細畑銅鐸 各務原台地 60m 6 木曽川 上野 犬山扇状地 2 2 西上免 日光川 猫島 尾張 国府跡 32. 32. 3 春日井台地 阿弥陀寺 西志賀 寺野 1 1 2 名古屋台地 40m 60m 60m 東山丘陵 60m 至 豊 田 2. 名古屋城銅鐸 畠 微高地 荒蕪地 Ⅱ期 Ⅲ期環濠 Ⅳ期 Ⅵ期 水田 河道に沿う水田 河道跡 の水田 Ⅴ期環濠 銅鐸出土地 推定河道 水路 河道 1 1 1 12. 天白川 瑞穂 池 堤防 2 2. 高蔵 Ⅱ期 Ⅲ期 中根銅鐸 見晴台 三王山 雑林 12. 1 2 地形区分界 3 2. 古墳Ⅰ期 34 Ⅰ期環濠 至 豊 田 Ⅰ期 古代寺院 関 西 本 線 図 1 明治 2O 年代の濃尾平野と遺跡分布 0m 1000m 4000m 50m 守山丘陵 2 2. 2. 松河戸 朝日銅鐸 森南 勝川 月縄手 朝日 3 本 線 道 小牧山 海 野口北出 東 2. 岩倉銅鐸 五条川 三宅川 12. 元屋敷 1 80m 22. 3 32. 2 12. 青木川 山中 80m 2 八王子銅鐸 八王子 五条川 3 40m 一色青海 小牧台地 1 4 1 50m 22. 余野 40m 12. 3 二宮銅鐸 5 60m 4 32. 2 城
伊勢湾周辺地域における弥生時代の平野地形について 石黒 旧流路① 旧流路② 現流路 伊勢湾 安濃津遺跡 古墳前期末 砂堆間低地 第2砂堆 潟もしくは砂堆間湿地 高松 砂堆間低地 丸の内本町 第1砂堆 後背湿地 尺目 安濃川鉄橋下 低地 上村 大御堂 ン イ ラ 丘陵 宮前 神戸銅鐸 谷A 市場 高 標 竹川 標高 納所 4mラ イン 宮代 丘陵 標高7m コウゼンジ 窪地 梁瀬 蔵田 宮ノ前 森山東 太田 松ノ木 山籠 位田 森山 微高地Ⅰ 柳谷 桶田 森山古Ⅰ期 竪穴 Ⅴ初 J中 土坑 12 独立丘 宮ノ前 松ノ木 8 谷A 蔵田 J晩後半 流路 Ⅱ 位田 土坑 Ⅵ 古Ⅰ Ⅴ初 方周 窪地 水田 Ⅴ 流路 無遺構 (削平 ) J後末 Ⅱ 集落 J晩末 Ⅰ 流路群 窪地 丘陵 谷A 微高地Ⅰ 古墳 流路群 古Ⅰ 流路 替田 J晩後半 6 上層 下層 8 納所 10 J晩末 森山東 Ⅴ 太田 突帯文期の流路 現安濃川 J晩後半 竪穴 土坑 流路 Ⅱ期 方周 水田 1000m 500 0 100 4 微高地Ⅱ 山籠 Ⅳ 17m 1 長 Ⅳ 40m 6 里前 谷B 長 10 替田 弐ノ坪 現河道 弐ノ坪 Ⅱ Ⅲ前半 遺物のみ 竪穴 土坑 Ⅱ Ⅲ前半 竪穴 土坑 溝 谷B 微高地Ⅱ 里前 梁瀬 J後晩 埋積浅谷 4 J晩末 古Ⅰ 遺物のみ 低地 図 2 安濃川下流域における遺跡分布と横断模式図 丘陵 37
コドノB 金剛坂 瀬干 櫛 田 川 4m 3m 草山 川原表B 花ノ木 阿形 1 下之庄東方 天保 蛇亀橋 天花寺 4m 3m 1 片野 鳥居本 川 桶早崎 中ノ庄 0. 筋違 4m 木造 中村 川 雲出 1 0 筋違 Ⅰ期 2.5 3m 洪水層 Ⅳ期 3.5?m 前田町屋 嶋抜 3m 四ツ野B 5km 前田町屋から浮線紋浅鉢が出土しているが 遺跡としての認定は難しい 現流路 旧流路 砂堆 扇状地 曽祢崎 自然堤防 下位面 低位面 中位面 上位面 丘陵 尾根状地形 伊勢湾周辺地域における弥生時代の平野地形について 石黒 図 3 雲出川 櫛田川下流域地形図 ( 土地条件図を参考に作製 ) 地よりの第1列に嶋抜遺跡や中ノ庄遺跡が立地 雲出川下流域における遺跡分布は 砂堆を除 している 第 1 列は大きく西の陸側に湾入し けば現在の地表面標高 4m 以上の地点に位置し ており 陸側の等高線も他に比べて間隔が詰 ている 実際の遺跡の検出面はそれより低くな まっており 傾斜は急である 砂堆第 1 列が り 筋違遺跡の場合 弥生前期面は標高 2. 弥生時代の海岸線に近いなら 沖積平野はきわ 3m で 現地表から 1.5 ほどマイナス めて狭いものとなる かりに砂堆の西側に後背 となる これだけの堆積を見込むなら 現標高 湿地や潟が形成されていたならば 沖積平野の 3m 以下の範囲は湿地もしくは干満の影響範囲 範囲はさらに狭まることになる となる 雲出川や櫛田川下流域における堆積 あ 39
犬山扇状地 谷筋A ❶ 5. ❷ ❼ 5. 7m 8m 8m 7. 谷筋B ❸ 6m 0.6m 4m ❽ 3m 2. 庄内川河口域 1.8m ❺ 0.8m ❻ 0.8m 弥生中期前半 環濠集落 環濠不明 7m ❹ 小牧 春日井台地 弥生中期前半 環濠 弥生中期前半 環濠 貝塚 弥生中期前半 そのほか 弥生中期後半 ❶八王子 ❷二タ子 ❸一色青海 ❹野口 北出 ❺森南 ❻阿弥陀寺 ❼猫島 ❽朝日 ❾西志賀 高蔵 ❾ 0 2km 発掘調査で検出された 流路 谷 は戦後の地盤沈下量で補正した等高線 2km 0 遺跡の数値は 当時の地表面の推定標高 名古屋台地 図 4 濃尾平野南部弥生中期遺跡分布図 はない 第 3 砂堆の中央部が幅広いことを考 慮するならば 複数時期の砂堆列が複合してい る可能性を考える必要もある 第 3 砂堆東方 の陸側では 低地を囲む丘陵に至るまでさらに 複数列 少なくとも 2 列 の砂堆が認められる 知多半島中央部にある内海谷でも縄文時代に遡 る砂堆形成が認められる このように 知多半島の砂堆はもっとも海側 の砂堆 の主要部分 の形成時期が縄文晩期 も しくは後期 である可能性が高いのに対して 西岸域ではもっとも陸側の砂堆が縄文時代晩期 もしくは後期 に遡る可能性が高いという違 42 いがある 砂堆列の形成時期の相違について一 般論としては 地盤が沈降する伊勢湾西岸と隆 起する伊勢湾東岸における構造的な差異である 可能性もあるが 重要なのは当該期に活動可能 な地表面を形成していたのかどうかの確定であ る 知多半島東側から碧海台地にかけては海が台 地縁辺にせまり また谷奥に入り込んで埋没谷 となり 複雑な海岸線を形成している 知立市 の猿渡川下流域は珍しく弥生時代の遺跡が集中 する区域であるが 縄文時代の貝塚が数多く形 成されて後は 弥生時代前期を別にしてⅣ期ま
伊勢湾周辺地域における弥生時代の平野地形について 石黒 犬山扇状地 3.7m 5. ❶ 9m ❷6. 8m 3. ❸ 6. 2.7m 1. 2.8m 2. 7m 6m 5.4m 谷筋B 4m 1. 2. ❹ 0.7m 0.8m ❺ 3m 0m 0 3.7m 0.8m 0.3m 主要な堆積方向 小牧 春日井台地 2.4m 名古屋台地 2km ❶萩原遺跡群 弥生後期 古墳前期の遺跡 後期初頭の遺跡 朝日以外は洪水で埋没 ❷元屋敷 ❸御申塚 ❹廻間 遺跡の数値は 当時の地表面の推定標高 ❺朝日 図 5 濃尾平野南部弥生後期 古墳初頭遺跡分布図 で空白期である この地域では一般的に弥生時 められないようである 縄文晩期から弥生前期 代の遺跡形成は低調なようだが かえってⅣ期 にかけて そして弥生後期の 2 度の寒冷化と における遺跡形成の活発さが際立つ 小海退によって河口部の形状は大きく変貌した 2 矢作川下流域 豊川下流域 であろうが それを確実に把握できるだけの情 報は残念ながら得られていない いまだ埋没し 矢作川流域は豊田市域から下流に向けて て 人知れず眠ったままの遺跡があることだろ 2km 5km の幅で段丘に挟まれた氾濫平野が う 続く 安城市 岡崎市から西尾市にかけて矢作 矢作川の流路がけっして固定していなかった 川は碧海台地を横断して流れるが それは江戸 ことは 矢作川河床遺跡群 の存在から明らか 時代の付け替えによるのであり 本来は矢作古 である しかも それは矢作川の堆積の進行 川が流路であった 矢作古川の最下流域におけ 速度 天井川化 が速いことも複合的に関係し る弥生時代の遺跡分布は 弥生後期には両岸の ているのである 現在は段丘面も 1 面しか認 台地 丘陵上に分布の重心がある 低地側は不 められないのだが 地表面形成において地盤の 明瞭であり 確実に集落と考えられる遺跡は認 隆起現象よりも天井川化がより強い要因であっ 43