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人に忍びざるの政 を目指して 横井小楠の政策論と 孟子 引用 北野雄士 The Influence of Mencius on Yokoi Shônan and His Formulation of Benevolent Governance KITANO Yuji Abstract Yokoi Shonan, a Confucian scholar and samurai who was active in the late Tokugawa Period, often quoted passages from the Chinese classic Mencius in his letters and writings. Some scholars have pointed out some of these quotations and made claims concerning the influence of Mencius on Yokoi. But we do not fully understand to what extent and degree this Chinese classic influenced his thinking. In this paper I have tried to examine the quotations of Mencius in Yokoi s writings and its influence on him. My analysis of these passages, taken with the facts of his life and activities, shows he was deeply influenced by the classical Chinese conception of compassionate government founded on the sensitive heart for the suffering of others. Yokoi explains these notions as being the moral principle in the context of the ancient Yao and Shun period of China, and the continuation of these concepts through the Three Dynasties of the Hsia, the Yin and the Chou periods. Based on this conception of benevolence, Yokoi criticized the policies of the Higo domain (Kumamoto Prefecture) and the Tokugawa shogunate, and proposed new reform policies for the people of Higo, which later were significant for the building of modern Japan. Keywords : Mencius,Yokoi Shônan, benevolent governance キーワード : 孟子, 横井小楠, 人に忍びざるの政 平成 21 年 11 月 6 日 原稿受理 大阪産業大学人間環境学部文化コミュニケーション学科教授 23

大阪産業大学人間環境論集 9 はじめに 天保年間 (1830-1844 年 ), 日本近海に欧米の艦船が出没し, 国内では地震, 洪水, 凶作が頻発し, 各地で一揆, 打ちこわし, 強訴が行われた 内憂外患の中で武士層は危機感を募らせ, 藩政改革や人材登用を行った 水戸藩では, 文政 12(1829) 年徳川斉昭が藤田東湖ら改革派の藩士に擁立されて第 9 代水戸藩主になり, 富国強兵を目指す藩政改革を次々と断行し, 各藩の武士の注目するところとなった 肥後藩では天保 14(1843) 年の頃より, 次席家老長岡監物 ( 家禄 15000 石 ) の許に藩政改革派の藩士が集まり, 経書や史書の講読会を頻繁に行うようになった 1) 講読会での議論は白熱し, 章句の解釈にとどまらず藩政や幕政に及んだ これがいわゆる肥後実学党 ( 実学連 ) の起源である その最初のメンバーは, 監物の他に下津休也 ( 家禄 1000 石 ), 横井小楠 ( 家禄 150 石の横井家次男 ), 荻昌国 ( 家禄 250 石 ), 元田永孚 ( 家禄 550 石の元田家長男 ) であった 藩校時習館の居寮長 ( 最上級クラスのチューター ) であった横井小楠は, その中で石高の最も低い家の次男であったが, すぐに講読会の理論的中心になった 酒失のために江戸遊学を取り消されて熊本に戻っていた小楠 ( 天保 14 年当時 35 歳 ) は経学を学び直そうと講読会に参加したのである 小楠よりも7 歳若い元田永孚は, 小楠が居寮長だった時の居寮生であり, 詩文に優れ性格が温厚であったために小楠に気に入られた 永孚が還暦になって著した自伝 還暦之記 2) によれば, 永孚は上記の講読会に参加する前から, 友人の荻昌国やその他の藩士と一緒に, 荻生徂徠, 熊沢蕃山, 韓非子の著作や朱熹編の 宋名臣言行録, その他の書物を読み, 特に 孟子 の仁義を重んじる思想や 人に忍びざるの心 ( 人をあわれみおもいやる心 ) に基づく王道思想に感銘を受けた 荻昌国も孟子の思想に共鳴し, 弘化 2(1845) 年 孟子説 を書いて小楠に献呈した 3) 小楠は後述するように生涯にわたって 孟子 の言葉を引用している 孟子 が改革派の肥後藩士によって尊ばれていたことは注目されよう 4) 小楠による 孟子 引用や横井小楠と孟子の思想との関係については, これまで何人かの研究者によって言及されてきた まず源了圓は小楠の個々の 孟子 引用については述べていないが, 小楠の思想を孟子が唱えた 王道思想 と規定している 5) 次に平石直昭 1) 元田永孚 還暦の記 ( 元田竹彦 海後宗臣編 元田永孚文書 第 1 巻, 傳記 日記,1969 年所収 ),26-27 頁 2) 同書,26 頁 3) 山崎正董 横井小楠下巻遺稿篇, 明治書院,1938 年,777 頁 24

人に忍びざるの政 を目指して ( 北野雄士 ) は小楠の思想構造を論じた論文 6) で, 小楠が 孟子 を引用した箇所に触れている さらに筆者は, 小楠が元越前藩主松平春嶽に語ったとされる, 国家を治めるのが君主の本分であり, 君主よりも無能でその本分を果たせない場合, その君主はもはや君主とはいえず, 家臣はその者を蟄居させて養子を探して来てでも国家を保つことが肝要であるという考え方について, 孟子の思想との類似性を指摘した 7) また野口宗親は小楠が天保 14(1843) 年に詠んだ漢詩の中に 斯民, 罪年 という 孟子 に由来する言葉があることを指摘し, 小楠が肥後における台風の大被害を目の当たりにして, 孟子の安民思想に基づき民衆の視線から藩政を見るようになったと述べている 8) 以上のように小楠の研究史上 孟子 の影響が注目されるようになってきた もとより, 藩校の居寮長を務めた小楠が, 朱子によって四書の一つに入れられた 孟子 を引用することは当然であり, はたして深い思想的な意味があったのかという反論が予想されよう しかし, 記誦之俗儒 9) を嫌った小楠が単なる文飾のために 孟子 を引用したとは考えにくい 小楠が 孟子 の中の特にどのような言葉をあえて引用したかは小楠の思想を知る上で重要な材料になるだろう さらに, 引用された 孟子 の言葉が意味するものと, 小楠の政策論や政治行動が目指したものとが一致していれば, その 孟子 の言葉が小楠にとって重要であったことの証しになる そこで, 本稿では, 小楠が 孟子 の中のどのような言葉を引用したか, また小楠が引用した 孟子 の言葉と, 政策論や政治行動によって実現しようとしたものとの対応を検 4) 朱子によって四書の一つに入れられた 孟子 は江戸時代の初期以来, 経書の一つとして広く読まれた しかし, 孟子 には, 放伐, 禅譲論をはじめとして, 為政者批判や体制批判の理論的根拠となりかねない要素が多く含まれている 野口武彦が述べているように, 特に天皇家が途切れなく続いていることに我が国の独自性と優越性を見出す国体論の立場からすると, 孟子の放伐, 禅譲論は決して受け容れてはならない危険な思想だった 野口武彦 王道と革命の間, 筑摩書房,1986 年,11-12,15-16,44-46 頁 なお, 筆者は, 孟子の放伐, 禅譲論に対する小楠の見解について次の二つの拙論で言及している 拙稿 横井小楠と水戸学 修己, 政治, 日本文明論 大阪産業大学論集 社会科学編,114 号,2000 年,39-40 頁 拙稿 研究ノート松平慶永の小楠批判 君臣論を巡って 横井小楠研究年報, 第 3,4 号合併号,2007 年,89-92 頁 5) 源了圓 明治維新と実学思想 ( 坂田吉雄編 明治維新史の問題点, 未来社,1962 年所収 ), 57-58,79,81 頁 6) 平石直昭 横井小楠研究ノート 思想形成に関する事実分析を中心に 社会科学研究 第 24 巻, 第 5,6 号合併号,1973 年,201 頁 同著者 主体 天理 天帝 ( 二 ) 横井小楠の政治思想 社会科学研究, 第 25 巻, 第 6 号,1974 年,126,138 頁 7) 前掲拙稿 研究ノート松平慶永の小楠批判 君臣論を巡って,89-92 頁 8) 野口宗親 横井小楠の 感懐 詩について 熊本大学教育学部紀要 人文科学, 第 55 号, 2006 年,15-16 頁 9) 山崎正董前掲書,606 頁 25

大阪産業大学人間環境論集 9 討し, 孟子 の引用が小楠にとってもつ意味を明らかにしたい 小楠の政策論は, 安政 2(1855) 年 47 歳の時弟子と漢文の世界地理書 海国図志 を読んで西洋文明に目を開かれたこと, さらに安政 5(1858) 年 50 歳になって越前藩の藩校教授として福井に招かれ, 以来越前藩政, 特に殖産興業政策に深く関わったことにより, 大きく転換した すなわち, 攘夷論から開国論に, 節倹論から地域産業の振興による富国論に転換した この転換以前の小楠の政策論として代表的なものは,30 代半ばに肥後藩政の改革を論じた 時務策 である また, 転換後の政策論の代表的なものとしては, 万延元 (1960) 年 52 歳のときに口述した 国是三論 がある 国是三論 は, 小楠が漢文の世界地理書を講学して, 西洋の政治, 経済, 社会制度を学び, その後越前藩に招聘されて越前藩政に関与する中で確立した, 藩政の原則を展開したものである 本稿では, まず, この二つの政策論を中心にして, 小楠がそれぞれの時期において政策論や政治行動によって目指したものと各時期の 孟子 引用との関連を考察する 従って第一章では, 時務策 において提案された政策が目指しているものと, 時務策 やほぼ同時期に詠まれた漢詩 感懐二首 の中で引用された 孟子 の言葉との関係を探る 第二章では, 国是三論 を中心として, 40 代後半以降, 明治 2(1869) 年 61 歳の時に暗殺されるまでの政策論や政治行動が実現しようとしたものと, 政策論や書簡などにおける 孟子 引用との関連を考察する その上で, 第三章では小楠が, 孟子を, 堯舜, 孔子, 朱子とどのように結びつけたか, 経典としての 孟子 をどのように捉えていたかを問題にする 以上のような手順で, 引用された 孟子 の言葉, さらにそこに表れている孟子の思想が, 小楠にとってどのような意味をもっていたかを明らかにしたい 第一章 時務策 と同時期の 孟子 引用 時務策 は, 天保 13(1842) 年に書かれたと推定される論策の草稿 10) であり, 藩政の 改革案が述べられている 徳永洋によれば 11), その草稿には, 徳富蘇峰が発見したものと 山崎正董が発見したものの二つがあり, 後者は前者を改稿したものである 山崎が発見し 10) 時務策 の執筆年については,1 天保 12(1841) 年説 ( 鎌田浩 ),2 天保 13(1842) 年説 ( 堤克彦, 野口宗親 ),3 天保 14(1843) 年説 ( 山崎正董 ) がある このうち 2 の天保 13 年説が, 当時の出来事と最も整合的である 1 鎌田浩 熊本藩の法と政治, 創文社,1998 年,161-62 頁 2 堤克彦 肥後藩士横井平四郎の 時務策 著述の時期について 天保 13 年秋説 の提唱の背景, 熊本県高等学校地歴 公民科研究会 紀要, 第 34 号,2004 年 3 月,48-59 頁 野口宗親前掲論文,24 頁の注 15 3 山崎正董前掲書,65 頁 26

人に忍びざるの政 を目指して ( 北野雄士 ) た草稿は一部省略の上, 山崎が編纂した 横井小楠下巻遺稿篇 に掲載されている 山崎が発見した草稿は, ( 天 ) 節倹の政を行ふべき事, ( 地 ) 貨殖の政を止むる事, ( 人 ) 町方制度を付る事 の三章から構成されている 小楠は, 米価が下落する一方で物価が下がらない今こそ, 倹約令を出して士民に倹約を徹底させ ( 天の章 ), 士民を苦しめてきた, 藩による高利貸付制度を廃止するとともに ( 地の章 ), 城下の商人を統制するために町奉行を置き, その威光を高めるために町奉行に権限を集中させるべきだと提言している ( 人の章 ) 小楠も述べているように 12), このような提案のうち, 節倹の政, 貨殖の廃止は, 水戸藩, 肥前藩, 米沢藩で行われた藩政改革の影響を受けたものである 小楠は江戸において, 他藩の情勢や改革を, 時にはその当事者から聞き, 熊本に戻ってからは改革に成功した藩と肥後藩を比較して肥後藩のあり方を考えることができるようになった その成果の一つが 時務策 である 時務策 が目指したものを理解するには当時の経済情勢を見る必要がある 天保年間の最初の10 年間の米価をみると, 米価の平均はその前の文政年間に比べて高くなっており, 特に天保 4(1833) 年と天保 7(1836) 年には冷害などの天災によって江戸や大坂の米価は高騰した 13) 幸い肥後藩の被害は比較的軽く, 肥後藩から江戸や大坂に廻送された米は高く売れ, 領内に多くの金銀が入り込んだ 小楠によれば, その結果, 上下士民共に富有の心に成り自然に衣食住の張り出し過分の奢美に 14) 陥った しかし, その後天保 11 (1840) 年より米価は下落した 15) その一方で, 米以外の物の値段は下がらないために, 米価に生活を左右されている武士や百姓は困窮したのである このような状況の中で小楠は, まず節倹政策を提案した 小楠によれば 16), 節倹には, 藩の財政赤字を埋めるために, 藩士の手取米を減らし, 商人や農民に臨時税を課して, 上の御難渋を下より救い奉る 節倹と, 官府に利する心を捨て一国の奢美を抑え て 士民共に立ち行く道 を図る節倹の二つがある 小楠が主張したのは後者の節倹であり, 身分を問わず一統に衣服, 食事, 家屋を質素にすることを命じる非常のお触れを出して, 上下ともに暮し能き世界 に立ち返ることであった 11) 徳永洋 横井小楠 時務策 考 ( 熊本近代史研究会 近代の黎明と展開 熊本を中心に, 熊本出版文化会館,2000 年所収 ),31-32 頁 12) 同論文,28 頁 山崎正董が発見し, 横井小楠下巻遺稿篇 に掲載した草稿では, 小楠が水戸藩, 肥前藩, 米沢藩に言及した箇所が削除されている 13) 鎌田浩前掲書,161,508 頁 14) 山崎正董前掲書,66 頁 15) 熊本女子大学郷土文化研究所編 肥後藩の政治, 日本談義社,1956 年,228 頁 16) 山崎正董前掲書,69 頁 27

大阪産業大学人間環境論集 9 次に小楠が提案したのは, 藩による貨殖政策の廃止である 貨殖とは, 第 8 代肥後藩主 細川重賢が財政再建のために始め, その後も継続された, 士民に対する藩による高利貸付 制度のことである 小楠はこの貨殖政策の結果 御家中は大抵無手取に成り, 町 在は利 息の取立に苦み或は家蔵を封印し又は田地を引上げ渡世を失う者夥敷 17) くなったと, そ の弊害を指摘し, 貨殖政策を 聚斂の利政 としてすぐに廃止するように求めている こ のような提言は, 国家の大害は聚斂の利政より甚敷は無く, 一たび国を憂ひ民を 憐むの心起るときは第一に貨殖の筋を止めざれば一日片時も安らかなる心無き事なり 18) という心情からなされたものであった 最後に小楠は, 豪商が米価を操り過分の利益を自分のものにして士民が困窮するととも に, 町方の 奢美淫風 が広まって藩の風俗を害することを理由 19) に, 町方制度の改革 を上申している その内容 20) は, 城下の商人を統制するために, 新たに町奉行の役職を 作ること, 町を 10 組に分けてそれぞれの組に有給の別当役一人を置いて町奉行の官宅に出 勤させること, 商人による 歩札 の振り出しを禁止すること, 戸籍を改め農村から町に 集まった浮民を農村に返すことである 当時の肥後藩で, 節倹の政, 貨殖の廃止, 町方制度の改革, 以上の三つの政策が実現可 能であったどうかは議論のあるところであろう しかし, それはともかくとして, いずれ の政策も目指しているのは 士民共に立ち行く道 であった 小楠はその道を 聖人治国 の本意 21) とも表現している さて, 今度は 時務策 における 孟子 の引用を見てみよう 小楠は天の章で, 蓋返其本 22) なま ( 原文では 蓋亦返其本矣, 蓋んぞ亦たその本にたち かえ反らざるや ) という孟子の言葉を引用した上で, 節倹の本に立ち返れと述べ, さらに 節 倹の本 の意味を 官府に利する心を捨て一国の奢美を抑え士民共に立ち行く道を付くる 23) ことと説明している 蓋返其本 は, 孟子 梁恵王章句上にあり, 戦争をして領土を拡 まつりごと大するよりは, 政治の基本に立ち返って 政を発し仁を施 せば, 天下の士人, 農民, 商人, 旅人すべてが領地に集まってくることだろうという文脈で用いられており, 仁政の 17) 同書,71 頁 18) 同書,70 頁 19) 同書,74 頁 20) 同書,75-77 頁 21) 同書,70 頁 22) 同書,69 頁 金谷治 孟子 ( 新訂中国古典選第 5 巻 ), 朝日新聞社,1966 年,26-27 頁 本文中の書き下し文は金谷による 23) 山崎正董前掲書,69 頁 28

人に忍びざるの政 を目指して ( 北野雄士 ) 基本に帰れということを意味している 孟子は王が己のために畜財に励むことや民衆に重税を課することを厳しく批難した 孟子 の仁政論, 王道論と, 小楠が 時務策 で目指したものとが合致していることが分かる 小楠は 時務策 を執筆した後, 感懐二首 24) と題された漢詩二首を詠んでいる 野口宗親によれば, そのうちの第二首は, 小楠が天保 14(1843) 年 9 月 3 日肥後に襲来した台風による農村の大被害を見聞して詠んだものである 25) 小楠は, この詩の6 句までで 詩経 国風篇の豳風 26) に描かれた古代中国農民の平和な生活と対照させて, 台風に襲われた農村の惨状を描いた後, 最後の7,8 句で 廟堂幸有諸賢在救䘏斯民無罪年 27) きゅうじゅつ ( 廟堂幸いに諸賢在る有り斯民を救䘏して年を罪する無かれ ) と, 藩の官僚が台風による災害を年の巡り合わせにしないで民衆を救済していただきたいと願っている この漢詩は台風による災害を目の当たりにして, 深く民衆に同情し, 藩当局による被災民の救済を祈願したものである 斯民 や 罪年 という言葉は, 孟子 梁恵王上に由来する 斯民 28) ( この民 と親しみを込めて民衆を呼ぶ言い方 ) は, 君主が悪政を行って民衆を飢え死にさせてはならないという文脈で, 罪年 29) ( 孟子 本文では 罪歳 ) は, 王が凶作を年 ( 歳 ) のせいにしたりしなければ天下の民は王の許に集まってくるという文脈で使われている 孟子の王道思想は, 何よりも民衆の生活が立ち行くことを重んじる そのために孟子は, 君主が税金を安くすること 30), 戦争を好んでしないこと 31) など, 民衆の生活に対する細やかな配慮を君主に求めた 小楠は台風による大災害に触れて上述の漢詩を詠み, 孟子 の言葉を借りながら藩当局が民衆の救済に尽力することを願望したのである 以上のように, 時務策 が目指すものと, 同じ時期に引用された 孟子 の言葉とは, 仁政思想, 王道思想という点で合致している 第二章で,40 代後半以降の小楠の政策論と 孟子 引用との関係を検討する前に,34 歳 24) 同書,874 頁 25) 野口宗親前掲論文,15 頁 26) 石川忠久 詩経中 ( 新釈漢文大系 111), 明治書院,1998 年,119-22 頁 27) 山崎正董前掲書,874 頁 書き下し文は野口による 28) 金谷治前掲書,11-13 頁 29) 同書,10-11 頁 30) 同書,14 頁 31) 同書,26-27 頁 29

大阪産業大学人間環境論集 9 の頃に 時務策 を書いてから40 代半ばに至るまでの小楠の活動と思想の発展について概説しておこう 小楠は, 時務策 を執筆した頃, 長岡監物, 下津休也, 荻昌国, 元田永孚ら実学党の藩士たちと, 盛んに経書や史書の研究会を開き, 時の政治を論じあった 彼らは日本の儒者の著作も読んでいる 小楠は日本の儒者の中では, 岡山藩主池田光政の許で藩政に参画した熊沢蕃山 ( 元和 5 年生 元禄 4 年没,1619-1691 年 ), 郷土の朱子学者の大塚退野 ( 延宝 5 年生 寛延 3 年没,1677-1750 年 ), その弟子の平野深淵 ( 宝永 2 年生 宝暦 7 年没,1705-1757 年 ) の三人を高く評価した 小楠は蕃山から, 意を誠にする工夫 を行った上での政治, 即ち私心を排除して現実の政治に対処することを学んだ 32) 熊沢蕃山の著書 集義和書 は小楠の座右の書であり, 小楠は生涯にわたって同志や弟子とこの著作を講学している また, 大塚退野やその弟子の平野深淵が残した文章も小楠に大きな影響を与えた 33) 小楠が退野から学んだものは, 深い志から学問に入ること ( 立志 ) の重要さや, 他人の評価のためではなく, 天から与えられた己に具わる理を発現するための学問を意味する 己の為の学 34) ( 為己之学 ) という考え方であった 深淵からは, 天にかわりて天下の民を愛しそのところを得せしめる 35) 堯舜の道が, 時代や地域に関係なく普遍的に妥当するという信念を学んだ 退野も深淵も民衆を苦しめる重税を批判した 36) が, 小楠はその点も受け継ぎ, 前述した 時務策 の中で藩の貨殖政策を厳しく批判している 弘化元 (1844) 年水戸藩主徳川斉昭が, 仏教弾圧を理由に幕府によって致仕謹慎の処分を受けると, 肥後藩への波及を恐れた藩保守派は, 水戸藩士と交流しその影響下に藩政改革を唱える実学党の藩士に対する政治的圧力を強めた 小楠を含む肥後実学党の藩士は逼塞を余儀なくされ, 弘化 3(1847) 年長岡監物は藩主によって文武芸倡役を解任され, 家老職も辞めざるを得なくなった 37) 監物が家老を辞職したことで, 監物の許に集まった藩士は藩政改革の夢を断たれたが, 小楠は屈することなく, 友人や門人と共に講学を続けた 32) 拙稿 横井小楠による水戸学批判と蕃山講読 誠意の工夫論を巡って 横井小楠研究年報, 第 2 号,2004 年,1-20 頁 33) 拙稿 大塚退野, 平野深淵, 横井小楠 近世熊本における 実学 の一系譜, 大阪産業大学論集 人文科学編,107 号,2002 年,23-38 頁 34) 大塚退野 孚斎存稿巻之三 ( 武藤巌男, 宇野東風, 古城貞吉編 肥後文献叢書 ( 四 ), 歴史図書社,1971 年所収 ),655 頁 なお, 為己 の出典は 論語 憲問篇である 金沢治訳注 論語, 岩波書店 ( 岩波文庫 ),2009 年,199 頁 35) 平野深淵 程易夜話 ( 国立国会図書館蔵写本 ) 36) 大塚退野前掲書,628-35 頁 平野深淵 謹申上条々 ( 深淵存稿上 所収無窮会所蔵写本 ) 37) 鎌田浩前掲書,551-52 頁 30

人に忍びざるの政 を目指して ( 北野雄士 ) そうした時に越前藩士三寺三作が嘉永 2(1849) 年小楠の塾を訪れた 三寺が小楠の許で学んだことがきっかけとなって, 小楠と越前藩士との交流が始まった 1850 年代になると, 越前藩における小楠の名声は高まり, 越前藩は小楠に対して藩校の建設についてその是非を諮問した これに答えたのが, 嘉永 5(1852) 年に書かれた 学校問答書 である この中で小楠は藩校の理念として 修己 と 治人 の一致を挙げている 38) この理念は, 為政者の自己修養が 本 になって人々に及び, 末 の個々の政治に現象することを意味している 小楠によれば, そのためには, 為政者は絶えず家臣と一緒に 朋友講学 を行って互いの非を戒め合い, その上で現実の政治を論じ, 適切な政策を発見して実行しなければならない 小楠の結論 39) は, 藩校建設は時期尚早であり, 藩主が修養を積んで君とも師ともなれるようになることが先決だというものであったが, 結局越前藩校明道館は安政 2(1855) 年に建設された 嘉永 6(1853) 年ペリーが黒船 4 隻を率いて浦賀に来航した それに対して断固たる措置が取れなかった幕府の権威は失墜し, 日本の政治状況は流動化した 幕府や各藩は人材を探し, 異例の抜擢人事も行われるようになった 後述するように, 肥後藩では逼塞していた小楠も越前藩や長州藩では高く評価され, 紆余曲折の後, 安政 5(1858) 年越前藩主松平慶永によって越前藩校の教授として招聘された これがきっかけとなって小楠は幕末史の表舞台に登場する 次章では, 小楠が肥後藩を離れ, 越前藩政さらには幕政と関わる中で提言した政策と, 政策論や書簡などの中で引用した 孟子 の言葉との関連を見てみよう 第二章 40 代後半以降の政策論と同時期の 孟子 引用 国是三論 を中心に 小楠は越前藩に招聘されると, 越前藩政に深く関わり, 松平慶永が幕府の政事総裁職に なると今度は幕政にも関与し, 幕臣の勝海舟や大久保忠寛 ( 一翁 ), 脱藩浪人坂本龍馬ら と親しく交わるようになった 本章では, 小楠が万延元 (1960) 年 52 歳のときに口述した 国是三論 を中心に,40 代後半以降の政策論や政治行動が目指すものと, 政策論や書簡 などの中で引用した 孟子 の言葉との関連を考察しよう 嘉永 6(1853) 年ペリーが浦賀に来航した直後, 小楠は攘夷を強く主張した しかし, 来航後のアメリカの比較的平和的な外交態度を知ったせいか, 日本は 無道 の国との交 際は拒否すべきだが, 有道 の国との交際はむしろ伝統であるとの文章 40) を書いて, ア 38) 山崎正董前掲書,4-5 頁 39) 同書,7 頁 31

大阪産業大学人間環境論集 9 メリカとの国交を開始する道も開いている さらに, 安政 2(1855) 年には弟子の蘭方医と一緒に漢文の世界地理書 海国図志 41) を集中的に読んで, 西洋文明の実情や優秀性を知り, 開国の不可避を悟った 安政 5(1858) 年越前藩校の教授として招聘された小楠は, 藩士の前で講義をするとともに, 藩による殖産興業を指導した 越前藩士の三岡八郎 ( 後の由利公正 ) は小楠の指導を受けながら, 生糸などの物産の生産を奨励し, 生産された物産を物産総会所を通じて売りさばいた これによって藩の財政は大いに潤った 小楠は前述した 時務策 では節倹と 勧農抑商 的な政策を進言していたが, 福井では地域産業の生産力を引き上げることによって民衆の生活を豊かにする富国策を実施した 小楠の経世論は, 海国図志 の講学や福井での経験によって大きく変化した 小楠は, 万延元 (1860) 年福井で 国是三論 42) を口述し, 越前藩政の指針をまとめている 国是三論 は藩政の指針という形を取っているが, 後述するように開国の不可避論や徳川幕府のこれまでの政治に対する根本的な批判も含んでおり, 幕政のあり方も論じられている 国是三論 は, 富国論, 強兵論, 士道論の三篇から成る 以下各篇の内容を略述して小楠が目指しているものを考察しよう まず, 富国論では, 鎖国に関する賛成論と反対論が両論併記された後, 今や幕府が条約を結んで外国との交易の道が開けた以上, 信義に基づいて外国と通商すべきだと述べられ, その具体策が論じられる 例えば, 藩が利息を取らずに農民にお金や穀類を貸して五穀や生糸などの生産を奨励し, 農民に有利な価格でその生産物を買い上げて, 外国に売るという方法 43) が提案されている 小楠は, このような提案が 政事 は 民を養ふが本体 44), 教は富を待て施すべ し 45) という 仁政 46) の思想に基づいていることを明らかにしている 富国論はさらに, 交易通商は西洋から始まったものではなく, 五経の一つである 書経 の中の堯, 舜, 禹の故事を引いて古代中国でも行われていたと述べている 47) さらに日本では, 中古以来堯, 舜, 禹の時代のような民衆のための政治が行われず, 徳川幕府の政治 40) 同書,11-14 頁 41) 同書,224,243-44 頁 42) 同書,29-56 頁 43) 同書,33-34 頁 44) 同書,38 頁 45) 同書,36 頁 46) 同書,33 頁 47) 同書,38 頁 32

人に忍びざるの政 を目指して ( 北野雄士 ) も徳川御一家のための 便利私営 48) に留まっており, 天下を安んじ庶民を子とするの政教 49) がなかったと批判している 次に, 強兵論では, これから日本が海軍をもつべきことが強調され, 越前藩としては将来海軍に役立つ人材を養成しておくことが提案されている 国是三論 の口述から4 年後の元治元 (1864) 年に著された 海軍問答書 50) では, 海軍創設によって民衆に負担をかけないために, 銅生産の拡大と輸出, 鉱山開発による鉄の生産, 木材の産出が提言されている 最後に, 士道篇は, 本来一源より発した文武が分かれて技芸に陥ったことを批判し, まず心術を磨いて一国を治める経綸を明らかにし, 天地反覆の変乱においても 一心静定 51) でいられるようにした上で, 文武の技術を修めることを主張している 以上のような内容の 国是三論 が目指しているものは, 小楠自身が明らかにしているように, 民を豊かにする仁政である 前述したように, 小楠はこのような仁政の源を, 古代中国の堯, 舜, 禹の時代に求め, その時代の政治のあり方を, 堯舜三代の道統 52), 三代の治教 53) などと読んでいる 国是三論 では, 後者の表現が用いられている 堯, 舜は, 書経 に描かれている古代中国の伝説的帝王である 三代 は, 夏, 殷, 周の三王朝を指しており, 夏王朝を開いた禹, 殷の湯, 周の文, 武などの王によって理想的な政治が行われたとされている 小楠は, 少なくとも40 代半ばから 書経 を重んじ, 越前藩士に対して, 日頃から 書経 に親しみ, 堯舜之気象 54) を体得して現実の問題に対処すべきことを勧めている 小楠の経書の読み方は, そのテクストに書かれたことを実体化して現実を裁断するのではなく, 経書に登場する人物がどのように 現在工夫之実 55) を示しているかを, すなわち当時の現実の中でどのように 事の得失義理の当否 56) を説いているかを見て応用するというものであり, 書経 でも同様であった 小楠は 書経 と 孟子 の関係をどのように捉えていたかという問題が生じるが, それについては第三章で論じることにして, 国是三論 の中で, あるいは同時期の文章の 48) 同書,39 頁 49) 同書,39 頁 50) 同書,19-28 頁 51) 同書,53 頁 52) 同書,901 頁 53) 同書,40 頁 54) 同書,240 頁 55) 同書,128 頁 56) 同書,128 頁 33

大阪産業大学人間環境論集 9 なかで 孟子 の中からどのような言葉が引用されたか, そして引用された 孟子 の言葉と 国是三論 が目指したものとの関係について考えてみたい 小楠は 国是三論 富国篇の中にある, 鎖国体制下の各藩の政治一般に関する以下の文章 57) の中で 孟子 の言葉を引用している きょうけん且自国豊熟にして他国は凶歉ならん事を祈るごとき気習なる故, 明君有ても纔 わづかに 民を虐ざるを以て仁政とする迄にて, 其真の仁術を施すに至らず, 良臣といへるも土地を闢き府庫を充るを務として孟子の所謂古の民賊たる事を免かれず 引用文中の 民賊 は, 孟子 告子篇下に出てくる言葉である 孟子はそこで 今の, つかひら君に事うる者は, われは能く君の為に土地を辟き府庫を充たす という 今のいわゆる むか良臣は古えのいわゆる民の賊なり 君にして道に郷わず仁に志さざるに, しかもこれを富 まさんと求むるは, これ桀を富ますことなり 58) と述べている この一節が意味するとこ ろは, 君主を仁義の王道に向かわせず, 君主を富ますことばかりしているような臣下は古 えの 民の賊 であり, 暴君だった桀を富ませるのと同じことだということである 小楠 は, 日本の各藩の家臣がそれぞれの藩の財政を豊かにすることばかりを図っていることを, それでは 孟子 の 民の賊 に他ならないと批判しているのである このような 孟子 引用と 国是三論 が目指すものとが, 民を豊かにする仁政という 点で合致していることはすでに明らかだろう 国是三論 は, 福井での殖産興業の実践によって 上よりは下之富を楽み下の貧を憂る 元来之心と相成候て, 下又是迄疑惑不信之心を解候て上を信ずる本心と相成 59) ったと述 べている 小楠は理想的な為政者と民衆の関係が現れたと感じたのである このような関 係は, 孟子が理想とした社会状態でもあった 民の賊 の引用から分かるように, 小楠は君主や家臣の心が仁政を志向しているかど うかを重視していた これに関連する 孟子 引用に触れておこう 国是三論 を口述 したのと同じ年に小楠が越前藩士矢島恕介に出した書簡 60) は, 君主や大臣の一心のあり 方について次のように述べている 57) 同書,33 頁 58) 金谷治前掲書,421-22 頁 59) 山崎正董前掲書,349 頁 60) 同書,322 頁 34

人に忍びざるの政 を目指して ( 北野雄士 ) 幣は総て其人の心に生ずるものにて, 其の事好き筋なれ共行れ不申, 上下にて云へば上之命令下に行れ不申は下の人服し不申故なり, 其服し不申は上の人之私心故其私心を怨みたるなり, 外に子細は無之候 孟子の所謂生其心害其政, 又以不忍之心行不忍之政明白なる言なり 去れば命令法度の行るゝは其君相の心公平にて私なきより下の人服する故なり 左なきは上に私あればなり 下の服せざるが幣にて別に幣は無き事なり ここで引用されている孟子の言葉のうち前者の 生其心害其政 61) おこ ( その心に生ればそ まつりごとの政にも害あり, 孟子 原文では 生於其心, 害於其政 ) は, 辞 ( かたよった言 葉 ), 淫辞 ( でたらめな言葉 ), 邪辞 ( よこしまな言葉 ), 遁辞 ( 言いのがれの言葉 ) という四つの正しくない言葉が人の心に生じると, その人が行う政治にも幣害が生じるという文脈の中で使われている 後者の 以不忍之心行不忍之政 ( 忍びざるの心を以て忍びざるの政を行ふ ) は, 孟子 の原文では 以不忍人之心行不忍人之政 62) ( 人に忍びざるの心を以て人に忍びざるの政を行ふ ) となっており, 人 が抜けている この言葉は, 先王が行った, あわれみの心で温かい血の通った政治を行うならば, 天下を治めることは珠でも手のひらに載せてころがすように, いともたやすいことだという文の中にある 従って 孟子 の言葉が引用されている, 上記の文章が意味するところは, 君主や大臣の心に正しくない言葉, すなわち間違った考えが浮かべば政治に幣害が生じ, 逆に為政者が心に浮かんだあわれみの気持ちによって民をいつくしむ政治を行えば, 天下を治めることはいとも容易であるというものである 経済政策のみならず, 民衆が法令を守るかどうかという文脈で為政者の一心のあり方が論じられる際にも, 孟子 の言葉が参照されていることは注目されよう 孟子は, 民衆の生活に触れて生じる同情心 ( 人に忍びざるの心 ) を, 人と人の関係, さらには政治に拡充していくことを主張したが, 小楠も同じ思想に基づいて政治を論じていることが分かる 小楠は, 国是三論 を口述した後も, 仁政を強く唱えている 維新前夜の慶応 3(1867) 年小楠が越前藩の行動指針として越前藩士松平源太郎に送った 国是十二条 では, その一条として 士民を仁しむ 63) や 富国 64) が挙げられている この二条にそれぞれ, 小楠 61) 金谷治前掲書,87 頁 62) 同書,99 頁 63) 山崎正董前掲書,89 頁 64) 同書,90 頁 35

大阪産業大学人間環境論集 9 自ら, 愚以謂, 上下損益の利害を知れば自ら仁政立, 己の利害を忘れ候事に可有之哉 65), 愚以謂, 民に信を通候上は彌以て世界の有無通じ, 仁愛心を以て恒の産を與へ, 人々を して富饒ならしむ 民死して不怨, 富国の本立可申哉 66) という説明を付けている 富国 の説明中, 恒の産 67) は孟子が仁政を説いた箇所に出てくる語句である さて, 海国図志 を読んだ 47 歳以降の小楠の政策論を見ると, いかにして産業を振興 して民衆の生活を豊かにするかに心を砕くとともに, いかにして内乱を防ぎ, 欧米諸国と の戦争を回避して平和と独立を確保するかに腐心していることが分かる 後者の目的のた めに, 小楠は, 文久 2(1862) 年から文久 3(1863) 年にかけて, その時々の政治状況に 応じて, 全国の大名による会議や, 日本代表と欧米諸国代表との国際会議を提案した 小楠が文久 2 年 8 月に行った, 大名会議の提案 68) は, 幕府ができるだけ穏便に欧米諸 国と結んだ条約を破棄し, 全国大名会議を開いて国是を確定し, その上で諸外国に交わり を求めるというものである その実現可能性はともかく, これによって攘夷運動を鎮めて 内乱を回避し, 統一的な国家意志を形成した上で開国しようという意図に基づくと考えら れる 文久 3 年 5 月に行われた国際会議の提案 69) は, まず, 当時は隠居の身分で藩を治めて いた松平慶永と養子で藩主の松平茂昭とが, 越前藩兵約 4000 名とともに京都に上り, 京都 に集まっていた尊攘派を一掃して, 朝廷が主導し有力大名が補佐する新政権を樹立し, そ の上で日本代表と欧米諸国代表との国際会議を開いて, 鎖国か開国か国是を確定するとい うものである 小楠の狙いは, 以上のような会議によって統一的な国是を確立し, 内乱を防止し対外戦 争を回避して, 日本の独立を維持することにあった このような狙いが実現すれば, 日本 の民衆も戦争に巻き込まれなくて済むことになる さらに, できればその会議によって日 本を積極的な開国, 対外貿易に導きたいという気持ちもあったと考えられる 文久 3(1863) 年 6 月 6 日将軍が京都を離れ江戸に向かったという情報が福井にもたら された 越前藩内では,7 月が江戸参府の期日に当たっていた藩主茂昭が上洛を取り止め て江戸に出府するか, それとも前述した小楠の提案に従って藩兵 4000 名とともに上洛する かで藩論が分裂した 結局慶永によって前者の方針が採用され, 後者の挙藩上洛派の越前 藩士は職を解かれ罰せられた 上洛論の提唱者であった小楠は失脚し熊本に帰った 65) 同書,91 頁 66) 同書,92 頁 67) 金谷治前掲書,28-29,150 頁 68) 日本史籍協会編 続再夢紀事 1, 東京大学出版会,1988 年,104-05 頁 69) 山崎正董前掲書,415-24 頁 36

人に忍びざるの政 を目指して ( 北野雄士 ) 小楠はさまざまな政治的経験を経て, 郷里で静かな生活を過ごすことになったが, 明治元 (1868) 年には朝廷に召命されて上洛し, 明治政府の参与となった しかし, 翌年攘夷派の残党に欧化主義者として暗殺された 40 代半ば以来小楠が越前藩の政治や幕政に関わる中で提言した政策は, 以上のように民衆が豊かで平和に暮らせることを願ったものであった その間に引用された 孟子 の言葉も仁政思想, 王道思想に関連するものが多い 小楠の政策論が目指すものと 孟子 引用とが合致していることが分かる 次章では, 小楠が孟子の思想や 孟子 の経典についてどのように考えていたかという問題を取り上げよう 第三章 小楠の孟子論 本章では, 小楠が孟子を, 孔子や朱子, さらには古代中国の伝説的君主である堯舜とどのように結びつけていたか, 経典として 孟子 全体をどのように捉えていたかを考察する まず, 小楠は, 堯舜と孔子の関係, 孔子と孟子の関係について文久元 (1861) 年に次のように述べている 70) 孔子は堯舜を祖述文武を建章し天地之時に随ひ被成候 孟子も孔子に私淑し孔子 之学び玉ふ通りに学ばれ候 程朱も同断 冒頭の 孔子は堯舜を祖述文武を建章し のところは, 中庸 の 仲尼祖述堯舜, 憲 章文武 71) が出典である 文武 は周王朝の礎を築いた文王と周王朝の開祖の武王のこ とである 憲章 ( 小楠は 建章 と誤記 ) は則ることを意味する 従ってこの引用の趣 旨は次のようになる 孔子は堯舜の道を模範として受け継いでその道を述べ伝え, 文王や 武王の政法を守り, 天地の時に随われた 孟子も孔子に私淑し孔子が学んだ通りに学ばれ た このことは北宋の程顥, 程頤や南宋の朱子も同様である 上記の引用と同趣旨のことを, 小楠は元治元 (1864) 年 56 歳の時に 我孔孟の道 は堯舜三代の道統を祖述いたされ候ものにて, 堯舜三代は位に居て天下を治められし故其 道正大にて天に継ぎ教を立てられたり 孔孟は又其天下正大の理を以て教を後世に伝へら 70) 同書,350 頁 71) 金谷治訳注 大学 中庸, 岩波書店 ( 岩波文庫 ),2009 年,232 頁 37

大阪産業大学人間環境論集 9 れ候 72) と述べている 堯舜三代の道統 は, 堯舜の時代及び夏, 殷, 周三王朝の時代の道統である 小楠は47 歳の時に漢文の世界地理書 海国図志 を読んで, そこで記述されている, 西洋諸国の政治制度や軍事力だけでなく, 民衆本位の経済政策, 社会政策, 租税制度なども知って, 書経 の記述がそのような政策と符合することに気づき, ますます 書経 を重んじるようになった 書経 には, 堯や舜のような伝説的帝王, 夏, 殷, 周三王朝の歴代帝王の言葉や事績が載せられ, 仁政を天命と考えて民衆の福利を実現しようとする思想, 血縁にとらわれない指導者選抜の思想, 高度な治水技術, 農業技術や交易を重視する思想などが含まれている 書経 のこのような側面は, 小楠にとって, 市民革命, 産業革命を経た西洋文明を取り入れながら, 日本を変革するための思想的根拠として極めて好都合だった 小楠は前述した 書経 の思想を 堯舜三代の道統, 三代の道 などと呼んで,40 代半ば以降自らの最高の政治理念とした 小楠がこの理念を掲げて提案した政策論を見ると, いかにして内乱と欧米との戦争を回避して平和を確保するか, いかにして産業を振興して民衆の生活を豊かにするかの2 点を目指していたことが分かる 堯舜三代の道統 は為政者に対して平和で豊かな民衆の生活の実現を要求する点で, 孟子の仁政思想と異なるところはない 孔子も孟子も 堯舜三代の道統 を祖述したと述べているように, 小楠は孔子, 孟子を経て 書経 の 堯舜三代の道統 に行きついたのである 次に, 小楠が 孟子 という経典をどのように捉えていたかを見てみよう 小楠が嘉永 4(1851) 年以降 ( 正確な年代不明 ), 柳川藩士の立花壹岐に対して出した書状は 73), まだ儒教の何たるかが分かっていない俗人に対しては, まずその人の 本心のやまれ申さざる処 を指し示して, そのような心がその人にも具わっていることを理解させることが肝要であり, 孟子 の七篇はすべて, 本心のあり方から出発する正しい学問を俗人に 合点 させようとしたものだと述べている ここで 本心のやまれ申さざる処 は, 孟子 でいうところの 人に忍びざるの心, あるいは 惻隠の心 74) そくだつに当たる 小楠は 惻隠の心 の代わりに 惻怛の誠 75) という言葉を使っているが, いたみかなしむ真心という意味は同じである 小楠の理解によれば, 孟子 の全編は, 俗人に対して 人に忍びざるの心 あるいは 惻怛の誠 という本心のあり方から出発する正しい学問を心から納得させることを目指したものであった 72) 山崎正董前掲書,901 頁 73) 同書,610 頁 74) 金谷治 孟子,99-100,372 頁 38

人に忍びざるの政 を目指して ( 北野雄士 ) 結論 以上, 時務策 と 国是三論 を中心として, 小楠の政策論が実現しようとしたものと, 孟子 からの引用との関係を考察し, さらに小楠が孟子の思想や 孟子 という経典をどのように捉えていたかを見てきた その結果判明したことは, まず, 小楠の政策論と引用された 孟子 の言葉が仁政思想, 王道思想という点で合致するということである 従って, 小楠は少なくとも30 代以降 孟子 の仁政思想を受容していたということができる 小楠が書き残した文章に当たって, 引用された 孟子 の言葉を調べると, 筆者が調べ得た限りでは仁政思想に関するものが多いことが分かる もちろん, 仁政思想は 孟子 の中にだけあるものではなく, 論語, 大学, さらに前述した 書経 などにも存在する 小楠は特に 孟子 の言葉を頻繁に引用して仁政を説いたということである 小楠は儒教の仁政思想を受け容れて, 単に唱えただけではない 江戸末期の変転する政治状況の中で仁政を本気で実現しようとして, 意見書を作成したり, 藩政の方針を起草したり, あるいは越前藩で挙藩上洛を推進したように時には政治行動に打って出たりした そのような政策論や行動は究極的には, 豊かで平和な民衆の生活, その前提としての日本の独立を目指すものであった 小楠は, 本論で述べたように孟子と同じように, 本心のやまれ申さざる処, 孟子の言うところでは 人に忍びざるの心 から出発して儒学に入り, そのような心のあり方を政治に拡充することを要請した 民衆が法令に従うかどうかは, 君主の一心のあり方に関わっており, 君主は私心をなくし 人に忍びざるの心 に基づいて人を治めなければならないと考えたのである そのため, 小楠は君主の心の修養を重んじ, 君主が臣下と絶えず 朋友講学 76) して互いに討論し戒め合いながら, 民衆のための政策を生み出していくことを説いた 小楠は少なくとも40 代以来 書経 を重んじるようになり, 書経 に展開されている政治原理を 堯舜三代の道統, 三代の治教 などと表現して, その原理に基づく政治を提唱した 書経 が重視された原因の一つは, 小楠が47 歳の時に読んだ世界地理書に描かれた, 西洋諸国の民衆本位の経済政策, 社会政策, 租税制度などが 書経 の記述とその根本において一致していたことである 小楠は, 孔子, 孟子の思想を, 堯舜三代の道統 を祖述したものと捉え, 堯舜三代の 75) 山崎正董前掲書,900,906,909 頁 惻怛 という言葉は 礼記 問喪に出てくる 竹内照夫 礼記下 ( 新釈漢文大系 29), 明治書院,1993 年,864-65 頁 76) 山崎正董前掲書,4 頁 39

大阪産業大学人間環境論集 9 道統 に自らの政治理念を収斂させた 堯舜三代の道統 に従って実際に提案された, 小楠の政策論や政治行動が最終的に目指していたのは平和で豊かな民衆の生活であった 堯舜三代の道統 はその根本において孟子の仁政思想と異なるところはなかったのである 40