 節で 私たちも光の中を歩んでいるなら 御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます と言っているように 私たちは光の中を歩むことによって 自分を守ります 光の中を歩み 血のもとに自分を置き続ける新しい人は サタンの手の届かない領域に生きるのです その人は朽ちることがなく 敗北することがなく キリストの血によって すべての悪の力と汚れから離されています 5. 祭壇 聖めの五つ目の媒介は 聖めの場所という ある意味具体的な鍵です マタイ 23 章 16-17 節でイエスは 律法学者たちの教えを戒めています わざわいだ 目の見えぬ手引きども おまえたちは言う だれでも 神殿をさして誓ったのなら 何でもない しかし 神殿の黄金をさして誓ったら その誓いを果たさなければならない 愚かで 目の見えぬ者たち 黄金と 黄金を聖いものにする神殿と どちらがたいせつなのか イエスは 黄金はただの金属で それ自身が聖いのではないと言っているのです しかし それが神の神殿の中に組み込まれる時 黄金は聖くなります 神殿が黄金を聖くするのです 18 19 節で続けてイエスは言われています また 言う だれでも 祭壇をさして誓ったのなら 何でもない しかし 祭壇の上の供え物をさして誓ったら その誓いを果たさなければならない 目の見えぬ者たち 供え物と その供え物を聖いものにする祭壇と どちらがたいせつなのか 供え物は祭壇を聖めませんが 祭壇は そこに置かれた供え物を聖くします 旧約聖書で 祭壇に置かれるまで いけにえは単なる獣の体に過ぎません しかし 祭壇に置かれ 縛り付けられると それは聖くなり 神のために分けられます このことは 新約聖書を信じる人たちにも真理なのです パウロは言いました そういうわけですから 兄弟たち 私は 神のあわれみのゆえに あなたがたにお願いします あなたがたのからだを 神に受け入れられる 聖い 生きた供え物としてささげなさい それこそ あなたがたの霊的な礼拝です ( ローマ 12:1) 私は 旧約聖書のいけにえと新約聖書のささげ物の違いは ただ私たちのからだは祭壇に置かれても生きていることだけだと信じます どちらの場合でも聖めの原則は同じです ささげられた供え物を聖くするのは 祭壇です 神に私たちのからだをゆだねるというこの行為は 私たちの思いという内側の聖めのプロセスの歩みとどれほど緊密であるかに気づいてください 2 節でパウロは続けて言っています この世と調子を合わせてはいけません いや むしろ 神のみこころは何か すなわち 何が良いことで 神に受け入れられ 完全であるのかをわきまえ知るために 心の一新によって自分を変えなさい 私たちが自分のからだのすべての権利を放棄し 神の願うように用いてくださいと 無条件に神の祭壇に置くまで 思いと動機という私たちの内側の変化は成し遂げられません 私たちの聖めに働く 5 つの媒体を簡単に復習しましょう 聖霊は 福音を信じ従うところへと私たちを引き寄せます 神のことばは 清い水のように私たちの思いを洗い 私たちの考えと態度を変え 神の基準と一致する中へ導きます 神のことばを聞くことによる私たちの信仰は 私たちのための神の完全な備えを受け取ることができるようにしてくれま

す そして 私たちが従順に歩み続けるなら イエスの血は 罪とサタンが私たちを汚し 打ち負かすことができない 神のために分けられた場所の中で私たちを守ります 最後に 礼拝の祭壇は 神のみこころに無条件に私たちのか らだをゆだねるとき 私たちのからだを生きた聖い供え物として聖めます このように 新しくされた思いで 私たちのための神の完全なみこころ ( 神の聖さにあずかる者 すなわち 聖なる民 聖められ 神のために分けられた者となること ) を知り 私たちに適用していくのです