シリーズ 手 づくり 田 づくり 里 づくり vol.7 ふれあい 楽 校 (がっこう) 赤 雁 (あかがり)の 里 ( 社 )JA 総 合 研 究 所 基 礎 研 究 部 客 員 研 究 員 黒 川 愼 司 1. 代 表 渡 邊 哲 朗 という 人 は 今 回 は 組 織 の 紹 介 からではなく その 組 織 を 支 える 人 へのアプローチから スタートすることとする 有 限 会 社 赤 雁 の 里 の 運 営 の 中 心 にいるのは 渡 邊 哲 朗 さん(62 歳 )だ そ の 渡 邊 ( 以 下 敬 称 略 )のパートナーが 妻 育 子 さん(59 歳 )で 2 人 の 結 婚 は 昭 和 46(1971) 年 だから 二 人 三 脚 は 今 年 で 37 年 の 年 月 が 経 過 したことにな る 渡 邊 になぜ 農 業 を 始 めたのかと 問 うと 小 泉 さんじゃぁないが 人 生 いろい ろで 一 言 では 言 えんが と 次 のような 答 えが 返 ってきた 中 学 校 の 一 年 で 父 親 が 死 亡 した このため 中 学 卒 業 の 時 には 進 学 せずに 京 都 の 企 業 に 就 職 することになっていた しかし 当 時 のことで 片 親 という 理 由 からか 採 用 が 見 合 わせになった 1 月 になっての 話 で 担 任 がいまさら 就 職 先 もないので 進 学 しろというので 急 遽 (きゅうきょ) 予 定 変 更 で 益 田 農 林 高 校 へ 入 学 した この 時 京 都 の 企 業 へ 就 職 していたら 今 の 自 分 はない このころ 我 が 家 では 8 反 の 水 田 と 2 反 の 葉 タバコという 農 業 高 校 へ 行 きながら 母 親 と2 人 で 百 姓 をやっとった 次 の 転 機 というか 選 択 が また 高 校 の 卒 業 の 時 浜 田 市 にあった 島 根 県 の 農 業 試 験 場 の 職 員 採 用 の 話 があった あの 時 県 職 員 になっとれば 今 頃 は 退 職 金 と 年 金 で 優 雅 な 老 後 だったかと 思 う しかし 家 の 農 業 のことを 考 えたら 家 を 出 て 浜 田 へ 就 職 する 訳 にはいか んと 思 って 自 営 の 道 を 選 択 した こうして 農 業 後 継 者 の 道 を 歩 み 始 めた 渡 邊 だが 昭 和 44 年 に 勤 めに 出 るこ とになる 専 業 では 食 えない との 思 いからだが この 頃 から 米 余 り 減 反 が 問 題 化 していく しかし 渡 邊 は 勤 めた 建 材 会 社 で 人 生 を 決 める 縁 を 得 る この 会 社 で 妻 となる 育 子 さんと 出 会 い 恋 愛 そして 結 婚 となる この 後 渡 邊 は 請 われ て 土 建 会 社 へと 勤 めを 変 え ここで 土 木 の 仕 事 を 学 び 昭 和 57 年 には 有 限 会 社 渡 邊 建 設 を 設 立 して 独 立 一 国 一 城 の 主 となる
農 業 も 土 建 会 社 も 同 じ 土 相 手 の 商 売 そう 思 って 会 社 を 起 こした のだが 初 年 度 は 厳 しかった 軌 道 に 乗 ったのは 昭 和 58 年 の 益 田 を 中 心 とする 水 害 の 復 興 工 事 から 被 災 者 の 方 には 申 し 訳 ないが とにかく 仕 事 があった 水 害 の 朝 道 が 寸 断 されて 車 は 無 理 歩 くしかないので 歩 いて 益 田 の 町 まで 出 た その 道 々 これは 大 変 な 災 害 で 相 当 大 きな 機 械 でないと 復 旧 工 事 に 対 応 できないと 感 じて 機 械 の 販 売 会 社 にその 日 に 重 機 を 発 注 した 会 社 も 商 売 どころではない 後 片 付 けの 真 っ 最 中 の 注 文 に 驚 いとったが 大 阪 へ 手 配 してくれて 1 週 間 あまりで 手 に 入 り この 機 械 が 大 活 躍 した 地 域 の 復 興 復 旧 のお 役 に 立 てたと 思 っている こうして 始 めた 渡 邊 建 設 は 現 在 休 業 中 だ この 地 域 の 土 建 業 は 公 共 事 業 費 の 大 幅 削 減 の 中 で のきなみ 倒 産 廃 業 へと 追 い 込 まれている そうした 環 境 下 での 休 業 だが 渡 邊 は 土 木 業 とともに 集 落 内 の 農 家 の 要 請 で 受 託 に よる 農 業 経 営 もあわせて 展 開 してきた 二 足 の 草 鞋 でやってきたが ここらで 一 休 みして 本 来 の 土 に 戻 る こととした 二 人 三 脚 の 相 手 にも 苦 労 掛 けて 来 たし まあ これからは 専 業 農 家 で 地 域 の 人 と 協 力 して 着 実 にやっていくことにした 渡 邊 の 農 業 経 営 には 妻 に 加 え 長 男 という 強 い 味 方 がいる また 孫 も 誕 生 し 現 在 は5 人 家 族 だ なお 渡 邊 夫 妻 は 島 根 県 知 事 が 認 定 する 第 1 回 ( 平 成 17 年 ) ナイスパ ートナー に 選 ばれている 夫 婦 が 協 力 して 里 づくり に 取 り 組 む 姿 が 評 価 されたものだ 2. 赤 雁 の 里 とは 赤 雁 の 里 は 有 限 会 社 として 平 成 13 年 の 2 月 1 日 に 設 立 されている この 会 社 は 農 業 生 産 法 人 の 資 格 を 有 している だから 取 材 に 訪 れる 前 は この 赤 雁 地 区 の 農 地 に 対 して 利 用 権 を 設 定 して この 有 限 会 社 が 農 業 経 営 に 取 り 組 ん でいるものと 考 えていた しかし 現 状 はそうではない ( 有 ) 赤 雁 の 里 には 農 業 ふれあい 楽 校 (がっ こう)という 冠 がついている このように 主 たる 事 業 目 的 は 近 隣 の 市 民 に 農 の 体 験 を 提 供 する 農 村 公 園 として 整 備 された この 農 村 公 園 は 平 成 13 年 3 月 に 竣 工 した 総 事 業 費 は 1 億 500 万 円 で 赤 雁 の 里 地 区 県 営 ふるさと 水 と 土 とふれあい 事 業 で 建 設 整 備 された
また あわせて 県 単 独 事 業 として 交 流 館 が 総 事 業 費 3,200 万 円 で 建 設 さ れた この 交 流 館 には 研 修 室 工 房 厨 房 やシャワー 室 トイレなどあり 宿 泊 も 食 事 も 可 能 だ この 交 流 館 の 建 設 には 地 元 負 担 金 があり 総 工 費 の 30% 近 い 900 万 円 あまりを 地 元 で 拠 出 した この 事 業 を 推 進 したのは 平 成 9 年 に 設 立 された 赤 雁 地 区 活 性 化 推 進 協 議 会 だ 赤 雁 地 区 は 益 田 市 の 市 街 地 から 車 で 20 分 あまりとわりと 近 い 場 所 にある しかし 周 囲 を 山 に 囲 まれた 30 戸 100 人 あまりが 暮 らす 典 型 的 な 山 村 集 落 だ 渡 邊 らが 中 心 となって 集 落 の 未 来 を 考 える 組 織 として 活 性 化 推 進 協 議 会 を 立 ち 上 げ その 協 議 の 中 から 生 まれたのが 農 村 公 園 の 建 設 だ 協 議 会 では 保 育 園 児 のイモ 掘 り 体 験 などの 体 験 学 習 や 地 区 外 住 民 との 交 流 活 動 を 展 開 してきたが こうした 人 と 人 との 交 流 活 動 こそが 地 域 に 新 たな 息 吹 を 呼 び 込 み 地 区 の 活 性 化 に 寄 与 すると 考 え そのための 環 境 整 備 として 事 業 導 入 を 決 定 した 貸 し 農 園 34 区 画 野 菜 花 園 が 22a 果 樹 園 14a 五 穀 田 45aが 整 備 された また 芝 生 のイベント 広 場 も 設 けた 平 成 19 年 度 この 施 設 は 1 月 の ネイチャーキッズ 炭 焼 き 漬 物 体 験 に 始 まり 農 村 歳 時 記 と 呼 ぶ 6 月 の 田 植 え 8 月 の 田 んぼ 生 物 調 査 9 月 の 稲 刈 り そして 仕 上 げの 10 月 末 の 赤 雁 の 里 収 穫 祭 などの 事 業 を 展 開 している これらの 主 催 行 事 以 外 にも 中 学 校 高 校 の 農 業 体 験 も 受 け 入 れている また 交 流 館 を 活 用 した 食 品 加 工 食 事 仕 出 し イベントへの 出 店 などの 活 動 も 展 開 している この 活 動 の 中 心 的 役 割 を 担 うのは 渡 邊 の 妻 育 子 さんだ 人 から 道 楽 かといわれるが この 施 設 を 設 けたことで 益 田 市 はもとより この 小 さな 山 の 中 の 集 落 に 県 内 外 から 体 験 や 視 察 で 人 がやって 来 ていること 食 品 加 工 を 手 掛 けることで 毎 週 月 木 の2 日 集 落 の 人 が 集 まる 場 所 と 時 間 が 集 落 内 にできたこと このようなさまざまな 交 流 を 通 じて 集 落 が 活 性 化 し たのは 事 実 だ と 渡 邊 哲 朗 は 話 す また この 公 園 整 備 には 神 話 の 里 たる 赤 雁 を 皆 で 守 ろうとの 意 味 も 込 め られている 公 園 内 にある 天 道 山 は 集 落 の 名 前 赤 雁 の 由 来 の 地 だ と いうのは この 地 には 海 の 向 こうから ちび 姫 が 赤 い 雁 に 乗 り 降 り 立 ったところが 天 道 山 で ちび 姫 は 米 麦 粟 稗 豆 の 五 穀 を 携 えてやっ てきたとの 神 話 が 残 っている この 五 穀 を 赤 雁 にもたらした ちび 姫 への 感 謝 のためにも 農 地 を 荒 らすわけにはいかないとの 強 い 思 いだ 3.ベビーリーフの 栽 培 に 渡 邊 建 設 を 休 業 した 渡 邊 哲 朗 の 日 常 は 農 業 だ 地 域 から 6ha あまりの 水 田 を 受 託 し 水 稲 経 営 に 取 り 組 む それに 6 棟 のビニールハウス 24aで ベビ
ーリーフを 栽 培 している このベビーリーフとは ホウレンソウやレタスやミ ズナなどの まさにベビー 赤 ちゃん 菜 を 出 荷 するもの これが 極 めて 順 調 で 年 間 500 万 円 あまりの 出 荷 高 となり いまや 渡 邊 農 園 の 稼 ぎ 頭 だ 渡 邊 は このように 自 分 の 経 営 それも 結 構 な 面 積 の 農 業 がありながら 集 落 を 守 る 赤 雁 の 里 の 運 営 にも 全 力 を 注 いでいる しかし その 全 力 の 注 ぎ 方 に 渡 邊 らしさ が 発 揮 されている その 渡 邊 らしさとは 遊 び 心 だ 今 年 の 田 植 えは 古 代 米 を 活 用 して 北 京 五 輪 にちなんだパンダと 五 輪 のマー クを 田 んぼに 描 き 出 した これを 田 んぼアート と 渡 邊 は 呼 び 益 田 市 民 に 稲 刈 りへの 参 加 を 呼 びかけた その 結 果 多 くの 参 加 を 得 て 好 評 のうちに 稲 刈 りを 終 了 した 赤 雁 の 里 は 設 立 されて 丸 8 年 をまもなく 迎 える こうした 施 設 は 設 立 時 分 に 比 べ 時 間 が 経 過 すれば 段 々と 利 用 が 後 退 しがちなものだ しかし 赤 雁 の 活 動 日 誌 をみると 法 事 の 仕 出 しや 会 議 用 の 昼 食 視 察 者 の 食 事 などなど 地 域 に 定 着 した 事 業 が 展 開 されている また 楽 校 という 冠 に 恥 じないア イデアあふれる 事 業 で 人 を 山 間 の 小 さな 集 落 に 呼 び 込 んでいる 渡 邊 の 農 業 経 営 の 主 軸 は ベビーリーフ だが 赤 雁 の 里 は まだ 小 学 校 の 低 学 年 児 童 今 後 健 康 で 元 気 な 中 学 生 高 校 生 成 人 になるよう 頑 張 れ 赤 雁 の 里 頑 張 れ 渡 邊 哲 朗 育 子 夫 妻 エールを 送 って このレポートを 結 ぶ 連 絡 先 益 田 市 赤 雁 町 ロ575 番 地 6 ( 有 ) 赤 雁 の 里 代 表 渡 邊 哲 朗 交 通 手 段 JR 山 陰 本 線 益 田 駅 から 車 で 20 分 あまり
写 真 (1) 渡 辺 哲 朗 育 子 夫 妻 交 流 館 前 で 写 真 (2) 赤 雁 の 里 交 流 館 食 事 宿 泊 も 可 能
写 真 (3) 貸 し 農 園 となっている 農 場 の 一 部 写 真 (4) 稲 作 体 験 を 呼 びかけるポスター
写 真 (5) 田 んぼアート 今 年 は 北 京 五 輪 にちなんで 写 真 (6) 主 要 作 物 となったベビーリーフのハウスで