木 村 直 子 理 学 療 法 誌 24 巻 624-639 2007 年 マスターの 要 点 末 梢 神 経 系 の 機 能 解 剖 (5) 腕 神 経 叢 は, 多 くの 読 者 にとって 神 経 系 の 中 で 最 も 興 味 深 い 分 野 であろう. しかし, 解 剖 学 あるいはリハビリテーション 医 学 整 形 外 科 学 の 範 疇 に 留 まらず, 胎 児 循 環 や 癌 のリ ンパ 行 性 転 移,Horner 症 候 群 など 広 い 視 野 で,かつ, 成 書 にはない 斬 り 口 で 腕 神 経 叢 に ついて 論 述 した 論 文 である. この 中 から 興 味 深 いと 思 われる 内 容 をいくつか 紹 介 して みたい 1) 分 娩 麻 痺 分 娩 麻 痺 (birth palsy)は, 分 娩 時 に 児 が 不 自 然 な 肢 位 で 牽 引 されることによって 腕 神 経 叢 麻 痺 が 生 じるものである. その 重 症 例 において, 神 経 根 の 引 き 抜 き 損 傷 を 起 こすこ とがある. 胎 児 は 下 半 身 に 比 べて 上 半 身 の 発 育 が 良 いため, 妊 娠 末 期 になると 重 量 のある 児 頭 は 母 体 の 下 方 に 位 置 する. そのため, 健 康 な 母 親 が 自 然 分 娩 を 行 った 場 合, 頭 部 から 娩 出 さ れる 頭 位 分 娩 である. 頭 位 分 娩 では 大 きな 児 頭 が 先 進 するために 産 道 が 拡 がり, 残 され た 部 分 が 娩 出 されやすい. これにより, 分 娩 による 多 くのリスクが 回 避 される. 出 生 後, 児 は 均 整 のとれた 体 型 になっていくが,この 一 連 の 成 り 行 きに 神 秘 的 な 自 然 の 摂 理 を 思 わずにはいられない. そもそも, 児 の 頭 が 大 きくなる 理 由 をご 存 じだろうか? 胎 児 の 循 環 は, 出 生 後 の 循 環 とは 本 質 的 に 異 なる( 図 1). ほとんどの 血 液 は 動 脈 血 と 静 脈 血 の 混 合 血 であり, 部 位 によって 両 者 の 割 合 が 異 なるため,それが 胎 児 の 発 育 に 影 響 を 及 ぼす. 下 大 静 脈 由 来 の 血 液 は, 消 化 器 や 下 肢 からの 静 脈 血 と, 胎 盤 で 物 質 交 換 を 行 い 酸 素 と 栄 養 をたっぷり 含 んだ 動 脈 血 が 混 合 したものである. これが 右 心 房 へ 還 り, 心 房 中 隔 に 開 いている 卵 円 孔 を 通 って 左 心 房 に 入 り, 左 心 室 から 大 動 脈 へと 押 し 出 される. 一 方, 上 大 静 脈 由 来 の 血 液 は, 頭 頚 部 や 上 肢 からの 静 脈 血 である. これが 右 心 房 へ 還 り, 右 心 室 から 肺 動 脈 へと 押 し 出 されるが, 胎 児 は 肺 呼 吸 を 行 っていないため,その 大 部 分 は 肺 には 入 らず, 肺 動 脈 と 大 動 脈 弓 をつなぐ 動 脈 管 (Botallo 管 )を 通 って 大 動 脈 に 合 流 す る. ここで 下 大 静 脈 由 来 の 血 液 と 上 大 静 脈 由 来 の 血 液 が 出 会 って 混 ざり 合 うわけだが, この 両 者 の 出 会 いが 神 秘 の 鍵 を 握 るのである. 動 脈 管 の 合 流 地 点 は 左 鎖 骨 下 動 脈 の 分 岐 部 対 面,もしくはそれより 遠 位 であり,すでに 腕 頭 動 脈, 左 総 頚 動 脈, 左 鎖 骨 下 動 脈 は 分 岐 しており,これらの 動 脈 が 栄 養 する 脳, 頭 頚 部, 上 肢 などへは, 下 大 静 脈 由 来 の 動 脈 血 の 割 合 が 高 い( 酸 素 や 栄 養 素 の 多 い) 血 液 のみが 流 れることになる. 胎 児 の 頭 が 大 きい 理 由 はここにある. 一 方, 合 流 地 点 以 降 は 上 大 静 脈 由 来 の 静 脈 血 の 割 合 が 高 い( 酸 素 や 栄 養 素 の 少 ない) 血 液 が 混 ざるため, 体 幹 や 下 肢 は 発 育 が 悪 くなる. 出 生 後 は 児 が 自 ら 酸 素 や 栄 養 を 摂 るようになり, 特 殊 な 胎 児 の 循 環 は 出 生 後 の 循 環 に 置 き 換 わっていく. これにより 児 は 均 整 のとれた 体 型 になっていくのだが,このことは 歩 行 する 上 でバランス が 取 りやすく,これまた 都 合 が 良 いのである. 上 述 のように, 児 頭 が 先 進 する 頭 位 分 娩 では 残 された 部 分 が 娩 出 されやすいため, 正 常 では 分 娩 麻 痺 を 来 たすことは 少 ない. 頭 位 分 娩 における 分 娩 麻 痺 は, 糖 尿 病 に 罹 患 した 母 体 から 産 まれる 児 に 生 じることが 多 い. 児 は, 血 糖 値 が 高 い 母 体 血 によって 栄 養 供 給 を 受 けるため, 巨 大 児 になりやすい. 巨 大 児 は 頭 囲 よりも 肩 周 径 が 大 きく, 肩 が 産 道 狭
窄 部 に 捕 捉 されやすい. この 際 に 児 の 頚 部 を 引 く 娩 出 操 作 が 加 わると, 腕 神 経 叢 に 牽 引 力 がかかり 分 娩 麻 痺 を 来 たしやすいのである. 体 幹 や 下 肢 が 頭 部 より 先 に 娩 出 される 骨 盤 位 分 娩 (いわゆる 逆 子 )では, 産 道 の 拡 張 が 不 十 分 で 分 娩 時 間 が 長 くなるため,かつ 児 頭 と 産 道 の 間 に 臍 帯 が 挟 まれるため, 新 生 児 仮 死 の 頻 度 が 高 い. また, 後 から 娩 出 される 頭 部 が 産 道 狭 窄 部 に 捕 捉 されやすい. この 際 に 児 の 両 肩 を 下 方 に 引 く 娩 出 操 作 が 加 わると, 腕 神 経 叢 に 牽 引 力 がかかり 分 娩 麻 痺 を 来 たすことがある. 2)Erb 型 麻 痺 と Klumpke 型 麻 痺 腕 神 経 叢 損 傷 のうち, 第 5~6 頚 神 経 の 神 経 根 あるいは 両 者 が 合 して 形 成 される 上 神 経 束 が 損 傷 されるものを,Erb 型 麻 痺 ( 上 位 型 麻 痺 )と 言 う. 独 国 Heidelberg 大 学 の Wilhelm Heinrich Erb によって,1874 年 に 報 告 された. Erb は,Carl Friedrich Otto Westphal とともに 腱 反 射 の 発 見 者 としても 知 られている. しかし, 本 症 の 研 究 は 仏 国 の Guillaume Benjamin Amand Duchenne の 業 績 によるところが 大 きく,Erb-Duchenne 型 麻 痺 と 呼 ばれることもある. 頚 部 伸 展 位 で 肩 甲 帯 が 下 方 に 牽 引 されると, 上 位 の 神 経 根 に 加 わる 牽 引 力 が 大 きくなるため,Erb 型 麻 痺 を 起 こしやすい( 図 2). 主 に 第 5~6 頚 神 経 に 支 配 される 肩 甲 筋 ( 三 角 筋, 棘 上 筋, 棘 下 筋, 小 円 筋, 大 円 筋, 肩 甲 下 筋 )およ び 肘 関 節 屈 筋 群 ( 上 腕 二 頭 筋, 上 腕 筋, 腕 橈 骨 筋 )が 麻 痺 するため, 上 腕 の 運 動 ( 肩 関 節 の 運 動 )および 前 腕 の 屈 曲 ( 肘 関 節 の 屈 曲 )が 障 害 される. 前 腕 の 伸 展 および 手 の 運 動 は 保 たれる. また, 上 腕 の 外 側 部 および 前 腕 と 手 の 橈 側 部 の 知 覚 麻 痺 が 生 じる. 上 述 のように, 分 娩 麻 痺 は 骨 盤 位 分 娩 で 両 肩 を 下 方 に 引 く,あるいは 頭 位 分 娩 で 頚 部 を 引 く 娩 出 操 作 が 加 わったときに 起 きやすい. いずれの 娩 出 操 作 においても 腕 神 経 叢 の 上 部 に 牽 引 力 が 加 わるため,Erb 型 麻 痺 が 多 い. 第 8 頚 神 経 と 第 1 胸 神 経 の 神 経 根 あるいは 両 者 が 合 して 形 成 される 下 神 経 束 が 損 傷 され るものを,Klumpke 型 麻 痺 ( 下 位 型 麻 痺 )と 言 う. Klumpke 型 麻 痺 は, 米 国 人 の Augusta Marie Klumpke の 名 を 冠 したものであり,1885 年 に 報 告 された. 彼 女 は 仏 国 Paris 大 学 初 の 女 子 医 学 生 であり, 後 に 同 僚 であり 延 髄 内 側 症 候 群 (Dejerine 症 候 群 )にその 名 を 残 す Joseph Jules Dejerine と 結 婚 したため, 本 症 を Dejerine-Klumpke 型 麻 痺 と 称 する こともある. 肩 関 節 が 高 度 外 転 位 で 牽 引 された 場 合 や 過 度 の 外 転 を 強 制 された 場 合, 下 位 の 神 経 根 に 加 わる 牽 引 力 が 大 きくなるため Klumpke 型 麻 痺 を 起 こしやすい( 図 2). 主 に 第 8 頚 神 経 および 第 1 胸 神 経 に 支 配 される 手 指 屈 筋 群 ( 浅 指 屈 筋, 深 指 屈 筋 )および 手 の 内 在 筋 ( 骨 間 筋, 虫 様 筋 )が 麻 痺 するため, 手 指 の 運 動 が 障 害 される. また, 上 腕 の 内 側 部 および 前 腕 と 手 の 尺 側 部 の 知 覚 麻 痺 が 生 じる. 換 言 すれば, 第 8 頚 神 経 および 第 1 胸 神 経 に 由 来 する 線 維 を 多 く 含 む 尺 骨 神 経 および 正 中 神 経 領 域 の 症 状 が 主 体 である. 実 際 に は 症 例 に よ っ て 損 傷 さ れ る 神 経 根 の 組 み 合 わ せ は 種 々 で あ り,Erb 型 麻 痺 と Klumpke 型 麻 痺 に 相 当 しないことも 多 い. また, 全 神 経 根 が 断 裂 すると, 患 側 の 上 肢 全 体 の 知 覚 および 運 動 が 麻 痺 する. 3) 腕 神 経 叢 損 傷 と 交 感 神 経 症 状 Horner 症 候 群 は 眼 の 交 感 神 経 症 状 であり 縮 瞳 眼 瞼 下 垂 を 来 す 腕 神 経 叢 損 傷
に Horner を 合 併 することがあるが そのメカニズムをご 存 じであろうか? 第 8 頚 神 経 および 第 1 胸 神 経 の 前 根 には, 瞳 孔 散 大 筋 および 瞼 板 筋 を 支 配 する 交 感 神 経 節 前 線 維 が 含 ま れ る. し た が っ て, 第 8 頚 神 経 あ る い は 第 1 胸 神 経 の 引 き 抜 き 損 傷 (Klumpke 型 麻 痺 )に Horner 症 候 群 を 合 併 することがある. 一 方, 脊 柱 管 外 の 第 8 頚 神 経 あるいは 第 1 胸 神 経 の 神 経 根 には 両 筋 を 支 配 する 交 感 神 経 線 維 は 含 まれない. した がって, 節 後 損 傷 では Horner 症 候 群 は 生 じない( 図 3). 脳, 頭 頚 部, 上 肢 へ BC CC SC 頭 頚 部, 上 肢 から AA RP LP SVC PT 卵 LA DA RA 体 幹, 下 肢 へ LV RV IVC 臍 静 脈 胎 盤 から 消 化 器, 下 肢 から 図 1 胎 児 循 環 下 大 静 脈 由 来 (IVC)の 血 液 ( 動 脈 血 の 割 合 が 高 い) 上 大 静 脈 由 来 (SVC)の 血 液 ( 静 脈 血 の 割 合 が 高 い) 動 脈 血 の 割 合 が 高 い 下 大 静 脈 由 来 の 血 液 は, 右 心 房 (RA)から 卵 円 孔 ( 卵 ), 左 心 房 (LA), 左 心 室 (LV)を 通 り, 上 行 大 動 脈 (AA)へ 駆 出 される. 静 脈 血 の 割 合 が 高 い 上 大 静 脈 由 来 の 血 液 は, 右 心 房 (RA)から 右 心 室 (LV), 肺 動 脈 幹 (PT)へ 駆 出 される. その 大 部 分 は, 左 右 の 肺 動 脈 (LP,RP)ではなく, 動 脈 管 ( )を 通 って 大 動 脈 に 合 流 する. 頭 頚 部, 上 肢 などへ 分 布 する 腕 頭 動 脈 (BC), 左 総 頚 動 脈 (CC), 左 鎖 骨 下 動 脈 (SC)
は, 動 脈 血 の 割 合 が 高 い 下 大 静 脈 由 来 の 血 液 のみが 流 れる. 一 方, 動 脈 管 ( ) 合 流 地 点 以 降 の 下 行 大 動 脈 (DA)は 上 大 静 脈 由 来 の 血 液 が 混 入 するため, 静 脈 血 の 割 合 が 高 くなる. 出 生 時, 第 1 呼 吸 と 同 時 に 動 脈 管 ( )および 卵 円 孔 ( 卵 )は 閉 鎖 する. 頚 椎 C5 C6 C8 T1 腕 神 経 叢 (a) (b) 図 2 オートバイ 事 故 による 腕 神 経 叢 損 傷 (a) 頚 部 伸 展 位 で 肩 甲 帯 が 下 方 に 牽 引 されると, 上 位 の 神 経 根 に 加 わる 牽 引 力 が 大 きく なる. (b) 肩 関 節 が 高 度 外 転 位 で 牽 引 された 場 合 や 過 度 の 外 転 を 強 制 された 場 合, 下 位 の 神 経 根 に 加 わる 牽 引 力 が 大 きくなる.
交 感 神 経 幹 上 頚 神 経 節 瞳 孔 散 大 筋, 瞼 板 筋 へ 第 8 頚 髄 G 側 角 C8-NR a C8-AR 第 1 胸 髄 G 側 角 T1-NR a T1-AR 図 3 腕 神 経 叢 損 傷 と Horner 症 候 群 第 8 頚 髄 および 第 1 胸 髄 の 側 角 から 出 る 交 感 神 経 節 前 線 維 は, 第 8 頚 神 経 第 1 胸 神 経 の 前 根 (C8-AR,T1-AR)および 白 交 通 枝 (a)を 通 って 交 感 神 経 幹 に 至 り, 上 行 する. 上 頚 神 経 節 でニューロンを 交 代 し, 瞳 孔 散 大 筋 および 瞼 板 筋 へ 至 る( 本 連 載 第 35 回 の 図 3 参 照 ).
したがって, 第 8 頚 神 経 あるいは 第 1 胸 神 経 の 根 引 き 抜 き 損 傷 ( )では Horner 症 候 群 が 起 こる( ). 節 後 損 傷 ( )では Horner 症 候 群 は 生 じない( ). G: 脊 髄 神 経 節 ( 後 根 神 経 節 ) a: 白 交 通 枝 C8-NR: 第 8 頚 神 経 の 神 経 根 T1-NR: 第 1 胸 神 経 の 神 経 根