件名 自殺総合対策大綱の見直し ( 改正 ) に向けての提言第二次案 に対する意見 氏名 名古屋大学大学院医学系研究科精神医学 親と子どもの心療学分野教授日本精神神経学会 理事 日本生物学的精神医学会 理事 日本精神 行動遺伝医学会 理事 日本神経精神薬理学会 理事 日本統合失調症学会 理事 日本うつ病学会 理事 日本産業精神保健学会 理事 日本アルコール精神医学会 理事 尾崎紀夫 意見 今回 公表された 自殺総合対策大綱の見直し ( 改正 ) に向けての提言第二次案 について 意見を以下にまとめました よろしくお願い申しあげます 1. 自殺者の多くを占める気分障害 ( うつ病 双極性障害 ), 統合失調症 アルコール依存 乱用 パーソナリティ障害 (p.18) という文言があり その後 アルコール依存 乱用 パーソナリティ障害 摂食障害は取り上げられている 双極性障害及び統合失調症患者も自殺率が高く その対策の重要性は明記されるべきである 例えば 昨年 デンマークの大規模な精神障害患者の自殺危険率に関する以下のデータが発表されている (Arch Gen Psychiatry 68 (10):1058-64, 2011) 期間 : デンマーク 2006 年までの 36 年間にわたる前向き調査研究対象 :15 歳以上で精神科受診した 176,347 人 (1955 から 1991 生まれ ) 結果 : 初診以降の自殺既遂リスク男性ー双極性障害が一位 (7.77%; 6.01%-10.05%). 女性ー統合失調症が一位 (4.91%; 95% CI, 4.03%-5.98%), 双極性障害が二位 (4.78%; 3.48%-6.56%). 今後 自殺対策の標的を明確化する同様の情報を我が国でも構築することが必須 1
自殺危険率の高い双極性障害及び統合失調症に関しては 早期診断 早期介入の対策が必要であることは 以下の証左から明らかである 双極性障害の診断の遅れは顕著であり 69% の患者は誤診の経験があり 1/3 以上の患者は診断が確定するまでに 10 年以上を経過しており (J Clin Psychiatry 64,2 p161-74,2003) 診断が確定するまでの期間は平均 7.8 年 (Bipolar Disord. 2003 5: 169-79) とされている 未治療期間が長くなると自殺企図回数も多いとの証左もある (Eur Arch Psychiatry Clin Neurosci 260,5 p385-91,2010) 我が国の 75 万人統合失調症患者のうち 19.7 万人が入院を余儀なくされているのが現状である (2005 年厚労省患者調査 ) 初発統合失調症 118 例を対象としてアルゴリズムに則った治療下で 5 年間追跡して 予後を調査した結果によると 症状レベルの寛解と適切な社会機能が維持できている回復を達成できたものは 13.7% に過ぎず 症状が持続していた症例が 13.6% に達していた (Am J Psychiatry 161,3 p473-9,2004) すなわち 統合失調症の治療予後は未だ十分とは言えない 一方 メタ解析によれば 未治療精神病期間 Duration of untreated psychosis (DUP) が長いほど臨床的転帰は不良であることが明確化されている (Arch Gen Psychiatry 62,9 p975-83,2005) 以上から 自殺リスクの極めて高い双極性障害並びに統合失調症の自殺防止を含む予後改善には早期発見の方策 例えば啓発 診断法開発などが必須である また 自殺危険率の高い群として高齢 単身者が指摘されている (N Engl J Med343,26 p1942-50,2000) 我が国で高齢化している入院統合失調症患者の脱施設化を地域の受け皿のないまま進めると 自殺危険率の極めて高い群に繋がり得ることに十分留意する必要がある したがって 地域での高齢者サポート施策の中に 統合失調症等精神障害を併存している高齢者に対応できる人材や緊急避難施設などの充実が地域支援のなかに必要である 2. 摂食障害 (p19-20) の中で anorexia nervoza に関しては 自殺を含めた致死率の高さを明記すべき 昨年 発表された米国の大規模疫学調査によると 13-18 歳 10,123 人において anorexia nervosa, bulimia nervosa および binge-eating disorder の Lifetime prevalence は各々 0.3%, 0.9%, 1.6% と報告されている (Arch Gen Psychiatry 68,7 p714-23,2011) さらに メタ解析によると anorexia nervoza の致死率は (deaths per 1000 person-years) は 5.1 にのぼり 加えて死亡した anorexia nervoza の 5 人に 1 人は自殺であったとされている (Arch Gen Psychiatry 68,7 p724-31,2011) 2
日本人の BMI は 男性の全ての年代および女性の 40 歳台以上で年々増加しているが 20 歳台の女性は特異的に BMI が 1980 年以降減少している 若い女性の やせ指向性 もあり 摂食障害患者 特に若年発症例や長期慢性化している症例の増加が指摘されている 重度の anorexia nervoza など 身体的な危機に瀕している精神科患者は 精神科医 児童精神科医 臨床心理士に加え 十分な看護数 身体合併症に対応できる病棟構造 内科 小児科等との協力体制など 高い専門性と豊富な医療資源を要求する 従来 身体的に重篤でかつ精神科アプローチの必要な患者群は 一般総合病院の精神科で対応することが多かった しかし 総合病院の精神科診療体制が縮小 閉鎖の経緯があり 提供すべき医療の受給体制のバランスが崩れている 総合病院や 2 次救急以上の医療を提供することを標榜する医療機関においては 精神科病床や精神医療に関わる人材の維持 充実を可能とする予算措置等の施策が必要である 3. 一般身体疾患を有する患者に対する対応が 本大綱では専らガンに焦点をあてた記述になっている (p21-22) しかし 一般身体疾患の領域で精神医学的な側面が着目されている 特に循環器領域では うつ病の併存が 循環器疾患の生命予後に悪影響がもたらし 精神医学的な介入が生命予後の改善をもたらし得ることが示されており No Health without Mental Health でも強調されている (Lancet 370,9590 p859-77,2007) 3
以下 No Health without Mental Health に使われていた表を紹介する MD は身体疾患のリスクファクタ 身体疾患治療アドヒアランスへの影響 身体疾患の予後 アウトカムへの影響 MD の治療効果 精神症状への効果 身体疾患への効果 冠動脈疾患 (MD) 脳卒中 ( うつ病 ) 糖尿病 (MD) ++++ ++ +++ + - +++ なし +++ - - + +++ +++ + + 糖尿病 ( 統合失調症 ) + ++ なし な し MD: Mental Disorder ++++ メタ分析等によるエビデンス +++ 複数の研究による一貫したエビデンス ++ 一つの研究によるエビデンス + 結果が一致せず - ネガテイブな報告 さらに 総合病院では 院内の自殺は大きな問題である (( 財団法人日本医療機能評価機構による調査 : 患者安全推進ジャーナル No.13, 64 69,2006) 2 の項目で述べたとおり精神科を併設している総合病院は減少しており 自殺リスクが評価されずに放置されているという状況が考えられる リスクが評価され それに対応出来る 機能が必要不可欠であり 精神科医に加えて看護師 精神保健福祉士 薬剤師 心理士などコメディカルを中心としたゲートキーパー機能を持つ人材の維持 充実を可能とする予算措置等の施策が必要である なし 4
4. 母子保健 (p27) 産後はうつ病をはじめとする精神疾患の頻度が発症 再燃 再発しやすい時期である 自殺は産後の死亡の 20% を占め 自傷念慮が生じる頻度はさらに高く 妊娠中と産後の自傷企図は 5-14% とされる (Arch Womens Ment Health, 8:77-87, 2005 ) また 自殺傾向を持つ場合 母子関係構築の上でも障害を引きおこす (Arch Womens Ment Health 12:309 321, 2009 ) さらに 双極性障害女性の 63% が産後 1 か月以内に産後気分障害エピソードが生じ 産後の軽躁状態は約 9-20% にみられ 産後後期における双極性障害の発症と関与するといった証左から 産後には双極性障害発症が多いことにも留意する必要がある (Am J Psychiatry 166,11 p1217-21,2009). 加えて 1973-2005 年 デンマークの全精神科入院患者対象として 28,124 人の初産婦と 10,218 人の経産婦を追跡調査した結果 出産後の再入院率が最も高いのは双極性障害であり 産後 6 ヶ月で 22% は再入院となっていることも報告されている (Arch Gen Psychiatry 66 (2):189-95, 2009) 我が国では 平成 22 年 周産期医療体制整備指針 により 総合周産期母子医療センターにおける 母子に対するこころのケア が重要視され 臨床心理士の配備が明文化された 前述した如く 周産期は 高頻度で発症あるいは再燃 再発する気分障害や精神病性障害に対して医療的対応が必要な場合も多く 総合周産期母子医療センターには精神科医が必須である また 前述の様な周産期メンタルヘルスの実証的データを我が国でも研究により明確化し 対策の方向性を決める必要がある 5. 職場のメンタルヘルス対策 (p24) 職場のメンタルヘルス対策として 教育研修がその中核に位置づけられてきた 特に 管理監督者教育が職場のメンタルヘルスにもたらす有効性については知見が蓄積し 既に教育研修資材も開発されている との記載がある 上記の文章には 誰が実際に教育 研修を行うのか明確化されていない また 教育 研修の内容に関して 前記 1,2 で述べた自殺危険率の高い多様な精神障害に関する情報提供を行うことも明記されていない さらに これまでの自殺予防に関する実証的データによれば疾病教育は教育を受けたものの行動変容が必要であることが判明しており 単なる知識伝授型の教育 研修ではなく 発生した事例に則して助言を受けて 受講者が事例への対応方策を身につける必要がある (Jama 294,16 p2064-74,2005) (Arch Gen Psychiatry 64,8 p914-20,2007) 以上を踏まえると 職場に実際関与している産業精神衛生の専門家が教育 研修を実施することが必要である 5
さらに産業精神衛生の専門家は 勤労者へのメンタルヘルス教育に加え 職域で生じた精神障害の各症例に関する相談業務 ( 早期発見による治療導入ならびに職場復帰後の復職支援プログラムを含む ) や 各職域にふさわしいメンタルヘルス体制の立案実行も実施する必要がある 産業精神衛生の専門家として 産業精神保健に通暁した産業医が配備されることが理想的であるが 現状 実現性が高いとは考えづらい 一方 非医師の産業精神保健スタッフ ( 保健師 臨床心理士など ) は 需給バランスからすれば 十分供給の可能性がある ただし 前述の内容を実施できる保健師 心理士を育成する教育システムは未整備であり 各職域での現場教育と各個人の努力に依存しているのが現状である 今後 教育システムが整備され 職域に適切な産業精神保健スタッフの配備がなされることが必要である さらに 職域で期待されているのは 精神障害の発症そのものを抑える一次予防策である 一次予防を実施するためには 発症因が明確化されること ハイリスク群の同定方法 予防法の確立といったことが必要でなる うつ病を例にとれば ストレスフルライフイベントやソーシャルサポートといった発症時の環境要因 養育環境 遺伝因子が 発症に関与していることが想定されているが その詳細の解明は今後の研究課題である また 職域における精神障害発症のハイリスク群として 我が国では長時間労働群が用いられているが 長時間労働群がハイリスク群であることを示す証左は乏しい 例えば 我々の検討では飲酒回数の多さがその後のうつ病発症リスクを示唆しており 介入対象となるハイリスク群を同定するためにこの様な証左を積み上げることが必要である (J Affect Disord 128,1-2 p33-40,2011) 加えて うつ病の一次予防として 両親がうつ病である思春期ハイリスク群に対する認知行動療法の効果 (JAMA 301,21 p2215-24,2009) や 産後うつ病発症の可能性がある妊婦に対する対人関係療法の効果 (Am J Psychiatry 163,8 p1443-5,2006) が報告されている しかしながら 職域でのうつ病一次予防に関する実証的データは乏しいのが現状であり 今後 実証的データが必要と考える 6