ベトナム 戦 争 の 再 考 - 休 戦 40 年 の 視 点 から- 本 稿 は 平 成 24 年 11 月 26 日 ( 月 )に 防 衛 研 究 所 創 立 60 周 年 事 業 の 一 環 として 防 衛 研 究 所 において 開 催 した 戦 史 セミナー の 記 録 を 要 約 したものである 本 戦 史 セミナーは 髙 見 澤 將 林 防 衛 研 究 所 長 の 開 会 挨 拶 に 始 まり 庄 司 潤 一 郎 防 衛 研 究 所 戦 史 研 究 センター 長 の 議 長 趣 旨 説 明 に 続 いて 友 田 錫 元 日 本 国 際 問 題 研 究 所 長 が パリ 協 定 とは 何 であったのか と 題 して 基 調 講 演 を 行 い 赤 木 完 爾 慶 應 義 塾 大 学 教 授 ( 国 際 政 治 の 視 点 から ) 松 岡 完 筑 波 大 学 教 授 ( 米 国 の 視 点 から ) 野 口 博 史 南 山 大 学 准 教 授 ( ベトナムの 視 点 から ) 千 々 和 泰 明 防 衛 研 究 所 教 官 ( 日 本 の 視 点 から )の 発 表 の 後 議 長 及 び 発 表 者 相 互 による 質 疑 応 答 が 行 われ 山 本 頼 人 防 衛 研 究 所 副 所 長 の 挨 拶 により 閉 会 した 1 趣 旨 説 明 戦 史 セミナー は パリ 休 戦 協 定 から 40 年 を 迎 えようとしている ベトナム 戦 争 を 多 角 的 な 視 点 から 再 考 することにより 現 代 的 意 義 について 検 討 することを 目 的 に 企 画 しました お おむね 40 年 経 過 した 歴 史 的 事 象 特 に 戦 争 は その 熱 情 から 冷 静 さを 取 り 戻 し さらに 公 開 が 進 んだ 資 料 を 基 にした 研 究 が 進 展 することで より 学 術 的 な 戦 争 の 具 体 像 を 描 ける 時 期 にある といえます 近 年 アメリカ 及 びベトナムでは ベトナム 戦 争 の 研 究 が 進 展 しており 特 に アメリカでは イラク アフガン 戦 争 の 関 係 でベトナムが 顧 みられています しかし 日 本 で は 英 雄 的 な 人 民 の 勝 利 というイメージが 当 時 と 変 わることなく 語 り 継 がれているのが 実 情 です 106
日 本 におけるこのような 状 況 の 背 景 として いくつかの 神 話 が 指 摘 されています 社 会 主 義 革 命 とアメリカ 帝 国 主 義 に 対 する 民 族 解 放 闘 争 の 勝 利 さらに ゲリラ 戦 の 勝 利 その 有 効 性 に 対 する 信 奉 があります このような 神 話 は 克 服 されることなく 突 然 ドイモイ 後 のベトナム へと 飛 躍 してしまいます このようなことから 様 々な 視 点 からベトナム 戦 争 をもう 一 度 取 り 上 げることは 意 味 があると 思 います また ベトナム 戦 争 の 再 考 は 単 に 歴 史 的 に 意 味 があるだけでなく 現 代 的 な 示 唆 も 含 ま れていると 思 います 例 えば ベトナム 戦 争 の 教 訓 は その 後 のアメリカの 軍 事 力 行 使 特 に 今 のアフガン イラク 問 題 への 影 響 ということで 示 唆 を 提 供 するでしょう さらに 日 米 関 係 にも 大 きな 意 味 合 いをもっていると 思 います 当 時 の 日 米 関 係 は 60 年 安 保 以 降 最 大 といえる 危 機 を 迎 えていました アメリカ 側 は 日 本 に 積 極 的 な 支 援 を 求 めていました が 日 本 側 は 反 戦 世 論 があり 保 守 の 政 治 家 もアメリカに 完 全 にコミットできないという 状 況 でした 一 方 中 国 は 核 を 開 発 し 日 本 の 非 常 に 大 きな 脅 威 になっていましたが 中 国 の 脅 威 に 対 応 する 上 で 日 米 安 保 は 不 可 欠 でした 政 治 指 導 者 はこのジレンマを 担 いながら 沖 縄 返 還 交 渉 に 対 応 せざるを 得 なかったのです このように 多 角 的 な 視 点 からベトナム 戦 争 を 再 考 することで 様 々な 示 唆 が 出 てくると 思 います 2 基 調 講 演 友 田 錫 : パリ 協 定 とは 何 であったのか 本 日 は 体 験 的 ベトナム 戦 争 論 とでも 言 うべきものをご 披 露 することにしました 45 年 前 に 特 派 員 としてベトナム 報 道 に 携 わったからです 本 日 のテーマは 非 常 に 時 宜 に 適 したも のだと 思 います いまインドシナ 半 島 には ベトナム 戦 争 の 背 後 にあった 大 きな 国 際 的 ある いは 地 域 的 な 対 立 と 抗 争 が 形 を 変 えて ふたたび 芽 を 吹 き 返 しているように 思 えるからです 今 日 日 本 にとってインドシナ 半 島 は 経 済 はもちろん 安 全 保 障 外 交 の 面 でも ますます 大 事 な 対 象 になっております ベトナム 戦 争 及 びその 後 のインドシナの 動 乱 を 動 かした 要 素 を もう 一 度 吟 味 し 直 すことは いまインドシナ 半 島 に 生 まれつつある 問 題 を 理 解 するのに 非 常 に 役 に 立 つと 考 えます ベトナム 戦 争 には 大 きな 転 換 点 が 二 つあります 1965 年 の 米 軍 の 本 格 参 戦 ( 北 爆 と 地 上 軍 派 遣 ) 及 び 73 年 のパリ 和 平 協 定 であります パリ 協 定 は 本 質 的 には 米 国 の 名 誉 ある 離 脱 のた めのものであり 戦 争 は 終 わることはなく 2 年 後 のサイゴン 陥 落 という 最 終 章 の 幕 開 けに 過 ぎませんでした パリ 協 定 の 発 効 当 日 私 は 解 放 戦 線 勢 力 の 強 いメコンデルタに 行 きましたが 砲 声 銃 声 は 止 むことはありませんでした 107
なぜ 米 国 は 戦 争 離 脱 に 方 向 転 換 したのでしょうか 最 大 の 鍵 は 68 年 1 月 30 日 旧 正 月 の 休 戦 の 不 意 を 衝 いて 北 ベトナムと 解 放 戦 線 が 首 都 サイゴンや 全 土 の 主 な 省 都 や 基 地 に 対 し て 行 った 一 斉 攻 撃 であります 特 派 員 として 現 地 にいた 私 は このテト 攻 勢 を 目 の 当 たりにし ました その 後 米 軍 と 南 政 府 軍 が 本 格 的 な 巻 き 返 しを 始 めて 共 産 側 は 大 損 害 を 蒙 ります しかし アメリカ 本 国 ではショックを 受 けた 世 論 が 圧 倒 的 に 反 戦 に 傾 き その 後 の 情 勢 は ジョンソン 大 統 領 の 引 退 パリ 和 平 会 談 の 開 始 ニクソン 訪 中 による 米 中 接 近 そしてパリ 和 平 協 定 の 実 現 と それこそ 奔 流 のような 勢 いで 展 開 していきました 73 年 に 米 軍 は 撤 退 を 完 了 します 75 年 サイゴン 攻 略 を 目 指 したホー チ ミン 作 戦 の 火 蓋 が 切 られ 4 月 30 日 サ イゴンは 陥 落 し 翌 年 北 は 南 北 ベトナムを 統 一 します 皮 肉 なことに 実 はこの 戦 争 終 結 と 南 北 統 一 は 第 3 次 インドシナ 戦 争 (カンボジア 紛 争 と 中 越 戦 争 )への 序 曲 でもあったのです インドシナを 舞 台 にした 戦 争 には 大 国 間 の 国 際 的 対 立 と 地 域 内 の 対 立 という 重 層 的 な 対 立 の 構 造 が 存 在 しました 国 際 的 対 立 は 東 西 冷 戦 と 中 ソ 対 立 です ニクソン 訪 中 は 米 中 ソの 間 の 国 際 的 対 立 構 造 の 最 初 のドラマでした この 米 中 接 近 には 中 国 に 依 存 しているベトナム の 立 場 を 弱 めて 名 誉 ある 離 脱 をはかろうというニクソン=キッシンジャーの 狙 いもありました カンボジア 紛 争 は 中 ソという 二 つの 社 会 主 義 大 国 の 間 の 対 立 国 際 的 対 立 構 造 の 第 二 のド ラマでした 同 時 に 中 国 とベトナム ベトナムとカンボジアという 地 域 内 の 対 立 構 造 との 複 合 的 な 紛 争 でもありました 中 国 は 基 本 的 にはベトナムがインドシナで 支 配 的 な 勢 力 になるこ とを 望 んでいませんでした 中 国 は 朝 鮮 戦 争 以 後 米 国 を 主 敵 とみなし 北 ベトナムに 持 久 戦 を 説 き 米 国 を 消 耗 させる というのが 基 本 的 な 戦 略 でした 60 年 代 後 半 中 ソ 対 立 が 激 化 し ソ 連 が 主 敵 になり ベトナ ム 戦 争 で 米 国 を 消 耗 させることは 中 国 の 安 全 保 障 にとってマイナスだと 考 えるようになりま した 70 年 代 半 ば 中 ソ 対 立 は 依 然 きびしい 状 態 にありました このとき 中 国 は 一 方 でソ 連 と 結 び 他 方 で 仏 印 に 特 殊 関 係 の 網 を 構 築 したベトナムを 地 域 覇 権 主 義 と 決 め 付 け 中 越 戦 争 に 至 ったのであります また 中 国 はベトナムの 統 一 は 望 んでいませんでした こうした 国 際 的 な 対 立 構 造 と 地 域 の 対 立 構 造 の 只 中 にあり ベトナムは まず 米 中 接 近 で 頼 みの 綱 の 中 国 に 裏 切 られ 中 国 と 対 立 していたソ 連 を 頼 りましたが そのソ 連 もやがて 中 国 との 和 解 に 方 向 転 換 し ベトナムはソ 連 からも 見 捨 てられました ベトナム 戦 争 には 二 つの 教 訓 があります 一 つは 内 政 の 重 要 さです アメリカはある 意 味 で 戦 闘 に 勝 って 戦 争 に 敗 れた といえるでしょう つまり テト 攻 勢 の 衝 撃 が 国 内 世 論 を 反 戦 へ 駆 り 立 て それがアメリカの 政 治 指 導 者 を 戦 争 離 脱 へ 押 しやったわけです この 世 論 の 動 き の 鍵 になったのは この 頃 初 めて 戦 場 の 光 景 を 直 接 お 茶 の 間 に 持 ち 込 んだテレビの 影 響 であ りました もう 一 つの 教 訓 は 大 国 間 のパワーゲームが 圧 倒 的 な 影 響 力 を 持 っていることです 108
今 日 の 東 アジア 情 勢 にも 通 じる 要 素 でありましょう 指 摘 しておきたいのは 大 国 として 影 響 力 を 強 めている 中 国 の 対 外 姿 勢 に 歴 史 的 に 見 て 一 つのリズムがあることです こうした 教 訓 を 踏 まえて 今 日 のインドシナを 見 ますと 再 び 大 国 間 の 対 立 と 地 域 内 対 立 とい う 重 層 的 対 立 構 造 が 復 活 しつつある 気 配 を 感 じ 取 ることができます ミャンマーも 巻 き 込 んで の 米 国 と 中 国 の 影 響 力 のせめぎ 合 いが 展 開 されつつありますが そこには 中 国 とカンボジア という 組 み 合 わせと 米 国 とベトナムという 組 み 合 わせとの 対 立 という 構 図 が 見 て 取 れます 特 に 注 目 しておかなければならないことがあります ベトナム 最 大 の 戦 略 的 な 要 衝 カムラン 湾 をめぐる 問 題 です 日 露 戦 争 のときバルチック 艦 隊 が 寄 港 し 太 平 洋 戦 争 のときには 連 合 艦 隊 が 作 戦 の 出 発 基 地 としました ベトナム 戦 争 ではアメリカがもっとも 重 要 な 拠 点 にしてい ました ベトナム 戦 争 が 終 わるとソ 連 が 79 年 から 太 平 洋 艦 隊 の 重 要 拠 点 として 利 用 したという 経 緯 があります カムラン 湾 はベトナムをめぐる 大 国 の 軍 事 的 関 与 の 移 り 変 わりを 映 し 出 す 象 徴 的 な 場 所 でありました ベトナムは 昨 年 からアメリカに 補 給 艦 などの 戦 闘 用 でない 艦 艇 のカムラン 湾 への 寄 港 を 許 しています アメリカは 戦 闘 艦 艇 の 寄 港 も 認 めて 欲 しいとベトナムに 働 きかけています 去 る 6 月 パネッタ 国 防 長 官 は ベトナム 戦 争 のあと アメリカの 国 防 長 官 としては 初 めてカムラ ン 湾 を 訪 れました ベトナムはアメリカに 武 器 の 禁 輸 の 解 除 を 要 求 しています もし 米 軍 が このカムラン 湾 の 使 用 権 を 手 に 入 れることになれば 中 国 は 重 大 な 注 意 信 号 と 受 け 取 り イン ドシナ 情 勢 は 新 たな 緊 張 の 段 階 に 入 ると 見 て 間 違 いありません インドシナにあって こうした 大 国 のパワー プレーが 繰 り 返 し 展 開 されるというのは 地 政 学 的 な 宿 命 なのかも 知 れません これからのインドシナを 観 察 するとき この 地 域 がこうし た 地 政 学 の 宿 命 を 背 負 っているという 事 実 を しかと 念 頭 においておく 必 要 があると 思 います 3 発 表 赤 木 完 爾 : 国 際 政 治 の 視 点 から 本 発 表 は ベトナム 戦 争 が 戦 われた 時 代 の 大 国 間 の 力 の 分 布 状 況 が 当 時 の 国 際 政 治 の 展 開 に 如 何 なる 意 味 があったのかを 考 えようというものです ベトナム 戦 争 については 様 々な 理 解 の 仕 方 がありますが 第 一 に 冷 戦 の 戦 争 だったと 考 えたいと 思 います 冷 戦 の 戦 争 ではあっ たが 脱 植 民 地 という 歴 史 のプロセスと 不 幸 な 出 会 いをしてしまい 大 変 こじれたという 大 き なとらえ 方 をしております 冷 戦 そのものは 大 きくヨーロッパを 中 心 に 米 ソ 両 大 国 がヨーロッパ 大 陸 で 対 峙 したが 第 三 世 界 については 相 互 に 直 接 ぶつかり 合 わない 限 りは 隙 があったら 挑 戦 するという 双 方 の 姿 勢 が 顕 著 でありました アメリカ 側 の 最 悪 のケースがベトナムであったと 思 います アメリカ が 出 口 のない 消 耗 戦 略 を 取 った 理 由 は 結 局 戦 場 において 決 定 的 勝 利 がさらなる 危 険 を 招 き 109
入 れる 可 能 性 が 高 い 場 合 は 勝 利 も 敗 北 もない 消 耗 戦 略 が 採 用 される 傾 向 があったと 思 います こうした 考 えが ベトナム 戦 争 が 思 いもかけず 長 引 いたアメリカ 側 の 戦 略 的 な 計 算 の 一 部 に 存 在 したと 考 えています 国 力 の 一 つの 見 方 ということで 国 力 複 合 指 標 を 紹 介 します 長 期 的 趨 勢 を 見 ることがで きる 数 字 です 国 力 複 合 指 標 は 6 つの 指 標 ( 兵 員 数 軍 事 支 出 全 人 口 都 市 人 口 鉄 鋼 消 費 一 次 エネルギー 消 費 量 )について その 国 が 世 界 に 占 めるシェアを 比 率 の 形 で 算 出 します 各 指 標 に 同 じ 重 みを 掛 けるため 人 口 が 多 い 国 が 少 し 重 くでる 傾 向 がありますが これで 中 国 がいつから 世 界 の 第 三 極 だったかといった 議 論 を 行 うことができるわけです 今 日 はこれに 基 づいてお 話 をさせていただきます ベトナム 戦 争 の 時 期 で 1971 年 からアメリカとソ 連 の 二 国 を 見 ますと 国 力 比 はソ 連 が 凌 駕 しているという 特 徴 があり その 趨 勢 は 89 年 の 冷 戦 の 終 結 まで 変 わりません ベトナム 戦 争 が 終 わって 20 年 間 弱 西 側 同 盟 全 体 の 協 力 があってはじめて アメリカはソ 連 の 国 力 を 凌 駕 する ことができました これに 対 して 日 本 の 国 力 をアメリカに 単 純 に 足 しますと ソ 連 の 国 力 を もちろん 上 回 っているわけです また ありえない 話 ですが 中 ソを 足 すと アメリカに 日 本 イギリス フランス ドイツを 加 えた 西 側 より 大 きくなり 西 側 にとって 中 ソ 関 係 というのは 分 裂 していないと 困 るということになります 60 年 から 75 年 までの 国 際 政 治 の 変 化 を 大 掴 みに 振 り 返 りますと 5 つの 特 徴 があります 第 一 は 航 空 宇 宙 時 代 の 始 まり 第 二 は 脱 植 民 地 化 の 影 響 が 頂 点 に 達 した 時 期 第 三 は 毛 沢 東 の 中 国 ドゴールのフランスが 非 常 に 激 しい 自 己 主 張 をしていた 第 四 は 中 ソ 対 立 第 五 は アメリカの 力 の 相 対 的 な 衰 退 が 非 常 に 顕 著 になったことだと 思 います アメリカの 相 対 的 衰 退 への 対 処 が ニクソン 大 統 領 とキッシンジャー 大 統 領 補 佐 官 による 対 外 政 策 の 再 編 です 61 年 のケネディ 大 統 領 の 就 任 演 説 にあるような いかなる 苦 難 にも 立 ち 向 かい いかなる 重 荷 も 背 負 う ことは とてもできないという 現 実 から 出 発 したと 思 いま す ニクソン ドクトリン は 同 盟 国 の 貢 献 を 確 保 するという 側 面 と 地 域 の 責 任 を 現 地 国 へ という 側 面 がありました そして 米 ソのデタント 米 中 関 係 改 善 であります 米 中 関 係 改 善 について 言 えば 中 国 は 認 識 的 には 第 三 極 であったと 言 えると 思 います 今 振 り 返 って 私 は 当 時 のパワーの 分 布 状 況 をニクソン 政 権 は 非 常 に 正 確 かつ 深 刻 に 把 握 していたということを 確 認 できると 思 います 4 発 表 松 岡 完 : アメリカの 視 点 から 40 年 近 い 歳 月 の 中 で アメリカ 国 民 が 抱 くベトナム 戦 争 イメージはまさに 180 度 ともいうべ き 転 換 をとげました かつては 不 正 義 きわまりない 恥 辱 にまみれた 戦 いだったものが アメ 110
リカの 大 義 すなわち 自 由 と 民 主 主 義 を 守 るための 戦 いとして 描 かれるようになっています ベ トナムのみならずインドシナ 半 島 全 域 に 惨 害 をもたらした 加 害 者 だったはずのアメリカは 戦 争 そのものの 被 害 者 にその 姿 を 変 えました ベトナム 戦 争 イメージの 変 容 と 歩 調 を 合 わせ 相 互 補 完 的 な 役 割 を 演 じながら この 戦 争 で アメリカ 社 会 が 被 った 甚 大 な 影 響 も 一 つまた 一 つと 克 服 されていきました アメリカ 国 民 に とっていまやベトナム 戦 争 は 遠 い 過 去 の たいして 思 いわずらう 必 要 のない 出 来 事 になってい ます むしろ 誇 りを 持 って 想 起 できる 過 去 ですらあります こうした 変 化 は ベトナム 戦 争 後 もアメリカが 軍 事 介 入 を 繰 り 返 し 勝 利 を 積 み 重 ねること で 負 の 記 憶 を 一 歩 一 歩 打 ち 消 してきた 歴 史 の 産 物 でもあります とりわけベトナム 修 正 主 義 者 と 呼 ばれる 人 々が ベトナム 戦 争 イメージそのものを 変 え 戦 史 を 書 き 改 めることで アメリ カ 国 民 に 再 び 自 信 を 抱 かせ 偉 大 な 国 家 を 再 建 しようと 尽 力 してきたことも 大 きいと 言 えます とはいえ アメリカ 国 民 がベトナム 戦 争 の 記 憶 を 完 全 に 払 拭 したわけではなく アメリカ 社 会 からその 痕 跡 がまったく 消 え 去 ったわけでもありません 不 名 誉 な 戦 争 価 値 なき 戦 争 とい うイメージを 克 服 してなお 最 後 に 残 ったのは アメリカが 史 上 初 めて それもベトナム 人 ふぜ いを 相 手 に 敗 北 を 喫 したという 厳 然 たる 事 実 です その 結 果 もたらされたのが ベトナム 戦 争 イメージないしその 教 訓 の 矮 小 化 です ベトナム とは 泥 沼 の 代 名 詞 ですが それ 以 上 のものではありません 1970 年 代 後 半 に 顕 著 だったよ うな みずからの 国 外 での 行 動 についてアメリカに 反 省 を 強 いる あるいはアメリカの 軍 事 行 動 を 抑 制 するほどの 影 響 力 はもはや 持 っていません しかし ネバー アゲイン ノー モア ベトナム という この 種 の 戦 いを 二 度 と 繰 り 返 してはならないという 戒 めは 生 きています だが 裏 を 返 せば 泥 沼 化 しさえしなければ アメリカ 国 民 がその 眼 前 に 泥 沼 が 存 在 すると 気 づかなければ アメリカは 敵 が 何 者 であれ 戦 場 がどこであれ 戦 うことができると 考 えら れます 5 発 表 野 口 博 史 : ベトナムの 視 点 から パリ ベトナム 和 平 協 定 は 米 国 等 外 国 参 戦 国 にとってベトナム 戦 争 の 終 結 を 意 味 する 一 方 ベトナムにおける 内 戦 そのものの 決 着 をもたらさなかったという 成 功 失 敗 の 二 面 性 を 持 って いますが このことも 含 めて パリ 和 平 協 定 そしてベトナム 戦 争 が 現 在 のベトナムにおいて どのような 意 味 を 持 つかについて ナショナリズム 戦 史 編 纂 における 民 主 化 占 領 下 政 治 秩 序 形 成 の 三 側 面 から 検 討 したいと 思 います 第 一 に ベトナム 戦 争 はイデオロギー 的 戦 争 であったのか ナショナリズム 的 戦 争 であった のかについては ホー チ ミン の 本 質 と 合 わせて 依 然 として 議 論 がなされています 1959 111
年 にベトナム 労 働 党 ( 現 共 産 党 )が 南 における 武 装 闘 争 を 決 定 した 時 点 においてはイデオロギ ー 的 戦 争 の 色 彩 が 強 かったが 60 年 代 における 国 際 共 産 主 義 運 動 の 分 裂 とベトナムにおける 指 導 者 交 替 がナショナリズム 的 要 因 を 強 化 させました 一 方 南 ベトナムにおいても 62 年 ~65 年 に 開 催 された 第 二 ヴァチカン 公 会 議 によって 反 共 主 義 という 戦 争 の 宗 教 的 意 義 付 けが 失 われ ました 戦 争 終 結 後 北 における 指 導 者 レー ズアン (Lê Duẩn) は 最 大 の 支 援 国 であった 中 国 に 背 を 向 けましたが 他 方 で 南 における 指 導 者 グエン ヴァン ティエウ (Nguyễn Văn Thiệu) も 米 国 に 裏 切 られたと 感 じ イギリスを 亡 命 先 としました ベトナム 戦 争 はイデオロギーを 主 体 と して 始 まり ナショナリズムに 変 化 していったとまとめることが 可 能 かと 思 います 第 二 に ベトナムにおける 戦 史 編 纂 は 当 初 党 中 央 の 一 元 的 指 導 の 正 しさを 強 調 するもので したが 水 面 下 では 戦 争 終 結 直 後 よりベトナム 戦 争 を 最 前 線 で 戦 った 将 軍 級 指 導 者 らは こう した 見 解 を 批 判 し 戦 争 の 過 程 がより 複 雑 で 時 として 党 中 央 の 指 導 は 不 適 切 なものであった ことを 公 表 しようと 試 み 続 けてきました 80 年 代 まではこれらの 見 解 の 相 違 は 余 り 表 面 化 しませんでしたが 90 年 代 以 降 特 に 21 世 紀 に 入 ってからは 戦 史 編 纂 回 想 録 等 において 党 指 導 部 における 見 解 の 相 違 や 上 級 指 導 部 に 対 する 様 々な 批 判 がなされることも 許 されるようになっていきました また 兵 士 や 下 級 幹 部 による 日 記 がベストセラーになる 等 個 人 としての 経 験 から 戦 争 を 語 るという 手 法 が 盛 んに なってきています 戦 史 編 纂 回 想 における 多 元 化 個 人 化 という 民 主 化 は 70 年 代 に 始 ま り 現 在 まで 深 化 し 続 けています 第 三 に 世 界 史 的 意 義 については 紛 争 解 決 ゲリラ 戦 政 治 秩 序 形 成 の 三 点 を 検 討 したい と 思 います まず 紛 争 解 決 において パリ ベトナム 和 平 協 定 は 参 戦 国 以 外 の 主 要 国 も 参 加 した 規 範 性 の 強 いものでしたが 南 北 ベトナムとも 自 国 の 世 論 を 優 先 させて 協 定 を 軽 視 しました これは 先 に 指 摘 したイデオロギーからナショナリズムへの 変 遷 と 同 型 的 過 程 であり 紛 争 の 実 質 的 解 決 をより 困 難 にしました また ベトナム 戦 争 の 生 んだ 最 大 の 神 話 はゲリラ 戦 の 有 効 性 かと 思 いますが これはベ トナム 戦 争 における 現 実 の 推 移 とはかけ 離 れたものであり 本 質 的 なゲリラ 戦 はむしろベトナ ム 戦 争 以 後 に 多 発 し これが 紛 争 解 決 と 戦 後 復 興 を 更 に 困 難 にしています 加 えて 余 り 着 目 されてきませんでしたが ベトナム 労 働 党 共 産 党 による 南 ベトナム ラ オス カンボジアにおける 政 治 軍 事 等 諸 制 度 形 成 は 効 果 的 であり ベトナムの 経 験 と 成 功 は 先 進 国 による 経 済 援 助 が 不 在 でも 戦 後 復 興 に 必 要 な 政 治 秩 序 を 作 り 出 し 得 る 可 能 性 を 示 唆 して います 112
6 発 表 千 々 和 泰 明 : 日 本 の 視 点 から ベトナム 戦 争 が 当 時 の 日 米 関 係 に 与 えた 影 響 について 私 なりにお 話 をさせていただければと 思 います 当 時 の 佐 藤 ( 栄 作 ) 政 権 のアメリカへの 対 応 は 要 するにモラル サポートという 形 にまとめることができます アメリカが 北 爆 を 開 始 しました 直 後 1965 年 2 月 佐 藤 総 理 が 衆 議 院 本 会 議 で ゲリラ 攻 撃 に 対 応 してとられたやむを 得 ざる 措 置 と 答 弁 をしました 11 月 に 佐 藤 が 訪 米 してジョンソン 大 統 領 と 会 談 し その 後 の 日 米 共 同 声 明 のなかで 主 語 は 総 理 ですが 紛 争 の 正 当 かつ 公 正 な 解 決 を 求 めるという 米 国 の 立 場 に 対 する 支 持 を 表 明 する とい うことを 対 外 的 にもはっきりと 示 しました 日 本 の 対 応 を 考 えると 同 盟 のジレンマ というのが 一 つのヒントになると 思 います すな わち 見 捨 てられ (abandonment)の 恐 怖 と 巻 き 込 まれ (entrapment)の 恐 怖 と 言 われ るものであります 中 国 の 核 実 験 が 64 年 10 月 にあり 当 時 の 佐 藤 政 権 に 大 変 強 いインパクト を 与 えました 冷 戦 という 状 況 のなかで 核 抑 止 力 の 提 供 も 含 めた 日 米 の 安 全 保 障 上 の 結 束 を 強 めなくてはいけない アメリカが 始 めた 戦 争 に 日 本 が 反 対 するという 選 択 肢 は 基 本 的 にはあ りませんでした これが 見 捨 てられ の 恐 怖 ですが 他 方 で 巻 き 込 まれ の 恐 怖 という 面 もありました 具 体 的 には 在 日 米 軍 基 地 の 使 用 を 通 じたベトナム 戦 争 への 巻 き 込 まれを 恐 れた ということです ベトナム 戦 争 が 当 時 の 日 米 関 係 に 与 えた 影 響 ですが 相 互 理 解 への 影 響 と 沖 縄 返 還 への 影 響 という 二 点 についてお 話 しさせていだければと 思 います 安 保 騒 動 で 日 本 との 対 話 が 断 たれた と 考 えていたライシャワーは 駐 日 大 使 として 着 任 以 来 イコール パートナーシップ という ものを 掲 げ パブリック ディプロマシーを 強 化 し 相 互 理 解 を 深 める 路 線 を 推 進 しました ベ トナム 戦 争 が 本 格 化 してからは パブリック ディプロマシーの 役 割 は アメリカのベトナム 政 策 に 対 する 日 本 の 世 論 の 支 持 調 達 へと 明 確 に 変 わっていくわけであります ライシャワー 大 使 が 65 年 7 月 の 一 時 帰 国 時 に 陸 軍 長 官 スタンリー リザーに 沖 縄 返 還 を 具 申 するわけであります 沖 縄 返 還 を 主 張 した 背 景 には ベトナム 戦 争 によって 生 じた 日 本 の 反 米 ナショナリズム 反 基 地 運 動 の 機 運 を 放 っておくと 日 米 の 関 係 に 亀 裂 が 生 じるというライ シャワーの 危 機 感 があったわけであります 一 方 で 例 えば 国 務 長 官 のディーン ラスクの ように ベトナム 戦 争 を 戦 っているからこそ 沖 縄 は 返 せないという 立 場 をとる 高 官 もいました 69 年 の 5 月 ニクソン 政 権 は 沖 縄 返 還 に 踏 み 出 していく 方 針 を 示 した ナショナル セキュ リティー ディシジョン メモランダム 13 (NSDM 13)を 作 成 します 特 に 朝 鮮 台 湾 ベ トナムに 関 し 軍 事 基 地 の 最 大 限 の 自 由 使 用 が 認 められるというアメリカの 希 望 ということ が 言 及 されていました 韓 国 台 湾 ベトナムを 同 列 に 扱 うということは 日 本 は 受 け 入 れられ ない 日 本 側 は 安 保 改 定 のときに 結 ばれた 朝 鮮 議 事 録 の 無 効 化 というものを 当 時 追 求 し 113
ていました 日 米 の 間 で 攻 防 があったということが 最 近 分 かってきたわけであります 結 局 69 年 11 月 に 佐 藤 が 訪 米 し ニクソン 大 統 領 と 会 談 し 沖 縄 返 還 が 決 まりました 佐 藤 ニク ソン 共 同 声 明 のなかで 三 つの 地 域 は 明 確 に 扱 いに 差 がつけられ ベトナムは 単 に 日 本 と してはインドシナ 地 域 の 安 定 のため 果 たしうる 役 割 を 探 求 している とされ 日 本 の 主 張 が 通 ったわけであります 沖 縄 返 還 交 渉 を 動 かす 促 進 面 においても あるいは 抑 制 面 においても 沖 縄 返 還 交 渉 という 当 時 の 日 米 関 係 の 最 も 重 要 な 懸 案 事 項 にベトナム 戦 争 の 影 響 が 色 濃 く 反 映 されていたというこ とが 分 かると 思 います 7 総 合 討 議 議 長 : 松 岡 先 生 が 指 摘 されたように アメリカが 戦 闘 には 勝 ったが 戦 争 に 敗 れた という 事 実 は 最 後 まで 残 ります 野 口 先 生 はベトコンの 実 態 は 支 離 滅 裂 でモラルもなかったことが 明 らかになってきたと 発 表 されましたが 現 時 点 から 見 てなぜアメリカは 戦 争 に 負 けたかと いう 点 であります 通 説 としては 背 後 からの 一 突 き と 保 守 側 が 言 う 国 内 の 反 戦 運 動 ゲ リラ 戦 がアメリカの 近 代 兵 器 を 凌 駕 した 点 などが 指 摘 されています 松 岡 氏 :ベトナムを 舞 台 とした 政 治 戦 争 であったはずが アメリカは 軍 事 的 側 面 だけに 目 を 向 けていて 政 治 的 な 建 設 の 部 分 政 府 建 設 軍 隊 の 建 設 経 済 構 造 の 建 設 をなおざりにしたと いう 点 が 非 常 に 重 要 なアメリカの 敗 因 ではないかと 思 います 野 口 氏 :1973 年 にアメリカが 停 戦 協 定 を 調 印 した 段 階 で 北 ベトナムはアメリカには 勝 てていな かった あくまでも 北 ベトナムが 勝 利 したのは 和 平 協 定 調 印 以 後 に 南 ベトナムに 対 してで あると 考 えるしかありません 潤 沢 なアメリカの 援 助 に 慣 れてしまった 南 ベトナムにとって 73 年 以 降 の 物 質 的 優 位 は 見 かけとは 異 なってほぼ 北 ベトナムと 均 衡 していたと 考 えるべき かと 思 います 114
友 田 氏 : 基 本 的 にはアメリカの 戦 闘 能 力 そのものは ベトコンを 含 めた 北 ベトナムに 卓 越 して いた 目 の 前 で 見 ていたが アメリカは 戦 闘 では 勝 っていた 現 地 の 状 況 からいえるのは 一 つは 情 報 諜 報 能 力 において 圧 倒 的 にアメリカ 南 ベトナムは 北 に 劣 っていた グエ ン ヴァン ティエウの 側 近 であった 補 佐 官 の 一 人 は 北 ベトナムのエージェントであり ア メリカとのやりとりの 全 てが 北 ベトナムに 筒 抜 けであった 諜 報 の 組 織 が 張 り 巡 らされてい た もう 一 つがゲリラ 戦 である 村 人 が 沢 山 いて 友 好 的 な 顔 をしていても 敵 側 であるとい う 相 手 である 議 長 : 赤 木 先 生 が 国 力 複 合 指 標 を 使 って 説 明 された 通 り アメリカは 超 大 国 から 衰 退 して いてソ 連 が 凌 駕 し 中 国 を 足 したらもうかなわないという 総 合 的 な 国 力 のなかで ベトナム 戦 争 は 戦 われ 地 続 きで 中 ソが 支 援 をしていました その 点 は 戦 争 の 帰 趨 を 決 するうえでど の 程 度 影 響 を 与 えているのかをお 聞 きしたい 赤 木 氏 : 北 ベトナムは 中 ソ 対 立 を 逆 手 にとって 援 助 を 引 き 出 していくというような 点 で 非 常 に 巧 みな 外 交 をやった 北 ベトナムの 75 年 の 勝 利 は 決 定 的 に 外 部 の 援 助 によるものであ ります ニクソン 政 権 の 73 年 の 石 油 ショックが 各 種 の 面 において 非 常 に 援 助 のクオリ ティーを 下 げた 南 ベトナムの 可 能 性 を 北 ベトナムが 武 力 により あるいは 徹 底 的 な 闘 争 により 全 部 潰 していったという 闘 争 の 結 果 だとやはり 考 えます 北 ベトナムの 勝 利 すると いう 意 思 がサイゴンを 上 回 ったのではないでしょうか 議 長 : 友 田 先 生 と 野 口 先 生 の 発 表 には ベトナム 戦 争 におけるゲリラ 戦 の 位 置 付 けに 違 いがあ りました ゲリラ 戦 について 野 口 先 生 は 有 効 性 についても 今 ベトナムで 疑 念 が 呈 されて いると 述 べられたが この 点 について 具 体 的 に 伺 いたい 野 口 氏 :73 年 にアメリカ 軍 が 撤 退 するときには 95% 程 度 の 人 口 は 南 ベトナムが 抑 えていまし た このような 状 態 では ゲリラ 戦 を 戦 う 場 所 がないと 同 時 に ゲリラというものを そも そもリクルートできない もはやベトナム 人 民 軍 がゲリラ 戦 を 戦 う 余 地 はなかったというの が 北 ベトナム 側 の 総 括 であり 私 も 間 違 いはないと 考 えています 議 長 : 千 々 和 教 官 は 日 本 の 政 治 指 導 者 有 識 者 を 含 めて ベトナム 戦 争 の 帰 趨 についてはど ういうふうに 考 えて 様 々な 政 策 決 定 を 行 っていたと 思 われますか 千 々 和 教 官 :よくは 存 じ 上 げないが 帰 趨 というものがわからないなかで 同 盟 国 としてアメ リカに 対 してどう 対 応 をとるかということは 日 本 にとって 大 変 難 しい 問 題 であった 考 える ヒントになるのは 見 捨 てられ の 恐 怖 と 巻 き 込 まれ の 恐 怖 という 葛 藤 のなかでの 一 つ の 選 択 ということがいえると 思 います この 見 捨 てられ の 恐 怖 と 巻 き 込 まれ の 恐 怖 というのはイラク 戦 争 の 際 においても 共 通 していたと 思 います しかし イラク 戦 争 のとき の 日 本 国 内 の 反 応 は ベトナム 戦 争 とやや 異 なっており 必 ずしも 巻 き 込 まれ の 恐 怖 だけ で 反 対 がなされたわけでもありません ベトナム 戦 争 の 時 期 の 日 本 外 交 と 日 本 が 国 際 社 会 115
でどういった 役 割 を 求 められているのかといった 点 で イラク 戦 争 では 違 っていたというこ とだと 思 います 友 田 氏 : 日 本 政 府 は 公 式 にはアメリカに 逆 らわないでやっていたが 内 心 はかなり 北 ベトナム に 対 して 宥 和 的 な 気 持 ちをもっていた 吉 田 茂 さんは 日 中 戦 争 という 自 分 達 の 経 験 から アメリカは 早 く 止 めた 方 がいいよという 気 持 ちであった 佐 藤 首 相 も 恐 らく 同 様 な 考 えであ ったが 日 本 は 公 式 な 行 動 はできなかった これは 私 の 経 験 からです 議 長 : 歴 史 認 識 との 関 連 でベトナム 戦 争 が 及 ぼした 影 響 ということについて 付 言 しますと ベ トナム 戦 争 は 日 米 の 歴 史 認 識 特 に 先 の 大 戦 に 対 する 歴 史 認 識 に 対 して 全 く 反 対 方 向 の 影 響 を 及 ぼしました アメリカはベトナム 戦 争 を 通 して 日 本 がなぜ 中 国 大 陸 で 泥 沼 に 陥 って 最 終 的 にアメリカ と 対 決 せざるを 得 なかったということを 理 解 するようになります 70 年 ぐらいからアメリ カの 学 会 においても 当 時 の 日 本 の 外 交 政 策 に 関 して 柔 軟 な 見 方 がでてきた 一 方 日 本 では ベ 平 連 などの 反 戦 運 動 があったが なぜ 日 本 がアメリカに 追 随 して ベトナム 戦 争 を 支 援 してしまったのかというのを 過 去 に 原 点 を 求 める というのは 結 局 彼 らから 観 ればベトナム 戦 争 もアジアへの 侵 略 なわけであり それは 日 本 が 過 去 の 日 本 自 身 による 侵 略 を 反 省 していないから 今 回 も 安 易 にアメリカに 追 随 していったと こういった 見 方 が 広 がっていきました 時 間 の 関 係 で 十 分 議 論 することはできませんでしたが 本 セミナーの 議 論 を 通 じていくつ かの 重 要 な 点 でベトナム 戦 争 が 再 検 討 され 貴 重 な 現 代 的 示 唆 も 提 示 し 得 たと 思 います ( 文 責 : 宮 原 靖 郁 ) 116