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オイコノミカ第 48 巻第 1 号,2011 年,pp. 27-45 中京デトロイト化計画 とその帰結 戦前自動車開発の諸相と軍需工業化の影響について 牧幸輝 要旨 本稿は, 中京デトロイト化計画 として知られる戦前名古屋の自動車開発について, その経緯と内容, 挫折した背景, 関係各社の経営環境などを詳細に検討し, その全体像を明らかにした上で, 同計画を 1930 年代の軍需工業化の流れの中に位置付けようとするものである. 1930 年代には多くの企業が自動車事業への進出を企てた. ところが, 国内で自動車工業を確立するために必要な技術, 資本は十分でなく, 米国型の大量生産システムをそのまま採用することは望めなかったため, 車種の選択や製造方式についての考え方も様々であった. 日本車輌製造, 大隈鉄工所, 岡本自転車自動車が主導した乗用車のアツタ号は, 分担作業 による国産化を目指した. 一方, 豊田式織機によるバスのキソコーチ号は, 下請企業を活用しながら, 機関部品は外国製を用いる 国際的部品綜合ノ方式 を採用したのだった. しかし結局, アツタ号もキソコーチ号も, 本格的な生産に移行出来ないまま製造中止となった. 名古屋財界を糾合した大資本による中京自動車工業設立計画も, 関係会社間の調整がまとまらず頓挫した. 自動車工業は, 次第に国策工業の色合いを強め, 最終的には, 政府 軍部の要求を満たして, 自動車製造事業法の許可を受けた会社のみが事実上, 事業の継続を可能としたのであった. 但し, 中京デトロイト化計画に関わった企業は, 自動車事業に失敗したことで, その後業績を低下させたわけではなかった. これらの企業は, 工作機械や鉄道車輌, 繊維機械, 自転車といった分野では国内有数のメーカーであり, それ故に軍需生産の重要な担い手となったのだった. 自動車事業を断念したというよりも, むしろ軍需を中心とした急速な重化学工業化の中で業容を拡大していったことが肝要であった. 名古屋の機械工業発展を目指した中京デトロイト化計画は, 軍需工業という形によって実現することになったのである. キーワード 名古屋産業史自動車工業軍需工業戦時経済 JEL 分類 N-Economic History N8-Micro-Business History N85-Asia including Middle East * 本稿作成に際しては, 田中彰名古屋市立大学教授, 及び本誌編集委員 匿名レフェリー各位から有益なコメントを頂きました. 記して深謝致します. 27

1. はじめに 1932 年 4 月, 名古屋の有力機械メーカーだった日本車輌製造, 大隈鉄工所, 岡本自転車自動車製作所, 豊田式織機, 愛知時計電機の5 社は, 共同製作により乗用車 アツタ号 を完成させた. その後, 豊田式織機は独自に キソコーチ号 というバスを生産した. さらに, 大岩勇夫名古屋市長が主唱者となって, 名古屋を米国デトロイトのような自動車工業の拠点とすることが目指され, 名古屋財界を糾合した大資本による 中京自動車工業株式会社 の設立が図られたと言われている. これら一連の出来事が, 所謂 中京デトロイト化計画 と呼ばれるものである. 後にトヨタ自動車工業を設立する豊田自動織機製作所が, 最初の乗用車試作を完了するのが 1935 年 5 月だから, アツタ号は3 年も先んじていたことになる. トヨタ自動車工業は, この 計画 と直接関係はないとするのが通説であるが, 豊田利三郎, 喜一郎の経営判断に影響を与えた可能性が指摘されている 1). 中京デトロイト化計画については, これまでも杉浦 (1956) や日本自動車工業会 (1969), 尾崎 (1971) などで紹介されているほか, 近年でも西川 (1997), 安保 (2005), 和田 (2009) が言及しているが 2), 計画 自体が中途で挫折したため, 日本自動車工業史においては エピソードの一つ としてしか位置付けられてこなかった 3). しかし, そもそも同 計画 については, 現存資料が少ないこともあって未解明の部分が多く残されている. そのため, 文献によって説明が異なっていたり, 断片的な記述に留まっていたりして, 計画 の全体像は明らかになっていなかった. また, これら5 社の機械メーカーとしての主力製品は異なっており, 昭和恐慌を経て戦時経済へと向かう過程で, 各社の置かれた状況も様々であったが, 先行研究では, 自動車事業が各社の経営動向とどのように関わっていたのかという関心が希薄であった. 満州事変以降, 日本経済は軍需を牽引役として急速に重化学工業化を進め, とりわけ機械工業は, 目覚しい発展を遂げた. 表 1にあるように, 職工 5 人以上の機械器具工業の工場数は,1930 年 5,540,1935 年 10,250,1940 年 24,804 と4 倍以上に増加した. さらに従業者数規模別に見ると, 従業者数 1,000 人以上の工場数は,1930 年の 24 から 1940 年には170 と急増し, 生産額構成比も 39.7% から 44.1% へと増加した. 会社数ではなく, 工場数であることに留意しなければならないが, この時期に機械器具工業において, 中堅 大企業の台頭があったことを示していよう. 戦間期 戦時期の機械工業についての先行研究としては, 財閥系大企業に関するもの以外に, 小規模な下請工業や地方工業に関するものがあるが, 独立系の中堅 大企業について 1) 尾崎 (1971)40-46 頁. 和田, 由井 (2002)297 頁. 2) 杉浦 (1956)170 頁,206 頁. 社団法人日本自動車工業会 (1969)195-203 頁. 尾崎 (1971). 和田 (2009) 194-197 頁. 安保 (2005). 西川 (1997). 自動車研究家の尾崎政久は, 当時の関係者と直接交流のあった人物で, その著書 中京自動車夜話 は, 同 計画 について記した貴重な資料であるが,40 年経ってからの回想でもあり, 著者の記憶違いと思われる箇所も見受けられる. 3) 和田 (2009)197 頁. 28

表 1 機械器具工業の推移 ( 職工 5 人以上 ) 1930 年 1935 年 1940 年 従業者数規模 工場数 従業者数 ( 人 ) 生産額 ( 万円 ) 生産額構成比 工場数 従業者数 ( 人 ) 生産額 ( 万円 ) 生産額構成比 工場数 従業者数 ( 人 ) 生産額 ( 万円 ) 生産額構成比 5-9 人 3,404 21,605 3,485 5.5% 5,178 32,586 5,047 3.7% 11,342 82,889 24,743 3.8% 10-14 人 700 9,168 1,590 2.5% 1,562 20,071 3,512 2.6% 3,930 52,683 17,127 2.7% 15-29 人 738 17,210 3,917 6.2% 1,886 42,773 8,893 6.5% 4,737 113,856 46,287 7.2% 30-49 人 311 13,979 3,378 5.4% 746 32,279 7,780 5.7% 2,096 96,472 43,815 6.8% 50-99 人 186 16,076 5,597 8.9% 458 36,043 10,646 7.8% 1,359 115,232 58,609 9.1% 100-199 人 103 17,974 5,166 8.2% 214 34,453 12,843 9.4% 651 110,889 55,530 8.6% 200-499 人 53 20,486 7,394 11.8% 113 40,795 16,720 12.3% 387 148,986 67,176 10.4% 500-999 人 21 18,338 7,409 11.8% 50 39,674 20,444 15.0% 132 114,929 46,674 7.2% 1,000 人以上 24 64,281 24,943 39.7% 43 136,673 50,049 36.8% 170 684,354 284,351 44.1% 計 5,540 199,117 62,879 100.0% 10,250 415,347 135,933 100.0% 24,804 1,520,290 644,314 100.0% 出所 ) 通商産業大臣官房調査統計部 (1961) 工業統計 50 年史資料篇 1 196,197 頁より作成. 注 1) 生産額は千円未満を四捨五入したため, 合計額が一致しない場合もある. は必ずしも十分に研究されてきたとは言い難い 4). 中京デトロイト化計画は, まさしくそうした企業によってなされたのであった. したがって, 同 計画 を自動車工業史の視点だけでなく,1930 年代以降の重化学工業化 ( 軍需工業化 ) という視点で捉え直すことによって, より広い背景と意義を見出すことが出来ると思われる. 事実, 同 計画 の成否は軍需の動向と密接に関係していたのである. 以上のような問題意識の下に, 本稿ではまず, 既存の社史や文献を参考にしながらも, 営業報告書, 工鉱業関係会社報告書といった一次史料と当時の地方新聞, 雑誌記事等を利用して客観的事実の把握に努めた. 幸い, 最近発刊された 愛知県史資料編 30 近代 7 工業 2 (2008), 新修名古屋市史資料編近代 2 (2009) においても, 新史料の発掘がなされており, 本稿でもその成果を利用している. これらをもとに, 同 計画 に纏わる一連の自動車事業について, 新たな史実とその全体像を明らかにしたい. そして, 計画 が挫折した背景には, 車種の選択と製造方式の違いが存在していたことを指摘する. 戦前日本における自動車生産システムの受容については, 和田 (2009) がトヨタ自動車工業を事例に検討しているが, それに先立つ同 計画 において事業者が直面した困難と試行過程の一端が明らかになるであろう. さらに, 挫折したもう一つの背景として,1930 年代以降の重化学工業化 ( 軍需工業化 ) の影響が大きかったことを指摘する. 4) 戦時期の中小機械工業の研究としては例えば, 沢井 (2002), 藤井 (2002) 植田 (2004) がある. 本稿でも取り上げている日本車輌, 大隈鉄工所については, 沢井 (1982)(1984)(1998) がある. 29

2. 名古屋財界における自動車事業の機運の高まり ⑴ 日本車輌製造, 大隈鉄工所, 岡本自転車自動車製作所の自動車開発 日本の自動車市場は,1923 年の関東大震災を契機に需要が急増し,1925 年には日本フォード自動車,1927 年には日本ゼネラルモータースが設立され, ノックダウン生産によって国内市場を席捲し始めていた. 自動車保有台数も 1925 年の約 2 万 9 千台から,1930 年には約 8 万 8 千台と3 倍も増加していたのだった 5).1930 年頃の名古屋においても, 既にフォード, ゼネラルモータースなどの外国自動車メーカーの販売代理店や関連部品販売店が 20 余りあったほか, 二輪車や三輪車製作を試みる小規模な事業者が幾つか存在していた 6). また,1920 年に名古屋に三菱内燃機製造が設立されると, 三菱造船神戸造船所が製作していた乗用車 三菱 A 型 の業務が移管されたが, 三菱内燃機製造は飛行機製造が主であったため, 翌年には三菱 A 型の製造は打ち切られていた 7). そうした中, 地元資本としていち早く自動車事業の先鞭をつけたのが, 後にアツタ号開発を主導する日本車輌製造, 大隈鉄工所, 岡本自転車自動車製作所の3 社であった. 日本車輌製造 ( 以下, 日本車輌と略記 ) は,1927 年に自動車に関係する二つの事業を実施している. 一つは軌道自動車の製作である. これは, 自動車エンジンを持つレールカーであり, 一般の電車や汽車に比べ廉価だったため, 各地の私鉄によって競って採用された. この軌道自動車は, 鉄道車両生産が落ち込んだ 1931 年下期には売上げの 27.1% を占め, 不況下の同社の業績を支えた 8). もう一つは, 名古屋電車製作所の子会社化である. 同社は 1912 年に設立された鉄道車両メーカーだったが, 経営不振のため日本車輌に出資を要請したのだった. 日本車輌にとってその子会社化は, 鉄道車両生産のシェアを高めること以外に特別な目的があった. それが自動車事業への進出であった 9). 名古屋電車製作所は,1929 年に名古屋自動車製作所と改称し, バス車体を生産した. 翌年からは, 名古屋自動車製作所への注文が増加したために, 日本車輌本体でも生産を開始し,1931 年に神戸市電気局に8 台, 大阪市電気局に 66 台,1932 年には常総鉄道に 4 台, 金沢電気軌道に30 台などのバス車体を納入した 10). 大隈鉄工所は,1929 年に陸軍造兵廠名古屋工廠の技師だった石川重遠を技術顧問として招聘 5) 藤本 (1997)104 頁. 6) 中京のモーター業界を見る モーター 第 201 号,1930 年 7 月, 愛知県史編さん委員会 (2008) 113-124 頁, 所収. 7) 自動車工業会 (1967)385-387 頁. 8) 日本車輌製造株式会社 (1966)32-38 頁. 日本車輌製造株式会社 (1977)110-111 頁. 9) 日本車輌製造株式会社 (1977)105-106 頁. 10) 日本車輌製造株式会社 (1977)117-118 頁. 30

し, 新事業として自動車用発動機の開発を計画している 11). 名古屋工廠では, 既に軍用自動車や航空機用発動機を製作していたのである 12). 大隈鉄工所において, 実際にどの程度, 自動車用発動機の開発が進んでいたかは定かでないが, 同年 12 月に航空機及び発動機部分品加工の生産業者として海軍購買名簿に登録されていることから, 発動機の開発を進めていたことは間違いないであろう 13). 岡本自転車自動車製作所 ( 以下, 岡本自転車と略記 ) は, 建築金具製造や自転車修理業を営んでいた創業者の岡本松造が,1910 年に自転車製造会社として岡本兄弟合資会社を設立した後,1919 年に社名を変更して株式会社に改組したものである. 車名に自動車を加えたのは, 同じ自転車メーカーの宮田製作所が製作していた二人乗り自動車 旭号 に触発されたためだと言われており,1921 年から自転車に発動機を取り付けた自動自転車の生産を始めた. この年には, 後に同社の主力事業にもなる飛行機用車輪の製作も開始している. また, 本業の自転車生産は,1923 年には年産 5 万 500 台を達成し, 翌年からは 30 以上あった機種を廃止して, 単一型式車 ノーリツ号 のみの生産に集中し, さらなる大量生産体制を確立した 14). こうして同社は,1930 年頃までには名古屋でも有数の機械メーカーの一つとなった. ⑵ 名古屋商工会議所による建議要望 1930 年 5 月に名古屋商工会議所は政府に対して, 自動車工業助成ニ関シ政府当局ニ要望ノ件 という建議要望を決議している. これは, 同月に商工省国産振興委員会が答申した 自動車工業を確立する具体的方策如何 を受けたもので, 同答申がトラックとバスの製造を目標としたのに対して,1 乗用車についても製造, 購買面で助成すること,2 官公庁の自動車は全て国産とすること,3 自動車の取締規則を全国的に統一し, 課税を軽減すること,4 自動車及び部品の規格統一を図ること, を求めるものだった 15). 当時の名古屋商工会議所には, 日本車輌の後藤幸三社長や大隈鉄工所の大隈栄一社長, 岡本自転車の岡本松造社長, 愛知時計電機の青木鎌太郎社長, さらに豊田自動織機製作所の豊田利三郎社長も主要メンバーであったから, こうした建議要望が決議されたことは, この頃から名古屋財界において自動車事業に対する機運が本格的に盛り上がりつつあったことを示してい 11) 株式会社大隈鉄工所 第 22 期営業報告書 1929 年 3 月期.1929 年 2 月 23 日付 名古屋毎日新聞 では, 近く名古屋に出現の二つの新計画愛知時計の発動機製作大隈鉄工所の自動車製作 という見出しの記事を掲載している. 12) 名古屋工廠現況 ( 抄 ) 1928 年 3 月 14 日, 愛知県史編さん委員会 (2008)201-204 頁, 所収. 13) 株式会社大隈鉄工所 第 24 期営業報告書 1930 年 3 月期. 14) 株式会社岡本自転車自動車製作所 (1929) 沿革及び現況 愛知県史編さん委員会 (2008)211-216 頁, 所収. 岡戸武平 (1974)64-66 頁. 工鉱業関係会社報告書 岡本工業 マイクロフィルム版, 雄松堂. 15) 名古屋商工会議所 (1930) 名古屋商工会議所月報 第 267 号,1930 年 7 月,56-59 頁. 31

る. ⑶ アツタ号 の生産と頓挫 名古屋商工会議所の要望書が出された翌年, 地元企業による自動車共同開発の試みが明らかにされた.1931 年 2 月に地元新聞二紙は, それぞれ以下のような記事を掲載している. 純名古屋産飛行機と自動車愛知時計, 大隈鉄工所, 日本車輌の三社提携 (1931 年 2 月 4 日付 名古屋毎日新聞 ) 国産奨励で輸入品圧倒の時代どうしても思ふようなものが出来ないで外国品の跋扈に委してゐるものに自動車の発動機がある飛行機の発動機も優秀なものは輸入品に限ってゐるやうに思はれてゐるがこれはフォードなどの如く生産組織の上から経済的に供給するものがあるからでもあるが技術的に研究も行届いてゐないがそうした生産準備も完成してゐない為めでもある, 而かもこの発動機の需要は年々増加して行くが之れは日本の経済上の損失問題と云ふばかりでない産業者側から見ると立派な恥辱何とか名案はないかと愛知時計の青木社長や大隈鉄工所の大隈氏等考案の結果は生産組織が部分品を徹底的には行かないが或程度まで分業的にそれぞれ特殊事業会社でカルテル的に引受けてやつて行けば現在名古屋の持つ工業力で自動車も飛行機も国産で立派に仕上げ得る可能性充分である, 発動機の製作は大隈鉄工所が得意の精密機械工業の技術を以つてすれば外国品以上のものを造り上げる確信があるし飛行機の機体は愛知時計で立派なものを造り出してゐる自動車の車体は日本車輌で傾倒すれば或程度まで輸入防止の出来る生産能力を以つてゐる之等三社が提携しただけで国産自動車と飛行機とが物になるでないかとなって ( 中略 ) いよいよ三社鼎形で国産飛行機と自動車の生産に傾倒する事になり車輌会社 ( 日本車輌のこと 筆者 ) でも相当改善にかかつてゐるやうだがこの三社でいよいよ国産品を製造となれば自動車の方でも全国的に要所にあるだけその将来の発展は素晴らしいものがあるであろうと云われてゐる 中京工業界巨頭連自動車製作へ乗出す近く共同試作の上 (1931 年 2 月 5 日付 名古屋新聞 ) 名古屋の大隈鉄工所社長大隈栄一氏は財界不況の影響を受け業績とんと挙らず悲境の状態にあるところから, これが打開策として近年わが国における自動車事業の発展目覚しく将来ますます有望視せられゐるところから, とも角試作せんと思立ち, これを自動車工業に多少共関係ある同市日本車輌の秋山正八, 同岡本自転車製作所の岡本松造, 豊田織機の土田富五郎 ( 正しくは土屋 筆者 ), 三氏に相談せしところ, それ等各氏の関係する事業も同じく悲境状態にあり, かつ自動車工業に対しては同様将来を有望視してゐるのみか, 年々数千万円の補給自動車 32

を全然輸入品に委かしておくが如きは国家政策上, 又工業家の立場からも大に研究すべきであると直に共鳴し茲に前記四氏は企業計画の第一手段として先以て自動車の共同試作を行ひ其技術上の能否と経済的採算の可否を実験ししかして, その結果如何によつて第二段に入るべきや否やを決定するため, 自動車研究会なるものを組織し, 既にナッシュ自動車一台を五千百五十円で購入し日本車輌及び大隈鉄工所の両工場で関係会社の技術員立会の下に車体その他を分解して日々研究中であると ( 後略 ) 二紙の内容を総合すれば, 日本車輌, 大隈鉄工所, 岡本自転車, 豊田式織機, 愛知時計電機の5 社が関わり, 米国製乗用車ナッシュをモデルにして, 自動車の共同開発に乗り出したというものであった. 高級車と言われるナッシュを選んだのは, 当時最も普及していたフォード, シボレーといった大衆車との競争を回避するためだった 16). 試作車は2 台製造され,1932 年 4 月 1 日には皇族の東久邇宮殿下を招いて試運転が行なわれた 17). 車名は, 名古屋の有名な熱田神宮にちなんで アツタ号 と名付けられた. 同年 7 月には, アツタ号は陸軍の性能試験を受けるために, 名古屋から東京まで自走している.2 日間かけて正味約 11 時間の運転であったが, 全く故障もなかったという 18). そして, 試験の結果も優良とされたため, さらに10 台の製造を決定した 19). しかし, 問題はコストであった. 大隈栄一は, 私共は真剣で而かも不言実行でゆきたいから今日製作中の自動車研究に就て兎角の言葉は差控へたいと思つてゐるが只完全に技術の点から見て又材料の点から見て出来ることだけは喜んで頂きたい残るは外国品と競争し得るものが値段の上で出来るかどうかで心配は一にその点にあるだけです 20). と述べており, 最大の問題がコストであることを当初から明確に自覚していた. アツタ号開発に関わった企業は, 米国型の大量生産システムについて無知でも無関心だったわけでもない. 日本車輌常務だった秋山正八は次のように述べている 21). ( 前略 ) 先年来 自動車の確立 と云う声が我国朝野に於て熱心に叫ばれ, 政府当局も民間事業家も種々研究するところあつたが, 何分にも過去四半世紀に亘って米国が豊富な産業資本と工業智識を傾倒して築き上げた自動車工業のことであるから立遅れの我国としては採算的見込容易でなく, 躊躇逡巡今日に至つた次第であるが, 経済上からも軍事上からも停頓の儘に放 16) また, 当時フォード, シボレー, クライスラー, ビュイック, ハドソンなどの有力車は, すでに販売系列が確立されていたためという指摘もある. 西川 (1997)23 頁. 17) 名古屋毎日新聞 1932 年 4 月 1 日. 18) 名古屋商工会議所月報 第 290 号,19-21 頁. 19) 名古屋毎日新聞 1932 年 9 月 25 日. 20) 名古屋毎日新聞 1931 年 8 月 28 日. 21) 秋山は元鉄道省工作局長で,1929 年 2 月に日本車輌の常務取締役に迎えられた. 日本車輌製造株式会社 (1977)113 頁. 33

置するに忍びず, 我々有志の者協議の結果所謂分担作業を以て斯業開発の端緒を開かんとしたのである. 自動車の構成は各種産業の綜合的生産品と称すべきものであるから, 其の企業に対しては厖大な資本力を必要とする, 即ち米国フォード会社のシステムの如き其好例であるが, 我国の実状に即して考慮する時には斯うした方法よりは寧ろ既設の各種工場を利用して適材適所主義に則り, 夫々の職能に応じて部分品の製造を担任して後, これを一ケ所に集めて組立る方法を採った方が宜い, 斯くすれば資本を固定させる事も尠なく, 比較的容易に本工業の確立を図り得るであらうと云う結論を得たので日本車輌, 岡本自転車, 大隈鉄工所の三会社が中心となり取敢ず 名古屋自動車研究会 の名称の下に二台の乗用自動車を製作することになつたのである 22).( 下線は筆者 ) アツタ号の製造方式は, 複数の会社が水平的に協力し合う 分担作業 であった. シャシー ボデーは日本車輌, エンジン組立製造は大隈鉄工所, 車両部品は岡本自転車, エンジン鋳物は豊田式織機が担当した 23). また, 特殊鋼は大同電気製鋼所が引受けるなど, 部品や材料のほとんどは国内製品を利用した 24). 各部品は同一規格に基づいて製作され, 最終組立は, 日本車輌が行なった 25). 和田 (2009) によれば, フォードシステムにおける互換性生産の鍵は, 各部品の許しうる寸法の誤差 許容交差 にあるという 26). アツタ号製造にあたって, そうした概念がどれだけ意識されていたかは不明であるが, 各部品は既存の工場を援用しながらの少量生産であり, 開発投資も多額に上っていたからコストダウンは困難だった. そのため, 大隈栄一は, 製造販売会社も考へては居るが未だ具体的に進行してゐる訳ではない, 折角二台製作し鋳型だけでも一万五千円を投じてゐるから引続いて製作し販売しなくては今日迄の投資が無駄となる, 故に組立工場位をもつて販売したら是位合理化した製作はあるまい, 差当り十台の製作をしたいとは思つてゐるしその位の強気であつてほしい 27). と述べ, 新たに組立工場を作って, コストダウンを図ることも視野に入れていた. アツタ号は,1933 年 8 月までに商工省に2 台, 陸軍省に3 台の他, 宮内省, 名古屋市役所, 大連博覧会などに納入された 28). ところが, アツタ号の一台当たりの生産コストは 9,200 円, 実際の販売価格は 7,500 円であった. モデルとしたナッシュの市場価格が 7,300 円だったからそれを元にした価格であったと思われるが採算割れの状態であった 29). そうした中,1934 年頃 22) 愛知商工 第 181 号, 新修名古屋市史資料編編集委員会 (2009)777-779 頁, 所収. 23) 名古屋毎日新聞 1932 年 4 月 1 日. この他に愛知時計電機が計器類を担当したといわれているが, 同社の営業報告書や新聞記事などでは確認出来なかった. 日本車輌製造株式会社 (1977)118 頁. 24) 名古屋毎日新聞 1932 年 4 月 9 日.1933 年 7 月 5 日. 25) 中京デトロイド化 ( ママ ) 自動車之日本 第 113 号,1934 年 8 月 1 日, 愛知県史編さん委員会 (2008) 129-131 頁, 所収. 26) 和田 (2009)166 頁. 27) 名古屋毎日新聞 1932 年 4 月 9 日. 28) 名古屋新聞 1933 年 8 月 9 日夕刊. 34

になると岡本自転車が共同製作から撤退し, 残った大隈鉄工所と日本車輌も 製作勘定は従来の共同計算を最近に至りそれぞれ単独計算に なり, 徐々に協力関係が薄れていった 30). その後,1937 年頃にはアツタ号は製造中止となった 31). アツタ号の製造台数は正確には不明だが, 日本車輌の資料には 1935 年 8 月までの製造実績が 20 台と報告されており, それ以降の分を加えても合計で 30 台程度だったと考えられる 32). 結局, アツタ号は本格的な組立工場も実現せず, 試作段階を脱することは出来なかったのである. そして, アツタ号の問題点は, 次に見る名古屋市産業部が作成した 自動車工業発展振興策 が的確に指摘していた. 3. 豊田式織機による中京自動車工業設立計画とキソコーチ号 ⑴ 名古屋市産業部の 自動車工業発展振興策 中京デトロイト化計画は, 大岩勇夫名古屋市長が主唱者であるとされているが, そうした名称の具体的な施策が存在したわけではない. しかし,1932 年 11 月に名古屋市産業部は, 将来助長発展セシムルベキ工業ニ就テノ研究 として 自動車工業発展振興策 という文書を作成しており, これにより名古屋市当局の自動車振興に対する考え方を知ることが出来る 33). この 振興策 は, 名古屋市が他の大都市と比べて一般機械工業が弱いことを指摘し, 一方で航空機や鉄道車両については技術基盤があることから, 自動車についても, 今後はアツタ号等を契機に, 本市ガ日本ノ デトロイト トシテ自動車ノ都市タランコトニ切望 するというものであった. 折しも, 昭和恐慌によって繊維工業主体の名古屋地域の産業は深刻な不況に陥っていた. 振興策 は, 自動車という新興工業によって, 名古屋の機械工業の発展を促し, 現下の不況から脱出したいという希望の表れであった. そして, アツタ号については, 技術的には予想以上の優良品となったものの, 採算上は困難に直面しているとし, その理由として次の3 点を挙げている. a, 在来ノ内地自動車工場ノ製作品ノ保護自動車タリ得ル貨物車ノミナリシガ アツタ号 ハ 29) 社団法人日本自動車工業会 (1969)198 頁. 名古屋新聞 1933 年 8 月 9 日夕刊. 名古屋毎日新聞 1932 年 4 月 1 日. 30) 名古屋毎日新聞 1934 年 5 月 4 日. 31) 名古屋新聞 1937 年 1 月 20 日. 32) 日本車輌製造株式会社 (1936 年 7 月 31 日 ) 自動車製造事業申告 ( 商工省提出 ) 愛知県史編さん委員会 (2008)138 頁, 所収. 日本車輌製造株式会社 (1977)135 頁では, アツタ号は 1935 年下半期 (6-11 月 ) に17 台,1936 年 2 月に陸軍兵器本廠に7 台,1938 年 2 月に横須賀海軍航空隊等に納入した, としている. オークマ株式会社 (1998)42,43 頁では, 合計で 30 台を生産したとしている. 33) 同文書の存在を初めて明らかにしたのは, 西川稔 (1997) である. 名古屋市産業部勧業課編 (1932) 産業調査資料 第一号, 愛知県史編さん委員会 (2008)124-129 頁, 所収. 35

乗用車ニシテ軍用自動車補助法ノ適用ヲ受ケ得ザルコト b, 乗用車ハ米国ニ於テ最モ著シキ多量生産ガ行ハレ其価格比較的廉ナルコト c, 流行様式ノ変遷著シキタメ之ニ追随競争シテ需要者ニ満足ヲ与フルコトノ困難ナルコトそして, これらの対策として 比較的小額ノ資本ヲ以テスル自動車工場設立ノ一策トシテ国際的部品綜合ノ方式ニヨル自動車ノ製造 ( 下線は筆者 ) を提言している. これはまず製造車種について, 乗用車が大量生産で廉価な上, 流行も変わりやすいために追随するのが難しいのに対し, 貨物車及乗合車ハ其用途ニ応ジ多種多様ナル特異性ヲ必要トスルタメ米国ニ於テモ多ク綜合方式ニヨル比較的少量生産ガ行ハレ且様式ノ変遷モ著シカラズ としてトラック, バスの製造を推奨したのであった 34). さらに製造方式については, 小額資本ヲ以テスル確実ナル方法ハ先ヅ貨物車及乗合車ヲ主眼トシ米国自動車工業ノ基礎ヲナセル優良ニシテ廉価ナル部品製造工場ト連絡シ主要部品例ヘバ機関部 ( 中略 ) 等ハ夫々ノ工場ノ製品ヲ利用シ之ニ国産品トシテ経済的ニ供給シ得ベキ部品例ヘバ車台車体放熱器蓄電池タイヤ等ヲ加ヘテ綜合的ニ自動車ヲ完成スル組立工場ヲ設立スルニアリ とした. つまり, 初めの内は機関部品に米国製を用いて, 生産実績を重ねることで徐々に国内品に置き換えていくやり方を 国際的部品綜合ノ方式 と称したのであった. そして, この方法ならば 成功ノ可能性大 であり, 本市実業界有力者ノ考慮ヲ望ム とされた. それを事実上, 具体化したのが中京自動車工業設立計画である. ⑵ 中京自動車工業設立計画 1933 年 1 月に, アツタ号とは別の新たな自動車会社設立の計画が明らかになった 35). この計画は, 豊田式織機が中心となり, 名古屋商工会議所副会頭だった愛知時計電機の青木鎌太郎社長の協力を得て, 名古屋財界を糾合した大資本による 中京自動車工業株式会社 を設立しようというものであった. 新会社は 豊田式織機がその資本金の六割, 残りを発起人引受けで先づ百万円を全額払込で会社を組織し直ちに増資を敢行して行く行くは一千万円程度の会社となすべき計画 であった 36). この新会社で注目すべきは, 製造する車種としてバスを選択したことである. 豊田式織機の兼松熙社長は次のように発言している. 青木鎌太郎君が日本車輌, 大隈鉄工所, 岡本自転車等の自動車製造に参加しなかったのは自動車工業が部分品製品を以って組み立てゝ居ては到底独立した事業にはならないからだそうでるる ( ママ ) それで当社の計画には第一に賛成して呉れた訳である, 只名古屋の実業家がどの程度の株式を引受けて呉れるか一株もなくとも当社としては予定の通り実現してゆく迄であ 34) この点は, 商工省国産振興委員会の答申 自動車工業を確立する具体的方策如何 でも指摘されていた. 35) 名古屋毎日新聞 1933 年 1 月 28 日. 36) 名古屋毎日新聞 1933 年 11 月 6 日. 同年 11 月 26 日. 36

る, バスに着目したのは大量注文があつてハイヤーの如く流行型がないからである, 政府から補助を貰う自動車を製造したらどうか, などゝ各方面からの注意もあつたし陸軍などは六輪車製造を熱望してゐるが補助を受けるやうな会社計画では見込みがないからそれは今考えては居ない 37). 部分品製品を以って というのは, アツタ号における水平的な 分担作業 のことを指しているのであろう. 豊田式織機は, アツタ号の製造が企業として一本化出来ない状況と, 販売不振を見て, それと異なる形での自動車製造を計画したのである. ところで, 従来の文献では, アツタ号は単に日本車輌, 大隈鉄工所, 岡本自転車, 豊田式織機, 愛知時計電機の5 社による共同製作と説明されることが多かったが, 兼松社長や先述の秋山正八の言葉にあるように, 正確には大隈鉄工所, 日本車輌, 岡本自転車の3 社が主導したプロジェクトであった. 豊田式織機と愛知時計電機は, 一歩引いた立場にあったのである. なかでも愛知時計電機は, 自らが自動車事業への進出を試みたというより, 青木鎌太郎社長が名古屋財界のリーダー的存在であったことから, 調整役として動いていたというのが真相に近いと思われる. こうした5 社の微妙な関係が, 新会社の設立にも影響することになる. すなわち, この新会社には, 日本車輌と大隈鉄工所も参画を求められたが両社とも辞退している 38). また, 青木鎌太郎とともに名古屋商工会議所副会頭を務めていた豊田利三郎 ( 豊田自動織機製作所社長 ) も参画を断っている 39). さらに, 新会社の社長の人選もまとまらず, 前名古屋商工会議所会頭の伊藤次郎左衛門 ( 前松坂屋社長 ) を担ぎ出そうとしたが, これも本人に固辞されたと伝えられている 40). こうして, 地元有力企業からの協力を得ることが出来ず, 新会社計画は立ち消えとなってしまったのだった 41). 1933 年は, 国内の自動車事業をめぐる状況が大きく変わりつつあった年であった. 同年 2 月に戸畑鋳物が自動車部を設置し,12 月には同社と日本産業の共同出資によって自動車製造 ( 翌年, 日産自動車と改称 ) が資本金 1,000 万円で設立された.3 月には, 自動車工業 ( 後のヂーゼル自動車工業, 現在のいすゞ自動車 ) が資本金 320 万円で設立され,12 月には同社と東京瓦斯電気工業によって協同国産自動車が設立された. 豊田自動織機製作所は,9 月に自動車部を設置し, 翌年 1 月には株主総会で自動車事業進出を決定している 42). 中京自動車工業の設立計画も, こうした動きの中に位置付けることが出来る. 同社が目指した資本金 1,000 万円は, 自動車製造やトヨタ自動車工業 ( 設立時の資本金 1,200 万円 ) と同規模だったから, 実現すればこれらに匹敵する規模の大会社になった可能性がある. しかし結果 37) 名古屋毎日新聞 1933 年 11 月 16 日. 38) 名古屋毎日新聞 1933 年 9 月 10 日. 39) トヨタ自動車工業株式会社 (1967)48 頁. 40) 社団法人日本自動車工業会 (1969)203 頁. 41) 名古屋毎日新聞 1934 年 5 月 4 日. 42) この時期の国内自動車工業の動向については, 社団法人日本自動車工業会 (1969) を参照. 37

としては, 豊田自動織機製作所, 日産自動車 ( 自動車製造 ), ヂーゼル自動車工業 ( 自動車工業 ) が, 自動車製造事業法の許可会社となって保護の対象となったのに対し, 中京自動車工業設立計画は頓挫した. その要因をもう一つ挙げるとすれば, 先述した兼松社長の 補助を受けるやうな会社計画では見込みがないからそれは今考えては居ない という言葉に表されていよう. その頃, 豊田自動織機製作所では, 豊田喜一郎が個人的な人脈を利用して, 商工省や陸軍の国産大衆車育成方針に関する情報をいち早く入手していたし, 日産自動車も同様に法案作成段階から政府関係者と接触していた 43). 兼松熙は, かつて電力事業などで成功した企業家であったが, 自動車工業は既に国策工業の色合いを強め, 政府の意向抜きには成し得ないものとなっていたのである. ⑶ キソコーチ号と豊田式織機の軍需工業化 中京自動車工業設立計画は頓挫したものの, 豊田式織機は兼松社長が言明した通り, 単独で自動車事業を推し進めた. 既に同社は 1931 年には社内に自動車部を設置し, 初代部長に川越庸一を招いていた. 川越は, 日本自動車の技師を勤めた後, 渡米して自動車を研究し, 帰国後, 日本ゼネラルモータース傘下代理店の昭和自動車のサービス部長を務めていた人物である 44). また, この自動車部には後に, 豊田自動織機製作所でエンジン開発や挙母工場建設の中心的な役割を担う菅隆俊も在籍していた 45). 1933 年には, 将来一段ト工場ノ整備ヲ計リ以テ斯界 ( 自動車工業界 筆者 ) ニ優越ノ地歩ヲ確保センタメノ資トシテ払込ノ徴収ヲ決意 し, 調達した資金で木造平屋建 100 坪の新工場を建設して,1934 年 1 月から自動車製造に取り掛かった 46). 製造したのは, やはりバスであった. このバスは キソコーチ号 と名付けられた. バスを選んだのは, 折りしも,1929 年に名古屋市営バスが開業し, 翌年に鉄道省営バスが愛知県岡崎駅と岐阜県多治見駅間で開業して以来, 各地に省営バスが発展しつつあったことも背景にあったであろう. アツタ号が水平的な分担作業であったのに対し, キソコーチ号の製造方式は, 下請企業を活用して組み立てを自社で行なう方法であった. これについて兼松社長は, 自動車工業で有名なのはアメリカのフォードであるがあの大規模な工場と対抗していく事は至難極まる事である, だからフォードの如く何もかも自己の工場で製造しようとは思はない, 43) 豊田喜一郎は,1931 年 5 月に設置された自動車工業確立調査委員会の委員で東京帝国大学工学部助教授の隈部一雄, 鉄道省で省営自動車の育成や商工省標準型式自動車の設計を担当した小林秀雄, 商工省の坂薫を通して, 政府の動向を的確に知ることが出来た. トヨタ自動車工業株式会社 (1967)52 頁. 44) 大同メタル工業株式会社 (1989)26-28 頁. 社団法人日本自動車工業会 (1969)195 頁. 45) 菅が, 豊田喜一郎に請われて, 豊田自動織機製作所に移籍したのは 1933 年 11 月であった. 菅は戦後, 豊田工機の社長に就任している. トヨタ自動車工業株式会社 (1967)41 頁. 46) 豊田式織機株式会社 第 54 期営業報告書 1933 年 9 月期. 豊和工業株式会社 (1987)30 頁. 38

名古屋の時計といへば世界的に有名であるが, 時計がかくまで名声を博したのは家内工業的に部分品をつくりこれをよせ集めて廉価に製造した結果に外ならないのである, だから豊田式織機は最後の組立工場となり部分品を能ふ限り下受工場へ出す意向である, だから キソコーチ が真に確立するには最小三ヶ年を見ねばならぬと考へてゐる次第であるが, 下受工場が発達することは名古屋の工業が発達することにもなりそれで国産自動車工業が確立すれば豊田式は損することはこまるが儲けなくてもよろしい, 国家に何らかの貢献をなし得れば満足である と述べている 47). また, アツタ号が基本的に国産を目指していたのに対し, キソコーチ号は, エンジン, トランスミッションといった機関部品は外国製品を利用した 48). これはまさに名古屋市の 振興策 で提言されていた 国際的部品綜合ノ方式 であった. 豊田式織機は, 既に同社新川工場で自動車エンジンの試作に成功したとも伝えられているが, 技術面あるいはコスト面の理由により, 実用化には至っていなかったのであろう 49). キソコーチ号は,1935 年 6 月に披露され, 早速名古屋市営バスとして購入された 50). アツタ号同様, キソコーチ号の最終的な製造台数は, はっきり分かっていない. 豊田式織機の社史には,1935 年 5 月には 20 台を製造して名古屋市に納入したと記述されており, 他方, 名古屋市の記録では, 市営バスとして 1937 年には 12 台のキソコーチ号が登録されていたことが判明している. これ以外の販売先は不明であり, なおかつ 1936 年 4 月には自動車部は解散していることから, おそらくこの 20 台程度に留まったのではないかと思われる 51). 早い時期から自動車事業へ進出した豊田式織機だったが, 一方でそれ以外の分野への多角化も同時に進めていたことを忘れてはならない.1932 年に, 陸軍造兵廠名古屋工廠から手榴弾を受注して兵器生産に進出したのをはじめ,1934 年には, 繊維工業の試験研究及び事業多角化のための投資会社として金城興業を資本金 300 万円で設立し, 三重人絹や東海毛糸, 昭和織布などの会社に出資している. さらに 1936 年には, 金城興業は昭和重工業と改称して, 兵器や航空機部品などの軍需工業へと転換した 52). 自動車部が解散したのは, そうした最中であった. その後,1941 年には豊田式織機と昭和重工業は合併し, 豊和重工業が誕生している. 47) 名古屋新聞 1935 年 6 月 8 日. 48) 社団法人日本自動車工業会 (1969)202 頁. 49) 名古屋毎日新聞 1933 年 11 月 6 日. 50) 名古屋毎日新聞 1935 年 6 月 7 日. 51) 豊和工業株式会社 (1987)30-31 頁. 名古屋市交通局 (1952)195 頁. 52) 豊和工業株式会社 (1987)31-35 頁. 39

4. 各社の自動車事業と軍需工業化への対応 ⑴ 日本車輌製造と同和自動車工業, 名古屋自動車製作所 日本車輌では, アツタ号と併行して, 商工省が定めた標準車 BX40 型と呼ばれるバスのシャシー等を生産していた. その多くは満州の同和自動車工業向けであった 53). 同和自動車工業は,1934 年 3 月に満州国政府と南満州鉄道, それに国内の7 社 ( 日本車輌, 自動車工業, 東京瓦斯電気工業, 川崎車輌, 三菱造船, 戸畑鋳物, 日本自動車 ) の出資によって設立された会社である. 日本車輌は, この時の協定に基づいて部品を同和自動車工業向けに生産していたのだった 54). また, 東京支店蕨工場において,1935 年 5 月に 440 坪の自動車専門工場を新設し,1936 年 11 月にはさらに 240 坪を増設している. これは, 明らかに自動車製造事業法を意識した動きであった. 日本車輌は 1936 年 7 月に自動車製造事業法の許可申請をしたのである 55). 同法は 自動車又は自動車部分品 の年間生産台数 3,000 台以上の会社を対象としていた. 日本車輌にそれに相当する計画があったかどうかは不明だが, 同社は年間 200 万円程度の利益を上げており, 資金的に見れば決して不可能ではなかったと思われる. 参考に, 表 2によって豊田自動織機製作所の利益額と比べて見れば, その大きさがわかるであろう. あるいは, 自動車製造事業法は, 自動車部分品 も対象としていたから, 完成車ではなく, 部品生産による許可を想定していたとも考えられる 56). しかし, いずれにしても日本車輌が許可を受ける可能性は低かった. 商工省, 陸軍では早い段階で豊田自動織機製作所と日産自動車の2 社を事実上内定していたのである 57). もっとも, その後も蕨工場では, 主に軍需用トラックの生産を継続した. 生産台数は,1941 年には 904 台に上った. 子会社の名古屋自動車製作所でも, バス車体, トラック車体の製作を継続しており,1939 年からはトヨタ自動車工業からの注文も引き受けた 58). その後, トヨタ自動車工業は同社に出資して, 新たに神谷正太郎が役員に加わっている 59). またこの間, キソコー 53) 日本車輌製造株式会社 (1977)121 頁. 日本車輌製造株式会社 (1936 年 7 月 31 日 ) 自動車製造事業申告 ( 商工省提出 ) 愛知県史編さん委員会 (2008)138 頁, 所収. 54) 同和自動車工業については, 老川 (2002),(1997) を参照. 55) 日本車輌製造株式会社 第 74 回報告 1936 年 11 月期. 日本車輌製造株式会社 (1977)134-136 頁. 56) もっとも, 部分品の規定は, 外国会社が部品工場を設立して, 法の適用を免れることを防ぐために設けられたと言われている. 社団法人日本自動車工業会 (1969)41 頁. 57) 自動車製造事業法については, 社団法人日本自動車工業会 (1969)36-60 頁を参照. 58) 株式会社名古屋自動車製作所 第 25 回報告書 1939 年 9 月期. 日本車輌製造株式会社 (1977)135-136 頁. 59) これにより, トヨタ自動車工業の出資比率は 16.7%, 日本車輌は 52.3% となった. 株式会社名古屋自動車製作所 第 26 回報告書 1940 年 3 月期, 第 27 回報告書 1940 年 9 月期. 40

チ号の車体生産も行なった 60). しかし, 日本車輌にとって自動車事業は, 会社全体として見れば大きなものではなかった. 同社の利益額は 1932 年上期 20 万円,1934 年上期 70 万円,1936 年上期には106 万円と急増しているが ( 表 2), その要因は 1932 年 8 月の南満州鉄道からの大量受注であった.1930 年代には, 満州が鉄道車両メーカーにとって極めて重要な市場となったのである 61). 日本車輌では, これに対応して, 本店工場の拡張や朝鮮の仁川工場建設などを推し進めた. 日本車輌は, アツタ号を通じて自動車の研究を進め, 目処がついた段階で自社単独での事業展開を企図したのであろう. 中京自動車工業設立計画に参加しなかったのもそのためだと思われる. アツタ号関係会社の中で唯一, 自動車製造事業法の許可申請を行なったことからもその姿勢が伺える. 結果的には, 自動車製造事業法の許可を受けることはなかったが, 本業の鉄道車両生産は,1935 年に 2,327 両,1940 年には4,931 両と過去最高を記録し, 急激な拡大を果た 表 2 各社の利益額の推移 決算期日本車輌製造大隈鉄工所 岡本自転車自動車工業 豊田式織機 ( 単位 : 円 ) ( 参考 ) 豊田自動織機製作所 1930 年上期 484,425 26,451 54,047 650,227 59,000 1930 年下期 284,589 15,317 1,020 628,542 31,783 1932 年上期 200,695 25,686 36,342 646,188 41,288 1932 年下期 219,780 40,699 61,524 672,935 52,076 1934 年上期 705,816 143,279 78,189 958,879 573,236 1934 年下期 936,339 115,035 89,369 585,056 305,634 1936 年上期 1,061,668 397,903 125,166 728,228 528,247 1936 年下期 1,076,164 376,933 143,695 473,019 515,306 1938 年上期 1,745,046 396,264 336,713 826,685 709,092 1938 年下期 2,032,053 640,088 403,695 870,717 697,184 1940 年上期 2,707,206 877,498 817,207 1,157,395 835,606 1940 年下期 2,705,599 931,456 876,360 834,762 295,667 1942 年上期 2,424,803 878,706 1,547,616 924,019 1,381,664 1942 年下期 2,343,945 1,082,831 1,663,166 1,089,299 1,098,087 出所 ) 各社営業報告書, 社史より作成. 注 1) 利益額は税引き後利益を表示. 注 2) 大隈鉄工所, 豊田式織機の決算期は, 上期 10 月 3 月, 下期 4 月 9 月. 注 3) 日本車輌製造, 岡本自転車自動車製作所の決算期は, 上期 12 月 5 月, 下期 6 月 11 月. 注 4) 岡本自転車自動車製作所は,1935 年 12 月に岡本工業と改称. 注 5) 豊田式織機は 1941 年 9 月に昭和重工業と合併して豊和重工業と改称. 60) 名古屋毎日新聞 1935 年 6 月 17 日. 61)1930 年代の満州市場の状況については, 沢井 (1998) 第 4 章, 第 5 章を参照. 41

したのである 62). ⑵ 大隈鉄工所の自動車事業と土屋富五郎 大隈鉄工所では 1934 年に乗用車生産を企図して, 新たに名古屋市北部の 12,800 坪の敷地に萩野工場を建設した. この新工場では, アツタ号以外の完成車の生産も計画されていた 63). ところが, 萩野工場が完成して間もなく, 日本車輌と岡本自転車が協定の脱退を申し出た ために, 大隈鉄工所単独での自動車生産の続行を決めた 64). この自動車事業について地元新聞では, 大隈鉄工所の土屋副社長は, 部分品製造から組立まで全部自社で手がけなければ駄目であるといふ立前で同氏は令息までこの工場に入れ親子二代を自動車工業に奉げるのだと意気込み一工場主義を執ってゐる として, 豊田式織機のキソコーチ号とは異なり, 部品から組立まで自社での一貫生産を目指していることを伝えている 65). この時, 大隈鉄工所の自動車事業を率いていたのが副社長の土屋富五郎である. 土屋のことは, これまでほとんど語られることがなかったためここで触れておきたい. 土屋は, 豊田式織機の元社長で,1934 年 4 月に同社を退任した翌年, 大隈鉄工所に副社長として迎えられた 66). アツタ号開発当初に豊田式織機で自動車事業を担当したのも土屋であった. 彼は, 豊田佐吉と同じ静岡県湖西市出身で, 京都帝国大学機械科を卒業した後, 豊田商会時代の佐吉とともに織機開発に携わり, 佐吉が去った後にも豊田式織機に残って, 社長にまでなった人物であった 67). 土屋が一時期, 豊田紡織の上位 10 番以内に入る個人株主であったことからも, 彼と豊田家との関係が特別なものであったことを伺い知れる. 大隈鉄工所は,1933 年には革新的とされた毛織機のレピア織機を開発し, 繊維機械にも力を入れていたから, 土屋が招かれたのは, 彼の自動車と繊維機械に関する知識と経験を期待してのことだったと考えられる 68). しかし, 自動車事業は長くは続かなかった. 満州事変以降, 軍需用の工作機械の需要が急増し, 大隈鉄工所は工作機械 5 大メーカー ( 大隈鉄工所, 池貝鉄工所, 唐津鉄工所, 新潟鉄工所, 東京瓦斯電気工業 ) の一つとして, 陸海軍からの多量の注文に対処する必要があったのである. 1934 年頃から大隈鉄工所の利益額は急増している ( 表 2). 資本金も 1934 年には 100 万円から 62) 日本車輌製造株式会社 (1977)129 頁. 63) 株式会社大隈鉄工所 第 33 期営業報告書 1934 年 9 月期. 名古屋毎日新聞 1934 年 10 月 13 日. 64) オークマ株式会社 (1998)43 頁. 65) 名古屋新聞 1935 年 6 月 8 日. この記事の見出しは, 名古屋中心に大飛躍時代へ部分品主義か 一工場主義か? 三社三様の進み方 であった. 66) 豊田式織機株式会社 第 56 期営業報告書 1934 年 9 月期. 株式会社大隈鉄工所 第 35 期営業報告書 1935 年 9 月期. 67) 名古屋毎日新聞 1934 年 9 月 4 日. 68) オークマ株式会社 (1998)38-39 頁. 42

200 万円に増資し, さらに1937 年に 400 万円,1938 年に1,000 万円,1 941 年には2,000 万円にまで増加した. この間, 小倉工場, 上飯田工場が新設され, 自動車工場として計画された萩野工場も工作機械生産に利用された 69). 既述のように,1937 年頃にはアツタ号は製造中止となっており, 大隈鉄工所の営業報告書でも 自動車用発動機 の製造が確認出来るのは第 40 期 (1937 年 10 月 1938 年 3 月期 ) が最後である. 土屋はこれと時を同じくして 1938 年 4 月に副社長を退任している. ところで, 大隈鉄工所が単独で自動車事業を推し進めた背景として, 他の工作機械メーカーの動向があったと思われる. 東京瓦斯電気工業は,1918 年から自動車製造を開始し, 軍用自動車補助法の適用も受けていたし, 池貝鉄工所も 1932 年に小型ディーゼルエンジンを試作し, その後国産ディーゼル自動車を完成させ,1936 年には池貝自動車製造を設立していたのだった. 新潟鉄工所も 1937 年にはディーゼルトラック, バスを試作していた 70). 但し, これらのメーカーも, 東京瓦斯電気工業以外は途中で生産を中止している. ⑶ 岡本自転車自動車製作所から岡本工業へ アツタ号製造からいち早く撤退した岡本自転車であったが, 自動車事業から完全に撤退したわけではなかった.1934 年には側車付自動二輪車を陸軍に納入したほか,1937 年頃には, 小型自動車 岡本号 を試作している. これは陸軍が, 同社とダイハツ工業, 京豊自動車工業, 日本内燃機, 陸王内燃機に競合させて製作させた 軽四起 と呼ばれる小型四輪駆動車であった. 実は, この岡本号を設計したのは, 豊田式織機にいた川越庸一であった. 製作にあたっても, 菊地英という技術者が豊田式織機から移籍して担当していた 71). この時, 既に豊田式織機の自動車部は解散していたが, 人材は移動して再び活用されたのである. 川越はその後, 大同電気製鋼所の下出義雄社長の支援を受けて 1939 年に自動車用軸受メーカーの大同メタル工業を設立している 72). 岡本自転車の自動車事業は, 岡本号を最後に中止となった. だが,1930 年代に同社は, 軍需工業化の波に乗って急拡大する.1935 年には社名を岡本工業と改称し,1937 年には岡本航空機工業を設立,1941 年には岡本工業と岡本航空機工業が合併して, 飛行機脚部及び車輪の国内最大規模のメーカーとなった. こうして利益額も,1934 年上期には7 万円,1938 年上期には 33 万円,1940 年上期には 81 万円と急増したのだった ( 表 2). 69) オークマ株式会社 (1998)50-60 頁. 70) 自動車工業会 (1967)302-311 頁. 71) 社団法人日本自動車工業会 (1969)255-265 頁. 72) 大同メタル工業株式会社 (1989)26-28 頁. 43

5. おわりに 1930 年代には多くの企業が自動車事業への進出を企てた. ところが, 国内で自動車工業を確立するために必要な技術, 資本は十分でなく, 米国型の大量生産システムをそのまま採用することは望めなかったため, 車種の選択や製造方式についての考え方も様々であった 73). また, 自動車工業の知識と経験を有する人材も限られていた. 本稿で見たように, 一見別々に見える各社の事業も, 川越庸一や土屋富五郎, 菅隆俊といった特定の人物をキーパーソンとして見出すことが出来る. 中京デトロイト化計画に纏わる一連の自動車事業の試みは, あらゆる経営資源が不足していた戦前自動車開発の諸相を示していよう. 結局, アツタ号もキソコーチ号も, 本格的な生産に移行出来ないまま製造中止となった. 中京自動車工業設立計画は, 大資本による自動車会社誕生の可能性を有していたが, 関係会社間の調整がまとまらず頓挫した. 自動車工業は, 次第に国策工業の色合いを強め, 最終的には, 政府 軍部の要求を満たして, 自動車製造事業法の許可を受けた会社のみが事実上, 事業の継続を可能としたのであった. 中京デトロイト化計画は,1930 年代以降の重化学工業化における各社の事業多角化の表れであったと言えよう. しかし, 各社にとって自動車事業の比重はそれほど大きいものではなかったし, 事業に失敗したことで, その後業績を低下させたわけでもなかった. これらの企業は, 工作機械や鉄道車両, 繊維機械, 自転車といった分野ではもともと国内有数の機械メーカーであり, それ故に本業と相俟って軍需生産の重要な担い手となったのである. 自動車事業を断念したというよりも, むしろ軍需を中心とした急速な重化学工業化の中で業容を拡大していったことに注目すべきであろう. 名古屋の機械工業発展を目指した 中京デトロイト化計画 は, 形を変えて実現することになったのである. 参考文献 各社営業報告書各社工鉱業関係会社報告書 名古屋毎日新聞 名古屋新聞 愛知県史編さん委員会編 (2008) 愛知県史資料編 30 近代 7 工業 2 自動車工業会 (1967) 日本自動車工業史稿 ⑵ 社団法人日本自動車工業会 (1969) 日本自動車工業史稿 ⑶ オークマ株式会社 (1998) オークマ創業 100 年史 新修名古屋市史資料編編集委員会編 (2008) 新修名古屋市史資料編近代 2 大同メタル工業株式会社 (1989) 大同メタル 50 年のあゆみ トヨタ自動車工業株式会社 (1967) トヨタ自動車 30 年史 名古屋市交通局 (1952) 市営三十年史 名古屋商工会議所 (1930) 名古屋商工会議所月報 日本車輌製造株式会社 (1966) 70 年のあゆみ 日本車輌製造株式会社 (1977) 驀進 73) この点は, 太田原 (2008) も指摘している. 44

豊和工業株式会社 (1987) 豊和工業八十年史 安保邦彦 (2005) 中部地区の産業史 ( その5) 愛知東邦大学 東邦学誌 第 34 巻第 1 号植田浩史 (2004) 戦時期日本の下請工業 中小企業と 下請 = 協力工業政策 ミネルヴァ書房老川慶喜 (2002) 満州国 の自動車産業 立教経済学研究 第 55 巻第 3 号老川慶喜 (1997) 満州 の自動車市場と同和自動車工業の設立 立教経済学研究 第 51 巻第 2 号太田原準 (2008) 解説 ( 第 1 編第 2 章第 4 節自動車工業 ) 愛知県史編さん委員会編 (2008) 愛知県史資料編 30 近代 7 工業 2 881-884 頁岡戸武平 (1974) 自転車万歳ノーリツ 88 年の歩み 中部経済新聞社尾崎政久 (1971) 中京自動車夜話 自研社沢井実 (1982) 1930 年代の日本工作機械工業 土地制度史学 第 25 巻第 1 号沢井実 (1984) 戦時経済統制の展開と日本工作機械 工業 日中戦争期を中心として 東京大学社会科学研究所 社会科学研究 第 36 巻第 1 号沢井実 (1998) 日本鉄道車輌工業史 日本経済評論社沢井実 (2002) 戦時下における工場集積地の形成 大阪府布施市高井田地区の事例 大阪大学経済学 第 52 巻第 2 号杉浦英一 (1956) 中京財界史 ( 下巻 ) 中部経済新聞社西川稔 (1997) 中京デトロイト化計画 について トヨタ博物館紀要 No. 3 藤井信幸 (2002) 戦時 戦後期日本の地方機械産地 経営史学 第 37 巻第 2 号藤本隆宏 (1997) 生産システムの進化論 有斐閣和田一夫, 由井常彦 (2002) 豊田喜一郎伝 名古屋大学出版会和田一夫 (2009) ものづくりの寓話 名古屋大学出版会 (2011 年 4 月 12 日受領,2011 年 6 月 24 日掲載決定 ) 45