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一橋大学創立 150 年史準備室ニューズレター No.2 (2016.3) 71 本稿では 鯛味噌屋二階説 を検証し 商法講習所尾張町仮校舎の姿を明らかにする 細谷新治 ( 一橋大学の前身 東京商科大学昭和 16 年卒 ) は 一橋大学学制史資料 並びに 商業教育の曙 において この 鯛味噌屋 は当初 鈴木吉兵衛の鯛味噌屋 だったこと 経営者が代わって井上竹次郎そして竹次郎の息子敬三に引き継がれ井上食料品店 5 として営業をしていたことを明らかにした 6 商法講習所の開業場所が尾張町二丁目 23 番地であるのに対し 鯛味噌屋 の番地は二丁目 22 番地であった 両者の番地は一致していない けれども細谷は 井上食料品店の経営者井上敬三の養女竹子の証言によって 番地の不一致については理由が明らかになったとした 7 こうして 鯛味噌屋二階説 は史実として定着した 竹子の証言を最初に求めたのは 尾張町仮校舎があったとされる場所の向かい 尾張町二丁目 3 番地の岩崎眼鏡店で育った岩崎利一 ( 東京商大昭和 16 年卒 ) であった しかし 岩崎並びに細谷が解決済みとした番地の不一致につき 上記細谷の分析には疑問がある 鯛味噌屋二階説 に対しては 岸田耀が最初に疑義を呈し 8 福田名津子がさらに深く分析を行った 9 福田は鯛味噌屋の開業時期を分析し 鈴木吉兵衛の鯛味噌屋 と開所時の商法講習所は時間的接点を持たないと結論づけた 福田の結論を得て 鯛味噌屋二階説 のもととなった成瀬隆蔵の証言 ( 以下 成瀬証言 と呼ぶ ) を どう解すればよいのかという問題も生じた 本稿では まず 鯛味噌屋二階説 の定着の経緯を確認したのち 番地の不一致は解決済みとした細谷の分析につき その問題点を指摘する 次に 尾張町二丁目 22 番地 23 番地及びその周辺の変遷につき 主たる対象期間を 銀座煉瓦街が建設されるころから煉瓦街が完全に消滅した 10 関東大震災の頃までにおき 時系列に沿って検証する そのうえで岩崎並びに細谷が 鯛味噌屋二階説 正当化の根拠とした井上竹子証言を分析する 最後に 成瀬証言の検討を行う 5 資料によって井上食品店もしくは井上食料品店とあるが 本稿では井上食料品店とする 6 細谷新治 一橋大学学制史資料第一巻 ( 明治 8 年 ~18 年商法講習所 ~ 東京商業学校 ) 第 5 集 )( 以下 一橋大学学制史資料 とする ) 1983 年 34 頁 細谷新治 商業教育の曙 : 明治 8 年 9 月 ~ 明治 20 年 9 月 上巻 ( 以下 商業教育の曙 とする ) 如水会学園史刊行委員会 1990 年 260-263 頁 7 細谷 商業教育の曙 262 頁 8 岸田耀 尾張町二丁目鯛味噌屋考 銀座文化研究第 8 号 1994 年 9 福田名津子 商法講習所尾張町仮校舎 鯛味噌屋 2 階説 の再検証 一橋大学附属図書館研究開発年 報第 3 号 2015 年 10 岡本哲志 銀座四百年都市空間の歴史 2006 年 90 頁

72 商法講習所と鯛味噌屋 一橋大学の源流を求めて 2. 鯛味噌屋二階説 定着の過程と問題点 2-1 成瀬証言岸田 11 並びに福田 12 が指摘するように 鯛味噌屋二階説 は 商法講習所第一回卒業生 13 成瀬隆蔵 ( 画像 2-1 ) の証言から生まれたとみてほぼ間違いないと思われる 成瀬は 尾張町仮校舎に関して 複数回発言をしている 1 大正 14(1925) 年一橋新聞インタビュー成瀬は 大正 14(1925) 年 母校創立 50 年として行われた一橋新聞のインタビューに対し 私が商法講習所 當時尾張町の鯛みそ屋か何かの二階でしたがそこに入る前は慶應に居たのです ( 略 ) と答えている 14 2 昭和 9(1934) 年實業教育今昔物語の夕 ( 画像 2-2 ) これは 実業教育五十周年記念として昭和 9(1934) 年 10 月 20 日 文相官邸において行われた催しである 松田文相を囲んだ出席者は 実業教育に縁のあった山崎農相 真野 木場両貴族院議員ら ほかに中村工大学長 農業では本多博士ら 商業として佐野商大学長 田島神戸商大学長ら 実業教育界の元老たち であった そこで成瀬は元東京高商教授として次のように話している 明治 8 年に銀座の尾張町を散歩してゐますと 鯛味噌屋の二階に商法講習所の看板が懸つてゐました これは森有禮さんが縁故者を集めてニューヨークから招いたウイツトネーといふ人に講義をさせてゐたもので私は當時慶應義塾にゐたが 半日づつ慶應と講習所とを学び較べた結果 どうもこの講習所の方がよいので 福澤先生の前で 俺と一緒に轉校するものはないかと演説したうえで轉校した この鯛味噌屋の二階の學校がやがて木挽町一丁目の森さんの邸に移され 今日の一ツ橋商科大學の前身をなしたのですが この講習所の経営には白河楽翁が江戸町民に積み立てさせた金を使ひ銀座の煉 15 16 瓦地もこの積立金で造つたのであります 17 11 岸田 尾張町二丁目鯛味噌屋考 12 福田 商法講習所尾張町仮校舎 鯛味噌屋 2 階説 の再検証 13 商法講習所第 1 回の卒業生は 成瀬隆蔵と森島修太郎の 2 名であった 14 大正 14 年 6 月 5 日付一橋新聞 1925 年 15 明治 11 年生まれの鏑木清方によれば 今の銀座通りは 明治には歩道に煉瓦を敷いてあったので 煉瓦通りとも ただ煉瓦とも呼んでいた 煉瓦をひとまわりして来よう などという言葉は 銀ブラしようよ の明治語である という 鏑木清方 明治の東京語 1935 年 鏑木清方著 山田肇編 随筆集明治の東京 岩波文庫 200 頁 大正 3 年生まれの池田弥三郎は 銀座という町名ができたのは 明治二年のことだが いわゆる銀座八丁にわたる 繁華街としての銀座のことは 銀座と呼ぶ前は 煉瓦地 または単に 煉瓦 と呼んでいた と書いている 池田弥三郎 銀座十二章 42 頁 なお 東京都公文書館に所蔵されている当時の書類には煉化の字が使われている 16 七分積金で煉瓦街が建設されたというのは事実ではない 煉瓦街が完成していくにつれ空屋が増加し 種々方策を打った挙句に明治 11(1878) 年 3 月楠本正隆東京府知事が空屋対策費の一部に公債証書 ( 旧町会所七分積金をひきついだ会議所の共有金 ) を充てる案を内務卿大久保利通 大蔵卿大隈重信あてに建言し それが取り上げられた 銀座煉瓦街の建設 1955 年 186-190 頁 17 鯛味噌屋の二階で産聲あげた商大實業教育今昔物語の夕 東京朝日新聞昭和 9(1934) 年 10 月 21 日

一橋大学創立 150 年史準備室ニューズレター No.2 (2016.3) 73 3 昭和 10(1935) 年如水会会報での回顧談 18 昭和 10(1935) 年に行われた如水会会報での成瀬長老回顧談では ( 略 ) 偶々銀座通りを通ると銀座四丁目鯛味噌屋の脇に入り口があり それを昇ると二階に出ます その二階が商法講習所になつてをるので 商法講習所 の看板が入り口にあります ( 中略 ) 一體講習所は木挽町十丁目の森有禮氏の自宅に設けるつもりでありましたが 有禮氏が自分の宅をその用に充てる為に永田町に 自分の邸宅を設け これに移り まづ以てそれを教師館とし その裏に教師館を新築しつつあつたのです その間 教師館の一室で縁故者十数名に商業教育を始めたのでありますが 段々人も殖えると同時に ウイツトネーは新館に移り舊館を校舎に充てる準備の為に暫時鯛味噌屋の二階に設けてもらつたものであります ( 略 ) とある これら成瀬証言から 鯛味噌屋二階説 は誕生した しかしこれは 先輩から後輩へ語り継がれたものの 正確な場所は長い間誰も知らなかったようだ 19 2-2 商法講習所記念碑建立昭和 50(1975) 年の一橋大学創立百年が近づいた昭和 47(1972) 年 吉田保 ( 東京商大昭和 18 年卒 ) が 如水会々報へ下記の内容を投稿した 吉田は 銀座の住人でもあり 20 商法講習所の場所を調べようと思い立つ 京橋図書館に出かけたところ それはあっさり判明した 銀座松坂屋カフェ ド パリの場所あたりである 吉田は 創立百年も近いことだし 正式に確認をしてもらったうえで記念碑でも建ててはどうかという提案をする 21 これを受けて まず 如水会理事会がすばやく対応をした 同年 9 月 如水会 9 月定例理事会において 一橋大学発祥の地に記念碑を建設することが決議され 22 場所銀座松坂屋カフェ ド パリ明治 8 年商法講習所が開講された鯛味噌屋は上記であることが資料で確認されたので同地に記念碑を建設すること 常務理事会に一任のことに決定 した 23 昭和 48(1973) 年 1 月には 加藤彌兵衛 ( 明治 39 年東京高等商業学校本科卒 ) が 鯛みそ屋 精神にかえれ 近づく母校創立百年にあたって と題して 後輩を激励する一文 18 成瀬長老回顧談 如水会会報第 140 号 ( 昭和 10 年 7 月 ) 1935 年 19 吉田保 ( 昭和 18 学 ) 一橋大学発祥の地 は銀座の松坂屋? 如水会々報第 506 号 1972 年 なお 増田四郎 ( 昭和 7 学 ) は一橋論叢第 34 巻第 4 号 ( 一橋大学創立八十周年記念号 )1955 年の編集後記において 鯛めし屋の二階に濫觴を発し と記している 20 吉田保は銀座二丁目の銀座吉田株式会社の社長であり 銀座に住んでいた 如水会会員名簿昭和 41 42 年版 21 前掲吉田 一橋大学発祥の地 は銀座の松坂屋? なお このとき吉田が京橋図書館で読んだ都史紀要 8 商法講習所 では 商法講習所の校地として会議所から提供された木挽町八丁目でただちに開業できなかったので とりあえず尾張町二丁目のタイミソ屋で仮開業となった としている 同書 47 頁 22 如水会理事会 9 月定例理事会第 3 号議案 23 如水会々報第 511 号 1972 年

74 商法講習所と鯛味噌屋 一橋大学の源流を求めて を如水会会報に寄せた 24 記念碑建立のため 鯛みそ会 も発足した 25 こうした盛り上がりの中 その鯛味噌屋を知っているという卒業生が現れた 先述した岩崎利一である 26 岩崎は商法講習所創立の地とされるところの 道をはさんで反対側の岩崎眼鏡店 27 ( 画像 2-3 ) で育ち 岩崎眼鏡の社長をしていた 商法講習所創立の地については長く気付かなかったという しかし 幼いころの記憶に 近所で たいみそやさん と呼ばれていた井上食料品店があったことを思い出した こうして 一橋大学創立百周年記念事業の一つとして 昭和 51(1976) 年 11 月 14 日朝 東京 銀座松坂屋前に商法講習所記念碑が出現した 28 ( 画像 2-4 ) 記念碑については 新聞でも報じられた ( 画像 2-5 ) 2-3 岩崎の疑問 井上竹子の証言 細谷の分析如水会会報第 561 号では 記念碑建立の報告とともに 岩崎の 記念碑出現 という文章が掲載されている 商法講習所に関する諸記録が ( 略 ) 仮開業の場所を尾張町二丁目二十三番地としているのに 私はいささか腑に落ちないものを感じていた それは 仮開業が鯛味噌屋の二階で行われたならば その建物は 私の家から見て真向いよりも幾分新橋寄りでなければならないのに 二十三番地は真向いを含めて幾分京橋寄りの地所になるからである つまり 岩崎の記憶にある井上食料品店と 商法講習所仮開業の場所であったはずの尾張町二丁目 23 番地とがどうもずれているのだ そこで岩崎は 井上食料品店の経営者井上敬三の養女竹子に問い合わせる そこで 事情が判明した 井上( 鯛味噌屋 ) さんは 尾張町二丁目二十二番地と二十三番地の両方にまたがっていたので 地主さんも二人だったが 井上さんでは 一般に二十二番地という住所にしておられた しかし 二十二 二十三の両番地を併記した記憶もあるとのことだった これを知った岩崎はようやく安堵した 29 一橋大学教授の細谷新治は 東京府府立一中より岩崎利一と同窓同期で ともに東京商大 24 加藤彌兵衛 鯛みそ屋 精神にかえれ - 近づく母校創立百年にあたって 如水会々報第 513 号 1973 年 25 徳田吉男 鯛みそ会 一橋大学発祥の地 記念碑建立について 如水会々報第 515 号 1973 年 26 岩崎利一 鯛味噌屋さん 如水会々報第 517 号 1973 年 当時の銀座の商家は 店舗をかねた住宅に家族で住んでいるのが普通だった 塚原康子 明治末期の京橋区の音楽空間 明治四十一年東京市市勢調査職業別現在人口表 浅草区 日本橋区 京橋区の比較から 銀座文化研究 第 9 号 2006 年 51 頁 27 細谷 商業教育の曙 262 頁では 岩崎氏の祖父喜三郎氏は 明治 28 年 日本橋の眼鏡店 ( 屋号は鶴屋 ) を銀座に移して開業した とある 筆者の調べたところ 日本橋区室町三丁目 11 で眼鏡商を営んでいた岩崎喜三郎 ( 東京諸営業員録 1894 年 72 頁 ) は 明治 31 年 4 月 京橋区長より度量器販売許可免許を受け尾張町二丁目 3 番地に開業をしている 東京都公文書館蔵文書類纂第一種農工商度量衡第一 28 如水会事務局 商法講習所開設の地に記念碑 一橋創立百周年記念事業の一つとして東京 銀 座松坂屋前に竣工 如水会々報第 561 号 1977 年 29 岩崎利一 記念碑出現 如水会々報第 561 号 1977 年

一橋大学創立 150 年史準備室ニューズレター No.2 (2016.3) 75 予科に進学した間柄であった 一橋大学学制史資料 執筆に当たり 細谷は岩崎の紹介により 30 井上竹子に会い より詳しく話を聞いている 竹子の言うには 二十二番の地主は楠田男爵という方で執事がとりにきていた 二十三番地の地主は栂尾さんといって八官町の米屋さんだった 父は二十二番地をふだん使っていたが 二十二 二十三番地の両番地を併記していた記憶もある とのことである 細谷はこの竹子の証言をもって 23 番地の商法講習所と 22 番地の鯛味噌屋の番地の不一致は克服されたとした 31 これをもって 鯛味噌屋二階説 は史実となった 32 さらに細谷は 銀座六丁目小史 も参照している そこには 井上食料品店について 大正期には 隣の漬物屋を買収して増築 その店舗は 23 番地にまたがる広い間口をもっていた と記載されている 33 そして 後述する 東京京橋区銀座附近戸別一覧図 ( 明治 35 年 以下 戸別一覧図 と呼ぶ ) 井上竹子証言 銀座六丁目小史 を総合して 井上食料品店について 漬物屋の一松鎌太郎は のちに楠田男爵に二十二番地第二戸を売り また木村恒吉は 八官町の栂尾に二十三番地第一戸を売り 井上竹次郎が楠田と栂尾からこの二軒を借りて 京橋寄りに店を拡張したということになるのであろう としている 34 2-4 細谷の分析の問題点ところが筆者が見たところ細谷の分析には 問題がある まず鯛味噌屋の開業時期につき 検討していない これは福田名津子がすでに分析を行った 35 同じく 井上竹子証言の示す内容の時期について検討をしていない 明治 45 年生ま 36 れの竹子が承知している内容であり 二人の地主の話は大正から昭和初めの事柄である可能性があるが 尾張町仮校舎開校当時 すなわち井上食料品店が出現するはるか前からその店の立地する地所には地主がふたりいたということが確認されなければ 竹子のいう内容 30 細谷新治 解題 注 (29) 一橋大学学制史資料 34 頁 31 細谷 商業教育の曙 262 頁 32 鯛味噌屋二階説 についてはそれまでも書かれてきた 明治 8 年 8 月 彼 ( 引用者注 : 森有禮 ) ママは 京橋区尾張町の一練瓦屋 鯛味噌屋 の二階を假りて 此處で卑近の商業教育を講ずる事とし名附けて商法講習所と呼んだ 酒井龍男編 一橋五十年史 東京商科大學一橋會 1925 年 4 頁 日本最初の商業教育はその初め尾張町の鯛味噌屋の二階を借り受けて假校舎に当てたと伝えられる ( 一橋専門部 教員養成所史編纂委員會編 一橋専門部 教員養成所史 一橋専門部 教員養成所史編纂委員會 1951 年 5 頁 ) など 一橋大学学園史編纂事業委員会編 一橋大学学園史資料商法講習所時代 一橋大学学園史編纂事業委員会 1983 年 4 頁 ( 渋沢輝二執筆 ) では ホイットニー氏が近く横浜に到着することが明らかとなったにもかかわらず 受入れの日本側ではまだ校舎 教師宿舎すら整っておらず 結局 銀座の鯛みそ屋を仮校舎として開校する有様であった としている 石井研堂 明治事物起原 では 商法講習所は明治 8 年 8 月に米国より聘したホイットニーの役宅で開始したのちに銀座竹川町の鯛味噌屋の二階に移ったとする 石井研堂 高等商業学校の始 明治事物起原 ちくま学芸文庫第 4 巻 101 頁 鯛味噌屋二階説につき その根拠を示して書いたのは 管見のかぎりにおいて細谷が初めてである 33 銀座六丁目町会編 銀座六丁目小史 銀座六丁目町会 1983 年 32 頁 34 細谷 商業教育の曙 262-263 頁 35 福田 商法講習所尾張町仮校舎 鯛味噌屋 2 階説 の再検証 36 細谷 商業教育の曙 262 頁

76 商法講習所と鯛味噌屋 一橋大学の源流を求めて は尾張町仮校舎とは関係がない また 竹子は楠田と栂尾という二人の地主について話しているのにもかかわらず 細谷は 井上竹次郎が楠田と栂尾からこの二軒を借り と 楠田 栂尾両名が家主であるという解釈をしており 地所と家屋との混同が見られ竹子証言と整合しない さらに 細谷が参照した 銀座六丁目小史 の記述は 井上食料品店につき 大正期には ( 略 )23 番地にまたがる広い間口をもっていた としているが これも大正期の出来事であるならば尾張町仮校舎とは関係がない すなわち井上竹子証言をもって 番地の不一致について理由が明確になったとはいえない 3. 明治から関東大震災頃までの尾張町二丁目 20 番地から 25 番地の住人の変遷 3-1 尾張町の町名と銀座煉瓦街銀座通りは南北方向に対しおよそ 45 度の傾きをもっている ( 画像 3-1 ) 本稿では以下において 特に断りのない限り銀座通りを水平に ( すなわち南北方向には約 45 度の傾きをもち ) 右側が新橋方向 左側が京橋方向になるようにして地図 細見図 模式図等を使用する また 尾張町二丁目が銀座六丁目となったのが昭和 5(1930) 年であるため 同年以前の事象については 特に断りのない限り銀座通りは大通りという名称を使う 尾張町は 江戸時代以来の由緒ある地名である 徳川幕府が各大名に命じて この地の埋め立てのための人夫を出させた 37 ここは尾張の国の人夫が埋め立てたために尾張町の名がついた 出雲町等も同様である ( 画像 3-1 参照) 38 銀座煉瓦街建設の直接の契機となったのは 明治 5 年 (1872) 年 2 月 26 日の大火である 外国と直接つながる横浜と新橋との交通の便のために 明治 3 年から始まっていたわが国で初めての鉄道工事は 完成に向けて最後の追い込みの段階であった 銀座は新橋駅の正面であり 外国人の住む居留地築地 江戸時代から続く東京一の繁華街日本橋と通じていた その頃の銀座は 京橋 日本橋と違って小商人や職人の暮らすみすぼらしい町だった 明治政府にとっては 一刻も早く改造しなくてはならない町だった銀座一帯が大火によって広く焼けたため これを好機ととらえた 防火機能を持たせること 街並みを整え先進諸外国に認めてもらい条約改正を有利に進めること これらのために 銀座煉瓦街が建設された 39 37 徳川家康が江戸に入った当時は日比谷の入り江まで海であり海上には一 二の砂州しかなかった 慶長 8 年 天下の諸侯に命じて諸大名の領国千石毎に人夫一人を出さしめ神田山の土を取り日本橋区浜町あたりから南に八丁堀 南傳馬町あたり銀座通りあたりまで埋め立てをさせた 石川庄平編 京橋繁昌記 ( 一名京橋区沿革史 ) 4 頁 1912 年 千石につきひとりの人夫であったことから千石夫という 内藤昌 江戸と江戸城 講談社学術文庫 51 頁 なお 千石夫は 当代記 慶長見聞録案紙 慶長年録 では千石にひとりずつだが 吉川家譜 御手伝覚書 毛利氏四代実録 などによると千石に十人となっているという 同書 238 頁 38 太陽暦の採用により明治 5 年 12 月 3 日が明治 6 年 1 月 1 日となっている 明治 5 年 2 月 26 日の大火は 太陽暦では 1872 年 4 月 3 日である 39 煉瓦街の建設は政府によって強引に進められた しかし 空き家の続出によって建設費がまかなえなくなり当初の計画は縮小を重ね 京橋から新橋にかけての大通とその周辺だけで中止となった初田亨 図説東京東京都市と建築の一三〇年 河出書房新社 2007 年 20-21 頁

一橋大学創立 150 年史準備室ニューズレター No.2 (2016.3) 77 煉瓦街はミニ ロンドン ミニ パリ風の 別世界 ( 明治 7 年 1 月 1 日東京日日新聞 ) にできあがり 40 すでに明治 5 年 9 月に開通した鉄道により横浜とつながっていた 銀座は 文明開化の洗礼をまっさきに受ける地となった 41 3-2 尾張町二丁目 22 23 番地一帯の地所と建物煉瓦街の建設に当たっては まず大通りの道路の拡幅が行われ その結果 大通りは田舎間十五間 ( 約 27.3 メートル ) となった 42 尾張町二丁目 22 23 番地を含む地所については 道路の拡幅の結果 各番地の間口は 20 番地 8 間 3 尺 3 寸 21 番地 6 間 5 寸 22 番地 4 間 3 寸 23 番地 5 間 3 尺 1 寸 24 番地 4 間 3 尺 25 番地 5 間 3 尺 3 寸となった 地所の奥行きはおよそ 20 間である ( 図表 3-1 ) 図表 3-1 尾張町二丁目 20~25 番地の土地 至京橋大通り至新橋 ママ出所 ) 京橋已南道路改正民地買上ヶ官地拂下ヶ一筆限實測繪圖面 ( 東京都公文書館蔵 ) より作成 明治 9 年 11 年の尾張町二丁目 20 番地から 25 番地までの地主は 図表 3-2 のとおりである 図表 3-2 明治 9 年 11 年の尾張町二丁目 20 25 番地の地主 25 番地 24 番地 23 番地 22 番地 21 番地 20 番地 明治 9 年 ( 25 番地 スルガ丁四 中ノ口元 西京カマサ 横ハマ住吉 スルガ丁五丁三 の記載な 丁三井次良 マチ中川 嶌田八良右 丁西川小兵 井八良右ェ門 し ) 右ェ門 八重 ェ門 ェ 11 年山岸民二 山岸民二良中川八重三橋清五良楠田英世三井八良右ェ門 良 出所 ) 明治 9 年 地主名鑑 明治 11 年 東京地主案内 より筆者作成 40 小木新造 東亰時代江戸と東京の間で 講談社学術文庫 2006 年 46 頁 41 塚原康子 明治末期の京橋区の音楽空間 明治四十一年東京市市勢調査職業別現在人口表 浅草区 日本橋区 京橋区の比較から 銀座文化研究 第 9 号 2006 年 50 頁 42 岡本哲志 銀座四百年都市空間の歴史 講談社 2006 年 108-109 頁

78 商法講習所と鯛味噌屋 一橋大学の源流を求めて 煉瓦街の家屋の建設は 面している道幅に応じて一等 二等 三等と等級分けされた 大 通りに面しているところは一等家屋 43 である また それぞれの店を街区ごとに横に連ねて 一棟とし 壁一枚で隔てられる連屋方式とされた 44 ( 画像 3-2 ) それぞれの店のつくり アーケードは煉瓦造とし 前面に煉瓦造の円柱で造られた歩廊を張り出す 煉瓦をむき出しにはせず 表面にスタッコという西洋漆喰を塗り 白もしくはクリーム色であった 45 江戸東京博物館の銀座煉瓦街の模型は 明治 10 年代末の設定で制作されている 46 模型 で作られた連屋のアーケードの屋根部分には 手すりや隣との仕切りがつけられ ヴェラン ダのようになっていることに注意する必要がある 47 煉瓦街初期の頃を描いた小林永濯の絵 ( 画像 3-3 ) 48 では アーケードの屋根には 江戸東京博物館の模型に見られるような手 すりや隣の家屋とのあいだの仕切りが存在しない 初期の煉瓦街の連屋では アーケードの 屋根部分はヴェランダではなかった 49 尾張町二丁目 20 番地から 23 番地までの連屋の間口は 20 番地第一戸 同第二戸がそれ 43 当初の計画では一等煉瓦家屋は三階建てであったが 二階建てに変更された 野口孝一 銀座物語煉瓦街を探訪する 中公新書 1997 年 45 頁 44 藤森照信 明治の東京計画 岩波現代文庫 2004 年 15-16 頁 当時の人々はこの建築様式を何と呼んでいたか 明治 21 年日本橋生まれの仲田定之助は 例の明治式煉瓦造二階建ての長屋 と書いている 仲田定之助 明治商売往来続 (1970 年刊 ) ちくま学芸文庫 2004 年 316 頁 本稿では 連屋 とする 45 藤森照信 銀座煉瓦街計画文明開化の街造り 藤森照信 熊田英企 林丈二 林節子 復元文明開化の銀座煉瓦街 ユーシープランニング 1994 年 7 頁 46 復元 銀座の街並み 藤森照信 熊田英企 林丈二 林節子著 復元文明開化の銀座煉瓦街 1994 年 15 頁 47 森まゆみ 銀座 煉瓦街に時計台の鐘が響いた では煉瓦街について 円柱にバルコニーの付いた西洋風の町並み で 七 八軒がつながった 二階建てタウンハウスのよう としている 江戸東京博物館の模型か 明治十年代末以降に撮影された写真を見て書かれたものであろう 森まゆみ むかしまち地名事典 大和書房 2013 年 31 頁 バルコニーとヴェランダ ( ベランダ ) の違いについては バルコニーは [ 西洋建築で ] 特定の一間の室外に張り出した 手すりのついた台 ベランダは [ 西洋建築で ] 庭園などに面している側の部屋一帯の外側に張り出すように作った広縁 [ 大抵 ひさしが有る ] ヴェランダ という 金田一京助他編 新明解国語辞典 第五版 三省堂 2002 年 48 木村荘八はこの絵は 製作年代も画題もわからないがこのまま木版に彫り起そうとした板下絵 板元の意向でこの絵柄では市販に向かないと見て 板に起こさずに板下絵のまま残ったものではなかったかと推定している 木村荘八 銀座界隈 134 頁 筆者は 平成 28(2016) 年 3 月 5 日 偶々訪れた練馬区立美術館 国芳イズム 歌川国芳とその系脈武蔵野の洋画家悳俊彦コレクション 展において この絵を実見した 展示番号 181 小林泳濯東京名所図会画稿全 46 図明治 5-10(1872-1877) 頃銀座樓上ヨリ向フ側ヲ望ム図 と題されていた なお同展の図録を兼ねた悳俊彦 加藤陽介監修 国芳イズム 歌川国芳とその系脈武蔵野の洋画家悳俊彦コレクション 青幻社 2016 年には東京名所図会画稿として別の絵が収録されている 同書 169 頁 49 銀座煉瓦街のモデルは シンガポールなど東南アジアにつながる植民地都市のスタイルなのか ロンドンの目抜き通りだったのかという議論があった 藤森照信は 煉瓦街の歩廊の造りがポイントであるとする すなわち 東南アジア系の場合は 歩行者に供されるのは一階部分だけだが二階以上も同様に張り出し 居住者用のヴェランダ空間として使われる 熱帯では日差しを防ぎ通風を得るためにヴェランダが発達した それが一階では歩廊として 二階以上ではヴェランダとして働く 一方 気候が冷涼なロンドンではヴェランダは不要で 歩廊だけがつけられた 銀座煉瓦街は 昔の写真が示すように一階部分だけの純粋な歩廊となっており ロンドンのリージェント ストリートの系統だと結論付ける 藤森照信 銀座の都市意匠と建築家たち 11-12 頁 今和次郎 前田健二郎 山脇巌 道子 山口文象 銀座モダンと都市意匠 資生堂企業文化部 1993 年

一橋大学創立 150 年史準備室ニューズレター No.2 (2016.3) 79 ぞれ二間半 21 番地第一戸が五間 22 番地第一戸 同第二戸がそれぞれ三間 23 番地第一戸が五間であった 奥行きはいずれも五間だが 道路際の一間はアーケードとして提供されていた ( 図表 3-3 ) 一等煉瓦家屋の一階の階高は 2 間 2 尺 二階の階高は 1 間 4 尺であった 50 完成した街並みを 当時の人々は 近傍屋宇ノ壮麗ナル各二層ノ高樓ニシテ煉瓦以テ営築ス蘶々輪奐ノ美ナル實ニ人目ヲ驚ス 51 と驚きをもって受け止めた 図表 3-3 尾張町二丁目 20 番地から 23 番地までの六連の連屋 至京橋大通り至新橋 出所 ) 一等煉化拂下書類 ( 東京都公文書館蔵 ) より作成 ところで 銀座煉瓦街には連屋と地所との間に特殊な事情が存在した 連屋家屋は 景観上の配慮やアーケードの必然性から間口が標準化されていたため 土地筆界と家屋境界 連屋界壁の位置は一致していない 52 ( 図表 3-4 ) 図表 3-4 尾張町二丁目 20 番地から 23 番地の地所と連屋 至京橋大通り至新橋 ママ出所 ) 京橋已南道路改正民地買上ヶ官地拂下ヶ一筆限實測繪圖面 一等煉化拂下書類 ( いずれも東 京都公文書館蔵 ) より作成 50 藤森照信 明治の東京計画 岩波現代文庫 図 8-1 51 佐野元恭 和漢対照挿画明治新用文大成 吉岡寶文軒 1881 年 巍蘶は山が高く大きいさま 奐 は大きく盛んな意で 輪奐は社寺その他の建物が 広大で壮麗であること 尚学図書編 現代漢語例解辞典 小学館 1992 年 52 田中公敏 安藤正雄 銀座煉瓦街の連屋家屋における権利関係と変容過程に関する研究 日本建築学 会大会講演梗概集 ( 東北 )2000 年 104 頁

80 商法講習所と鯛味噌屋 一橋大学の源流を求めて 連屋の内部に 二階に上がる階段があった ( 画像 3-4 ) 年数の経過とともに 各戸で下屋を増築するようになった ( 画像 3-5 ) 煉瓦造の街のはずであったが 建て増しは木造でおこなわれていた 53 煉瓦街建設後間もないころの尾張町 2 丁目東側を新橋方向から撮影した写真がある ( 画像 3-6 ) 明治 7(1874) 年 12 月に点灯したガス燈が写っていないので それよりも前の写真である 連屋のアーケードの屋根部分は ヴェランダではない 右側手前が尾張町二丁 54 目 14 番地から 19 番地までの 8 連の連屋 路地をはさんで 20 番地から 23 番地までの 6 連の連屋 そのむこうが 24 番地 25 番地の 連屋でない建物一棟である これは明治 6 年竣功 間口は 9 間であった 55 煉瓦街では 建設費が自弁できるものは 自築か自費官築が認められた 前者は 建主が設計と施工を出入りの棟梁などに頼み 建築局のチェックを受ける 後者は 設計と施工を建築局に依頼するが 建主の意向を加えることができるというものである 56 煉瓦家屋の払下げは 明治 6 年から開始した 建築費の三分の一を上納金として納めねばならず 当時としてはきわめて高額であり 上納金を用意できる人は限られていた 煉瓦街 57 の空屋問題も大きく 支払方法は数次にわたって緩和された 58 入居はしたものの結局資金が用意できず 譲替願 が多く出された 59 尾張町二丁目 20 番地から 23 番地までの 6 連の連屋の名義人の氏名は 図表 3-5 のとおりである ここでも返納が発生している 53 熊田英企 街並み 建物 商店明治 10 年代末の銀座通り 藤森照信 熊田英企 林丈二 林節子 復元文明開化の銀座煉瓦街 13 頁 54 この路地は 大通りで最も幅が広かった 野口孝一編著 明治の銀座職人話 166 頁 55 藤森照信 明治の東京計画 岩波現代文庫 図 5 56 藤森照信 明治の東京計画 岩波現代文庫 24 頁 57 一等煉瓦はさすがにほぼ埋まったが 大通り以外のところに空屋が多かった 明治 5 年の大火の罹災者は経済状況が厳しく 居住希望があっても資金を用意できなかった 洋風化 を喜ばぬ人たちが流言をとばしたり 完工した家屋に発生した雨漏りが言いふらされたりもした 空屋を香具師に貸し出して見世物興業を許可する等 当局は対応に苦しんだ 銀座煉瓦街の建設 171-176 頁 58 一等煉瓦の場合 明治 6 年 6 月ごろは一坪 75 円と見積もり 全建築費の三分の一は上納金という名目で即時許可あり次第納めること 残り三分の二は当初七年年賦 のち十年年賦とされ 利息は年六分と定められた 一等煉瓦で坪 75 円という価格は のちに坪 63 円となった 7 年 12 月には 一時納入の分割金は許可があって家屋が引き渡されてから 13 か月目限りで納入することになった 8 年 11 月には 三分の一の分割金を 13 か月目までに必ず納め 残り三分の二は 20 年年賦 利息は年六分とした 分割金を納入する時期が来ても納められない場合は 家屋を返納し 総費用の百分の一に当たる金額を一か月分の家賃として納める 年賦返済形式であっても居住後の家屋修理等は一切自費とするなどと定められた 10 年 2 月には身元金は経費の二十分の一 残りは百五十か月年賦となった 銀座煉瓦街の建設 139-140 頁 170-190 頁 59 譲替願 払下願 を調べた野口孝一によれば いったん入手した家屋を手放さなければならなくなった理由として 開業以来発病 し収入の道が閉ざされた 商業向差支 商業手違ノ儀出来 商売多分損毛仕 商法見込違之廉 など商売上の挫折 親類共義即納金迄融通致呉約定ニ御座候処無余儀次第ニ而 という金融上の理由が多いという 野口孝一 銀座煉瓦街の建設と地主ならびに家屋所有者の状況 東京都立大学都市研究センター編 東京成長と計画 1868-1988 東京都立大学都市研究センター 1988 年 61 頁

一橋大学創立 150 年史準備室ニューズレター No.2 (2016.3) 81 図表 3-5 連屋の名義人 23 番地 22 番地 22 番地 21 番地 20 番地 20 番地 第一戸 第二戸 第一戸 第一戸 第二戸 第一戸 6 年 10 月払 6 年 10 月払 7 年 8 月払下 6 年 10 月払 7 年 4 月払下 6 年 1 月払下 下植田楽 下植田楽 岩松源三郎 9 下林又四 勝浦利兵衛 8 年 前藤左市 7 斎 7 年 9 月 斎 7 年 9 月 年 4 月返納 郎 9 年 11 月 5 月譲替八代 年 3 月譲替 譲替天野 譲替天野 9 年 8 月再払 譲替白石 謹之助 10 年 8 月 八代庫蔵 8 康一 8 年 4 康一 8 年 4 下岡田傳 虎吉 返納 10 年 10 月 年 3 月譲替 月譲替萩 月譲替萩 次郎 12 年 9 入札払下青木 岸田吟香 9 原友久 8 年 原友久 8 年 月譲替井 久七 10 年 11 月 年 7 月譲替 5 月譲替森 5 月譲替森 上竹二郎 14 譲替杉田伊之 落合セン 有禮 有禮 年 5 月譲替 助 18 年 3 月譲 鈴木虎太郎 替渡辺ヤス 出所 ) 煉化家屋拂下月賦金取立簿 ( 東京都公文書館蔵 ) より筆者作成 3-3 住人たちの変遷ここから 大通りに面した 24 25 番地の建物と 20~23 番地の連屋の住人の活動を順に見ていくこととする 当時の様子を知るために 明治銀けつ 60 帖 ( 画像 3-7 ) と平田勇太郎作成 東京亰橋区銀座附近戸別一覧圖 ( 平田勇美堂 1902 年 )( 以下 戸別一覧図 と呼ぶ )( 画像 3-8 ) 野口孝一編著 明治の銀座職人話 交詢社編 日本紳士録 ほか各種人名録等を使用する 明治銀けつ帖 は 新橋から尾張町二丁目までの銀座通りの両側を描いた細見図である 浪花商業新聞 の附図ということだが 詳細はわからない 61 筆者は京橋図書館で現物を実見したが 同館では複写 撮影は禁止されているため 本稿では赤岩州五編著 原田弘 井口悦男監修 銀座歴史散歩地図明治 大正 昭和 ( 草思社 2015 年 ) 掲載のものを使用する 明治銀けつ帖 の刊行年は記されていない 赤岩編著の同書 40 頁では 千疋屋 ( 明治 27 年暮れ開業 ) があり 博品館 ( 明治 32 年 10 月開業 ) がないところから 30 年前後の地図と推定している 筆者は 後述するように尾張町二丁目 21 番地が あき家 となっているところから 作成は明治 29 年と考える 戸別一覧図 は 明治 33 年 6 月 1 日に測量が着手され 35 年 6 月 30 日に戸別調査が済み 出版された 62 銀座全域の居住者の氏名 職業 店名 電話番号 商売内容等が詳細 60 けつ の文字は 虧 である 本稿ではひらがなを使う 61 尾崎俶美 銀座の書誌その 1 銀座文化研究 第 1 号 1986 年 62-63 頁 62 読売新聞 1978 年 1 月 29 日付 銀座物語 16 地図 なお 本稿では讀賣新聞 読売新聞は 読売新

82 商法講習所と鯛味噌屋 一橋大学の源流を求めて に記載されている 明治の銀座を知るうえで欠かすことができないとされている 63 野口孝一編著 明治の銀座職人話 64 つづらは 明治 31 年生まれの彌左衛門町の葛籠屋 秋田屋 五代目浅野喜一郎が晩年追想した銀座についての克明なメモを 中央区史の執筆等にたず さわった野口孝一が追記 編集したものである おおむね明治 36 7 年から大正初年ごろま での街の様子がつづられている 65 本稿がこれからその変遷を検証する尾張町二丁目の角は 明治の銀座職人話 の浅野に とって 銀座の街並みでも私の幼い頃の思い出に強く残る街角であった という 66 1 煉瓦家屋完成後明治 10 年頃までの住人 ( 図表 3-6 ) 図表 3-6 煉瓦家屋完成から明治 10 年ごろまでの住人 出所 ) 筆者作成 大通りの一等煉瓦家屋が完成したのは明治 6(1873) 年 11 月であった 67 明治 7(1874) 年 12 月 芝の金杉橋から京橋までガス燈がついた 新橋京橋間は 90 尺毎に 1 基 計 49 基が設置された 煉瓦街の建設工事中のことであり ガス燈は目に見える文明開化のシンボルとして歓迎された 68 足元しか照らさない提灯が頼りだった 69 日本人の 夜の外での生活が一変した 70 明治 10(1877) 年 5 月 二 三等煉瓦家屋も含めようやく煉瓦街全体が完成した 聞 に統一する 63 前掲尾崎 銀座の書誌その 1 63 頁 64 野口孝一編著 明治の銀座職人話 青蛙房 初版 1983 年 新装版 2012 年 本稿での引用は 新装版による 65 同書 1-2 頁 66 同書 164 頁 67 野口孝一 銀座煉瓦街の建設と地主ならびに家屋所有者の状況 53 頁 68 わが国のガス燈第一号は 明治 5(1872) 年横浜につけられた 三枝進 煉瓦地の雑記帳 19 銀座ガス燈余話 1 銀座文化研究 第 9 号 2006 年 57 頁 69 それでも大多数の日本人は提灯を使う生活が続いた 芝居好きだった鏑木清方の回想では 芝居が開 はねくのは朝の九時か十時で大概の芝居は夕方までに終るが 夜になることもあり そのときは茶屋でくれる かし 貸提灯 安い小田原提灯へ茶屋の名の記してあるのをつけて帰ったという 鏑木清方 芝居昔ばなし 1925 年 随筆集明治の東京 岩波文庫 192 頁 明治 31 年の東京経済雑誌の記事には 二十年前までは 料理屋で客の帰る時には 必ず家の名前を書いた 粗末な小田原提燈をくれたものだった と書かれている 店からすれば広告で 客は散財してきたことの自慢で提げて帰ったが 鉛筆ほどの太さで二寸ほどの蝋燭であり火袋が狭かったので途中で尽きるか 風でも吹いて傾けば途端に火がついて燃え尽きてしまうかどちらかのことが多かった 近頃は街路が明るくなり 人力車で帰る人も多くなり この提燈もすたれ 向島の料理屋などでかろうじて風習として残っていたという 森銑三 明治東京逸聞史 1 1969 年 328 頁 70 湯本豪一 明治もののはじまり事典 2005 年 122 頁

一橋大学創立 150 年史準備室ニューズレター No.2 (2016.3) 83 71 このころはまだ人通りも多くなく 一等煉瓦を除けば空き家も出ていた 72 20 番地第一戸第二戸 21 番地第一戸 22 番地第一戸第二戸この時期の住人については 不明である 23 番地第一戸明治 8(1875) 年 9 月 24 日 23 番地に商法講習所尾張町仮校舎が開校した 73 23 番地第一戸の二階であり このときの一階の入居者は不明である 74 最初の講師として 米国人のホイットニーが雇用された 東京府の 府下居住各國人明細表 におけるダブリウ シ ホイットニーの記録 ( 画像 3-9 ) では 傭主は東京府である 雇用期間が明治 8 年 5 月からとなっているのは 米国を出立した時点から起算しているものと考えられる 年齢は 31 歳と記載されているが 1825 年生まれ 75 のホイットニーは来日時点で 49 歳か 50 歳のはずである 明治 9(1876) 年 5 月に商法講習所は木挽町校舎に移転をしている 76 地図( 明治 17 年のもの 画像 3-10 ) を見ると 尾張町仮校舎のあった場所には 共立商社 が立地しており 木挽町校舎は 尾張町二丁目から木挽橋を渡ってさほど遠くないところだった 明治 10(1877) 年 3 月 商法講習所の初めての卒業生として 森島修太郎と成瀬隆蔵 ( 当時は成瀬正忠 ) の二名が卒業した 翌 4 月 ふたりは商法講習所助教心得として採用された 商法講習所については 明治 8 年に森有礼さんが銀座尾張町へ 商法講習所というのを設けられたが これが翌 9 年に 東京府の管理となって森有礼さんは清国駐箚全権公使となってしまわれた この講習所の所長が矢野次郎さんで 今の高等商業なんですが 銀座も尾張町に商業学校があったのが 不思議なようですが 決してそうでなく 既に明治 17 年には日吉町に起文館という英学 漢学 美術 簿記の学校があって 大学予備門並びに諸官立学校へ入学する志願者の養成に務めて 銀座西北一帯は文化の藪であったンです と語る 71 野口孝一 銀座煉瓦街の建設と地主ならびに家屋所有者の状況 53 頁 72 明治 10 年 12 月末現在 二等煉瓦で新築空屋が 148 返納空屋が 54 三等煉瓦で新築空屋が 121 返納空屋が 37 あった 銀座煉瓦街の建設 185 頁 73 第二法令類纂巻之六十三勧業部六自明治六年至十五年第十一章商法講習所第八号講習所ノ儀第一大区尾張町二丁目二十三番地ニ於テ仮開業届東京都公文書館蔵明治 8 年 9 月 5 日の読売新聞には 昨年 11 月 6 日の當社新聞に福澤先生其の外が企てた商法學校の事を出しておきましたが此ほど亜米利加より教師も来られ諸先生方も周旋なされ殊に勝安房君などハ千圓も金を出されていよいよ近近にひらき開校に成るそうでござります とある 74 商法講習所が二階であったというのは 成瀬証言に基づく ただし 同証言には 商法講習所は鯛味噌屋の二階 という表現があるが 後述するように鯛味噌屋が 23 番地第一戸に開店した事実はない 現時点で一階の住人は不明である 75 一橋大学百二十年史 4 頁 76 第二法令類纂巻之六十三勧業部六自明治六年至十五年第十一章商法講習所第十七号講習所ノ儀ニ付所長上申 ( 東京都公文書館蔵 ) この中で明治 9 年 5 月 15 日初テ今ノ商法講習所ニ移ル とある

84 商法講習所と鯛味噌屋 一橋大学の源流を求めて 銀座の古老の話が残っている 77 24 25 番地このころ尾張町二丁目 24 25 番地では 大谷金次郎が洋服裁縫店を開いていた 78 銀座の洋服屋として 銀座一丁目の西村勝三と共に草分けであった 79 2 明治 10 年代の住人 ( 図表 3-7 ) 明治 10 年代には煉瓦街の空屋も次第にふさがり 追い追い繁華街の賑わいを見せ始めた 16 7 年ごろよりすっかり洋風都市の好見本として文明開化の中心地として繁栄した 80 明治政府は 近代国家となるためには産業を広く興すことが必要だと考え その成果の発表の場として博覧会を奨励していた 明治 4(1871) 年の東京招魂社 ( のちの靖国神社 ) での物産会をはじめとして 博覧会 展覧会は全国各地で毎年のように開かれた 81 そうしたことを積み重ね 明治 10(1876) 年 8 月 21 日から 11 月 30 日まで 東京上野公園で第一回内国勧業博覧会が開催された 82 その翌年 博覧会で売れ残った品物を販売する施設として かんこうば と 東京府が永楽町 ( 現在の丸の内 ) に 物品陳列所 を設置した 人々は 辰の口勧工場 呼んだ 83 その後経営は民間に移され 勧工場( 勧業場とも勧商場ともいった ) はいくつも作られた 84 勧工場は名店街のような寄合世帯で 家庭用品ひととおりをそろえ 一時は大流行をした 85 勧工場が人気を博した理由の一つは 履物をはいたまま自由にはいることが 77 篠田鑛造 銀座百話 角川書店 1974 年 72-73 頁 78 六丁目( 引用者注 : 尾張町二丁目 ) の角は 明治 6,7 年ごろから 大谷 という洋裁店だったが それが明治 10 年ごろ 大民 にひきつがれた 池田弥三郎 銀座十二章 朝日新聞社 1965 年 9 頁 大谷金次郎は洋服仕立師として最初に成功した人で 明治元年横浜に店を開き 明治 4 年には東京芝口二丁 ( 現港区新橋二丁目 ) に進出 大和屋 の看板をあげて紳士服製造販売に専念した 北村一夫 江戸東京市井人物事典 新人物往来社 1976 年 48 頁 大谷金次郎 大金 は宮内省御用だったが本人が職人気質のきわめて率直な人間で 御所で明治天皇の服を製作する際 採寸する際うっかり口を利いてしまい 侍従職から叱られ謹慎を命じられ御用をとりあげられたという 篠田鑛造 銀座百話 183 頁 79 明治の銀座職人話 164 頁 80 銀座煉瓦街の建設 190 頁 81 湯本豪一 明治ものの流行事典 2005 年 44 頁 82 当時の人々は博覧会について 全くといっていいほど知らなかった 政府の担当者が商店や職人のところを訪れ 会の趣旨や出品手続きを説明し 出品を勧誘した 高村光雲 幕末維新回顧談 岩波文庫 1995 年 122-123 頁 内務省や府県は出品者の啓発に努め 出品者に費用を貸与した 出品物の運送を担当する運送屋も運賃や出品者の乗車券などの割引を行った なお この第一回内国博覧会の開かれた 10 年の 1 月には 西南戦争が勃発していた 内国博開会式当日は九州で官軍と鹿児島軍が交戦中であり 鹿児島県のみ出品がなかった 國雄行 博覧会と明治の日本 吉川弘文館 2010 年 92 頁 83 初田亨 図説東京東京都市と建築の一三〇年 24-25 頁 84 当時の人たちは カンコバと呼んだ 木村荘八 東京繁盛記築地 銀座 (5) 読売新聞 1955 年 8 月 27 日 85 勧工場にまつわる人々の思い出は小説 随筆等に数多く見出すことができる 鈴木英雄 勧工場の研究 明治文化とのかかわり 創英社 三省堂書店 2001 年 参照

一橋大学創立 150 年史準備室ニューズレター No.2 (2016.3) 85 でき 86 商品は陳列してあり買わなくても見て回ることができることであった 87 ところが デパートが出現し 一方で安物仕入れが嫌われ 大正の初め頃までには 勧工場はまったくすたれてしまった 88 この連屋では 明治 11(1876) 年 1 月 22 番地第一戸に鈴木吉兵衛が店を開き ほぼ同じころ 24 25 番地は 山岸民次郎の店に代わった 勧工場も出現した 図表 3-7 明治 10 年代の住人 出所 ) 筆者作成 20 番地第一戸 第二戸この二軒の明治 10 年代の様子は 不明である 21 番地第一戸明治 13 年 東京商人録 89 に 綿商白石虎吉が 21 番地として見出せる 白石は明治 9 年に 21 番地第一戸の名義人となっている ( 図表 3-5 ) 白石虎吉は ここに勧工場をつくった 明治 15(1882) 年 2 月 19 日付読売新聞に 尾張町二丁目 21 番地開盛商社の開業広告が掲載されている ( 画像 3-11 ) 開業広告には社主の名はないが 明治 22(1889) 年 日本紳士録第一版 に 開盛社主白石虎吉 とある 90 明治 16 年発行の 東京諸商業繁栄録 91 には開盛商社の銅版画がある ( 画像 3-12 ) 22 番地第一戸 92 鈴木吉兵衛は和歌山県湯浅村で明治 9 年 8 月に開業し 明治 10 年の内国勧業博覧会に 86 その時分土足ではいれる店は氷屋ぐらいしかなかったという 鏑木清方 銀座 1933 年 随筆集明治の東京 岩波文庫 121 頁 木村荘八は 勧工場の 土足御免は日本家屋の革命だった とする 木村荘八 東京繁盛記築地 銀座 (5) 読売新聞 1955 年 8 月 27 日 なあた 87 品物を出させて買わずに帰るのは 見え坊な江戸っ子の為し能わざるところであった が 勧工場 おおなら 大びらに品物をひやかしてあるくことができた 鏑木清方 銀座 1933 年 随筆集明治の東京 岩波文庫 121 頁 88 山本笑月 明治世相百話 第一書房 1936 年 中公文庫 1983 年 中公文庫改装版 2005 年 89 横山錦柵編 東京商人録 大日本商人録社 1880 年 97 頁 90 交詢社編 日本紳士録第一版 交詢社 1889 年 609 頁 91 野田幸内編 東京諸商業繁栄録 開成社 1883 年 132 頁 勧業場之部 92 和歌山県の中部西岸に位置する湯浅は 熊野三山へと続く熊野古道の宿場町として栄えた 湯浅町役場産業観光課 伝統と歴史が息吹く醤油発祥の地湯浅 湯浅醤油は 1228( 安貞 2) 年 中国から伝わ

86 商法講習所と鯛味噌屋 一橋大学の源流を求めて きん金海 こ鼠 93 味噌 金鼠糖らを出品した 94 吉兵衛が出品した海参製品三種は 海参製ノ各種其 風味皆宜シ實二新奇佳良ノ食品ト稱スベシ と評価され 95 褒状を授けられた 内国勧業博覧 会が終了し出店ブースをたたんで製品を和歌山県に送り返そうとしたところ せっかく受 賞もしたのだから東京で売らないのは残念だと言われ 東京での出店を決意し 煉瓦街に 支店 を出すことにした 96 22 番地に鈴木吉兵衛が出店することを知らせる広告が 10(1877) 年 12 月 12 日付読売新聞に出されている ( 画像 3-13 ) 広告文中に一月売り出しとある ことから 開店は明治 11 年 1 月と判断される 97 このときは金花堂という屋号である 明治 13 年 東京商人録 では 味噌商の部 に 鯛味噌鈴木吉兵衛 として掲載され ている 98 明治 16 年 東京諸商業繁栄録 では 当時の店の様子を知ることができる銅版画 がある 99 ママ ( 画像 3-14 ) この店の鯛の看板はとにかく目立った 岸田劉生は 尾張町一丁 目だったかに 鯛みそを売る店があって その看板が赤い鯛の鱗が金すじで彫ってあった その鯛の刻りものと看板が好きでいつも私はそれに見とれた と回想している 100 明治銀けつ帖 により 鈴木吉兵衛は 22 番地第一戸だとわかる 鯛味噌屋は次第に取り扱う商品を 多彩に広げていった 吉兵衛の郷里である紀州産以外 の産物もかなり含まれている ( 図表 3-8 ) 101 さまざまな土地の名産品の仕入れには 吉兵衛の内国勧業博覧会出品の経験が役立っているのであろう きんざんじたまりった径山寺味噌に始まると伝えられ その溜に種々工夫をこらした末に醤油が製造されるにいたったという 林玲子 天野雅敏編 日本の味醤油の歴史 吉川弘文館 2005 年 54-55 頁 湯浅の醤油には徳川御三家紀州侯の手厚い保護があり 文化 文政時代には千戸の湯浅に 92 軒の醤油屋があったとされる しょうゆのふる里角長 ( 民具館 ) 職人蔵 リーフレット 93 ナマコの正しい名は コ であり 生を ナマコ 煮て干したものを イリコ 内臓の塩漬けを コノワタ という 雌の腹子 卵巣は なまこの子 このこ といい 三味線のばちの形にひろげた薄塩干しにした くちこ はさらに高価な珍味である キンコとは 三陸の金華山でとれる小型のナマコである 明治屋本社編 明治屋食品事典 明治屋本社 1995 年 419-420 頁 94 福田 商法講習所尾張町仮校舎 鯛味噌屋 2 階説 の再検証 95 明治十年内国勧業博覧会 明治十年内国勧業博覧会審査評語 2 内国勧業博覧会事務局 1878 年 723-724 頁 96 内国勧業博覧会開催前は 一般市民も博覧会を知らず 出品を勧誘された側も困ったとか面倒だという気持であったが 実際に経験をして なるほど 博覧会というものは 好い工合のものだ と大いに賛辞を呈するようになったという 当時 政府もいろいろ意を用いたものと見えて 政府から出品者に対して補助があったのでした 七十円の売価のものに対しては約三分の一くらいの補助金が出た上 閉会てんで後 入場料総計算の剰余金を出品人に割り戻したので 出品高に応じて十円か十五円位を各自に下げ渡しました 高村光雲 幕末維新回顧談 岩波文庫 127 頁 自費出品人助成法により 内国博終了後 入場券や出品目録の売上金の一部が自費出品人に還元された 國雄行 博覧会と明治の日本 92 頁 97 前掲福田論文は 明治 10 年 10 月 25 日付東京日日新聞広告と 11 年 2 月 6 日付朝野新聞広告を根拠に 吉兵衛の開店は 勧業博覧会会期終了後の 10 年 12 月以降 朝野新聞広告を打った 11 年 2 月 6 日以前のあいだとしている 前掲岸田論文では 根拠は示していないが吉兵衛の開店は明治 11 年としている 98 横山錦柵編 東京商人録 大日本商人録社 1880 年 287 頁 味噌商之部 99 野田幸内編 東京諸商業繁栄録 開成社 1883 年 343 頁 味噌之部 100 岸田劉生 新小細工銀座通 (1926 年 ) 岸田劉生随筆集 所収岩波文庫 101 江戸時代には幕府が物産や人間の いわゆる 藩 をこえた行き来を統制しており 全国の産物を一堂に集めることはきわめて困難だった 國雄行 博覧会と明治の日本 102 頁

一橋大学創立 150 年史準備室ニューズレター No.2 (2016.3) 87 また 吉兵衛は新聞という発展著しい媒体の広告を使っている 銀座には 新聞社が多く 集まっていた 102 図表 3-8 鯛味噌屋読売新聞広告掲載の商品 ( 明治 10 年代 ) 年月日 ( 明治 ) 商品等 10 年 12 月 12 日 皇國鯛味噌 金海鼠煉 五味鯛でんぶ 金海鼠糖 金海鼠味噌 11 年 2 月 7 日 金海鼠味噌 金海鼠糖 金海鼠煉 龍眼肉精製鯛味噌 口取もの五味鯛でんぶ 11 年 8 月 9 日 鯛味噌 鯛田麩 上等無類津久だに このはあわび 13 年 12 月 23 日 新発明山海の珍味懐中吸物罐詰定価金 12 銭 5 厘 15 年 3 月 17 日 西京 大阪 紀州 北海 筑前國秋月名産 かぶら千枚漬 二ッ井戸岩おこし 一名豊 の秋御菓子 あゆ子うるか わさびづけ にしん麹鹽から 鯛かすづけ 川苔砂糖漬 同町の開盛商社第 52 号にて弘めのため陳列販売 15 年 12 月 24 日 越の産たらの子粕漬 紀州川あゆのてり煮 紀州みかん砂糖漬 神田新石町大島次太郎別 製味附海苔 其他諸國珍物数品 ( たらの絵 ) かきしょうゆ 16 年 11 月 2 日北海道根室海産滋養第一等官許蠣醤油 16 年 12 月 8 日 生鴨毎日切賣仕候 北海道西別一本撰新鹽鮭 新このわた 生さけ粕漬 上等つくだに数 品 ( 鴨粕漬の絵 ) 16 年 12 月 27 日 鴨の粕漬 新このわた たらの子粕漬 みかん砂糖漬 上等からすみ 上等鮒雀焼 ( 鴨 粕漬の絵 ) 17 年 7 月 30 日 江州琵琶湖大鮒粕漬 上等佃煮 あゆ酢漬其他諸品 ( 鮒の絵 ) 17 年 12 月 19 日 眞鴨粕漬 新このわた 本場からすみ 焼松茸 松茸粕漬 西京名産かぶ千枚漬 干しか れい ( 鴨粕漬の絵 ) 17 年 11 月 25 日 生松茸粕漬 西京稲荷山焼松たけ酢漬 眞鴨粕漬 紀州干しかれい あわび粕漬 つくだ に品々 ( 松茸の絵 ) 18 年 12 月 23 日 新このわた からすみ 生ざけ 粕漬 かぶ千枚漬 興津鯛其他数品 ( 鴨粕漬の絵 ) 19 年 4 月 7 日 廣島名産干柿 ( 柿の絵 ) この広告は浅草駒形町 29 番地富田為次郎との連名 出所 ) 読売新聞広告より作成 22 番地第二戸明治 13 年 東京商人録 では 22 番地のものとしては 鈴木吉兵衛以外には 烟草商鈴木小兵衛 (142 頁 ) 家具商犬飼與七 (103 頁 ) 工作場製品日用家具類売捌純工舎 (293 頁 ) が認められる 家具商や家具売捌きを営むには 連屋の 22 番地第二戸の三間間口では手狭であろう 戸 102 野口孝一 銀座物語煉瓦街を探訪する 111 頁

88 商法講習所と鯛味噌屋 一橋大学の源流を求めて 別一覧図 ( 画像 3-8 ) では 22 番地の裏通り側に 待合若竹小林か満が見受けられる 明治 13 年時点でこのような形状の家屋があったか否かは不明であるが 家具商 家具売捌純工舎はこの裏通り側に存在していたと思われる 103 よって 大通り側である 22 番地第二戸の入居者は烟草商鈴木小兵衛とする 明治 16 年 東京諸商業繁栄録 にも 22 番地として煙草商鈴木小兵衛 104 を確認できる 23 番地第一戸明治 15(1882) 年 7 月 尾張町二丁目 23 番地中島乙次郎が親睦共立商会の設立届 105 を京橋区長に提出している 出品人ハ日々出頭シ各自物品ヲ販売スベシ とあり 勧工場の形態に見える 出品人は三人しか想定しておらず勧工場というには規模が小さいようである 106 画像 3-10 の地図( 明治 17 年 ) では 親睦共立商会は共立商社として 開盛商社とともに記載されている 24 25 番地鈴木吉兵衛とほぼ同じころ 24 25 番地の大谷金次郎のあとに洋服裁縫店が開業した いままで芝神明町でご愛顧いただいていたが 今般尾張町二丁目 25 番地に 転任 したの 107 で今後もよろしく という大和屋民次郎の挨拶が 明治 11(1878) 年 1 月 4 日付読売新聞広告に出されている ( 画像 3-15 ) 大和屋民次郎 すなわち山岸民次郎は 明治 11(1878) 年 4 月 1 日より 裁縫教師 として 英国人ゼーム エステルを雇用している ( 画像 3-16 ) 明治 13 年の 東京商人録 では 仕立物職之部で 尾張町二丁目廿四番地洋服山岸大民 尾張町二丁目廿五番地洋服山岸民次郎 と 間にひとりをはさんで二行で掲載されている 108 店主が民次郎なので だいみん でなく だいたみ である 109 明治 11 年 地主案内 では 山岸民二良( 民次郎 ) が 24 25 番地の所有者となっている ( 図表 3-2 ) 明治 18 年 東京商工博覧絵 110 では 24 25 番地の洋服裁縫店の銅版画が掲載されている ( 画像 3-17 ) この店は 天井がばかに高く威圧感があり とにかく銀座通り 103 明治 27 年頃には 尾張町二丁目二ノ廿二新橋より北へ二丁東へ半丁北へ半丁 すなわち 22 番地裏通り側に 旅人宿總房館吉岡トキ があった 東京諸営業員録 1884 年 381 頁 明治 35 年 戸別一覧図 にある 22 番地待合若竹小林か満は 京橋協会 京橋繁昌記 大正元年にも同じ住所で 待合若竹小林かま として登場する なお 昭和の初めには 木挽町八丁目逓信省跡に 若竹亭小林カマ がおり 同一人物と思われる 昭和 4 年 10 月 1 日現在東京電話番号簿追加番号簿 2 1929 年 中央区立図書館地域資料室アーカイブ 104 野田幸内編 東京諸商業繁栄録 開成社 1883 年 104 頁 煙草之部 105 東京都勧業課回議録 東京都公文書館蔵 106 勧工場の社主と出品人との鑑札の出させ方について東京府から大蔵省宛ての問い合わせに関する新聞記事の文中に このころ何勧工場 何親睦商社と称し 数人集合し 一店舗を設け店舗中諸物品を陳列これありし之を販売する者有之 とある 読売新聞明治 15 年 9 月 8 日付記事 107 大和屋というのは先述した大谷金次郎と同じ屋号である 108 横山錦柵編 東京商人録 大日本商人録社 1880 年 290 頁 仕立物職之部 109 明治の銀座職人話 164 頁 110 深満池源次郎編 東京商工博覧絵. 第貮編下 深満池源次郎 1895 年

一橋大学創立 150 年史準備室ニューズレター No.2 (2016.3) 89 で店構えは一番堂々としていた という 111 その他大通り側でないが 明治 13 年 東京商人録 では尾張町二丁目 26 番地として 呉服太物 112 商二階堂春三郎 113 が掲載されている 明治 13 年 10 月には 大阪府の平井一介を筆頭人として 26 番地において貯蓄牛肉粕漬罐詰を取り扱う康養社の設立届が京橋区長あてに提出されている 114 同社は 明治 16 年 東京諸商業繁栄録 にも 諸罐詰牛肉粕漬康養社 として登場する 115 同社は明治 17 年 10 月 26 番地寄留大阪府平民伊藤孝次郎によって 廃社届が提出されている 116 大通りでなくても商業活動が活発化してきたことがうかがわれる 3 明治 20 年代の住人 ( 図表 3-9 ) 明治 20 年代の銀座は すっかり東京一の繁華街に成長していた 117 図表 3-9 明治 20 年代の住人 出所 ) 筆者作成 20 番地第一戸 明治銀けつ帖 では パン製造所 長崎新製かすて以ら 三河屋大竹安次郎が 20 番地第一戸の住人である 大正 10(1921) 年 12 月 30 日付読売新聞に掲載された三河屋の謝恩 118 広告 ( 画像 3-18 ) から 三河屋のここでの開業が明治 26(1893) 年であること 明治銀けつ帖 の大竹安次郎は大竹忠次郎の誤りであることがわかる 111 明治 30 年代後半の記述ではあるが 房州産の砂岩を積み上げて仕上げた正面の中央は切妻型になっており 左右には一枚入りのガラス窓がついていた ほかでは拝見することの出来ぬ 出入り口の面とって取りガラスの重々しい二枚ドア の 把手は切子ガラスで出来ており ダイヤモンドのように屈折して光を放っていた という 明治の銀座職人話 164-165 頁 112 呉服とは絹織物の総称 太物とは 綿織物 麻織物の総称である 新村出編 広辞苑 第三版 113 横山錦柵編 東京商人録 大日本商人録社 1880 年 224 頁 呉服太物商之部 114 東京府勧業課回議録 東京都公文書館蔵 115 野田幸内編 東京諸商業繁栄録 開成社 1883 年 88 頁 罐詰之部 116 東京府勧業課回議録 東京都公文書館蔵 117 銀座煉瓦街の建設 190 頁 118 ただし明治 27 年発行の 東京諸営業員録 には三河屋大竹忠次郎は掲載されていない

90 商法講習所と鯛味噌屋 一橋大学の源流を求めて 20 番地第二戸 明治銀けつ帖 では 20 番地第二戸の 唐木細工 御琴三味線清楽器師 北川吉助は 明治 27 年 東京諸営業員録 でも 琴三味線清楽器北川吉郎 として掲載されている 119 清楽とは中国清代の音楽である 清楽器には月琴 胡琴 提琴 三弦 琵琶などの弦楽器 清笛などの管楽器 木琴 太鼓などの打楽器がある 120 明治 10 年頃から 東西両京において 清楽が流行した 121 京都の祇園や先斗町の芸妓の 中には 三味線の代わりに月琴を持って座敷に出るものもあった 122 15 年 10 月の 諸芸新 聞 第 86 号では 西京にては月琴大流行にて 当府下にても四谷牛込麻布辺にては 常盤 津清元の師匠よりも月琴指南所の数多し と報じられた 123 25 年ごろには 尺八の流行既 やに罷みて 今や清楽を下宿屋中至る処に奏す 今の書生の気象 亦た以て察知すべし との 記事があり 書生のあいだにも月琴がはやっていたことが知れる 124 22 年ごろからは月琴 を持った法界屋と呼ばれる流しの芸人も現れた 125 21 番地第一戸 21 番地の開盛商社を経営していた白石には変化があった 白石虎吉は 日本紳士録 第 1 版 ( 明治 22 年 ) には 開盛社主尾張町二丁目 21 として掲載されている 126 が 同第 2 版 ( 明治 25 年 ) には記載がない 日本紳士録 第 3 版 ( 明治 29 年 ) に再び登場した白石虎 吉 127 は 雑業京橋区宗十郎町 14 としてであり 同第 4 版以降は登場しない 明治 27 年 東京諸営業員録 の勧工場の欄に開盛商社は掲載されていない 明治 26 年ごろまでには 開盛商社は閉店し 白石も尾張町を離れ宗十郎町に移ったと思われる 明治銀けつ帖 で は 21 番地は 硝子破れ壁くずれ た空き家になっていた ぼろぼろの空き家だった 21 番地第一戸を修繕し 128 入居したのが太物問屋中島屋白井五 兵衛である 明治 29 年 12 月 28 日付読売新聞に新たに開業する旨の広告を出している ( 画 像 3-19 ) 中島屋は軍服商売で 銀座街有数の金満家になった 129 119 賀集三平編 東京諸営業員録 : 一名 買物手引 賀集三平 1894 年 196 頁 120 新村出編 広辞苑 第三版 岩波書店 1983 年 1235 頁 清楽 121 石井研堂 明治事物起原 3 ちくま学芸文庫 286 頁 122 湯本豪一 明治ものの流行事典 196 頁 123 石井研堂 明治事物起原 3 ちくま学芸文庫 287 頁 124 森銑三 明治東京逸聞史 1 226 頁 ホーカイ 125 湯本豪一 明治ものの流行事典 196 頁 清楽の 九連環 を歌い その終わりを不解で止めるところからホーカイ節 ホーカイ屋の名が起こった 森銑三 明治東京逸聞史 2 236-237 頁 126 交詢社編 日本紳士録 第 1 版 1889 年 609 頁 127 日本紳士録 第 3 版 1896 年 741 頁 128 読売新聞掲載の広告文中に 普請をしていたのが落成した とある 129 明治の銀座職人話 166 頁 同書によれば 白井五兵衛は 維新のころは小さな提灯屋だった 幕末のある夜 逃れてきた薩摩の武士をかくまってやったことがあった 武士は礼を述べ 立ち去って行った その記憶も薄らいだ頃 立派な紳士が現れ 以前救ってもらった礼を述べ あなたのやりたい商売を開業してくれという 陸軍の高官になっていたかつての武士のおかげで 白井提灯屋は陸軍省御用達の軍服屋になった 小倉織の兵卒の軍服を引き受け 日清戦争の戦雲迫る頃国内の小倉木綿を買い占めて 俄か分限となった 同書 165-166 頁

一橋大学創立 150 年史準備室ニューズレター No.2 (2016.3) 91 22 番地第一戸 日本紳士録 第 1 版 130 明治 22 年 と同第 2 版 131 明治 25 年には 尾張町二丁目廿 二佃煮商鈴木虎太郎 が登場する 虎太郎は 明治 14(1881) 年 5 月より 22 番地第 一戸の名義人 132 となっている ( 図表 3-5 ) 虎太郎は吉兵衛の跡継ぎと思われる 明治 25 年の 日本全国商工人名録 133 には佃煮鯛味噌商たいみそや鈴木吉兵衛 明治 27 年 東 京諸営業員録 134 では佃煮罐詰瓶詰商鯛味噌屋鈴木吉兵衛として記載されており 虎太郎 はあるじとして吉兵衛を襲名したのかもしれない 進物の季節である 7 月と 12 月には決まって読売新聞に広告を出していた鯛味噌屋であっ たが その広告は 明治 25(1892)12 月から変化が生じる まず 25 年 12 月 24 日広告は 近年隣家にまぎらはしき店有之 というそれまでなかった文章が登場し 隣家に同業者が 出現していることを示す 27 年 7 月 8 日広告では 注意 として 近頃りんかにまきらわ ママ敷店有之候に付家根の鯛かんばん能く能く御注意の上御来車奉願候 となる 28 年 7 月 7 日広告では ご注意 として 前年の広告と同じ文章ながら となりにまぎらわしき の部 分は活字が大きくなり ライバルとの競争が激化していることを示唆する ( 画像 3-20 ) 隣家のまぎらはしき店 とは 千歳屋澤江正兵衛であった ( 画像 3-21 ) 135 もうひとつの変化として 25 年 12 月 24 日広告を最後に 鯛味噌家鈴木 の鈴木が消え る 27 年 東京諸営業員録 には鯛味噌屋鈴木吉兵衛が記載されており 25 年以前にも鈴 木と書かない鯛味噌屋の新聞広告は皆無というわけでもなかったが 筆者が 29 年作成のも のと考える 明治銀けつ帖 では 鯛味噌屋のところには鈴木姓ではなく関根はつの名とな っている 関根はつとは誰なのか 細谷新治が井上竹子から話を聞いた際にこの名を尋ねた 竹子は知らなかった 136 一つの可能性として 明治 16 年の 東京諸商業繁栄録 に 尾張町二丁目 13 番地山城屋 関根眞助という佃煮商の存在がある ( 画像 3-22 ) 137 佃煮 金春豆 進物珍味品々を扱 うという 明治 27 年 東京諸営業員録 には関根眞助の店は掲載されていない 22 番地第 一戸の鯛味噌屋を切り盛りしていた関根はつは関根眞助の親族だろうか 22 番地第二戸 ここは 千歳屋澤江正兵衛がいた 澤江は 日本紳士録 第 1 版 ( 明治 22 年 ) に佃煮商 として登場する 138 澤江は 遅くとも明治 21 年ごろまでには 同地で佃煮商を開いていた 130 日本紳士録 第 1 版 1889 年 674 頁 131 日本紳士録 第 2 版 1892 年 667 頁 132 虎太郎が 22 番地第一戸を譲り受けたときの証人は 21 番地白石虎吉である 133 白崎五郎七編 日本全国商工人名録 [ 明治 25 年版 ] 日本全国商工人名録発行所 1892 年 128 頁 134 賀集三平編 東京諸営業員録 : 一名 買物手引 賀集三平 1894 年 318 頁 135 前掲 東京諸営業員録 : 一名 買物手引 318 頁 136 細谷 商業教育の曙 263 頁 137 野田幸内編 東京諸商業繁栄録 開成社 1883 年 120 頁 138 日本紳士録 第 1 版 558 頁

92 商法講習所と鯛味噌屋 一橋大学の源流を求めて のだろう 日本紳士録 2 版以降には澤江は見いだせない 明治銀けつ帖 にある千歳屋江澤正兵衛は澤江の誤りである 23 番地第一戸 23 番地第一戸で営業していた親睦共立商会は明治 26 年 1 月に廃社届が提出された 139 明治銀けつ帖 には 23 番地第一戸には 三商店 があり 親睦共立商会の社主であった中島乙次郎が西洋小間物店を開いている 24 25 番地山岸民次郎は 明治 22(1889) 年 2 月の憲法発布式における明治天皇の洋服を作る 140 明治銀けつ帖 の 24 25 番地の大民の欄には ぜんまい回転の人形看板 とある 大民 の名物は ウィンドーにある回転する等身大の礼服姿の人形であった 海軍大将かと思われる 金モールをいっぱいつけた大礼服の人形が二体 ぜんまい仕掛けで緩やかに回っていた 人形は 八字髭を生やしていた 街ゆく人に大人気となり これを見なければ東京人ではないと言われたほど 終日人だかりがしていた 141 明治 21 年生まれの仲田定之助は この大民の回転人形は 大きくなったら総理大臣か 陸軍大将になるんだ と言っていた明治少年にとって 憧れの象徴だったと回想している 142 4 明治 30 年代の住人 ( 図表 3-10 ) 図表 3-10 明治 30 年代の住人 出所 ) 筆者作成 20 番地第一戸 第二戸 明治銀けつ帖 で北川吉助だった第二戸は 戸別一覧図 では楽器師北川商店北川吉郎となっている 明治 10 年頃より大流行した清楽器の月琴だったが 27 年日清戦争が始まると清楽の師匠の家に石が投げ込まれるなどして 清楽器はひどく排斥された 143 清楽譜本の刊行は明治 31 139 明治 26 年普通第一種庶政要録第三課 東京都公文書館蔵 140 大植四郎編 明治過去帳 < 物故人名辞典 > 1108 頁 141 明治の銀座職人話 164 頁 142 仲田定之助 明治商売往来続 ちくま学芸文庫 筑摩書房 2004 年 84-85 頁 143 森銑三 明治東京逸聞史 1 275 頁

一橋大学創立 150 年史準備室ニューズレター No.2 (2016.3) 93 年には最後の隆盛をみるものの 144 清楽のブームは去った 月琴を使った法界節も人気が落 ち 法界屋は東京からいなくなった 145 北川商店も おそらく店を閉じたのだろう 銀座 の明治職人話 では三河屋は 間口四 五間もある大きな構え 146 とあり 明治 30 年代後 半には 20 番地第二戸をつぶして同第一戸の三河屋が増築 間口をひろげたことがわかる 21 番地第一戸 戸別一覧図 には 明治 29 年末から 30 年初めに開店した中島屋白井五兵衛が掲載さ れ 店も連屋から個別家屋に建替えられているのがわかる 22 番地第一戸 鯛味噌屋について 戸別一覧図 では 罐詰佃煮鯛味噌屋井上竹次郎となっている 147 井上の名が鯛味噌屋の広告に初めて出たのが明治 31(1898) 年 12 月 21 日付読売新聞であ る ( 画像 3-23 ) 明治 31 年にはすでに井上竹次郎 148 の経営になっていたことがわかる 歌舞伎役者の河原崎権十郎は 歌舞伎座の経営者だったあばたの井上さんの お妾さん が出してゐた鯛みそやがあつて 芝居関係と云ふこともあつて 此處へもよく遊びに行つて は小遣いを貰ひました と懐かしんでいる 149 明治の銀座職人話 では 鯛の看板をこ さわられ見よがしに掲げ た店の 土間の中央には木肌も真新しい綺麗な椹の平桶がいくつも並 べてあり そこに例の鯛味噌 鯛でんぶや小魚の佃煮が盛り付けてあり 両脇の棚には罐詰 が並べてあった この店のおやじさんはなんでも歌舞伎座の役員だとかで 粋筋の客も多 く 大変繁昌していた と回想している 150 22 番地第二戸 戸別一覧図 では漬物屋の屋号は千歳屋のままだが 経営者が一松鎌太郎に代わってい た 明治の銀座職人話 によると 22 番地第二戸は 売れないおもちゃ屋 であった 151 漬 物屋は 明治 30 年代後半にはおもちゃ屋になっていた 大正 3 年の 日本全国商工人名録 によれば 玩具商 として 京橋区尾張町 2-22 合資会社京華社支店が掲載 152 されてお 144 山野誠之 明清楽研究序説 ( 二 ) 長崎大学教育学部人文科学研究報告 第 43 号 1991 年 2 頁 145 森銑三 明治東京逸聞史 2 150 頁 146 三河屋のパン ビスケット 洋菓子の品ぞろえは 銀座四丁目の木村屋よりも多彩であった 明治の銀座職人話 166 頁 147 井上竹次郎は 12 年 9 月から 14 年 5 月まで 22 番地第一戸の名義人であった 図表 3-5 参照 148 井上竹次郎の姉は後藤象二郎の夫人の雪である 細谷 商業教育の曙 263 頁 木村錦花 興行師の世界 では 仏頂面の井の竹さん について 歌舞伎座の大身代を切盛りしていた井上竹次郎は京都の出生で 三本木で芸子をしていた実の姉は 幕末混乱の際に土州藩の後藤象二郎に想われ お安くない仲になっている内 時勢は明治に転換して 後藤は忽ち参議に出世し 姉はその令夫人として迎えられた そんな縁故から井上は土佐へ行き 岩崎弥太郎に仕えて養われていた 彼は東京に来てから暫く兜町生活をしていた ( 略 ) 家族には銀座で鯛味噌の店を出させていた と書く 木村錦花 興行師の世界 106-107 頁 竹次郎は体の弱い息子敬三の為に鯛味噌店を買って与えた 細谷 商業教育の曙 263 頁 149 河原崎権十郎述 チンピラ ギャング 木村荘八編著 銀座界隈 171 頁 150 明治の銀座職人話 165 頁 151 明治の銀座職人話 165 頁 152 商工社編 日本全国商工人名録 商工社 1914 年 東京府武蔵國 ( 東京市 ) イ 70 頁

94 商法講習所と鯛味噌屋 一橋大学の源流を求めて り 少なくとも大正 3 年頃まではおもちゃ屋が存在していたことが確認できる 明治 42 年 12 月の読売新聞には京華社の広告が出ている ( 画像 3-24 ) ここは 内外教育玩具を販売していた 明治 30 年代以降 家庭教育への関心が高まっていた 153 ことが背景にある 23 番地第一戸 戸別一覧図 では 23 番地は木村恒吉 ( 画像 3-25 ) が持つ京橋商品館勧工場になっており 従来の連屋から建て替えていることがわかる 木村は 明治 30 年から尾張町で勧工場を運営していたが より規模の大きなものをめざし 株式会社帝國商品館 154 を設立 営業地は尾張町二丁目 23 番地で 三層楼 建坪百余坪 の勧工場とした 155 ここは 勧工場としてほかのように 各商店が売り場を借りて販売する形式ではなくて 経営者が一手に陳列販売をしていた 156 24 25 番地 戸別一覧図 でも 大民が営業を続けている 5 明治 40 年代から大正年間にかけての住人 ( 図表 3-11 ) わが国経済の発展に伴い 煉瓦街にも企業が進出しはじめる 明治 40 年に設立された國光生命保険は急成長し 大正 5(1916) 年 尾張町二丁目 23 24 25 番地を買収 裏通り側の土地も取得して 本社ビルの建設を開始する 当時としては非常に大きな建物であった 大正 10(1921) 年 8 月末現在の 京橋から新橋まで大通りに面した両側の建物が絵で描かれた 大銀座街大観大正 10 年 8 月末日調査 ( 資生堂編 銀座 所収 大正 10 年 ) ( 以下 大銀座大観 とする ) により 國光生命保険ビル建設中の当時の様子を知ることができる 157 ( 画像 3-26 ) 大正 11(1922) 年の街並みは 大正 11 年 9 月 11 日発行の 銀座銀座通り案内 が参考になる 158 ( 画像 3-27 ) 大正 12(1923) 年 9 月 1 日 関東大震災により発生した火災により 煉瓦街は構造壁だけ残しほぼ全域が焼失した 159 153 是澤博昭 教育玩具の近代 教育対象としての子どもの誕生 世織書房 2009 年 75 頁 154 明治 19(1886) 年に東京大学が帝国大学と改称して以来 会社名に 帝国 と入れることが流行した 米川明彦編著 明治 大正 昭和の新語 流行語辞典 三省堂 2002 年 47 頁 155 遠山景澄編 京濱實業家名鑑 京濱實業新報社 1907 年 647 頁 156 明治の銀座職人話 165 頁 京橋商品館の明治 36 年 12 月 31 日現在の陳列店数は 18 一ヵ年売上高は 25,000 円 一ヵ年経費高は 3,500 円であった 東京市役所庶務課 明治 36 年第三回東京市統計表 東京市役所庶務課 1905 年 591 頁 157 大銀座大観 で國光生命保険株式会社とあるのは 國光生命保険相互会社の誤りである 158 銀座銀座通り案内 では國光生命保険ビルが完成しているように描かれているが 発行された大 正 11 年 9 月時点では工事中である 159 岡本哲志 銀座四百年都市空間の歴史 160 頁

一橋大学創立 150 年史準備室ニューズレター No.2 (2016.3) 95 図表 3-11 明治 40 年代から大正年間にかけての住人 出所 ) 筆者作成 20 番地 ( 第一戸 第二戸 ) 大銀座大観 では 三河屋パン店は工事中である 大正 10(1922) 年 12 月 30 日の読売新聞に掲載された謝恩広告では 株式会社化し洋菓子製造に専念するのでそれまでの三河屋大竹商店は廃業すると宣言している ( 画像 3-18 ) 大竹としてはさまざまな工夫を重ねて業容拡大を目指していたのであろうが たくさんの種類のパン 洋菓子 ビスケットが並ぶ三河屋の店内は ハイカラな高級店 だった 160 買う側からすれば ハイカラなこの店には寄り付き難 かった 一向に客足がつかぬまま四 五年は経営していただろうか と 明治の銀座職人話 の浅野は回想している 161 大正 11 年 9 月の 銀座銀座通り案内 では 三河屋の場所は京和銀行になっている 162 21 番地中島屋白井五兵衛は 日本紳士録 第 24 版 ( 大正 8 年 ) までは確認ができる 163 明治の銀座職人話 によれば 中島屋は五兵衛なきあと近親者の間で遺産争いがあったと云い やがて銀座を去った 164 という 大正 10 年 8 月現在を示す 大銀座大観 では 21 番地は本木洋品店となっている 本木洋品店本木良之助はそれまでは芝区愛宕下で洋品店を営んでおり 165 10 年夏までに 21 番地に進出したことが確認できる 160 ハイカラとは当初は ハイカラア党 で 高いカラーをつけた若い政治家 官吏を指した 毎日新聞衿 ( 東京横浜毎日新聞の改題 ) 記者であった石川半山が明治 33(1900) 年 6 月毎日新聞に初めて ハイカラ を使った 米川明彦編著 明治 大正 昭和の新語 流行語辞典 71 頁 この語は盛んに使用され カラーのことは遠く離れてスタイル全般に及び 気障とか生意気な 洒落者 最新式などの語の起こりとなった 京橋區史 下巻 1167 頁 161 明治の銀座職人話 166 頁 162 京和銀行については 小川功 多店舗展開型銀行のリスク管理 - 大正期の京和銀行を中心に 彦 根論叢 第 374 号 2008 年を参照 163 日本紳士録 第 24 版 1919 年 780 頁 164 明治の銀座職人話 166 頁 165 日本紳士録 第 24 版 1919 年 816 頁

96 商法講習所と鯛味噌屋 一橋大学の源流を求めて 22 番地第一戸井上鯛味噌屋では 明治 42(1909) 年 6 月竹次郎が没し 166 敬三が跡を継ぐ 大銀座大観 銀座銀座通り案内 では井上食料品店 井上商店となっている 22 番地第二戸先述のように 玩具商京華社は 大正 3 年頃までは存在が確認できる 167 大銀座大観 では 京華社から村松時計店に代わっている 村松時計店は大正 8 年までは竹川町の住所であり 168 その後尾張町に移転した 大銀座大観 に載っていることから 大正 9 年ごろ尾張町で開業したものと思われる 23 番地及び 24 25 番地勧工場は 最も繁昌したのは明治 20 年代の後半から日露戦争にかけての頃であり その後は陰りを見せ始めた 169 木村恒吉の三階建ての勧工場京橋商品館( 会社名帝國商品館 ) は いくらかモダン な雰囲気で 商品も 文化的 であったけれど 一向に客の入りがなく 閑散とし 七 八年で店を閉じたと思う と 明治の銀座職人話 170 では記されている 銀行會社要録 等では 株式会社帝國商品館の存在は明治 42(1909) 年まで確認ができる 171 23 番地の帝國商品館のあとはシンガーミシンの東京支店が入居した 172 ( 画像 3-28 ) シンガーは明治 39 年 有楽町にシンガーミシン裁縫女学院を設立 東京の7 店を含め 国内に 70 店の販売店を有していた 173 明治 42 年までは東京支店は銀座三丁目だった 174 が 43 年 44 年頃の東京支店は尾張町二丁目 23 番地であった 175 このシンガーミシンの販売所は 派手な宣伝をやっていた という 176 のちに 23 番地は國光生命保険に買収された 24 25 番地の大民洋服店では山岸民次郎が明治 42(1909) 年 3 月没し 177 為吉が跡を継いだ 178 166 大植四郎編 明治過去帳 < 物故人名辞典 > 1118 頁 167 商工社編 日本全国商工人名録 1914 年 東京府武蔵國玩具商 168 日本紳士録 第 24 版 (1919 年 ) では 村松恵一時計商京橋区竹川町 19 として記載されている 434 頁 169 初田亨 百貨店の誕生明治大正昭和の都市文化を演出した百貨店と勧工場の近代史 三省堂 1993 年 65 頁 170 明治の銀座職人話 165 頁 171 東京興信所編 銀行會社要録 : 附 役員録. 第十三版 東京興信所 1909 年 548 頁 172 東京市区調査会編 東京市及接続郡部地籍地図 東京市区調査会 1912 年 173 桑原哲也 初期多国籍企業の対日投資と民族企業 : シンガーミシンと日本のミシン企業 1901~1960 年代 国民経済雑誌第 185 巻第 5 号 2002 年 47 頁 174 銀行會社要録 : 附 役員録. 第十三版 1909 年 東京府會社 276 頁 175 銀行會社要録 第十四版 1910 年 外人會社 27 頁 同第十五版 1911 年 外人會社 24 頁 176 明治の銀座職人話 165 頁 大正 3 年発行の 最新東京要覧 には 尾張町二ノ廿六として シンガーミシン會社支店が掲載されている 千本家隆編 最新東京要覧 重信堂 1914 年 284 頁 177 大植四郎編 明治過去帳 < 物故人名辞典 > 1108 頁 178 明治 45(1912) 年の 東京市及接続郡部地籍台帳 には 尾張町二丁目 24 番地 25 番地の所有者として 銀座 2-25 小岸為吉 とあるが これは 尾張町 2-25 山岸為吉 の誤りである

一橋大学創立 150 年史準備室ニューズレター No.2 (2016.3) 97 大正 5(1916) 年 4 月 17 日 國光生命保険 179 は 東京本社新築用として 尾張町二丁目 23 24 25 番地 326 坪を取得した 180 前掲 東京市及接続郡部地籍台帳 によれば 23 番地 115.19 坪 24 番地 94.27 坪 25 番地 116.53 坪であり 合計は 325.99 坪で 上記 326 坪と合致する つまり 二丁目 23 番地はこの時点ですべて国光生命保険本社用地となった 井上竹子証言との整合性については 後ほど分析する 大正 9(1920) 年 4 月 29 日 國光生命保険の尾張町本社新築場の地鎮祭が行われ 181 6 月 15 日 同社は 本社新築用地の一部として尾張町二丁目 26 27 28 番地を買収した 182 さらに 12 月 29 日 同社は警視庁に本社社屋新築認可を申請した 183 大正 5 年の土地取得から 9 年の地鎮祭まで 数年が経過している 國光生命保険は裏通りに面した土地もすべて取得することをめざし 全体の買収に時間がかかった 最初の土地買収から地鎮祭まで 四年ほど経過している 明治の銀座職人話 では 23 番地の勧工場のあとはシンガーミシンとなり 数年空地となって 盆栽が売られていた とする 184 大正 10(1921) 年 3 月 14 日 國光生命保険は警視庁より 本社新築認可の指令を受けた 185 大正 11 年 2 月 21 日 國光生命保険は本社新築用地の一部として 尾張町二丁目 29 番地の 2 を取得した 186 同社が取得した土地は おおむね 図表 3-12 のような形になった 図表 3-12 國光生命保険が本社用地として取得した尾張町二丁目 出所 ) 地籍地図 並びに 國光生命保険史 をもとに筆者作成 24 25 番地にあった大民も 23 番地とともに國光生命保険に買収され 大民は大正 8(1919) 年までには内幸町に移転した 187 179 國光生命保険相互会社は明治 40 年創業である 180 國光生命保険相互会社編 國光生命保険史 ( 大正 15 年 )30 頁 181 前掲 37 頁 182 前掲 38 頁 183 前掲 39 頁 184 明治の銀座職人話 165 頁 185 前掲 國光生命保険史 39 頁 186 前掲 41 頁 187 大正 8(1919) 年の 日本紳士録第二十三版 では山岸為吉は 洋服商麹町区内幸町 1-5 として 登場する 469 頁

98 商法講習所と鯛味噌屋 一橋大学の源流を求めて ここで 22 番地の村松時計店につき 筆界と建物境界との関係を確認しておく 22 番地第二戸は 22 番地と 23 番地とにまたがっていた 明治 10 年代に煙草商がおり 明治 21 年ごろまでには漬物屋千歳屋となり 明治 42 年頃までには玩具商京華社となった 京華社は大正 3 年ごろまでは存続していたことが確認できる 千歳屋 京華社が連屋のままであったか独立家屋に建て替わっていたかは不明であるが いずれにしろ 大正 8 年もしくは 9 年 京華社と村松時計店とのあいだに別の住人がいた期間もあるかもしれないが に村松時計店が建つ前は 期間の多少はあっても空き家または空き地であった 大正 5 年時点で 23 番地はすべて國光生命保険が取得しているため 村松時計店は筆界の不整合なく 22 番地の地所に店舗を作り開店したものと考えられる 6 関東大震災とその後大正 12(1923) 年 9 月 1 日 関東大震災とその後の火災が煉瓦街を襲った 一帯は ほぼ全焼した 國光生命保険ビルの建設中の躯体は残り ( 画像 3-29 ) 新築中の本社建物は専門家調査の結果殆ど被害無之 とされ 188 工事が再開した 大正 13 年 11 月末には地上 8 階地下 1 階の本社社屋が竣工 12 月 1 日警視庁より本社新築家屋竣工部分使用認可の指令を受けた 同日 同社の本社社屋第六階以下において 賃貸先の松坂屋銀座店が開業をした ( 図表 3-13 ) 7 階 8 階は国光生命保険が使用した 189 岸田劉生は 色も線も細かい 刻りもなかなかいい この建物を 銀座通りの洋風建築で最も美しい と思った 190 191 銀座松坂屋で特筆すべきは 当時大問題であった下足制度全廃土足入場を全館においてまっさきに採用した百貨店第一号であったことである 192 この新制度によって それまで比較的一部高級者にのみ利用されがちであった百貨店は大衆本位に政策転換をした 193 下 188 読売新聞國光生命保険 至急謹告 大正 12(1923) 年 10 月 5 日 189 前掲 45-54 頁 190 岸田劉生 新小細工銀座通 (1926 年 ) 岸田劉生随筆集 岩波文庫 44 頁 191 昭和元 (1926) 年段階の東京市の舗装普及率は約 15 パーセントであり 雨が降ると当局はヘドロ掻きに出動していた 三越では 本店西館の修築が完成し開店した大正 14(1925) 年 9 月に下足預かりを廃止しているが ここに至るまで まず米国に専門家を派遣し当地の状況を調査させた 帰国した彼らの意見は 道路の舗装状況があまりに違う日本では 土足入場は賛成しがたいというものだった 顧客の意見も聞く必要があると思った三越は まず新聞広告をだし それから顧客二千名に往復はがきで問い合わせた はがきの結果は賛否半々で 三越はようやく土足入場を決断した それまで三越では 靴履きの客 うすべりが敷 には靴にカバーをはめてもらい 下駄や草履の客には上草履にはきかえてもらって 畳もしくは薄縁かれた上を歩いてもらっていた 松屋では 大正 14 年 5 月の銀座本店開店の際 本来ならば 呉服店時代以来からのしきたり で 品物が下に落ちて汚されては困るという配慮 から 靴 草履の客にはカバーをつけてもらい 下駄の人には地階で草履に履きかえてもらうことになっていた すなわち それまでの百貨店同様の下足預かりの方法で開店したが 用意した赤い鼻緒の草履五千足が出尽くしても客は増える一方で 当初の予定を変更して 下足預かり止めよ の緊急指令を出し 土足のままで館内に入れる決断をした 初田亨 百貨店の誕生明治大正昭和の都市文化を演出した百貨店と勧工場の近代史 187-189 頁 192 百貨店として土足入場を最初に実験的に試みたのは 大正 12(1923) 年 5 月 神戸実業銀行内に設けた白木屋神戸出張所であった 初田亨 百貨店の誕生明治大正昭和の都市文化を演出した百貨店と勧工場の近代史 187 頁 193 京橋區史 下巻 652 頁

一橋大学創立 150 年史準備室ニューズレター No.2 (2016.3) 99 足預かり制度廃止の大成功によって客が激増した百貨店は 昭和初期の繁栄を謳歌した 194 松坂屋銀座店は 開店の翌年 ライオン ヒョウなどの動物園を開設し 食堂とともに 家 族連れでくる客にとって何よりも楽しい場所になっていった 195 図表 3-13 関東大震災前後の頃の住人 出所 ) 筆者作成関東大震災は甚大な被害をもたらしたが 銀座の街は復興した 昭和 5(1930) 年 尾張町二丁目は銀座六丁目となった 銀座四丁目三越屋上から新橋方面を望んだ写真では 國光生命保険の文字がビルに見える ( 画像 3-30 ) 新橋方向から京橋方面に向かって撮影された写真では 松坂屋が入っている國光生命保険ビルが 他の店舗と比較して極めて大きかったことがわかる ( 画像 3-31 ) その後のことを少しだけ加えておこう 井上食料品店はカゴヤ井上食品となり 196 ( 画像 3-32 ) 同店の閉店後はフルハタ洋服店となる 197 ( 画像 3-33 ) 國光生命保険は昭和恐慌のあおりを受けて急速に経営が悪化 昭和 8 年に日本医師共済生命 ( 昭和生命に改称 ) に 東海ら他の相互会社とともに全契約を包括移転して解散した 198 フルハタ洋服店は村松時計店とともに残っていたのだが 一帯は 194 初田亨 百貨店の誕生明治大正昭和の都市文化を演出した百貨店と勧工場の近代史 189 頁 195 初田亨 百貨店の誕生明治大正昭和の都市文化を演出した百貨店と勧工場の近代史 128-129 頁 松坂屋銀座店は昭和 5(1930) 年には一流スタッフによる百貨店初のお好み食堂を開設し 大評判となった 森哲郎 マンガ松坂屋物語江戸時代から 400 年 鳥影社 2006 年 116 頁 196 松崎天民は当時の尾張町二丁目について 東側は松坂屋から 村松時計店 カゴヤ商店 本木洋品店 ( 略 ) としている 松崎天民 銀座 銀ぶらガイド社 1927 年 156 頁 197 井上竹子は 細谷に対し 井上食料品店が松坂屋に売却されたのは昭和 12 年だったと話している 細谷 一橋大学学制史資料 34 頁 銀座通聯合会編 銀座通聯合会六十年史料 の 銀座通 6 丁目東側店舗変遷表 では井上商店 ( 大正 14 年 5 月 11 日 ) カゴヤ ( 昭和 5 年 12 月 20 日 ) 銀座図書館 ( 図書商 )( 昭和 9 年 6 月 ) 男子洋服業古畑 ( 昭和 14 年 2 月 ) となる 同時期 隣家はずっと村松時計店であった 次の昭和 17 年 5 月の欄は 村松時計店の部分は空白であり 井上商店だった欄には フルハタ (19 年 12 月より空家 ) と記入されている そしてともに昭和 20 年 5 月 25 日の空襲で焼失した とある しかしこの変遷表は ともに松坂屋の所有になったはずの昭和 25 年以降の欄に別の商店名が記載されており 内容の精度に疑問がある 銀座通聯合会編 銀座通聯合会六十年史料 銀座通聯合会 1980 年 198 國光生命保険の破綻については 小川功 昭和恐慌と生保経営 (Ⅰ) 文研論集第 109 号 1994 年 宇野典明 国光生命の破綻について 相互会社の保険金額削減の事例から学ぶもの 保険学雑誌第 567 号 1999 年を参照

100 商法講習所と鯛味噌屋 一橋大学の源流を求めて 昭和 20(1945) 年 5 月 25 日の空襲で焼失し 199 戦後すべて松坂屋となった 200 ( 画像 3-34 ) 松坂屋は隣接地を次々と買収し 巨大なビルとなった 201 3-4 まとめ以上の推移をまとめる 24 25 番地は長らく大民であり 22 番地第一戸は経営者の交代こそあれずっと鯛味噌屋だった 20 番地の三河屋 21 番地の中島屋は 後にこの地を去ってはいるが それなりに継続していた ( 図表 3-14 ) 一流の繁華街となった尾張町で商売が続くというのは 繁昌していたことを示す 繁盛店の経営者は 所得税営業税をある程度以上納めている その状況も見ておこう 明治 20(1887) 年所得税法が施行され これをきっかけとして 所得税納税額を掲載基準とする人名録 紳士録の刊行が流行する 202 大正元年の 東京紳士録 203 は 住所ごとにまとめて記載されており便利である 尾張町二丁目 20 番地以降の住人を見ると 20 番地菓子大竹忠次郎 21 番地織物白井五兵衛 22 番地食料品井上敬三 25 番地石油北村長吉 25 番地洋服山岸為吉 26 番地雑誌川合晋が掲載されている ( 画像 3-35 ) 大通り沿いでない二名 25 番地北村長吉は石油 204 商 26 番地川合晋は新聞雑誌売捌商であり屋号は東海堂 旧姓は平野 205 である この両名は除き 大通り沿いの店の経営者に限って検討を進める 20 番地から 25 番地までの大通り沿いの住人の 日本紳士録 登場実績を 第一版の明治 22 年から 関東大震災前までにつき一覧にまとめた ( 図表 3-15 ) 上記大竹 白井 井上 ( 竹次郎 敬三 ) 山岸 ( 民次郎 為吉 ) は 日本紳士録 においていわば常連であった ところが 村松時計店になる前の 22 番地第二戸 23 番地第一戸については 住人の登場はきわめて少ない 199 昭和 20 年 5 月 25 日の空襲火災は規模が大きく 銀座三 四 五 六丁目 銀座西三 四 五 六丁目が罹災した 京橋消防署調 銀座災害記録昭和 20 年 1 月より昭和 29 年 5 月まで 木村荘八編著 銀座界隈 294 頁 200 後述するように 尾張町二丁目 22 番地 21 番地 ( 昭和 5 年に銀座六丁目 1 番ノ 2 同 1 番ノ 3 となった ) の所有権が松坂屋に移転するのは 閉鎖登記簿で確認したところ昭和 26 年 25 年である 201 明治の銀座職人話 165 頁 202 永谷健 富豪の時代実業エリートと近代日本 新曜社 2007 年 37 頁 203 財務協会編 東京紳士録 : 最新公定 横尾留治 1912 年 204 京橋区尾張町二丁目 25 北村長吉は 日本紳士録 第 5 版 ( 明治 32 年 ) 以降 第 10 版 第 11 版は確認ができなかったが第 17 版 ( 大正元年 ) まで連続して登場している 北村は同第 18 版 ( 大正 2 年 ) において 日本橋区小網町に転出している ( 交詢社編 日本紳士録 各版 ) 205 京橋区尾張町二丁目 26 平野晋は 日本紳士録 には第 2 版 ( 明治 25 年 ) から第 4 版 ( 明治 30 年 ) まで連続して登場する 第 5 版 ( 明治 32 年 ) では麹町区内幸町一丁目 3 に転じている 第 6 版より川合晋として記載され 第 9 版 ( 明治 36 年 ) まで内幸町住所である ( 明治 35 年戸別一覧図 画像 3-8 では 26 番地は松本郡太郎法律事務所辨護士松本郡太郎である ) 第 10 版 第 11 版は確認することができなかったが 第 12 版 ( 明治 41 年 ) 以降 ふたたび尾張町二丁目 26 に戻っており 以降 第 20 版 ( 大正 4 年 ) まで継続して登場する 大正 5 年 4 月 6 日読売新聞に 父川合晋会葬御礼 の広告が川合一男親戚一同名で出されている ( 交詢社編 日本紳士録 各版 )

一橋大学創立 150 年史準備室ニューズレター No.2 (2016.3) 101 図表 3-14 大通り沿いの尾張町二丁目 20-25 番地の住人の推移 ( 明治 10 年代 関東 大震災まで ) 明治 24 25 23 第一戸 22 第二戸 22 第一 21 第一戸 20 第二戸 20 第一戸 戸 十年 煙草商 金花堂 綿商白石 代 鈴木小兵衛 虎吉 二十年代三十年代四十年代 大民 親睦共立商会中島乙次郎三商店木村恒吉京橋商品館 ( 会社名 : 帝國商品館 ) 勧工場 漬物屋千歳屋おもちゃ京華社 鯛味噌屋 開盛商社白石虎吉 勧工場 空き家 中島屋 楽器師 北川商店 三河屋 三河 大正 シンガーミシン 空き地 井上食料品店 屋 國光生命保険松坂屋村松時計店本木洋品店京和銀行 出所 ) 筆者作成 日本紳士録 は 明治 22 年に第 1 版が刊行された時は 所得税納税者全員が記載された しかしその後 明治 29 年に営業税が導入されたり 所得税法が改正される等法制の変更もあり 掲載基準はたびたび変わった 206 23 番地木村恒吉は 日本紳士録 第 8 版 ( 明治 35 年 ) だけに一回だけ掲載されたのだが 実はこの第 8 版は 日本紳士録 の掲載基準に 電話保有者 が加わり 木村はそれゆえ掲載されたとみられる 木村については納税額が掲載されていない 207 206 永谷健 富豪の時代実業エリートと近代日本 第 1 章人名録の思想参照 207 日本紳士録第八版 1902 年 558 頁

102 商法講習所と鯛味噌屋 一橋大学の源流を求めて 図表 3-15 日本紳士録 に登場する尾張町二丁目 20-25 番地大通りの住人 ( 明治 22 年 関東大震災まで ) 24 25 23 第一戸 22 第二戸 22 第一戸 21 第一戸 20 第一 二戸 山岸民次郎 澤江正兵衛 鈴木虎太 郎 白石虎吉 木村恒吉 井上竹次 白井五兵 大竹忠次 郎 衛 郎 山岸為吉 井上敬三 ( 国光生命保険ビル建設 ) 出所 ) 日本紳士録 各版より筆者作成 村松恵一 本木良之 助 図表 3-14 で見た住人の推移と 図表 3-15 で見た彼らの 繁昌ぶり とを合わせてみると 以下のようなことがいえる 6 連の連屋は 1 軒を三河屋が買収して拡張したことで 5 軒となったが それに大民を加えた 6 軒のうち 4 軒は 一流の繁華街となった尾張町の目抜き通りにふさわしくそれなりの繁昌をしてきた しかし 村松時計店までの 22 番地第二戸と 23 番地の 2 軒は さして繁盛もせず商売が長続きしなかった この二軒は 鯛の看板の鯛味噌屋と大礼服の回転人形の大民という両隣の派手な繁盛店に挟まれ 周囲にも印象が薄かったことが推定される 4. 井上竹子証言の分析 4-1 震災復興の区画整理細谷 商業教育の曙 における井上竹子証言を再掲する 父の井上食品店は二丁目の二十二番地と二十三番地の両方にまたがっており 地主も二人であった 二十二番の地主は楠田男爵という方で執事がとりにきていた 二十三番地の地主は栂尾さんといって八官町の米屋さんだった 父は二十二番地をふだん使っていたが

一橋大学創立 150 年史準備室ニューズレター No.2 (2016.3) 103 二十二 二十三番地の両番地を併記していた記憶もある としている 208 先述したように 明治 45 年生まれの竹子の証言であり 井上食料品店が戦前に閉店していることから 竹子の話す地主の状況は大正期から昭和初期にかけてのことであると思われる 震災後の区画整理に関して確認をしておこう すでに見たように煉瓦家屋の連屋は政府が間口を標準化したため 当初から筆界と建物障壁とのずれが発生していた よって井上食料品店には地主が二人存在したが 竹子の証言とは異なり井上食料品店が承継した 22 番地第一戸は 実際は 21 番地と 22 番地にまたがっていた ( 図表 3-4 ) 連屋が独立家屋に建替えられても 筆界と建物境界の不整合は保存されたままであった 209 この不整合は 震災後はどうなったであろうか 関東大震災後の帝都復興事業 ( 大正 13(1924)- 昭和 5(1930) 年 ) では 震災の焼失区域の約 9 割にあたる 3119 ヘクタールで区画整理が実施された 210 銀座地区では 晴海通りなど道路が拡幅されたところでは縮小変更された地割に従って 筆界と建物境界の不整合を解消するべく敷地ごとにおさまるように移転計画が立てられ 実施された 211 そこで 尾張町二丁目東側の地区の 関東大震災移転補償及移転計画図 212 の第 20 地区第 30 移転群の移転計画図 ( 東京都公文書館内田祥三文庫 )( 画像 4-1 ) を確認した 井上食料品店のあった場所 ( 青焼きの原本がマイクロフィルム化されており見えにくいのだが 画像 4-1 の2の新橋寄りの隣り) には銀座六丁目 1 番ノ 3 と同 1 番ノ 2( 尾張町二丁目でいえば 21 番地と 22 番地 ) の筆界が認められる 213 震災復興の区画整理後も 井上食料品店にはひきつづき地主は二人いた そして さらに同図からは 國光生命保険の所有地である尾張町二丁目 23 24 25 26 27 28 29 ノ 2( 図表 3-12 参照) が合筆されていることが確認できる ここが新たに銀座六丁目 1 ノ1となった 銀座六丁目 1 ノ 2 となったのは かつての尾張町二丁目 22 番地であり 尾張町二丁目 21 番地は銀座六丁目 1 ノ 3 となった 208 細谷新治 商業教育の曙 262 頁 209 前掲田中 安藤 104 頁 210 越澤明 復興計画幕末 明治の大火から阪神 淡路大震災まで 中公新書 2005 年 66 頁 211 前掲田中 安藤 104 頁 212 関東大震災移転補償及移転計画図 については 前田忠史 初田亨 関東大震災後から区画整理までの都市 銀座における建築機能の分布 工学院大学研究報告第 89 号 2000 年を参照 同論文によれば 当該地区 ( 第 20 地区第 30 移転群 ) については 移転計画図は見つかっているが 氏名 職業 補償金額等を記した 移転補償 は見つかっていない 213 尾張町二丁目 23 番地 (23 24 25 26 27 28 29 ノ 2 を合筆 ) 22 番地 21 番地は 昭和 5 年以降銀座六丁目 1 番ノ1 1 番ノ 2 1 番ノ 3 とそれぞれ変わった 銀座六丁目 1 番ノ 1 1 番ノ 2 1 番ノ 3 について それぞれ昭和 5 年 3 月 4 日土地区画整理地地債券配賦がなされていたことが閉鎖登記簿より確認できる

104 商法講習所と鯛味噌屋 一橋大学の源流を求めて 4-2 住人の認識 今までの分析から 住人の推移と地番の変更をまとめたものが 図表 4-1 である 図表 4-1 住人の推移と地番の変更 ( 出所 ) 筆者作成 ここで 細谷が 商業教育の曙 において参照した 銀座六丁目小史 の関連する記述と 図表 3-14 図表 4-1 とを比較してみる 同書 54 頁は 大正に入って 表通り東側 の玩具店きょうかしゃ ( 京橋商品館のあと ) のあとに 村松時計店 ( 創業者村松恵一 ) もで きる とし 79 頁では 明治後期 洋服商 大民 ( シンガーミシン 国光生命保険会社 松坂屋 ) の角を曲がってすぐ隣で ( 略 ) と記されている この 銀座六丁目小史 は 昔を肌で知っておられ まだまだお元気にご活躍なさっている ご長老の方々 に 昔 のお話を伺って 制作されている 214 同書の記述は かつて住人として尾張町二丁目に暮ら していた人々の認識の反映ととらえることができる しかし その記述は 事実とは一致し ない ここでもうひとり 尾張町二丁目とは特定できないが銀座の古老の回顧談をあげよう ガラス 今の松坂屋のとこが 大民 といって宮内省御用の洋服屋で 往来から覗ける大玻璃窓 の中に 大礼服の奏任官がゼンマイ仕掛で ユックリコ廻転していたのを 五十がらみ 四 十代の方でも 子供心にご存知でしょう というものである 215 すでにふれた 大民の回転人形の思い出である ここで注目すべきは 今の松坂屋のとこ ろが大民だったという説明である これは 松坂屋は大民がそっくり置き換わったものとい う記憶になりやすい 大民は 回転人形で多くの人々に強く記憶されているが その店舗も また堂々たる立派なものだった 明治 11 年から大正 7 年ごろまで 尾張町二丁目の角に長 く続いた大民の立派な店舗 ( 画像 3-17 ) を 住人は長く見続けてきた 年月を経て連屋 214 銀座六丁目小史 あとがき 215 篠田鑛造 銀座百話 181 頁

一橋大学創立 150 年史準備室ニューズレター No.2 (2016.3) 105 だった周りの店も立派になったものの 新しくできた松坂屋の威容は群を抜いていた ( 画像 3-31 ) 松坂屋を見てかつての大民を思い出すとき 23 番地にあった建物すなわち京橋商品館でありシンガーミシンであった建物の跡地も松坂屋になった事実は忘れられてしまう それこそ 上記 銀座六丁目小史 に記された 洋服商 大民 ( シンガーミシン 国光生命保険会社 松坂屋 ) と合致する ここにシンガーミシンが登場するのは シンガーミシンの 派手な宣伝 216 を記憶していた住人がいたのだろう 大民と鯛味噌屋の間に挟まれた印象の薄い 2 軒は 2 軒だったか 1 軒だったかも曖昧なほど 周囲の住人の記憶には残っていなかった それゆえ 大正に入って 表通り東側の玩具店きょうかしゃ ( 京橋商品館のあと ) のあとに 村松時計店 ( 創業者村松恵一 ) もできる とされた つまり 周囲の住人は 図表 4-2 のように記憶していた 図表 4-2 住人の記憶にある風景 出所 ) 筆者作成 ここで問題になるのは 地番の変更である 区画整理後 昭和 5 年から銀座六丁目 1 ノ 1 となったのは 既にみたように國光生命保険の所有地が合筆されたもので かつての尾張町二丁目 23 24 25 番地その他が含まれる しかし松坂屋 ( 周囲の住人は 多くの場合國光生命保険のことは記憶していない ) がかつての大民だと思えば 尾張町二丁目 24 25 番地が今度は銀座六丁目 1 ノ 1 になったのだという理解をする すると その隣 村松時計店の地所である銀座六丁目 1 ノ 2 は 大民の隣という解釈からするとかつての尾張町二丁目 23 番地であり 銀座六丁目 1 ノ 3 となったところは尾張町二丁目 22 番地だったところと受け取る これが 実際は 21 番地と 22 番地とにまたがっていたにもかかわらず 井上竹子が 井上 216 前掲 明治の銀座職人話 165 頁

106 商法講習所と鯛味噌屋 一橋大学の源流を求めて 食料品店は 22 番地と 23 番地にまたがっていた と記憶していた理由である 銀座六丁目小史 に登場する ( 井上食料品店は ) 大正期には 隣の漬物屋を買収して増築 その店舗は 23 番地にまたがる広い間口をもっていた (32 頁 ) という記述は 戸別一覧図 で鯛味噌屋の隣に漬物屋があった事実と 井上食料品店が 23 番地にまたがっていたという 証言 217 との整合性から書かれた文章であろう 大正期に漬物屋は存在せず 井上食料品店は奥行きはともかくとして間口を広げる増築はしておらず 23 番地にまたがったことはない 4-3 二人の地主竹子の言う楠田男爵は 明治 45 年時点で 21 番地の地主として 東京市及接続郡部地籍台帳 で確認することができる 明治 45 年時点で尾張町二丁目の 9 番地 56.97 坪 12 番地 66.47 坪 19 番地 106.42 坪 21 番地 126.82 坪の所有者は楠田英世であり 218 また 赤坂区臺町 63 という楠田英世と同じ住所の楠田申八郎は 尾張町二丁目 18 番地 108.31 坪を所有している 地籍台帳の名寄索引によれば 楠田英世は宅地 572.51 坪 楠田申八郎は宅地 2,051.35 坪を所有する地主である 楠田英世は天保元年生まれの旧佐賀藩士で 明治 33 年男爵となった 219 英世は明治 39 年 10 月に死去 申八郎は長男である 220 明治 11 年時点で 楠田英世は 21 番地の地主であった ( 図表 3-2 ) 尾張町二丁目 21 番地は 昭和 5 年に銀座六丁目 1 番ノ 3 となる 筆者が入手した閉鎖登 221 記簿謄本によれば 同地の所有者は赤坂区台町 63 の楠田洲であり 同地は昭和 22 年荒川区日暮里の朝日興業株式会社に売却され 昭和 25 年株式会社松坂屋に所有権移転がなされている 昭和になってからも同地は楠田家の所有であったことが確認された 竹子の証言する 八官町の米屋の栂尾さん は 明治 13 年 東京商人録 において八官 222 町 16 番地米商栂尾彌三郎として登場する 223 栂尾彌三郎は 明治 35 年 戸別一覧図 で 224 は加賀町 14 番地で川村屋という屋号で白米商を営んでいる ( 画像 4-2 ) 217 銀座六丁目小史 作成にあたって 井上竹子に取材がなされたか否かはあきらかではないが 岩崎利一が銀座六丁目町会の理事として同書の作成に関与していたこと 銀座六丁目小史 の刊行が 1983 年であり岩崎が竹子証言を得た後であることから 銀座六丁目小史 には少なくとも岩崎を通じて竹子証言が反映されているものと考えられる 218 実際には 東京市及接続郡部地籍台帳 発行当時 英世はすでに死亡している 219 大日本人名辞書刊行会蔵版 新版大日本人名辞書 上巻 大日本人名辞書刊行会 1926 年 900 頁 220 大植四郎編 明治過去帳 < 物故人名辞典 > 1935 年原著私家版発行 東京美術 1988 年 1005 頁 221 楠田洲は明治 40 年 5 月生まれ 申八郎の孫である 人事興信所 人事興信録第二版 1911 年 楠田申八郎の条 222 八官町とは 元和年間 (1615-24 年 ) に江戸幕府が八官という中国人に役宅を与えたことに由来するという説が有力である 樋口修吉 老舗の履歴書 Ⅱ 中央公論新社 1999 年 109 頁 223 横山錦柵編 東京商人録 大日本商人録社 1880 年 214 頁 米商之部 224 加賀町の地名の由来は 尾張町同様加賀国の人夫が埋め立てたという説と 名主加賀平右衛門の開発によるという説がある 野口孝一 銀座物語煉瓦街を探訪する 7 頁

一橋大学創立 150 年史準備室ニューズレター No.2 (2016.3) 107 栂尾彌三郎は 煉瓦家屋を複数所有していた 所有が確認できたのは 加賀町 14 番地第二戸 11 坪 2 合 5 勺 八官町 24 番地第二戸 9 坪 八官町 22 番地第一戸 11 坪 2 合 5 勺の三戸である 225 明治 45 年地籍台帳では 栂尾は 京橋区八官町 77.94 坪をはじめ芝区宇田川町など 計 390.98 坪の宅地を所有していた 彌三郎のあとは得三郎が継いでいる 226 明治 45 年地籍台帳では 尾張町二丁目 22 番地の地主は本所区中之郷元町 22 番地中川宗 227 七郎であった 明治 11 年段階で 22 番地の地主は中ノ口元マチ中川八重である ( 図表 3-2 参照) 宗七郎は 八重の承継者であろう 地籍台帳以降の地主の確認として かつての尾張町二丁目 22 番地 のちの銀座六丁目 1 番ノ 2 の閉鎖登記簿謄本を入手したところ 所有者は北豊島郡巣鴨町の渡邊卯吉となっており 228 栂尾が所有していたという記録は登記簿においては確認できなかった けれど 栂尾彌三郎 得三郎が以前から複数の地所や家作を所有していたことから どこかの時点で 22 番地の地主も栂尾であったと推定される 21 番地の地主である楠田 22 番地のおそらく地主である栂尾を 井上家ではそれぞれ 22 番地 23 番地の地主だと思っていたのである 229 以上により 鯛味噌屋二階説 を正当化する根拠とされた井上竹子の証言並びにこの区域の住人の記憶を反映した 銀座六丁目小史 の記述には 誤解があったことが明らかになった 井上家の誤解は 商法講習所とは無縁のものである しかし竹子の言葉から 23 番地 が出てきたために 岩崎や細谷にとって 竹子証言は 鯛味噌屋二階説 のいわばお墨付きとして作用した 5. 成瀬証言の検討 最後に 鯛味噌屋二階説 を生んだ成瀬証言を検討する まず大正 14 年の一橋新聞のインタビューから見よう 成瀬は 私が商法講習所 當時尾 225 貮等煉化家屋特別拂下月賦金取立簿 東京都公文書館蔵 煉瓦家屋の譲渡は 月賦金の支払いが済まない物件については公的な書類が残るが 月賦金の支払いが済んだものはその限りではない 栂尾の所有物件は他にもあった可能性がある 226 栂尾得三郎は京橋区加賀町 14 の米穀商として 大日本商工録 大正 11 年版 昭和 5 年版双方に記載されていたことを確認した 大日本商工会編 大日本商工録: 公認. 大正 11 年版 大日本商工会 1922 年 280 頁ならびに同昭和 5 年版 1930 年 375 頁 竹子が栂尾を 八官町の米屋さん と言ったのは 明治 45 年時点で所有が確認されている八官町の地所に栂尾の住まいもしくは店があったか 八官町に隣り合う加賀町の店を八官町と思っていたのかのどちらかであろう 227 中川宗七郎の職業は質屋であった 財務協会編 東京紳士録 : 最新公定 横尾留治 1912 年 本所区 15 頁 228 同地は渡邊卯吉より昭和 24 年世田谷区世田谷の藤巻善次郎に売却され 昭和 26 年株式会社松坂屋に所有権が移転している 229 父は二十二番地をふだん使っていたが 二十二 二十三番地の両番地を併記していた記憶もある という竹子の証言がある これは 銀座六丁目一ノ 3 一ノ 2 のことを指していたのではなかろうか 尾張町二丁目時代の番地はここでは新橋側から京橋側にむかって振られていたが 銀座六丁目になってから京橋側から新橋側にむかって振られるようになったため その混乱もあったかもしれない

108 商法講習所と鯛味噌屋 一橋大学の源流を求めて 張町の鯛みそ屋か何かの二階でしたがそこに入る前は慶應に居たのです と答えている 安政 3(1856) 年生まれの成瀬の言葉は 当時の語法を調べる必要がある 鯛みそ屋か何か の何かを 江戸語大辞典 で調べると なにか 何彼 1 名 なにやかや あれやこれや あれもこれも なにもかも 諸事 万事 2 助 転じて並列語に付き なんぞ などの意を表す副助詞 とある 230 また慶應 3(1867) 年に刊行されたヘボン和英辞書で NANI-KA ナニカ を引くと What という訳語の後にいくつか文例が並ぶ to sewashii ( 何かとせわしい ) について busy with many and various things. とある 231 すなわち 鯛みそ屋か何かの二階 とは 鯛みそ屋 and various shops の二階 を意味し 20 番地から 23 番地までの 6 連の連屋を示していると理解される 次に 昭和 10 年の如水会々報での成瀬長老回顧談における 偶々銀座通りを通ると銀座四丁目鯛味噌屋の脇に入り口があり それを昇ると二階に出ます その二階が商法講習所になつてをるので という証言の 鯛味噌屋の脇に入り口があり に注目する すでに見たように これらの連屋では構造上 脇の入り口は存在しない ( 画像 3-4 ) 鯛味噌屋の脇の入り口とは 鯛味噌屋でない家屋の入り口であろう やはりこれも 連屋を指しての表現だと考えられる もし鯛味噌屋の二階にあがろうとするならば 鯛味噌屋の入り口から入らなくてはならない 銀座四丁目 というのは 長い間慣れ親しんだ尾張町二丁目から昭和 5(1930) 年に銀座六丁目と変更になっていたための言い間違えと思われる 232 鯛味噌屋二階説には 鯛味噌屋の二階を借りて という表現が登場する 233 成瀬の証言には 借りた 云々はない 尾張町仮校舎の 23 番地第一戸は森有禮の名義であり 成瀬はそれを知っていたからである 商法講習所入学当時 成瀬は数えで 20 歳だった 鉄道が通じガス燈がついた煉瓦街 そ 230 前田勇編 江戸語大辞典 新装版 講談社 1974 年 新装版 2003 年 745 頁 231 美國平文先生編譯 和英語林集成 1867 年 明治学院復刻 2013 年 304 頁 232 成瀬は 昭和 9 年の文相を囲む夕べの時には 尾張町 と言っている 233 一橋大学百二十年史 11 頁 細谷は尾張町仮校舎について 木挽町のホイットニーの住居から三十間堀の木挽橋を渡れば 歩いて十分以内の距離にある煉瓦づくりの西洋館であった としている ( 一橋大学学制史資料 14 頁 ) また 一等煉瓦家屋払下帳 から 明治 8 年 5 月 31 日に 森有礼が尾張町二丁目 22 番地の一棟 ( 連屋 ) のうち 京橋寄りの第二号家屋と 同 23 番地の家屋を購入している とし 森と会議所との約書を根拠にして しかし 8 年 9 月に商法講習所が鯛味噌屋の二階で開業した時には この家屋は森の所有ではなくなっている 森は 6 月から 9 月の間に家屋を鯛味噌屋 ( 所有者が鈴木吉兵衛である可能性はかなり高い ) に売渡し 9 月に改めてこの二階を借りたということになろう と記す 一橋大学学制史資料 34 頁 細谷は 22 番地は二戸からなる連屋で 23 番地は連屋でない西洋館であるという理解をしていた 実際は 森が購入したのは 20 番地から 23 番地まで 6 連の連屋のうちの二戸であり 森は 8 年 5 月に 22 番地第二戸と 23 番地第一戸を入手したのち手放すことはなかった 森名義の煉瓦家屋は 19 年 12 月 森有禮が後見人となり有禮の次男英に名義替えがなされ 有禮は 22 年 2 月殺害されたが 煉瓦家屋の払下げ月賦金は 22 年 4 月 22 日に完済されている 煉下家屋拂下月賦金取立簿 東京都公文書館蔵 末子であった有禮は 明治 3 年父森有恕の籍から分家して一戸をたてた 本家の後嗣の甥有祐が年若なので 有禮が後見者としてもっぱら面倒を見た ところが不幸にしてこの有祐も明治 15 年 8 月 22 歳で亡くなる そのとき有禮は英国駐在中であった 17 年 4 月有禮は帰国 19 年 7 月有恕は後嗣未決定のまま亡くなった 同年 11 月 有禮が再び本家に復籍 分家した有禮の家は 次男の英が相続した 新修森有禮全集 別巻二 解説傳記資料一 377-378 頁

一橋大学創立 150 年史準備室ニューズレター No.2 (2016.3) 109 こには 二層ノ高楼 陸續巍峨トシテ蒼空ニ聳ユ 其高大ナルヤ 専ラ洋風ノ築造ニ模シ 巨萬ノ煉石ヲ積ミ 高サ数十尺ニ及ブ 234 という光景が広がり 此の煉瓦家屋が出来た時分にはなにしろ珍しかつたのだからわざわざ方々から見物に出懸けて来たものだつた 235 という その 二層ノ高楼 でアメリカ人教師が英語で授業をしたのが尾張町仮校舎だった この体験は 8 か月間であっても非常に強烈な印象を若き成瀬に与えたに違いない 236 商法講習所尾張町仮校舎は 尾張町二丁目 23 番地第一戸の二階であり 連屋の北角だった ( 図表 5-1 ) その頃はまだ煉瓦街はすべて完成しておらず 商業向差支 などにより入居者は頻繁に変わっていた 尾張町仮校舎の階下を含め そのときの連屋にどういう店があったのか 成瀬は記憶していない 明治 10(1877) 年 3 月 木挽町の商法講習所を卒業した成瀬は 翌月から商法講習所助教見習いを振り出しに母校の教員となった 商法講習所はしばらく学校運営が安定しなかったが 237 明治 17(1884) 年 3 月 農商務省管轄の東京商業学校となり 翌年 9 月 東京外国語学校 東京外国語学校所属高等商業学校と合併し神田区一ツ橋に移転する それまで成瀬の木挽町勤務は続いた 木挽町校舎に出勤の行き帰りには尾張町仮校舎のあったあたりを通ることも多かったと思われる ( 画像 3-10 ) 商法講習所が木挽町校舎に移転し尾張町仮校舎がなくなったのち 明治 11(1878) 年 1 月 鈴木吉兵衛の店が尾張町二丁目 22 番地第一戸に開店し やがて鯛の看板を掲げた 鯛の看板の出現は 遅くとも明治 13 年から 15 年頃のことと考えられる 238 ( 図表 5-2 ) 成瀬からすると 教員として木挽町校舎に勤務していた二十代半ばの頃 以前商法講習所が存在した連屋に鯛の看板が出現したことになる 看板の赤い鯛はよく目立ち 成瀬が生徒とし ぎが 234 服部誠一 東京新繁昌記二編 山城屋政吉 1874 年 巍峨は山や建物などが高くそびえ立つさま 尚学図書編 現代漢語例解辞典 小学館 1992 年 235 戸川残花 銀座の思ひ出 資生堂編 銀座 資生堂 1921 年 61 頁 236 煉瓦街の連屋を見ているはずの初期の頃の卒業生でも 尾張町仮校舎のあった場所は知らなかったようだ 商法講習所を明治 12 年に卒業した倉西松次郎は 東京の商法講習所が 尾張町の鯛味噌屋の二階を借りて開校したことは 話で聞いてはゐたが 自分の入學した頃はもう木挽町に移った後である 尾張町時代を知つてゐる現存者で 自分の知つてゐる人と言へば まづ成瀬隆蔵氏くらゐなものであらう と回想している 川上卯治郎編 八幡商業五十五年史 滋賀縣立八幡商業學校創立五十周年記念會 1941 年 51-52 頁 237 明治 12 年には東京府会により商法講習所の予算は半減され澁澤榮一らの醵金で補った 14 年には府会で商法講習所の予算が否決され 廃止が決定し 農商務省の補助で再興した 238 鈴木吉兵衛の店は 当初金花堂として開店した 明治 10 年 12 月 12 日 11 年 2 月 7 日 同年 8 月 9 日付の読売新聞広告では いずれも 金花堂鈴木吉兵衛 である 13 年刊行の 東京商人録 では 鯛味噌鈴木吉兵衛 と表記され 同年 12 月 23 日付読売新聞広告では 本家鯛味噌屋鈴木吉兵衛 と名乗っている 15 年 3 月 17 日付読売新聞広告では 本舗鯛味噌屋 同年 12 月 10 日付読売新聞記事では 鯛味噌屋鈴木吉兵衛 である 同年 12 月 24 日付読売新聞広告では 本舗鯛味噌屋鈴木吉衛 ( ママ ) として 広告に初めて鯛の絵が掲載される 16 年発行の 東京諸商業繁栄録 では 鯛味噌屋鈴木吉兵衛 として鯛の看板のかかった店が描かれていた ( 東京諸商業繁栄録 画像 3-14 ) 明治 10 年 12 月 12 日付新聞広告では商品の筆頭に皇國鯛味噌があり 11 年 2 月 8 月の広告にも鯛味噌が掲載されている 開店後早い段階で鯛の看板を掲げ 周囲から鯛味噌屋と呼ばれるようになって金花堂という屋号を変更した可能性もあるが 断定はできない ここでは 遅くとも鯛味噌屋を名乗る明治 13 年から 15 年頃には 鯛の看板は掲げられていたとしておく

110 商法講習所と鯛味噌屋 一橋大学の源流を求めて てかつて通っていた連屋の象徴的な存在となった 関東大震災ののちの火災で焼失するまで 鯛の看板はおよそ 43 年間同じ場所に掲げられていた 239 いままで経験したことのない西洋のような街並みの中の煉瓦造の 二層の高楼 と 銀座名物の一つ となった色鮮やかな鯛の看板 240 いずれも成瀬にとってはいつまでも心に残る 若き日のなつかしい情景であった 成瀬のなかでは時間的接点の有無にはさして注意が払われずに両者が合体して 尾張町仮校舎の記憶となった 如水会々会報の回顧談では 鯛味噌屋の脇に入り口があり そこを昇った二階が商法講習所だった と表現された ( 図表 5-3 ) 明治の半ばから 銀座煉瓦街の連屋は 独立家屋への建て替えが個別に進んでいた 一橋新聞のインタビューの時点では 銀座煉瓦街は完全に消滅していた 昭和 9 年の文相を囲む催しや 10 年の如水会々報の回顧談のときの東京は 震災復興の区画整理も加わって街並みは変化し 江戸時代以来続いた尾張町の名もすでにない 尾張町仮校舎のあった界隈も 大きく変貌した ( 画像 5-1 ) 消えてしまった煉瓦街の二層の高楼と鯛の看板 そのふたつが結びついた風景としての尾張町仮校舎を 成瀬は 若き日の遠い思い出として懐かしんだ 図表 5-1 明治 8(1875) 年 9 月からの尾張町仮校舎 [8 か月間継続 ] 出所 ) 筆者作成 図表 5-2 明治 13(1880) 年から 15(1882) 年頃鯛の看板出現 [ 約 43 年間継続 ] 出所 ) 筆者作成 239 大正 10 年 8 月末現在の 大銀座大観 ではこの店は井上食料品店である 井上食料品店はのちにカゴヤという名を冠しながらも昭和の初めまで存続していた 明治の銀座職人話 165 頁では井上鯛味噌屋は関東大震災後 店はなくなったとしている 関東大震災後の井上食料品店のことは 鯛味噌屋 だとは思っていないことになるが 関東大震災までは鯛の看板は存在していたということだろう 同じく岩崎利一は 鯛味噌屋さんがこの地に在ったのは 恐らく大正 12 年頃まで とし ( 岩崎利一 鯛味噌屋さん ) 岩崎の回想に鯛の看板は登場しない 井上鯛味噌屋が連屋から独立家屋に建て替わり 井上食料品店となったのちの大正 12 年 8 月末までは鯛の看板は存在していたと思われる 震災後 店は再開したけれども 焼失した鯛の看板はあらたに作られることはなかった 240 篠田鑛造 銀座百話 76 頁