テモテへの手紙第一 5 章 節 指導の任への尊敬 1A 二重の尊敬 A 監督者への監査 B 公正な裁き B 慎重な按手 B 透明性 本文 テモテへの手紙第一 5 章を開いてください 17 節から読んでいきます 私たちは

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創世記5 創世記2章4節b~25

2011 年 07 月 17 日 ( 日 ) 18 日 ( 月 )29 ローマ人への手紙 8:12~17 聖化の力 ( 聖霊 )(3) 養子の霊 1. はじめに (1) 聖化 に関する 8 回目の学びである 最終回 1 最大の悲劇は 律法を行うことによって聖化を達成しようとすること 2この理解は ク

2012 年 1 月 15 日 ( 日 ) 16 日 ( 月 )53 ローマ人への手紙 14:13~15:3 キリスト者の自由 1. はじめに (1) 文脈の確認 11~8 章が教理 29~11 章がイスラエルの救い 312~16 章が適用 (2)12 章は 基本的には教会内の行動についての勧めであ

2012 年 1 月 22 日 ( 日 ) 23 日 ( 月 )54 ローマ人への手紙 15:4~13 希望から希望へ 1. はじめに (1) 文脈の確認 11~8 章が教理 29~11 章がイスラエルの救い 312~16 章が適用 (2)14:1~15:13 は 雑多な問題を扱っている 1 超道徳

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2017 年 10 月 8 日 ( 日 ) 9 日 ( 月 ) 15 回さらにすぐれた契約 さらにすぐれた契約 ヘブル 8:1~13 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし (2) ユダヤ教の 3 つの柱

* ユダヤ人の歴史家ヨセフスもまた同じような書き方をしている 5 テオピロは ルカの執筆活動を支援するパトロンであった可能性が高い 6 もしそうなら テオピロはローマ人クリスチャンであったと思われる (2)1~2 節は ルカの福音書の要約である 1 前の書 というのは ルカの福音書 のことである 2

2013 年 3 月 10 日 ( 日 ) 11 日 ( 月 ) 51 回目 Ⅵ-054 山上の垂訓 山上の垂訓 054 マタ 5:1~2 ルカ 6:17~19 1. はじめに (1) 呼び名について 1マタ 5:1~8:1 は 通常 山上の垂訓 ( 説教 ) と呼ばれる 2しかし この名称は 説教

2011年度 牧羊者 第Ⅳ巻

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2011 年 06 月 26 日 ( 日 ) 27 日 ( 月 )26 ローマ人への手紙 7:14~25 律法からの解放 (3) ロマ書 7 章クリスチャン 1. はじめに (1) 聖化 に関する 5 回目の学びである 1 最大の悲劇は 律法を行うことによって聖化を達成しようとすること 2この理解は

2012 年 2 月 26 日 ( 日 ) 27 日 ( 月 )59 ローマ人への手紙総まとめ 総まとめ 1. はじめに (1) 執筆の意図 1 使徒としての使命 * 所々 かなり大胆に書いた (15:15) 2 使徒としての奉仕の原則 * 他人の土台の上に建てない (15:20) * これまで ロ

(3) まっすぐにしなさい 1 されば衰へたる手 弱りたる膝を強くし ( 文語訳 ) 2ギリシア語の アノルソオウ である 上げる まっすぐにする 強くする 3ルカ 13:13(18 年も病の霊につかれ 腰が曲がって 伸ばすことができない ) Luk 13:13 手を置かれると 女はたちどころに腰が

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2018 年 5 月 27 日 ( 日 ) 28 日 ( 月 ) 14 回 ペテロの第 2 のメッセージ (2) ペテロの第 2 のメッセージ (2) 使徒 3:17~26 1. はじめに (1) ペンテコステの日に教会が誕生した 1ペテロの第 1 回目のメッセージにより 3,000 人ほどの人たち

創世記5 創世記2章4節b~25

牧会の祈り

第二に 聖さを得るために 私たちはすべての人との平和を追い求めなければなりません 私たちの思いの内にある敵対心や闘争心などを放っておかず 平和的に生きるように努めなければなりません へブル書の著者は このことについて 非常に厳しく警告しています 私たちが神の聖さにあずかる者とならない限り 主を見るこ

2018 年 2 月 4 日 ( 日 ) 5 日 ( 月 ) 29 回 善行の勧めと信仰上の勧め 善行の勧めと信仰上の勧め ヘブル 13:1~17 1. はじめに (1) この手紙は ユダヤ教への回帰を考えていた第 2 世代のメシアニック ジューたちを励ますために書かれた 1 教理的学び 2 学んだ

2013 年 3 月 24 日 ( 日 ) 25 日 ( 月 ) 52 回目 Ⅵ-054 八福の教え 八福の教え 054 マタ 5:3~12 ルカ 6:20~26 1. はじめに (1) 文脈の重要性 1 文脈を無視して 山上の垂訓のある言葉を取り出すことが余りにも多い 2イエスは 神の国の福音をも

2019 年 7 月 28 日 ( 日 ) 29 日 ( 月 ) 70 回 12 人の弟子たちの救い 12 人の弟子たちの救い 使徒 19:1~7 1. はじめに (1) 第三次伝道旅行が始まった 1 使 18:23~21:17( 紀元 53 年の春から 56 年の春 ) 2パウロは ひとりで出かけ

2011 年 10 月 16 日 ( 日 ) 17 日 ( 月 )42 ローマ人への手紙 11:25~36 拒否の解決 (3) イスラエルの救い 1. はじめに (1)10 月 13 日 ( 木 ) の日没から仮庵の祭りが始まった 1 第 7 の月の 15 日 満月 2 満月を眺めながら イスラエル

牧会の祈り

2017 年 8 月 13 日 ( 日 ) 14 日 ( 月 ) 7 回 第 2 の警告 (2) 第 2 の警告 (2) ヘブル 4:1~13 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし 2 彼らは 迫害と誤

2 イエスの戒めを守るなら イエスの愛に留まることになる (2) その教えを話した理由は 弟子たちが喜びに満たされるためである 1イエスは 自分が経験している喜びを弟子たちに与えようとしている 2イエスの喜びは 父なる神への従順 ( 喜ばせること ) によって生まれる 3ヘブ 12:2 Heb 12

2017 年 7 月 2 日 ( 日 ) 3 日 ( 月 ) 1 回 ヘブル人への手紙のテーマ ヘブル人への手紙のテーマ ヘブル 1:1~3 1. はじめに (1) 著者 1いくつかの名が上げられてきた * パウロ * ルカ ( パウロがヘブル語で書いたものを ルカがギリシア語に翻訳した ) * バ

神殿とは 神の住まいです 自分の中に神が住まわれたということが救いであり このよ うにしてイエス様とつながっているから イエス キリストを知ることができるようになる のです 神とのつながりを断ち切ることはできない わたしは彼らに永遠のいのちを与えます 彼らは決して滅びることがなく また だれ もわた

(2) ロマ 7:1~6 の要約 1 律法の大原則 * 律法は 人に対して権限を持つ * 律法は 死んだ人には権限を持たない 2 結婚関係の例話 * 夫が生きている間は 結婚の律法によって制約されている * それを破れば 姦淫の女と呼ばれる * 夫が死ねば 結婚の律法から解放される * 再婚しても

裁判員制度 についてのアンケート < 調査概要 > 調査方法 : インサーチモニターを対象としたインターネット調査 分析対象者 : 札幌市内在住の20 歳以上男女 調査実施期間 : 2009 年 11 月 10 日 ( 火 )~11 月 11 日 ( 水 ) 有効回答者数 : N=450 全体 45

良いこと となります ともするとクリスチャンは こう考えやすいかもしれません 私は人がどう考えるかは気にしない 神がどう思われるかだけを心に留める と 確かにそこに真理はあるのですが そのあまり 人々がどう考えるかを顧慮しない傍若無人な態度を取るのが良いのではありません パウロはここで 人々がどう見

このメッセージは メシアの義とパリサイ人の義について学ぼうとするものである Ⅰ. 真の信仰者の特徴 (5:13~16) 1. 地の塩 (13 節 ) あなたがたは 地の塩です もし塩が塩けをなくしたら 何によって塩けをつけるのでしょう もう何の役にも立たず 外に捨てられて 人々に踏みつけられるだけで

聖書 : ピリピ 3:1~3 説教題 : 神の御霊による礼拝 日時 :2017 年 2 月 26 日 ( 朝拝 ) ピリピ人への手紙第 3 章に入ります この手紙は全部で 4 章からなっていますので 今日から後半部に入ることになります パウロは 最後に 私の兄弟たち と始めます この手紙はまだ半分ま

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Rev 7:1 この後 私は見た 四人の御使いが地の四隅に立って 地の四方の風を堅く押さえ 地にも海にもどんな木にも 吹きつけないようにしていた (1) この後 私は見た 1 物事の時間的流れではなく ヨハネが見た幻の順番を示している 2この幻は 神の裁きが迫っていることを示唆している 3 地の四方

で宣教していると非難されないように そういう恐れがあるところでは一切 献金を受 けませんでしたが ピリピ教会との間にその心配はなかったのです このことから見て も いかにパウロと良好な関係にあった教会だったかが分かります さてパウロはこの手紙の執筆時 どこにいたのでしょう この手紙から分かることは

束の地カナンに入ることが許されなかった 9 死を前にして ヨシュアを後継者に任命し 120 歳でモアブのネボ山で死んだ 10 モーセという人は 地上のだれにもまさって非常に謙遜であった ( 民数記 12:3) 11 自分を しもべとして神の家全体のために忠実でした ( ヘフ ル 3:5) 新約聖書に

1.1 節 Rev 14:1 また私は見た 見よ 小羊がシオンの山の上に立っていた また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて その額には小羊の名と 小羊の父の名とがしるしてあった (1) ヨハネは キリストの再臨後の状況を見ている 1 実際にキリストの再臨が起こるのは 19 章になってからである

らしめ ということばが使われています 箴言 13:24 むちを控える者はその子を憎む者である 子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる また箴言 22:15 愚かさは子どもの心につながれている 懲らしめの杖がこれを断ち切る また申命記 8:5 あなたは 人がその子を訓練するように あなたの神 主 があ

一 マリヤへの恵みある教会に 何かというと 恵まれた女よ おめでとう と言う人がいました 女性のための聖書のクラスで 誰かが正しい答えを言ったら 恵まれた女よ おめでとう 感謝なことの証しをしたら 恵まれた女よ おめでとう 誰かが牧師に祈ってもらっている姿を見たら 恵まれた女よ おめでとう 彼女はい

1 それは キリストにのみ適用される御名である (2) 旧約聖書では 御使いたちは 神の子たち と呼ばれた Job 38:7 そのとき 明けの星々が共に喜び歌い / 神の子たちはみな喜び叫んだ 1 新約聖書では 信者が 神の子たち と呼ばれる ( ヨハ 11:52) 2しかし 御子 ( ヒュイオス

牧会の祈り

2017 年 7 月 16 日 ( 日 ) 17 日 ( 月 ) 3 回 御使いに勝る御子 (2) 御使いに勝る御子 (2) ヘブル 2:1~9 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし 2 彼らは 迫害と

2008 年 7 月 27 日 ( 日 ) 28 日 ( 月 ) ハーベストフォーラム東京創世記 8 創世記 8 創世記 3 章 14 節 ~24 節 アダム契約 イントロ : 1. 前回までの復習 (1) 創世記には 11 の区分 ( トルドット ) がある (2) 第 1のトルドットには 人類の

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< 評価表案 > 1. 日本人 ( ロールプレイ当事者 ) 向け問 1. 学習者の言っていることは分かりましたか? 全然分からなかった もう一息 なんとか分かった 問 2 へ問 2. 学習者は, あなたの言っていることを理解し, 適切に反応していましたか? 適切とは言えない もう一息 おおむね適切

は歯が痛くなるとズキンズキンとして何をしていても繰り返し襲って来る痛みに悩まされますが そのように 絶えず痛みがある と言わずにいられないような痛みを感じ続けていた 一体それはどんな悲しみ 痛みだったのでしょうか それが同胞ユダヤ人の不信仰に関することでした パウロがどんなに同胞 同国人のことを思っ

Taro-小学校第5学年国語科「ゆる

としたこと それに対してイエスは 今は 止めないでほしい 正しい ことをすべて行うのは 我々にふさわしいことです ( マタイ 3 15) と 言って ヨハネから洗礼をお受けになったと伝えています しかしマルコ福音書は そういうことは何も伝えていません イエス は ユダヤの全地方から集まって来た大勢の

裁きます けれども 実は自分たち自身も その基準には到達できていないのです これが偽善の始まりです 律法主義に陥ると 相手をこき下ろし けれども こき下ろしている基準に自分自身が満ちていないことが起こります 高らかに主張している人ほど 実はその教えを行なっていないという問題が起こるのです パウロは

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2017 年 2 月 5 日 ( 日 ) 6 日 ( 月 ) 22 回 イスラエルに対する戦い (2) イスラエルに対する戦い (2) 黙 12:7~17 1. はじめに (1) キリストの再臨の前に何が起こるかを見ている 110 章 ~14 章は 挿入箇所である * 物語の進展はなく 状況の説明が

2 奇跡 3 父 4 聖書 4. メッセージのゴール (1) イエスを誰だと言うか (2) イエスを信じる者の幸いとは何か このメッセージは イエスの業と主張について考えようとするものである Ⅰ. イエスと父は一体である (19~29 節 ) 1. 行動において まことに まことに あなたがたに告げ


では もし企業が消費者によって異なった価格を提示できるとすれば どのような価格設定を行えば利潤が最大になるでしょうか その答えは 企業が消費者一人一人の留保価格に等しい価格を提示する です 留保価格とは消費者がその財に支払っても良いと考える最も高い価格で それはまさに需要曲線で表されています 再び図

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大阪インターナショナルチャーチ アリステア・マッケナ師 2015/6/28

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子たちも オリーブ山から神殿を眺めて これはまあ 何とみごとな石でしょう 何とすばらしい建物でしょう ( マルコ 13:1) と感嘆の声を挙げました しかし イエス様は この大きな建物を見ているのですか 石がくずされずに 積まれたままで残ることは決してありません ( マルコ 13:2) と言われたの

こんにちは! ふっさんです 今回は 時間で数万円を 今 稼ぐ方法をレポートにまとめたので公開します 僕がこのレポートを作った理由は 多くの人が抱える 2 つの悩みを解決するためです. 稼げる自信がなくて 不安です 2. 教材などを買って学びたいが お金を捻出するのが難しいです というものです まず

よと言っておられます あなたが思っているような安定した生活を送ることはできない 心地よい生活ではない 狐や空の鳥以下の生活であると なぜイエス様ともあろう大先生の生活がこういうものなのでしょう その答えは一言で言えば 私たちのため ということです マルコの福音書 10 章 45 節 : 人の子も 仕

B2 神はどのようなお方か 1Chro.29:10-12 Dt.10:12-13 Ps.95:1-7 B3 イエス キリストはどのようなお方か John.14:8-10 Mk.6:31-56 John.10:30-33 Heb.2: John.4:2-3 2John.7-10 B4 三位

生徒用プリント ( 裏 ) 入力した内容はすべて記録されている!! 印 : 授業で学んだこと 管理者のパソコンには どのパソコンから いつ どのような書き込みがされたか記録されています 占いだけではなく メールや掲示板の内容も同じように記録されています もし 悪意のある管理者から個人情報が洩れたらど

テサロニケ人への手紙第一 第5回聖書フォーラムキャンプ 基調メッセージ メッセージ 中川健一

Heb 11:7 信仰によって ノアは まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき 恐れかしこんで その家族の救いのために箱舟を造り その箱舟によって 世の罪を定め 信仰による義を相続する者となりました (1) ノアは 神から警告を受けた 1 創 6:17 Gen 6:17 わたしは今 いの

* ダニエル書 3 捕囚期後 (3) * ハガイ書 * ゼカリヤ書 * マラキ書 (5) 預言者たちが語ったメッセージの要約 1 神の主権と聖なるご性質 2 契約の民イスラエルの不従順の罪 3 悔い改めへの招き 4 迫り来る神の裁きと捕囚 5イスラエルの民を攻撃する周辺国への裁き 6 捕囚からのレム


2000 年は二日です ですからこちらも 遅い! と言えるほど 時は経っていないと言えます もちろん 1000 年イコール一日と言われているのではなく 一日のようだと言われていますので 単純計算できる話ではないのですが 先ほど引用した詩篇 90 篇 4 節では 私たちの時間のはかなさ 些細さという側

イエスさまの公的な活動は 2 年から 3 年と言われます その短い時間の中で人々に与えた影響は 考えられないほど大きいものでした ここに今日 わたしたちが集まって礼拝しているのも そのせいです けれどもその 2 年ないし 3 年のイエスさまの活動はずっと順調であったわけではありません イエスを愛し慕

聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

07/06/17  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師

Taro-プレミアム第66号PDF.jtd

テモテ第二 2 章 1-13 節 キリストの兵士 1A 共にする苦しみ 1-7 1B ゆだねる教え 1-2 2B 立派な務め 3-7 2A イエス キリストの福音 B つながれていない御言葉 B 共に生き 死ぬ 本文 テモテへの手紙第二 2 章を見ていきます 私た

1 説 教 聖日礼拝 北浜チャーチ 黒田 禎一郎 2017 年 6 月 4 日 ( 日 ) 主 題 : すべてを感謝しましょう! テキスト :1コロサイ人への手紙 3 章 17 節 はじめに たった一度しかない人生 私たちはどのように生きているでしょうか? 生き方を知っている人は幸いです しかし 多

Ⅰ. 管理人の不正の発覚 (1~2 節 ) 1.1 節 a Luk 16:1 イエスは 弟子たちにも こういう話をされた (1) イエスは 弟子たちに話している 1これは 弟子訓練のためのたとえ話である 2 聴衆が誰かを判断することが たとえ話の解釈のために重要である (2) その周りで パリサイ人

(2) ケンクレヤにある教会に属していた 1コリントの南東 11 キロのところにある港町 2コリントの東の港としての役割を果たした アジア方面の交易のための港 * 西の港は カイオン 両港の間の距離は 8 キロ 3パウロは 第 2 回伝道旅行でここを訪れている 4 誓願が成就したのを記念して そこで

た 義認 の祝福を述べたものでしょうか しかしこの 1 節は 2 節の頭に なぜなら という言葉があるように 2 節と密接に関連しています ですから 2 節を見て行くことによって 1 節の意味を確かめることができます 2 節が述べていることは何でしょうか それは罪と死の原理からの解放です 私たちが

そして 11 章の最後には 信仰のゆえに苦しみを受け 拷問を受け 飢えて さまよった人々について書いてありました これらの人々がみな あなたがたにとって励ましを受けるための証人になっているというのがここでの著者の意図です 雲のように とありますが ギリシヤ語では非常に濃くて大きな雲の群を言い表してい

CONTENTS

年 9 月 24 日 / 浪宏友ビジネス縁起観塾 / 法華経の現代的実践シリーズ 部下を育てない 事例甲課乙係のF 係長が年次有給休暇を 三日間連続でとった F 係長が三日も連続で休暇をとるのは珍しいことであった この三日の間 乙係からN 課長のところへ 決裁文書はあがらなかった N

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イゼベルという女は 商売繁盛のために信仰を妥協するよう しきりに教会の人々に勧めました では これらの背景を踏まえて 学びに入りましょう 今日の聖書個所には 大切なポイントが 5 つあります 1. イエスの描写 (18 節 ) ここでイエスは 燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足のお方だ

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スライド 1

課題研究の進め方 これは,10 年経験者研修講座の各教科の課題研究の研修で使っている資料をまとめたものです 課題研究の進め方 と 課題研究報告書の書き方 について, 教科を限定せずに一般的に紹介してありますので, 校内研修などにご活用ください

(4) ものごとを最後までやり遂げて, うれしかったことがありますか (5) 難しいことでも, 失敗を恐れないで挑戦していますか

第2章 主な回答結果一覧(3ヵ年比較)

カインの性格

を与えられて 祈りつつ取り組んで行くように導かれる ですから私たちは自分の願い事を一方的に神に祈る祈りはやめて まず聖書を通してまず神を見上げること 御名を賛美することから始めたいのです そのような神への賛美また信仰告白から始まる祈りこそ祝福される祈りの基礎です さて第 2 の祈りは 御国が来ますよ

29 Vol.127

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マタイ 25 章 14 節 各自に任された財産 1A 神より与えられている財産 1B 創造の源 2B 信仰の量り 2A 清算の時 1B 永遠の報い 2B 報酬の時 3A 求められていること 1B 心のはかりごと 2B 自分の行程 3B 小さな事への忠実 4B 信じる事 本文 マタイによる福音書 25

の詩や歌があるかもしれません もちろん 賛美歌が挿入されることもあります しかし ほとんど の場合 礼拝のこの部分は 信経または信仰の宣言をそのクライマックスとして持つことが適切です 準備言葉の典礼が明らかになると それに対する準備とそれに対する祈りの反応がどのように適合しているかが分かりやすくなり

2 を重んじてきた人たちがいたからでした そういう人たちに対して 自分は宗教に熱心であると思っても つまり 形 を整えることに一生懸命であっても と語りかけているのです 今の私たちに当てはめるならば 洗礼を受けたといっても とか どんなに礼拝を守っているとしても とか あるいは 奉仕を一生懸命やって

問 1-1 現在の成人のつどいの内容等についてどう思いますか?(1 つ選択 ) 11.4% 19.0% 69.6% 現在のままでよい 213 名 分からない 58 名 変更したほうがよい 35 名 問 1-2 成人のつどいに参加又はお子様等が参加したことがありますか?(1 つ選択 ) 45.1% あ

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テモテへの手紙第一 5 章 17-25 節 指導の任への尊敬 1A 二重の尊敬 17-21 2A 監督者への監査 19-25 1B 公正な裁き 19-21 2B 慎重な按手 22-23 3B 透明性 24-25 本文 テモテへの手紙第一 5 章を開いてください 17 節から読んでいきます 私たちは 5 章において 教会において肉の家族と同じように 人に対して敬いを示さなければいけない教えから聞いていきました 年を召した婦人には母に対するように また年寄りの男にも父に対するように 若い人たちには兄弟のように 若い女性には姉妹に対するように接しなさいと勧めています そして寡に対する教えをしました 当時の社会は福祉制度がないので 寡は乞食になるすれすれの状況に陥れられます しかし 教会は人々の捧げる献金をどのように運用するのかについて責任を持っています それは 霊的な事柄 を優先させること そしてただ援助することがその人の助けになるわけではないことを教えています 本当の寡を助けなさいとパウロは言っています それは これまで良い行ないで認められていた人です 子供をよく育て 旅人をもてなし 困っている人を助け 聖徒の足を洗うなどして 良いわざを行なっている人 それから 本当の寡は昼も夜も 祈りに専念して 望みを神に置いている人であります つまり 寡といっても 祈りと御言葉に専念するという教会が優先して行なわなければいけない人を支えるという目的で 寡を助けなさいという命令です それだけではなく たとえ夫に先立たれても 子や孫 親戚が世話できるのであれば 彼らがしなければいけません また比較的若い寡も 再婚してしっかりと子育てをしなさいと命じています これは何かと言いますと 自分に与えられている生活をしっかりやっていることは主に喜ばれることなのだ ということです そのような中で落ち着いた生活をしていること自体が 主を喜ばせ また神の救いのご計画の中で働くことができます ですから 寡を助けるということは 寡の中から誰を助けるべきなのかを推し量ることは 単なる物質的な助けに留まらず 霊的にそれぞれが健全に生きられるために事欠かないことであります 1A 二重の尊敬 17-18 そして同じ流れで 次に指導の任に当たっている長老たちにどのように接していけばよいのかに ついてパウロはテモテに指導します 1

17 よく指導の任に当たっている長老は 二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい みことばと 教えのためにほねおっている長老は特にそうです 18 聖書に 穀物をこなしている牛に くつこを 掛けてはいけない また 働き手が報酬を受けることは当然である と言われているからです ここの 長老 というのは 今の教会で使われている 長老 とは多少意味合いが違います 新約聖書では 長老は監督と同じ人であり また牧者とも同じ人です 指導の任に当たる人が どのような働きをしているのか その働きの側面によって長老と呼ばれたり 監督 牧者とも呼ばれます そしてもう一つ 現代のキリスト教会と異なるのは 長老たちはかなり多く存在していたであろうことです 当時は ローマ社会でありキリスト教に対して迫害や反対がありました そのような中で 彼らは家々で集まっていました したがって大人数は集まりようがなく それぞれの集まりに指導の任に当たる人を立てる必要があり またそれぞれの人がいなくなってしまっても大丈夫なように おそらく複数の牧会ではなかったのかと思います あるいは一人の牧者が複数の教会を掛け持ちしていたこともあったでしょう 今 信仰の自由が制限されている中国の教会においてはも家の教会であり 基本的に一つの教会に一人の牧師ですが もっと流動的な体制になっています そこで指導の任に当たっている長老に対して 示さなければいけない態度は 二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい であります その前に よく指導の任に当たっている長老 とありますね よく ですから きちんと指導していない人に対して無条件にこれを行ないなさいと言っているのではありません 牧者に対する勧めとして 使徒ペテロが語っている言葉があるのでそちらを見てみましょう 1ペテロ 5:1-3 そこで 私は あなたがたのうちの長老たちに 同じく長老のひとり キリストの苦難の証人 また やがて現われる栄光にあずかる者として お勧めします あなたがたのうちにいる 神の羊の群れを 牧しなさい 強制されてするのではなく 神に従って 自分から進んでそれをなし 卑しい利得を求める心からではなく 心を込めてそれをしなさい あなたがたは その割り当てられている人たちを支配するのではなく むしろ群れの模範となりなさい これが よく指導している長老の姿です 第一に キリストの苦難の証人 であることです 使徒たちが 迫害や苦難の第一線に立っていました 牧会者が聖徒たちのいるところに共に立って 寄り添って励まし それでもし迫害を受けるのであれば自分が受けていくような率先した態度が必要です 第二に 牧している ことです つまり御言葉で養っている そして狼から守っているという働きです それから第三に 自分から進んでそれを なしているかどうかです 雇われた者のようにふるまっている人 あるいは義務的に業務をこなしているかのようにやっている人は失格です そして第四に 心を込めて やっていかどうかであります この人が来れば教会の財政が助かるというような 卑しい心があってはいけません 純粋にやっているかどうかであります そして第五に 模範となる ことです 支配してはいけません 自分を示していくことによって自然に自分に付いていけるようにすることです このようなことをしている人が 良く指導していることであり その人は二重の尊敬を受けるべきです 2

そこで 二重に尊敬 と言っていますが これは精神や霊的面だけでなく 物質面においてもそうだと言っています ここで引用している御言葉は 一つは申命記 25 章 4 節 もう一つはイエス様ご自身の言葉で ルカ 10 章 7 節です ここはとても大切な原則です 主ご自身が話しているだけでなく 使徒パウロはコリント第一においても同じ申命記を引用していて 福音のために働いている者は物資的な必要を聖徒たちが支えなければいけないことを教えています しばしば キリスト教会の中で盲点になる場面があります それは 自分たちは常識で物事を考えているのに 主に仕えている人々に対してはとてつもない大きな基準でもって見ていくということです 仙人であるかのように 考えていきます いや 仙人ではなく人間だと思っていない 人間以下のような仕打ちをします 牧師給が一家で月に十万円以下であったとして 牧師なのだから 信仰をもって神の備えによって生きられるでしょう と 自分たちがお金を出すことを惜しんでいる理由にすることがあります しかし牧者も同じ兄弟姉妹であり 実は彼も主イエス キリストの羊であって 同じ羊なのです 自分が これがなければできないというものは 牧者であってもできるものではありません そして知っていただきたいことは これは何も牧者だけに限らないのです 普通の生活をしていて その人が主に仕えて捧げている生活をしているのに 教会がそのことに応じて必要ならば金銭的な必要を出すということは 当然のことであり しなければいけないことです ですから 牧者だけではなく 他の聖徒たちも主に捧げている人であれば 例えば日夜祈っている寡と同じように 支えていくべき人々であります 一にも二にも 霊的な事柄に仕えている人々には 霊的 精神的な尊敬に加えて 物質的にも尊敬を表す必要がある という原則があります ここで みことばと教えのためにほねおっている長老 とあります 教会において 祈りと御言葉がどれだけ大切な奉仕であるかを 新約聖書は教えているのです みことばと教え とありますが 教え とは英語で doctrine であり 日本語で 教理 とも訳される言葉です 信仰の規範となる教えという意味です このことを聞くことはとても大切であり それゆえこのことに時間を費やしている人々の支えをしていくべきだということであります 2A 監督者への監査 19-25 このように 教会を治める人々がとても大切にしなければいけないからこそ 彼らの行ないを判 断する基準も高いということを示しています 1B 公正な裁き 19-21 19 長老に対する訴えは ふたりか三人の証人がなければ 受理してはいけません 20 罪を犯し ている者をすべての人の前で責めなさい ほかの人をも恐れさせるためです 長老が罪を犯している時 どのようにするべきなのか? という問題です 長老に限らず 教会の 3

人が罪を犯している時にどうすればよいのか ということです けれども みことばを取り次いでい るという大きな責任を持っているがゆえに 長老が罪を犯したという時はここに書かれているよう に 公の対処が必要になります まず 教会は聖なる御霊が働かれているところであることを知る必要があります もちろん 誰でも罪を犯します 罪の強弱はありませんが それでも罪をそのまま主の前に持っていき それを言い表して 主の前にへりくだって悔い改める生活が基本となっていなければいけません 主の聖い御霊がおられるところですから 私たちは聖さと愛の中で交わりを保っていく責務があります ところが 自分の犯している罪を野ざらしにしていることがあります 罪を犯したのに悔い改めないで そのまま生活していても構わないと思っています そして 初めは心の中にだけあるものだったものが 口に出てきて 行動に出てきて 次第に明らかにされていきます そのままにしていれば それは個人の問題ではなく全体に影響を与えます 1コリント 5:6 あなたがたの高慢は よくないことです あなたがたは ほんのわずかのパン種が 粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか そして ヘブル書ではエサウを例に挙げて こう戒めています ヘブル 12:14-16 すべての人との平和を追い求め また 聖められることを追い求めなさい 聖くなければ だれも主を見ることができません そのためには あなたがたはよく監督して だれも神の恵みから落ちる者がないように また 苦い根が芽を出して悩ましたり これによって多くの人が汚されたりすることのないように また 不品行の者や 一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい したがって 信頼できる兄弟あるいは姉妹に自分の犯した罪についても話すことができるような関係が必要になります そしてイエス様は 罪についての対処を次のように実践するように教えられました マタイ 18:15-17 また もし あなたの兄弟が罪を犯したなら 行って ふたりだけのところで責めなさい もし聞き入れたら あなたは兄弟を得たのです もし聞き入れないなら ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい ふたりか三人の証人の口によって すべての事実が確認されるためです それでもなお 言うことを聞き入れようとしないなら 教会に告げなさい 教会の言うことさえも聞こうとしないなら 彼を異邦人か取税人のように扱いなさい 段階を踏まなければいけません 初めは当事者に対して話す それでも悔い改めなければ ふたりか三人の人が証言者となります そしてそれでも悔い改めなければ 全ての人の前で言って その人は教会に来ることができないと決める ということです これを 教会戒規 ともしばしば呼びます そして全ての兄弟姉妹が この戒規があることを知る必要はありますが けれども 人の前に出 て主に仕えている者たちは ますますその責任が大きくなります そこで長老たちに対してどのよ うに対処すべきなのかを 二つここでパウロはテモテに指導しています 一つは ふたりか三人の証人がなければ 受理してはいけません であります 指導者に対 4

しては 先ほどイエス様が説明された ふたりか三人の証人 という言葉はとても大切になります 噂話を受け入れてはいけないし 主観や憶測で語ってはいけないのです 感情的に良く思っていないことを そのような形で指導者に対して訴えることがしばしばあるので そうした守りが必要になります これは指導者を守るということ以上に 教会を守ることです 指導者と聖徒との間に平和があるからこそ 人々が教会の秩序の中で安心して主をあがめることができます 注解書を読むと 本人も牧会をしたことがあるため実話が載っていますが 一つは あることないこと どんどんいろんな訴えをしてくる婦人がいたそうです それで 彼はその訴えていることを 他の教会の奉仕者複数にも立ち入って聞いてもらおうとしました すると そそくさと立ち去ったそうです またもう一つは 分かりました では文書にしておきましょう とかして 文書あるいは録音など記録に載せようとすると それを嫌がります このようにして 事実以外の非難から指導者を守るための工夫が必要になります しかし 本当に罪を犯していることが分かったならば それは公にしないといけません 一人が罪を犯してももちろん全体に広がりますが 指導者が罪を犯せばそれは瞬く間に全体に影響を与えます そしてその目的がここに書いてあります ほかの人をも恐れさせるためです ということです 使徒の働きで アナニヤとサッピラが偽善の罪を犯したのでその場で倒れて死んでしまいました すると 教会全体と このことを聞いたすべての人たちとに 非常な恐れが生じた (5:11) とあります そしてその後に 主を信じる男女が増えていったことが書かれています 恐れが生じるとは このことを通して 自分が聖なる神の前で罪を犯すことに対しての恐れを抱くということです これは健全な恐れであり 聖めの中に生きるための主の恐れであります これがもう一つの指導者の罪のついての もう一つのいけない流れに対する歯止めです つまり 隠蔽することです 確かに 指導者への愛と尊敬から 彼が過ちを犯した時に何も触れないという動機が働きます けれども それをやってしまうと教会そのものがおかしくなります この取り組みは本当にしんどい 勇気が要ることです 21 私は 神とキリスト イエスと選ばれた御使いたちとの前で あなたにおごそかに命じます こ れらのことを偏見なしに守り 何事もかたよらないで行ないなさい 偏見なしに守り 何事もかたよらないで行な うことですが これが難しいことです 若い牧会者テモテによっては いろいろな圧迫があったことでしょう 年長の長老に対して この自分がこんな判断を下してよいものなのだろうか? あるいは この人は随分 自分がお世話になった この人のことについてこんな告発をしてしまっても いいものなのだろうか? あるいは 日頃から良くない感情を抱いていたことについて たまたまその人が悪いことをしたという知らせを耳にします それで その人を必要以上に厳しく裁くという判断をしてしまうかもしれません それらから守られなければいけません また自分自身の心が試され 悔い改め 清められる必要があるでしょう 5

そして 公正は判断を保つためには 神とキリスト イエスと選ばれた御使いたちとの前 という言葉があります 御使いには権威や領域が与えられています ( ユダ 6 節 ) ルカ 9:26 もしだれでも わたしとわたしのことばとを恥と思うなら 人の子も 自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには そのような人のことを恥とします ですから 主がご自分の権威をもって裁かれる時に 天使もそこに付いているということがあります そして私たちが教会において 誰かを裁くという時は キリストの権威をもって裁くのですから 天使もそこにいるのだという厳かな約束がここにあるのです 2B 慎重な按手 22-23 ここまでが長老が罪を犯してしまった時の対処ですが 次にそのような性向や問題を持っている 者たちを 指導の任に当たらせないように気をつけなさいという勧めを行ないます 22 また だれにでも軽々しく按手をしてはいけません また 他人の罪にかかわりを持ってはい けません 自分を清く保ちなさい 按手 をするということは テモテ自身がそうであったように 何かの務めを行なうために 主から賜物が与えられ また召しも与えられていることを人々が認める行為であります テモテは パウロを含んだ長老たちに祈られている時に 預言が誰かから与えられ また彼に聖霊の賜物が与えられました (2テモテ 1:6) そして いろいろな働きや務めが教会には生じます けれども 十分に神の前にもまた人の前にも認められた人でなければ 軽々しく按手をしてはならないという戒めです 多くの人が 自分が何かの務めや奉仕を得たいと願います その動機が 自分が何かの役職の名が与えられないと不安だ 人から認められないというそういう動機から認めてくださいという人がいます これは不純な動機です 神の召しがなければ 本当に大変なことになります そして賜物がないのにやりたがることあります しかし 神の恵みがなければ 神の召しがなければ 完全で聖なる神に このような罪深い者が仕えることなどできようがありません 主の恵みによって今の私がいる というのであれば 主に認められているのですから 人からの認証を欲しないはずです それから 卑しい利得という言葉が第一ペテロにありましたが 日本ではあまり起こらないことですが 生活の糧を得るために牧師や教会のスタッフになりたがる人もいます そしてこのような不純な動機があれば サタンはそうした奉仕にいる人々をふるいにかけますか ら 落ちてしまうのです 普通 こんなことをしない人がと思う人がとんでもない罪を犯してしまうと いうこともあります そして按手をするということは その人にも誹りがきます また 他人の罪にかかわりを持って はいけません 自分を清く保ちなさい と言っています 本人が罪を犯したということだけでなく 6

按手した者たちもその罪に関わるという霊的現実があります そういう人が教会全体を汚し また人々をつまずかせることによってキリストから引き離してしまった その一端を担ってしまうことになりかねません ゆえに 軽々しく按手してはいけないのです またここは 他の罪についてのことも言えるでしょう きちんと罪から離れるということに気を使っていなければ 自分自身がその罪を犯してしまうことにもなりかねません 自分が憎んでいるその罪を その罪に対して正しく対処 対抗しなければ 憎んでいながら自分もその罪を犯しかねないのです それで 自分を清く保ちなさい とパウロは言っています 23 これからは水ばかり飲まないで 胃のために また たびたび起こる病気のためにも 少量の ぶどう酒を用いなさい さて ここは何でこんなことをパウロがテモテに話しているのか 解釈が分かれるところです 私個人は あまりにも大きな責務のため テモテが胃痛を持っていたのではないかと推測します あるいはたとえそうでなくとも 彼は元々体が虚弱であったのでしょう 少量のぶどう酒 とありますが 当時のぶどう酒は今のワインのようなアルコール度のものばかりではなく もっと純度の低いものもあります 私も海外の教会に通っていた時に 聖餐式に出てきたぶどう酒は 確かにぶどう酒だったのですが とても純度が低くお酒の飲めない私にも大丈夫でした そうしたものを少量飲むということであり これはあくまでも健康のため 治癒のためであると考えられます もちろん 新約聖書には 酔いしれることは肉の行ないの一つに数えられていますから 避けます そしてなぜ 水ばかり飲 んでいたのか いろいろ推測があります テモテがお酒で問題になっている社会の中にいるなかで そしりから免れるために気を使って 水だけを飲んでいたというものです けれども 当時の水はそれほどきれいでなかった だからぶどう酒が代わりに飲まれることがあったというものです これはどこまでそうなのかな? と思いますが 紹介しておきます 3B 透明性 24-25 24 ある人たちの罪は それがさばきを受ける前から だれの目にも明らかですが ある人たちの罪は あとで明らかになります 25 同じように 良い行ないは だれの目にも明らかですが そうでないばあいでも いつまでも隠れたままでいることはありません パウロはここでテモテを励ましています テモテは だれが罪を犯しているのか また誰を按手すべきなのだろうか という腹痛の起こりそうなことをしている中で パウロは そんなに深刻に受けとめなくてよい と慰めています なぜなら 罪については主が明らかにしてくださるからです ある罪は明らかなのですが そうでない罪も後で明らかになります 教会とは聖い所で 何も悪いことをしていないように見える人でも 主の前で罪を犯していることが露わにされていきます 徐々に それが目に見えてきます だから 自分で全て判断するところまでやらなくてよい とパウロは勧めています 7

良い行ないも同じなのです これは慰めです 寡について 良い行ないで認められている人を寡にすることが条件でしたが ある人ははっきりそれが認められます けれども そうでない人であっても必ず主は その人が良い行ないをしてきたのだということを明らかにしていかれるのです 私たちは 絶えず 主の前で自分がこれらのことをしているのかどうか ということを心で確かめていかないといけないでしょう 主にあって行なったことは 報いから決して漏れることはないし 教会においても次第に明らかにされます ゆえに急いで按手しなくてもよい 主が明らかにしてくださるからそれを見ていこうというものです 8