数値は民間人の死傷者を含む ドイツ 248 万, ロシア 375 万, フランス 170 万, オーストリア 157 万, 英連邦 123 万, アメリカ 12 万, イタリア 124 万, オスマン=トルコ 292 万総計 1,656 万 同盟国側 ドイツ オーストリア トルコ ブルガリア 協商国

Similar documents
指導内容科目世界史 A の具体的な指導目標評価の観点 方法 ユーラシアの諸文明 西アジア 西アジアにおける古代オリエント文明とイラン人の活動 アラブ人とイスラーム帝国の形成過程や文明の特質を理解する 5 ユーラシアの諸文明 ヨーロッパ 古代ギリシア ローマ文明 キリスト教を基盤とした東西ヨーロッパ世

学習指導要領

第16講  第二次世界大戦とドイツの戦略(1)

教科 : 地理歴史科目 : 世界史 A 別紙 1 (1) 世界史へのいざない 学習指導要領ア自然環境と歴史歴史の舞台としての自然環境について 河川 海洋 草原 オアシス 森林などから適切な事例を取り上げ 地図や写真などを読み取る活動を通して 自然環境と人類の活動が相互に作用し合っていることに気付かせ

第1章 第1次世界大戦前のロシア帝国の国際環境

学習指導要領

2-1_ pdf

学習指導要領

<92508F838F578C76955C81408EE88E9D82BF8E9197BF2E786C7378>

年間授業計画09.xls

序章近代世界の成立とグローバリゼーションの諸段階 世界 商品交換 全地球 結合 500 年ほど前に始まった 近代化 それ以前の広大な地域の商品交換ネットワークは? モンゴル帝国の 世界 商品の生産は? Ⅰ グローバリゼーション とは グローバリゼーションと近代 グローバリゼーション 最近( 現代 )


朝日 TV 2015/4/18-19 原発政策安倍内閣は 今後の電力供給のあり方について検討しているなかで 2030 年時点で 電力の 2 割程度を 原子力発電で賄う方針を示しています あなたは これを支持しますか 支持しませんか? 支持する 29% 支持しない 53% わからない 答えない 18%

第 2 問問題のねらい青年期と自己の形成の課題について, アイデンティティや防衛機制に関する概念や理論等を活用して, 進路決定や日常生活の葛藤について考察する力を問うとともに, 日本及び世界の宗教や文化をとらえる上で大切な知識や考え方についての理解を問う ( 夏休みの課題として複数のテーマについて調

学習指導要領

学習指導要領

Microsoft Word - 11 進化ゲーム

学習指導要領

651†i™ƒàV”††j

三衆議院議員稲葉誠一君提出自衛隊の海外派兵 日米安保条約等の問題に関する質問に対する答弁書一について1 我が国が安全保障理事会の常任理事国となるためには 国連憲章の改正が必要であるが 安全保障理事会の常任理事国は 国連憲章の改正についても いわゆる拒否権を有しており 一般的にいつて 国連憲章の改正に

前提 新任務付与に関する基本的な考え方 平成 28 年 11 月 15 日 内 閣 官 房 内 閣 府 外 務 省 防 衛 省 1 南スーダンにおける治安の維持については 原則として南スー ダン警察と南スーダン政府軍が責任を有しており これを UNMISS( 国連南スーダン共和国ミッション ) の部

論文題目 大学生のお金に対する信念が家計管理と社会参加に果たす役割 氏名 渡辺伸子 論文概要本論文では, お金に対する態度の中でも認知的な面での個人差を お金に対する信念 と呼び, お金に対する信念が家計管理および社会参加の領域でどのような役割を果たしているか明らかにすることを目指した つまり, お

「改訂版 世界史A(世A019)」教科書シラバス案


グループ発表 PKO 賛成派平和のための PKO 2015/06/16 山上咲子 1.PKO( 国連平和維持活動 ) とは何か PKO は一般的に 国連の安全保障理事会の決議に基づいて 加盟国による特別な部隊を作り 紛争の起った地域に派遣して紛争の拡大 再発防止 停戦後の平和維持のために行う活動 と

Microsoft Word ws03Munchhausen2.doc

平成 30 年度年間授業計画 教科 : 地理歴史科目 : 世界史 A 校内科目名 : 世界史 A 対象年次 :1 2 単位 使用教科書 教材 教科書 現代の世界史 改訂版( 山川出版社 ) 補助教材 ニューステージ世界史詳覧 ( 浜島書店 ) 1 学期 2 学期 指導内容指導目標評価の観点 方法 <

学習指導要領

7 民法改正 : (13) 選択的夫婦別姓の実現 (14) 婚姻最低年齢 再婚禁止 (15) 婚外子相続分差別規定廃止 是正 8 性暴力 : (16) 性暴力禁止法 (17)DV 防止法 9 日本軍 慰安婦 : (18) 河野 村山談話 (19) 国家の謝罪と補償 10 性的健康 : (20) 刑法

期末考査 テストのまとめ自分の現状の学力について確認させる定期テスト素点 欧米の列強の侵略 支配を受けたアジアの各地域の当時の状況を理解させる この時の欧米の支配が近代を通して続いたことを把握させる 自由主義 ナショナリズムの進展西ヨーロッパとアメリカの自由主義 ナショナリズムの高まり 科学技術の発

あなたやあなたの子どもが 国外の戦争で殺し・殺される!? 安倍政権の戦争法案

Microsoft Word - JPN_2007DB_chapter3_ doc

国際政治アナリスト菅原出のドキュメント レポート米国の対テロ戦争とインテリジェンス コミュニティの暗闘をカバーする Open Source Intelligence 2015 年 9 月 17 日号 (Vol. 204) 2015 年 9 月 17 日号 特集 : シリア和平と対 IS 作戦をめぐる

Microsoft PowerPoint EU経済格差

H1


Microsoft PowerPoint - ishida_handout

戦略的行動と経済取引 (ゲーム理論入門)

The Status of Sign Languages

国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)結果の推移

< F2D906C8CFB93AE91D48A77322E6A7464>

130306異議申立て対応のHP上の分かりやすいQA (いったん掲載後「早く申請してください」を削除)

Microsoft Word - ギャラップ:民主党は資本主義より社会主義についてより肯定的.docx

【】中学社会公民:国際連合

B5

Slide 1

課題研究の進め方 これは,10 年経験者研修講座の各教科の課題研究の研修で使っている資料をまとめたものです 課題研究の進め方 と 課題研究報告書の書き方 について, 教科を限定せずに一般的に紹介してありますので, 校内研修などにご活用ください

Microsoft PowerPoint - 08macro6.ppt

景品の換金行為と「三店方式」について

この長期にわたる紛争に対する政治的解決を達成することとマグレブ アラブ連合の加盟国間の協 力の強化は 安定および安全 同様にサヘル地域の全ての人々のための仕事 成長および機会を導き出 すことに貢献するであろうことを認識し 国際連合西サハラ住民投票監視団 (MINURSO) を含む 全ての平和維持活動

ISO9001:2015規格要求事項解説テキスト(サンプル) 株式会社ハピネックス提供資料

1 尖閣諸島に関する認知 (1) 尖閣諸島の認知 平成 25 年 7 月 知っていた 91.1% 知らなかった 7.7% 知っていた 知らなかった ( 該当者数 ) 総数 ( 1,801 人 ) (%) -

<4D F736F F D E9197BF342D32817A B7982D BF CC8EA993AE8ED482C98AD682B782E990A28A458B5A8F708B4B91A582CC93B193FC8B7982D18D B4B91A D A89BB82C982C282A282C42E646F6378>

Microsoft Word - 20_2

5 明治初期の諸改革 明治新政府が中央集権化を図るとともに 富国強兵 殖産興業政策の下で 廃藩置県 封建的身分制度の廃止 学制や徴兵令 地租改正などの諸改革を実施したことを知る 欧米文化が導入され 人々の生活が変化していったことを知る 明治初期の外交 清国と日清修好条規 朝鮮とは日朝修好条規が結ばれ

社会系(地理歴史)カリキュラム デザイン論発表

1

008 しかし 自衛隊が最初から広く国民に受け入れられる存在だったかというと 決してそうではなかった 創設時から憲法違反という批判も受けながら 戦後の平和主義の中で苦しみつつ成長してきたというのが実態である かつては自衛官という存在自体を否定的に考える風潮もあったのである たとえば ノーベル文学賞を

附帯調査

日本語「~ておく」の用法について

00[1-2]目次(責).indd

【】中学社会歴史:フランス革命・独立戦争

安全保障会議 ( 現行 ) の概要 ( 構成 ) 委員長 : 内閣官房長官 委 安全保障会議 ( 構成 ) 議長 : 内閣総理大臣 事態対処専門委員会 内閣総理大臣の諮問に基づき 以下の事項を審議 国防の基本方針 防衛計画の大綱 対処基本方針 武力攻撃事態 / 周辺事態等への対処 / 自衛隊法第 3

7 民法改正 : (13) 選択的夫婦別姓の実現 (14) 婚姻最低年齢 再婚禁止 (15) 婚外子相続分差別規定廃止 是正 8 性暴力 : (16) 性暴力禁止法 (17)DV 防止法 9 日本軍 慰安婦 : (18) 河野 村山談話 (19) 国家の謝罪と補償 10 性的健康 : (20) 刑法

無党派層についての分析 芝井清久 神奈川大学人間科学部教務補助職員 統計数理研究所データ科学研究系特任研究員 注 ) 図表は 不明 無回答 を除外して作成した 設問によっては その他 の回答も除外した この分析では Q13 で と答えた有権者を無党派層と定義する Q13 と Q15-1, 2 のクロ

HからのつながりH J Hでは 欧米 という言葉が二回も出てきた Jではヨーロッパのことが書いてあったので Hにつながる 内開き 外開き 内開きのドアというのが 前の問題になっているから Hで欧米は内に開くと説明しているのに Jで内開きのドアのよさを説明 Hに続いて内開きのドアのよさを説明している

総論――日清戦争~韓国併合

摂南経済研究第 4 巻第 1 2 号 (2014) 較検討するのも興味深いことであるが ここではあくまでも 2011 年のデータの提示のみに終始し 分析 検討は改めて順次おこなってみたい 後者の目的にかかわる国際観光輸出 輸入 収支については 前掲の 国際観光論 において 2000 年から 2008


平成 0 年度 (018 年度 ) 教科年間授業計画表 教科 地歴 科 日本史 A 目 年 1 本城 今井 日本史 A 現代からの歴史 ( 東京書籍 ) 図説日本史通覧 ( 帝国書院 ) 中校までの歴史習の上に 世界的視野に立った歴史認識を形成する 現代社会を形成してきた人間の営みとして歴史を正しく

調査結果報告書(2)

特許出願の審査過程で 審査官が出願人と連絡を取る必要があると考えた場合 審査官は出願人との非公式な通信を行うことができる 審査官が非公式な通信を行う時期は 見解書が発行される前または見解書に対する応答書が提出された後のいずれかである 審査官からの通信に対して出願人が応答する場合の応答期間は通常 1

1. 世界における日 経済 人口 (216 年 ) GDP(216 年 ) 貿易 ( 輸出 + 輸入 )(216 年 ) +=8.6% +=28.4% +=36.8% 1.7% 6.9% 6.6% 4.% 68.6% 中国 18.5% 米国 4.3% 32.1% 中国 14.9% 米国 24.7%

O-27567

資料 2 国際宇宙ステーション (ISS) 計画概要 平成 26 年 4 月 23 日 ( 水 ) 文部科学省研究開発局 1

ii 21 Sustainability


社会的責任に関する円卓会議の役割と協働プロジェクト 1. 役割 本円卓会議の役割は 安全 安心で持続可能な経済社会を実現するために 多様な担い手が様々な課題を 協働の力 で解決するための協働戦略を策定し その実現に向けて行動することにあります この役割を果たすために 現在 以下の担い手の代表等が参加

研修シリーズ

あなたやあなたの子どもが 国外の戦争で殺し・殺される!? 安倍政権の戦争法案

1 A 所有の土地について A が B に B が C に売り渡し A から B へ B から C へそれぞれ所有権移転登記がなされた C が移転登記を受ける際に AB 間の売買契約が B の詐欺に基づくものであることを知らなかった場合で 当該登記の後に A により AB 間の売買契約が取り消された

現状では法制度を工夫しても 違憲の疑いが強い

タイトル

Microsoft PowerPoint - fuseitei_6

1 BCM BCM BCM BCM BCM BCMS

各資産のリスク 相関の検証 分析に使用した期間 現行のポートフォリオ策定時 :1973 年 ~2003 年 (31 年間 ) 今回 :1973 年 ~2006 年 (34 年間 ) 使用データ 短期資産 : コールレート ( 有担保翌日 ) 年次リターン 国内債券 : NOMURA-BPI 総合指数

73,800 円 / m2 幹線道路背後の住宅地域 については 77,600 円 / m2 という結論を得たものであり 幹線道路背後の住宅地域 の土地価格が 幹線道路沿線の商業地域 の土地価格よりも高いという内容であった 既述のとおり 土地価格の算定は 近傍類似の一般の取引事例をもとに算定しているこ

現代資本主義論

Microsoft Word - intl_finance_09_lecturenote

Microsoft PowerPoint - 01_職務発明制度に関する基礎的考察(飯田先生).pptx

年間授業画 地理 歴史 2 年必修世界史 A( 理系 ) 数 2 2 年 56 組 書 教材世界史 A( 実教出版 ) プロムナード世界史 ( 浜島書店 ) 1 近代ヨーロッパの成立以後の近現代史を全世界的観点から体系的に理解させる 今日的な諸課題の解決の一助として歴史的理解 意識を習得させる 2

どのような便益があり得るか? より重要な ( ハイリスクの ) プロセス及びそれらのアウトプットに焦点が当たる 相互に依存するプロセスについての理解 定義及び統合が改善される プロセス及びマネジメントシステム全体の計画策定 実施 確認及び改善の体系的なマネジメント 資源の有効利用及び説明責任の強化

国際政治アナリスト菅原出のドキュメント レポート米国の対テロ戦争とインテリジェンス コミュニティの暗闘をカバーする Open Source Intelligence 2016 年 2 月 19 日号 (Vol. 216) 2016 年 2 月 19 日号 トルコのシリア 地上部隊派遣 と高まる地域紛

スライド 1

ロシアの農業経営について 目次 1, はじめに 2, ロシア農業の歴史 3, ロシア農業の現状 4, まとめ 2 年 15 組長谷川

2008年6月XX日

Microsoft Word - youshi1113

本条は 購入者等が訪問販売に係る売買契約等についての勧誘を受けるか否かという意思の自由を担保することを目的とするものであり まず法第 3 条の2 第 1 項においては 訪問販売における事業者の強引な勧誘により 購入者等が望まない契約を締結させられることを防止するため 事業者が勧誘行為を始める前に 相

[ 指針 ] 1. 組織体および組織体集団におけるガバナンス プロセスの改善に向けた評価組織体の機関設計については 株式会社にあっては株主総会の専決事項であり 業務運営組織の決定は 取締役会等の専決事項である また 組織体集団をどのように形成するかも親会社の取締役会等の専決事項である したがって こ

Microsoft Word - 三養基支部 報告 指導案

Transcription:

横浜市立大学エクステンション講座 ヨーロッパ史における戦争と平和 第 3 回 (10/8) 第一次世界大戦の起源 横浜市立大学名誉教授松井道昭 第 1 章 第一次大戦の特徴 この大戦の特徴として まず 挙げねばならないのは 開戦のいきさつが極めて複雑で いずれか一つの国家の特定行為が大戦をもたらしたと決めつけられないことである 起源 という場合 始まり と 原因 の両方の意味があるが これは明確に分けて考える必要がある 始まり とは物事の発端の意であって きっかけ と同じと考えてしてよい すなわち サライエヴォ事件をもって 始まり とするのは可能であり じっさい そう見られているが これだけでは ヨーロッパ列強の全体を以後に続く激越な戦争に巻き込む原因とはなりにくい つまり サライエヴォ事件は列強の協議でもって 即刻会議を招集して 穏当に処理される可能性もあったのである 次に 起源 を 原因 と定義すると それはいろいろな視点から探究することができ 一つの 原因 の説明でもって 事足れり とするにはいかない しかも 原因 を何に求めるか どの史料に当たるかによって結論は違うし 研究者の戦争史観によって左右されることもある たとえば 長期の経済史の動向に求めることも可能であるし 外交 軍事史の中 または文化思潮の流れの中に位置づけるのも可能である 大戦後において 戦勝国側が複雑ないきさつを無視して戦敗国ドイツに一方的に開戦責任を押しつけたことは大きな禍根を残した ドイツ国民がこの責任押しつけに対して懐いた不満がやがてヒトラーの運動を育てる温床ともなる 第二次世界大戦を引き起こした中心人物がヒトラーであるのに対し 第一次大戦にこのような首謀者はいない 大戦の第二の特徴は この戦争が史上初の国家 ( 国民 ) 総力戦であったことである ナポレオン戦争において部分的に総力戦の様相は表われているが 規模や社会的影響度の点では第一次大戦に遠く及ばない 19 世紀における他の戦争は一部の人々の意志によって国民生活にさほど深刻な影響を及ばさないかたちで遂行された戦争 いわゆる 王朝戦争 である 1866 年の普墺戦争は俗に 七週戦争 と言われように 決着はすぐについた また 普仏戦争は久々の一騎討ち戦争となったが フランスのあっけない敗北に終わり 動員数 被害や戦後への影響などは第一次大戦と比較にならないほど軽微で 他の列強はむしろ 特需が生み出した俄か景気により経済的に潤うような状態だった 一方 第一次大戦は世界の多くの国々を巻き込んだばかりでなく 一般国民の生活に深刻な影響を与えた 前線兵士はむろん 銃後の国民も戦争に動員された この戦争は 国のもてる力を挙げて取り組まれた初めての総力戦であった また 毒ガス 戦車 飛行機などの新兵器が投入されたこともその際立った特徴であり そのため犠牲者もそれまでの戦争とは比較できないほどに多数にのぼる 以下の 1

数値は民間人の死傷者を含む ドイツ 248 万, ロシア 375 万, フランス 170 万, オーストリア 157 万, 英連邦 123 万, アメリカ 12 万, イタリア 124 万, オスマン=トルコ 292 万総計 1,656 万 同盟国側 ドイツ オーストリア トルコ ブルガリア 協商国のちに連合国側 フランス イギリス ロシア イタリア アメリカイギリス外相グレーは 1914 年 8 月 3 日の夕暮れ時に外務省の自室で ヨーロッパの灯は今すべて消えようとしており 自分たちが生きている間に再び灯がともるのを見ることはないだろう と悲哀感に襲われた グレーはヒトラーが権力を掌握した 1933 年秋に他界したが 彼の予想はほぼ的中したことになる 1914 年 8 月から第二次大戦が終わる 1945 年 5 月までのおよそ 30 年間 ヨーロッパは絶えず不安定な状態におかれ 第一次大戦と第二次大戦は長期にわたる地殻変動のくり返しと見ることもできる 第三の特徴は 開戦日をいつとするか簡単に決められないところにある ふつうは次の4つが挙げられる 1 1914 年 7 月 28 日 オーストリア = ハンガリーがセルビアに宣戦布告 2 8 月 1 日 ドイツがロシアに宣戦布告 3 8 月 3 日 ドイツがフランスに宣戦布告 4 8 月 4 日 イギリスがドイツに宣戦布告そもそものきっかけは同年 6 月 28 日 オーストリアの皇太子夫妻がボスニアの首都サライエヴォで ここに本拠をおく暗殺者グループによって殺害されたことである セルビア政府そのものは無関係であり このグループを処罰して陳謝したが この事件に対しオーストリアはセルビアを武力で打倒することで大国の体面を保とうとした そこにきて ロシアが中心となってバルカン半島に散在するスラブ系諸族を大同団結させセルビアを支援する挙に出た すなわち 7 月 30 日に総動員令を下したため オーストリアと同盟関係にあったドイツはこれに応え 8 月 1 日に宣戦布告を出す 一方 ロシアはフランスと軍事同盟を結び緊密な関係にあったため ドイツはフランスに対しても開戦することになる イギリスは当初 中立を標榜していたが ドイツがベルギーの中立を侵してフランス領内に雪崩こんだため イギリスもドイツに対し開戦する まさしくドミノゲームである このような開戦劈頭の4つの日付をめぐる経緯のなかに大戦の特徴が露出している ロシアが総動員をかけたのは 戦争が局地戦に終わらずドイツが乗り出して大戦争に発展すると判断したからである 早々と動員をかけたのはロシアの軍体制は他列強に見劣り 臨戦態勢づくりに時間がかかるという見通しからだ 当時 動員は即 開戦を意味しなかった 動員態勢にそぶりを見せただけで敵への脅しとなり その戦意を挫くことが考えられた ロシアが動員に踏み切ったのは ドイツがオーストリアと同盟していたことにもとづく イタリアもこの三国同盟の一員であったが 事実上 この三国同盟から脱落しており したがって イタリアは最初 中立の立場をとる こうした経緯から 大戦がなぜ起こったかを知るためには 戦前の三国同盟や三国協商のあり方を理解することがいかに重要であるかを示している 2

第 2 章 大戦前史 (1) 三帝同盟大戦の遠因について歴史を遡ると 1870~71 年の普仏戦争に行きつく この戦争の戦後処理において大戦の根源に当たるものが潜んでいた 単純に考えて 普仏の激突がなかったなら そして たとえ激突があったとしても その時に穏便なかたちで戦後処理がなされていれば 第一次大戦の激戦はなかったものと思われる 大戦はバルカン半島で発火したが その根は仏独の長期にわたる隠然たる確執にある フランスの怨念はドイツがアルザス = ロレーヌを剥ぎ取ったところに始まる 1871 年 1 月 プロイセンが中心となってドイツ統一が達成された フランス国民の怨恨はドイツ統一後における独仏関係に重くのしかかる 普仏戦争での勝利に そして統一ドイツ帝国の建設に大きな功績を残したビスマルクはアルザス = ロレーヌの併合に反対であったが 軍事上の立場から併合を主張する ( フランスから報復戦を仕かけられた際の備えとして ) 軍部に押しきられてしまう フランスの作家フランソワ ドーデの短篇小説 最後の授業 に フランス国民の無念さがよく表わされている このようなわけで ビスマルクは戦後を睨み ドイツの安全を保障する国際的な条約網をつくりあげることに専念する ドイツ帝国の樹立後に彼がまず期待をつないだのはオーストリア皇帝とロシア皇帝とドイツ皇帝のあいだに三帝同盟 (1873 年 10 月 ) を結ぶことだった フランスの国会は次機戦争に備え 下士官法 を成立させた 普仏戦争での仏軍の弱点を下士官に見出したのだ フランスが陸軍の増強に強い意欲を示しているのを見たビスマルクは新聞を操作してフランスに圧力をかける 1875 年 4 月 9 日の ポスト 紙は 戦争は切迫しているか という挑戦的なタイトルでレスラー Konstantain Rößler (1820~96) の論文を掲載した その内容は あたかもドイツがフランスの復讐に先手を打って 予防戦争 を真剣に考えているかのような印象を放った これにいち早く反応したのはイギリスで ヴィクトリア女王自らがドイツに警告に発し また ロシア皇帝アレクサンドル二世も外相ゴルチャコフを伴ってベルリンを訪れ ドイツを強く牽制した ビスマルクの企図は言葉のうえでフランスを脅すだけだったようであるが 三帝同盟があるにもかかわらず ロシアはイギリスと共にドイツを挟み撃ちしてフランスを支援するそぶりを見せたのだ こうして 三帝同盟がいかに危ういものであるかをビスマルクに示唆した (2) ビスマルク体制の成立と崩壊ビスマルクは新たな安全保障体制を模索する 彼が苦心してつくりあげたのがいわゆるビスマルク体制である その中心はオーストリアとの同盟 (1879 年 10 月 ) と これにイタリアを加えた三国同盟 (1882 年 5 月 ) である また ルーマニアとの同盟も 3

1882 年に成立させる さらに重要なものは 87 年 6 月にロシアとの間に結ばれたロシア = ドイツ再保障条約である しかし ロシアとオーストリアはバルカン問題をめぐって悪化していたため ビスマルクは再保障条約の内容を同盟国オーストリアには秘密にしておいた ドイツはイギリスともしばらくは良好な関係にあった こうして ビスマルク体制の完成によってフランスは完全に孤立し 対ドイツ復讐戦争を望んでもとうていできない相談となった かくて ドイツの安全は保障されたかに見えた だが この頃のビスマルクは新帝ヴィルヘルム二世と折り合いが悪くなり ついに辞職に追い込まれる (1890 年 3 月 ) その 3 日後にビスマルクの後任カブリビ首相は ドイツの伝統となっていた対墺和親政策と明らかに矛盾する独露再保障条約の更新を拒否した ここから ロシアはドイツから離れてフランスに接近しはじめ (1892 年頃から ) 1994 年 1 月にロシア = フランス同盟が正式に成立した 専制国家のロシアが共和制フランスと同盟を結ぶことをドイツの政治家たちはまったく予想していなかった 一方 イギリスは工業 貿易 海軍 植民地の 4 分野でドイツの挑戦を受けたと感じはじめ しだいにフランスとロシアに接近しはじめる イギリスにとって対岸のフランス および中近東で南下政策を展開するロシアはそれまでは不倶戴天の敵だったが イギリスはそれまでの孤立政策を改め 徐々に両国との同盟を考えるようになる かくして 1904 年 4 月に英仏協商が そして 1907 年 8 月には英露協商がそれぞれ成立し ここに英 仏 露の協力体制が確立した これはビスマルクの後継者たちが予想さえしない まったくの 外交革命 であり ビスマルクのドイツ安全保障体制は完全に崩れ去ったのである かくて ドイツが当てにできるのはオーストリア一国だけとなる さらに フランスとの間に秘密中立条約 (1902) を結んだイタリアはドイツにとって忠実な同盟国ではなくなっていた (3) バルカン問題ロシアはその伝統的政策のひとつとしてバルカン半島の北から南へ向かって勢力を伸ばそうとつとめる かつてこの地方を制圧していたオスマン =トルコ帝国は長い衰退期に入っていて ヨーロッパの瀕死の病人 と揶揄された ヨーロッパ列強諸国における軋轢ゆえにバルカン半島は緩衝地帯としてようやく治まっている状態になっていた さらにバルカン半島にはさまざまなスラブ系民族が雑多に居住しており それがロシアの南下政策に有利な状況を生み出していた ビスマルクがうち出したベルリン会議 (1878 年 ) で この方面にむけてのロシアの野心はいったん挫折し その結果 ロシアは一時シベリアから満洲や朝鮮半島に触手を伸ばしていく しかし 日露戦争 (1904~05) での敗北により東アジアへの道を断念したロシアは再びバルカン南下政策に戻る その際 スラブ民族の盟主としてのロシアは バルカン半島の雑多なスラブ系民族を統合するという汎スラブ主義の主張を 19 世紀後半以降 一貫してロシアに都合のよいイデオロギーとして利用した そこにきて 衰勢一方のオスマン帝国で 現状打破をめざす青年トルコ党の革命が 1908 年に起こると バルカン半島をめぐる情勢は新たな局面を迎える [ 注 ] [ 注 ] バルカン半島がヨーロッパに近い距離にあり そこに諸民族が相乱れていたとこ 4

ろに事の面倒さがある 遠いアフリカや中東の地であれば 諸列強は話し合いで処 理できたのだが 隣接地域は諸国の鬩ぎあいが強く 一方がどこかを領有すると ライバルを脅かすものとなる (4) ボスニア危機青年トルコ党の革命はオーストリアによるボスニア ヘルツェゴビナ両州の併合 (1908) のきっかけとなった 同じく両州の併合を狙っていたセルビアはオーストリアの措置に甚だ不満であり ロシアに支援を求めた ところが 汎スラブ主義の盟主であるロシアは日露戦争の敗北の痛手から十分に回復しておらず セルビア支援体制を組めなかった つまり オーストリアの背後に控えるドイツと決戦をしてまでセルビアを支援できず しばらくセルビア支援を断念せざるをえなかったのだ ロシアは オーストリアのセルビア併合政策を断固支持するというドイツ首相ビューローの威嚇的声明 (1909 年 3 月 ) を前にして事実的に屈服した こうして ロシアはセルビアを宥め オーストリアによる二州併合を承服させた ロシアのこの穏忍自重の態度はセルビアに大きな不満の種を残すことになった かくて 1912 年と13 年の二度にわたるバルカン戦争ののちにサライエヴォ事件が勃発するのである バルカン半島支配をめぐり ロシアの南下政策とオーストリアの東進政策が真っ向から交差したことが戦争の発火点になった オーストリアの東進政策はしばしば汎ゲルマン主義の名で呼ばれるが これを汎スラブ主義と同列において論じるには無理がある というのは 汎ゲルマン主義は民族的な色合いはなく 単に政治的 経済的な野心を隠すだけの呼び名であったからだ [ 注 ] [ 注 ] セルビアの外国資本の 4 分の3はフランスが占めていたことを忘れてはならない フランスはロシアに多くの資本投下を進めていたが ロシアと近親関係にあるセルビアに対しても利害関係を維持していた セルビアの敵オーストリアと親しいドイツはこの地では嫌われていた (5) 英独対立の急展開インドのカルカッタ エジプトのカイロ 南アフリカのケープタウンを結ぶ支配圏を狙うイギリスの 3C 政策 と ベルリン ビザンティン バグダードに勢力を張ろうとするドイツの 3B 政策 の対立は 1890 年代に入ってドイツの工業と貿易がイギリスの優越した地位を脅かしたことに端を発している [ 注 ] [ 注 ] この時期は一等国 二等国というランクに各国は神経質になっていたことを忘れてはならない それは日清 日露戦争当時の日本だけではないのだ 社会ダーウィニズムの影響とみてよかろう 英独の対立がもっと鮮明なかたちであらわれるのは 両国の建艦競争においてである ドイツの東アジア巡洋分艦隊司令官から 1897 年に海軍大臣に昇進したティルピッツは 1900 年に ドイツ海軍の飛躍的な発展強化をめざす建艦法案を国会に提出する それまで見るべき海軍を保有していなかったドイツは この建艦計画にもとづいて海軍を充実させれば 英仏に次ぐ世界第三位の海軍国に躍進するはずだった 5

しかし ティルピッツ構想は海戦でイギリス艦隊を撃破することで海上覇権を奪取することを直接の目標とするものではなく イギリスの海上覇権の一角を崩すところに定められている ティルピッツ法案は 危険艦隊構想 Riskogedanke という独特の構想にもとづいていた それはこうだ もしティルピッツ艦隊が英艦隊と激突すれば 独艦隊は敗れるだろう しかし その反面 ドイツ艦隊と刺し違えて生き残ったイギリス艦隊だけで全世界支配を維持するのは困難になるだろう そこに 3B 政策 遂行の余地が生じる というもの 荒唐無稽な理論とはいえ この海軍増強政策は英独対立を煽り イギリスが従来の 光栄ある孤立 政策を放棄して フランスやロシア そして東洋の日本と同盟政策に転換する直接のきっかけとなった 第 4 章 大戦の勃発 (1) サライエヴォ事件と 七月危機 オーストリアの皇太子フランツ フェルディナントは皇妃ソフィーを伴って陸軍大演習視察のためボスニアを訪れ その足で 6 月 28 日にその首都サライエヴォに入った そこで難に遭うのである フランツ フェルディナントとはどういう人物だったのか オーストリア皇帝フランツ ヨゼフ一世と皇后エリザベートの間に生まれた皇子はルドルフ (1858~89) ただ一人であった この皇子は 1889 年にウィーンの森の別荘で謎の死を遂げた 彼以外に皇太子候補者はおらず 皇帝の弟たちも早逝したため 皇位継承権が皇帝の弟の子 ( つまり皇帝の甥 ) フランツ フェルディナントにまわってきた だが 彼はセルビア人の間で特に疎まれていた オーストリア皇族がセルビア人から憎まれていたのはボスニア危機のいきさつからも理解できるが フランツ フェルディナントの懐くオーストリア帝国の三元化構想がとくにセルビア人の神経を逆なでしたのである 三元化とはオーストリア帝国をオーストリア ハンガリー そしてチェコに分けるというもの 南スラブ諸族は三元化の一つハンガリーの支配下に入り ハンガリーの南スラブ諸族への抑圧強化が見込まれる結果 南スラブ諸族の団結にひびが入る それまではハンガリーと同格でオーストリア人 ( ドイツ系 ) の支配下に入っていたのが 格下に置かれることに屈辱を感じたのだ セルビアの参謀本部情報部長ディミトリエビッチ大佐は 黒手組 という暗殺団を組織し フェルディナントを倒すためガヴリロ プリンチップ (Gavrilo Princip, 1893 ~1918) を首謀者とする数名の暗殺団を 6 月 28 日に配置した サライエヴォの街路で皇太子夫妻を運ぶオープンカーを爆弾が襲ったが ことごとく失敗し 皇太子夫妻は一旦は難を逃れたものの 最後にプリンチップが放った銃弾が夫妻の命を奪った オーストリア政府はこの機会にセルビアを打倒して汎スラブ主義を根絶やしにしようと考えた そのためには まずもって同盟国ドイツの支持が欠かせない こうしてウィーンとベルリンを往復する代表団の動きが活発となる ドイツの首相ベートマン = ホルヴェークは 7 月 5 日 ベルリンでオーストリア使節団長ホヨスに 白紙委任状 を与えた この時のベートマン = ホルヴェークは対英戦争はともかく 仏 露との戦争は 6

避けられないと計算していたようである オーストリア政府は 当時はまだ セルビア政府が暗殺事件に関与していた事実を証明する証拠が見つからなかったにもかかわらず セルビア政府に 7 月 24 日 同政府に最後通牒を突きつけ 28 日に宣戦布告を発令する おそらくオーストリア政府はこれが大戦争の引き金になるとまでは考えず セルビア政府は全面屈服するものと考えていたようだ しかし それまでの諸国間の矛盾 軋轢の生み出した感情が一挙に噴き出し この後 数日のうちにヨーロッパ全列強を巻き込む大戦争に発展していく (2) シュリーフェン計画露仏同盟が樹立した結果 ドイツは戦争が起こればドイツはロシアとフランスに挟まれた戦闘を余儀なくされることは覚悟していた 高齢を理由に引退した大モルトケの後を継いだシュリーフェンは 1906 年までドイツ陸軍の参謀総長をつとめ 二正面作戦を念頭に置いたプラン ( シュリーフェン計画 ) を策定する この構想は政治や外交面までも計算に入れた熟慮の所産である 熟慮とはこうだ (1) 英軍は陸軍が弱体であり 大軍を即座に投入してくるはずがない (2) 独軍は対仏戦のため中立国ベルギーを突破せざるをえないが デンマーク スウェーデン スイスは中立国として尊重すれば 英軍も中立国を侵すことはないゆえ 英軍は海からドイツに侵入できない オランダも独軍の侵入を受ける計画であったが これは英 蘭が結びつく可能性があり 修正案では除かれた (3) ロシア陸軍は 数こそ多いが動員と戦時体制づくりに時間がかかるため 即座にドイツへの侵入はできないだろう 当面は守備に重点をおいて攻勢を防げばよい (4) 開戦と同時にドイツ陸軍の 8 分の7 の兵力をもってフランス軍を 6 週間で叩いて壊滅させた後に 今度は東方に反転してロシア軍に当たるというものだった フランスを屈服させるまで 東部戦線でドイツ軍はもてる 8 分の1の兵力でロシア軍の西進を食い止めておく しかし この計画には致命的な欠陥があった すなわち あくまで短期決戦を前提にしており 戦いが長期化した場合 どうするかの計算がなかった 結果から考えて 西部に8 分の7の兵力を投入していれば 西部戦線が膠着化しなかったことは十分に考えられよう 兵力を抜いたため膠着化したのだ つまり 執拗な国民性をもつイギリス人が簡単に引き退がるとは思えない また 長期化とともに戦争が徐々に王朝戦争から国民戦争に そしてしまいには総力戦の要素を強めるとともに 民衆一般が戦線にくり出された結果 簡単に戦争を終えるのが難しくなったのである シュリーフェンは 1913 年に 必ず戦争になる 絶対に西部戦線の右翼を強化せよ という遺言を残して亡くなった ところが 後任の参謀総長小モルトケ ( 大モルトケの甥 1848~1916) は右翼だけに兵力を集中させるこの計画に不安を懐き 右翼からかなりの兵力を割いてそれを左翼にまわした その結果 西部戦線の南のほう ( マルヌ戦線 ) は強化されたが 北のほう ( 英仏海峡に沿った戦線 ) はそのぶんだけ弱体になった しかも 開戦直後に北部フランスに雪崩込むにあたって 右翼からなけなしの兵力 2 個軍団分を東部戦線にまわしてしまう それは ロシア軍の進撃の速度が予想を超したも 7

ので 雪崩を打って東プロイセンに攻め込んできたからだ ドイツ軍の強さの秘訣は電撃戦にあったが 結局のところ シュリーフェン計画の二度にわたる改悪により西も東も戦線膠着に陥り 戦争の長期化を招いてしまう 1914 年の9 月 6~12 日のマルヌの戦いで それまでのドイツ軍の破竹の勢いが食い止められた そのわけは 西部戦線で兵力が弱まった結果 最右翼の第一軍 ( 小モルトケにより抜き取られ 兵力が弱体化した部分 ) と中央の第二軍の間に 戦線維持に致命的となる 50 キロメートルもの間隙が生じたからである ここでルクセンブルクにあったドイツ軍参謀本部の総長代理のヘンチュ (Richard Hentsch, 1869~1918) が独断で進撃停止を命令した 停止どころか せっかく築いた前線も後退させてしまう 一方 兵力を割いて東部戦線を強化したはずだが ここでも一進一退の膠着状態になった それは当初の予定どおりともいえるが 最初の東プロイセン侵入に仰天することなく 限られた 8 分の1 の兵力でもって敵の釘づけ防御戦に徹すればよかったのだ ヘンチュ中佐の警告に驚いたドイツ第二軍は急いで 9 月 9 日に偵察機を飛ばし 50 キロメートルに及ぶ間隙の実情を査察した 偵察機はイギリスの大陸派遣軍がこの間隙の中央突破しようしているとの情報をもたらした かくて第一軍と第二軍はヘンチュの進言どおり退却を始める ( マルヌの奇蹟 ) しかし イギリス軍の進出は中央突破を意図したものではなく 抵抗のまったくない間隙に偶然入り込んだにすぎなかった 戦争にはこうした偶然的な要素は介入するものであり あまり綿密な計画にこだわると とんでもない窮地に自ら嵌ってしまう 戦術よりも戦略の骨格をしっかりさせたほうがよい とはまさにこのことを言う マルヌの戦いは大戦全体の動向を決定した最も重要な戦闘だった この時の英仏軍の反撃によって シュリーフェン計画にもとづく西部戦線の早期締結は望めなくなくなった かくて持久戦ということになると 人口や物量の点で勝る連合国側が有利となる 海が開かれているため 資源の随時の補給は可能であった そこにきて ドイツが潜水艦による無差別攻撃で中立国商船を沈めたことによりアメリカの参戦を誘う これによって戦線膠着の均衡が崩れ 結局 同盟国側がジリジリと退歩していく これ以後も多くの戦闘がおこなわれたが マルヌの戦い以上に戦局を左右する戦闘はなかった マルヌの戦いの直前の 1914 年 8 月末 東部戦線でドイツ第八軍がロシア軍に大勝した ( タンネンベルクの戦い ) この戦闘は第八軍司令官ヒンデンブルク元帥を国民的英雄にまつりあげる結果をもたらしたが 大戦全体における戦局転換を促す性格のものではなかった (3) 主攻防戦と新兵器の登場 4 年 3か月という長期に及ぶ戦闘は数々のエピソードを残していく しかし これに深入りするのがわれわれの目的ではない マルヌの戦い以外に 将来の戦闘のあり方に影響を与える 3つの戦いだけを述べるにとどめたい 一つはヴェルダン攻防戦 (1916 年 2~12 月 ) である これは仏独が死闘を演じ 同盟国軍と連合国軍の合計で 70 万を超す死者を排出した戦いとなった ペタン元帥率いる仏軍はヴェルダン要塞の死守に成功した もう一つの戦いは ほぼ同じ時期に北フ 8

ランスで戦われたソンムの戦いである ここでは仏軍よりも英軍が中心となって独軍と死闘を演じ 三者ともに甚大な死傷者を排出した 三つめはロシア軍が独 墺軍に対し最後の大攻勢をかけた戦い (1916 年 6 月 ~9 月 ) である これをブルシーロフ攻勢と呼ぶ この戦いは連合国側に味方してルーマニアの参戦を促したのと同時に ヴェルダンへの独軍の圧力を減じる役割を果たした この戦いで力尽きたロシアは退勢一方となり 翌年春の戦線離脱を余儀なくされる ( ブレストリトフスク条約 ) そして その半年後にロシア革命が起こる まず ヴェルダン攻防戦 西部戦線は 1914 年 9 月のマルヌの戦いののち戦線が膠着して 1 年半が経過 フランスは消耗の極致に達していると早合点したドイツ軍は ここで決戦を挑むべく攻撃目標をパリに絞る その進撃の一大障害となっていたヴェルダン要塞の攻略をめざした 最初 ドイツが優勢となった局面もあったが 峡谷沿いの各所に張り巡らされた洞窟要塞に籠って戦う仏軍を撃破することはできなかった 洞窟の中にまで鉄道線が引き込まれ ここへの物資補給と兵員輸送が自由自在におこなわれていたのだ [ 注 ] このヴェルダン攻略の失敗が大戦の帰趨を決めることになった [ 注 ] 鉄道を使っての軍事輸送は普仏戦争でおこなわれたが 第一次大戦では後方から前線に向かっての輸送はうまく運んだが 自動車がないため鉄道駅から先は馬車に拠らざるをえず 結局はのろい前進に結果した ソンムの戦いはフランス北西部のソンム川沿いで展開された激戦で この戦線を突破すべく英仏がしかけた戦いだが 二月に始まっていたヴェルダン要塞攻略の気勢をそぐ役割を果たした以外 戦線突破につながらなかった (4) 新兵器の登場この戦いでは毒ガス 飛行船 飛行機 戦車 潜水艦が初登場した 初めて毒ガスを使ったのはドイツ側でベルギーのイープルの戦いでイギリス軍めがけて投入した ( イペリット弾 1915 年 4 月 ) 効果的に見えたが ガスは風向きに左右されるわけで そうなると自軍に被害が出た その後 敵味方双方がガスマスクを入手するにつれ その結果は歩兵への負担を増大させ それゆえ 進撃の速度を一段と弛める方向に作用した つまり 攻撃側は前進するや否や 敵によるガス攻撃を防ぐためにガスマスクをつけなければならない とは 以前にはだれも考えなかった 戦線膠着もここに原因がある また 翌 16 年 9 月 イギリス軍は同年 1 月から試作を始めていた戦車 18 台を戦場に送り込んだ 仏軍は 17 年 独軍は 18 年になって戦車を投入した 戦車の投入に驚愕した独軍は忽ち浮足立ったが この戦車は故障しがちであり 溝に嵌るとなかなか脱出できないという代もので しかも速度がのろいのが欠点だった 心理的効果以外にそれほど活躍しなかった 戦車の効用は歩兵を背後に隠しながら前進できるのと 鉄条網などの障害物を排除できる点にあった 飛行機は主に敵情査察のために使われたが 敵機と遭遇した場合 時ならぬ空中戦となったが それは操縦士どうし ( 複数の搭乗員は乗せられない ) の拳銃での撃ちあいやレンガや工具の投げあいに終始 木製の飛行機は軽すぎて爆弾をあまり運べなかった イギリス本土爆撃は 1915 年 飛行船ツェッペリン号によっておこなわれた 飛行 9

船は図体が大きく かなり多量の爆弾を積載できたが その図体の大きいことが敵による砲撃の恰好の標的となり ほとんどが撃ち落とされた やがて 爆撃機と交代する イギリス人はそれまで直に戦争を経験したことがなかった 世論は敵パイロットに対する報復やその公開処刑さえも要求した 夜には全国に灯火管制がおこなわれ 侵入機が一機でも見えると 仕事は一斉休業となった その実害は後世に照らすと微々たるものだった 戦争の全体を通じて空襲で命を落としたイギリス人の数は 1,100 人ほどだった ドイツはほかにも新しい工夫を凝らしたが その策は自国にとって極めて危険なものとなった U ボートつまり潜水艦である それもまた その有用性が予見されていたのではない ドイツとイギリスの提督たちのどちらも潜水艦を主力艦隊の補助艦として あるいは偵察用として あるいは敵艦の進路を妨害する船と理解していた 彼らは 潜水艦が商船に対して使用されるとは思いもしなかった 生まれたばかりの U ボートは航行距離が短かった 特にドーヴァー海峡が封鎖され スコットランドの北を回らなくてはならなくなると イギリス諸島の封鎖を続行することができなくなった 海上の戦艦と違い U ボートは予め警告を発したり 沈めようとする船の船員や乗客を移動させたりができなかった これがドイツの蛮行に対する強い非難の声を生み出し 不幸にもドイツに政治的効果をもたらすことになった ドイツ最大の一撃は 定期船 ルシタニア号 を撃沈したことである これによって無実のアメリカ人乗客百人が溺死した これでもってアメリカ世論は激昂し アメリカを連合国側に加担しての参戦に誘い込んだ このように 戦争の最中に軍事技術が発展をするのも第一次大戦の特徴といえる (5) 秘密外交の所産第一次大戦を最後に姿を消すのは秘密条約である 諸政府間に秘密裡に結ばれて 自国民および他国に知らされない条約を秘密条約という 歴史的にみると 諸国間の外交を国民の前に明らかにしなければならないということは一般的に考えられていなかった 外交が君主間の取引であった時代から やがて政治家 官僚 外務省などの手に移っても同じだった その秘密外交を駆使したのがビスマルクである 1879 年の独墺同盟が最初だが この同盟は 1887 年に公表された 1882 年の三国同盟 1887 年の独露間の再保障条約も秘密条約であった 1892~94 年の露仏同盟の成立も秘密にされた 秘密条約が多く結ばれて その公表が国際政治のうえで重要な意味をもったのは第一次大戦中 特にイギリスの戦勝後の領土拡大のために多くの秘密条約を結び 諸国 諸民族を自己の陣営に誘い 連合国の結束を固めようとした 秘密条約の主なものとしては英 仏 露間のコンスタンティノープル協定 (1915 年 3 月 ) 英 仏 露 伊間のロンドン協定 (1915 年 4 月 ) 英 仏 露間のサイクス ピコ協定 (1915 年 5 月 ) 英 仏 伊間のサン ジャン ドモーリエンヌ協定 (1917 年 4 月 ) がある これらによってトルコ帝国は英 仏 露 伊の間で分割されることになる 秘密外交で現在まで影を落としているのは中東の分割である 要するに アラブ人とユダヤ人の双方から加勢を得ようとした協商国側がどちらにも良い顔を向け 矛盾する約束をおこなったのである 一つは アラブ人のオスマン帝国からの独立を支持するフサイン = マクマホン協定 (1916 年 3 月 ) であり もう一つはユダヤ人の戦争協力と取 10

りつけるためのバルフォア宣言 (1917 年 11 月 ) である 大戦勃発当初 同盟国側で戦っていたのはドイツとオーストリアの 2 国だけだった それから 3 か月後にオスマン帝国がこれに加わる オスマン帝国が参戦に踏み切るにあたって ダーダネルス海峡に入り込んでオスマン帝国に圧力を加えたドイツの巡洋戦艦ゲーベンス号と軽巡洋艦ブレスラウ号が大きな役割を果たしている オスマン帝国以上に各国の注目を浴びたのはイタリアである イタリアはもともと三国同盟の一員であり 大戦勃発と同時に同盟国の一員として参戦してもよかった イタリアがすぐに参戦しなかったのは 協商側 ( 後の連合国側 ) はイタリアに対して領土的拡大 ( 南チロル ダルマチア イストリア 軍港バロナ ) を参戦の代償として与える約束 (1915 年 4 月のロンドン密約 ) をしていたからだ かくて イタリアは同年 5 月 協商国側に加わって参戦した しかし イタリアは奇妙なことに対オーストリアには宣戦布告は出したものの ドイツに対しては 1 年 3 か月後の 16 年 8 月末になってようやく布告を出す オーストリア軍は弱体であるにもかかわらず 北部イタリアで戦線膠着状態のまま北上することができない 北上どころか 17 年 7 月末にカポレットの戦いでドイツ軍の増援を受けたオーストリア軍に大敗を喫してしまう 反対に 同盟国側に味方して参戦したブルガリアも事情は似ている ブルガリアは 第二次バルカン戦争 (1913 年 ) によりセルビアに奪われたマケドニアを奪い返す執念に燃えていた 協商国側 特にロシアはセルビアを説得してマケドニアをブルガリアに与えよと説得したが セルビアはこれを渋る その結果 同盟国側のほうがマケドニアを与えると約束した こうしてブルガリアが参戦するのである 隣国どうしはしばしば離反し 逆の行動をとりがちである ブルガリアの隣国ルーマニがその典型である ルーマニアはもともと対ロシアとの関係で同盟国側に加わっていたが 大戦勃発当初は中立を維持した そこで 同盟国側と協商国側の秘密外交による誘い込みが始まる ルーマニアはこの エサ を比較検討したうえで協商国側に加わって参戦した その決心のきっかけとなったのはロシア軍のブルシーロフ攻勢が当初 大きな勝利をおさめたことだった このように イタリア ブルガリア ルーマニアをめぐる各国の駆け引きは大戦中の秘密外交の典型的な所産となった このような古い外交に対して 1917 年のロシア十月革命の後 ソヴィエト政権は外務省の保管庫からいくつかの秘密条約を発見し 直ちに公表した これらの秘密条約は戦勝の際の領土分割に関するもので その暴露は関係諸国 諸民族に大きな衝撃を与えた ソヴィエト政権はきっぱり秘密外交を廃止すると声明した 第一次大戦後の米大統領ウィルソンが発表した 和平十四か条 は秘密外交を廃止すべきことを謳った かくて国際連盟規約に外交協定の連盟への登録を命じた だが この後も実際には秘密外交は止むことなく 1922 年のラッパロ条約や 1939 年の独ソ不可侵条約も秘密にされた 第 6 章 パリ講和会議 大戦直前と最中の各国の政治動向について述べねばならないが その時間的余裕は 11

ない そこで 戦争の終結と講和に移ろう 1918 年 3 月 ドイツ軍は西部戦線で最後の大攻勢を開始したが 途中で力尽き 7 月にイギリス フランス アメリカの連合軍の反撃が開始されると ドイツ側は敗北必至の形勢となった 9 月末にはまずブルガリアが脱落し 10 月にオスマン帝国とオーストリアが脱落する ドイツは 10 月 12 日に ウィルソン十四か条 を受諾する旨をアメリカに通告 11 月 3 日にキール軍港に暴動が発生し ドイツ革命が引き起こされる 革命の嵐の中で皇帝ヴィルヘルム二世は中立国オランダに亡命する かくて 社会民主党のエーベルト臨時政権の名のもとに 11 月 11 日 ドイツは休戦協定に調印し ここに第一次大戦は幕を閉じた 講和会議はパリのヴェルサイユ宮でウィルソン大統領の主宰のもとに 1919 年 1 月から 6 月まで開かれた 講和会議が半年も続いたところに 各国の主張が錯綜したことがあらわれている じっさい 半年でも片づかなかった 1919 年 6 月のヴェルサイユで採択された基本決議は連合国とドイツの間に結ばれた講和条約であり 戦後処理は個別におこなわれたところに特徴がある 16 年 9 月は対オーストリアに対するサン = ジェルマン条約 同年 11 月の対ブルガリアのヌイイ条約 翌 20 年の対トルコに対するセーヴル条約に分けられる これらを総称して ヴェルサイユ体制 と呼ぶ ヴェルサイユ条約は ウィルソン十四か条 が基礎となるはずだったが 戦後の安全保障を訝り ドイツに過酷な主張を譲らないフランスの主張が基調となり 英はそれに引きずられたため 戦後の平和維持をめざすウィルソンの和平構想は頓挫する こうしてドイツに対する過酷な講和条約ができあがり ドイツの代表団はヴェルサイユに呼びつけられ 一切の抗弁なしに調印を迫られた イタリアは戦勝国の一員ではあったが 連戦連敗で勝利に貢献するところが少なかったため ロンドン密約の約束の全部にありつけなかった イタリアの講和条約への不満がムッソリーニのファシズム運動に結果する イタリア以上に強烈なドイツ国民の不満はその 10 年後に発生した世界恐慌でピークに達する それはドイツ経済を直撃し ナチス = ヒトラーの台頭を導いた この条約によってドイツは海外植民地をすべて失い アルザス = ロレーヌをフランスに返還し ヨーロッパにおいて領土を削減された また 第一次大戦の開始における戦争責任を断定され 連合国の損害に対して空前絶後の賠償金の支払いを課された 軍備は厳しく制限され ライン川左岸は非武装地帯として 15 年間連合国側の保障占領の状態に置かれることになった ザール地方は 15 年間国際連盟の管理下に置かれ その後 住民投票により帰属を決めることになった パリ講和会議が専ら連合国の利害によって一方的に運営され この条約によってドイツへの圧迫も厳しかったことから ドイツ人はこれを Diktat( 命令 ) と呼んで 大いに恨んだ これがナチスの利用するところとなったのは周知のとおりだ 1920 年代から 30 年代初頭にかけてライン地帯から連合国が徹兵し 賠償金額も大幅に軽減されるなど 事実上 ヴェルサイユ条約はなし崩し的に修正されていたが ナチス政権が 35 年にヴェルサイユ条約の軍備制限条項を破棄し 翌 36 年にラインラントの非武装地帯を武装化するに及んで事実上 本条約は消滅した 東ヨーロッパについてはウィルソンの提唱した民族自決主義にもとづいて新国家 12

の創設と国境の画定がなされるはずだった オーストリア = ハンガリー帝国は解体され チェコ=スロヴァキアが独立 ポーランドも独立し セルビアはユーゴスラビアに再編されたほか 東ヨーロッパとバルカン半島の国境に大きな改定がなされた ドイツとオーストリアの合邦は禁止された ヴェルサイユ条約は国際連盟と一体的な連関においてとりまとめられている 国際連盟は本来 普遍的な国際機関であるはずだったが アメリカの上院がヴェルサイユ条約を批准せず また アメリカが国際連盟に加盟しなかったため 同連盟は事実上 英 仏の利害の擁護者的な性格を帯びる それにとどまらず ドイツ国民に対し抑圧的性格が強く 復讐主義なニュアンスのナショナリズムを培養するところとなった また ヴェルサイユ条約が定めた東ヨーロッパにおける群小国の成立は ドイツへの包囲網と同時にソヴィエト = ロシアに対する緩衝国的な色合いが強く 元々の和平のための精神 = 民族自決主義の原則に反し 後における紛糾の原因ともなった 第 7 章 大戦の原因論 大戦がヨーロッパに深刻な後遺症をもたらしのはまちがいない その後遺症が第二次大戦の原因をなしたこともほとんど疑問の余地がない しかし 第一次大戦の原因は何であったか? という問いについてははっきりしない たしかに ヴェルサイユ条約の第 231 条 ( 戦責条項 ) で 一方的に ドイツに戦争責任あり と決めつけており それゆえにドイツは 1,320 億マルクという天文学的数値の賠償を強制された もう一つの疑問は 各国政府に戦争への懸念はあったにしても 開戦に踏み切る際の躊躇である そのことが開戦時期のバラバラ状態に連なったのだが さらに どの国も戦争の長期化を予測していなかったという不思議さもある おそらく 7 月 23 日に最後通牒をセルビアに突きつけたオーストリア = ハンガリーでさえ この恫喝によって相手を屈服させることを望んでいたにすぎなかった 同じ躊躇はドイツ皇帝ヴィルヘルム二世にも見られる 従弟のニコライ二世の統べるロシアとの戦争を回避し その一方で対仏戦争を回避する努力を最後まで続けている それにもかかわらず いったん始まった戦争について仲裁者も現われず どの国も歯止めをかけられなかった これをどう見るかの疑問が残る おそらく始まった戦争に火を注ぐ 政府外の何かの力が働いたとしか考えようがない おおざっぱにいうと 連合国側はけしかけられた戦争に対し応戦を余儀なくされ その開戦責任を同盟国側とりわけドイツに負わせようとした しかも こうした論議は戦争が始まってから もっと正確にいうと 戦争末期から あるいは休戦協定から始まってからといえる 一方 戦争責任を押しつけられたドイツ側はこれに反論するため 膨大な外交文書 グローセ ポリティーク 40 巻を根拠に研究にとりかかった キール大学のオットー ベッカー (1885~1946) が代表的な歴史学者である それと並んで イギリスやアメリカの歴史家で大戦原因論の研究を手がけた人々の 13

中からもドイツだけに責任を負わせるのは正しくないとする いわゆる 修正主義者 と言われる一群の歴史家が現われた アメリカのフェイ (1876~1969) 世界大戦の起源 (1928) やイギリスのグーチ (1873~1927) ヨーロッパ外交新史料 (1927) らがその代表格である 戦争終結から 10 年前後も経過しているところに着目したい ところが 第二次大戦後はしばらく あまりに強烈であった第二次大戦の論議に目を奪われ 第一次大戦の戦争についてドイツ側に戦争責任を押しつけるような議論は影を潜めていた しかし 1961 年にハンブルク大学のフリッツ フィッシャーが 世界強国への道 という著書を発表するに及んで 風向きが変わっていく それはフィッシャーが発見した新史料にもとづく議論であり ドイツ側の侵略性を跡づけたのである 彼は 1914 年 9 月 9 日にベートマン ホルヴェーク首相が作成した 九月綱領 といわれる計画においてドイツの好戦性や侵略性は見られる とした しかも その好戦性はワイマール共和国や第二次大戦の外交方針のなかにも一貫して流れている とした これはドイツの内側からの告発であったが その波紋は国際的な広がりを見せ いわゆる フィッシャー論争 として長く学界の主題となった ベートマン ホルヴェークは穏健な政治家という定説があったため 彼に対する真正面からの攻撃は衝撃を与えたのである むろん ベートマン ホルヴェークへの弁護論も現われたが 研究者の関心を大戦前史から大戦そのものへ移動させたという意味でも論争そのものは有意義ではあった 結局は原因を求める際にどこに焦点を当てるかによって 論議は変わっていく たとえば 外交文書に視野を限定すれば 政府 国家間の矛盾の衝突局面しかわからず 各国元首や外交官の能力や責任しか問題になりようがない しかし 視野を拡大し たとえば経済史の分野から出来事に迫れば社会の変貌ぶりが明らかになり それが必然的に引きずる大きなうねりのような流れが明らかになり 既存体制の大転換を迫る要素が浮き出るであろう また 社会史に視野を転じれば それまで受動的態度に終始した民衆動向や彼らを教導したマスコミのあり方が問われるようになるであろう 戦争が一国家における上層の利害関係の解決手段であることをやめ 社会の下層までも動員をかける総力戦となると なおさら その結果は重大なものとなる 特に 19 世紀から 20 世紀にかけてはナショナリズムが猛威を振るった時代である 戦争熱 という不定形の戦争文化にも光を当ててみる必要性があるだろう 最後に 未来のへ影をこの戦争に認めることができる 戦争目的としての民族自決主義に象徴されるように一つは国民主義があった この思想は大戦の直前および最中に徐々に人種純血主義に変わる傾向を見せた 明らかにダーウィニズムの影響である つまり 人種の優劣主義が頭をもたげ その基礎に似非科学的な説明が用いられるようになる それが民衆のショービニズムと結びつくと 勝利絶対主義への願望から独裁者を待望するようになる 戦争の最中にどの国でも政権担当者が独裁者になりはじめた 消耗戦のため どの国も長期の戦争に耐えがたくなり 戦争の早期終結論の希望も起こる 早くも 1916 年末にドイツに休戦論がもちあがっている それにもかかわらず いったん始まった戦争は自律性を帯び 制御装置が故障した自動車のようにブレーキがかからなくなる 消極論を唱えた戦争指導者は民衆的ショービニズムに染まった暗殺者 14

の犠牲になった これほど暗殺が横行した時代もまた珍しい 交戦国の双方がへとへとになるほど疲弊しながら戦いが終結するやいなや 勝った側は敗者に対する報復的な処置をなす 報復は報復を呼び 次の戦争まで僅か 20 年の休養しか与えなかった 終章 第一次大戦の歴史的位置づけ 第二次大戦は第一次大戦なくしてありえなかったと評されるほどに 両者は密接に関連している それは 両大戦において敵 味方の配置構成が大差ないところに見られる そのために 前者が生み出したものが何であったかを検討してみることにし まず国際体制の枠組みから見ていこう [ 注 ] [ 注 ] 木村靖二 第一次世界大戦 ( ちくま新書 2014 年 ) がいちばん簡潔にまとめている 以下は同著に倣ったものである 第一に 第一次大戦はヨーロッパ列強が世界を支配していた国際関係を対等な国家から成るものに転換した それが国際連盟であることは周知のとおりだ 連盟規約に長々と述べられているのは このような惨劇を二度と繰り返さないための取り決める必要からである 大戦後の体制は ヴェルサイユ体制 と呼ばれるが それは国際連盟に体現される体制である つまり それまでのヨーロッパ中心主義から多元的世界への転換が始まったことを意味する 異次元の国家ソ連の加盟という事実に象徴される アメリカは国際連盟そのものには加盟しなかったが その産婆役と乳母の役割は果たした 第二に 国際社会の構成単位が帝国から国民国家に移行したことが挙げられる これは民族自決権が国際社会の基本原理と認められた結果である 大戦はロシア オーストリア オスマン =トルコの3 大多民族国家を解体し 多くの新興の国民国家を出現させた 民族自決権は当面はヨーロッパに限定されていたが 植民地や従属地域の民族運動を刺激するものでもあった この民族自決権が最も影響したのは大英帝国であり それまでは自治領というかたちで帝国に組み込まれていたものが それぞれ自立性を強めていく 敗戦国とされたドイツの例にみられるように 民族主義が軍事力と結びつくと絶大な力となることを実証した これは第二次世界大戦 = 総力戦の予行演習となるものだった さらに オスマン =トルコの解体時に生じたアルメニア人追放に示されるように 国民国家をめざす時に 異民族排除指向が大虐殺を生み出す力となる実例ともなった 既存の国民国家も大戦の経験により その統合力を高めた事実も忘れてはならない 老大国フランスではそれまでの言語不統一により 軍事指揮に支障があったといわれるが 国語の統一化によって一挙にそれが解消されたといわれる 大戦での膨大な数の戦死者は国民に同じ共同体に属しているという意識を育んだ 大戦記念日や記念碑 慰霊塔の存在はこの意識 伝統を民衆次元にまで植えつけることになった そして 忘れてはならないのは 民族自決権にもとづく国民国家が以後 国際的に 15

普遍化し 安定した存在になったことである それは その時に誕生した諸国家と国境線が基本的に現在でも継続している事実に示される 一方 列強によって無理やり国境線を引かれた地域 ( 非ヨーロッパだが ) では今でも葛藤 紛争を続けている そうした地域にはもともと国境という概念が欠如していたことも作用しているが 第三に 大戦は国民国家に二つの内容を与えた その一つは政治への国民参加である 大戦下の国家総力戦の動員により国民各層に強制的に国家への奉仕が求められるようになると 義務の平等と権利の不平等 という問題意識をひろげ 現実への不満が大衆の間にひろまる 兵役 労役 納税などは平等に課されるのに対し 選挙権が不平等である こうした不満がロシア オーストリア ドイツで革命として爆発した これが戦後における国民参加型国家 大衆参加型の国家への移行を促し ドイツやイタリアでの全体主義国家を誕生させる下地となったのは歴史の皮肉といえよう これに関連し 大戦が与えたもう一つの性格は 民主化と連動することによって国家の福祉化ないしは社会国家化である 前者の代表格はイギリス 後者はドイツである 国民を動員する以上 国家は動員された者の家族の負担を軽減し たとえば 出征兵士の家族や戦死者遺族の生活を保証しなければならない 食糧配給制も国家による消費統制だが 家賃の凍結などは最初こそ一時的処置であったが やがて制度化されるようになる 国民の側も恩恵ではなく 権利として国家の保護や補償を求めるようになる それを法的に体系化して示したのがワイマール憲法であった 現在の視点からみればいかにも不完全であっても それはやはり福祉国家への一歩である 第四に 大戦はそれまでの近代文明の先導者としてのヨーロッパの地位を押し下げた 人権 自由主義 民主主義 平等 進歩の道を約束してきたヨーロッパという発信地が大殺戮と大破壊の舞台となったという事実だけでも ヨーロッパの威信を揺るがせ その信用を失わせるに十分だった これは翻ってヨーロッパの近代や歴史への懐疑を招き寄せ 非ヨーロッパ社会において ヨーロッパ近代文明を版型として崇める方式をとりやめる方向に作用した 戦争を戦いぬいたヨーロッパ人においても それまで自由主義と民主主義の推進役を果たしてきた青年層が大量に戦死し ( 戦死者の 7 割が 20~24 歳の青年 ) 特にエリート層ほど戦死率は高かった 大戦後の社会でこのエリート予備軍の減少により 新しいエリート層の活力が失われ 代わって新たに大衆的指導者が台頭するにいたった 第五に 戦争がもたらした負の遺産 つまり 不幸の結果は次の不幸の原因となっていく 第一次大戦は 戦敗国はむろん 戦勝国にも多くの慚愧の念を残し それが次の報復戦ないしは決着戦を用意した ここで注視しなければならないのは 戦後において報復戦を唱えた者は復員兵ではなく 焼け跡世代に属する青年層である 復員兵は ちょうど第二次大戦後のわが国日本においてそうであったように むしろ平和希求に走る者が多かった 報復を唱える者は第一次大戦時に年少であった者で 多感な彼らは戦後の扇動活動に踊らされ 進んでナチ突撃隊に加盟するのである また 大戦という巨大な暴力装置を経験した国民は事の決着を暴力でつけようとする風潮に呑み込まれる 国内の政敵や反体制派を暴力でたじろがせ 国際紛争でも軍事手段による決着をつけようとする思考を高めた (c)michiaki Matsui 2015 16