ティクヴァ 走 れ,ローラ! (1998 年 ) 意 志 と 混 沌,この 現 代 的 な 映 画 に 見 られる 伝 統 的 思 考 形 式 について 木 本 伸 1.ドミノ 的 スピード 感 ドイツ 映 画 が 90 年 代 後 半 から 活 況 を 呈 している これらポスト ニュージャーマンシ ネマと 呼 ばれる 映 画 の 代 表 格 が 走 れ,ローラ! である 1 ) この 映 画 はドイツ 国 内 のみ ならず,アメリカや 日 本 でも 広 く 成 功 を 収 める 世 界 的 ヒット 作 となった 2 ) その 成 功 の 理 由 として 考 えられるのが,まず,この 映 画 の 受 け 入 れやすさだ 赤 髪 にジーンズという 主 人 公 ローラのいでたち さらにホームレス,マフィア, 地 下 鉄 にロック 音 楽 というこの 映 画 の 構 成 要 素 は, 世 界 中 の 大 都 市 で 共 通 する 風 景 といえるだろう さらに 監 督 ティクヴァ によれば, 別 名 スピード あるいは 観 客 を 引 きさらうジェットコースター (129)とも 呼 ばれるアクション 映 画 的 な 要 素 も,この 映 画 の 面 白 さの 一 部 であったことはまちがいな い それは 思 想 的 な 重 さを 隠 さなかった 従 来 のドイツ 映 画 にはない, 最 近 の 特 徴 ともいえ るだろう 3 ) 映 画 の 筋 立 ては 簡 単 である 場 所 はベルリン 主 人 公 はローラと 彼 女 の 恋 人 マニ マニ は 宝 石 密 売 の 使 い 走 りをして,その 途 中 で 10 万 マルクの 入 ったビニール 袋 を 電 車 に 置 き 忘 れてしまう 彼 は 正 午 に 親 分 のロニーと 会 い, 宝 石 の 代 金 を 手 渡 すことになっているが, それができなくなったいま 自 分 は 殺 されると 確 信 し, 電 話 ボックスからローラに 助 けを 求 める 正 午 までの 時 間 は 20 分 ただちに 彼 女 は 恋 人 を 救 うために 走 り 出 す 映 画 では,ローラが 10 万 マルクを 手 に 入 れるまでの3つのパターンが 示 される 第 1 ラウンドと 第 2ラウンドでは, 二 人 は 大 金 を 手 にするものの,その 直 後 に 命 を 落 してしま う 第 3ラウンドでは, 二 人 は 偶 然 から 合 わせて 20 万 マルクを 手 に 入 れて, 物 語 は 幸 せ な 気 分 で 幕 を 下 ろす この 映 画 の 軽 やかさとスピード 感 それを 象 徴 するのが, 最 初 の 電 話 の 場 面 でスクリー ンに 挿 入 されるドミノ 世 界 記 録 のシーンである ひたすら 倒 れ 続 けるドミノの 映 像 と 日 本 人 アナウンサーの 熱 狂 的 な 実 況 中 継 その 映 像 は 立 ち 止 まることを 知 らない 現 代 社 会 の 有 様 を 視 覚 的 比 喩 において 映 し 出 す ローラに 与 えられた 時 間 は 20 分 この 状 況 において ドミノの 動 きは 直 感 的 に 秒 針 の 動 きを 思 わせる それは 刻 々とした 時 間 の 経 過 を 視 覚 的 な
形 にすることで, 正 午 という 約 束 の 時 間 が 迫 りつつあることをローラと 観 客 に 突 きつける のだ このようにドミノには,ベルリンという 舞 台 の 時 間 的 性 質 が 込 められている ドミノが 象 徴 するのは 無 機 質 な 時 間 である その 軽 快 で 軽 薄 な 動 きは, 伝 統 の 重 力 から 解 き 放 たれ た 消 費 社 会 の 時 間 を 表 現 している カメラは 未 来 へ 向 けて 連 鎖 反 応 を 続 ける 現 在 のドミノ だけを 映 し 出 す 倒 れて 動 かなくなった 過 去 のドミノは,いわば 廃 棄 物 である この 場 面 が 日 本 語 で 実 況 中 継 されることは 偶 然 ではない それは 現 代 の 消 費 社 会 を 象 徴 する 言 語 な のだ ドミノは 未 来 を 目 指 して 倒 れ 続 ける そのスピード 感 は 現 代 社 会 の 未 来 志 向 と 性 格 を 共 有 している 登 場 人 物 たちは 由 来 もなく 突 然 スクリーンに 現 われる 彼 らは 過 去 に 根 差 し た 存 在 として 描 かれることはなく,フラッシュフォワードの 技 法 によって,ほんの5 秒 で 未 来 の 可 能 性 が 映 し 出 されるだけだ 4 ) 主 人 公 であるローラとマニの 関 係 さえ,その 過 去 が 語 られることはない シナリオに 付 された 登 場 人 物 の 性 格 付 けによると, 二 人 はある 日 ディスコで 知 り 合 ったことになっているが,これも 空 気 中 の 分 子 の 衝 突 のような 偶 然 性 を 示 しているにすぎない まるで 消 費 社 会 の 事 物 のように, 彼 らは 意 味 を 剥 奪 された 存 在 な のである 2.ドミノの 可 能 性 この 映 画 の 登 場 人 物 たちは,いわば,めまぐるしく 変 化 する 大 都 市 のドミノである こ のように 現 代 社 会 を 巨 大 なドミノ 倒 しに 喩 えるならば,その 動 きは 機 械 的 運 動 の 必 然 性 に 従 っているはずだろう この 映 画 も 出 来 事 の 必 然 的 連 鎖 によって 展 開 する ところが 一 枚 のドミノにとって,この 社 会 的 必 然 性 は 必 ずしも 透 明 な 見 通 しを 意 味 しない 走 り 出 すロ ーラにとって, 一 瞬 先 の 出 来 事 は 不 可 知 である このように 巨 大 システムが 制 御 不 可 能 な 混 沌 へと 転 化 することは,すぐれて 現 代 的 な 体 験 といえるだろう 必 然 性 に 決 定 されつつ も, 先 が 見 えないという 混 沌 これは 人 間 を 無 気 力 なあきらめへと 追 い 込 みかねない 思 想 である それでは 現 代 社 会 の 人 間 は, 定 められた 方 向 へ 倒 れるだけの 板 切 れにすぎないのだろう か この 疑 問 に 対 して,ティクヴァは 次 のように 答 えている この 世 界 はドミノの 集 まりだ そしてある 意 味 では, 私 たちはドミノの 一 枚 にすぎない
しかし 映 画 の 最 後 に,もっとも 重 要 なメッセージが 与 えられる それは,すべてがあら かじめ 決 定 されているわけではない,ということだ ( 撮 影 に 先 立 ってトムからローラ 撮 影 隊 へ )(117) ここでティクヴァは,まず 現 代 世 界 のドミノ 的 性 格 を 認 めている しかし, 彼 は 続 けて すべてがあらかじめ 決 定 されているわけではない (Nicht alles ist determiniert.)と 述 べている これは 哲 学 の 用 語 を 使 うならば 宿 命 論 (Determinismus)の 否 定 である そ れでは 彼 は,この 映 画 で 宿 命 論 ならぬ 何 を 描 こうとしたのだろうか それは 物 事 の 流 れ を 変 えるわずかなチャンス (117)だった それではドミノ 社 会 のどこに, 流 れを 変 えるチ ャンスがあるのだろうか それを 示 すために,この 映 画 は 私 たちに 時 間 を 微 分 してみせる のである たいていの 映 画 では,ある 時 代 や 人 生 が 一 定 の 上 映 時 間 で 要 約 される ところが 走 れ, ローラ! では, 反 対 に 20 分 の 出 来 事 が 81 分 に 引 き 延 ばされている 物 語 の 構 成 に 従 う ならば, 一 つの 瞬 間 にも 三 つの 可 能 性 が 秘 められているというわけだ これによって 観 客 は 単 純 な 連 鎖 反 応 に 見 えたドミノの 一 瞬 にも, 複 数 の 可 能 性 があったことを 教 えられるの である 以 上 の 消 息 を 映 画 の 狂 言 回 しを 務 める 銀 行 の 警 備 員 は, 次 のように 述 べている ボールはまるく,ゲームは 90 分 それだけが 明 らかで,あとはすべて 予 測 にすぎない さあ,ゲームの 始 まりだ (7f.) こういって 彼 はサッカーボールを 蹴 り 上 げ,ここから 映 画 がスタートする このサッカ ーの 比 喩 は 示 唆 に 富 む たしかに 選 手 の 技 術 や 体 力 を 計 算 すれば,ある 程 度 は 試 合 の 行 く 末 は 予 測 できるだろう しかしゲームには,つねに 不 確 定 要 素 がある それは 必 然 の 連 鎖 に 生 じた 偶 然 という 名 のわずかな 裂 け 目 だ この 裂 け 目 は,そのまま 放 置 されれば 必 然 の 流 れによってすぐにも 修 復 されてしまうだろう このとき 小 さな 隙 間 を 見 つけ 出 し,そこ に 飛 び 込 むのは 意 志 の 力 である 巨 大 なドミノ 倒 しのような 現 代 社 会 において, 自 己 の 無 力 を 受 け 入 れてしまうならば,そのとき 私 たちは 本 当 にドミノの 一 枚 となってしまう し かし, 奔 流 のような 現 代 社 会 にも 流 れを 変 えるチャンスがある それを 可 能 にする 意 志 の 力 を,この 映 画 は 描 き 出 そうとしているのではないだろうか
3. 物 語 の 構 造 走 れ,ローラ! は 一 見 すると 現 代 的 なエンターテイメントである しかしここには, 特 殊 な 物 語 の 構 造 が 認 められる それは 意 志 の 力 という 神 話 的 主 題 を 表 現 するための 不 可 欠 の 仕 組 みだった この 物 語 の 構 造 は 観 客 が 耳 にする 最 初 の 言 葉 において,すでに 予 感 さ れるはずだ この 映 画 は 次 のような 朗 読 から 始 まるのである 人 間,それは 地 球 上 でもっとも 不 思 議 な 生 き 物 だ 答 えのない 問 いの 神 秘 私 たちはだ れ?どこから 来 て,どこへと 行 くのか?(6) この 人 間 存 在 そのものへの 問 いは, 次 のように 結 ばれる 無 数 の 問 いが 一 つの 答 えを 求 め,その 答 えがまた 新 しい 問 いを 投 げかける そして 次 の 答 えがまた 次 の 問 いを,その 繰 り 返 し しかし 結 局 は, 問 いはいつも 一 つではないのか そして 答 えも (6) ここでは,まだ 何 か 確 たる 思 想 が 示 されているわけではない しかし 観 客 は 朗 読 を 通 じ て,この 映 画 が 人 間 存 在 そのものを 問 題 としていることを 教 えられる そしてすでに 一 つ の 問 いと, 一 つの 答 えが 準 備 されていることを 予 感 するのである ところで,この 朗 読 の 声 の 主 は 童 話 のレコードで 有 名 なハンス ペッチュである シナ リオに 付 されたインタビューによれば, 子 供 時 代 のティクヴァにとってハンス ペッチュ は 物 語 の 語 り 手, 神 話 の 管 理 者, 全 知 の 人 であり, 私 にとって 彼 は 神 だった (130) という ここでペッチュの 声 が 使 われていることは, 神 話 的 な 物 語 世 界 を 紡 ごうとする 制 作 者 の 意 図 を 示 している ティクヴァにとって 走 れ,ローラ! はメルヘン (130)な のである 5 ) このインタビューの 中 の 物 語 神 話 メルヘン などの 言 葉 は, 特 定 の 文 学 形 式 を 意 味 しているわけではない これらの 言 葉 は 映 画 の 深 層 に 日 常 を 超 えた 高 次 のフィクション が 存 在 することを 示 唆 しているのだ それでは 実 際 に 映 画 では, 神 話 世 界 を 紡 ぐどのよう な 仕 掛 けがなされているのだろうか まず 銀 行 やカジノなど, 重 要 な 場 面 が 撮 影 される 建 物 には 選 択 上 の 配 慮 が 認 められる 通 常,ドイツの 街 角 で 見 かける 銀 行 は, 開 放 的 で 透 明 感 のある 建 物 が 少 なくない ところ
がティクヴァと 撮 影 チームは 見 通 しが 利 いて 何 の 秘 密 もない (136)ような 場 所 をさけて, あえて まるで 迷 い 込 みそうで, 暗 い 隅 々と 飾 りがある (135f.) 空 間 を 求 めた その 結 果 がベルリン 上 級 金 融 監 督 局 ( 銀 行 )とシェーネブルク 市 役 所 の 広 間 (カジノ)だった こ れらの 場 面 では, 役 者 たちも 色 の 濃 い 地 味 なスーツや 漆 黒 のタキシードで 正 装 している とくにローラの 運 命 が 決 する 第 3ラウンドのカジノの 場 面 では,ティクヴァは 蝋 人 形 館 (136)のイメージを 求 めたという こうした 古 めかしい 舞 台 装 置 には, 見 る 者 を 神 話 的 な 記 憶 の 深 みへと 導 く 効 果 があるのではないだろうか これと 同 様 の 意 図 はプロットの 時 間 設 定 にも 窺 える ローラとマニの 物 語 は 正 午 に 決 着 する 正 午 を 迎 えた 第 3ラウンドの 最 終 場 面 では, 二 人 はだれもいない 道 のまん 中 で, 静 かに 見 つめ 合 う すべての 緊 張 感 から 解 き 放 たれたこの 場 面 は,それまでの 息 もつかせぬ アクションドラマとは 明 らかに 異 なる ギリシア 神 話 の 牧 神 パーン 以 来, 文 学 的 寓 意 にお いて 正 午 とは, 太 陽 が 真 上 から 降 り 注 ぎ, 時 間 さえも 動 きを 止 める 瞬 間 である この 正 午 の 静 けさの 中 で 終 結 するプロットは, 映 画 を 一 つの 物 語 世 界 として 永 遠 化 しようとする 仕 掛 けではないだろうか それでは,こうした 書 割 りにおいて 制 作 者 は 何 を 紡 ごうとしたのだろうか あるところ でティクヴァは 走 れ,ローラ! はアクション 映 画 か と 問 われて, 即 座 に 哲 学 的 理 念 を 持 つアクション 映 画 だ (ein Action-Film, der eine philosophische Idee trägt)(129f.) と 答 えている この 哲 学 的 理 念 を 担 うのは 二 人 の 主 人 公 である この 映 画 では, 実 はロー ラとマニが 登 場 する 場 面 のみ 35 ミリのカメラが 使 用 されており,それ 以 外 の 場 面 は,す べてビデオで 撮 影 されている 6 ) また 真 昼 の 大 都 会 を 舞 台 としながらも,ここで 示 される ベルリンには,ほとんど 人 影 がない カメラは 空 っぽな 通 りをひた 走 るローラやマニだけ を 映 し 出 す 7 ) それは 映 画 の 中 では 二 人 の 世 界 だけが 実 在 であり,それ 以 外 は 非 実 在 であ るというシグナルだろう 4.ローラの 意 志 それでは 二 人 に 託 された 理 念 を 検 討 しよう まずローラが 体 現 するのは 強 烈 な 意 志 であ る 映 画 の 全 編 を 通 じて, 観 客 の 目 には 走 り 続 ける 彼 女 の 姿 が 焼 き 付 けられる 映 画 のタ イトル Lola Rennt は,この 姿 に 示 された 意 志 の 簡 潔 な 表 現 に 他 ならない まず 物 語 の 出 発 点 には, 彼 女 の 意 志 がある マニからの 電 話 を 受 けたとき,ローラには 彼 を 救 う 手 立 ては 何 もなかった それでも 彼 女 は 恋 人 を 救 うと 宣 言 する それはただ 私
がそう 欲 するから (Weil ich es will!)(23)だ この 意 志 がローラをベルリンの 街 へと 送 り 出 し, 映 画 を 展 開 させていくのである また,いくつかの 場 面 では, 彼 女 の 叫 びはコップなどの 物 理 的 存 在 にも 作 用 する それ は 意 志 の 叫 びが 現 実 世 界 に 影 響 を 与 えた 瞬 間 の 活 写 である 例 えばマニが 電 話 越 しに 絶 望 的 な 声 でわめいたとき, 彼 女 はそれを 断 ち 切 るように だまって! (22)と 叫 び 返 した そのとき 声 の 鋭 さにビール 瓶 が 炸 裂 する 彼 らが 置 かれた 状 況 を 冷 静 に 考 えるならば,マ ニの 絶 望 は 正 当 である しかし,この 絶 望 的 な 状 況 に 抗 うローラの 意 志 が, 現 実 に 小 さな 亀 裂 を 走 らせるのだ 同 様 に 銀 行 やカジノの 場 面 でも,ローラの 叫 びは 物 理 的 存 在 に 作 用 する これらのシーンは 不 思 議 と 不 自 然 さを 感 じさせない それは 彼 女 の 意 志 に 日 常 的 現 実 をこえた 真 理 性 が 認 められるからだろう ローラの 意 志 はマニへの 愛 に 由 来 している ただし,それは 恋 人 だけに 向 けられた 閉 ざ された 情 念 ではない 彼 女 の 愛 は,むしろ 普 遍 的 な 生 命 の 力 を 予 感 させる 映 画 も 終 りに 近 く,カジノで 得 た 大 金 を 手 にマニのもとへと 急 ぐ 途 中 で,ローラは 停 車 中 の 救 急 車 に 飛 び 込 む そこには 心 臓 発 作 の 患 者 が 横 たわっていた おどろく 救 命 士 を 気 にもとめずに, 彼 女 は 男 の 手 をとり 祈 るように 静 かに 見 つめる すると 脈 拍 は 平 静 を 取 り 戻 し, 患 者 は 一 命 を 取 りとめる 物 語 の 平 和 な 結 末 が 近 いことを 予 感 させる 場 面 である ときとしてロー ラの 意 志 は 破 壊 をもたらす しかし,それは 新 たな 創 造 のための 準 備 なのである 走 り 続 けるローラは 一 人 で 何 かをつぶやいている どうすればいいの きっと 来 る た すけて お 願 い いちどだけ (104) この 行 方 の 知 れないつぶやきは,シナリオでは 祈 り (Gebet) (104)と 呼 ばれている 彼 女 の 意 志 は 神 へと 通 じているのだ こうした 一 切 を 象 徴 するのが,あの 真 っ 赤 な 髪 の 毛 である これについてティクヴァは 映 画 の 根 本 理 念 (Ursprungsidee)を 問 われたときに, 次 のように 説 明 している ずっとまえから, 一 つのイメージがありました 燃 えるような 真 っ 赤 な 髪 をした 女 性 が, 絶 望 しつつも 決 然 として 走 り 続 けるというイメージが (129) 燃 えるような 赤 (feuerrot) それはローラの 意 志 の 色 だ 絵 画 史 に 示 唆 を 求 めるならば, ルネサンス 時 代 の 絵 画 では 燃 える 炎 は 天 上 的 愛 の 激 しさ を 意 味 しており, 真 紅 は 慈 愛 の 象 徴 だった(ティチアーノ 聖 なる 愛 と 俗 なる 愛 など) 8 ) 現 代 のCGによっ て 真 紅 に 輝 くローラの 髪 は, 神 へと 通 じる 愛 と 創 造 の 表 現 なのである 9 )
5.マニ= 混 沌 次 はマニだ マニが 象 徴 するもの,それは 混 沌 である シナリオに 付 された 登 場 人 物 の 性 格 付 けによれば, マニはまともな 仕 事 などやる 気 になれない,そんなものは 彼 を 破 滅 さ せるだろう 最 近 の 17 の 仕 事 は,どれも 3 日 以 内 にやめてしまった (121)という およ そ 秩 序 や 規 則 の 対 極 をなすのがマニの 存 在 といえるだろう すでに 映 画 の 中 では, 彼 は 犯 罪 に 足 を 踏 み 入 れかけている それを 示 すのが 10 万 マル クを 入 れたビニール 袋 である このビニール 袋 にはロシア 語 のロゴが 入 っていた マニか ら 地 下 鉄 の 浮 浪 者 の 手 にわたり,ベルリンの 街 を 漂 流 するビニール 袋 は,90 年 代 ロシアの 経 済 的 混 乱 を 連 想 させる ちなみに 10 万 という 数 字 は 映 画 の 別 の 場 面 でも 使 われている それは 最 初 の 電 話 ボックスのシーンで, 取 り 乱 したマニが 自 分 は 殺 されて 10 万 粒 の 灰 に なってシュプレー 川 から 北 海 まで 流 されるんだ (22)と 叫 ぶところだ 10 万 粒 と 10 万 マ ルク それは,どちらも 暗 闇 へと 拡 散 していく 無 定 形 な 世 界 を 暗 示 している ところで,この 映 画 では 何 度 もビニール 袋 が 登 場 する まずローラとマニがスーパーを 襲 う 場 面 次 にローラの 銀 行 強 盗 そしてカジノでの 一 獲 千 金 いずれの 場 面 でも, 彼 ら は 貴 重 な 大 金 をレジで 手 渡 されるような 安 手 の 袋 に 入 れる それらの 袋 は 中 身 の 重 大 さに も 関 わらず,どこか 軽 やかで 軽 薄 な 印 象 を 与 える 消 費 社 会 の 中 でビニール 袋 はバブルの ように 沸 き 立 ち, 流 通 し, 消 え 去 っていく それらは 規 格 に 従 って 生 産 されながらも,そ の 膨 大 な 量 ゆえに 制 御 できない 混 沌 をもたらす これが 冒 頭 のドミノと 同 質 の 比 喩 である ことは 明 らかだろう ビニール 袋 は 現 代 社 会 に 特 徴 的 な 混 沌 のあり 方 を 示 しているのだ ティクヴァによれば, マニのいるところにはカオスが 生 まれる (123) いわば 彼 は 混 沌 の 人 間 的 形 象 である しかし 混 沌 は 意 志 の 対 概 念 をなしている ローラとマニは 二 人 で 一 つなのだ ただし 二 人 の 関 係 は 対 等 ではない いつでもマニはローラを 頼 りとして, 明 らかな 自 分 の 失 敗 さえも 恋 人 に 責 任 を 押 し 付 けてしまう 事 件 の 発 端 となった 宝 石 代 金 の 紛 失 も,マニにいわせれば 約 束 の 時 間 にローラが 迎 えに 来 なかったからだ(15) そう 責 め た 一 息 のうちに,またも 彼 は 彼 女 の 救 いを 求 めてしまう ローラの 意 志 とマニの 混 沌 この 二 人 の 関 係 を 要 約 して,ティクヴァは ローラはマニ の 無 秩 序 を 愛 していて,もっといいことには, 彼 女 は 最 悪 の 事 態 にも 秩 序 をもたらす (123) と 述 べている ローラの 意 志 はマニの 混 沌 を 得 て, 初 めて 引 き 立 つのだ この 二 人 の 対 立 的 な 性 格 とその 弁 証 法 的 な 関 係 が,この 映 画 の 基 本 骨 格 をなしているといえるだろう
6. 赤 いスパイラル それでは 意 志 と 混 沌 が 交 わるとき,そこには 何 が 起 こるのだろうか それは 赤 いスパイ ラルである 赤 は 意 志 の 色 そしてスパイラルは 錐 揉 みしながら 落 ちていく 混 沌 の 形 象 で ある マニはローラを 電 話 ボックスで 待 っている この 電 話 ボックスは, 酒 場 スパイラ ル (Spirale)(23)の 前 にあった これは 奈 落 へと 引 き 込 まれていくマニの 現 実 を 示 すのに ふさわしい 書 割 りだろう ローラもまた 混 沌 の 世 界 にいる マニの 電 話 を 受 けたローラは,アニメーションの 画 像 となって 真 っ 暗 な 螺 旋 階 段 を 駆 け 下 りていく 階 段 は 果 てしなく 続 き,しかも 途 中 に は 彼 女 を 妨 げる 意 地 悪 な 少 年 と 凶 暴 な 犬 が 待 ちかまえている しかしローラの 意 志 は 混 沌 に 形 を 与 える それを 示 すのが 彼 女 の 部 屋 の 赤 電 話 だ マニ からの 電 話 が 切 れたとき,ローラは 苛 立 ちを 抑 えきれずに 肩 越 しに 受 話 器 を 放 り 投 げた カメラは 空 中 で 回 転 する 受 話 器 をスローモーションで 追 いかける すると 赤 い 物 体 はゆっ くりと 落 下 しながら, 最 後 には 大 きな 音 を 立 てて,みごとに 電 話 機 の 本 体 へと 収 まるのだ それからローラは 部 屋 を 飛 び 出 し,アニメの 画 像 となって 螺 旋 階 段 を 駆 け 下 りていく 赤 い 髪 をなびかせるその 姿 は,まさに 落 下 する 赤 い 受 話 器 を 連 想 させる その 後 もローラの 赤 電 話 は 物 語 の 要 所 で 登 場 する それは3つのエピソードの 継 ぎ 目 に あたる, 第 1ラウンドと 第 2ラウンドのラストである 第 1ラウンドはローラが 警 官 に 射 殺 され, 第 2ラウンドはマニが 救 急 車 にはねられて 決 着 する このどちらの 場 面 でも, 大 金 の 入 ったビニール 袋 は 彼 らの 手 をはなれ,ゆっくりと 地 へ 落 ちていく まさにローラの 意 志 が 砕 かれようとする 瞬 間 である ところが 袋 は 空 中 で 赤 い 受 話 器 へと 変 化 し,それは またもみごとに 電 話 機 へと 収 まるのだ それからローラは 部 屋 を 飛 び 出 し, 次 のエピソー ドが 出 発 する こうして 主 人 公 の 死 によって 切 断 された3つのエピソードが, 彼 女 の 意 志 によって 一 つに 貫 かれる それは 非 現 実 的 なプロットでありながら, 同 時 に 見 る 者 に 不 思 議 な 説 得 力 を 持 つ 展 開 である おそらく 観 客 は,これを 日 常 的 現 実 を 超 えた 神 話 世 界 の 出 来 事 として 受 け 入 れるのだろう このように 赤 いスパイラルというモティーフには,この 映 画 の 謎 を 解 く 鍵 がある 錐 揉 みしながら 落 ちていく 赤 い 受 話 器 それは 絶 望 の 中 で 走 り 続 けるローラである 彼 女 はマ ニに 代 表 される 混 沌 の 世 界 の 中 で 希 望 を 失 いかけている しかし, 赤 い 受 話 器 のみごとな 着 地 は, 最 後 に 訪 れる 意 志 の 勝 利 を 示 しているのだ 10 )
ローラの 意 志 は 創 世 記 の 神 のように 無 から 世 界 を 創 造 することはできない しかし, 彼 女 はわずかな 可 能 性 を 捉 えて 自 分 が 気 に 入 るような 世 界 を 作 り 出 す (シナリオよりロ ーラのモットー)(118) そこには 神 を 思 わせる 意 志 の 輝 きがあった その 意 味 では,この 映 画 は 現 代 社 会 の 一 瞬 に 秘 められた 創 造 神 話 だったとはいえないだろうか それは 東 京 や 北 京 ならぬベルリンにおいて 初 めて 可 能 となる 物 語 だった 走 れ,ローラ! の 成 功 は, 世 界 共 通 の 大 都 市 の 風 景 をドイツという 地 域 独 自 の 発 想 から 描 いた 点 にあったのである 本 論 は 日 本 独 文 学 会 春 季 研 究 発 表 会 ( 獨 協 大 学,2002 年 6 月 1 日 )でポスター 発 表 した 内 容 にもとづき, 日 本 独 文 学 会 中 国 四 国 支 部 研 究 発 表 会 ( 松 江 市 くにびきメッセ,2002 年 11 月 23 日 )で 口 頭 発 表 した 原 稿 に 加 筆 訂 正 したものである 1) 使 用 したソフトは 次 の 通 り トム ティクヴァ:ラン ローラ ラン(VHS)(ポニー キャニオン)2000 シナリオも 公 刊 されている 文 中 の 引 用 はこれによった 以 下, 引 用 後 の 括 弧 内 に 頁 数 を 示 す Tykwer, Tom: Lola rennt. Hrsg.von Michael Töteberg. Hamburg(Rowohlt) 1998. 邦 訳 は 次 の 通 り トム ティクヴァ( 美 野 秀 訳 ):ラン ロー ラ ラン(B.R.サーカス)1999 ところで,この 映 画 はアメリカ 版 のタイトルをカタカナ 表 記 した ラン ローラ ラン として 日 本 公 開 された 走 り 続 けるローラの 姿 に 映 画 の テーマを 見 出 した Run Lola Run というアメリカ 版 のタイトルはみごとである しかし, それをそのままカタカナ 表 記 するのは 拙 い そのため 本 論 では 走 れ,ローラ! という 表 記 で 通 すことにする 2) Movie Review Query Engine(http://www.mrqe.com/)という 映 画 批 評 を 集 めたカナ ダのサイトでは,2003 年 3 月 現 在 で 走 れ,ローラ! の 批 評 が 168 本 紹 介 されている これを 同 時 期 にドイツで 多 数 の 観 客 を 動 員 した Bandits(8 本 )や Knockin on Heaven s Door (18 本 )と 比 べれば,その 英 語 圏 における 反 響 の 広 がりが 理 解 されるだろう ところ で,Web 上 の 批 評 は DVD の 紹 介 記 事 や 執 筆 者 を 特 定 できない 短 評 などが 多 数 を 占 めてお り,サイトの 消 失 もめずらしくない そのため 参 考 文 献 としての 紹 介 は 見 合 わせた 3) ヘルツォーク,ファスビンダー,ヴェンダースなど,20 世 紀 後 半 のドイツ 映 画 の 代 表 者 の 名 前 を 並 べれば,そこには 個 性 の 違 いをこえた 社 会 批 判 の 姿 勢 がおのずと 浮 かび 上 が るだろう この 時 期 のドイツ 映 画 の 俯 瞰 図 としては 次 の 本 が 役 立 った ハンス=ギュンタ ー プフラウム,ハンス=ヘルムート プリンツラー( 岩 淵 達 治 訳 ):ニュー ジャーマン シネマ( 未 来 社 )1990 これに 対 して 90 年 代 後 半 の 新 しいドイツ 映 画 では, 剥 き 出 しの
批 判 性 は 影 を 潜 め, 娯 楽 性 が 画 面 を 覆 っているといわれる しかし,これらの 映 画 でも 出 生 地 ドイツの 記 憶 は 消 し 去 られてはいないはずだ これが 本 論 の 出 発 点 をなす 問 いである 4) 登 場 人 物 の 過 去 が 語 られる 唯 一 の 例 は,ローラの 出 生 の 秘 密 である 銀 行 のオフィス で 無 心 した 彼 女 は,それを 拒 否 する 父 親 に,おまえは 別 の 男 による カッコーの 卵 (47) だと 告 げられる ローラの 過 去 は 逆 説 的 にも, 家 庭 という 根 を 持 たない 彼 女 の 非 歴 史 性 を 示 すことになる 他 の 登 場 人 物 と 同 様 に,ローラもまた 過 去 を 持 たない 存 在 である 5) 銀 行 の 警 備 員 はローラを お 姫 様 (40)と 呼 ぶ プロットの 表 層 では,これは 彼 女 が 銀 行 の 支 店 長 の 娘 であることを 意 味 している しかし,より 深 層 的 には,ローラがメルヘ ン 世 界 の 主 人 公 であることを 暗 示 しているのではないだろうか 6) 第 1 2ラウンドでは,ローラが 走 り 去 った 道 路 で 自 動 車 の 衝 突 事 故 が 発 生 する こ のとき 画 面 はローラが 姿 を 消 すやビデオ 映 像 へと 切 り 替 わり, 事 故 の 現 場 を 映 し 出 す ま た 不 倫 相 手 と 睦 み 合 う 父 親 のオフィスにローラが 飛 び 込 むシーンでも 同 様 である これら の 場 面 について,ティクヴァは 二 種 類 の 映 像 を 観 客 に 気 づかれないように,ただ 無 意 識 の 底 で 感 覚 されるようにつなぎ 合 わせたと 述 べている (134) 7) インタビューの 中 でティクヴァは 次 のように 述 べている 道 路 はローラのために 空 っ ぽにされました 彼 女 は 残 余 の 世 界 に 逆 らい 孤 独 に 走 るのです (135) 8) ティチアーノの 作 品 解 釈 は 次 の 二 著 に 教 えられた エドガー ウイント( 田 中 英 道, 藤 田 博, 加 藤 雅 之 訳 ):ルネサンスの 異 教 秘 儀 ( 晶 文 社 )1986, 第 9 章 性 愛 と 俗 愛 122-129 頁 若 桑 みどり: 絵 画 を 読 む( 日 本 放 送 協 会 )1993, 第 2 章 聖 なる 愛 と 俗 なる 愛 40-53 頁 9) 次 のティクヴァの 発 言 は, 赤 がローラの 意 志 の 色 であることを 示 唆 して 余 りあるだろ う 赤 はこの 映 画 の 色 彩 演 出 上 (Farbdramaturgie)の 中 心 点 である (134) 10) 映 画 はカジノの 場 面 で 最 高 潮 に 達 する そこでローラは 迷 いなくルーレットへと 歩 む 赤 電 話 と 同 様 にルーレットもまた 回 転 する 表 象 であり, 偶 然 と 必 然 の 綾 という 作 品 の 主 題 にふさわしい 小 道 具 だろう ところで,ここでローラは 黒 の 20 に 賭 ける シナリオに よると 彼 女 は 1977 年 生 まれであり, 映 画 の 撮 影 が 始 まった 97 年 には 20 才 となる つま り 20 は 彼 女 自 身 を 意 味 しており, 黒 は 彼 女 が 制 すべき 混 沌 の 象 徴 だと 考 えられる
Tykwer: Lola rennt(1998) Über Wille und Chaos, eine traditionelle Denkweise in einem zeitgemäßen Film Shin KIMOTO Der Film Lola rennt erregte internationales Aufsehen. Im Hintergrund des Filmwerks kann man jedoch folgende historisch kultivierte Denkweise entdecken. Nach den Worten des Filmemachers sei Lola rennt nämlich ein Action-Film, der eine philosophische Idee trägt. Es sind Lola und ihr Freund Manni, die die Philosophie auf der Bildwand verkörpern. Was für Ideen tragen also Lola und Manni? Lola stellt in ihrer rennenden Gestalt den göttllichen Willen dar, was schon im Filmtitel kurz und knapp ausgedrückt ist. Gegenüber dem Willen Lolas verkörpert Manni das Chaos. Was wird dann auf der Bildwand passieren, wenn Wille und Chaos zusammentreffen: Die rote Spirale. Während Lola rennt, wartet Manni in einer Telefonzelle bei einem Lokal namens Spirale auf sie. Der Name des Lokals hängt mit dem Charakter Mannis zusammen, der ziellos in einen kriminellen Sprudel gezogen wird. Lola steht genau so im Durcheinander wie Manni: Wenn sie nach dem Gespräch mit ihm aus dem Zimmer springt, eilt sie verwandelt als Zeichentrickfigur das Treppenhaus spiralenförmig hinunter. Sie beherrscht jedoch das Durcheinander: Was das dialektische Vehältnis von Willen und Chaos deutlich nahelegt, ist das rote Telefon in Lolas Zimmer. Bevor sie das Zimmer verläßt, wirft sie den roten Hörer nachlässig auf. Der wirbelt in Spiralen durch die Luft, knallt aber präzise auf die Gabel. Lola und Manni stehen klar im Kontrast, hängen aber zugleich voneinander ab. Der Regisseuer fasst das Verhältnis der beiden Charaktere so zusammen: Wo Manni ist, stiftet er Chaos, aber Lola liebt Mannis Durcheinander, und was noch besser ist, sie bringt das Schlimmste immer wieder in Ordnung. Diese Bemerkung spricht die Struktur des Filmwerks an. Außerdem kann man vielleicht in der Dialektik von Willen und Chaos die typische Denkweise in einem bestimmten kulturellen Klima finden, was ursprünglich in der Schöpfungsgeschichte der Genesis zu erkennnen war, wo Gott die Welt aus dem Chaos schuf.