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Transcription:

名 古 屋 学 院 大 学 論 集 言 語 文 化 篇 第 24 巻 第 2 号 pp. 281-291 研 究 ノート 戦 前 期 の 名 古 屋 におけるタタール 人 の 諸 相 人 口 推 移 と 就 業 状 況 を 中 心 に 吉 田 達 矢 はじめに 昭 和 12(1937) 年 1 月 22 日, 名 古 屋 モスク( 当 時 の 東 区 今 池 町 3 丁 目 135 番 地 ) 1) の 落 成 式 が 挙 行 された 名 古 屋 モスクは 神 戸 モスク( 昭 和 10(1935) 年 8 月 2 日 献 堂 式 )についで, 日 本 に おいて 二 番 目 に 建 設 されたモスクとされている このように 戦 前 の 名 古 屋 においてもムスリム(イ スラーム 教 徒 )が 生 活 していたことは 明 らかであるが, 彼 らについてはいまだ 不 明 な 点 が 多 い すなわち,いつから, 何 人 程 度 のムスリムが 名 古 屋 のどこに 住 むようになり,どのような 社 会 生 活 活 動 をしていたのかなどについては, 殆 んど 明 らかになっていない そこで 本 稿 では, 戦 前 期 の 名 古 屋 に 居 住 したムスリムの 圧 倒 的 多 数 を 占 めていたと 思 われるタタール 人 に 着 目 する 戦 前 の 日 本 に 居 留 していたタタール 人 に 関 しては, 彼 らが 戦 前 の 在 日 ムスリムの 多 数 派 であっ たため, 彼 らに 関 する 研 究 は 近 年 盛 んに 行 われている 特 に 東 京 と 神 戸 における 彼 らのコミュニ ティについては, 詳 細 な 研 究 がある[ 福 田 2008 2011; 松 長 2009; 渡 辺 2006など] しかし, 東 京 や 神 戸 に 比 べて 小 規 模 であった 名 古 屋 におけるタタール 人 コミュニティについては, 管 見 の かぎり 専 論 は 見 当 たらない 名 古 屋 に 定 着 したタタール 人 に 関 する 比 較 的 まとまった 記 述 は, 昭 和 15(1940) 年 4 月 に 松 坂 屋 で 開 催 された 回 教 圏 展 覧 会 に 関 する 重 親 の 論 考 [ 重 親 2003]や, 1920 年 以 降 東 アジア 各 地 2) に 設 立 されたタタール 人 コミュニティに 関 するデュンダルやオスマ ノヴァの 研 究 書 [Dündar 2008; Usmanova 2007]に 見 られる 程 度 である 特 にオスマノヴァの 研 究 は, 奉 天 ( 現 在 の 瀋 陽 )において 刊 行 されていたタタール 語 新 聞 ミッリー バイラク Milli Bayrak ( 民 族 の 旗 ) 3) ( 以 下,MB)の 記 事 を 多 用 しており, 名 古 屋 におけるタタール 人 コミュニティ の 概 要 を 把 握 するのに 有 用 である 本 稿 も 多 くの 部 分 はオスマノヴァ 氏 の 研 究 書 に 依 拠 するが, 邦 語 文 献 の 検 討 によって 修 正 や 補 足 を 加 える 余 地 は 残 されている また, 上 記 の 福 田 2008も 名 古 屋 のタタール 人 コミュニティに 関 して 言 及 しており, 適 宜 参 照 した 一 方, 名 古 屋 史 研 究 の 観 点 からも, 後 述 するように 戦 前 期 にタタール 人 たちが 居 住 していた 期 間 は 約 20 年 と 短 く, 現 在 の 在 名 古 屋 ムスリム コミュニティ 4) との 連 続 性 がないこと,また 彼 らの 数 は 多 い 時 でも60 数 人 程 度 であったことなどにより, 彼 らの 存 在 は 注 目 されてこなかった しかしながら,タタール 人 を 含 む 露 国 あるいは 旧 ( 舊 ) 露 国 籍 の 者 たちが, 少 なくとも 昭 和 13 (1938) 年 までの 名 古 屋 在 住 の 外 国 人 のなかで 支 那 ( 昭 和 5(1930) 年 以 降 は 中 華 民 国 ) 出 身 の 者 たちに 次 ぐ 人 数 であった 5) ことを 踏 まえると,タタール 人 の 動 向 についての 考 察 は, 戦 前 期 の 名 古 屋 史 研 究 においても 意 味 があると 思 われる 281

名 古 屋 学 院 大 学 論 集 なお,タタール 人 は, 現 在 は 狭 義 では カザンを 中 心 とするヴォルガ タタール を 指 す 用 語 である[ 西 山 2005:322] 一 方, 各 史 料 におけるタタール 人 を 含 む 用 語 として, トルコ タター ル 人, トルコ 人, 舊 露 國 人, ( 白 系 ) 露 國 人, 露 西 亜 人, 韃 靼 人 などがあるが,い ずれの 用 語 も 明 確 な 定 義 に 基 づいて 使 い 分 けられていたわけではなかったようである このため, 各 史 料 に 記 された 上 記 の 者 たちのなかで, 正 確 に 何 人 が 狭 義 のタタール 人 であったかを 特 定 する ことは 困 難 である 実 際, 名 古 屋 市 に 居 住 していた 露 国 人 のなかには,タタール 人 以 外 の 者 たち もいた 6) また, 彼 らのなかには, 上 記 の 狭 義 にあてはまらない 旧 ロシア 領 出 身 のほかのテュル ク 系 ムスリムも 含 まれていた[ 福 田 2008:31] 以 上 の 点 を 配 慮 しつつ, 本 稿 では 福 田 の 定 義 [ 福 田 2008:32]に 従 い,タタール 人 を 旧 ロシア 領 出 身 のムスリム という 意 味 で 用 いる また,タタール 人 以 外 のムスリムも 戦 前 期 の 名 古 屋 には 存 在 していたが 7), 彼 らについては 具 体 的 な 史 料 がなく, 少 人 数 であったようなので, 本 稿 ではタタール 人 のみを 考 察 対 象 とする な お, 当 時 の 愛 知 県 内 には 名 古 屋 市 以 外 でもタタール 人 が 居 住 していた 可 能 性 もあるが 8),その 者 たちを 把 握 することは 困 難 であり,またその 数 も 僅 かであったと 推 測 されるため, 本 稿 では 割 愛 する 以 上 を 踏 まえ, 史 料 の 制 約 はあるものの, 戦 前 期 の 名 古 屋 におけるタタール 人 の 社 会 活 動,お よび, 戦 前 期 の 日 本 におけるムスリムの 動 向 のなかでの 在 名 古 屋 タタール 人 コミュニティの 位 置 づけを 明 らかにするための 前 段 階 の 研 究 として, 本 稿 ではタタール 人 たちが 名 古 屋 に 定 着 し 始 め た 時 期, 彼 らの 人 口 数 の 推 移, 居 住 場 所, 就 業 状 況 などについて 考 察 する なお, 引 用 文 中 にお ける( )は 筆 者 の 補 足 である 1. 人 口 の 推 移 と 居 住 分 布 (1)1920~30 年 代 の 名 古 屋 市 の 人 口 名 古 屋 市 の 人 口 は, 大 正 9(1920) 年 10 月 の 国 勢 調 査 時 点 で43 万 2349 人, 翌 10(1921) 年 の 16 市 町 村 合 併 によって 大 幅 に 増 加 し(60 万 人 以 上 ), 大 正 14(1925) 年 には80 万 人 を 超 えた 名 古 屋 市 は 東 京 大 阪 に 次 ぐ 第 3 位 の 都 市 となり, 昭 和 8(1933) 年 あるいは 昭 和 9(1934) 年 には100 万 人 に 達 した[ 新 修 名 古 屋 市 史 6:590 593] このような 大 都 市 として 成 長 していく 名 古 屋 にタタール 人 は 来 訪 してくるのである (2)タタール 人 人 口 タタール 人 の 日 本 への 移 住 は 大 正 10(1921) 年 頃 に 始 まったとされる[ 大 久 保 1924:96] 彼 らの 多 くは 中 国 や 満 洲, 朝 鮮 半 島 を 経 由 して 来 日 した その 後, 彼 らは 日 本 各 地 ( 東 京, 神 戸, 横 浜, 名 古 屋, 熊 本 など)に 定 着 していくが, 戦 前 戦 中 期 の 日 本 内 地 に 長 期 在 留 するタター ル 人 は 多 いときでも400 名 前 後 であったと 福 田 は 推 計 している[ 福 田 2008:33] なお, 神 戸 に おけるタタール 人 の 数 は,1930 年 代 から 終 戦 にかけて, 最 大 でも200 人 を 超 えることがなかった ようである[ 福 田 2008:34] それでは, 名 古 屋 におけるタタール 人 の 場 合 はどうであろうか 282

戦 前 期 の 名 古 屋 におけるタタール 人 の 諸 相 デュンダルは,1919~45 年 のあいだに 名 古 屋 に 居 住 した, 児 童 (çocuk) 以 外 のタタール 人 の 数 を30~60 人 と 推 測 している[Dündar 2008: 73 74] 以 下 では,デュンダルが 参 照 していない 史 料 も 利 用 して,タタール 人 の 人 口 推 移 について 検 討 する 外 事 警 察 報 第 22 号 ( 大 正 12(1923) 年 5 月 )に 附 録 として 所 収 されている 内 地 在 留 及 一 時 滯 在 外 國 人 一 覽 表 ( 大 正 11(1922) 年 12 月 末, 内 務 省 警 保 局 調 )では, 愛 知 県 に 露 西 亜 人 2 人 が 滞 在 していたとなっているが,この2 人 がタタール 人 かどうかは 不 明 である オスマノヴァ は, 関 東 大 震 災 ( 大 正 12 年 9 月 1 日 )の 後, 何 人 かの 商 人 が 大 阪, 京 都, 名 古 屋 などに 移 り 住 ん だとしている[Usmanova 2007: 103] また, 福 田 は 昭 和 元 (1926) 年 頃 にタタール 人 が 名 古 屋 に 居 住 し 始 めたとみなしている[ 福 田 2008:58( 註 120)] いずれにせよ,いつから, 何 人 のタター ル 人 が 名 古 屋 に 定 着 するようになったのかはいまだに 不 明 である タタール 人 の 居 住 開 始 時 期 の 手 がかりとして, 外 事 警 察 報 第 23 号 ( 大 正 13(1924) 年 5 月 )では, 羅 紗 行 商 人 が 関 東 大 震 災 以 前 ( 大 正 12 年 8 月 末 )には 愛 知 県 には11 人 がいたが, 震 災 後 ( 同 年 11 月 )には25 人 に 増 加 していることが 記 されている[ 外 事 警 察 報 23:98] 9) この 羅 紗 行 商 人 は, 少 數 の 土 耳 古 人 を 除 き, 他 は 殆 どタタール 系 及 純 露 國 人 とされているため, 上 記 の 人 数 はともにその 多 くがタ タール 人 であったと 思 われる とくに, 大 正 12 年 9~11 月 のあいだに 名 古 屋 に 来 訪 した14 人 の 殆 どは 東 京 や 横 浜 から 避 難 してきたのであろう また 上 記 の11 人 と25 人 はいずれも 世 帯 主 と 記 録 されており, 家 族 を 伴 っていなかった つまり, 大 正 12 年 11 月 時 点 で 名 古 屋 にいた 者 た ちはいずれも 単 身 で 名 古 屋 に 来 訪 したのである そして, 同 年 11 月 に 名 古 屋 にいた25 人 のうち, 何 人 かは 家 族 を 呼 び 寄 せてそのまま 名 古 屋 に 定 着 していったが, 何 人 かは 他 の 都 市 へ 移 住 するま での 一 時 滞 在 者 であったと 推 測 される たとえば, 大 正 13 年 時 点 で 京 都 を 拠 点 に 行 商 をしてい たアブドウルラ ライシェフの 略 歴 として, 哈 爾 賓 (ハルビン)より 渡 來 各 地 に 行 商 の 後, 東 京 に 居 住 したるも 震 災 の 後 名 古 屋 に 到 り, 客 年 ( 大 正 12 年 )9 月 21 日 京 都 に 赴 き( 後 略 ) と 記 されている[ 外 事 警 察 報 23:100] このほか, 昭 和 9(1934) 年 に 作 成 された 朝 鮮 人 移 住 状 況 外 人 移 住 並 労 働 状 況 のなかに 旧 露 ( 国 ) 人 に 関 する 項 目 も 含 まれており, 彼 らについて 以 下 のように 記 されていた 本 県 (= 愛 知 県 )ニ 於 テハ 大 正 十 二 年 頃 数 名 ノ 旧 露 人 ノ 移 住 シ 来 レルヲ 見 タルガ 此 等 ハ 主 トシ テ 洋 服 行 商 ニ 従 事 シ 夫 々 相 当 ノ 好 績 ヲ 収 メツツアリテ 今 後 益 々 入 往 ヲ 見 ル 情 勢 ニアリ [ 愛 知 県 史 :222] 10) この 記 述 も, 大 正 12 年 頃 に 名 古 屋 にタタール 人 が 定 着 するようになったことを 示 しているだろう 一 方, 名 古 屋 市 統 計 書 にはじめて 露 国 人 の 記 録 がみられるのは 大 正 14(1925) 年 である そこには, 東 区 ( 男 0, 女 0), 西 区 ( 男 5, 女 2), 中 区 ( 男 1, 女 1), 南 区 ( 男 7, 女 4) とあ り,あわせて 男 13 人, 女 7 人, 総 計 20 人 となっている すなわち, 大 正 12~14(1923~25) 年 のあいだに 家 族 とともに 名 古 屋 市 に 定 住 するタタール 人 たちがみられるようになったといえる 実 際, 昭 和 12(1937) 年 1 月 22 日 の 名 古 屋 モスクの 落 成 式 において 配 布 された 冊 子 では, 我 々 (タタール 人 )は 一 切 の 財 産 を 放 棄 して 逃 げて 滿 洲 に 來 り 轉 じて 日 本 に 移 り 此 名 古 屋 市 に 定 住 す ることになったのが 今 より 十 一 年 前 である と 記 されている[ The Nagoya Muslim Mosque : 5] 283

名 古 屋 学 院 大 学 論 集 大 正 14 年 度 以 降 の 名 古 屋 市 統 計 書 においては, 昭 和 元 ~4(1926~29) 年 度 までは 各 警 察 署 管 区 11) ごとの 男 女 の 人 数 ( 表 1), 昭 和 5~13(1930~38) 年 度 までは 世 帯 数 と 男 女 の 人 数 のみ が 記 されている( 表 2) なお, 昭 和 14~21(1939~46) 年 度 の 名 古 屋 市 統 計 書 では 外 国 人 の 統 計 がない 表 1 2にある 数 値 が 全 てタタール 人 であるとは 断 定 できないが,その 多 くはタター ル 人 であったと 思 われる 一 方, 外 事 警 察 概 況 においては, 第 2 巻 ( 昭 和 11(1936) 年 )に 昭 和 9(1934) 年 3 月 に 設 立 された イデル ウラル トルコ タタール 文 化 協 會 名 古 屋 支 部 12) ( 以 下, 名 古 屋 支 部 )の 会 員 として29 名 [189 頁 ], 同 書 第 3 巻 ( 昭 和 12(1937) 年 )では ( 名 古 屋 支 部 の) 會 員 24 名 家 族 を 合 せ(ムスリム)51 名 [153 頁 ], 同 書 第 4 巻 ( 昭 和 13(1938) 年 )では 愛 知 県 在 留 の 囘 敎 徒 (=ムスリム) 14 名 [90 頁 ], 名 古 屋 支 部 会 員 は48 名 [94 頁 ], 同 書 第 6 巻 ( 昭 和 15(1940) 年 )では 愛 知 県 在 留 の 囘 敎 徒 42 名 [303 頁 ], 名 古 屋 支 部 会 員 42 名 [304 頁 ], 同 書 第 8 巻 ( 昭 和 17(1942) 年 )では 愛 知 県 内 に 在 留 する 舊 露 國 人 40 人 [340 頁 ]などの 数 値 が 挙 げられて 表 1 警 察 署 菅 区 ごとの 露 国 人 人 口 江 川 警 察 署 熱 田 警 察 署 鍋 屋 警 察 署 門 前 警 察 署 笹 島 警 察 署 総 計 男 女 男 女 男 女 男 女 男 女 男 女 昭 和 元 (1926) 年 2 1 12 7 14 8 昭 和 2(1927) 年 3 1 10 6 4 6 3 2 20 15 昭 和 3(1928) 年 7 3 9 6 4 1 5 7 9 4 34 21 昭 和 4(1929) 年 8 4 8 4 4 1 5 9 6 2 34 20 出 典 : 名 古 屋 市 統 計 書 第 28~31 回 表 2 昭 和 5~13 年 における 名 古 屋 在 留 の 露 国 旧 露 国 人 1 の 人 口 世 帯 数 男 女 総 計 昭 和 5(1930) 年 16 29 25 54 昭 和 6(1931) 年 11 28 22 50 昭 和 7(1932) 年 18 32 22 54 昭 和 8(1933) 年 13 30 21 51 昭 和 9(1934) 年 15 36 28 64 昭 和 10(1935) 年 14 33 28 61 昭 和 11(1936) 年 15 29 27 56 昭 和 12(1937) 年 13 29 26 55 昭 和 13(1938) 年 13 26 24 50 出 典 : 名 古 屋 市 統 計 書 第 32~40 回 1: 昭 和 5~7 年 は 露 國, 昭 和 8~13 年 は 舊 露 國 出 身 の 人 口 284

戦 前 期 の 名 古 屋 におけるタタール 人 の 諸 相 いる ほかの 史 料 においては, 10 世 帯 52 人 [ 新 愛 知 16189( 昭 和 11(1936) 年 9 月 13 日 ):5], 昭 和 12(1937) 年 1 月 のものとして 十 家 族 五 十 二 人 [ The Nagoya Muslim Mosque : 5]などの 数 値 がみられる オスマノヴァは,MBに 依 って1941 年 には35 人 であったとしている[Usmanova 2007: 107, 347] 以 上 の 名 古 屋 市 統 計 書 と 他 史 料 に 記 されている 各 数 値 は 同 年 のものでも 違 いがあり,また それらの 全 てがタタール 人 であったとは 断 定 できない 点 は 考 慮 する 必 要 があるものの, 名 古 屋 在 留 のタタール 人 人 口 のおおよその 推 移 としては, 大 正 12~14(1923~25) 年 頃 から 定 着 する 者 がみられるようになり, 昭 和 3(1928) 年 にはその 数 は50 人 前 後 となった そして, 昭 和 13(1938) 年 までは50~60 人 を 維 持 したが,それ 以 降 は 少 しずつ 減 少 していき, 太 平 洋 戦 争 の 戦 況 が 悪 化 すると, 遅 くとも 昭 和 20(1945) 年 初 頭 までには, 彼 らの 殆 ど 13) は 土 地 建 物 を 売 却 して, 神 戸 に 移 り 住 んだ 14) 名 古 屋 モスクは, 同 年 5 月 14 日 の 空 襲 によって 焼 失 した[ 小 林 1988:299] なお, 年 齢 層 については, 児 童 とみなされた 者 たちの 年 齢 範 囲 が 不 明 であるものの, 昭 和 8 (1933) 年 9 月 に 創 立 されたイスラム 学 校 の 児 童 数 は 当 初 5 名 であり, 昭 和 10(1935) 年 には20 名 に 増 加 していた[ 外 事 警 察 概 況 1:167] しかし, 昭 和 11(1936) 年 9 月 では 学 齢 児 童 12 人 となっている[ 新 愛 知 16189:5] (3) 居 住 地 表 1からは, 彼 らは 当 初 から 一 箇 所 に 集 住 していたのではなく, 名 古 屋 市 各 地 に 分 散 して 居 住 していたことがうかがえる 一 方, 昭 和 7(1932) 年 2 月 8 日 に 名 古 屋 市 西 区 上 畠 町 10 番 地 にあ る 金 物 行 商 サッハ ワレーフ 宅 において 会 合 した11 人 の 住 所 と 職 業 は 以 下 のとおりであった 表 3 昭 和 7 年 2 月 8 日 にサッハ ワレーフ 宅 にて 会 合 した 11 人 の 名 前 職 業 住 所 1 名 前 職 業 住 所 サッハ ワレーフ 金 物 行 商 名 古 屋 市 西 区 上 畠 町 10 地 ハイダル ハイモチーフ 同 上 名 古 屋 市 西 区 上 畠 町 ガイリヤム シマハタロー 羅 紗 行 商 名 古 屋 市 西 区 上 畠 町 36 地 オシネ?ン サイガレーフ 同 上 名 古 屋 市 西 区 上 畠 町 フオーサエン キリケーフ 同 上 名 古 屋 市 南 区 熱 田 東 町 花 表 先 ハーサン キリケーフ 同 上 名 古 屋 市 南 区 熱 田 東 町 花 表 先 ゼフ シゼガーノフ 同 上 名 古 屋 市 南 区 熱 田 東 町 花 表 先 ダウラシヤ サーズガノフ 同 上 名 古 屋 市 中 区 御 器 所 町 二 浦 ムーワハアハマツテ アルスターフ 同 上 名 古 屋 市 中 区 御 器 所 町 二 浦 テーミルバイ ハミドリーフ 同 上 名 古 屋 市 中 区 御 器 所 町 島 西 浦 285

名 古 屋 学 院 大 学 論 集 シャラヒー ナスモチーフ 金 物 行 商 名 古 屋 市 東 区 千 種 区 今 池 出 典 : 愛 知 県 知 事 尾 崎 勇 次 郎 発, 外 務 大 臣 警 視 廳 大 阪 京 都 神 奈 川 兵 庫 長 崎 各 廳 府 懸 長 官 宛, 昭 和 7 年 2 月 13 日 付 マホメット 教 徒 ノ 會 合 ニ 関 スル 件 JACAR:B04012533000, 本 邦 ニ 於 ケル 宗 教 及 布 教 関 係 雑 件 / 回 教 関 係, 第 一 巻 (I 2 1 0 006), 外 務 省 外 交 史 料 館 1: Usmanova 2007: 103 においては, 各 人 を 以 下 のように 表 記 している 上 から,H Said- Gali, Haidar Hemetdin (Nejmetdin?), Galyam Shamuhatarov, U Said-Gali, Husain Kilki, Hasan Kilki, Zuhre Sezgan, Devletshah Sezgan, Ahmed Arasulov, Temirbay Hamidullah, Sharafi Nejmetdin この 一 覧 からも, 彼 らは, 少 なくとも 昭 和 7(1932) 年 2 月 までは, 市 内 各 所 に 散 在 して 居 住 していたと 推 定 できる ところが, 昭 和 11(1936) 年 9 月 時 点 において, 西 区 天 神 山 町 江 川 警 察 署 付 近 には10 世 帯 52 人 15) が 集 住 し,そこには ロシア 街 が 存 在 していた[ 新 愛 知 16189: 5] 表 2を 参 照 すると,この10 世 帯 52 人 という 数 値 は 当 時 名 古 屋 に 定 住 していたタタール 人 の 殆 どを 占 めている ただし, 新 愛 知 の 記 述 は 統 計 を 目 的 としたものではないため,この 数 値 の 信 憑 性 については 疑 問 である いずれにせよ, 昭 和 11 年 9 月 には, 西 区 天 神 山 町 に 多 くのタター ル 人 が 集 住 していたことは 明 らかであろう その 後 の 居 住 状 況 については, 名 古 屋 モスクが 東 区 今 池 3 丁 目 135 番 地 に 昭 和 11(1936) 年 11 月 中 旬 に 完 成 し[ The Nagoya Muslim Mosque : 12], 遅 くとも 昭 和 12(1937) 年 中 には 上 記 の 名 古 屋 支 部 の 所 在 地 もその 周 辺 に 移 転 している[ 外 事 警 察 概 況 2:189]ので, 何 人 かはその 周 辺 に 移 転 したと 思 われる 実 際, 昭 和 12(1937) 年 9 月 時 点 で, 少 なくとも3 世 帯 が 東 区 今 池 町 に 住 んでいた[ 名 古 屋 新 聞 14913( 昭 和 12 年 9 月 8 日 )] 2. 職 業 と 経 営 形 態 (1) 職 業 日 本 在 住 のタタール 人 たちの 多 くが 洋 服 地 や 金 属 製 品 の 行 商 人 であったとされる[ 大 久 保 1936:315] それでは, 名 古 屋 在 住 のタタール 人 の 職 業 傾 向 はどうだったのであろうか この 問 題 に 関 する 史 料 は 乏 しいが, 以 下 で 若 干 の 検 討 を 行 う 上 記 のように, 大 正 12(1923) 年 頃 に 名 古 屋 に 移 住 してきたタタール 人 の 多 くは 洋 服 行 商 に 従 事 していた[ 愛 知 県 史 :222] また, 昭 和 7(1932) 年 2 月 8 日 に 会 合 した11 人 の 職 業 は, 羅 紗 行 商 8 人, 金 物 行 商 3 人 であった( 表 3 参 照 ) これらのほか, 外 事 警 察 概 況 第 1 巻 所 収 の ソヴイエト 聨 邦 竝 舊 露 國 人 行 商 人 業 種 別 調 査 票 ( 以 下, 業 種 別 調 査 票 )( 昭 和 10(1935) 年 12 月 末 現 在 )では, 愛 知 県 に 洋 服 : 舊 露 9, 金 物 : 舊 露 6,と 記 されている[ 外 事 警 察 概 況 1: 364] 同 書 第 2 巻 所 収 の 業 種 別 調 査 票 ( 昭 和 11(1936) 年 12 月 末 現 在 )においては, 愛 知 県 に 洋 服 : 舊 露 7, 金 物 : 舊 露 4,である[ 外 事 警 察 概 況 2:563] 同 書 第 3 巻 所 収 の 業 種 別 調 査 票 ( 昭 和 12(1937) 年 12 月 末 現 在 )では, 愛 知 県 に 羅 紗 : 舊 露 9, 金 物 : 舊 露 1,となっ ている[ 外 事 警 察 概 況 3:550] これらのことから, 名 古 屋 に 在 住 したタタール 人 行 商 人 は 洋 286

戦 前 期 の 名 古 屋 におけるタタール 人 の 諸 相 服 ( 特 に 羅 紗 )か 金 物 を 扱 っており, 洋 服 ( 羅 紗 )を 扱 う 者 のほうが 金 物 を 扱 う 者 より 人 数 は 多 かったといえる このほか,タタール 人 たちの 職 種 を 示 す 各 史 料 の 記 述 は 次 のようである 土 耳 古 タタール 族 は( 中 略 ), 名 古 屋 を 中 心 に 近 県 都 市 へ 洋 服, 剃 刀,ナイフ 等 の 行 商 をして ( 後 略 ) [ 新 愛 知 16189:5] トルコの 三 少 女 が 七 日 夜 廣 小 路 の 榮 町 角 に 立 ち 可 憐 な 姿 で 千 人 針 をお 願 いします と 行 人 に 呼 びかけ 感 激 させた これは 東 區 今 池 町 に 住 むアラヂアさん( 十 二 ),シャフイカさん ( 十 一 ),ハリダさん( 十 二 )の 三 人 で, お 父 さんたちは 同 町 で 洋 服 屋 さんを 營 んでおり( 後 略 ) [ 名 古 屋 新 聞 14913] 以 上 から, 名 古 屋 在 住 のタタール 人 就 業 者 の 殆 どは 洋 服 か 金 物 の 行 商 人,あるいはそれらに 携 わる 業 種 に 就 いていたといえるだろう ただし, 例 外 もいた たとえば, 神 戸 ムスリムモス ク 最 高 顧 問 のファリッド キルキー 氏 (1927 年 名 古 屋 市 生 まれ)によれば, 氏 の 父 親 フサイン Husayin(Husein) 氏 は 名 古 屋 では 陶 器 の 輸 出 に 携 わっており[Kilki 2007: 1] 16), 同 時 にイマーム( 礼 拝 の 指 導 者 )としてコミュニティの 中 心 人 物 のひとりでもあった (2) 経 営 形 態 外 事 警 察 概 況 第 1 巻 ( 昭 和 10(1935) 年 ) 所 収 の ソヴイエト 聨 邦 竝 舊 露 國 人 行 商 人 業 態 別 調 査 票 ( 以 下, 業 態 別 調 査 票 )では 自 己 ノ 資 本 ニテ 自 ラ 行 商 ニ 從 事 スル 者 15 人 となって いる[ 外 事 警 察 概 況 1:366] 同 書 第 2 巻 ( 昭 和 11(1936) 年 ) 所 収 の 業 態 別 調 査 票 で は 自 己 ノ 資 本 ニテ 自 ラ 行 商 ニ 從 事 スル 者 10 人, 賣 子 1 人 と 記 されている[ 外 事 警 察 概 況 2:565] 同 書 第 3 巻 ( 昭 和 12(1937) 年 ) 所 収 の 業 態 別 調 査 票 では, 自 己 ノ 資 本 ニテ 自 ラ 行 商 ニ 従 事 スル 者 10 人 である[ 外 事 警 察 概 況 3:552] つまり,あくまで 昭 和 10~12 (1935~37) 年 の 傾 向 であるが,タタール 人 のなかで 就 業 者 の 殆 どは, 自 己 資 本 のみで 行 商 を 行 い, 人 を 雇 う 余 裕 もない 零 細 商 人 であった 実 際, 名 古 屋 モスクの 建 設 経 緯 に 関 して, 以 下 のような 記 述 がみられる 我 々は 此 名 古 屋 に 僅 かに 十 家 族 五 十 二 人 の 小 數 でありますが 何 とかしてイスラム 敎 会 (= 名 古 屋 モスク)を 建 設 して 之 を 共 同 禮 拜 所 となし 合 せて 子 女 の 普 通 敎 育 機 關 にしたいと 思 ふ て 資 金 を 集 めましたが 到 底 目 的 を 達 成 する 丈 けの 金 が 出 來 ない 依 つて 日 本 及 滿 洲 に 住 する 同 信 徒 より 寄 附 を 仰 ぎ 又 日 本 人 の 篤 志 家 に 援 助 を 請 ひて 茲 に 目 的 を 貫 徹 して 名 古 屋 イスラム 敎 院 を 建 設 することが 出 來 たのであります [ The Nagoya Muslim Mosque : 5] このように, 当 時 名 古 屋 に 定 着 していたタタール 人 だけではモスクの 建 設 費 用 を 調 達 できなかっ たことからも, 彼 らの 商 業 活 動 は 規 模 が 小 さく, 裕 福 な 者 は 少 なかったといえるだろう また, 行 商 状 況 をうかがわせる 史 料 として 現 時 点 では, 名 古 屋 を 中 心 に 近 県 都 市 へ 洋 服, 剃 刀, ナイフ 等 の 行 商 をして( 後 略 ) [ 新 愛 知 16189:5]だけであるため,この 問 題 に 関 しては 今 後 の 課 題 としたい 287

名 古 屋 学 院 大 学 論 集 むすびにかえて 以 上 を 踏 まえて, 人 口 増 減 の 背 景, 居 住 場 所,および 就 業 状 況 について 若 干 の 考 察 を 付 け 加 え ておく 表 1と2から, 昭 和 3~8(1928~33) 年 における 名 古 屋 在 住 のタタール 人 の 数 は,それ 以 前 と 比 べて 増 加 していない この 社 会 的 背 景 としては, 昭 和 5~7(1930~33) 年 の 恐 慌 ( 昭 和 恐 慌 ) の 影 響 があったと 思 われる この 時 期 の 名 古 屋 では, 物 価 下 落, 諸 企 業 の 経 営 悪 化, 休 業, 倒 産 の 増 大 は, 賃 金 の 下 落 と 失 業 者 が 増 大 をもたらし, 市 民 生 活 の 悪 化 を 促 進 した とされている [ 新 修 名 古 屋 史 6:523] 実 際, 景 気 が 回 復 した 後 の 昭 和 9(1934) 年 には,タタール 人 は 再 び 増 加 して60 人 以 上 となった また, 昭 和 13(1938) 年 以 降 にタタール 人 人 口 が50 人 以 下 に 減 少 していった 要 因 としては, 日 中 戦 争 勃 発 ( 昭 和 12(1937) 年 )による 戦 局 の 拡 大 と 長 期 化 により, 昭 和 12(1937) 年 以 降, 物 資 の 欠 乏 と 物 価 上 昇 が 顕 著 にみられるようになったこと[ 新 修 名 古 屋 市 史 6:630 631]との 関 連 が 考 えられる 実 際, 昭 和 12 年 には 支 那 ( 中 国 ) 出 身 の 呉 服 や 小 間 物 行 商 人 が 次 々と 名 古 屋 から 引 き 揚 げていったが,その 要 因 のひとつとして, 商 業 の 不 振 と 生 活 の 窮 乏 があった[ 愛 知 県 史 :224 225] 上 記 のようにタタール 人 就 業 者 の 多 くは 洋 服 や 金 物 の 行 商 人 であったことを 踏 まえると, 当 時 のタタール 人 の 行 商 にも 深 刻 な 影 響 を 与 えたと 思 われる このように 名 古 屋 の 経 済 状 況 とタタール 人 人 口 の 増 減 は 連 動 していた 居 住 場 所 については, 遅 くとも 昭 和 11(1936) 年 9 月 までには, 彼 らの 多 くは 西 区 天 神 山 町 に 集 住 するようになった この 場 所 に 集 住 するようになった 理 由 は 現 時 点 では 不 明 である 一 因 と して, 同 じ 西 区 の 則 武 町 一 帯 に 居 住 していた 中 国 人 ( 支 那 人 )のなかに 呉 服 小 間 物 行 商 人 ( 昭 和 12(1937) 年 8 月 18 日 時 点 で14 人 )がいた[ 愛 知 県 史 :225]ことと 関 連 があるように 思 われる つまり, 上 述 のように 名 古 屋 に 定 着 したタタール 人 就 業 者 の 殆 どは 洋 服 ( 特 に 羅 紗 )か 金 物 ( 剃 刀,ナイフなど)の 行 商 人 であった このため, 同 様 の 業 種 に 就 いていた 者 たちがいた 中 国 人 居 留 地 区 と 近 接 する 場 所 に 集 住 するようになったのではないだろうか 一 方, 名 古 屋 モスクが 当 時 の 東 区 今 池 町 3 丁 目 135 番 地 に 建 設 された 要 因 については, 日 本 人 の 関 与 があったとされる[ 小 村 1988:301] この 問 題 に 関 しては, 当 時 の 今 池 周 辺 の 状 況 17) も 踏 まえて 今 後 も 考 察 していか なければならない 名 古 屋 在 住 のタタール 人 の 就 業 状 況 については, 彼 らのなかで 就 業 者 の 殆 ど は 洋 服 ( 特 に 羅 紗 )か 金 物 の 行 商 人,あるいはそれらに 携 わる 業 種 に 就 いていた このような 就 業 傾 向 は, 日 本 に 滞 在 していたタタール 人 全 般 の 就 業 傾 向 と 同 じであったことを 確 認 した また, 殆 どの 者 が 零 細 商 人 で, 裕 福 ではなかったという 点 は, 神 戸 のタタール 人 と 共 通 している[ 渡 辺 2006:196(57); 福 田 2008:34 35] ただし, 行 商 状 況 については, 神 戸 のタタール 人 では 洋 服 行 商 よりも 金 物 行 商 に 比 重 が 高 いこと[ 渡 辺 2006:196], 西 日 本 各 地 や 朝 鮮 での 行 商 活 動 が あり[ 渡 辺 2006:197(56); 鴨 澤 237 240], 名 古 屋 在 住 のタタール 人 のそれよりも 広 範 囲 であっ たことなどが 異 なっていた 以 上 を 踏 まえて, 今 後 はタタール 人 の 名 古 屋 における 具 体 的 な 社 会 活 動 について 検 討 したい 288

戦 前 期 の 名 古 屋 におけるタタール 人 の 諸 相 註 1) The Nagoya Muslim Mosque では, 名 古 屋 イスラム 敎 會, 名 古 屋 イスラム 敎 院, 名 古 屋 トルコ タター ルイスラム 敎 會 などと 記 されている 本 稿 では 名 古 屋 モスクと 表 記 を 統 一 する なお, 当 時 の 名 古 屋 モスクは, 約 40 m 2 の 土 地 に 建 てられ, 木 造 モルタル 二 階 建 てであった[ 小 村 1988: 301] 2) 日 本 以 外 では,ハイラル,ハルビン,Pogranichnaya, 奉 天, 吉 林, 大 連, 上 海, 天 津, 京 城, 釜 山 などでタター ル 人 コミュニティが 形 成 された[オスマノヴァ 2006:53] 3) ミッリー バイラク は, 満 洲 の 奉 天 においてアラビア 文 字 表 記 のタタール 語 で 刊 行 された 週 刊 新 聞 昭 和 10(1935) 年 11 月 1 日 に 創 刊 され, 昭 和 20 年 (1945)3 月 まで 約 440 号 が 発 刊 された 各 号 の 主 要 記 事 一 覧 は,Usmanova 2007を 参 照 4) 近 年 の 名 古 屋 市 および 愛 知 県 内 のムスリム コミュニティについては, 倉 沢 2008を 参 照 5) 在 留 外 国 人 のなかで, 露 国 あるいは 旧 露 国 籍 の 者 たちが 支 那 ( 中 華 民 国 ) 出 身 者 に 次 ぐ 人 口 数 となった のは, 正 確 には 昭 和 2(1927) 年 以 降 である 各 年 の 名 古 屋 市 在 留 の 外 国 人 数 については 名 古 屋 市 統 計 書 を 参 照 6) たとえば, 大 正 12(1923) 年 5 月 9 日 から 大 正 13(1924) 年 3 月 31 日 まで,ロシア 出 身 のルイズ アリス ポーチナがフランス 語 教 師 として 名 古 屋 高 等 商 業 学 校 大 学 で 勤 務 していた[ 加 藤 2003:21] 7) たとえば, 第 33 回 名 古 屋 市 統 計 書 ( 昭 和 6(1931) 年 )にある 在 留 外 国 人 のなかには,トルコ( 土 耳 古 ) 国 籍 の 外 国 人 として 世 帯 1, 男 3, 女 2 と 記 されている[53 頁 ] このほか, 各 年 の 名 古 屋 市 統 計 書 において, 印 度, 満 洲 國, 比 律 賓 (フィリピン), 其 他 などの 項 目 として 記 されてい る 者 たちのなかにもムスリムが 存 在 していた 可 能 性 はある ただし,いずれも 各 年 の 統 計 に 記 録 がある わけではなく,その 数 も 少 数 であった 日 本 人 ムスリムについては, 昭 和 11(1936) 年 6 月 に 来 日 した 印 度 人 モハメツト 僧 正 エム エー アリム ジデイクイ に 関 する 記 事 のなかで, 在 京 囘 敎 徒 の 手 を 通 じイスラム 敎 信 条 一 千 五 百 部 を 印 刷 し 東 京, 靜 岡, 名 古 屋 に 於 ける 邦 人 敎 徒 に 配 布 したる 趣 なるが( 後 略 ) という 記 述 がみられる[ 外 事 警 察 概 況 2:187] この 記 述 から, 名 古 屋 にも 日 本 人 ムスリムが 存 在 していたと 推 測 できるが,その 数 は 不 明 である 8) 愛 知 県 統 計 書 に 記 されている 入 人 口 において, 外 国 人 は 朝 鮮 人 臺 灣 人 以 外 は 外 国 人 として 一 括 して 記 録 されている このため, 名 古 屋 市 以 外 に 居 住 していた 外 国 人 のなかで,タタール 人 の 人 数 を 特 定 することは 困 難 である しかしながら, 名 古 屋 市 以 外 には 外 国 人 の 出 入 国 はほぼ 毎 年 1 桁 で あったため, 名 古 屋 以 外 の 都 市 にタタール 人 が 居 住 していた 可 能 性 はきわめて 低 いと 思 われる 9) ただし, 同 年 度 の 名 古 屋 市 統 計 書 には 露 国 人 の 数 は 記 されていない 10) 本 史 料 の 原 本 は, 愛 知 県 史 編 さん 室 所 蔵 であるが, 筆 者 は 未 見 である 11) 当 時 の 各 警 察 署 の 管 轄 区 域 として, 江 川 警 察 署 ( 所 在 地 : 西 区 江 川 町 )は 西 区 の 大 半, 庄 内 町 ( 西 春 日 井 郡 ), 熱 田 警 察 署 ( 所 在 地 : 南 区 熱 田 市 場 町 )は 南 区 の 大 半, 中 区 の 一 部, 下 之 一 色 町 日 進 村 天 白 村 鳴 海 町 豊 明 町 東 郷 村 ( 愛 知 郡 ), 鍋 屋 警 察 署 ( 所 在 地 : 東 区 筒 井 町 )は 東 区 の 大 半, 猪 高 村 ( 愛 知 郡 ), 萩 野 村 ( 西 春 日 井 郡 ), 門 前 警 察 署 ( 所 在 地 : 中 区 門 前 町 )は 中 区 の 大 半, 笹 島 警 察 署 ( 所 在 地 : 中 区 牧 野 町 )は 西 区 中 区 の 一 部,であった さらに 詳 しい 管 轄 区 域 については, 愛 知 県 統 計 書 :11 13を 参 照 12)イデル ウラル トルコ タタール 文 化 協 会 名 古 屋 支 部 の 設 立 時 期 や 設 立 過 程 については, 別 稿 にて 検 討 する 予 定 である 13) 一 部 の 者 たちは 昭 和 20(1945) 年 初 頭 以 降 も, 名 古 屋 に 留 まった 可 能 性 はある たとえば, 名 古 屋 在 住 のタタール 人 のひとり,ハミドリンの 娘 2 人 は 名 古 屋 にとどまり, 衣 服 や 靴 下 などを 売 っていたようであ 289

名 古 屋 学 院 大 学 論 集 る[Dündar 2008: 85] また, 昭 和 57(1982) 年 に 名 古 屋 モスクのあった 場 所 に 住 んでいた 渡 辺 長 十 氏 の 談 話 のなかには, 以 下 のような 記 述 がある ( 終 戦 直 後, 名 古 屋 モスクが) 暫 く 壊 れたままになってい たので, 私 たち 夫 婦 (= 渡 辺 長 十 氏 と 妻 カギ)で 焼 け 跡 を 整 理 していたら 或 る 日 のこと 突 然 ハミドリン さんが 一 人 の 子 供 の 手 を 引 いてこの 焼 け 跡 を 見 に 来 られました ハミドリンさんは, 自 分 (= 渡 辺 長 十 氏 )の 妻 に もうこの 土 地 を 処 分 して 全 部 神 戸 へ 引 き 揚 げる 積 りです と 淋 しそうに 申 していました [ 小 村 1988:302] また, 作 成 時 期 不 明 の 各 県 外 国 人 名 簿 (JACAR(アジア 歴 史 資 料 センター)Ref. A06030114800, 各 県 外 国 人 名 簿 ( 国 立 公 文 書 館 ))において, 住 所 : 名 古 屋 市 千 種 区 大 久 手 町 一 丁 目 五 地, 職 業 : 小 間 物??( 二 文 字 判 読 不 能 ), 氏 名 :デメルベイ ハミドリン, 続 柄 : 世 帯 主, 年 令 : 五 二, 健 康 状 態 : 普 通, 帰 国 希 望 有 無 : 無 という 記 録 がある[5 画 像 目 ] ハミドリンの 生 年 (1897 年 )[Morimoto 1980: 28]から 推 定 すると,この 記 録 は 昭 和 24(1949) 年 時 点 のものと 考 えられる この 場 合,ハミドリ ンは, 神 戸 には 移 転 しないで 名 古 屋 にとどまっていた 可 能 性 と, 終 戦 後 にいったん 神 戸 に 移 転 し, 昭 和 24 年 までに 再 び 名 古 屋 に 戻 ってきた 可 能 性 のふたつが 考 えられる 14)デュンダルは, 彼 らの 神 戸 への 移 住 は 日 本 軍 による 強 制 であったとみなしている[Dündar 2008: 74 75] 15) 同 じ 数 値 は 名 古 屋 モスクの 落 成 式 において 配 布 された 冊 子 にも 記 されているが[ The Nagoya Muslim Mosque : 5], 居 住 場 所 については 記 されていない 16)フサイン 氏 は,1897 年 4 月 にペンザ 市 郊 外 のユネ(ロシア 名 ユニク)で 生 まれた 鴨 澤 がファリド キルキー 氏 から 1981 年 にきいた 談 話 によれば,フサイン 氏 は 1922か 23 年 にハルビンから 来 日 神 戸 ではゾーリン ゲンのかみそりや 羅 紗 をとり 扱 い, 同 時 に 陶 器 の 輸 出 業 も 営 み, 神 戸 回 教 協 会 会 長,イマーム( 礼 拝 の 指 導 者 )でもあったようである[ 鴨 澤 1983:225,234,236] 一 方, 福 田 によるファリド 氏 へのインタ ビュー(2005 年 )によれば,フサイン 氏 はカザン 出 身 で,ハイラルを 経 由 して 大 正 11(1922) 年 に 来 日, 昭 和 14(1939) 年 に 名 古 屋 から 神 戸 に 移 り, 昭 和 15(1940) 年 から 約 40 年 にわたって 神 戸 モスクの 名 誉 イマームであった[ 福 田 2008:54( 註 67)] 17) 重 親 は, 今 池 の 住 民 や 郷 土 史 家 から, 今 池 のあたりには 多 くの 外 国 人 がいて, 日 本 人 はモスクを ノア または ノワ と 呼 んでいた という 証 言 を 得 たとしている[ 重 親 2003:182] 参 考 文 献 史 料 愛 知 県 史 : 愛 知 県 史 編 さん 委 員 会 ( 編 ) 愛 知 県 史 資 料 編 33: 近 代 10 社 会 社 会 運 動 2, 愛 知 県, 2007. 愛 知 県 統 計 書 : 昭 和 三 年 愛 知 県 統 計 書, 第 一 編 ( 土 地, 戸 口, 其 他 ), 愛 知 県,1930. 外 事 警 察 概 況 : 内 務 省 警 保 局 ( 編 ) 石 堂 清 倫 ( 解 題 ) 極 秘 外 事 警 察 概 況, 全 8 巻 ( 昭 和 10~17 年 ), 龍 書 舎,1980. 外 事 警 察 報 : 内 務 省 警 保 局 ( 編 ) 復 刻 版 特 秘 外 事 警 察 報, 補 巻 第 5 巻, 不 二 出 版,2000. 新 愛 知 ( 新 聞 ) 名 古 屋 新 聞 名 古 屋 市 統 計 書 : 名 古 屋 市 役 所 ( 編 ) 名 古 屋 市 統 計 書, 第 27~45 回 ( 大 正 14~ 昭 和 21 年 ), 愛 知 縣 名 古 屋 市 參 事 會,1927~1947. The Nagoya Muslim Mosque, 名 古 屋 : 名 古 屋 トルコ タタールイスラム 敎 會,1937. 290

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