80 佛教大学 合研究所紀要 第22号 状況と一致していない 当地の歴 を幕末期に って 慶応4 1868 年に刊行された 改正 京町御絵図細見大成 を見ると 寺町通の東側に妙満寺 本能寺 誓願寺 歓喜光寺 金 寺といった大規模な寺院境内地が連続し 誓願寺以南では寺町通の東を走る裏寺町通の両側に 小規模な寺院境内地が展開しており 寺町と呼ばれた理由が良く かる 図1 図1 慶応4 1868 年の 寺町 改正京町御絵図細見大成 より筆者作成 注1 町名と一部の通名は省略し 一部の寺名も 寺 と略記した 注2 番号は表1と対応している 本稿では 上記の近代的な諸施設が 設された寺町通二条 四条間の寺社境内地群を指して 寺町 と表記する これは 近世の京都において寺町と呼べる寺院集中地区が複数 存在し そのうえ東西を御土居と寺町通に挟まれ 南北は鞍馬口通から六条通へ至る一帯の寺社境内地 の列を指して 京都では寺町と呼ばれていることを 慮し これらと区別するためである 前述の通り 近世と現在の 寺町 の状況は大きく異なる その契機の一つに挙げられるの が明治初期に行われた新京極の開発であり 新京極の形成と展開に関しては 歴 地理学 築 都市 の 野で研究が蓄積されている 歴 地理学の山近博義は 近世段階から当地の 町場化 興業地化が進んでいたことを明らかにし そのうえで近世から近代へ至る土地利用と 興業地としての性質の連続性を指摘している 築 の 野では 大槻洋二 三倉葉子 の研究があり なかでも大槻は寺院関係の地図資料から境内地の上地が行われる前後の状況を 検討し 新京極通のもとになる南北方向の通路の存在を明らかにした 最近では 都市 の伊 ヶ崎鷹彦 が新京極の成立を概説するなど新京極の開発に関する先行研究の蓄積は多く 研究 の余地が残されていないように見える しかしながら これらの研究を整理すると二つの問題点が浮かび上がる 既往の研究は 新 京極通を対象として新開地の 設や興業地化などを検討しており 新京極に注目が集まる一方 で寺町通や裏寺町通は研究の対象から外されている 近世の段階で新京極通は存在しておらず 大寺院であれば寺町通の東側は御土居までの間が一つの境内地を構成しており 大小様々な規
明治初年における京都 寺町 の景観とその変化 図4 明治9 1876 年の 寺町 改正京都区 91 一覧之図 より筆者作成 注 町名と一部の通名は省略し 一部の寺名も 寺 と略記した また 町組別の色 けは 町屋敷に統一し ている 試験場も これらと同様の事例と位置付けることができる 栽培試験場地は 明治27年に京都 市へ払下げられ 翌年に京都市議事堂 が竣工する のちの京都市役所である Ⅴ おわりに 本稿では 近代京都を代表する繁華街の一つである新京極をはじめ 京都府勧業場栽培試験 場などの近代的諸施設が 設された 寺町 を対象に 幕末期から明治初期にかけての当該地 域の景観変化について 社寺録 寺地画図 を資料として明らかにしてきた 得られた知見 は次の通りである ① 明治前期作成の地籍図 の活用が難しい京都では 明治初年に作成された 社寺録 寺地画図 が境内地の景観復原資料として利用できる 取り け 寺地画図 は境内地 処 が行われる直前の境内地の状況を記録した資料に位置付けられる ②元治大火で大半が焼失した 寺町 であるが 類焼を免れた金 寺付近や裏寺町通南部の ように被災状況には地域差が見られた 火災後には 了 寺のように堂舎の用地に日小屋 を てたり 貸地を行う寺院が現れ 社寺録 や 寺地画図 には元治大火で類焼した 寺院境内地に日小屋 貸地などが数多く見られた 大火で被災した寺院のなかには 裏寺 町の寺院のように復旧した例も見られたが 寺町通 いの寺院では堂舎再 があまり進ま ず 明治初年の段階で 寺町 全体が旧観を全備するには至らなかった なかには 本能 寺のように境内地の塔頭用地が畑地化 荒蕪地化する境内地も見られた ③明治初年の 寺町 の寺院境内地では 元治大火を契機に日小屋 楊弓場 貸地 畑地