マインドフルネスはなぜ 効 果 を 持 つのか(The Way of Mindfulness) 早 稲 田 大 学 人 間 科 学 学 術 院 (Faculty of Human Sciences, Waseda University) 熊 野 宏 昭 (Hiroaki Kumano) はじめに しばらく 前 に 本 誌 で マインドフルネスそしてACTへ 1) という 拙 著 の 書 評 を 載 せて いただいたが それ 以 外 でも 心 身 医 療 に 関 わる 様 々な 領 域 で マインドフルネスという 語 を 耳 にするようになった 方 も 多 いのではないだろうか マインドフルネスをそのまま 日 本 語 にすると 気 づき という 言 葉 が 当 てられることが 多 いが 気 づきであれば 日 本 心 身 医 学 会 ではその 創 成 期 の 頃 から 池 見 先 生 や 石 川 先 生 を 始 めとした 大 先 輩 達 が 気 づきとセルフコントロール ということで 強 調 してきた 鍵 概 念 であったはずである それ を 何 を 今 さらという 感 じがしないだろうか 実 は 私 自 身 が 10 年 ほど 前 にマインドフルネスのことを 聞 いた 時 に そのような 印 象 を 持 ったのであるが いくつかの 体 験 を 通 して それまでに 理 解 していた 気 づき とは 大 分 違 ったものを 意 味 していることが 分 かるようになっていった その 第 一 は マインド フルネスと 仏 教 との 関 連 を 知 ったことであった マインドフルネスとは 2600 年 前 にブッ ダが 人 生 の 苦 悩 から 解 放 されるための 要 として 提 唱 した 心 のもち 方 や 存 在 のありようのこ とであり 今 の 瞬 間 の 現 実 につねに 気 づきを 向 け その 現 実 をあるがままに 知 覚 して それに 対 する 思 考 や 感 情 には 囚 われないでいること を 意 味 しているのである そして 第 二 には マインドフルネスが 医 学 や 心 理 学 の 領 域 で 広 く 知 られるようになった のが ジョン カバットジンの 功 績 によることを 知 ったことである 2006 年 3 月 にアメリ カのデンバーで 開 かれたアメリカ 心 身 医 学 会 に 参 加 した 時 のことであるが なんと 発 表 演 題 の2~3 割 が カバットジンが 創 始 したマインドフルネスストレス 低 減 法 (MBSR)に 関 わるものであることを 知 り 大 変 驚 いたことを 思 い 出 す 国 内 でも 2005 年 に 春 木 の 監 修 の 下 武 藤 杉 浦 伊 藤 らの 監 訳 による マインドフルネス&アクセプタンス 認 知 行 動 療 法 の 新 次 元 2) が 出 版 されていたが そこでMBSRやそれを 再 発 性 うつ 病 に 適 用 した マインドフルネス 認 知 療 法 (MBCT)が 紹 介 され その 頃 からマインドフルネスの 臨 床 活 用 に 関 心 を 持 つ 人 が 一 気 に 増 えていくことになったのである それから10 年 足 らずの 間 に マインドフルネスは 実 に 多 くの 人 たちに 知 られるようにな
り 臨 床 の 現 場 でも 活 用 されるようになってきた そして 今 年 の11 月 に カバットジン が1 週 間 来 日 し シンポジウムやワークショップが 開 かれるまでになった( 実 は カバッ トジンは 1990 年 代 に 一 度 来 日 しており その 際 に 代 表 的 著 書 Full catastrophe living 3)の 訳 書 が 春 木 の 翻 訳 で1993 年 に 出 版 されていたのであるが あまりにも 時 代 の 先 を 行 きすぎていたのか それほど 注 目 されることはなかった) さらには マインドフルネス の 実 践 に 関 する 資 料 は MBSR 以 外 のものも 含 めて 日 本 語 でも 沢 山 の 本 やDVDなどが 活 用 できるようになっている 4-9) マインドフルネスは MBSRやMBCTのみならず 弁 証 法 的 行 動 療 法 (DBT)やアクセ プタンス&コミットメント セラピー(ACT)の 中 でも 活 用 され 再 発 性 を 含 むうつ 病 性 障 害 や 様 々な 不 安 障 害 を 始 めとして 慢 性 疼 痛 物 質 依 存 がん 糖 尿 病 を 始 めとした 生 活 習 慣 病 境 界 性 パーソナリティ 障 害 精 神 病 性 障 害 といった 幅 広 い 対 象 に 効 果 を 上 げる ことが 明 らかになってきている 10) この 機 会 に マインドフルネスが 効 果 を 持 つ 背 景 につ いて なるべく 分 かりやすくまとめることで 読 者 のこれからの 臨 床 や 研 究 に 役 に 立 てて もらうと 同 時 に カバットジンの 来 日 に 合 わせて 勉 強 しようと 思 っている 人 たちに 対 して も 基 礎 知 識 を 提 供 できればと 考 えている マインドフルネスとは 何 だろう われわれは 毎 日 常 に 何 かを 考 えながら 過 ごしているが 時 々ハッと 我 に 返 ることがあ る その 時 は どこからどこに 戻 ってくるのだろうか それは われわれの 思 考 が 作 り 出 すフィクションの 世 界 から 今 ここ の 現 実 と 接 触 する 地 点 にであろう ただ ほと んどの 場 合 は すぐにまた 色 々な 考 えが 浮 かんできて 今 日 の 仕 事 はどうしよう だる くてなかなか 取 り 組 めそうにないな このまま 夕 方 になったらどうしよう とか 何 であの 時 うまく 話 せなかったんだろう 私 はいつも 思 っていることが 言 えないんだ こ んなんで 生 きている 意 味 があるんだろうか などと まだ 来 ない 未 来 や 過 ぎてしま った 過 去 の 世 界 に 呑 み 込 まれてしまう これでは 目 の 前 の 現 実 が 見 えていないわけだから 例 えば 夢 を 見 ながら 寝 ている 状 態 と 近 いのだが われわれは 通 常 そのこと 自 体 にも 気 づいていない このように 今 ここ の 現 実 との 接 触 が 失 われ なおかつそのことに 気 づいてもいない 状 態 のことを 仏 教 では 無 知 と 言 う(そして マインドレスネスという 言 葉 も 同 じ 意 味 で 使 われる) それに 対 して 今 ここ の 現 実 に 対 して 心 が 十 分 に 働 いている 状 態 がマインドフルネスで
ある それは 目 の 前 の 現 実 に 対 して 注 意 や 気 づきという 認 知 機 能 を 十 分 に 働 かせなが ら 反 復 的 思 考 ( 未 来 のことを 考 え 続 ける 心 配 や 過 去 のことを 考 え 続 ける 反 芻 )が 抑 え られている 状 態 と 言 えるが それをどのようにして 実 現 するのかは 後 ほど 説 明 すること にしよう ここではその 前 に なぜマインドレスな 状 態 ではまずいのかを もう 少 し 考 えてみよう 例 えば 誰 かと 話 をしている 時 に 相 手 が 心 ここにあらずの 状 態 でぼんやりしていたらど うだろうか 実 は 共 同 でとても 重 要 なプロジェクトを 立 ち 上 げることになっているのだ が 相 手 はこちらの 話 をろくに 聞 いていないようだし 返 事 をする 時 も 上 の 空 でずれたこ とばかり 言 ってくる これでは おい しっかり 目 を 覚 まして ちゃんと 話 し 合 いに 参 加 しろ と 言 いたくなるであろうし そもそもこの 会 合 の 目 的 であるプロジェクトも 全 く 進 行 しないことになるだろう 誰 でもこのような 相 手 とは 一 緒 に 仕 事 をしたくないと 思 う だろうが われわれは 一 人 だけで 色 々と 考 えている 時 には 自 分 に 対 して 同 じようなこと をしてしまっているのである われわれ 一 人 ひとりの 人 生 も 生 きていく 過 程 でその 可 能 性 を 開 花 させていくプロジェ クトであると 考 えれば そのプロジェクトが 実 行 される 今 ここ がお 留 守 になってい たのでは 人 生 は 進 まないことになってしまうだろう 学 生 の 頃 は 毎 日 一 生 懸 命 に 勉 強 を して 社 会 に 出 てからは 目 の 前 の 仕 事 をこなし 続 けて 気 がついたらもう 何 十 年 も 経 って しまっていた 自 分 は 今 まで 何 をして 来 たんだろう と 思 い 悩 むような 状 況 になるとした ら やはり 不 幸 であろう つまり マインドフルネスとは 気 がつかないうちにそういっ た 人 生 を 送 るのではなく 目 を 覚 まして 今 ここ の 現 実 と 直 に 接 触 し 地 に 足 を 着 けて 自 分 の 人 生 を 生 きていくための 方 法 であるということになる マインドレスになる 基 盤 とは? 次 に マインドレスネスになる 基 盤 となる 思 考 の 働 きについて 何 が 落 とし 穴 になるの かもう 少 し 考 えてみよう そもそもわれわれは 目 の 前 の 問 題 に 対 して 合 理 的 にその 解 決 法 を 見 出 すために 思 考 という 心 の 働 きを 用 いるのであり 今 ここ との 接 触 を 絶 つ ために ものを 考 えているのではない それどころか 文 明 の 所 産 はそのほとんどがこの 思 考 によって 生 み 出 されたと 言 ってよいだろう つまり 思 考 とは 人 間 を 人 間 たらしめて いる 心 の 働 きであると 言 えるのだが この 働 きは 人 間 にしかない 言 葉 を 操 るという 能 力 に 依 存 していると 考 えられている 1)
言 葉 には 対 象 との 双 方 向 性 という 基 本 的 な 性 質 がある それは 例 えば 何 かに 名 前 をつけると その 名 前 を 聞 いただけ(あるいは 見 ただけ)で 自 動 的 にその 対 象 が 浮 か ぶといった 性 質 のことである 3 歳 くらいの 子 供 に ものの 名 前 を 覚 えさせようとする 時 のことを 考 えてみるとよい 例 えば 図 1のように コーヒー 紅 茶 お 茶 を 覚 えさせる とする これは コーヒーって 言 うんだよ 言 ってごらん すごいすごい コーヒー 言 えたね これは 紅 茶 って 言 うんだよ 言 ってごらん それじゃ これは 何 だ っけ? そうそう コーヒーだよね すごいね もう 覚 えちゃったね こんな 風 に 進 めれば 子 供 はほどなく3つの 飲 み 物 の 名 前 を 覚 えてしまうだろう そこで それじ ゃ お 茶 はどれかな? と 聞 くと これだよ さっき 言 ってたじゃない そう それ だよね すごいねー という 具 合 になるのだが 問 題 はこれが 当 たり 前 のことだろうかと いうことである つまり 子 供 が 学 習 をしたのは 図 1の 実 線 で 示 したような ものを 見 てその 名 前 を 言 うという 関 係 性 だったのであるが 最 後 に 尋 ねたのは 名 前 を 聞 いてそれ が 意 味 するものを 答 えるという 直 接 学 習 していない 関 係 性 だったのである そして 全 く 同 じことを 天 才 チンパンジーにやらせても 決 してできないことが 分 かっている(コーヒ ーを 見 たら 赤 いボタンを 押 す 紅 茶 を 見 たら 青 いボタンを 押 す ということを 学 習 させ ても 青 いボタンを 見 て 紅 茶 を 選 ぶという 行 動 が 自 動 的 に 生 起 することはないというこ と) それではなぜ 人 間 だけがそういったことができるのかと 言 えば 人 間 は 幼 少 時 に 物 の 名 前 を 覚 えていく 際 に 必 ず 両 方 向 性 の 学 習 を 繰 り 返 しているからであるとされている つ まり まずは 物 の 名 前 を 言 えるようにして それができたら 次 は 名 前 から 物 を 当 てさせ る それを 何 度 も 繰 り 返 していくことによって 物 と 名 前 を 双 方 向 性 に 関 係 づけるという 行 動 パターン 自 体 を 学 んでいくというわけである そして 一 旦 この 双 方 向 性 が 成 立 する と 言 葉 を 使 うと それが 指 し 示 す 内 容 が 必 ず 浮 かんでくるようになる つまり 言 葉 を 使 う 人 間 は 物 理 的 な 現 実 の 世 界 と 言 葉 が 作 り 出 すバーチャルな 世 界 の 双 方 に 暮 らして いると 考 えてみるとよい( 人 間 だけがそうだというのも 驚 きであるが) そしてそういっ た 言 葉 の 力 のおかげで われわれは 例 えば 一 度 も 行 ったことのない 火 星 の 地 表 のことを 事 細 かに 思 い 描 き 1トン 以 上 の 重 さを 持 つ 探 査 機 を 見 事 に 送 り 込 む 方 法 を 何 万 通 りも の 選 択 肢 の 中 から 絞 り 込 むことだってできるのである しかしこの 言 葉 の 力 を 手 に 入 れたことは 同 時 に バーチャルな 世 界 と 現 実 の 世 界 の 区 別 がつかない 状 況 に 人 間 を 陥 れることになった われわれは 一 旦 考 え 始 めると 次 々に 連
想 が 広 がって 考 えが 止 まらなくなるのが 普 通 である そうなると 思 考 が 作 り 出 すバーチ ャルな 世 界 の 風 船 の 中 から 外 を 見 ているような 状 態 になり どこまでが 考 えていることで どこからが 現 実 なのか 分 からなくなってしまう( 認 知 的 フュージョン) そして その 風 船 から 抜 け 出 さない 限 り 今 ここ の 現 実 には 触 れられなくなってしまうのである それでは 考 えることを 止 めればよいのかと 言 うと 多 くの 場 合 は それもよい 手 ではな い 例 えば 自 分 に 対 して 否 定 的 なことを 考 えたり 感 じたりしたとしたら そのことが 現 実 に 感 じられてしまうので 考 えたり 感 じたりすること 自 体 を 避 けるようになる( 体 験 の 回 避 )ということが 実 際 によく 起 こる 不 安 や 落 ち 込 みなどの 嫌 な 気 持 ちやそれにつなが る 考 えを 自 分 の 中 から 閉 め 出 してしまおうという 戦 略 であるが 例 えば 不 安 にならな い 不 安 にならない と 思 っていたら 何 かがあって ちょっと 気 持 ちがザワザワし ただけでも ワッ 不 安 だ! と 飛 び 上 がってしまうであろう つまり 体 験 の 回 避 を すると 現 実 の 世 界 との 接 触 がなくなるだけでなく バーチャルな 世 界 も 歪 んで 体 験 され るようになってしまうのである マインドフルネスの 実 践 それでは 言 葉 を 常 に 使 っているわれわれが どのようにして バーチャルな 世 界 から 抜 け 出 し 今 ここ と 触 れ 合 うことができるのだろうか それは これまでに 説 明 し た 認 知 的 フュージョンと 体 験 の 回 避 のそれぞれと 逆 の 行 動 を 注 意 深 く 増 やしていけばよ いということになるのだが それが マインドフルネスの 実 践 方 法 を 理 解 する 際 の 参 考 に なる 体 験 の 回 避 とは 心 を 閉 じることであり 認 知 的 フュージョンとは 思 考 に 呑 み 込 まれ ていることであるから 心 を 閉 じない 呑 み 込 まれないで 目 の 前 の 現 実 に 注 意 を 向 けるようにすればよいのである と 言 われても そこでまたいつもの 通 り 考 え 始 めてし まったら どうすれば という 声 が 聞 こえそうである そこで マインドフルネス 瞑 想 が 採 用 している 実 に 意 義 深 い 方 法 が 感 受 へのラベリン グである われわれは 生 きている 以 上 自 分 と 環 境 との 関 係 を 常 に 把 握 している 必 要 があ る 環 境 の 特 徴 を 捉 えるのは 通 常 五 感 を 通 してであるが 仏 教 では 五 感 に 反 応 して 働 く 自 動 思 考 までを 感 覚 器 と 位 置 づけ 合 わせて 六 根 と 呼 んでいる そして 六 根 によっ て 引 き 起 こされる 最 初 の 心 の 動 き( 感 覚 と 近 いもの)のことを 感 受 と 言 う 仏 教 では 自 分 の 機 能 を 環 境 を 観 察 する 働 きに 限 定 するが( 観 察 者 としての 自 己 ) そうすると 皮 膚 の 外 側 の 公 的 環 境 だけでなく 皮 膚 の 内 側 にも 私 的 環 境 が 広 がっていることになり それ
ぞれの 動 きを 五 感 と 自 動 思 考 が 捉 えていると 考 えるのである そして マインドフルネス 瞑 想 では 六 根 を 通 して 環 境 を 把 握 した 段 階 で 思 考 の 動 き を 止 めるということを 目 標 にしていく 例 えば 座 って 瞑 想 をする 時 には 息 が 入 ってき て 出 て 行 くのに 合 わせて 膨 らんだり 縮 んだりする 身 体 感 覚 に 注 意 を 向 ける そして ふ くらみ ふくらみ 縮 み 縮 み と 心 の 中 で 言 葉 を 唱 えてラベリングしていくのであ る その 内 にどこかが 痒 くなってきたとしたら かゆみ かゆみ とラベリングして 次 には 戻 ります と 心 の 中 で 言 いながら 呼 吸 に 伴 う 身 体 感 覚 に 優 しく 注 意 を 戻 す あ るいは 何 かを 考 え 始 めていることに 気 づいたら 雑 念 雑 念 とラベリングして 戻 ります と 呼 吸 に 注 意 を 戻 すのである しかし 実 際 には 考 え 続 けてしまい それによっ て 欲 怒 り 混 乱 などの 感 情 が 動 き 始 めてしまうこともある ただ その 場 合 も 気 づ いた 時 にラベリングをして 呼 吸 に 注 意 を 戻 すという 同 じ 戦 略 で 対 応 可 能 である ここで 大 事 なのは 呼 吸 をコントロールしないということであり それは この 瞑 想 が 変 えることのできない 環 境 内 の 現 実 を 観 察 し そのままにしておくことを 目 指 しているか らである 思 えば ここが 心 身 医 学 で 言 われてきた 気 づきとセルフコントロール と の 違 いでもあるだろう つまり マインドフルネスはセルフコントロールしようとする 思 考 をも 働 かせないようにすることを 目 指 しており その 意 味 では 気 づきとアクセプタン ス と 言 った 方 がその 本 質 を 表 している アクセプタンスとは 体 験 の 回 避 と 逆 の 機 能 を 持 っており 体 験 ( 思 考 感 情 記 憶 身 体 感 覚 など)に 気 づいた 上 で そのままにして おく 行 動 のことである 六 根 は 環 境 とのインターフェイスに 位 置 するので それを 通 して 感 じ 取 る 感 受 は 今 ここ の 現 実 を 最 も 忠 実 に 反 映 していると 考 えられる そこで 感 受 に 対 して 気 づきを 向 け ラベリングするだけという 行 動 は 今 ここ の 現 実 との 確 実 な 接 触 をもたらす しかしそれでも ラベリングするという 行 動 には 特 定 の 刺 激 に 注 意 を 集 中 して それを コントロールしようとする 思 考 が 関 係 しているので マインドフルネス 瞑 想 の 後 半 では 環 境 内 の 様 々な 側 面 に 広 く 気 を 配 って( 注 意 を 分 割 させて) そこで 気 づいたものをその ままにしておくという 方 法 に 移 行 することになる その 結 果 今 この 瞬 間 の 世 界 と 触 れ 続 けながら 草 木 が 風 にそよいでいるような 感 覚 が 続 いていくようになることがある(も ちろん 人 によって 感 じ 方 は 様 々であろう) これは effortless attentionと 呼 ばれる 状 態 に 相 当 し 11) そういった 体 験 によって 仏 教 の 解 く 無 常 苦 無 我 という3つの 真 理 の 理 解 が 深 まることになる
無 常 と 無 我 とは すべての 私 的 事 象 は 自 己 概 念 も 含 めて 変 わり 続 けていく 一 過 性 の 出 来 事 にすぎないことを 意 味 しており 苦 とは 変 わり 続 けるものに 執 着 すると 苦 しむことに なるということを 意 味 している 無 常 や 無 我 などと 言 うと ニヒリズムに 通 じるもののよ うに 感 じるかもしれないが 実 際 はそうではない 例 えば 強 い 不 安 や 落 ち 込 みを 体 験 し たとしても アクセプトしてそのままにしておけば そのうちに 消 えているのは 無 常 の なせる 業 である また われわれが 目 を 覚 まして 今 ここ と 真 に 触 れ 合 う 時 人 生 が 思 いもかけない 方 向 に 花 開 いていくのも 無 常 や 無 我 のおかげと 言 えるであろう まとめ 以 上 で 説 明 してきたように マインドフルネスの 実 践 方 法 は 1 呼 吸 に 伴 う 身 体 感 覚 五 感 と 自 動 思 考 感 情 などの 私 的 事 象 に 今 ここ で 注 意 を 向 けること 2 注 意 を 向 ける 私 的 事 象 に 対 して 排 除 しようとしたり 同 一 化 したりすることなく そのままにして おくこと の2つから 構 成 されている そして 3 実 践 を 続 けた 結 果 すべての 私 的 事 象 は 自 己 概 念 も 含 めて 変 わり 続 けていく 一 過 性 の 出 来 事 にすぎず 変 わり 続 けるものに 執 着 すると 苦 しむことになるという 洞 察 が 得 られる 無 常 と 言 っても 宇 宙 は 膨 張 し 生 命 は 進 化 する 方 向 に 変 化 し 続 けている われわれが 目 を 覚 まして 今 ここ の 現 実 と 直 に 触 れ 合 うことによって 大 きな 生 命 の 流 れが 自 分 という 存 在 を 通 してどのように 形 を 成 そうとしているのかが 感 じられるのかもしれな い そして われわれのちっぽけな 頭 が 作 り 出 したフィクションの 世 界 から 出 て 世 界 と のつながりを 回 復 することで 少 なくとも われわれ 一 人 ひとりが そう 生 きるべきであ った 生 き 方 ( 価 値 にコミットした 行 為 )に 立 ち 戻 る 契 機 になるのではないだろうか 文 献 1) 熊 野 宏 昭 マインドフルネスそしてACTへ 星 和 書 店, 2011 年 2) S C ヘイズ,V M フォレット,M M リネハン 編 著 ( 春 木 豊 監 修, 武 藤 崇, 伊 藤 義 徳, 杉 浦 義 典 監 訳 ) マインドフルネス&アクセプタンス 認 知 行 動 療 法 の 新 次 元 ブレーン 出 版,2005 年 3) J カバットジン( 春 木 豊 訳 ) マインドフルネスストレス 低 減 法 北 大 路 書 房,2007 年 4) ジョン カバットジン( 田 中 麻 理 監 訳, 松 丸 さとみ 訳 ) マインドフルネスを 始 めたい
あなたへ 星 和 書 店,2012 年 5) Z V シーガル J M G ウィリアムズ J D ティーズデール( 越 川 房 子 監 訳 ) マインドフルネス 認 知 療 法 北 大 路 書 房,2007 年 6) レベッカクレーン( 家 接 哲 次 訳 ) マインドフルネス 認 知 療 法 入 門 30のキーポイント で 学 ぶ 理 論 と 実 践 創 元 社,2010 年 7) ラリー ローゼンバーグ( 井 上 ウィマラ 訳 ) 呼 吸 による 癒 し- 実 践 ヴィパッサナー 瞑 想 春 秋 社,2001 年 8) アルムボッレ スマナサーラ 自 分 を 変 える 気 づきの 瞑 想 法 [ 改 訂 増 補 版 ]-ブッダが 教 える 実 践 ヴィパッサナー 瞑 想 法.サンガ,2011 年 9) アルムボッレ スマナサーラ: 心 を 清 らかにする 気 づきの 瞑 想 法 新 装 版.サンガ, 2009 年 10) 熊 野 宏 昭 新 世 代 の 認 知 行 動 療 法 日 本 評 論 社,2012 年 11) Brian Bruya ed. Effortless Attention: A New Perspective in the Cognitive Science of Attention and Action A Bradford Book; New edition, 2010