癒しの業と宣教 ( ルカ 4:38~44) 1) ルカ福音書講義 (23) 2017.05.21 4 章 38 イエス 2) は会堂から立ちあがり シモンの家 3) に入った シモンのしゅうとめが 高熱 4) で苦しめられており 彼らは 5) 彼女のことをイエス 6) に願った 39 彼は彼女の枕 もとに立って 7) 熱を叱りつけると 8) それは彼女を去った たちまち 9) 彼女は立ちあが って 彼らに仕えた 10) 40 日が沈むと 11) 様々な病気に苦しむ人を抱える多くの者たちは彼らをイエスのもと に 12) 連れて来た 彼は彼らの一人ひとりに手をあてて 13) 彼らを癒した 41 悪霊たちも多くの者から出て行き 叫んで言った あなたは神の子だ と 14) する と彼は叱りつけて 15) それらにもの言うことを許さなかった 16) 彼がキリストである とそれらは知っていたからである 17) 1) マコ 1:29-39 の並行記事 マタ 8:14-17 にも 41 節までが伝わる この単元から 12 弟子の選任 (6:12-16) まで 基本的にマコ 1:29-3:19 にならう 2) 3) シモンとはペテロ (5:8 シモン ペテロ ) のこと ルカは 5 章に弟子の召命記事を配置するので この段階ではシモンが弟子であることを前提にしていない それに対して 弟子の召命記事をカファルナウムの会堂での出来事の前におくマルコ福音書ではここを シモンとアンデレの家 とし ヤコブとヨハネも共に と記す 4) 直訳は 大きな熱 5) 誰であるか明示されないが まずはシモンとその妻が考えられよう シモンは妻の母と一緒に生活していた 当時 それは異例のことであったろう シモンが寡婦になった義母を引き取ったなど 様々な理由が想像されるが 福音書はそれを明示しない 6) 7) 別訳 彼女の上に身を立て 直訳 彼女の上に立って マルコ福音書は かれは近寄り 手を取って彼女を起こした すると熱は彼女を去り 彼女は彼らに仕えた 8) 熱 が病気を起こす悪霊のように理解されている 4:35 の訳注参照 なお 熱を叱りつける という表現はルカ特有 マコ 1:31 彼女の手を取って彼女を起こす マタ 8:15 彼女の手に触る 9) パラクレーマ (parachrẽma) たちまち ただちに はルカが奇蹟物語に好んで用いる副詞 1:64 5:25 8:44 など福音書に 10 回 使徒記に 3:7 5:10 など 7 回 10) 仕える と訳した動詞ディアコネオー(diakonéō) はルカ福音書では 10:40 12:37 17:8 など 22:26 上に立つ者は仕える者のように 名詞ディアコニア (diakonía) は 奉仕 ディアコノス (diákonos) 奉仕者 後に I テモ 3:8-13 などに基づき 教会の役職 執事 助祭 補祭司 ( 英 deacon) へとつながる語 11) 安息日 (4:31) であったので 日没後 すなわち安息日が終わって 人々は病人を連れてきたのである 12) 原文 彼らを彼のもとに マコ 1:32 すべて病気をもつ者と悪霊にとり憑かれた者たちを 13) 手をあてて はルカ特有 日本語でも病人の治療を 手あて という 14) この悪霊の発言も次節の 叱りつけて もマルコになく ルカの筆による 神の子 はイエスに対する悪魔の言葉でも繰り返された (4:3 9) 15) マコ 1:34 多くの悪霊を追い出し 16) 悪霊(daimónion) はギリシア語では中性名詞 17) マコ 1:34 は 彼 (=イエス) を知っていたからである ルカはこれに キリスト を加え 1
42 朝となり イエスは 18) 19) そこを 出て 人気のない場所に行った 20) すると 民 衆が彼を探して 彼のところまでやって来た 21) そして 彼らのところから出て行かな いように と彼を引きとめた 43 22) イエスは彼らに言った 私はほかの町々にも神の国を福音として告げ知らせな ければならない そのために私は遣わされている 23) のだから と 44 こうして彼はユダ ヤの諸会堂で宣べ伝えた 24) カファルナウムの遺跡写真 左上 : 現在の保存遺跡 ( 手前が 4 世紀のシナゴーグ 屋根のある 建物が 5 世紀の八角堂教会 ) 右上 : 発掘当時の航空写真 下 : 八角堂教会遺構 て補った キリスト については 2:11 の注参照 18) 19) エレーモスは名詞で用いる場合 荒野 (4:1) ここでは形容詞 荒涼として誰もいない という意味合い 20) マコ 1:35 によれば祈るため 21) マコ 1:36-37 によれば シモンとその仲間たち がイエスを追ってきて 皆があなたを探しています と言う 22) マコ 1:38 は 神の国を福音として伝える を単に 宣べ伝える と記すが 神の国 ( マタイは 天の国 と表現 ) はイエスの福音の中心概念 マルコ福音書はイエスの宣教の第一声を 時は満ち 神の国は近づいた と伝え ( マコ 1:15) マタイ福音書はそれを 悔い改めよ 天の国は近づいたから と記す ( マタ 4:17) ルカはこれを 10:9 11 31 で繰り返し 神の国 がいつ来るのか という問いに対するイエスの答えを 17:21 に記す 23) マコ 1:38 は 出てきた 24) マルコは こうして彼は行って 彼らの会堂で 全ガリラヤで宣べ伝え 悪霊どもを追い出 した ルカはガリラヤも ユダヤ の一部とみたのであろう 2
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カファルナウムの会堂 ( シナゴーグ ) における悪霊追放の記事に続く 38 節から 44 節までには 三つの記事が記されている 第一は 38-39 節 熱病に苦しむシモンの姑の癒しの記事 第二は 40-41 節 イエスが多くの病人を癒し 多くの人から悪霊を追い出したという記述 第三は 42-43 節 人気のない場所に赴いたイエスを人々が追ってきたが イエスは他の町々でも福音を宣教しなければならない と語ったという記事 そして 最後の 44 節はこれら全体を イエスがカファルナウムだけでなく ユダの諸会堂で宣教した とまとめる ルカはマルコ 1:29-39 を下敷きにしてこれらを記している しかし 細部にはルカによる変更やルカ特有の筆使いが目立つ まず シモンの家においてイエスがシモンの姑の熱病を癒す短い記事 この記事はマタイも 8:14-17 に記している ここには いくつか考えさせられることがある 第一に シモンの家に姑が つまり妻の母が同居していたこと 女性が夫の家に嫁ぐ当時の慣習からすれば 不自然ではないにしても 異例のことであったはず しかし その理由は記されない マルコによれば シモンとアンデレの家 となっているが シモンの両親と妻の両親が同居していたとは考えがたいので シモンの両親は他界していたか それとも 寡婦となった姑の体が弱かったので シモンの家でケアしていたのか いずれにしても その シモンの家 と呼ばれる遺構がカファルナウムの遺跡で発見されている 5 世紀の八角堂教会の下層にある建造物 もっとも その遺構がシモンの家であったのかどうか という点は証明の限りではないとしても 後の時代に教会が建てられた場所なので そこがシモンの家であった という言い伝えがあったらしいことは認めてよい シモンの姑の記事に戻る 彼女は熱に苦しんでいた そこで イエスは熱を 悪霊を追い出すときにしたように 叱りつけると 熱は彼女をから去って行った という (39 節 ) この記事に りつける という表現を用いたのは ルカの筆 熱病が悪霊のように考えられていたのである 熱病を癒された姑は 彼らに仕えた と記される これはマルコでも同じ 新共同訳聖書などでは もてなす この動詞については 訳注 10) 参照 第二の記事は イエスが多くの病人を癒し 多くの人から悪霊を追い出した と記す 病気を癒す際に 手をあてた ( 手をおいた ) と記される また 悪霊に対しては ここでも りつけた と記される 悪霊は悪霊で あなたは神の子だ と叫んだ 会堂での悪霊追放の物語でも 悪霊はイエスに 神の聖者 と叫んだという (4:34) 悪霊もまた イエスのことを知っている しかし 知るということと 信じるということは別のこと パスカルはこのことを 神に関して アブラハムの神であって 哲学者の神ではない と表現した 神という存在を認識しているということと 神を信じるということとは別のこと 信じるとは 神に信頼して生きること イエスに対しても同じことが言いうる 神の子イエス と言うだけならば 悪霊でもできる しかし悪霊は イエスを救い主と信じ イエスの言葉を信じて生きることをしない 聖書において 信じるとは認識ではなく 生き方に関わることがら イエスは 悪霊がイエスのことを キリスト と言うことを許さなかった理由も そうして点に求められよう 第三の記事 イエスは 人気のない場所に出て行った この記事はマタイにはみられない 人気のない所 / 場所 にはエレ モス 荒野 が形容詞として用いられている 寂しい場所 という訳もある いずれにせよ 荒野のような人気のないところ マルコは ここに 祈るために という言葉を加えているが ルカはなぜかそれを省略した 4
そのために 読者は何のためかを考えさせられる マルコを知らなければ イエスは病気直しや悪霊追放に疲れ果てて 休もうとしたのかもしれない と想像するかもしれない しかし 旧約聖書を読むと 荒野が神に出会う場所であること知らされる 出 5:1 では モーセがファラオと直談判して イスラエルの民を荒野ゆかせよ と迫る 自分たちの神を礼拝するためであった エリヤも神と会うために 荒野 に出て行く ( 王上 19:4) 預言者ホセアも 神は 荒野 でイスラエルの民の心に語りかけるであろう と告げる (2:16) つまり 荒野 は神と出会う場所である という観念が旧約聖書にあった ところが 人々はそのことを理解せず イエスを連れ戻そうとする マルコはシモンとその仲間たちがイエスを探しあてたと記すが ルカは人々がイエスを探した と物語る イエスはそれに対して 彼らの要求を退けるかのようにして 自分はほかの町々でも神の国の福音を宣べ伝えなければならない と告げる イエスの福音は広く伝えられなければならない 44 節をルカは ユダの諸会堂で宣教した と記すが マルコは 全ガリラヤの諸会堂で と伝えている ルカが ガリラヤ を ユダ と変えた可能性がある ルカは 使徒言行録まで含め イエスの福音はエルサレムからローマへ という救済史的な枠組みが設定されている しかし 福音書に限れば ガリラヤからユダへと福音は伝わった ということだろう いずれにせよ 荒野の誘惑を退けたイエスは ガリラヤで宣教を開始した その宣教は 言葉による教えだけでなく 病に苦しむ人の癒し 悪霊に憑かれた人の解放を伴っていた 神の国の福音は言葉や観念だけではなく 現実にはたらく力をもっている 福音書記者はガリラヤ伝道でまずがそのことを読者たちに具体的に示そうとした 5