ローマ帝国のキリスト教化 欧米文化論第 5 回 http://harlock.web.fc2.com/
本日の講義要旨 キリスト教はローマ帝国の誕生とほぼ同時期に誕生したが やがてローマ帝国はキリスト教を国教とする なぜローマ帝国は伝統の神々を捨て 数ある宗教の中からキリスト教を選んだのか キリスト教 とりわけローマカトリックとはどんな宗教なのかを概観する
キリスト教成立史年号 見出し 特記事項 BC4 年イエス誕生 (BC7 年という説あり ) AD28 年洗礼者ヨハネから洗礼を受ける 福音書の記述 30 年イエスを処刑 64 年ローマの大火事 皇帝ネロがキリスト教徒の仕業として ペテロとパウロを処刑したという伝説 250 年頃軍人皇帝による迫害 デキウス帝 (249-251 年 ) とヴァレリアヌス帝 (253-260 年 ) の時代 303 年ディオクレティアヌス帝の迫害 軍人皇帝時代を終わらせ専制君主制を確立した同帝は キリスト教徒に強制的な改宗を命じた 313 年ミラノ勅令 コンスタンティヌス帝 キリスト教を公認宗教とする 325 年ニカイヤ公会議 ( 第 1 回 ) アリウス派とアタナシウス派が対立し 後者が正統とされ 361 年ユリアヌス帝の転換 る キリスト教徒に与えられていた特権を廃し 異教 ( 特にユダヤ教 ) を保護したが キリスト教徒を直接迫害したわけではない 同帝自身はギリシア文化 ( 現代 新プラトン主義 と呼ばれる思想 ) を基盤にしていた 381 年コンスタンティノープル宗教会議 ( 第 1 回 ) アタナシウス派の正統性が確認され 三位一体の神学が完成する 392 年テオドシウス帝 キリスト教の国教化キリスト教以外の信仰を禁止する 397 年新約聖書の編纂 431 年エフェソス宗教会議 451 年カルケドン宗教会議 476 年西ローマ帝国の滅亡 第 3 回カルタゴ会議において 4 部構成全 27 巻の正典目録が発表される 原典はすべてギリシャ語で書かれている アレクサンドリア学派とアンティオキア学派 ( ネストリウス派 ) の対立 キリストに神性と人性の両方があるとする両性説を採択 また ネストリウス派を排斥した
キリスト教の誕生 イエスが宗教活動を展開したのは AD30 年頃の数年間 この頃 ユダヤ人社会では サドカイ派とファリサイ派が最高議決機関サンヘドリン内部で対立 イエスは 当初はファリサイ派の影響を受けていたと思われるが 黙示派の指導者ヨハネに感化されて終末思想に傾き 改革派指導者として自立
イエスの時代のユダヤ教各派名称 説 明 サドカイ派 エルサレム神殿の祭司階層 =ローマ支配に妥協的 ファリサイ派 シナゴーグ ( 会堂 ) を中心に口承で伝わった律法の承認を求める人々 =ローマ支配に中立的 エッセネ派 世俗を離れて共同生活を送る人々 黙示派 エッセネ派やイエスの師であった洗礼者ヨハネの教団を含むローマ支配抵抗派 シナゴーグとは BC586 年のバビロン捕因以降 ユダヤ人が宗教的自立性を保持しようと集まっ た会堂 BC538 年に捕因が解かれると パレスティナに帰還したが 再建されたエルサレム神殿を 拠点にしたのがサドカイ派
キリスト教の誕生 ( 続き ) しかし イエスは 他の黙示派と違って 荒野に引きこもらず 社会的弱者や女性 下級階層の人々に律法を新しい視点で解釈してアピールした 健康な人よりも病人に医者が必要なように 善人より罪人にこそ神の救済がふさわしい すべてを失って罪人として神の前に立つ人は救済に近い この説法は 徳を積むことで神に救済されると考えるサドカイ派やファリサイ派と対立 過激思想を広める者として ローマのユダヤ属州総督に訴えられた
布教とキリスト教の成立 イエスの死後 ペテロを中心とする弟子たちは イエスをキリスト ( 救世主 ) だと主張 この時点では ユダヤ教黙示派と考えられた キリスト教が拡大する道を開いたのは ファイサイ派から転向したパウロが イエスは神の子で 全人類の罪を償うために死んで 復活したと主張 = しょく罪神学 パウロは 小アジア ギリシア ローマなどの諸都市を巡って布教した
ローマ帝国とキリスト教の関係 ローマ帝国とキリスト教と聞くと 迫害と大量の殉教者というイメージがつきまとうが ローマ皇帝による迫害は少なかった 大規模な迫害は 64 年のネロ帝と 303 年のディオクレティアヌス帝だが その 10 年後には公認される 更に 392 年にはローマの国教となり ローマ伝統の神々を含めて キリスト教以外の宗教を信じることを禁止する
なぜキリスト教は広まったか? 直接的な原因は ローマ皇帝の権限強化や帝国の統治原理に組み込まれたから 313 年にコンスタンティヌス帝のミラノ勅令で公認されるが 彼の登場時点でローマ帝国には 4 帝いた 彼はキリスト教を公認し 保護することで全ローマを統一した 392 年のテオドシウス帝による国教化に際しては ローマ帝国は東西に別れていた 彼はキリスト教の宗派対立を利用した
なぜキリスト教は広まったか ( その 2) 378 年にテオドシウスは東ローマの共同皇帝になる 彼は 381 年コンスタンティノープル公会議を開き 三位一体派を正統とする 政敵のヴァレンティアヌス 2 世がアリウス派であるのに対して 彼はアタナシウス ( 三位一体 ) 派となる これはコンスタンティノープル司教 ( アリウス派 ) の首のすげ替えでもあった ローマとアレクサンドリアは三位一体派であった また ヴァレンティアヌス 2 世の後 394 年に古代ローマ教を擁護する政策を採った元老院議員エウゲニウス ( 一応 皇帝を名乗る ) を破り 全ローマ帝国を統一する
なぜキリスト教は広まったか ( その 3) キリスト教の国教化以後 ローマ帝国内では元老院階級が自領地の都市 ( キウィタス ) に大聖堂を建設して慈善事業を施したり 修道院を建設して聖職者を養成したりした これによって 彼らは教団から司教の地位が与えられた 大司教 > 司教 > 司祭 > 助祭 ローマ帝国の支配階層もキリスト教化していった
なぜキリスト教は広まったか ( その 4) では キリスト教徒がそもそもローマ帝国内でなぜ増えたのか? キリスト教が国教化されるころのローマ帝国には イシス教やミトラス教 マニ教などの新興宗教が流行っていた すべて一神教 ( 他の神は認めない ) その中で キリスト教は キリストの貧者と呼ばれる救済事業に特徴がある 最も小さい者にしたことは神にしたこととして賞賛される ( マタイの福音書第 25 章 40 節 )
なぜキリスト教は広まったか ( その 5) これを他の宗教と比較すると ゾロアスター教などの大部分の古代宗教は 善悪二元論で善を積む以外には救済されない 乞食や売春婦などは救済されない! 大乗仏教は例外的に 菩薩行と呼ばれ 他者も救済する教えがあるが これは自分が悟りを開くために煩悩 ( すなわち物欲 ) を捨てる行為で キリスト教のアカペー ( 無償の愛 ) とは異なる 仏教用語の慈悲 ( 慈善 = 慈悲を実践すること ) は 他者が涅槃 ( ねはん ) に達せないことを哀れむ言葉で charity とは意味が違う
なぜキリスト教は広まったか ( その 6) 古代ローマには エヴェルジェティスムと呼ばれる寄附制度の伝統があった これは 富裕者が共同体のために公共の建物を建造したり 公共工事を行う行為である キリスト教の charity は このエヴェルジェティスムと合致する思想であり しかもエヴェルジェティスムでは 贈与を受ける貧民は富裕者の仲間ではなかったが キリスト教の chari ty では 同じ神を信じる同胞であった
キリスト教神学の誕生 ( その 1) ローマ帝国のキリスト教国化は ギリシア哲学からキリスト教神学への転換を引き起こした ローマ帝国時代の最も成功した神学は アウグスティヌス (354-430) の 告白 であった 彼は晩年に大著 神の国 も書いているが 告白 は単なる自伝に留まらず神学論を展開している この 告白 の推論形式は内省 ( ないせい ) と呼ばれ デカルトの 省察 ( せいさつ ) につながる
キリスト教神学の誕生 ( その 2) アウグスティヌスの神学の特徴は 1) 新プラトン主義 ( プロチノス ) に立脚していること 2) 人間は自力で善人になることはできない ( 救済されるか否かは神の意思 ) と考えたこと 新プラトン主義とは 善のイデアを神と同一視するが 人間が善のイデアを直接認識することはできず 直感するだけであるという考え方