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Clostridium difficile 毒素遺伝子検査を踏まえた検査アルゴリズム

よる感染症は これまでは多くの有効な抗菌薬がありましたが ESBL 産生菌による場合はカルバペネム系薬でないと治療困難という状況になっています CLSI 標準法さて このような薬剤耐性菌を患者検体から検出するには 微生物検査という臨床検査が不可欠です 微生物検査は 患者検体から感染症の原因となる起炎

第 88 回日本感染症学会学術講演会第 62 回日本化学療法学会総会合同学会採択演題一覧 ( 一般演題ポスター ) 登録番号 発表形式 セッション名 日にち 時間 部屋名 NO. 発表順 一般演題 ( ポスター ) 尿路 骨盤 性器感染症 1 6 月 18 日 14:10-14:50 ア

通常の市中肺炎の原因菌である肺炎球菌やインフルエンザ菌に加えて 誤嚥を考慮して口腔内連鎖球菌 嫌気性菌や腸管内のグラム陰性桿菌を考慮する必要があります また 緑膿菌や MRSA などの耐性菌も高齢者肺炎の患者ではしばしば検出されるため これらの菌をカバーするために広域の抗菌薬による治療が選択されるこ

緑膿菌 Pseudomonas aeruginosa グラム陰性桿菌 ブドウ糖非発酵 緑色色素産生 水まわりなど生活環境中に広く常在 腸内に常在する人も30%くらい ペニシリンやセファゾリンなどの第一世代セフェム 薬に自然耐性 テトラサイクリン系やマクロライド系抗生物質など の抗菌薬にも耐性を示す傾


抗菌薬の殺菌作用抗菌薬の殺菌作用には濃度依存性と時間依存性の 2 種類があり 抗菌薬の効果および用法 用量の設定に大きな影響を与えます 濃度依存性タイプでは 濃度を高めると濃度依存的に殺菌作用を示します 濃度依存性タイプの抗菌薬としては キノロン系薬やアミノ配糖体系薬が挙げられます 一方 時間依存性

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「薬剤耐性菌判定基準」 改定内容

公開情報 2016 年 1 月 ~12 月年報 院内感染対策サーベイランス集中治療室部門 3. 感染症発生率感染症発生件数の合計は 981 件であった 人工呼吸器関連肺炎の発生率が 1.5 件 / 1,000 患者 日 (499 件 ) と最も多く 次いでカテーテル関連血流感染症が 0.8 件 /

四国大学紀要 Ser.A No.42,Ser.B No.39.pdf

プライマリーケアのためのワンポイントレクチャー「抗菌薬①」(2016年4月27日)


後などに慢性の下痢をおこしているケースでは ランブル鞭毛虫や赤痢アメーバなどの原虫が原因になっていることが多いようです 二番目に海外渡航者にリスクのある感染症は 蚊が媒介するデング熱やマラリアなどの疾患で この種の感染症は滞在する地域によりリスクが異なります たとえば デング熱は東南アジアや中南米で

(案の2)

ン (LVFX) 耐性で シタフロキサシン (STFX) 耐性は1% 以下です また セフカペン (CFPN) およびセフジニル (CFDN) 耐性は 約 6% と耐性率は低い結果でした K. pneumoniae については 全ての薬剤に耐性はほとんどありませんが 腸球菌に対して 第 3 世代セフ

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薬剤耐性とは何か? 薬剤耐性とは 微生物によって引き起こされる感染症の治療に本来有効であった抗微生物薬に対するその微生物の抵抗性を言う 耐性の微生物 ( 細菌 真菌 ウイルス 寄生虫を含む ) は 抗菌薬 ( 抗生物質など ) 抗真菌薬 抗ウイルス薬 抗マラリア薬などの抗微生物薬による治療に耐えるこ

2 経験から科学する老年医療 上記 12 カ月間に検出された病原細菌総計 56 株中 Escherichia coli は 24 株 うち ESBL 産生菌 14 株 それ以外のレボフロキサシン (LVFX) 耐性菌 2 株であった E. coli 以外の合計は 32 株で 内訳は Enteroco

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2012 年 2 月 29 日放送 CLSI ブレイクポイント改訂の方向性 東邦大学微生物 感染症学講師石井良和はじめに薬剤感受性試験成績を基に誰でも適切な抗菌薬を選択できるように考案されたのがブレイクポイントです 様々な国の機関がブレイクポイントを提唱しています この中でも 日本化学療法学会やアメ

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中医協総会の資料にも上記の 抗菌薬適正使用支援プログラム実践のためのガイダンス から一部が抜粋されていることからも ガイダンスの発表は時機を得たものであり 関連した8 学会が共同でまとめたという点も行政から高評価されたものと考えられます 抗菌薬の適正使用は 院内 と 外来 のいずれの抗菌薬処方におい

記載データ一覧 品目名 製造販売業者 BE 品質再評価 1 バンコマイシン塩酸塩散 0.5g サワイ 沢井製薬 # 2 バンコマイシン塩酸塩散 0.5g タイヨー 武田テバファーマ # 3 バンコマイシン塩酸塩散 0.5g ファイザマイラン製薬 # ー 4 バンコマイシン塩酸塩散 0.5g MEEK

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づけられますが 最大の特徴は 緒言の中の 基本姿勢 でも述べられていますように 欧米のガイドラインを踏襲したものでなく 日本の臨床現場に則して 活用しやすい実際的な勧告が行われていることにあります 特に予防抗菌薬の投与期間に関しては 細かい術式に分類し さらに宿主側の感染リスクも考慮した上で きめ細

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抗ヒスタミン薬の比較では 抗ヒスタミン薬は どれが優れているのでしょう? あるいはどの薬が良く効くのでしょうか? 我が国で市販されている主たる第二世代の抗ヒスタミン薬の臨床治験成績に基づき 慢性蕁麻疹に対する投与 2 週間後の効果を比較検討すると いずれの薬剤も高い効果を示し 中でもエピナスチンなら

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染症であり ついで淋菌感染症となります 病状としては外尿道口からの排膿や排尿時痛を呈する尿道炎が最も多く 病名としてはクラミジア性尿道炎 淋菌性尿道炎となります また 淋菌もクラミジアも検出されない尿道炎 ( 非クラミジア性非淋菌性尿道炎とよびます ) が その次に頻度の高い疾患ということになります

ども これを用いて 患者さんが来たとき 例えば頭が痛いと言ったときに ではその頭痛の程度はどうかとか あるいは呼吸困難はどの程度かということから 5 段階で緊急度を判定するシステムになっています ポスター 3 ポスター -4 研究方法ですけれども 研究デザインは至ってシンプルです 導入した前後で比較

浜松地区における耐性菌調査の報告

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topics vol.82 犬膿皮症に対する抗菌剤治療 鳥取大学農学部共同獣医学科獣医内科学教室准教授原田和記 抗菌薬が必要となるのは 当然ながら細菌感染症の治療時である 伴侶動物における皮膚の細菌感染症には様々なものが知られているが 国内では犬膿皮症が圧倒的に多い 本疾患は 表面性膿皮症 表在性膿

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データの取り扱いについて (原則)

目 次 1. はじめに 1 2. 組成および性状 2 3. 効能 効果 2 4. 特徴 2 5. 使用方法 2 6. 即時効果 持続効果および累積効果 3 7. 抗菌スペクトル 5 サラヤ株式会社スクラビイン S4% 液製品情報 2/ PDF

48小児感染_一般演題リスト160909

名称未設定

ROCKY NOTE 食物アレルギー ( ) 症例目を追加記載 食物アレルギー関連の 2 例をもとに考察 1 例目 30 代男性 アレルギーについて調べてほしいというこ

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割合が10% 前後となっています 新生児期以降は 4-5ヶ月頃から頻度が増加します ( 図 1) 原因菌に関しては 本邦ではインフルエンザ菌が原因となる頻度がもっとも高く 50% 以上を占めています 次いで肺炎球菌が20~30% と多く インフルエンザ菌と肺炎球菌で 原因菌の80% 近くを占めていま

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東邦大学学術リポジトリ タイトル別タイトル作成者 ( 著者 ) 公開者 Epstein Barr virus infection and var 1 in synovial tissues of rheumatoid 関節リウマチ滑膜組織における Epstein Barr ウイルス感染症と Epst

1 MRSA が増加する原因としては皮膚 科 小児科 耳鼻科などでの抗生剤の乱用 があげられます 特にセフェム系抗生剤の 使用頻度が高くなると MRSA の発生率が 高くなります 最近ではこれらの科では抗 生剤の乱用が減少してきており MRSA の発生率が低下することが期待できます アトピー性皮膚炎

37, 9-14, 2017 : cefcapene piperacillin 3 CT Clostridium difficile CD vancomycin CD 7 Clostridium difficile CD CD associate

スライド タイトルなし

2009年8月17日

医療関連感染サーベイランス

小児感染免疫第29巻第2号

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医薬品タンパク質は 安全性の面からヒト型が常識です ではなぜ 肌につける化粧品用コラーゲンは ヒト型でなくても良いのでしょうか? アレルギーは皮膚から 最近の学説では 皮膚から侵入したアレルゲンが 食物アレルギー アトピー性皮膚炎 喘息 アレルギー性鼻炎などのアレルギー症状を引き起こすきっかけになる

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第11回感染制御部勉強会 『症例から考える抗MRSA治療薬の使い方』

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(Antimicrobial stewardship) を開始している セット採取は 血流感染症の診療効率を高めるために最も有効であり また 血液培養の適正化 ( 採取から診断まで ) にかかわるすべての医療スタッフからの協力を得やすく導入効果が高いと考えた 以下に 市立札幌病院において セット採取

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東邦大学理学部情報科学科 2014 年度 卒業研究論文 コラッツ予想の変形について 提出日 2015 年 1 月 30 日 ( 金 ) 指導教員白柳潔 提出者 山中陽子

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2 その屈辱感こそ野心の入り口なのです 悔しいと思った時点で やっぱりあいつは必死で勉強したから東大に入った とか 努力をした人には努力をしたなりの見返りがあるという事実を認識できるか その時点での自分の敗北を認めることができるかどうか 野心のすすめ 林真理子著, 講談社現代新書,p

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蚊を介した感染経路以外にも 性交渉によって男性から女性 男性から男性に感染したと思われる症例も報告されていますが 症例の大半は蚊の刺咬による感染例であり 性交渉による感染例は全体のうちの一部であると考えられています しかし 回復から 2 ヵ月経過した患者の精液からもジカウイルスが検出されたという報告

院内感染対策相談窓口 質疑応答集(平成26年度)

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日本の上位 50 サイトのウェブセキュリティレポート (Q2 2016) 本レポートでは ウェブ閲覧リサーチ会社 Alexaにて報告された日本のユーザーから 2016 年 5 月 5 日時点の閲覧されたウェブ

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Transcription:

2014 年 10 月 29 日放送 MRSA 腸炎はあるのか? 神戸大学病院感染症内科教授岩田健太郎 MRSA 腸炎の歴史きょうはこのMRSA 腸炎は本当にあるのかという 多少刺激的なタイトルでお話ししようと思います MRSA 腸炎は抗菌薬関連下痢症の一つで 抗菌薬治療をおこなっている患者さんが下痢をし 下痢をした患者さんの便を培養すると MRSAが検出される これがMRSA 腸炎であると長く認識されてきました これは 1980 年代の後半頃 ちょうど日本がMRSA( メチシリン耐性黄色ブドウ球菌 ) の感染症に苦しみ出したのと 同じ時期によく見られるようになりました 特に外科領域 手術後の予防的抗菌薬をずっと使っているときに 発熱 下痢が見られ そしてMRSAが検出されるということで 非常に騒がれたわけです 1990 年代ぐらいにかけて たくさんの報告論文が出版されました ただ 非常に不思議なことに この MRSA 腸炎という現象は 日本以外からはほとんど報告がされませんでした そして 日本でも 1990 年代後半になってくると だんだん報告数も減ってきて 21 世紀になると ほとんど臨床的な報告が見られなくなり また医療機関でもなかなか観察されなくなってしまったという事実があります 問題は なぜか? という質問問題は じゃあなぜそうなのかということです なぜ日本でだけ MRSA 腸炎が観察されたのか なぜ外国では認められなかったのか そしてなぜ その日本でも観察されなくなったのか こういった発想が大事になります

我々医師は あまりこの なぜ という質問をしない傾向にあります 小学校に入学してから大学を卒業する 医師国家試験を受ける そして医師として活躍する いずれも教育において この なぜ と問う機会というのがあまりありませんでした どちらかというと 質問に答えるほうでした 先生に質問されて答える テストで質問されて答える 入試で質問されて答え 国家試験で質問されて答えるという 質問に答える技量において我々は非常に高い訓練を受けていました ですので 医師というのは非常に質問に大量に迅速に そして正確に答えると そういう技量にかけては非常に高いものを持っていると考えられますが 質問をするという側に立つということを比較的苦手としています どちらかというと 質問をするというのは 知性に劣るという偏見を持ちがちです わからない わからないと言うわけですから しかし 孔子が 如何せん 如何せんと言わざる者 ( そのような者は ) 我 これを如何ともしがたし どうしてだろう どうしてだろうと聞かない弟子は 私はどうすることもできないんだよ と言ったように むしろどうしてだろうという問う気持ちこそが知性の証 ソクラテスの無知の知ということになるわけです 原因菌はいかにして原因菌か MRSAが見つかって 腸炎が起きたということがなぜ日本でだけ観察されたのだろうということを一生懸命考えてみる必要があるわけです 抗菌薬関連下痢症というのは なかなか証明するのが難しいわけです 我々はその感染微生物を見つけて それが感染症の原因であると そのように証明するということを一生懸命やってくるわけです 古典的にはロベルト コッホというドイツの微生物学者が コッホの原則というものを打ち出しました これは炭疽菌 (Bacillus anthracis) というグラム陽性菌を用いて動物実験を繰り返し その動物に再現性のある感染症を起こし またそこから炭疽菌を抽出して さらに別の動物にも炭疽という病気を起こしているということで 炭疽菌こそが炭疽という病気の原因であることを証明した 非常に有名なコッホの原則があります しかしながら 腸の中は無菌状態ではありませんので そこから病原体が見つかったというだけでは それが病気の原因であると断じることはできないわけです ところが 21 世紀になって 腸内細菌科に属するグラム陰性菌 Klebsiella oxytoca が Clostridium difficile と 既に抗菌薬関連下痢症の原因だとわかっている嫌気性菌同様に 抗菌薬関連の出血性の腸炎を起こすことが判明しました これは Högenauer たちが この Klebsiella を患者から抽出し 動物実験 病理学的な検証と 非常に厳密

な手続を踏んで これが抗菌薬関連下痢症の原因であることを証明しました これは臨床医学的には非常にレベルの高い雑誌であるニューイングランドジャーナルに発表されました (Högenauer C et al. Klebsiella oxytoca as a causative organism of antibiotic -associated hemorrhagic colitis. N Engl J Med. 2006 Dec;355(23):2418 26) 非存在証明の困難さ MRSA 腸炎も似たような形でその存在証明ができないかということで 我々は研究をしてみました 具体的には システマティックレビューと呼ばれる網羅的な文献検索をして MRSA 腸炎と名前のつく文献を 和文 英文 あるいはその他の言語で徹底的に 網羅的に検索して そこからデータを抽出して MRSA 腸炎は本当にあるのかを探し出しました Pub Med や医中誌などのデータベースを駆使して 1999 件の論文を見つけました そして MRSA 腸炎と思われていても 実は Clostridium difficile( 偽膜性腸炎 ) の可能性もあるわけです Clostridium difficile infection ( 以下 CDI) と最近では言いますけれども これは非常に培養するのが難しいと言われていて 特殊な培地を使わないと見つからないわけです したがって 一般便培養では生えないことも多い そうすると 抗菌薬を使っていると 当然耐性菌が選択される Clostridium difficile は一般培地では生えにくい そこに MRSAが培養されるということで CDIがMRS A 腸炎と勘違いされてしまうという現象が起こり得るわけです したがって MRSA 腸炎が本当にMRSA 腸炎というためには この CDIを完全に除外していないといけないということになるわけです そこで 我々はこの C D I を完全に除外した臨床の症例報告もしくは症例シリーズというものを網羅的に探して その 2000 件近くの論文の中から抽出したわけです (Iwata K et al. A

systematic review for pursuing the presence of antibiotic associated enterocolitis caused by methicillin resistant Staphylococcus aureus. BMC Infectious Diseases. 2014 May 9;14(1):247) すると 2000 件近くあった臨床的な報告の中で なんとこのCDIをきちっと除外している 除外しようと試みた論文は 45 件しかなかったわけです つまり ほとんどがCDIとの区別をきちっとせずに MRSA 腸炎であると名づけていたわけです その 45 件の study も 厳密に見てみると 本当にMRSAが腸炎の原因であることを証明するに至った論文は一つもなく 例えばその毒素産生や 病理学的検証などが不十分であることがわかりました 結論としては MRSA 腸炎が本当に存在するということを証明した論文というのは一つも存在しないことがわかりました もちろん この非存在証明というのは非常に困難でして 論文がないということが その現象が存在しないということと同一でないことは事実です したがって MRSA 腸炎という現象を証明した論文がなくても もしかしたら抗菌薬関連性下痢症としてのMRSA 腸炎というのは存在するかもしれません しかしながら 1980 年代の終わりから 1990 年代に日本で見られた現象のほとんどは 恐らくはCDI の勘違いであり 大多数の MRSA 腸炎と呼ばれたものは MRS A 腸炎ではなかったのではないかということは 示唆されるわけです 現在でも 微生物を見つけることを 病気という現象の原因であるという勘違いはしょっちゅう起きています 例えばのどの培養をして これが風邪の原因であるという勘違いを起こす そういったことはよく見られていて 抗菌薬の乱用などにもつながっています また その抗菌薬を使用して病気が治ると その微生物に効いたのだという勘違いもよく見られる現象です 例えば MRSA 腸炎にはしばしばバンコマイシン散が投与されていましたが これはCDIの治療薬でもあったわけです 風邪の患者さん 風邪の原因はウイルスですから抗菌薬は効かなのですが 抗菌薬が用いられると 患者さんは治るというので 抗菌薬の効果であるという勘違いは現在でもよく見られる現象です このような勘違いをしないためにも 微生物が見つかるということと 患者さんが病気をしているという その現象とのパラレルな動きをきちっと見きわめて その微生物が本当に原因なのか そうでないのかを虚心坦懐にわからない わからないと言って 簡単に結論をつけずに 簡単に答えを出さずに考え続けると そして問い続けるということが 恐らく今の日本の臨床医学会においては一番欠けている大きな問題だと思います これこそが 真の臨床的な知性であるとも考えます

おわりに 1950 年においては 医学知識がふえて倍の量になるまで 50 年かかりました そのような時代には たくさん勉強してたくさん物を知っていれば臨床ができると言われたわけですけれども 2020 年になると これが2カ月ちょっとに短縮されると言われています すなわち我々は 知っていることより知らないことのほうがはるかに多い そういう時代に生きる医者になるわけです そういう時代には わかることよりわからないことを大事にするという観点で物を見ることが重要です そのことを MRSA 腸炎という現象は我々に教えてくれたのでした