巻頭図版1鹿児島紡績所跡1トレンチ検出遺構

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1 鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書 (172) 近代化産業遺産群報告書作成事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書 かごしまぼうせきしよあと鹿児島紡績所跡 ( 鹿児島市吉野町 ) ぎおんのすほうだいあと祇園之洲砲台跡 ( 鹿児島市清水町 ) てん天 ぽ保 ざん山 ほう砲 だい台 あと跡 ( 鹿児島市天保山町 ) 年 3 月 鹿児島県立埋蔵文化財センター

2 巻頭図版1鹿児島紡績所跡1トレンチ検出遺構

3 巻頭図版2鹿児島紡績所跡2トレンチ布基礎

4 巻頭図版3鹿児島紡績所跡3トレンチ切石布基礎 坪地業

5 巻頭図版4祇園之洲砲台跡祇園之洲砲台跡 6 トレンチ検出遺構

6 巻頭図版5祇園之洲砲台跡祇園之洲砲台跡検出遺構チキリ石と胸墻の土塁

7 巻頭図版6天保山砲台跡荷揚場

8 巻頭図版7天保山砲台跡天保山砲台跡 7 トレンチ検出軌条 天保山砲台跡 4 トレンチ検出軌条

9 巻頭図版8古写真明治 5 年の磯地区尚古集成館蔵 明治 5 年の鹿児島港尚古集成館蔵

10 序 文 この報告書は, 近代化産業遺産群世界遺産登録推進事業に伴って, 平成 22 年度に実施した鹿児島市に所在する鹿児島紡績所跡 祇園之洲砲台跡 天保山砲台跡の発掘調査の記録です 鹿児島紡績所跡では, 集成館事業の一環として建設された, 日本初の洋式紡績工場 鹿児島紡績所 の基礎部分と思われる遺構が発見され, 当時の建物の構造を知る手がかりとなるものと期待されます 祇園之洲砲台跡と天保山砲台跡では, 薩英戦争時の砲台に関連する遺構が発見されました 祇園之洲砲台跡では, 戦闘の激しさを物語る石垣や砲座の硬化面が発見されました 天保山砲台跡では, 砲座部分の石組が検出されました いずれも, 幕末の台場の構造を知る有用な情報を得ることができました 本報告書が, 県民の皆様をはじめとする多くの方々に活用され, 埋蔵文化財に対する関心とご理解をいただくとともに, 文化財の普及 啓発の一助となれば幸いです 最後に, 調査に当たりご協力いただいた鹿児島市教育委員会,( 株 ) 島津興業, 関係各機関及び発掘調査に従事された地域の方々に厚くお礼申し上げます 平成 24 年 3 月 鹿児島県立埋蔵文化財センター 所長寺田仁志

11 ふりがな 報告書抄録 かごしまぼうせきじょあと ぎおんのすほうだいあと てんぽざんほうだいあと 書名鹿児島紡績所跡 祇園之洲砲台跡 天保山砲台跡 副 書 名 シリーズ名 鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書 シリーズ番号 第 172 集 編集者氏名 西園勝彦, 楸田岳志 編集機関 鹿児島県立埋蔵文化財センター 所 在 地 鹿児島県霧島市国分上野原縄文の森 2 番 1 号 発行年月日 212 年 3 月 31 日 ふりがなふりがなコード調査北緯東経調査期間面積所収遺跡名所在地市町村遺跡番号m2 かごしまぼうせきじよあと 鹿児島紡績所跡 ぎおんのすほうだいあと 祇園之洲砲台跡 てんぽざん天 ほうだいあと 保山砲台跡 かごしまけん鹿児島県 かごしまし鹿 確認調査 児島市 ~ 14 よしのちよういそ吉野町磯 かごしまけん鹿児島県 確認調査 かごしまし鹿 児島市 ~ 212 しみずちよう清水町 かごしまけん鹿児島県 確認調査 かごしまし鹿 児島市 ~ 398 てんぽざんちよう天保山町 発掘原因 保存目的調査 所収遺跡名種別主な時代主な遺構主な遺物特記事項 かごしまぼうせきじよあと 鹿児島紡績所跡生産遺構近世 ぎおんのすほうだいあと 祇園之洲砲台跡戦跡遺構近世 てんぽざん天 ほうだいあと 保山砲台跡戦跡遺構近世 石垣, 坪地業, 緑青の三和土, 切石布基礎 土塁, 石垣, 砲座の硬化面, 石列 土塁, 石垣, 砲座石畳 染付, 薩摩焼, 窯道具桟瓦, 耐火レンガ, 鞴の羽口銅製品, 寛永通宝, 琉球通宝 染付, 陶器, 薩摩焼, 壷屋焼, 瓦寛永通宝, 鉄製品 染付, 陶器, 薩摩焼, 瓦, 鉄製品 遺跡の概要 鹿児島紡績所跡 鹿児島紡績所は, 薩摩藩第十二代藩主島津忠義によって 1867( 慶応三 ) 年に建設された日本で最初の洋式機械紡績工場である 正確な位置などが不明だったが, 今回の発掘調査で紡績所の建物の基礎と考えられる遺構が発見された また, 幕末の 3 時期にわたる遺構が検出された 祇園之洲砲台跡 西欧の進んだ科学技術を積極的に導入する契機となったのが 1863( 文久三 ) 年の 薩英戦争 である 祇園之洲砲台は, 生麦事件の交渉で圧力をかけにきたイギリス艦隊に砲撃を加え, 激戦地となった場所である 今回の発掘調査で, 薩英戦争当時の石垣や砲座 土塁などが広く残存していることが確認された また, 石垣 土塁を 薩英戦争前につくられたもの と, 戦争後に改修されたもの に分けて捉えることもできた 天保山砲台跡 天保山砲台は,1863( 文久 3) 年の 薩英戦争 でイギリス艦隊と砲撃戦を交えた場所で, ここからの砲撃で戦いの火ぶたが切られたと言われている 天保山砲台跡では, 半円形に 2 列の敷石が敷かれた軌条を 2 基検出した この敷石には, 轍が確認できる また, 甲突川に向かって下る石畳 ( 荷揚場 ) を検出した

12 遺跡位置図 (1 25,) 1/25,

13 例言 凡例 1 本書は, 九州 山口近代化産業遺産群発掘調査事業に伴う鹿児島紡績所跡 祇園之洲砲台跡 天保山砲台跡の発掘調査報告書である 2 鹿児島紡績所跡は鹿児島県鹿児島市吉野町磯に, 祇園之洲砲台跡は鹿児島県鹿児島市清水町に, 天保山砲台跡は, 鹿児島県鹿児島市天保山町に所在する 3 発掘調査及び報告書作成 ( 整理作業 ) は, 県企画部世界文化遺産課から鹿児島県教育委員会が依頼を受け, 鹿児島県立埋蔵文化財センターが担当した 4 発掘調査は平成 22 年度に実施し, 整理 報告書作成は平成 23 年度に実施した 5 掲載遺物番号は, 各遺跡ごとの通し番号とし, 本文 挿図 表 図版の番号は一致する 6 挿図の縮尺は, 挿図ごとに示した 7 本書で使用した方位はすべて磁北である 8 発掘調査における図面作成の一部は, 有限会社ジパングサーベイに委託した 9 発掘調査における写真の撮影は, 調査担当者が行った 1 遺構図等の作成及びトレースは, 楸田岳志が整理作業員の協力を得て行った 遺構図等のトレースの一部は, 有限会社ジパングサーベイに委託した 11 出土遺物の実測 トレースは, 西園勝彦が整理作業員の協力を得て行った 12 遺物の写真撮影は, 西園が行った 13 本書の編集は西園 楸田が担当し, 執筆分担は次の通りである 第 1 章 ~ 第 2 章 楸田第 3 章第 1 節 ~ 第 4 節, 第 6 節 楸田第 5 節 内山第 4 章 ~ 第 5 章 西園第 6 章第 1 節 楸田第 2 節 西園第 3 節 世界文化遺産課 14 本報告書に係る出土遺物及び実測図 写真等の記録は, 鹿児島県立埋蔵文化財センターで保管し, 展示 活用する予定である なお, 遺物注記等で用いた遺跡記号は, 鹿児島紡績所跡は B J, 祇園之洲砲台跡が GS, 天保山砲台跡が TP である 1 基準方位は磁北であり, レベルは海抜絶対高である 2 使用した土色は 新版標準土色帳 24 年版 ( 農林水産省農林水産技術会議事務局監修 ) に基づく ただし, 陶磁器の胎土の色調や釉調については, 標準土色帳 を基準としながら, 一般的な色調感も加味して表現した 3 遺構 遺物実測図の縮尺は, 挿図中に記した 4 本書で用いる遺構の表現については次の通りである 緑青 焼土 5 本書で用いる遺物の表現については次の通りである 緑青 漆喰 煤 6 本書で用いる近世以降の陶磁器についての基本的な名称, 及び表現方法は次の通りである 名称 A 口唇部 B 口縁部 C 体部 D 腰部 E 高台脇 F 畳付 G 高台内面 表現 a 口唇部, 畳付の釉剥ぎ位置 b 見込み蛇ノ目釉剥ぎ部 c 一次施釉ライン d 二次施釉ライン

14 本文目次 巻頭カラー序文報告書抄録例言凡例目次第 1 章発掘調査の経過第 1 節発掘調査に至るまでの経緯 1 第 2 節確認調査 1 第 3 節整理 報告書作成 2 第 2 章 九州 山口の近代化産業遺産群 の概要第 1 節 九州 山口の近代化産業遺産群 の概要 3 第 2 節鹿児島県内の構成資産 3 第 3 章鹿児島紡績所跡第 1 節遺跡の位置と環境 5 1 地理的環境 2 歴史的環境第 2 節発掘調査の方法 9 1 発掘調査の方法 2 整理作業の方法第 3 節層序 9 第 4 節発掘調査の成果 11 第 5 節自然科学分析 38 第 6 節調査総括 4 第 4 章祇園之洲砲台跡第 1 節遺跡の位置と環境 43 1 地理的環境 2 歴史的環境第 2 節発掘調査の方法 45 2 整理作業の方法第 3 節層序 45 第 4 節発掘調査の成果 46 第 5 節調査総括 67 第 5 章天保山砲台跡第 1 節遺跡の位置と環境 71 1 地理的環境 2 歴史的環境第 2 節発掘調査の方法 73 2 整理作業の方法第 3 節層序 73 第 4 節発掘調査の成果 74 第 5 節調査総括 93 第 6 章総括第 1 節鹿児島紡績所の位置 97 第 2 節薩英戦争時の薩摩藩の砲台について 99 第 3 節英文サマリー 13 写真図版附編鹿児島紡績所について薩摩藩の砲台整備事業 鹿児島紡績所跡第 1 図構成資産候補一覧 4 第 2 図周辺遺跡地図 8 第 3 図鹿児島紡績所跡周辺地形図及びトレンチ配置図 1 第 4 図 1 トレンチ土層断面図 12 第 5 図 1 トレンチ検出遺構 1 及び出土遺物 13 第 6 図 1 トレンチ検出遺構 2 及び出土遺物 14 第 7 図 1 トレンチ出土遺物 1 16 第 8 図 1 トレンチ出土遺物 2 17 第 9 図 1 トレンチ出土遺物 3 18 第 1 図 1 トレンチ出土遺物 4 19 第 11 図 1 トレンチ出土遺物 5 2 第 12 図 1 トレンチ出土遺物 6 21 第 13 図 2 トレンチ土層断面図 23 第 14 図 2 トレンチ検出遺構 23 第 15 図 2 トレンチ出土遺物 1 24 第 16 図 2 トレンチ出土遺物 2 25 第 17 図 2 トレンチ出土遺物 3 26 第 18 図 3 トレンチ土層断面図 27 第 19 図 3 トレンチ検出遺構 1 28 第 2 図 3 トレンチ検出遺構 2 29 第 21 図 3 トレンチ遺構内出土遺物 3 第 22 図 3 トレンチ出土遺物 1 31 第 23 図 3 トレンチ出土遺物 2 32 第 24 図 3 トレンチ出土遺物 3 33 第 25 図蛍光 X 線分析結果 39 第 26 図各トレンチの検出遺構のレベル比較 41 第 27 図鹿児島紡績所跡遺構の軸線 42 挿図目次 祇園之洲砲台跡第 28 図鹿児島城下屏風絵図 43 第 29 図旧薩藩御城下絵図 43 第 3 図薩州見取絵図 43 第 31 図周辺遺跡地図 44 第 32 図祇園洲臺場圖 45 第 33 図祇園之洲砲臺之圖 46 第 34 図祇園之洲砲台跡周辺地形図及びトレンチ配置図 47 第 35 図 1 2 トレンチ土層断面図 48 第 36 図 1 トレンチ検出遺構 49 第 37 図 2 トレンチ検出遺構 49 第 38 図 1 トレンチ出土遺物 5 第 39 図 3 トレンチ土層断面図 51 第 4 図 3 トレンチ検出遺構 51 第 41 図 3 トレンチ出土遺物 52 第 42 図 4 トレンチ土層断面図 54 第 43 図 4 トレンチ検出遺構 54 第 44 図 4 トレンチ出土遺物 54 第 45 図 6 7 トレンチ土層断面図 55 第 46 図 6 7 トレンチ検出遺構 1 56 第 47 図 6 7 トレンチ検出遺構 2 57 第 48 図 6 7 トレンチ下層確認断面図 57 第 49 図 6 7 トレンチ出土遺物 58 第 5 図 トレンチ周辺図 6 第 51 図 8 トレンチ土層断面図及び検出遺構 6 第 52 図 8 トレンチ出土遺物 6 第 53 図 11 トレンチ検出遺構 61 第 54 図 12 トレンチ検出遺構 61 第 55 図 9 トレンチ土層断面図及び検出遺構 62 第 56 図 1 トレンチ土層断面図及び検出遺構 63 第 57 図 9 トレンチ出土遺物 64 第 58 図 1 トレンチ出土遺物 1 65 第 59 図 1 トレンチ出土遺物 2 66 第 6 図祇園之洲砲台跡残存範囲 67 第 61 図鹿児島市調査の遺構位置図 68 第 62 図鹿児島市調査の遺構図 1 69 第 63 図鹿児島市調査の遺構図 2 69 第 64 図明治 5 年撮影の鹿児島港古写真部分拡大 7 第 65 図 祇園洲砲臺之圖 薩藩砲臺圖稿本 部分拡大 7 第 66 図祇園之洲砲台跡東側現状写真 7 天保山砲台跡第 67 図向江船手略図 71 第 68 図薩英戦争絵巻 71 第 69 図旧薩藩御城下絵図 72 第 7 図川尻訓練場 ( 天保山 ) 臺場圖 72 第 71 図砂揚場臺場之圖 73 第 72 図天保山砲台跡周辺地形図 74 第 73 図天保山砲台跡トレンチ配置図 75 第 74 図 1 2 トレンチ検出遺構 1 76 第 75 図 1 2 トレンチ検出遺構 2 77 第 76 図 2 トレンチ土層断面図 78 第 77 図 3 トレンチ土層断面図及び検出遺構 79 第 78 図 3 トレンチ出土遺物 81 第 79 図 4 トレンチ土層断面図 82 第 8 図 4 トレンチ出土遺物 82

15 第 81 図 4 トレンチ検出遺構 83 第 82 図 5 トレンチ土層断面図 84 第 83 図 6 トレンチ土層断面図 84 第 84 図 5 トレンチ検出遺構 85 第 85 図 5 トレンチ出土遺物 85 第 86 図 7 トレンチ土層断面図 87 第 87 図 7 トレンチ検出遺構 1 88 第 88 図 7 トレンチ検出遺構 2 89 第 89 図 7 トレンチ出土遺物 1 89 第 9 図 7 トレンチ出土遺物 2 9 第 91 図 8 トレンチ土層断面図 91 第 92 図 8 トレンチ出土遺物 91 第 93 図 トレンチ土層断面図 92 第 94 図遺構位置推定図 93 第 95 図天保山砲台跡 94 第 96 図明治 4 年代の地図 94 第 97 図残存範囲図 95 第 98 図良好な残存範囲 95 第 99 図砲台各部位の名称 96 第 1 図鹿児島紡績所の推定位置 98 第 11 図松ヶ瀬台場跡検出遺構 1 12 第 12 図松ヶ瀬台場跡検出遺構 2 12 表 1 鹿児島県内の近代化産業遺産群発掘調査遺跡 3 表 2 鹿児島紡績所跡周辺遺跡地名表 7 表 3 鹿児島紡績所跡の基本層序 9 表 4 出土遺物観察表 33 表 5 蛍光 X 線分析結果 39 表 6 祇園之洲砲台跡周辺遺跡地名表 44 表目次 表 7 祇園之洲砲台跡の基本層序 45 表 8 1 トレンチ出土遺物観察表 51 表 9 3 トレンチ出土遺物観察表 53 表 1 4 トレンチ出土遺物観察表 55 表 トレンチ出土遺物観察表 58 表 12 8 トレンチ出土遺物観察表 6 表 13 9 トレンチ出土遺物観察表 64 表 14 1 トレンチ出土遺物観察表 66 表 15 祇園之洲砲台跡調査成果 67 表 16 天保山砲台跡の基本層序 73 表 トレンチ出土遺物観察表 81 表 18 5 トレンチ出土遺物観察表 84 表 19 7 トレンチ出土遺物観察表 9 表 2 8 トレンチ出土遺物観察表 91 表 21 天保山砲台跡調査成果 95 郡元水車館 149 郡元水車館, 大幅織機図 149 舶来大砲図 142 百五十ポンドボンカノン砲 141 附編中挿図 キスト砲架の大砲 137 弁天波止砲台図 137 新波止砲台 136 祇園之洲砲台 135 薩英戦争時のイギリス艦隊の進路 131 写真 1 発掘調査状況 2 写真 2 整理作業状況 2 写真 3 建設中の鹿児島紡績所 6 写真 4 明治 35 年頃の磯地区 6 本文中写真目次 写真 5 1 トレンチ土層断面 9 写真 6 2 トレンチ土層断面 9 写真 7 3 トレンチ土層断面 9 写真 8 土壌試料画像 38 写真 9 明治 7 年頃の磯地区 97 写真 1 明治 7 年頃の鹿児島紡績所 97 巻頭図版 1 鹿児島紡績所跡 1 トレンチ巻頭図版 2 鹿児島紡績所跡 2 トレンチ巻頭図版 3 鹿児島紡績所跡 3 トレンチ巻頭図版 4 祇園之洲砲台跡巻頭図版 5 祇園之洲砲台跡巻頭図版 6 天保山砲台跡巻頭図版 7 天保山砲台跡巻頭図版 8 古写真 図版 1 鹿児島紡績所跡 1 トレンチ図版 2 鹿児島紡績所跡 1 トレンチ図版 3 鹿児島紡績所跡 1 トレンチ鹿児島紡績所跡 2 トレンチ 図版目次 図版 4 鹿児島紡績所跡 3 トレンチ図版 5 鹿児島紡績所跡 1 トレンチ遺物図版 6 鹿児島紡績所跡 1 トレンチ遺物図版 7 鹿児島紡績所跡 1 トレンチ遺物図版 8 鹿児島紡績所跡 2 トレンチ遺物図版 9 鹿児島紡績所跡 2 トレンチ遺物図版 1 鹿児島紡績所跡 3 トレンチ遺物図版 11 祇園之洲砲台跡 1 2 トレンチ図版 12 祇園之洲砲台跡 3 4 トレンチ図版 13 祇園之洲砲台跡 6 7 トレンチ図版 14 祇園之洲砲台跡 トレンチ図版 15 祇園之洲砲台跡 トレンチ図版 16 祇園之洲砲台跡 9 1 トレンチ 図版 17 祇園之洲砲台跡遺物図版 18 祇園之洲砲台跡遺物図版 19 祇園之洲砲台跡遺物図版 2 天保山砲台跡 1 2 トレンチ図版 21 天保山砲台跡 4 トレンチ図版 22 天保山砲台跡 7 トレンチ図版 23 天保山砲台跡 トレンチ図版 24 天保山砲台跡その他のトレンチ図版 25 天保山砲台跡遺物図版 26 天保山砲台跡遺物

16 第 1 章発掘調査の経過 第 1 節発掘調査に至るまでの経緯平成 21 年 1 月にユネスコの世界遺産暫定一覧表へ記載された 九州 山口の近代化産業遺産群 は, 世界文化遺産登録に向けて取り組みを進めているところである 鹿児島県が会長県, 事務局を務める 九州 山口の近代化産業遺産群 世界遺産登録推進協議会では, 海外専門家 9 名, 国内専門家 7 名からなる専門家委員会での議論をとおして, 平成 2 年度から平成 21 年度にかけて, 構成資産候補の検討を実施したところである 鹿児島県の構成資産候補の調査は, 平成 21 年 1 月 11 日 ( 日 )~1 月 13 日 ( 火 ),2 月 12 日 ( 木 ),4 月 19 日 ( 日 ) の3 回にわたって実施された 3 回の調査を踏まえ, 平成 21 年 1 月に開催された第 4 回専門家委員会において, 鹿児島県の構成資産候補として, 旧集成館, 旧集成館機械工場, 旧鹿児島紡績所技師館の3か所が挙げられた また, 今後の調査を踏まえて構成資産入りを検討する とされたのが, 薩英戦争砲台跡 ( 祇園之洲砲台跡, 天保山砲台跡 ), 関吉の疎水溝, 鹿児島紡績所跡, 寺山炭窯跡 ( いずれも鹿児島市 ) であった これらの提言を踏まえ, 鹿児島県企画部企画課世界文化遺産登録推進室 ( 平成 21 年度当時 ), 鹿児島県教育庁文化財課, 鹿児島市教育委員会文化課の3 者で協議を実施した結果, 平成 21 年度に関吉の疎水溝の測量調査 ( 調査担当, 鹿児島県企画部企画課世界文化遺産登録推進室 ) を, 平成 22 年度に薩英戦争砲台跡, 鹿児島紡績所跡 ( 調査担当, 鹿児島県教育庁文化財課 ), 寺山炭窯跡 ( 調査担当, 鹿児島市教育委員会文化課 ) の発掘調査を実施することとなった 薩英戦争砲台跡, 鹿児島紡績所跡の報告書作成作業は, 県立埋蔵文化財センターが担当することとなり, 平成 23 年度に刊行した る石畳を検出した 調査体制 ( 平成 22 年度 ) 事業主体鹿児島県企画部世界文化遺産課 調査主体鹿児島県教育委員会 調査統括県立埋蔵文化財センター 所 長 山下 吉美 調査企画次長兼総務課長 田中 明成 次長兼南の縄文調査室長 中村 耕治 調査第一課長 長野 眞一 主任文化財主事兼調査第一課第一調査係長兼南の縄文調査室室長補佐 冨田 逸郎 調査担当文化財主事 西園 勝彦 楸田 岳志 調査事務総務係長 大園 祥子 主 査 髙﨑 智博 調査の詳細 ( 日誌抄より ) 鹿児島紡績所跡 5 月 1トレンチ表土剥ぎ, 掘り下げ, 布基礎検出 2トレンチ表土剥ぎ, 掘り下げ 6 月 1トレンチ掘り下げ 2トレンチ 掘り下げ, 硬化面検出, 礫叩き 布基礎 検出 3トレンチ表土剥ぎ, 掘り下げ, 遺構実測 *6 月 2 日発掘調査指導委員会 *6 月 26 日現地説明会 (162 名来跡 ) 7 月 1トレンチ掘り下げ, 遺物取り上げ, 遺構実測 第 2 節確認調査鹿児島紡績所跡の確認調査は, 平成 22 年 5 月 17 日から 7 月 3 日の期間で実施した 古写真 古絵図等を参考にトレンチを3か所設定し,14m2の調査を行った 調査の結果, 鹿児島紡績所とその関連施設のものと思われる建物の基礎部分を検出した 祇園之洲砲台跡の確認調査は, 平成 22 年 9 月 9 日から 11 月 3 日の期間で実施した 古写真 古絵図等を参考にトレンチを13か所設定し,212m2の調査を行った 調査の結果, 薩英戦争時のものと思われる砲台の遺構を検出した 天保山砲台跡の確認調査は, 平成 23 年 1 月 6 日から3 月 11 日の期間で実施した 古絵図等を参考にトレンチを 23か所設定し,398m2の調査を行った 調査の結果, 薩英戦争時のものと思われる砲台の遺構や船着場と思われ 祇園之洲砲台跡 9 月 2トレンチ表土剥ぎ, 掘り下げ, 石列検出 6トレンチ表土剥ぎ, 掘り下げ, 遺物取上 8トレンチ表土剥ぎ, 遺物取上 9トレンチ表土剥ぎ, 遺物取上, 石列検出 1トレンチ表土剥ぎ, 掘り下げ, 石列検出 1 月 2トレンチ掘り下げ 4トレンチ表土剥ぎ, 掘り下げ 5トレンチ表土剥ぎ, 掘り下げ 6トレンチ掘り下げ 7トレンチ表土剥ぎ, 掘り下げ 8トレンチ掘り下げ, 遺物取上, 土層実測 9トレンチ掘り下げ, 遺物取上 -1-

17 1トレンチ掘り下げ, 遺物取上 *1 月 9 1 日海外専門家委員による現地調査 11 月 1トレンチ掘り下げ, 遺構実測, 埋め戻し 2トレンチ掘り下げ, 遺構実測, 埋め戻し 3トレンチ表土剥ぎ, 掘り下げ, 埋め戻し 4トレンチ掘り下げ, 埋め戻し 6トレンチ掘り下げ, 遺物取上, 遺構実測 7トレンチ表土剥ぎ, 掘り下げ, 遺構実測 8トレンチ掘り下げ, 遺物取上 9トレンチ掘り下げ, 遺物取上 1トレンチ掘り下げ, 遺物取上 11トレンチ表土剥ぎ, 掘り下げ, 遺構実測 12トレンチ表土剥ぎ, 掘り下げ, 遺構実測 13トレンチ表土剥ぎ, 掘り下げ, 遺構実測芝張り委託調査区の原状復旧 *11 月 6 日現地説明会 (233 名来跡 ) 天保山砲台跡 1 月安全対策, 表土剥ぎ 1~3トレンチ掘り下げ, 石畳検出 5~7トレンチ掘り下げ 9~ 13トレンチ掘り下げ 2 月 1~3トレンチ掘り下げ 5~7トレンチ掘り下げ 9~ 13トレンチ掘り下げ硬化面確認トレンチ掘り下げ *2 月 1 日 鹿児島紡績所跡他 指導委員会 *2 月 19 日現地説明会 (23 名来跡 ) 3 月遺構実測, 埋戻し作業, 調査区の原状復旧 調査統括県立埋蔵文化財センター 所 長 寺田仁志 調査企画次長兼総務課長 田中明成 次長兼南の縄文調査室長井ノ上秀文 調査第一課長 堂込秀人 文化財主事兼 調査第一課第二調査係長大久保浩二 調査担当文化財主事 西園勝彦 楸田岳志 調査事務総務係長 大園祥子 主 査 下堂園晴美 調査指導鹿児島大学法文学部教授渡辺芳郎 尚古集成館副館長 松尾千歳 鹿児島紡績所跡他 発掘調査指導委員会 11 月 17 日 委員原口泉教授他 4 名 報告書作成指導委員会 11 月 25 日 井ノ上次長他 1 名 報告書作成検討委員会 11 月 29 日 寺田所長他 13 名 第 3 節整理 報告書作成本報告書刊行に伴う整理 報告書作成作業は, 平成 23 年 4 月 ~ 平成 24 年 3 月にかけて, 鹿児島県立埋蔵文化財センターで行った 出土遺物の水洗い, 注記, 接合, 復元, 実測, 遺構のトレース, レイアウト等の編集作業を行った また, 鹿児島大学法文学部渡辺教授に遺物に関する指導を, 尚古集成館松尾千歳副館長には史料 絵図等に関する指導をいただき, 附編を執筆していただいた 整理 報告書作成作業に関する調査体制は以下のとおりである 写真 1 発掘調査状況 作成体制 ( 平成 23 年度 ) 事業主体鹿児島県企画部世界文化遺産課調査主体鹿児島県教育委員会 写真 2 整理作業状況 -2-

18 第 2 章 九州 山口の近代化産業遺産群 の概要 第 1 節 九州 山口の近代化産業遺産群 の概要九州 山口には, 幕末から明治期の日本の近代化の原動力となった製鉄 造船 石炭などの基幹産業に関する産業遺産が数多く残されている これらの産業遺産の一つ一つは, 国内的には価値のあるものだが, それだけでは世界遺産にはならない しかし, これらを一つのコンセプトでまとめ, グループとして評価すると, 世界的な価値が認められる可能性が高い こうして始まったのが, 九州 山口の近代化産業遺産群 の世界遺産登録を目指す活動である では, この 九州 山口の近代化産業遺産群 のコンセプトとはいったい何であろうか それは, 日本の近代化が, 西洋以外の地域で, 初めて, かつ極めて短期間のうちに成し遂げられたという点で世界的に高い価値を持っているということである そして, その中心的役割をはたしたのが九州 山口なのである そのような意味で, 日本の近代化の先駆けであり, 工業立国日本の原点といえるだろう 九州 山口の諸藩は, 古くから, アジア大陸に近いという地理的特性から, 海外との窓口として役割を担ってきた また,19 世紀以降の欧米列強によるアジア進出に際して, 植民地化への危機感を肌身に感じていたのが, この地域なのである このため国防の観点から, 西洋の科学技術を導入して, 軍事力を強化した これが近代化の始まりなのである こうして, 九州 山口の諸藩は近代化を進める日本の先導的な役割を果たしていくことになる この近代化は,1 自力による近代化,2 積極的な技術導入,3 国内外の石炭需要への対応,4 重工業化への転換, という4つのステップをへて進められていくのである こうして, 九州 山口の近代化産業遺産群 は,9 つの候補エリアに3の構成資産候補を数えることになる 1 萩の工業化初期の時代の関連資産と徳川時代の文化風景 2 集成館の先駆的工場群 3 佐賀藩の造船所施設 4 橋野鉱山と製鉄遺跡 5 三菱長崎造船所施設, 炭坑の島, その他関連資産 6 下関砲台跡 7 三池炭坑, 鉄道, 港湾 8 八幡製鐵所 9 韮山反射炉それぞれの構成資産候補については, 次頁の構成資産候補一覧 ( 第 1 図 ) を参考にされたい 第 2 節鹿児島県内の構成資産 九州 山口の近代化産業遺産群 の構成資産候補として, 鹿児島県内では, 日本初の工業コンビナートである集成館事業の工場群が含まれている 具体的には, 旧集成館 旧集成館機械工場 旧鹿児島紡績所技師館があげられている また, 幕末の薩摩藩が近代化を進めるきっかけとなった薩英戦争関連の遺跡として, 祇園之洲砲台跡が構成資産候補としてあげられている 鹿児島県内の構成資産候補の概略は, 下記のとおりである 旧集成館 集成館 とは, 薩摩藩の藩主島津斉彬が建設した近代的な工場群のことである 鹿児島城下の郊外にある磯別邸 ( 仙巌園 ) の隣接地に, 反射炉 ガラス工場 鍛冶場 蒸気金物細工場など多くの工場が建ち並んでいた 現在は, 反射炉跡を遺構として見ることができる 旧集成館機械工場 島津忠義が, 薩英戦争で焼失した工場群を復興していくなかで造らせた洋式機械工場である 日本の近代的工場の建物として最も初期のものである 洋風石造建築であったため, ストーンホーム と当時から呼ばれていた 現在は, 尚古集成館の本館として利用されている 旧鹿児島紡績所技師館 機械工場と同様に, 薩英戦争後に建設された 鹿児島紡績所 のイギリス人技師たちの宿舎である 外観は洋風だが, 柱などの寸法は寸尺法という和洋折衷の建物である 1862( 明治 15) 年に鹿児島城本丸跡に移築され, 1936( 昭和 11) 年に, 再び現在の場所に移築されている 祇園之洲砲台跡 島津斉彬が築造した砲台である 薩英戦争時には, 祇園之洲砲台の沖合に, イギリスの艦船が座礁した このため, それを救おうとしたイギリス艦隊の集中砲火を浴びたといわれている 近年, 構成資産候補として可能性を探るための調査が行われた箇所を下の表にまとめておく 表 1 鹿児島県内の近代化産業遺産群発掘調査 年度遺跡名調査担当 21 関吉の疎水溝 寺山炭窯跡鹿児島紡績所跡祇園之洲砲台跡天保山砲台跡 旧鹿児島紡績所技師館 鹿児島県企画部企画課世界文化遺産登録推進室 鹿児島市教育委員会管理部文化課鹿児島県立埋蔵文化財センター鹿児島県立埋蔵文化財センター鹿児島県立埋蔵文化財センター 鹿児島市教育委員会管理部文化課 -3-

19 4 萩エリア 山口県 集成館エリア 鹿児島県 佐賀エリア 佐賀県 釜石エリア 岩手県 橋野高炉跡及び関連施設 4 三重津海軍所跡 3 旧集成館 旧集成館機械工場 旧鹿児島紡績所技師館 祇園之洲砲台跡 2 萩反射炉 恵美須ヶ鼻造船所跡 萩城下町 大板山たたら製鉄遺跡 松下村塾 1 第1図 長崎エリア 長崎県 構成資産候補一覧 211年6月現在 向島第三ドック 旧鋳物工場併設木型工場 長崎造船所ハンマーヘッド型起重機 占勝閣 小菅修船場跡 高島炭鉱 端島炭鉱 旧グラバー住宅 5 下関エリア 山口県 三池エリア 福岡県 熊本県 八幡エリア 福岡県 韮山エリア 静岡県 Emergence of Industrial Japan:Kyusyu-yamaguchi World Heritage Site より転載 地図は 九州 山口の近代化産業遺産群 専門家委員会 211 推薦書原案 報告書 韮山反射炉 9 旧本事務所 修繕工場 旧鍛冶工場 遠賀川水源地ポンプ室 8 三池炭鉱宮原坑施設 三池炭鉱万田坑 三池炭坑専用鉄道敷 三池港 三角西 ( 旧 ) 港施設 7 前田砲台跡 6

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22 第 3 章鹿児島紡績所跡 第 1 節遺跡の位置と環境 1 地理的環境鹿児島市は鹿児島県中西部, 薩摩半島の北東部に位置する 同市は, 北は薩摩川内市 姶良市に, 南は指宿市 南九州市に, 西は日置市 南さつま市とそれぞれに接し, 東は鹿児島湾 ( 錦江湾 ) に面している 鹿児島市の北東部は, 姶良カルデラの西側壁にあたり, 2~4mの急崖で鹿児島湾に接している 市の西部や南部は, 薩摩半島を南北に走る南薩山地がある この南薩山地から, 丘陵 台地が東側に向かって緩やかに傾斜しており, 低地部そして鹿児島湾へとつながっていく 市内の低地部は, 鹿児島湾へと注ぐ河川 ( 稲荷川 甲突川 田上川 脇田川 永田川など ) によって形成された沖積平野が多く, 河口にはデルタが形成されている 鹿児島紡績所跡は, 鹿児島市吉野町磯に所在する 地形的には, 吉野台地が南側に突出した舌状部の裾野にあたる 南東方向は鹿児島湾に面し, 雄大な桜島を望むことができる 振り返って見ると, 吉野台地の急崖がせまっており, 天然の要害といえよう 鹿児島紡績所跡一帯は, 島津斉彬の集成館事業で中核をなした工場群 集成館 の跡地である 昭和 34 年には, 旧集成館 として国の史跡に指定されている また, 旧集成館 のすぐ隣には旧島津家別邸仙巌園があり, 花倉御仮屋跡とともに, 昭和 33 年に 名勝仙巌園附花倉御仮屋庭園 として指定を受けている さらに, 旧集成館 内に所在する石造建築の機械工場は, 旧集成館機械工場 として重要文化財に指定されている 鹿児島紡績所跡の西側には, イギリス人技師の宿舎として建設された 鹿児島紡績所技師館 があり, こちらも現在は史跡及び重要文化財に指定されている 2 歴史的環境島津家の28 代藩主だった島津斉彬は, 琉球貿易によりもたらされた西洋の綿糸を献上された この糸の出来があまりに美しかったため, 当時繊維工業の本場だった京都の西陣へ送って鑑定させたほどであった 斉彬は, 集成館事業に深く関わっていた蘭学者石河確太郎に, この綿糸と洋書を手渡し, 我国の膏血を絞るものは是れだ, 汝宜しく拮据努力すべし と述べ, 綿糸が将来日本の産業に大きく影響を与えるであろうと予想している 斉彬は, その殖産興業政策である集成館事業の中で, 紡績に力を入れていた そもそも薩摩藩が, 紡績業に本格的に取り組み出したのはなぜだろうか それは, 斉彬が海軍力の整備が必要と考えたからであ る 海外との交易をするにも, 外敵に対する備えにしても, 船が必要だったのである 当時の船は帆船であり, その帆に使う木綿布の自給を目指して, 紡績業に力を入れていったのである こうして, 水車動力を利用した機械紡績の工場が, 郡元 石谷 田上 永吉に 水車館 という名前で建設されていったのである 水車館で使用されていた機織りの機械は, 独自に考案されたものだと考えられている このように集成館事業を進めてきた斉彬だが,185( 安政 5) 年, 事業の半ば5 歳で逝去してしまう 斉彬の死後, その考えを理解する者が少なく, 集成館事業は大幅に縮小されてしまう しかし, 斉彬の弟久光が薩摩藩の実権を握ったころから, 集成館事業の再興の動きが芽生え始めた そして, その動きは薩英戦争後に, さらに大きなものとなっていく 西洋の科学技術を目の当たりにした薩摩藩の人々は, それを導入しようとした斉彬の真意とその先見性を理解したのである 斉彬に重用されていた石河は, 斉彬の遺志を受け継ぎ, 29 代藩主の島津忠義に紡績工場の建設を勧めた 忠義もこれを受け入れ, 大規模な洋式紡績工場の建設を計画した そして,1865( 慶応元 ) 年に, 新納久脩 五代友厚を薩摩藩の留学生とともにイギリスに派遣し, 紡績機械の買い入れと技師を薩摩に招く交渉にあたらせた 当時はまだ鎖国の時代だったので, みな変名を用い, 鹿児島の串木野羽島の浜から出発したという 新納 五代の両名はヨーロッパに7ヵ月滞在し, 各国の産業を視察した そして, 当時世界最大の紡績機械メーカーだった, イギリスのプラット社に技師の派遣や工場の設計を依頼した その設計に基づき, 紡績機械や蒸気機関を購入した 1866( 慶応 2) 年 11 月, イーホームら4 人のイギリス人技師が鹿児島に到着し, 集成館の西隣で紡績工場と技師館の建設が始まった 翌年 1 月には, プラット社製の紡績機械と共に, 工務長のジョン=テットロウら3 人の技師も到着した 1867( 慶応 3) 年 5 月には, 石造平屋建ての工場が完成し, 日本で最初の近代的な紡績工場が生産を始めたのである その後, 鹿児島紡績所は1897( 明治 3) 年まで操業したが, 忠義の逝去もあり, 明治 3 年 1 月に閉鎖されることになる その後, 紡績所の建物は壊されることになるが, 詳細は不明である 一方, 技師館はイギリス人技師が帰国した後は, 大砲製造支配所として使用された時期もあった 1877( 明治 1) 年の西南戦争では, 西郷軍の仮病院にもなっている -5-

23 そして,1882( 明治 15) 年, 旧鶴丸城内に移築され, 鹿児島学校さらに中学造士館 ( 七高造士館 ) の教官室として利用された 1936( 昭和 11) 年, 再び磯の現在地に移築されたため, 戦災をまぬがれている 参考文献 芳即正 塚田公彦 鹿児島県風土記 旺文社,1995 岩元庸造 献上本薩摩の文化 1936 玉川寛治 綿糸紡績技術 産業技術史 山川出版,21 鹿児島県教育委員会 鹿児島県紡績所百年史 1967 鹿児島市教育委員会 鹿児島紡績所跡 D 地点 2 鹿児島市教育委員会 鹿児島市の史跡めぐりガイドブック- 四訂版 写真 3 建設中の鹿児島紡績所 尚古集成館蔵 写真 4 明治 35 年頃の磯地区 尚古集成館蔵 -6-

24 表 2 周辺遺跡地名表 番号遺跡名所在地地形時代遺物等備考 1 集成館跡鹿児島市吉野町磯低地近世 ( 末 ) 建物跡 鍛冶場跡市埋文報 (29) 2 雀ヶ宮 B 鹿児島市吉野町雀ヶ宮丘陵縄文 ( 草 ) 前平式 石坂式 吉田式工事中発見 3 前平鹿児島市吉野町雀ヶ宮前平 4 滝ノ上火薬製造所跡鹿児島市吉野町滝ノ上低地近世市埋文報 (22) 5 清水城跡鹿児島市清水町大興寺岡丘陵中世, 近世陶磁器類市埋文報 (16) 6 大乗院跡鹿児島市稲荷町清水中校庭丘陵中世, 近世排水溝 上水管市埋文報 (3)(6) 7 福昌寺跡 鹿児島市 池之上町玉龍高校一帯 低地 中世 ~ 近世 建物跡 陶磁器類 8 東福寺城跡 鹿児島市 清水町田之浦 丘陵 平安, 中世 曲輪 空堀 9 浜崎城跡 鹿児島市 清水町田之浦 丘陵 中世 市埋文報 (14) (47) 1 祇園之洲砲台跡 鹿児島市 清水町祇園之洲 低地 近世 ( 末 ) 市埋文報 (23) 11 浜町 鹿児島市 浜町 1 低地 近世 暗渠 近世陶磁器 県埋セ報 (25) 12 大龍遺跡群 鹿児島市 -7- 大竜町 池之上町 春日町 段丘 大龍遺跡群 ( 大龍 ) 鹿児島市大竜町段丘 大龍遺跡群 ( 若宮 ) 鹿児島市池之上町段丘 大龍遺跡群 ( 春日町 ) 鹿児島市春日町段丘 縄文 ( 前 中 後 晩 ), 弥生 ~ 古墳, 中世 ~ 近世 縄文 ( 前 中 後 晩 ), 弥生 ~ 古墳, 中世 ~ 近世 縄文 ( 前 中 後 晩 ), 弥生 ~ 古墳, 中世 ~ 近世 縄文 ( 前 中 後 晩 ), 弥生 ~ 古墳, 中世 ~ 近世 深浦式 並木式 阿高式 指宿式 市来式 鐘ヶ崎式 西平式 納曽式 上加世田式 入佐式 成川式 土鈴 土錘 石匙 石鏃 石皿 軽石製品 スイジガイ 市埋文報告 (1) (2)(7)(15)(32) (33)(34)(48) 西平式 市来式 御領式市埋文報 (24) 春日式 阿高式 指宿式 西平式 鐘ヶ崎式 市来式 有孔軽石円盤 13 竪野冷水窯跡 鹿児島市 冷水町竪野 丘陵 近世 窯跡 窯道具 陶磁器類 竪野冷水窯跡 ( 南風病院 ) 14 垂水 宮之城島津家屋敷跡 鹿児島市 山下町 14 低地 近世 屋敷境溝 陶磁器類 県埋セ報 (48) 15 名山 鹿児島市 山下町名山小校庭 低地 近世 ~ 近代 暗渠 近世陶磁器 市埋文報 (8)(38) 16 造士館 演武館跡 鹿児島市 山下町中央公園内 低地 近世 ~ 現代 建物跡 近世陶磁器 市埋文報 (13) 17 鹿児島城跡 ( 鶴丸城 ) 鹿児島市城山町 5 低地 縄文, 奈良, 近世, 近代 18 上山城跡鹿児島市新照院町丘陵中世土塁 空堀 建物礎石群 石製水道管 県埋文報 (55) 排水溝 雨落溝 井戸 池 (6) 近世陶磁器 瓦他市埋文報 (5)(28)

25 2 1 3 4 5 8 6 7 9 第2図 周辺遺跡位置図 8 5 1m

26 第 2 節発掘調査の方法 1 発掘調査の方法今回の発掘調査は, 鹿児島紡績所跡の推定地内に巻頭図版 8の古写真と, 薩摩のものづくり研究会報告書 薩摩藩集成館事業における反射炉 建築 水車動力 工作機械 紡績技術の総合的研究 で報告されている古写真のコンピュータ解析による配置復元図を参考に, トレンチを設定した 調査地は現況が商業地であり, トレンチの設定にあたってはかなりの制約があった 1トレンチは, 鹿児島紡績所の西端部分の検出を目的として設定した 2 3トレンチは, それぞれ鹿児島紡績所の北側部分と南側部分の検出を目的として設定した 調査は, 基本的には人力で掘り下げを行い, 表土剥ぎ, 盛土層, 攪乱層は重機を使用した 周辺地形測量, 遺構実測は,( 有 ) ジパング サーベイに一部委託した 遺物取上は, 層ごとの一括取上を行い, 調査担当者と発掘作業員で実施した また, 地形測量は, 世界測地系を基準に行った 検出遺構の実測や土層断面図の作成は, 任意に設けた点を結び世界測地系を元に行い, 一部実測測量を行った 2 整理作業の方法本報告書刊行に伴う整理 報告書作成作業は, 平成 23 年 4 月 ~ 平成 24 年 3 月にかけて, 鹿児島県立埋蔵文化財センターで行った 出土遺物の水洗い, 注記, 接合, 復元, 実測, 遺構のトレース, レイアウト等の編集作業を行った また, 鹿児島大学法文学部渡辺芳郎教授に遺物に関する指導を, 尚古集成館松尾千歳副館長には史料 絵図等に関する指導をいただいた 第 3 節層序各トレンチを調査の結果, トレンチごとに層序が異なっていた 共通する点は, 現地表面から約 2.5メートルの深さまで, 盛り土や住宅の建設等によって, 攪乱を受けているという点である そして, その攪乱層の下に, 幕末から明治のものと思われる生活面が検出された 1トレンチと3トレンチでは, 黒褐色砂層がこの層にあたる 2トレンチでは硬化面がこれにあたる この黒褐色砂層と硬化面を, 掘り下げると, 各トレンチで遺構が検出された さらに掘り下げると, 各トレンチとも, 地山と思われる白砂層がでてくる 各トレンチの基本層序は, 下表のとおりである 詳細については, 各トレンチの頁で記述する 表 3 鹿児島紡績所跡の基本層序 1 トレンチ 2 トレンチ 3 トレンチ 客土 攪乱土 造成土 客土 攪乱土 客土 造成土 攪乱土 黒褐色砂層硬化面黒褐色砂層 白砂層白砂層白砂層 写真 5 1 トレンチ土層断面写真 6 2 トレンチ土層断面写真 7 3 トレンチ土層断面 -9-

27 38 X= X= X= *世界測地系 X= X= Y=-4 Y= T X= 現場事務所 WC 1トレンチ T-2 ジョイフル 日豊 本線 4. 磯旧街道 2トレンチ X= ローソン 5.53 T-3 電 X=-1 4. 3トレンチ 第3図 第 3 図鹿児島紡績所跡 鹿 児 島 紡周辺地形図及びトレンチ配置図 績所跡 周辺地形図 電 電 5.71 国道10号線 タクシー乗り場 T 開花亭 磯工芸館 22 Y=-4 Y=-4 Y=-4 36 Y=-4 34 Y=-4 Y=-4 32 Y=-4 28 Y= Y=-4 Y=-4 28 Y=-4 Y= X= m X= X=-1 X= X=-1 X= X= Y=-4 36 Y=-4 32 X= Y=-4 Y=-4 Y=-4 Y=

28 第 4 節発掘調査の成果 3 箇所のトレンチ調査の結果, 幕末の3 時期にわたる遺構の残存を把握できた そして各トレンチで, 鹿児島紡績所関連の建物基礎と思われる遺構が検出された また出土した陶磁器については, コバルト釉のものが見られないことから, 明治以降の遺物ではなく, 幕末のものと判断した 以下, トレンチごとに遺構 遺物について述べていきたい 1 1トレンチ先にも述べたが, トレンチの設定にあたっては, 薩摩のものづくり研究会報告書 薩摩藩集成館事業における反射炉 建築 水車動力 工作機械 紡績技術の総合的研究 で報告されている古写真のコンピュータ解析による配置復元図を参考にした 1トレンチは, 鹿児島紡績所西側の基礎部分を確定することをねらって設定した 詳細は第 6 節で述べるが, 鹿児島紡績所の関連施設の基礎部分と思われる遺構を検出した 遺物は, 陶磁器や窯道具が多く出土している また, 茶入が数点出土しており, 窯道具と同様に何に由来するものか検討が必要である ⑴ 層序 ( 第 4 図 ) 層序については, 第 4 図に示したように, 堆積状況が複雑である 幕末, 紡績所の時代から現代に至るまで, 建築物を幾度となく建て替えている様子が, 建物の基礎部分や廃棄されたものからうかがえた 地表面から2.5mほどは客土や盛土に覆われていた 鹿児島市教委の報告書にもあった 鳥越トンネル掘削時の砂礫 と思われる層が1m 以上堆積していた 標高 2.5mほどの部分で, 黒褐色砂層 (9 層 ) がトレンチの大部分を覆っていた この層から下層の遺物に明治以降の遺物らしきものがなかったので, この層を幕末頃の生活面と考え, 調査を行った ⑵ 遺構 ( 第 5~6 図 ) 石垣 ( 第 5 図 ) 1トレンチの南側, 標高 2.5mの地点で検出した 北西から南東方向に約 4mのびており, 南東側はトレンチの壁面にもぐり込んでいるため, 正確な規模はわからない 幕末の生活面と考えられる9 層 ( 黒褐色砂層 ) を, 3cmほど掘り下げたところで検出している 石垣は, 西側を表にして造られており,6cm 3cm程の凝灰岩の切石を積んである 石積みは3 段検出しているが, 下から2 段は築造当時から地中に埋めてあったものと思われる また, 裏込めの中から,1の鞴の羽口が出土している この羽口の外面には, 緑青が付着してお り, 鋳物に関するものと考えられる 坪地業 ( 第 5 図 ) 1トレンチの南側, 標高約 3mの地点で検出した 凝灰岩の礫を並べ, 直径 6cm程度の地業をつくっている 2つの坪地業を検出したが, その坪地業の間隔が約 3.8 mである ただし,2つの坪地業のちょうど中間あたりに, 攪乱による堀り込みがあった このため, この2つの中間地点にも坪地業があった可能性がある すると, 木造建築物の基礎部分である可能性もあり, 屋敷地であった可能性がある 緑青のある三和土 ( 第 6 図 ) 1トレンチの北側, 標高 3mの地点で検出した 地山である砂層の上に三和土を張り, その上に緑青が5~1 cm程度堆積している この付近には, 歴史的にみて, 鋳銭所や鋳物場などが建てられており, それに関する遺構であると判断した 切石布基礎 ( 第 6 図 ) 1トレンチの北側, 標高約 3mの地点で検出した この切石は, 北東方向から南西方向にのび, そこで9 度南西方向に向きを変えてのびている 構造としては, 上記の 緑青のある三和土 を切って溝を掘り, 凝灰岩のズリを敷き並べ, 凝灰岩切石 (3cm 3cm 9cm ) を3 列敷いている 凝灰岩切石を敷く際には, 砂を敷き高さの調整をしたことが確認できた 北東方向の切石下の布基礎は,1~2cmのズリを敷き詰めてあるのに対し, 南西方向にのびる切石下の布基礎は,4~8cm近くの平たい石を敷き込んであり, 違いが見られる この違いが何を意味するかは不明である また, この切石布基礎が北東方向にものびるのではないかと考え, 確認のミニトレンチを入れたが, 何も確認できなかった この布基礎の根切りの幅はほぼ1mである このことから, このような基礎を持つ建物は, 大型の木造建築物か石造建築物である可能性が高いと考える 遺構内遺物として7 点掲載する 出土場所は, 切石の下部にあたる, キソb キソc 層である この遺構が建てられるころの遺物と判断した 磁器については幕末の遺物と考えられるが, 細かい時期については不明である 詳細は観察表を参考にされたい

29 A A B B' ⑧ ⑩ ⑭ ⑦ ベルト ベルト ⑩ ⑭ ⑯ ⑦ ⑦ ⑪ ⑨ 2cmずつ層になっている As ① ⑧ ⑫ ⑬ ⑭ ④ ⑯ 吹子羽口 ⑨ ⑪ ⑮ ⑦ ⑬ ④ 石垣a 緑青色土 漆喰 A' 6.m A' 5.m 4.m 小豆色豆石層 3.m 砂利層 2.m 1.m ① B 鳥越トンネル掘削土 ④ 褐色土 昭和初期の黒褐色土 黄褐色砂層 ⑦ 赤灰色砂質土 ⑧ 茶(明)褐色粘質土 ⑨ 黒褐色砂質土 ⑩ 緑青色土 ⑪ 褐色砂 灰色砂が繰り返される ⑫ 焼土 ⑬ 黒褐色砂層だが焼土っぽい ⑭ 黄褐色粘質土 ⑮ 暗灰褐色砂層 サラサラ ⑯ 灰色グライ土 鉄分多し 6.m B' As ① 昭和初期 5.m 炭化物多し 昭和期造成土 礫混 凝灰岩破砕礫が多く混じり固く締められている 4.m 粘質強い 赤灰褐色土 焼土あり 礫混 攪乱 場所によっては数層になる 3.m ⑦ 昭和 ⑩ キソb ⑭ ミニト レ キソの根石 ⑩ 2.m 縮尺 常に湿りあり 石垣a 石の隙間は明褐色粘質造成土 キソb 赤灰褐色砂質土 礫混 炭化物多し 昭和 第4図 第4図 1トレンチ土層断面図 1ト レン チ 土 層 断 面 図 12 1 100 1. 2.m

30 A B' B C D E D' A ' B C' E' F 吹子羽口 G' G H H' D 鞴の羽口 F' B A' ここに紙挿図のAが 入ります C' 1 C ' A ' D ⑦ 赤灰色礫混層 ⑨ 黒褐色砂質土層 ⑪ 褐色砂層 ⑬ 暗灰褐色砂質土層 石垣a ⑭ 明褐色土層 複数の小層繰り返す 炭化物混じる 造成土 褐色砂層 黄褐色砂層 ⑪よりも海の砂に近いサラサラ 3.m 3.m A A' C C' ⑦ ⑨ ⑪ ⑬ ⑬ 2.m 2.m 石垣a ⑭ 3.m B' B ⑨ ⑨ 3.m D' D ⑦ 2.5m ⑪ ⑪ ⑬ ⑬ ⑭ 石垣a 縮尺 2.m ⑭ 第5図 第5図 1トレンチ検出遺構① 石垣 及び出土遺物 1トレンチ検出遺 ① 石垣 及び出土遺物 構 13 1 50 1. 2.m

31 A B' B C D E D' C' E' F 吹子羽口 G' G A H B C H' F' A' B' 6 5 ここに紙挿図のBが 入ります A' C' 7 8 緑青色土 漆喰 3.m A 3.m A' B' B キソa キソb キソb キソc キソc 2.m 2.m 3.m C' C ⑨ キソc キソc キソb キソa キソa キソb キソc ⑨ ⑭ 明黄褐色砂層 海の砂という感じ 赤灰色礫混層 小礫 中礫 明褐色土層 造成土 黒褐色砂質土 褐色砂質土 ⑭ キソc 縮尺 2.m 1 50 1. 1トレンチ検出遺構 布基礎 及び出土遺物 第 6 図第6図 1ト レンチ検出遺構 布基礎 及び出土遺物 14 2.m

32 ⑶ 遺物 ( 第 7~12 図 ) 陶磁器の分類については, まず磁器, 陶器等の材質別に大分類し, さらに器種ごとに細分化を行った 紙面構成の都合上, 産地や生産年代等については前後することがあるが, それらの詳細については観察表にまとめた 以下, 特徴的な所見が見られる遺物についてのみ述べることとしたい ア磁器 ( 第 7 図 ) 磁器については, 肥前系磁器の染付 白磁 色絵と, 薩摩磁器の平佐系と思われる在地産の染付が出土している 碗 (9~3) 碗については, 形状から次の3つに分類した 丸形 体部が丸みを帯び, 口縁部は直交もしくはやや内湾するもの 端反碗 口縁部が外反するもの 筒丸形 体部が筒状を呈し, 腰部が丸みを帯びるもの 朝顔形 腰部で内側に屈曲し, 体部は逆ハの字にまっすぐのびるもの 9~16は, 丸形のものである 9は帆掛け船が描かれたもので, 外面に砂が付着している 1は二重格子文が描かれている 11は矢羽根文が描かれる 12,13は口縁部内面に格子文が描かれる 14は松葉文が描かれる, 浅い碗である 16は外面に蝶文が, 口縁部内面に二重襷文が描かれる 17~22は, 端反碗である 17は, いわゆる清朝磁器である また, 口唇部は口錆を呈する 18は口縁部内面に二重圏線が施される 2は, 口縁部内面に四方襷文が施される 23は筒丸形の碗である 口縁部下位の外面 ~ 高台まで, 轆轤の回転を利用した飛びカンナ様の技法で鎬文を施している 24は半筒形の碗である 口縁部外面には二重圏線が描かれる 25は朝顔形の碗で, 外面に青磁釉を施す また見込みに, 二重圏線と手書き五弁花が描かれる 裏銘は二重枠の角福が描かれる 26~3は, 碗の底部である 26は見込みに宝文が描かれ, 裏銘に 大明年製 をくずした文字が描かれる 27 は見込みに圏線と遠山文が描かれる 29は高台に二重圏線が描かれる 3は高台が高く, 小広東碗の底部の可能性もある 小杯 (31~33) 31~33は, 小杯である 31は口縁部が外反し, 外面には一重編み目文が描かれる 皿 (34~37) 34~37は稜花皿である 34の口縁部は口錆を呈する 36は外面に唐草文, 内面には唐草文が描かれる 37の口唇部は口錆を呈し, 見込みには山水文が描かれる 鉢 (38) 38は厚手の鉢で, 内面 外面ともに呉須で絵付けされている 底部に圏線が描かれる 蓋 (39) 39は蓋である 外面に草花文が描かれる その他 (4~41) 4は燭台か灯明皿であろう41は内面が熱を受けているので香炉の可能性がある 外面は墨弾き技法を用いて文様を描いている 色絵 (42~43) 42~43は色絵の角注である 同一個体の可能性がある イ陶器 ( 第 8 図 ) 陶器については器種を大分類として分類した 埦 (44~49) 44は埦の口縁部で, 外面には暗赤灰色の釉が施されている 45は見込みに渦文の蛇の目釉剥ぎがみられる 46~49は薩摩焼で, 一般的に白薩摩と称される白色陶胎の埦である 48は外面腰部に呉須で千鳥が描かれる 皿 (5~52) 5~52は皿である 52は琉球産で, 腰部まで釉がかかり, 底部は露胎する 瓶類 (53~55) 徳利 酒瓶等を瓶類として分類した 53は徳利の頸部である 頸部と体部との接合部がやや雑である 54は琉球産の可能性がある 水柱類 (56~64) 56~63は土瓶である 56は胴部がやや下垂した丸形である 58の茶止め穴は3 穴のものである 59~6はカラカラである 61~63は土瓶の底部であるが,61は体部まで,62は腰部まで,63は脚部までと, 施釉範囲に違いがみられる 64は透明釉が施されており, 底部の削りが浅いことから水柱類に分類した 蓋類 (65~66) 65は薄手の蓋で, 外面に褐釉が施される 66は外面に鉄が付着した状態で出土した 鍋 (67~68) 67は口縁部の外面から内面のみ施釉されている 68は鍋の把手である 鉢 (69~72) 69は鉢の口縁部で, 外面に沈線が巡る 7~72は擂鉢である 甕 (73~74) 73 ~ 74は甕の口縁部である 壺 (75) 75は壺の口縁部である 小壺 茶入 (76~82) 76は小壺で, 油入れの可能性がある 77~81は茶入で

33 第7図 1トレンチ出土遺物① 16 43

34 第 8 図 1 トレンチ出土遺物

35 ある 77~78は肩衝の茶入である 81の底部には糸切りが見られる 82は茶入のようだが, はっきりしない その他 (83~91) 分類ができなかったものを, その他 として取り扱うこととした 83~85は白薩摩である 器種はそれぞれ,83は手水鉢, 84~85は仏花器の可能性がある 86は陶胎染付の仏飯具で, 外面の体部と内面に白化粧土がかけられている また,87~88は瓦質土器である 87は火鉢と考えられる 88は底部の中央に穿孔があるが, 用途は不明である 89 は茶道具の風炉の可能性がある 9は土錘である 91は鞴の羽口である ウ窯道具 ( 第 1 図 ) 匣鉢 (92~98) 92~98は匣鉢である 94は口縁部に, ツクが付着している 96の底部には釉薬が斑点状に付着している 98の見込みには, アルミナが付着している 棚板 (99~11) 棚板と分類したが, 匣鉢の蓋の可能性もある 99~ 1の表面にはアルミナが付着している 11の裏面には穿孔がみられる ツク (12~13) 12は断面が扁平なもので,13は, 断面が丸いものである ハマ (14~15) 14は楔形のハマである 15は指頭圧痕がみられる その他 (16) 16は窯詰めする際の部材の一部と思われる 暗赤褐色に変色していることから, 高温にさらされたことが伺 第 9 図 1 トレンチ出土遺物

36 第 1 図 1 トレンチ出土遺物

37 える と判断した 118~119 は寛永通宝である エ瓦 ( 第 11 図 ) 瓦は大量に出土しているが, ほとんどが破損して小片になったものばかりである ここでは, 特徴的な瓦のみを掲載する 17~113は桟瓦である 平瓦の可能性もあるが, 出土品を見る限り, 平瓦と断定できるようなものが出土していないので, ここでは桟瓦とした 17~111 は軒瓦で, 瓦当はすべて均正唐草文である 112には刻印が認められるが, 判読できない 114は丸瓦で, 内面には布目が残る 115は袖瓦で, 右袖になる オその他 ( 第 11 図 ) 116は砥石である カ古銭 ( 第 12 図 ) 117は琉球通宝である 8 層からの出土であり, 安定した堆積の層ではないので, 鋳銭所時代の遺物ではない キ金属製品 ( 第 12 図 ) 12はボタン,121はフック状製品である いずれも, 後世のものの可能性があるが, 写真のみを掲載する 122~128は青銅製品である いずれも釘状の製品で, 断面をみると角釘である 一般的な釘の頭部は, のように基部上端を叩き潰すなどして形成するものである ところが,122~124は頭部を丸く仕上げている このことから, 何らかの装飾品に用いられた釘であると判断した 125~127は, 折れ曲がった状態で出土した 使用による折れ曲がりかどうかは判断できなかった 127は頭部が欠損している 128は頭部が欠損しているが, 長さは9.7cmである 断面は角状であるが, 先端部にいくと丸く加工してある 第 11 図 1 トレンチ出土遺物 5-2 -

38 第 12 図 1 トレンチ出土遺物

39 2 2トレンチ 2トレンチは, 鹿児島紡績所北側の基礎部分を確定することをねらって設定した 詳細は第 6 節で述べるが, ここで検出した布基礎は鹿児島紡績所の基礎部分と考えられる 遺物は, 陶磁器や窯道具が出土しているが, 特に多かったのがレンガである 文字の入ったレンガや, 耐火レンガなどが出土している また, 用途不明のパイプ状の鉄製品が多く出土しており, 何に由来するものか, 今後検討が必要である ⑴ 層序 ( 第 13 図 ) 層序については, 第 13 図に示した 1トレンチ同様に堆積状況が複雑である 鳥越トンネル掘削時の砂礫 と思われる層が2m 以上堆積している部分もあった 地表から1m 付近で検出した石積みは, 近現代の側溝と判断した さらに下層の, 標高 3m 付近で硬化面を検出した ただし, この硬化面がどの時期のものかは特定できなかった この硬化面を検出した時点で, 地表からの深さが2m 近くなったので, これより下層は, この硬化面を1/4カットして調査した ⑵ 遺構 ( 第 14 図 ) 布基礎 ( 第 14 図 ) 前述したように, 硬化面を1/4カットし掘り下げたところ, 砂質土が1mほど堆積していた この, 砂質土中から, レンガやパイプ状の鉄製品が出土している さらに砂質土を掘り進めると, また三和土を検出した この三和土を掘り進めると, こぶし大の凝灰岩のズリが敷きつめられており, それを掘り抜くと,7~8cm大の平石が検出された この布基礎は, 地山の砂層に直接埋め込まれており, 不同沈下を防ぐ狙いがあるものと思われる トレンチ自体が狭小で, さらに掘削深度の問題もあり布基礎の規模をすべて確認することができなかったが, 確認できている部分だけでも, 根切りの幅が1m を超えている このことから, このような基礎を持つ建物は, かなり大型の木造建築物か石造建築物である可能性が高いと考える また, その規模が1トレンチの布基礎よりも大きいことから,1トレンチの布基礎とは別の建物で, より大きい建物の基礎部分であると考えられる ⑶ 遺物 ( 第 15~17 図 ) 陶磁器の分類については, まず磁器, 陶器等の材質別に大分類し, さらに器種ごとに細分化を行った 紙面構成の都合上, 産地や生産年代等については前後することがあるが, それらの詳細については観察表にまとめた 以下, 特徴的な所見が見られる遺物についてのみ述べることとしたい ア磁器 ( 第 15 図 ) 国内産磁器については, 肥前系磁器の染付と, 平佐系と思われる在地産の染付が出土している 碗 (129~131) 129は筒丸碗で, 雪持笹が描かれる 13は半筒碗で, 腰部と高台脇に二重圏線が描かれる 131は碗の底部で, 高台脇と底部に二重圏線が描かれる 皿 (132) 132は皿である 内面に呉須で二重格子文を描くが, 呉須の発色が悪くやや緑がかっている 見込みには, 蛇の目釉剥ぎされ, 二重格子文が描かれる 水注 (133) 133は水注の注口である イ陶器 ( 第 15 図 ) 陶器については器種を大分類として分類した 埦 (134~135) 134は陶胎染付の埦である 白化粧土をかけた上から, 口縁部に呉須で網目文が描かれる 136は, いわゆる白薩摩である 腰部から大きく屈曲するタイプの埦である 皿 (136) 136は内面に型押しで草花文が施してある 皿としたが高坏の可能性もある 瓶 (137) 137は西餠田系の黒薩摩の瓶である 全体に褐釉が施されている 甕 (138) 138は甕の口縁部である 水注類 (139) 139は, 土瓶の口縁部である 口縁部の内面と口唇部には, 施釉されていない 蓋 (14) 14は, 蓋である おそらく土瓶の蓋であろう その他 (141) 141は, 白薩摩の蓋物の受け部である 重ね焼きされた目跡が残る ウ窯道具 ( 第 15 図 ) 1トレンチ同様に窯道具が出土している どの窯に由来するかは不明である

40 A 6.m A コンクリート基礎 A' 1 5.m C D D' 硬化面1 ⑦ 4.m 水道管掘削坑 ⑪ 硬化面1 ④ ⑪ ⑦ ⑧ ⑧ 3.m 石敷 9 2.m C' レンガ B B' A' B 6.m B' ① ① ④ ⑦ ⑧ ⑨ ⑩ ⑪ 5.m As アスファルト) 小砂利層 小豆色豆石層 旧側溝石組 黄褐色礫積層(鳥越トンネル掘削土礫) 硬化面1 混礫赤褐色砂質土 灰褐色砂質土 硬化面2 灰黄褐色砂質土 凝灰岩礫盛土層 ④ 4.m ⑦ ⑦ ⑧ 3.m ⑨ 石敷 ⑩ 2.m 縮尺 1 100 1. 2.m 第13図 レンチ土層断面図 第13図2 ト 2トレンチ土層断面図 4.m C' C コンクリート基礎 水道管掘削坑 ⑦ ⑦ 3.m C ⑧ ⑨ ⑨ ⑩ 石敷 2.m 硬化面1 4.m D D' D D' 硬化 面 1 ⑦ 3.m ⑧ レンガ ⑨ 石敷 ⑩ 2.m C' ① ④ 縮尺 As アスファルト) 小砂利層 小豆色豆石層 旧側溝石組 黄褐色礫積層 (鳥越トンネル掘削土礫) 1 50 1. 2.m 第14図 第14図 2トレンチ検出遺構 2トレンチ検出遺構 23 ⑦ ⑧ ⑨ ⑩ ⑪ 硬化面1 混礫赤褐色砂質土 灰褐色砂質土 硬化面2 灰黄褐色砂質土 凝灰岩礫盛土層

41 第 15 図 2 トレンチ出土遺物

42 第 16 図 2 トレンチ出土遺物

43 匣鉢 (142~146) 142~146は匣鉢である 142~143は口縁部で,142は口縁部にツクが付着している 143は口縁部がやや開くタイプの匣鉢である 144~146は底部で, は底にツクが付着している 147は底部内面にアルミナが, 外面にはツクが付着している また重ね焼きした下段の匣鉢の口縁部もツクと一緒に付着している 棚板 (147) 147は, 棚板もしくは匣鉢の蓋である 表面には, 重ね焼きの跡とアルミナが付着している ツク (148~149) 148は断面の形が丸く,149は断面の形が扁平である エ土製品 ( 第 15 図 ) 15は, 用途不明の瓦質の土製品である 植木鉢等の底部の可能性がる 151は鞴の羽口である 152はボタン 状の土製品である おはじき等の遊具の可能性がある オレンガ ( 第 16 図 ) 16のレンガを除き, すべて7 層で出土したものである 16は, 布基礎の石の間にはめ込んであったものである 耐火レンガ (153~155) 153~155は耐火レンガである この耐火レンガが, 何に由来するかは反射炉などに由来するものかどうかは不明である 155は刻印があり, 欠損して正確には読めないが, 減 という字に似ているようである その他 (156~159) 156~158は赤レンガで, 赤褐色を呈しており, 胎土は砂を多く含み粗い 156~158には文字が印されており, 剥落している文字もあるが, 小根占 と読めそうである 159は淡黄色をしたレンガで, 表面には漆喰が付着して 第 17 図 2 トレンチ出土遺物

44 いる 3 凹みレンガ 16 3トレンチは 鹿児島紡績所南側の基礎部分を確定す 16は 2トレンチの布基礎中にはまり込んでいたも 3トレンチ ることをねらって設定した 詳細は第6節で述べるが のである 布基礎の工事をする際に 石の間に埋め込ん ここで検出した布基礎は鹿児島紡績所の基礎部分と思わ だものであろう レンガの全面に煤が付着している 表 れる 面の中央部が凹んでいるのだが 何かで削り込んでいる 遺物は 陶磁器や窯道具が出土している 攪乱層から ようである 欠損している部分が多く 全体の形状がはっ ではあったが 大量の鉄屑が出土した これも 当地の きりしないが その形状から判断すると 何かのカーブ 特殊性を示すものであろう 部分を構成するためのレンガではないかと考えられる ⑴ カ 金属製品 第17図 層序 第18図 層序については 第18図に示した 1トレンチ同様に 2トレンチからは多くの金属製品が出土しているが 堆積状況が複雑である しかし 鳥越トンネル掘削時 板を折り曲げたような状態で出土した 面がどの時期のものかは特定できなかった 5.m B A A' ⑨ 石 石 黒色土 攪乱 ① ⑩ 褐色土版築 a b⑧ c d 造成土 側溝 コンクリート基礎 2.m な硬化面が検出されている 2トレンチ同様 この硬化 3.m また 標高3m付近では 2トレンチで見られたよう 部分の内面には ネジがきってある 175は 薄い鉄の 4.m と思われる 167はリング状の鉄製品である 169の中央 コンクリート ところが 客土 造成土は1m以上も堆積していた B' の砂礫 と思われる層が5 程度しか堆積していない る 出土状況から考えて 本来はもっと長いものである 6.m 用途は不明である は パイプ状の鉄製品であ ⑩ ⑨ B B ⑧ a b cd 焼土 5.m ① A A' 4.m ④ b d a b a ⑦ 掘り込み c グリ石層 1 100 1. 2.m b 褐色土版築 ⑨ d 掘り込み 石敷 ⑩ 縮尺 a b b a c 3.m ⑧ a b ① As 褐色砂質土 コンクリート基礎 ⑦ 黒褐色砂層 鳥越トンネル掘削土 ⑧ 右図参照 ④ 造成土 ⑨ 明褐色土(造成土) 昭和期版築土 ⑩ 白砂層 第18図 第18図 2.m 3トレンチ土層断面図 3トレンチ土層断面図 27 a d d ⑧の拡大図 a 黒色砂層 b 褐色砂層 c 茶褐色粘土層 d 茶褐色硬質砂層 1.m

45 ⑵ 遺構 第19 2図 いている 坪地業 第19図 1トレンチの布基礎に比べ 切石の下に三和土がある 3トレンチの北部で検出した 1 2 大の礫で構成 ことから 1トレンチよりもより規模の大きな建造物基 されており 直径8 程度の円形をしている 2箇所の 礎の可能性がある これは 根切りの幅もがぼ2mある 坪地業の間隔が約18 であることや その規模からみ ことからもいえよう このことから 2トレンチと3ト て 木造建築物の基礎と判断した レンチの布基礎が同一の建物の基礎部分で 1トレンチ 1トレンチの石垣とほぼ同じレベル 標高2.4mで検 は別のものと判断した 出されていることから この石垣と坪地業はほぼ同時期 にあったものと考えられる 西側の坪地業には すぐ隣 遺構内遺物を第21図に7点掲載した いずれも切石布 基礎を検出中に出土したものである に焼土があり この木造建築物と関連があることが想定 できる 177が磁器である 177は水注の把手で 白化粧土の上 に銅緑釉が施されている が陶器である 178は京焼風の丸碗で 灰釉 切石布基礎 第2図 が施され高台脇から下部が露胎する また上絵で緑色の 3トレンチの南側 標高約3mの地点で検出した こ の切石の一部は原位置にないものと思われる 絵付けがされている 179は丸碗で 透明釉が施され高 台脇から下部が露胎する 181は白薩摩で鉢であろう 構造としては 1トレンチの布基礎とよく似ているが 緑青のある三和土 は検出されなかった しかし 一 部に緑青を確認することはできた 182は窯道具の匣鉢である 底部内面にはアルミナが 付着し 底部外面には重ね焼きをしたと思われるツクが 付着している 3トレンチの布基礎は まず⑨層の明褐色土層を堀込 み 地山の砂層に4 1 近くの平石を敷き込む そ の上に凝灰岩のズリを敷き並べ さらに褐色土の三和土 をしき その上に凝灰岩切石 を敷 A B B F コンクリート基礎 F ' D 黒色土 焼土 褐色土版築 D' ' A A' 3.m A' A 2.m A 黒色土 焼土 縮尺 第19図 第19図 1 50 1. 3トレンチ検出遺構① 坪地業 3トレンチ検出遺構① 坪地業 28 2.m

46 F A コンクリート基礎 F ' D 黒色土 焼土 D' 褐色土版築 コンクリート基礎 褐色土版築 3.m A' A A' 褐色土版築 グリ石層 石敷 掘り込み 2.m 第1面 拡張前 B 3.m B' 緑青色土 B 褐色土版築 グリ石層 石敷 掘り込み C' 石敷 明褐色土 掘り込み 2.m 3.m C' C 褐色土版築 グリ石層 緑青色土 C 石敷 2.m B' 縮尺 第2面 拡張後 第2図 第2図 3トレンチ検出遺構 布基礎 3 ト レ ン チ29検出 遺 構 布 基 礎 1 50 1. 2.m

47 ⑶ 遺物 ( 第 22~24 図 ) 陶磁器の分類については, まず磁器, 陶器等の材質別に大分類し, さらに器種ごとに細分化を行った 紙面構成の都合上, 産地や生産年代等については前後することがあるが, それらの詳細については観察表にまとめた 以下, 特徴的な所見が見られる遺物についてのみ述べることとしたい ア磁器 ( 第 22 図 ) 国内産磁器については, 肥前系磁器の染付と, 薩摩磁器の平佐系と思われる在地産の染付が出土している 碗 (183~189) 碗についての分類は1トレンチと同様である 183は丸形のもので, 外面には二重格子文が描かれ, 口縁部内面と見込みに二重圏線が描かれる 184は筒丸碗で, 外面に草花文, 口縁部内面に雷文が描かれる 185~189は端反碗である 185は外面に変様性の強い花唐草文が描かれる 187と189は同じような草花文が描かれ, 同一個体の可能性がある 皿 (19~192) 19は, 折縁の皿である 口縁部外面には針支えの跡が見られる 191は見込みに山水文が描かれており, 蛇ノ目凹型高台を呈する 192は見込みに山水文が, 高台脇には三重圏線が描かれる イ陶器 ( 第 22 図 ) 陶器については器種を大分類として分類した 皿 (193~194) 194は, 白薩摩の皿の底部である 見込みには, 二重圏線と二重鋸歯文が描かれる 合子 (195) 195は合子である 畳付と底部が釉剥ぎされ, 合口や畳付には重ね焼きの跡が残る 鉢 (196) 196は白薩摩の鉢で, 底部には焼成時の砂が付着する 蓋 (197) 197は白薩摩の蓋である 土瓶などの蓋であろう 擂鉢 (198~199) 198は~199は口縁部で, ハケ目の調整痕が残る 壺 (2~21) 2~21は琉球産の壺である 2は外面に沈線が二条めぐる ウ窯道具 ( 第 23 図 ) 1トレンチ同様に窯道具が出土している この地にあったどの窯に由来するかは不明である 匣鉢 (22~25) 22~23は口縁部である 23は, ほぼ口縁部から底部まで残存しており, 全体の形がわかる資料である 第 21 図 3 トレンチ遺構内出土遺物 - 3 -

48 第22図 3トレンチ出土遺物① 31

49 24~25は底部で, 重ね焼きした下段のツクが付着する ツク (27) 27はツクである 使用時についたと思われる, 匣鉢の口縁部の跡が確認できる エその他土製品 ( 第 23 図 ) 28は坩堝である 外面は激しい熱を受けた跡が見られ, 内面には緑青が付着していることから, 鋳物に使われたものと判断した 29は, 鞴の羽口である 外面は熱を受けかなりもろくなっており, 使用した様子が伺える オ瓦 ( 第 24 図 ) 1トレンチ同様に, 瓦は大量に出土しているが, ほと んどが破損して小片になったものばかりである ここでは, 特徴的な瓦のみを掲載する 21~22は桟瓦である 平瓦の可能性もあるが, 出土品を見る限り, 平瓦と断定できるようなものが出土していないので, ここでは桟瓦とした 21~212は軒瓦で, 瓦当はすべて均正唐草文である 215は, 凸面の端部をヘラ状の工具で何条も掻いた跡が見られる 215~22は刻印された瓦の拓本のみを掲載した 文字は 太喜 三 加 などが見られる カ古銭 ( 第 24 図 ) 221は琉球通宝である 出土した6 層は, 攪乱を受けた層であるが, ほぼ完形に近い形である 側面に サ の文字が刻印されていないことから, 初期のものと思われる 第 23 図 3 トレンチ出土遺物

50 第24図 表41 挿図 掲載 番号 番号 5 6 3トレンチ出土遺物 出土遺物観察表 種別 分類 器種 産地 出土 区 層位 1T 法 量 釉 薬 口径 底径 器高 胎土の 色 調 石垣A 灰黄色 釉 薬 部 位 時 期 備 考 長さ16 3 幅9 7 孔径4 3 先端に銅滓溶着 被熱 部分表面の剥落激しい 1 土製品 鞴 鞴の羽口 2 陶器 碗 碗 肥前系 1T キソb 7. 灰白色 緑釉 残存部 全部 3 陶器 瓶 土瓶 苗代川 1T キソb 褐灰色 鉄釉 褐色 口唇部 口縁部 内面無釉 18世紀末 4 陶器 碗 碗 加治木 姶良系 1T キソb にぶい 橙色 蛇ノ目 釉剥ぎ 18世紀代 5 陶器 壺 油壺碗 1T キソb にぶい 赤褐色 鉄釉 黒褐 色 内面無釉 6 染付 碗 小広東 肥前系 1T キソc 白色 透明釉 残存部 全部 18世紀末 幕末 外面に梵字文 19世紀前半 内面に二重格子文 18C末 幕 末 7 染付 皿 皿 肥前系 1T キソc 白色 透明釉 畳付釉 剥ぎ 8 陶器 皿 皿 1T キソa 1.6 淡黄色 透明釉 畳付釉 剥ぎ 33 緑青土付着

51 表 4-2 出土遺物観察表 挿図番号 7 8 種別 分類 器種 産地 出土区 層位 法量 ( cm ) 胎土の釉薬口径底径器高色調釉薬部位 時期 備 考 9 染付 碗 丸碗 在地 1T 白色 透明釉 蛇ノ目釉剥ぎ, 畳付釉剥ぎ 18C 末 ~ 幕末 帆掛け船, 外面に砂が付着 1 染付 碗 丸碗 在地 1T 9, 灰白色 透明釉 残存部全部 18C 末 ~ 幕末 二重格子文 11 染付 碗 丸碗 肥前系 1T 白色 透明釉 残存部全部 18C 末 ~ 幕末 矢羽文 12 染付 碗 丸碗 肥前系 1T 白色 透明釉 残存部全部 - 口縁部内面に格子文 13 染付 碗 丸碗 肥前系 1T 白色 透明釉 残存部全部 - 口縁部内面に格子文 14 染付 碗 丸碗 肥前系 1T 白色 透明釉 蛇ノ目釉剥ぎ - 松葉文 掲載番号 15 染付 碗 丸碗 肥前系 1T 灰白色 透明釉 残存部全部 18C 末 ~ 19C 前半 16 染付 碗 丸碗 肥前系 1T 白色 透明釉 残存部全部 - 蝶文, 口縁部内面に四方襷文 17 染付 碗 端反碗 - 1T 白色 透明釉 残存部全部 19C 代 清朝磁器, 口錆 18 染付 碗 端反碗 在地 1T 白色 透明釉 残存部全部 19C 末 ~ 幕末 口縁部内面に二重圏線 19 染付 碗 端反碗 肥前系 1T 白色 透明釉 残存部全部 19C 末 ~ 幕末 2 染付 碗 端反碗 在地 1T 白色 透明釉 残存部全部 19C 末 ~ 幕末 口縁部内面に四方襷文 21 染付 碗 端反碗 在地 1TB 灰白色 透明釉 残存部全部 - 22 染付 碗 端反碗 - 1TB 白色 透明釉 残存部全部 - 山水文 23 磁器 碗 筒丸碗 平佐 1T 白色 透明釉 畳付釉剥ぎ 18C 末 ~ 19C 前半 飛びガンナ 24 染付 碗 半筒碗 在地 1T 白色 透明釉 残存部全部 19C 末 ~ 幕末 口縁部外面に二重圏線 25 磁器 碗 朝顔形 肥前 1T 白色 銅釉 畳付釉剥ぎ 18C 後半 外面青磁釉, 見込みに呉須で二重圏線と手書き五弁花, 裏銘に角福 26 染付 碗 碗 肥前 1T 白色 透明釉 畳付釉剥ぎ 18C 代 見込みに宝文, 裏銘に 大明年製 のくずし字 27 染付 碗 碗 肥前系 1T 灰白色 透明釉 畳付釉剥ぎ - 見込みに圏線と遠山文 28 染付 碗 碗 肥前系 1T 灰白色 透明釉 畳付釉剥ぎ 19C 末 ~ 幕末 29 染付 碗 碗 肥前系 1T 白色 透明釉 残存部全部 19C 末 ~ 幕末 3 染付 碗 広東? 在地 1T 白色 透明釉 畳付釉剥ぎ - 外面に矢羽根文, 高台脇に二重圏線高台脇に二重圏線, 二次焼成をうける 31 染付 小杯 小杯 肥前系 1T 白色 透明釉 残存部全部 19C 後半 口縁部が外反, 外面に網目文 32 染付 小杯 小杯 肥前系 1T 白色 透明釉 残存部全部 18C 末 ~ 19C 前半 口唇部が口錆 33 磁器 小杯 小杯 肥前系 1T 白色 透明釉 畳付釉剥ぎ 19C 代 34 染付 皿 稜花皿 在地 1T 白色 透明釉 残存部全部 - 口唇部が口錆 35 磁器 皿 稜花皿 - 1T 灰白色 透明釉 残存部全部 - 36 染付 皿 稜花皿 肥前 1T 白色 透明釉 残存部全部 18C 代 外面に蛸唐草文, 内面に唐草文 37 染付 皿 稜花皿 肥前系 1T 灰白色 透明釉 畳付釉剥ぎ 19C 前半 口唇部が口錆, 見込みに山水文, 畳付きにアルミナ付着 38 染付 鉢 鉢 肥前系 1T 白色 透明釉 畳付釉剥ぎ - 底部に圏線 39 染付 蓋 蓋 肥前系 1T 白色 透明釉 身受部無釉 18C 末 ~ 幕末 4 磁器 灯明皿 肥前系 1T 白色 透明釉 残存部全部 - 底面穿孔施釉有り, 高台欠損? 41 染付 香炉 - 1T 灰白色 透明釉 残存部全部 - 42 磁器 色絵 角水注? - 1T 白色 透明釉 内面無釉 19C 後半 青色 赤色 緑色 43 磁器 色絵 角水注? - 1T 白色 透明釉 内面 底部外面無釉 19C 後半 青色 赤色 緑色 44 陶器 碗 埦 - 1T 灰白色 銅釉?/ 暗赤灰色 残存部全部 19C 代 45 陶器 埦 埦 肥前 1T 橙色 透明釉 / 灰色 畳付釉剥ぎ 18C 代 見込みに蛇の目釉剥ぎを隠す白化粧土 46 陶器 埦 丸埦 - 1T 淡黄色 透明釉 残存部全部 - 47 陶器 埦 埦 - 1T 灰白色 透明釉 残存部全部 18C 代? 畳付にアルミナ付着 48 陶器 埦 埦 - 1T 淡黄色 透明釉 残存部全部 - 外面腰部に呉須で千鳥文 49 陶器 埦 埦 - 1T 白色 透明釉 畳付釉剥ぎ - 5 陶器皿皿 加治木 姶良系 1T 橙色 鉄釉 / オリーブ褐色 残存部全部 18C 後半 ~ 幕末 51 陶器 皿 皿 - 1T 淡黄色 透明釉 残存部全部 - 52 磁器 皿 皿 琉球 1T 灰色 透明釉 内面 底部外面無釉 - 53 陶器瓶徳利 加治木 姶良系 1T 灰赤色 54 陶器瓶徳利? 琉球? 1T 暗赤褐色 55 陶器瓶瓶 - 1T 黄灰色 56 陶器水注土瓶苗代川 1T 陶器水注土瓶苗代川 1T 陶器水注土瓶 加治木 姶良系 1T にぶい赤褐色明赤褐色にぶい黄褐色 鉄釉 / オリーブ褐色鉄釉 / 暗赤褐色鉄釉 / 暗赤褐色鉄釉 / オリーブ褐色 鉄釉 / 暗褐色 内面頸部 ~ 肩部無釉 内面無釉 - 口唇部 ~ 口縁部内面無釉口唇部 ~ 口縁部内面無釉 19C 代 C 後半 18C 後半 鉄釉 / 赤褐色残存部全部 - 59 陶器 水注 カラカラ - 1T 灰赤色 鉄釉 / 黒色 残存部全部 - 6 陶器 水注 カラカラ 加治木 姶良系 1T 暗灰色 鉄釉 / 黒色 残存部全部 - 61 陶器水注土瓶苗代川 1T 陶器水注土瓶苗代川 1T にぶい赤褐色にぶい赤褐色 63 陶器水注土瓶竪野系 1T 黒褐色 鉄釉 / オリーブ褐色 鉄釉 / 黒色 鉄釉 / 暗赤褐色 腰部 ~ 底部外面無釉脚部 ~ 底部無釉 残存部全部 18C 後半 18C 後半 - 煤付着

52 表 4-3 出土遺物観察表 挿図番号 法量 ( cm ) 胎土の釉薬種別分類器種産地出土区層位口径底径器高色調釉薬部位竪野腰部 ~ 底部 64 陶器水注? 土瓶? 1T 灰黄色透明釉系? 外面無釉 掲載番号 65 陶器蓋蓋 加治木 姶良系 66 陶器蓋土瓶蓋? 苗代川 1T 陶器鍋鍋 - 1T T 赤灰色鉄釉 / 灰褐色上面施釉 - にぶい赤褐色にぶい赤褐色 鉄釉 / オリーブ黒色 時期備考 - 堅野系の土瓶? 上面施釉 - 外面に鉄付着 鉄釉?/ 褐色外面釉剥ぎあり 19C 代 68 陶器 鍋 鍋 - 1T 灰褐色 鉄釉?/ 褐色 残存部全部 - 把手 69 陶器 鉢 鉢 在地 1T 橙色 鉄釉 / 暗赤褐色 口唇部無釉 18C 前半 7 陶器鉢擂鉢苗代川 1T 陶器鉢擂鉢苗代川 1T 陶器鉢擂鉢苗代川 1T 陶器甕甕苗代川 1T にぶい赤褐色にぶい赤褐色明赤褐色明赤褐色 74 陶器甕? 甕? 苗代川 1T 黄灰色 鉄釉 / 灰オリーブ色鉄釉 / 灰オリーブ色 鉄釉 / 灰黄色 鉄釉 / オリーブ黒色鉄釉 / オリーブ灰色 口唇部無釉 底部, 外面無釉 内面 底部外面無釉 口唇部無釉 18C 後半 18C 後半 19C 代 18C 末 ~ 19C 前半 口唇部無釉 - ツク付着 75 陶器 壷 壷 苗代川 1T 褐灰色 鉄釉 / 暗褐色 口唇部無釉 陶器 壷 小壷 - 1T 褐灰色 透明釉 内面頸部以下無釉 - 口縁部内面から外面に白化粧土 77 陶器 茶道具 茶入 竪野? 1T 灰黄色 鉄釉 / 暗褐色 残存部全部 - 肩衝 78 陶器 茶道具 茶入 竪野? 1T 灰色 鉄釉 / にぶい赤褐色 残存部全部 - 肩衝 79 陶器 茶道具 茶入 竪野? 1T 灰黄色 鉄釉 / 暗赤褐色 底部, 外面無釉 - 土見せ藁灰釉 8 陶器 茶道具 茶入 竪野? 1T 灰黄色 鉄釉 / 暗褐色 残存部全部 - 81 陶器 茶道具 茶入 竪野? 1T 黄灰色 鉄釉 底部, 外面無釉 - 糸切り底 82 陶器 茶道具 茶入? 竪野? 1T 灰白色 鉄釉 / 黒褐色 残存部全部 - 83 陶器 鉢 手水鉢 苗代川 1T 灰白色 透明釉 残存部全部 - 84 陶器 仏具 仏花器 苗代川 1T 灰白色 透明釉 残存部全部 - 85 陶器 仏具 仏花器 苗代川 1T 灰白色 透明釉 残存部全部 - 畳付にアルミナ付着 86 陶器仏具仏飯具 - 1T 瓦質土器瓦質土器土師質土器 灰黄褐色 透明釉 / 灰オリーブ色 鉢火鉢? - 1T 灰黄色 臼状土製品 臼状土製品 残存部全部 - 外面体部と内面に白化粧土 - 1T 灰白色 底部に孔あり 茶道具風炉 - 1T 明褐色 土製品 土錘 土錘 - 1T 最大長 4.3/ 幅 2.3/ 厚さ2.3cm 91 土製品 鞴 鞴の羽口 - 1T 淡黄色 窯道具 窯道具 匣鉢 - 1T にぶい褐色 透かしあり, ツク痕あり 93 窯道具 窯道具 匣鉢 - 1T にぶい黄褐色 口唇部にツク付着, 透かし 94 窯道具 窯道具 匣鉢 - 1T にぶい黄橙色 ツク付着 95 窯道具窯道具匣鉢 - 1T 窯道具窯道具匣鉢 - 1T 窯道具窯道具匣鉢 - 1T 窯道具窯道具匣鉢 - 1T にぶい黄褐色にぶい黄褐色にぶい黄褐色にぶい黄橙色 99 窯道具窯道具棚板? - 1T 浅黄色 1 窯道具窯道具棚板? - 1T 浅黄色 11 窯道具窯道具棚板? - 1T 窯道具窯道具ツク - 1T 窯道具窯道具ツク - 1T 窯道具窯道具ハマ - 1T 窯道具窯道具焼台 - 1T にぶい黄色にぶい黄橙色にぶい黄橙色にぶい黄色明赤褐色 自然釉?/ 暗赤褐色 内面無釉 - アルミナ 自然釉底部外面 斑点状, 透かし, アルミナ, ツク痕 アルミナ, 透かし, ツク痕 自然釉 / 暗赤褐色自然釉 / 暗赤褐色自然釉 / 暗赤褐色 側面 - 厚さ 2.1 cm, アルミナ 側面 - 厚さ 1.5 cm, アルミナ 側面 - 厚さ 1.7 cm, アルミナ 匣鉢口縁部痕 最大長 6./ 幅 5.2/ 厚さ 3.9 cm, 付着物あり 厚さ 1.8 cm, 指頭圧 16 窯道具 窯道具 窯用品 - 1T 黒色 自然釉 / 暗赤褐色 ほぼ残存部全部 - 17 瓦 桟瓦 軒瓦 - 1T にぶい黄橙色 厚さ1.7cm, スタンプ 18 瓦 桟瓦 瓦 - 1T 灰色 厚さ2.cm, スタンプ 19 瓦 桟瓦 軒瓦 - 1T 灰色 厚さ1.8cm, スタンプ 11 瓦 桟瓦 瓦 - 1T 灰色 厚さ2.cm, スタンプ 111 瓦 桟瓦 軒瓦 - 1T 灰色 スタンプ 112 瓦 桟瓦 瓦 - 1T にぶい黄橙色 厚さ1.8cm, スタンプ 113 瓦 桟瓦 瓦 - 1T 褐灰色 厚さ1.8cm 114 瓦 丸瓦 瓦 - 1T 灰色 厚さ1.5cm, 布目 115 瓦 桟瓦 瓦 ( サイド ) - 1T 灰色 左右不明 116 砥石? 砥石? 砥石? - 1T 灰白色 厚さ3.9cm

53 表 4-4 出土遺物観察表 挿図番号 掲載番号 種別分類器種産地出土区層位 法量 ( cm ) 胎土の釉薬口径底径器高色調釉薬部位 時期備考 117 古銭 銅銭 琉球通宝 - 1T 琉球通宝當百, 長 2., 幅 3.3, 厚 古銭 銅銭 寛永通宝 - 1T 裏に文字有り?, 外径 2.5, 厚 古銭 銅銭 寛永通宝 - 1T 外径 2.4, 厚.1 12 銅製品 銅製品 ボタン ( 写真 ) - 1T 外径 2.5, 厚 銅製品 銅製品 フック ( 写真 ) - 1T 長 1.3, 幅 1.7, 厚.1 以下 122 銅製品 銅製品 釘 - 1T 長 6., 頭部径 1.4, 軸部厚.3 ~ 銅製品 銅製品 釘 - 1T 長 1.6, 頭部径.6, 軸部厚 銅製品 銅製品 釘 - 1T 長 2.7, 頭部径.6, 軸部厚.2 ~ 銅製品 銅製品 釘 - 1T 長 4.1, 頭部径.4, 軸部厚.2 ~ 銅製品 銅製品 釘 - 1T 長 3.2, 頭部径.9, 軸部厚 銅製品 銅製品 釘 - 1T 長 3.5, 頭部径.5, 軸部厚.2 ~ 銅製品 銅製品 釘 - 1T 長 9.7, 最大幅.6, 軸部厚 染付 碗 筒形碗 肥前系 2T 白色 透明釉 残存部全部 - 13 染付 碗 半筒碗 肥前系 2T 白色 透明釉 畳付は釉剥ぎ - 腰部と高台脇に二重圏線 131 染付 碗 碗 肥前系 2T 白色 透明釉 畳付は釉剥ぎ - 高台脇と底部に二重圏線 132 染付皿皿肥前系 2T 白色透明釉 蛇ノ目釉剥ぎ, 畳付は釉剥ぎ 18C 後半 ~ 幕末 内面と見込みに二重格子文 133 磁器 水注 急須? 肥前系 2T 白色 透明釉 残存部全部 19C 代 注口.9 ~ 1.1 / 注口穴.5cm 134 陶器 碗 丸碗 肥前系 2T 灰色 透明釉 残存部全部 - 陶胎染付, 口縁部に呉須で網目文 135 陶器 埦 埦 肥前? 2T 淡黄色 透明釉 残存部全部 - 貫入 136 陶器 埦 高坏? 皿? 苗代川 2T 淡黄色 透明釉 残存部全部 18C 代 内面に型押しで草花文 137 陶器 瓶? 瓶? 加治木 姶良系 2T 灰褐色 鉄釉 / 黒褐色 残存部全部 陶器甕甕苗代川 2T 明赤褐色 鉄釉 / 暗オリ - ブ褐色 口唇部無釉 139 陶器 壺 土瓶 苗代川 2T 赤褐色 鉄釉 口唇部 口縁部内面無釉 18C 後半 14 陶器 土瓶蓋 蓋 苗代川 2T にぶい赤褐色 鉄釉 上面施釉 18C 後半 最大径 1.cm 141 陶器 蓋 蓋 苗代川 2T 淡黄色 透明釉 口唇部外面無釉 18 世紀末 ~ 19 世紀初頭 重ね焼痕? 142 窯道具 匣鉢 匣鉢 - 2T にぶい黄橙色 ツク付着, ツクはアルミナ含む 143 窯道具 匣鉢 匣鉢 - 2T にぶい黄橙色 窯道具 匣鉢 匣鉢 - 2T にぶい黄褐色 重ね焼痕, ツク, 下部匣鉢付着 145 窯道具 匣鉢 匣鉢 - 2T 浅黄色 底部内面 円形にアルミナ? 146 窯道具 匣鉢 匣鉢 - 2T 浅黄色 ツク付着, 底部内面に円形にアルミナ? 147 窯道具棚板棚板 - 2T にぶい黄褐色 窯道具ツクツク - 2T 赤褐色 厚さ 1.5 cm 149 窯道具ツクツク - 2T 土製品 瓦質土器 植木鉢? - 2T にぶい褐色にぶい橙色 指, ハケナデ 厚さ 1.2 cm, 重ね焼痕, アルミナ 使用後綺麗に剥がれる, アルミナ含む 151 土製品羽口羽口 - 2T 灰黄色 先端部灰白色に変色あり 152 土製品土製品 153 レンガレンガ 154 レンガレンガ 155 レンガレンガ おはじき? 耐火レンガ耐火レンガ耐火レンガ - 2T レンガレンガ赤レンガ 2T レンガレンガ赤レンガ 2T レンガレンガ赤レンガ 2T にぶい赤褐色 最大 1.2 cm 2T 淡黄色 黄色, 浅黄橙色, 厚 6.1 2T 灰白色 浅黄橙色, 厚 6.1 2T 灰白色 スタンプ, 短辺 1.9, 厚 6.1 明赤褐色明赤褐色明赤褐色 小根占, 短辺 1.9, 厚 小根占, 漆喰?,L 字に変色有り, 短辺 11.7, 厚 6.2 小根占, 漆喰?, 短辺 1.7, 厚 レンガレンガ赤レンガ 2T 淡黄色 モルタル? 漆喰?, 厚 レンガレンガ 凹みレンガ 2T キソ 明赤褐色 基礎中より出土, 煤付着, 短辺 19.4, 最大厚 瓦 桟瓦 瓦 2T 灰色 漆喰 162 瓦 桟瓦 瓦 2T 灰色 くすべ瓦? 163 瓦 桟瓦 瓦 2T 灰白色 厚さ2.cm, 漆喰 164 鉄製品 165 鉄製品 166 鉄製品 167 鉄製品 168 鉄製品 パイプ状製品パイプ状製品パイプ状製品リング状製品パイプ状製品 鉄 2T 最大長 23.7, 最大幅 4.3, 最大径 3.3 鉄 2T 長 1.8, 頭部径 3., 軸部径 1.7 鉄 2T 長 7.5, 頭部径 1.7, 軸部径 1.2 鉄 2T 外径 4.4, 内径 3.9, 厚.5 鉄 2T 外径 2.1, 内径.7, 厚

54 表 4-5 出土遺物観察表 挿図番号 掲載番号 種別分類器種産地出土区層位 法量 ( cm ) 胎土の釉薬口径底径器高色調釉薬部位 時期備考 169 鉄製品 釘 鉄 2T 長 6., 頭部径.9, 軸部径.2 ~.4 17 鉄製品 鉄 2T 長 8.8, 幅.5, 厚 鉄製品 釘 鉄 2T 長 8.6, 頭部径 1.5, 軸部径.3 ~ 鉄製品 パイプ状製品 鉄 2T 長 13., 径 1.5 ~ 鉄製品 角釘 鉄 2T 長 7.6, 頭部径 1.1, 軸部厚 鉄製品 角釘 鉄 2T 長 7.8, 頭部径 1.2, 軸部径 鉄製品 鉄 2T 長 5., 幅 5.4, 厚 鉄製品 板状製品 鉄 2T 長 15.4, 幅 3.9, 厚さ.1 以下 177 磁器 水注? 水注? 3T ソセキ 淡黄色 銅釉 残存部全部 19C 代 把手 178 陶器 色絵 碗 京焼風 3T ソセキ 淡黄色 透明釉 外面腰部 ~ 高台内底は無釉 18C 前半 179 陶器 色絵 碗 - 3T ソセキ 灰白色 透明釉 銅釉? 外面腰部 ~ 高台内底は無釉 18C 前半 18 陶器鉢火鉢? - 3T ソセキ にぶい黄橙色 白化粧土? 口唇部 ~ 外面にある 181 陶器 - 3T ソセキ 灰白色 透明釉 残存部全部 窯道具 匣鉢 匣鉢 - 3T ソセキ 明褐色 自然釉 外面, 底部外面 - ツク付着 183 染付 碗 丸碗 肥前系 3T 白色 透明釉 残存部全部 - 外面に二重格子文, 口縁部内面と見込みに二重圏線 184 染付 碗 筒丸碗 - 3T 白色 透明釉 残存部全部 - 外面に草花文, 口縁部内面に雷文 185 染付 碗 端反碗 - 3T 白色 透明釉 残存部全部 - 外面に変様性の強い花唐草文, 口縁部内面に二重圏線 186 染付 碗 端反碗 在地 3T 白色 透明釉 残存部全部 染付 碗 端反碗 在地 3T 白色 透明釉 残存部全部 - 口縁部内面に四方襷文 188 染付 碗 端反碗 在地 3T 灰白色 透明釉 残存部全部 染付 碗 端反碗 - 3T 白色 透明釉 残存部全部 - 19 染付 皿 折縁皿? 肥前 3T 白色 透明釉 残存部全部 18C 後半 口縁部外面に針支えの跡 191 染付皿皿 - 3T 白色透明釉 畳付釉剥ぎ, 底部外面蛇ノ目釉剥ぎ - 18C 後半 ~ 19C 見込みに山水文, 蛇の目凹型高台 192 染付 皿? 皿? 肥前? 波佐見 3T 白色 透明釉 残存部全部 高台脇に三重圏線 193 陶器 皿 皿 在地 3T 橙色 黄褐色釉 外面口縁部のみ 194 陶器 皿 皿 苗代川 3T 淡黄色 透明釉 畳付釉剥ぎ 見込みに呉須で二重圏線と二重鋸歯文 195 陶器 合子 合子 竪野系 3T 灰白色 透明釉 合口無釉 18C 後半 196 陶器 鉢 鉢 苗代川 3T 白色 透明釉 アルミナ 197 陶器 蓋 蓋 苗代川 3T 淡黄色 透明釉 上面施釉 198 陶器鉢擂鉢薩摩 3T 陶器鉢擂鉢薩摩 3T 明赤褐色にぶい赤褐色 鉄釉 / 灰オリーブ色鉄釉 / オリーブ褐色 口唇部無釉 口唇部無釉 2 陶器 壷 壷 琉球 3T 赤褐色 - 沈線 2 条 21 陶器 甕 甕 琉球 3T 橙色 - 22 窯道具 匣鉢 匣鉢 3T にぶい黄橙色 自然釉 外面のみ 23 窯道具 匣鉢 匣鉢 3T にぶい黄橙色 自然釉 外面のみ アルミナ, 透かし 24 窯道具匣鉢匣鉢 3T 窯道具匣鉢匣鉢 3T にぶい黄褐色にぶい黄橙色 自然釉 - 底部外面無釉 ハケ目 ハケ目 ツク付着, 下の匣鉢口唇部ツクと一緒に剥がれる, アルミナ 26 窯道具 蓋 蓋 3T 浅黄色 - ツク付着, 匣鉢口唇部ツクと一緒に剥がれる, 四角 27 窯道具 ツク ツク 3T にぶい黄橙色 - 長 4.1, 幅 1.8, 厚 土製品 坩堝 坩堝 3T 暗灰色 - 外面銅熔着, 緑青錆付着 29 土製品 鞴の羽口 鞴 3T 浅黄色 - 外面熱変 21 瓦 桟瓦 軒瓦 3T 灰色 - スタンプ 211 瓦 桟瓦 軒瓦 3T 灰白色 - スタンプ 212 瓦 桟瓦 軒瓦 3T 灰色 - スタンプ 213 瓦 桟瓦 瓦 3T 灰黄色 - スタンプ 214 瓦 桟瓦 軒瓦 3T 灰色 - 櫛状の溝 215 瓦 桟瓦 瓦 3T 灰黄色 - スタンプ 216 瓦 桟瓦 瓦 3T にぶい黄橙色 - スタンプ 217 瓦 桟瓦 瓦 3T 灰黄色 - スタンプ 218 瓦 桟瓦 瓦 3T 灰色 - スタンプ 219 瓦 桟瓦 瓦 3T 灰白色 - スタンプ 22 瓦 桟瓦 瓦 3T 灰白色 - スタンプ 琉球通宝當百, 側面に サ の 221 銭 銅銭 琉球通宝 3T 刻印なし 長 5., 幅 3.4, 厚.3 ツク付着

55 第 5 節自然科学分析本遺跡で,Ⅰ 層の一部に緑青によるものと思われる青灰色に変色した土塊が見られた 変色部分は周辺よりも硬く締まっており, 重金属を含む液が流れ込んだような印象であった この一帯は藩政時代に反射炉をはじめとした近代的な工場群が立ち並んだところであり, その工場から流れ出た可能性もある そこで, これらについて形状観察と成分分析を試みたので, ここに報告する 1 試料 資料 Ⅰ 層内で採取した青灰色土塊の中から, 特徴ある塊を 4 点選別し, 分析試料とした また,Ⅰ Ⅱ 層の青灰色変色が見られない部分からも試料を採取した 出土遺物では, 銅釘 (122,125,127), 琉球通宝 (221) を分析対象とした 試料 1(11M121~23,11~2): 緑青部分が鮮明試料 2(11M131~33,111~13): 一部硬化面あり試料 3(11M141~43,121~22): 礫を多く含む試料 4(11M151~59): 層状の塊試料 5(11M191~93):Ⅰ 層試料 6(11M181~83):Ⅱ 層 11M は測定 No. 2 観察 分析方法 ⑴ 形状観察目視による観察のほか, 双眼実体顕微鏡 (NIKON SMZ1) による8~3 倍観察を行った ⑵ 成分分析エネルギー分散型蛍光 X 線分析装置 ( 堀場製作所製 XGT-1,X 線管球ターゲット : ロジウム,X 線照射径 1μm) を使用して, 次の条件で分析した X 線照射径 1μm X 線フィルタなし測定時間 2s 試料セルなし 5kV P2 X 線管電圧パルス処理時間 15kV/5kV P3 電流自動設定定量補正法スタンダードレス 3 結果 ⑴ 形状観察双眼実体顕微鏡観察により, いずれの試料にも緑青 ( 塩基性炭酸銅 CuCO 3 Cu(OH) 2 など ) と思われる結晶を確認した 試料 4は, 炭化物を含む層と緑青の結晶を多く含む層を確認できる ( 写真 8-8,9,1) いずれの層にも.2~.3mm 程度の金属光沢を持つ黒色粒が見られる この粒は, 磁石に反応した 銅釘は全体が緑青色を呈し, 琉球通宝は表面の腐食層に砂礫が強固に付着している ⑵ 蛍光 X 線分析分析の結果, 青灰色の土塊からはいずれも銅 (Cu) 鉛 (Pb), 鉄 (Fe) のピークが得られた ( 次頁図 1 参照 ) 検出された主な金属元素はこれら3 種類であり, 試料ごとに比較すると同じ試料でも分析ポイントにより差が大きい 試料 1からはごく微量の錫 (Sn) を検出したが, そのほかの試料及び銅釘からは検出されず, 琉球通宝では明らかな錫のピークが見られた 青灰色以外の試料 (Ⅰ 層,Ⅱ 層 ) からは銅 鉛はほとんど検出されず, 鉄のピークも青灰色層に比べて低い結果が得られた 鉄についてはこれらの値が土壌本来の含有値であろう アルミニウム (Al) やけい素 (Si) など, 上記 3 元素以外の元素は土壌に由来するものと考えられる 4 考察分析値の重量 % 濃度は, 標準試料による補正のない値であるため参考値として扱うが,3つの金属元素については分析ポイントによる分析値のばらつきが大きい この点については, 土塊自体が砂礫の塊であること, 銅が緑青の形で砂礫の表面に結晶化していることなどが考えられる 鉄については, 磁性を持つ粒子の影響が大きいと思われる この粒子については, 国内の砂鉄分析例で Ⅰ 層内青灰色土塊 2 試料 1 3 試料 2 4 試料 3 5 試料 4 6 試料 5 7 試料 6 8 試料 4 断面 a: 炭化物を含む層 b: 緑青を多く含む層 c: 砂と小礫の層 9 試料 4 炭化物層拡大 1 試料 4 緑青層拡大 8 9 写真 8 土壌試料画像

56 は硫黄が確認されている例が多いが 今回の分析では が検出されていないことや 砂鉄の中には非磁性のもの 土塊試料の分析ポイント25箇所のうち24箇所は硫黄 S もあるため さらに詳細な検討が必要である Ⅰ Ⅱ層 表5 の試料ではほとんど検出されな 蛍光X線分析結果 かった銅 鉛が高い濃度で検出さ 測定No. 11M111 11M M M151 11M152 11M155 11M156 11M157 11M159 11M191 11M1151 Al アルミニウム Si けい素 P りん 1.1 S 硫黄.4.4 K カリウム Ca カルシウム Ti チタン Mn マンガン Fe 鉄 Cu 銅 Zn 亜鉛 Rb ルビジウム.1.1 Sr ストロンチウム Sn 錫.6 Pb 鉛 Fe Cu れたことは この青灰色層がこの 2種類の金属により汚染されたこ とを示している また 試料4の ように土塊の中にも層状の緑青帯 が見られることから 付近の工場 群の中でこれら2種類の金属を 扱っていたこと 銅釘製造など そしてその廃液が流れ出ていたこ とが推察される Fe Si Si Cu Fe Fe Cu Pb Pb Cu Pb Pb Fe Si FeFeCu Si Ti FeCu Cu Pb Pb Fe Cu Cu Ti Si Pb Pb Pb Pb Fe Cu Cu Si Fe Fe Fe Cu Pb Pb CuCu Si Si Fe Fe 第25図 蛍光X線分析結果 39 Pb Pb

57 第 6 節調査総括 1 遺構今回の調査で確認された遺構をトレンチごとにまとめると, 次の通りである これらの遺構の時期差について, 検出レベル ( 第 25 図 ) や古写真 ( 写真 4) 文献等から考えてみたい トレンチ遺構切石布基礎, 坪地業 1T 緑青のある三和土, 石垣 2T 布基礎 3T 切石布基礎, 坪地業まず,1トレンチである 坪地業は, 切石布基礎の切石とほぼ同じレベルで検出されている そして切石布基礎は, 緑青のある三和土を掘り込んでつくられている 石垣は, 布基礎と緑青色をした三和土 (1 層 ) および同時期の旧地表面と考えられる黒色砂層 (9 層 ) に覆われている このことから,Ⅰ 期 ( 石垣 ) Ⅱ 期 ( 緑青のある三和土 ) Ⅲ 期 ( 切石布基礎 坪地業 ) と変遷したと, 考古学的層位関係から考えられる また,2トレンチの布基礎は,1トレンチのものとほぼ同レベルで検出され, 構造もほぼ同じなので,Ⅲ 期のものと判断した 3トレンチの切石布基礎は, 他の2つのトレンチの布基礎とほぼ同レベルで検出され, 構造もほぼ同じなので, Ⅲ 期のものと判断した 坪地業については,9 層の明褐色土層に覆われており, 切石布基礎は9 層を掘り込んで造られている よって, 坪地業は切石布基礎よりも古いと判断し,Ⅰ 期あるいはⅡ 期の遺構と判断した 次に, それぞれの時期の遺構が何に関連するものかという点である Ⅲ 期の遺構であるが, これだけの基礎をもつ石造建築物は, 文献の面から考慮してみても, 鹿児島紡績所であるということは, まず間違いないだろう また, 鹿児島紡績所の建設場所は, 琉球通宝を鋳造していた鋳銭所の跡地であった また鋳銭所の建設場所は, 今和泉島津家の磯屋敷跡であった このような土地の来歴と, 今回の発掘調査の結果から, 次のように遺構を区分した 時期トレンチ遺構 Ⅰ 期木造建築の屋敷 1T 石垣 ( 今和泉島津家の磯屋敷?) 3T 坪地業 (Ⅱ 期?) Ⅱ 期鋳銭所? 1T 緑青の三和土 1T 切石布基礎 Ⅲ 期石造建築物坪地業 ( 鹿児島紡績所 ) 2T 布基礎 3T 切石布基礎 は,7 層の赤灰色砂質土層が切石布基礎を完全にパックしている状態だったので, 遺物を取り上げる際に7 層から下は, 特に注意を払い遺物取り上げを行った その結果,6 層より上では, コバルト釉の施された磁器が見られたが,7 層から下ではそれが見られなかった 鹿児島大学の渡辺芳郎教授の遺物指導でも, それを確認していただくことができた また, 時期を特定できるような磁器を見ていただいたが, いずれも幕末 ~ 明治期よりも古いものである との指導をいただいた このことから, 7 層より下層は, 明治時代よりも古い時期の層であると考えることができる このように, 遺構 文献史料 出土遺物から判断すると, 今回の調査で検出した遺構は鹿児島紡績所のものであると判断することできる 2 遺物出土遺物の特徴として2 点挙げられる まず第一に, 窯道具についてである すべてのトレンチで窯道具が出土した 当初, この窯道具は大正時代の仙巌焼に関連するものであろうと思っていた しかし調査を進めるなかで, かなり下層まで窯道具が出土した 先に述べたように,7 層あたりが幕末から明治の境界になると考えられるので, それより下層から出土しているものは, 仙巌焼のものとは考えにくい では, どの窯に由来するものなのであろうか 渡辺教授によると, 磯窯 の可能性があるということであった 磯窯は島津斉彬が集成館と磯御殿の中間地点のあたりに造らせた窯で, 陶磁器や反射炉用の耐火レンガが生産されていたと考えられている 磯御庭焼 ともいわれることから, 窯道具も竪野系のものであることが推測される 出土した窯道具も竪野系のものなので, その点は矛盾しない いずれにしても, 磯窯本体の様子がもう少し解明されることを待ちたい 二番目としては, 茶入についてである 幕末当時, 茶入を持つ人々はごくわずかしかいなかったはずである 今回の調査で, 茶入が数点出土している 茶入は火を受けた様子もなく, 火災等の被害によるものではなさそうである 文献にあるように, この地には今和泉島津家の別邸があったようなので, そのような上級武士の屋敷に関連する可能性がある あるいは, さきほどの 磯窯 で焼かれたものの破片という可能性もあるのではないだろうか このことを出土遺物から検討してみる 1 トレンチで - 4 -

58 a C E' H=3.m C ① 9 硬化面1 水道管掘削坑 石敷 8 9 H=2.m H=3.m H=4.m C 硬化面1 C' E' D' D E C 褐色土版築 石敷 グリ石層 石敷 明褐色土 D' 1. 掘り込み 緑青色土 a 2.m H=2.m H=3.m B' 各トレンチの検出遺構のレベル比較 鹿児島紡績所跡 D a b c C地点 ( 市教委 ) 基礎の敷石レベル 標高約 2.3m 海岸道路レベル 市教委 標高約 3.8m 標高 3.m B地点 ( 市教委 ) 各トレンチ間の検出遺構レベル比較 ( 鹿児島紡績所跡 ) 掘り込み D' 第26図 D 焼土 1 As アスファルト) 2 小砂利層 3 小豆色豆石層 4 旧側溝石組 5 黄褐色礫積層(鳥越トンネル掘削土礫) 6 硬化面1 7 混礫赤褐色砂質土 8 灰褐色砂質土 9 硬化面2 1 灰黄褐色砂質土 11 凝灰岩礫盛土層 1 C' 緑青色土 第 26 図 H=2.m ① 明黄褐色砂層 海の砂という感じ サラサラ 赤灰色礫混層 小礫 中礫 明褐色土層 造成土 C' 7 6 A' a 黒褐色砂質土 b 褐色砂質土 b C' ① 7 レンガ c 41 E 6 E' コンクリート基礎 b H=3.m D' C E 黒色土 漆喰 D 緑青色土 B C' 3トレンチ ' F 2トレンチ F コンクリート基礎 1トレンチ A c b a

59 42 T 第27図 T-2-1 電 電 5.43 T-2 C地点 ジョイフル 第27図 日豊本 線 磯旧街道 T B地点 ローソン跡 5.53 2トレンチ 鹿児島紡績所跡遺構の軸線 T-3-2 国道10号線 5.58 タクシー乗り場 T-1-1 T-3-1 T-3 電 4. 3トレンチ T 開花亭跡 磯工芸館 鹿児島紡績所跡 遺構の軸線 及び平成11年度鹿児島市教委トレンチ配置図 B C地点 約2m 1トレンチ m 3.83

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62 第 4 章祇園之洲砲台跡 第 1 節遺跡の位置と環境 1 地理的環境祇園之洲砲台跡は, 鹿児島県鹿児島市清水町 1 番に所在する ( 遺跡位置図 ) 吉野台地から錦江湾に流れる稲荷川の河口に立地し, 川に沿って舌状に延びる多賀山の急峻な崖下にある 眼前に桜島を眺め, 錦江湾を臨む地に, 幕末期に造られた埋立地上に築かれた砲台である 稲荷川を挟んで, 対岸も江戸期の埋立地である 遺跡の立地する河口より少し奥からは沖積地が広がり, その奥に吉野台地, 城山が控えている 2 歴史的環境 ⑴ 祇園之洲砲台跡略歴砲台の所在する埋立地は, 第十代藩主島津斉興の命により稲荷川の浚渫土で造られ, 埋立て後, 兵士の屯集所として使用された 1853( 嘉永 3) 年に第十一代藩主島津斉彬によって砲台が築造され,1858( 嘉永 8) 年に第十二代藩主島津忠義によって改修が行われ,1863( 文久 3) 年の薩英戦争 ( 島津忠義 ) では激戦地となり, 壊滅的打撃を受け, 戦争直後に改修が行われた その後,1872( 明治 5) 年の明治天皇行幸の際には御召艦隊との砲撃演習が行われ, このときに撮影された古写真が残っている ( 巻頭図版 8) また,1877( 明治 1) 年に起きた西南戦争では政府軍によって使用不可能にされ, 西南戦争終結後は官軍墓地として使用された 墓地は, 荒廃が進み,1951( 昭和 26) 年に来襲したルース台風により甚大な被害を受けた 1952( 昭和 27) 年には市営アポートが建設され, その後 1955( 昭和 3) 年に官軍墓地の収骨を行い, 合葬碑が建てられ, 公園として利用されるようになった 1974( 昭和 49) 年に鹿児島市は, 史的評価を考慮し, 祇園之洲砲台跡を鹿児島市指定史跡とした 平成 9 年度には,8.6 水害により甲突川の河川改修が必要となり, 川に架かっていた高麗橋と玉江橋を祇園之洲砲台跡に移設し, 公園整備をするため, 移設地の発掘調査が行われた ⑵ 祇園之洲砲台跡周辺の歴史遺跡の背後にある多賀山には, 島津氏が鹿児島に勢力拡大する際に居城とした東福寺城 (8), 浜崎城 (9) があり, 八坂神社 ( 祇園神社 ) に隣接している また, 稲荷川の奥には一時島津氏の内城であった大竜遺跡 (12), 寺社, 城下町等があり, このほかに武器 武術関連の施設としては,1847( 弘化 4) 年設置された砲術館があり, 稲荷川の対岸には,1847( 弘化 4) 年に 設置され青銅砲等の武器を製造した鋳製方などがあったことが知られている ( 第 3 図 ) 第 28 図の天保年間頃の絵図を見るとまだ埋立等が行われておらず, 安政年間作成の第 29,3 図を見ると埋立が行われ砲台が築造されている 明治以降, 海岸部は次々と埋立てられ, 港や水路が整備され現在に至っている 第 28 図鹿児島城下屏風絵図 ( 鹿児島市立美術館蔵 ) 天保年間第 29 図旧薩藩御城下絵図 ( 鹿児島県立図書館蔵 ) 安政年間第 3 図鋳製方 薩州見取絵図 ( 武雄市歴史資料館蔵 ) 安政 4 年

63 表6 祇園之洲砲台跡 番号 周辺遺跡地名表 遺跡名 所在地 地形 1 集成館跡 鹿児島市 吉野町磯 低地 近世 末 時代 建物跡 鍛冶場跡 遺物等 市埋文報 29 備考 2 雀ヶ宮B 鹿児島市 吉野町雀ヶ宮 丘陵 縄文 草 前平式 石坂式 吉田式 工事中発見 3 前平 鹿児島市 吉野町雀ヶ宮前平 4 滝ノ上火薬製造所跡 鹿児島市 吉野町滝ノ上 低地 近世 5 清水城跡 鹿児島市 清水町大興寺岡 丘陵 中世 近世 陶磁器類 市埋文報 16 6 大乗院跡 鹿児島市 稲荷町清水中校庭 丘陵 中世 近世 排水溝 上水管 市埋文報 3 6 7 福昌寺跡 鹿児島市 池之上町玉龍高校一帯 低地 中世 近世 建物跡 陶磁器類 市埋文報 14 47 8 東福寺城跡 鹿児島市 清水町田之浦 丘陵 平安 中世 曲輪 空堀 9 市埋文報 22 浜崎城跡 鹿児島市 清水町田之浦 丘陵 中世 1 祇園之洲砲台跡 鹿児島市 清水町祇園之洲 低地 近世 末 11 浜町 鹿児島市 浜町1 低地 近世 大龍遺跡群 鹿児島市 大竜町 池之上町 春 日町 段丘 縄文 前 中 後 晩 弥 生 古墳 中世 近世 大龍遺跡群 大龍 鹿児島市 大竜町 段丘 縄文 前 中 後 晩 弥 生 古墳 中世 近世 深浦式 並木式 阿高式 指宿式 市来式 鐘ヶ 市埋文報告 1 2 崎式 西平式 納曽式 上加世田式 入佐式 7 15 32 33 成川式 土鈴 土錘 石匙 石鏃 石皿 軽 34 48 石製品 スイジガイ 大龍遺跡群 若宮 鹿児島市 池之上町 段丘 縄文 前 中 後 晩 弥 生 古墳 中世 近世 西平式 市来式 御領式 大龍遺跡群 春日町 鹿児島市 春日町 段丘 縄文 前 中 後 晩 弥 生 古墳 中世 近世 春日式 阿高式 指宿式 西平式 鐘ヶ崎式 市来式 有孔軽石円盤 13 竪野冷水窯跡 鹿児島市 冷水町竪野 丘陵 近世 窯跡 窯道具 陶磁器類 14 垂水 宮之城島津家 屋敷跡 鹿児島市 山下町14 低地 近世 屋敷境溝 陶磁器類 県埋セ報 48 15 名山 鹿児島市 山下町名山小校庭 低地 近世 近代 暗渠 近世陶磁器 市埋文報 8 38 16 造士館 演武館跡 鹿児島市 山下町中央公園内 低地 近世 現代 建物跡 近世陶磁器 市埋文報 13 12 市埋文報 23 暗渠 近世陶磁器 県埋セ報 25 市埋文報 24 竪野冷水窯跡 南 風病院 17 鹿児島城跡 鶴丸城 鹿児島市 城山町5 低地 縄文 奈良 近世 近代 建物礎石群 石製水道管 排水溝 雨落溝 井戸 県埋文報 55 6 池 近世陶磁器 瓦他 市埋文報 上山城跡 新照院町 丘陵 中世 土塁 空堀 鹿児島市 2 3 4 5 13 8 6 7 9 1 第31図 周辺遺跡地図 第31図 周辺遺跡位置図 44

64 第 2 節発掘調査の方法 1 発掘調査の方法今回の発掘調査は, 祇園之洲公園内に石垣, 土塁, 護岸が露出している箇所を中心に, 第 32,33 図の古絵図, 巻頭図版古写真 ( 明治 5 年鹿児島港 ) を参考にトレンチを設定して行った 各トレンチは, 露出している石垣を境に砲座の構造と残存状況, 石垣正面の構造と残存状況を調査するトレンチと石垣の天端や裏込の構造 残存状況と土塁の構築法や残存状況を調査するトレンチの2つを対にして, 東側から1,2トレンチ,3,4トレンチ, 6 7,8トレンチと設定し, 石垣が露出していない箇所に5トレンチ,9トレンチ,1トレンチを設定し, これらのトレンチを補完する目的で11~13の3つのトレンチを設定した また, 地形測量は, 世界測地系を基準に行った 検出遺構の実測や土層断面図の作成は, 任意に設けた点を結び世界測地系を基に行い, 一部実測測量を行った 2 整理作業の方法整理作業は, 鹿児島紡績所跡, 祇園之洲砲台跡, 天保山砲台跡の3 遺跡を総じて行った 第 3 節層序本遺跡は, 大まかに砲座, 土塁, 護岸, 中央の弾薬庫を含むその他の砲台関連施設, 官軍墓地の地区 ( 遺構 ) に区分できる 13か所のトレンチを設定して調査を行ったところ, 層序は地区毎に異なっていた 各地区の基本層序は, 下表のとおりであり, 詳細については, 各トレンチ毎に図示する 表 7 祇園之洲砲台跡の基本層序 砲座土塁そ の 他 表土 公園造成土含む 表土 公園造成土含む 表土 公園造成土含む 砲座を構成する土層土塁を構成する土層その他の造成土 埋立地の造成土 ( 砂層 ) 埋立地の造成土 ( 砂層 ) 埋立地の造成土 ( 砂層 ) 第 32 図祗園洲臺場圖 薩藩海軍史

65 第 4 節発掘調査の成果第 34 図のように13 箇所のトレンチを設定して調査を行った結果, 遺跡の残存状況を把握できた これについては, 第 5 節で記述する 更に, 石垣に チキリ工法 が用いられていることが分かり, それを手掛かりに, 築造時のまま残存している箇所と再構築されている箇所を分別する結果を得ることができた 以下, トレンチ毎に遺構 遺物について述べていきたい 1 1 2トレンチ ( 第 35 図 ~ 第 38 図 ) 1 2トレンチは,1993( 平成 5 年 ) 年の豪雨水害後, 鹿児島市教育委員会が平成 9 年度に発掘調査を行い, 五石橋の一つであった玉江橋が移設復元された場所のとなりに設定した 今回は平成 9 年度調査成果との比較と, 砲座, 胸墻の構造調査, 残存度の把握を目指した その結果, 前回の調査の成果とほぼ同様の遺構が残存していることが分かった また, 出土遺物は, 砲台の時期とそれ以前の遺物が混在して出土した これは, 祇園之洲砲台が稲荷川河口の浚渫土砂で築造されたためと考える ⑴ 遺構 ( 第 35 図 ~ 第 37 図 ) ア石列 1( 第 36 図 ) 1トレンチの地表下約 1.5mで検出した 覆土は, 砂と土を交互に積んだ版築層ではないが, 砂と土が混在する層で, 下部の層は, 砲台の基盤となる浚渫の土砂である 石列 1の石付近では層が乱れており, 再構築された可 能性もある 石列 1は砲台の土塁の最初期の端で, 最初期の土塁は両面石で畳まれたものであったのか, それとも石列 1が砲台築造前の屯集所のものであるのかは不明である また, 鹿児島市教委の調査でもこれとよく似た石列が検出されており, 石列 1と1 直線上に並ぶ ( 第 61 図 ~63 図 ) イ石列 2( 第 37 図 ) 2トレンチで地表下約 1mで検出した 胸墻の石垣の石と異なり, 正面が海側を向き, また, 形も不揃いである この石列は胸墻の石垣の下に潜っており, この場所で胸墻の石垣が6 段と7 段に分かれる 埋立が行われた浚渫土と考えられる砂層の上に構築され, 砲台築造前の遺構の可能性がある ウ石垣 ( 第 37 図 ) イの石列の上に構築されていた イでも記載したが, 石列 2の左右で6 段と7 段に分かれている 石列を避けたためか, 構築時に一段低い箇所があったためかは不明である 天端の標高は約 6mで最下段から2~3 段は石垣の構築時から地中となっており,3~4 段 (1m~1.2m 程度 ) が地表に出ていたと考える 石は, スダレ加工ではなく, その他のトレンチと異なり, 加工全体が雑で正面から先細りに加工され, 成層積みである チキリ石 及び チキリ穴 が見られず, 裏込石もさほど多くない 第 33 図祗園之洲砲臺之圖 薩藩砲臺圖稿本

66 X= X=-1546 *世界測地系 Y=-49 Y= 稲荷川 W.C 現場事務所 ⑩ 碑 ⑨ 4.8 西南 の 戦没 役官軍 者慰 霊塔 橋 碑 4.91 高麗 ⑧ 4.73 ⑦ 砲台跡 ④ 碑 祇園之洲砲台跡周辺地形図及びトレンチ配置図 之像 郎 碑 Y=-485 三五 岩永 第34図 E C18 ① 薩英戦争記念碑 玉 橋 5 江 Y=-47 Y=-47 Y=-495 Y= Y=-48 Y= Y= Y=-475 Y=-475 X= m X= X=-1546 X=-15455

67 A A エ 土塁 第35図 土塁は 版築状に土と砂を交互に混ぜて積み上げられ 石 ている ⑪層 石 1トレンチの表土から⑨⑩の層までは昭和以降の遺物 カクラン 土管 と江戸時代 明治時代の遺物が混在しているが ⑨⑩よ り下層からは江戸時代の遺物のみが出土したことから 段差を持ち 斜めに上がる箇所がある 旧表 ① ④ ⑨⑩は昭和期までの旧表土と考えられる 更に層⑨⑩は 昭和期と思われる表土⑨⑩の観察から 現在は整備さ 状にせり上がっていたと考えられ 昭和期のある時期ま でその形状を保っていたと考えられる ① この⑨⑩が 傾斜しているラインを下層に延長して b a ④ ① b 固く締まり 礫等は含まない 出土遺物もなかった a 軽石 大きく撹乱を受けているが 撹乱を受けていない箇所 a では 残存していることが分かった 遺物 第38図 b ⑵ 出土遺物の詳細は表8の遺物観察表に示した a かったが レンガや 明治以降の染付け ガラスの小片 b 1トレンチの⑨層の出土遺物は図化できるものが少な 江戸時代の薩摩焼片などが混在しているため昭和期の表 摩の仏花器 琉球産の小型の瓶などの江戸時代の複数の ⑪ 時期の遺物が混在している 摩滅したものもあり 出土 ⑩ ⑦ 3 4トレンチ 第39図 第44図 ⑨ のも含まれていると考える b a した遺物は砲台使用時のものの他に埋立地に由来するも 表土 芝 黒色土 a は在地産や肥前産の碗 皿類や薩摩焼の生活用具 白薩 b 土と考える ⑪層は 胸墻の土塁であり 出土遺物 1 2トレンチと6 7トレンチの間に 砲座 胸墻 b a ⑩ 果 遺構が残存していることが分かった また 出土遺 ⑧ の構造調査と残存度の把握を目指し設定した その結 d c 2.m 暗灰褐色砂層 より粘質土の割合が高い ⑦ 混礫砂層 ⑧ 黄褐色砂層 基盤層 a白色砂層 b灰白色砂層 礫 粘質土混じり ⑨ 灰色粘質土 灰褐色砂層 bより粘質土の割合が高い ⑩ ⑪ 2トレンチ 表土 旧表土 灰色土 ⑨に礫が混じる 褐色硬質土 a bともにつき固められてる 第35図 ① 明褐色砂質土 砲座硬化面 礫含まない 黄褐色砂質土 ④ 褐色砂質土 黄褐色砂層 基盤層 浚渫 1 2トレンチ土層断面図 第35図 1 2ト レ ン チ 土層断面図 48 A 褐色砂層 6.m 黒色火山灰層 ④ 1 100 1. 5.m 1トレンチ 表土 表土 4.m A 縮尺 カクラン 造されたためと考える 礫捨て場 カクラン た これは 祇園之洲砲台が稲荷川河口の浚渫土砂で築 造成土 樹痕 ⑨ 物は 砲台の時期とそれ以前の遺物が混在して出土し ① カクラン 2 6.m 砲座 第35図 2トレンチ土層図の①である 5.m 4.m いったところから 石列1を検出した オ 表土 カクラン 石 れ見えないが 護岸から平場を持ち 胸墻の土塁が堤防

68 4.m 6.m ① A A 矢穴 3.5m D C D C A 4.m D 3.5m 4.m C 3.5m C D B 4.m B B 砂 d ④ ④ 砂 c ⑧ 3.5m 5.m a A B a b b b b a a 礫 ① ④ 表土 褐色砂 小石混じる 明褐色土 礫混じる 灰色粘土層 灰褐色砂層 bより粘質土の割合高い 黄褐色砂層 基盤層 縮尺 ⑧ 2.m 1トレンチ検出遺構 石列 A' B' 第36図 1 50 1. 6.m A A' 5.m C' B C A 4.m 6.m C' C ④ ④ 6.m B' B 5.m 5.m 4.m 4.m 黄褐色砂層 縮尺 第37図 2トレンチ検出遺構 石垣 49 1 50 1. 2.m

69 第 38 図 1 トレンチ出土遺物 1~15,17~19,21~27-5 -

70 1トレンチ出土遺物観察表 出土区 掲載番号 挿図番号 表8 種別 分類 器種 産地 磁器 染付 染付 染付 染付 陶器 染付 碗 碗 碗 皿 碗 埦 蓋 碗 碗 碗 皿 碗 埦 蓋 波佐見 肥前 白薩摩 1T 1T 1T 1T 1T 1T 1T 8 陶器 瓶 土瓶 薩摩 1T 9 陶器 瓶 1 陶器 仏具 土瓶 薩摩 1T 急須 花器 白薩摩 1T 11 染付 瓶 小型瓶 琉球 1T 陶器 陶器 陶器 陶器 瓦 磁器 鉢 擂鉢 薩摩 壷 小壷 薩摩 壺 壺 琉球 鉢 鉢 薩摩 瓦 桟瓦 仏具 仏具 碗 碗 18 染付 肥前 蓋 蓋 19 陶器 甕 甕 薩摩 2 レンガ レンガ レンガ 21 染付 皿 皿 22 染付 蓋 蓋 肥前 23 磁器 蓋 蓋 24 陶器 瓶 土瓶 薩摩 25 染付 壺 壺 26 陶器 鍋 鍋 薩摩 苗代川 27 陶器 鍋 鍋 層位 法量 口径 底径 器高 最大径6 7 ⑧ 1T ⑨ ⑨ ⑨ ⑪上 ⑪下 ⑪ 4.8 ⑪上 ⑪上 ⑪上 ⑪上 18.2 釉 種類 色調 薬 部 淡橙色 白色 白色 白色 白色 淡黄色 白色 透明釉 透明釉 透明釉 透明釉 透明釉 透明釉 透明釉 橙色 鉄釉 オリーブ褐色 時 位 期 備 にぶい赤褐色 鉄釉 残存部全部 淡黄色 透明釉 残存部全部 穴の所 指おさえ にぶい赤褐色 鉄釉 オリーブ灰色 橙色 明橙色 白色 透明釉 白色 透明釉 白色 透明釉 白色 灰赤色 鉄釉 オリーブ灰色 灰白色 透明釉 褐灰色 鉄釉 暗オリーブ色 赤褐色 鉄釉 暗オリーブ褐色 厚さ6 2 口唇部無釉 残存部全部 残存部全部 内面のみ 底部外面無釉 内面無釉 残存部全部 口唇部無釉 明治以降 明治以降 回転ナデ 回転ハケ目 文字 加工痕 付着物 口唇部茶色釉 放射状 回転ナデ 回転ナデ 把手 回転ナデ A 石垣 A 黄褐色土 杭 a カクラン ④ ④ ④ ① ④ ① うす紫のハサイ礫層 表土 明褐色土 凝灰岩破砕礫混じる 褐色土 客土 明褐色土 黄白色砂層 明褐色土 凝灰岩破砕礫混じる 赤灰色凝灰岩破砕礫層 カクラン 礫多し 礫多し 砂 砂 礫 カクラン a a 6.m a a カクラン 5.5m ④ 礫 礫 5.m 礫 縮尺 1 50.5 1.m A 6.m 5.m 2.m 4.m 1. 3.m 1 100 A 縮尺 考 残存部全部 18世紀後半 鉄絵 残存部全部 明治以降 残存部全部 底部蛇ノ目釉剥ぎ 畳付は釉剥ぎ 18世紀代 富貴長春 残存部全部 重ね焼痕 残存部全部 つまみ 煤付着 回転ハケ目 回 底部付近無釉 転ナデ 回転ナデ 17世紀後半 内 回転ナデ 灰白色 透明釉 内側畳付は釉剥ぎ 18世紀初頭 外 回転ヘラ にぶい赤褐色 鉄釉 暗灰黄色 口唇部無釉 ローリング 回転ハケ目 褐灰色 鉄釉 暗オリーブ褐色 口唇部無釉 貝目 回転ナデ 赤褐色 自然釉 暗赤褐色 内面無釉 内 ナデ 重ね焼 灰褐色 鉄釉 暗オリーブ褐色 残存部全部 貝目 回転ナデ 指頭圧 厚さ2 1 灰白色 灰色 最大径2 6 稜 白色 透明釉 残存部全部 口唇 白色 透明釉 色絵 赤金 口縁部内面釉剥ぎ A a 胎土の色調 最大径11 6 1T 1T 1T 1T 1T 1T 1T 1T 1T 1T 1T 1T 1T 1T 1T 第39図 第39図 3トレンチ土層断面図 3トレンチ土層断面図 第4図 3トレンチ検出遺構 チキリ石 3トレンチ検出遺構 チキリ石 第4図 51

71 第 41 図 3 トレンチ出土遺物

72 表 9 3 トレンチ出土遺物観察表挿⑴ 遺構 ( 第 39,4,42,43 図 ) ア砲座 ( 第 42 図 ) 4トレンチで調査を行った 2トレンチ同様に大きく撹乱されていたが, 撹乱を受けていない箇所では残存していた 土層図中の1である 固く締まっているが,6 7トレンチで検出した下部の敷石は見られなかった また, 胸墻の石垣付近に石が配してあったが, 撹乱を受け形状を保っておらず, 用途などは不明である イ石垣 ( 第 4 図,43 図 ) 胸墻の石垣は7 段で天端の標高が約 6m,2~3 段は地中であった 正面にはスダレ加工が施され, 長方形に丁寧に成形されている 成層積みでつくりが全体としてしっかりしているが, 裏込の石はさほど多くない 下部に胴木等はなく, 直接基盤層の砂層に構築されている 3トレンチでは石垣の天端にホゾを開け, 石を入れて 2つの石を結合させる チキリ工法 が取られており, 4トレンチでは チキリ石 が見られる箇所と チキリ穴 が揃わない石垣天端の石が積み直されたと考えられる箇所があった ウ土塁 ( 第 39 図 ) 3トレンチで調査を行った 土と砂を交互に積んだ版築工法が採られ (34 層 ), きれいな互層をなしている しかし, 海側半分は大きく撹乱され8トレンチ同様に新しい客土が入っていた この3 4トレンチの前の護岸がコンクリートであることから, ここが昭和 26 年に襲来したルース台風の被害箇所で, 客土は修復が行われたためと考える ⑵ 遺物 ( 第 41,44 図 ) ア 3トレンチ出土遺物の詳細は表 9の遺物観察表に示した 34 層からの出土遺物は, 器種も豊富で図化できるものが多かった また, 摩滅の激しい遺物も見られ, 複数の時期のものが混在している このことは, 出土した遺物は砲台使用時のものの他に埋立地に由来するものも含まれているためと考える 出土した碗や皿類は, 在地産のと肥前産のものとがあり, 複数時期のものが混在している その他, 薩摩焼の生活用具や45の琉球産の擂鉢,48の桟瓦が出土した 5( 裏込 ) の遺物は,5の1 点のみ図化できた 19 世紀の丸型碗である 図番号41 掲載番号種別分類器種産地出土区層位 法量 ( cm ) 釉薬cm胎土の色調口径底径器高種類 / 色調部位 28 染付皿皿 3T 表 白色透明釉 蛇ノ目釉剥ぎ, 畳付は釉剥ぎ 時期備考 アルミナ 29 染付碗碗 3T 白色透明釉残存部全部呉須緑色っぽい 3 染付碗端反碗在地 3T 白色透明釉残存部全部 31 染付 碗 端反碗 清朝磁器 3T 白色 透明釉 残存部全部 32 染付 碗 端反碗 在地 3T 白色 透明釉 残存部全部 33 染付 碗 在地? 端反碗肥前? 3T 白色 透明釉 残存部全部 34 染付 皿 皿 3T 白色 透明釉 畳付は釉剥ぎ ローリング 35 陶器 埦 埦 薩摩 3T 明赤褐色 鉄釉 / オリーブ灰色 底部付近無釉 ローリング 36 青磁 碗 碗 3T 灰白色 青磁釉 蛇ノ目釉剥ぎ, 畳付は釉剥ぎ 18 世紀後半 37 染付 碗 筒形碗 3T 灰白色 透明釉 残存部全部 筒形 38 染付 碗? 碗? 3T 白色 透明釉 残存部全部 口唇部茶色釉 花器? 39 染付 皿 皿 肥前 3T 白色 透明釉 畳付は釉剥ぎ 18 世紀代 文字 太明? 4 染付 皿 皿 3T 34 下 白色 透明釉 底部蛇ノ目釉剥ぎ 41 陶器 皿 皿 3T 34 下 褐灰色 鉄釉 / 暗赤褐色 底部無釉 回転ナデ 42 染付 皿 稜花皿 3T 白色 透明釉 残存部全部 43 染付 皿 皿 3T 白色 透明釉 畳付は釉剥ぎ 44 陶器 瓶 土瓶 薩摩 3T にぶい赤褐色 鉄釉 / オリーブ黒色 底部無釉 2 次加工, 回転ハケ目 45 陶器 鉢 擂鉢 3T にぶい赤褐色 回転ナデ, 砂粒多い 46 陶器 鉢 擂鉢 薩摩 3T にぶい赤褐色 鉄釉 / 暗オリーブ褐色 口唇部無釉 回転ハケ目, 回転ナデ 47 陶器 鉢? 甕? 鉢? 甕? 薩摩 3T 赤褐色鉄釉底面無釉重ね焼痕, 回転ハケ目 48 瓦瓦桟瓦 3T 厚さ1.75 灰白色 / 暗灰色 49 瓦瓦桟瓦 3T 34 下 厚さ1.6 灰白色 / 灰色 ローリング底部回転ヘラケズリ, 回 5 染付碗丸碗波佐見 3T 灰白色透明釉畳付は釉剥ぎ 19 世紀代転ナデ

73 4.m 5.m 6.m B' B' A A ④ カクラン カクラン C C' ④ 切り石 B B 表土 カクラン コンクリート塊 ① カクラン コンクリート塊 ④ カクラン B 6.m C' C カクラン C C' ① 5.m 石垣 A' 第42図 5.m 2.m 4.m 1 100 1. A' B' 縮尺 表土 ④ ① 淡明褐色砂質土 砲座硬化面 礫含まない 黄褐色砂質土 第42図 4.m 黄褐色粘質土 灰褐色土 旧表土 赤灰色凝灰岩破砕礫層 縮尺 4トレンチ土層断面図 4トレンチ土層断面図 第43図 第43図 1 50 1. 2.m 4トレンチ検出遺構 4トレンチ検出遺構 石垣 第44図 4トレンチ出土遺物 54

74 A A 礫 造成土 カクラン 凝灰岩 カクラン イ 4トレンチ 出土遺物の詳細は表1の遺物観察表に示した 表土 ⑨ 図化できる遺物は少なく 砲座 層① からの遺物の 黒色土 造成土 礫 出土はなかった その下層のから遺物の出土があった が 複数の時期のものが混在している 埋立時の浚渫に 火山灰 由来するためと考える 51 52は 皿である 53は 薩摩焼の土瓶で 54は白薩摩の仏花器である 6 7トレンチ 第45図 第49図 カクラン土 55 56は 琉球産の壷である 3 ⑴ 遺構 第45 48図 現在露出している胸墻の石垣の平面形状は への字状 を呈している この頂点となる箇所は更に膨らみを持つ ⑧ ⑦ 構造である また 明治5年に撮影された古写真 巻頭 図版8下 にも同様な構造で写っており キスト砲架の 大砲が設置されている 実測P カクラン そのため この箇所に砲床やその他の遺構が残存して 定して調査を行った 火山灰 ⑦ ⑧ いるか,更には砲座の構造を調べるためにトレンチを設 実測P 調査の結果 砲座の硬化面やその下に敷かれた多量の 敷石を検出した また胸墻の石垣の構造調査も行った 造成土 ア 6トレンチの胸墻の石垣は 7段で構成されている 天端の標高は約6mで下部の2 3段は地中にあり 砲 カクラン 実測P 台の基盤層である浚渫土に直接積まれており 胴木等は なかった 正面はスダレ加工が施され 長方形に成形さ れている つくりが全体としてしっかりし 成層積みで 造成土 工法 が取られていた石が積み直されている また ある 裏込は石がさほど多くない 石垣の天端の石は チキリ穴 が整合せず チキリ チキリ穴 のない石もあった 石垣 A' 5.m 4.m 2.m ④ 土砂交互層 A' 1 100 1. ⑦ ⑧ ⑨ 表土 カクラン ① 実測P 縮尺 表土 ① 黄褐色砂層 黄褐色粘質土 シルト質明褐色土 ④ 明褐色砂層 石垣 第46図 褐色砂質土 砲座硬化面 礫混じる 灰色砂層 黄色がかった灰色砂質土 明褐色砂質土 赤灰色凝灰岩破砕礫 6 7トレンチ土層断面図 第44図第45図 6 7トレンチ土層断面図 表1 出土区 掲載番号 挿図番号 44 4トレンチ出土遺物観察表 種別 分類 器種 産地 51 染付 皿 皿 4T 52 陶器 皿 皿 4T 53 陶器 瓶 土瓶 薩摩 54 陶器 仏具 55 陶器 壷 壷 琉球 56 陶器 壷 壷 琉球 層位 法量 胎土の色調 釉 部 位 時 期 備 底径 器高 白色 透明釉 畳付は釉剥ぎ 冨貴長春 浅黄色 淡黄色 糸切り底 4T 明赤褐色 鉄釉 灰黄色 口唇部無釉 回転ナデ 仏花器 白薩摩 4T 淡黄色 透明釉 内 頸部無釉 4T にぶい赤褐色 暗灰色 4T 赤褐色 にぶい赤褐色 55 種類 色調 薬 口径 考 把手 獅子 内 首ヘ ラ 19世紀代 回転ナデ 底部自然釉 黄色

75 ⑦ カクラン カクラン ⑧ ⑦ 表土 火山灰 造成土 カクラン 表土 カクラン 石 石 列 ① 石 石 ④ 造成土 石垣 土砂交互層 A' 5.m 4.m 5.m 4.m A' 56 6.m 2.m 6 7トレンチ検出遺構① 第46図 1 50 縮尺 1. ⑧ b a B' B A A b a B B'

76 A A カクラン 造成土 礫 カクラン 凝灰岩 表土 ⑨ 礫 造成土 表土 ① 黄褐色砂層 黄褐色粘質土 黒色土 シルト質明褐色土 ④ 明褐色砂層 ⑦ 褐色砂質土 砲座硬化面 礫混じる 灰色砂層 黄灰色砂質土 ⑧ 明褐色砂質土 ⑨ 赤灰色凝灰岩破砕礫層 火山灰 カクラン土 A 5.m 4.m A 縮尺 1 50 1. 2.m 第 4 6 図 第47図 6 6 7トレンチ検出遺構 7トレンチ検出遺構 石列に入れたサブトレ a カクラン 4.5m 石列 凝灰岩 4.m a b 4.m 4.m 3.5m シルト質砂層 小石と明褐色砂質土 4.5m b 灰色砂層 小石混 灰褐色シルト質砂層 灰色砂質土 礫 混じるが少ない 小石混 黄褐色粘質土 凝灰岩礫混じる 灰褐色シルト質砂層 硬化面 灰色砂質土 黄橙色土塊 小石混 縮尺 第48図 6 7トレンチ下層確認断面図 57 1 50.5 1.m

77 第49図 6 7トレンチ出土遺物 出土区 6 7トレンチ出土遺物観察表 掲載番号 挿図番号 表11 74 種別 分類 57 染付 碗 染付 染付 染付 染付 陶器 陶器 磁器 染付 瓦 染付 陶器 陶器 碗 碗 碗 碗 埦 皿 碗 皿 瓦 皿 埦 壷 7 陶器 瓶 瓶 素焼 瓦器 壷 焼塩壷 壷 在地 7T 7T 73 銭 銭 古銭 6T 74 鉄 鉄 矢 6T 器種 産地 碗 層位 6T 丸碗 6T 筒形碗 6T 碗 6T 碗 肥前 6T 埦 薩摩 7T 皿 白薩摩 6T 碗 6T 皿 6T 丸瓦 6T 稜花皿 在地 7T 埦 7T 壷 白薩摩 7T 元立院 7T 法量 口径 底径 器高 胎土の色調 釉 種類 色調 薬 部 位 時 期 5. 灰白色 透明釉 畳付は釉剥ぎ 白色 白色 白色 白色 明黄褐色 淡黄色 灰黄色 白色 明黄褐色 白色 灰黄褐色 淡黄色 透明釉 透明釉 透明釉 透明釉 鉄釉 オリーブ黄色 透明釉 透明釉 透明釉 明黄褐色 透明釉 透明釉 白釉 透明釉 残存部全部 残存部全部 畳付は釉剥ぎ 残存部全部 蛇ノ目釉剥ぎ 底部無釉 底部無釉 畳付は釉剥ぎ 畳付は釉剥ぎ 畳付は釉剥ぎ 内面無釉 5.6 にぶい褐色 鉄釉 黒 底部無釉 18世紀代 橙色 浅黄橙色 橙色 浅黄橙色 19世紀代 下 下 下 下 下 高台径4 8 厚さ2 6 径1 9 厚さ0 09 孔0 6 長さ5 9 幅2 5 厚さ1 6 58 考 蛇ノ目釉剥ぎ 重ね焼痕 ローリング 下 備 清朝 ローリング 回転ナデ 底部回転ヘラケズリ 穿孔あり 重ね焼痕 蛇ノ目釉剥ぎ 内面ヘラケズリ 糸切り底 底部内面成形 あまい 回転ナデ 内側指頭圧 外側ナデ ナデ

78 イ石列 ( 第 46 図 ) 砲座硬化面の下部から弧状に並ぶ石列を検出した これより胸墻の石垣へは, 礫が配されていない また, 全体像は不明だが, そのラインは12トレンチを経由し,11 トレンチで検出した積み直し前の石垣へとつながるようである ウ砲座 ( 第 図 ) 大砲を据えた砲座の硬化面を検出した 層 45である 5は多量の石を含んでおり, 基盤層が浚渫の砂層であることから不動沈下防止に置かれたものである可能性が高い 硬化面は礫等を含まない最大厚さ3cmの上部と多量の礫を含む下部で構成される ⑵ 遺物 ( 第 49 図 ) 調査面積に対して遺物の出土が少なかった 出土遺物の詳細は表 11の遺物観察表に示した 摩滅の激しい遺物も見られ, 複数の時期のものが混在している 出土した遺物は砲台使用時のものの他に, 埋立地に由来するものも含まれているためと考える 在地産や肥前産の生活用具の他に71の焼塩壷が出土した 武家で使用されるものであるが, 周辺は鹿児島城下であり, 対岸に重富島津家邸があったため, このような遺物があるものと考える 74は, 石切の矢である 石材の現場合わせに使用されたと考える 4 8トレンチ ( 第 5 図 ~ 第 52 図 ) 6 7トレンチで砲座と胸墻の石垣の調査を行ったが, 樹木があるため同一の主軸で胸墻土塁の調査を行えなかった そのため調査が行える箇所に8トレンチを設定して, 胸墻の土塁の調査を行った ⑴ 遺構 ( 第 図 ) 8トレンチ (1 1m) では, 胸墻の土塁と思われた箇所は, 空き缶やビニル, ビニルパイプ等が混じり, 全て昭和期の盛り土であった ここも3トレンチ同様に護岸がコンクリートでつくられており, 昭和 26 年のルース台風で大きく欠損したため, 周囲と同じように修復した箇所と考える しかし, 胸墻の石垣の裏込と石垣については, 台風被害を受けておらず, 薩英戦争時もしくは薩英戦争後に改修されたものが残っている この修復土と砲台の土とはほぼ垂直に分れ, ここに鉄分の沈着が見られた 石垣の天端は,6 7トレンチと同様に チキリ穴 が整合せず, チキリ石 も見られない 石は長方形に成形され, 正面はスダレ加工が施され, 成層積みで積まれている また, 裏込は石を多く含まず, 土で構成される 裏込中より出土した遺物が75,76である 第 51 図 ( 裏込 ) の図中左半分より下半は,3トレンチ 同様に砂と土が交互に積まれる版築土で, この層から76 が出土した 第 51 図 ( 裏込 ) 右半分は土の裏込土である 更に, 裏込の下面からは大きな成形されていない礫が出土した これが6 7トレンチの弧状の石列と関係するのかは不明である ⑵ 遺物 ( 第 52 図 ) 8トレンチの出土遺物は,⑴で述べたように層の残存が少なかったため, 裏込から出土した2 点だけであった 時期も砲台よりも古いものであり, 浚渫土に由来するものである トレンチ ( 第 図 ) 6 7トレンチで検出した硬化面下部の石列と現在露出している石垣の大きく屈曲する箇所の構造を調査した ⑴ 遺構 ( 第 図 ) 12トレンチ (1 1m) では砲座の硬化面も検出したが,6 7トレンチで検出したような多量に礫を含むものはなかった 更に,6トレンチで検出した砲座の硬化面下部とつながると思われる石列を検出した 同様のものであるとすると6トレンチから12トレンチを通り11トレンチにつながる弧状を呈する 構築時の設計を変更して改修を行った結果である可能性があり, への字状の石垣が不自然にこの箇所で大きく屈曲している 石列を設計時の石垣とすると, 石垣は自然な形のへの字状を呈することもそれを裏付ける 11トレンチ (1 1.5m) でも, 硬化面も検出したが, 6 7トレンチで検出したような多量に礫を含む層はなかった 更に, 砲座の硬化面よりも下層で現在露出している石垣の下から石垣を検出し, 石垣が積み直されていることが分かった 下層の石垣には チキリ石 があることから, チキリ石 がある石垣は古いものであり,6 7 8 トレンチの石垣の天端は チキリ石 を入れた穴が整合していないためこの石垣も積み直されたものと考える また,11トレンチの積み直しの箇所は, 正面を整えるために面取りの成形がしてある しかし全体には施されず, 下部は積み直す前の状態であり, 作業の省略である ⑵ 遺物 11 12トレンチから遺物の出土は無かった 6 13トレンチ 13トレンチ (1 1m) は2トレンチと4トレンチで砲座の硬化面を検出したため, その中間で砲座の硬化面が残存しているか否かを調査した 砲座の硬化面を検出したところで調査を止めたため, 層厚等は不明である 13トレンチからは遺物の出土は無かった

79 5.m C C ① C C 4.m 5.5m ④ C 5.m C 縮尺 A 4.73 A 1 50.5 1.m B B 缶 土のう袋 砂 アスファルト 鉄分の沈着 6 7T 11T A' 実測P ① 塩ビ管 実測P 12T 実測P 表土 ① 灰白色砂層 茶灰色土 礫 粘土混じる 茶灰色土 礫 粘土混じらない ④ 茶褐色シルト質土 基盤となる埋立土 灰色砂層 オ 砂利 砕石 エ ガラス 鉄分の沈着 実測P カ ア ウ 5 イ 5. ア 表土 イ 灰白色砂層 ウ 茶褐色土 橙色パミス混 エ 灰白色砂層 オ 暗灰色硬質土 ビニール ガラス混 カ 茶褐色砂質土 礫混 エ ビニール 8T 5. 縮尺 1 200 A' 第5図 第5図8 11 12トレンチ周辺図 8トレンチ周辺図 5.m 5.m 4.m 2.5 A' 縮尺 1 100 1. 2.m 第51図 第 5 1 図8トレンチ土層断面図及び検出遺構 8トレンチ土層断面図 及び検出遺構 石垣 8トレンチ出土遺物観察表 出土区 52 8トレンチ出土遺物 掲載番号 挿図番号 表12 第52図 種別 75 染付 皿 皿 8T 13 8 4 8 3 4 白色 透明釉 畳付は釉剥ぎ 陶器 鉢 甕 甕 植木 鉢 8T 明赤褐色 褐色 76 分類 器種 産地 層位 法量 口径 底径 器高 胎土の色調 6 釉 種類 色調 薬 部 位 時 期 19世紀代 備 考 蛇ノ目釉剥ぎ アルミナ 貼付植物

80 6.m B' B A 6.m A' A 6.m A' 6.m B' B 5.m 5.m 5.m 5.m 4.m C' A ' 4.m 4.m 6.m C' C 6.m C' 4.m D C' A ' C D 5.m B B' 5.m B' 4.m C D B 縮尺 1 50 1. 2.m C A D 4.m 縮尺 A 5.m D 1 50 1. 2.m D 表土 カクラン 4.m 5.m ① D 石垣 表土 カクラン D 3.m 4.m ① 石垣 ① 3.m 褐色砂質土 砲座硬化面 礫含まない 褐色砂質土 砲座硬化面 礫含む 褐色土 礫含む ① 褐色砂質土 砲座硬化面 礫含まない 褐色砂質土 砲座硬化面 礫含む 褐色土 礫含む 第53図 11トレンチ検出遺構 第53図 第53図 11トレンチ検出遺構 7 9 1トレンチ 第55図 第59図 現在砲台の胸墻の石垣や土塁がない場所に設定した 11トレンチ検出遺構 その結果砲台跡に関連する遺構は検出できなかったが E 4.m E F F 5.m 異なる時期の石列や石敷を検出した ⑴ 遺構 ア 9トレンチ 第55図 E E ① 4.m コンクリート ① 1. 第54図 12トレンチ検出遺構 第54図 12トレンチ検出遺構 F 4.m 縮尺 1 50 第54図 12トレンチ検出遺構 褐色砂質土 砲座硬化面 礫含まない 1. 褐色砂質土 砲座硬化面 礫含む 褐色土 礫含む F ① E 灯 と掘られており 官軍墓地の献灯石を再利用したも のと思われる 層も石周辺が撹乱されていることから後 5.m コンクリート 表土 E カクラン カクラン 5.m 北西端に大きさの違う切石が配してあるが これに 献 1 50 褐色砂質土 砲座硬化面 礫含まない 褐色砂質土 砲座硬化面 礫含む 褐色土 礫含む F B 表土 4.m 縮尺 カクラン ① 表土 F E FB 表土 カクラン ① し 砂層に直接構築されている 時期や用途は不明であ る ① E 安定で時期は不明である 間地石があり 一段のみ検出 F 5.m 凝灰岩の切石が並べられた石列を検出した 層位が不 2.m 世のものである これより北側の石列は コンクリート で固められ 層も撹乱が激しいことから石列の側につく 2.m 61

81 A A カ ク ラ ン ① られた後世のものである イ 1トレンチ 第56図 9トレンチと同様に間地石を持つ石列を検出した 9 トレンチ同様に一段のみの検出で直接砂層に構築されて ④ いる 表土 この9 1トレンチで検出した石列は 砲台跡に伴う ものか不明であるが 元々は数段積まれていたと考えら ④ れる ① 1トレンチでは地表下1.5mから礫敷を検出した 幅 約2.5mを測る 標高が砲台の硬化面よりも低いため それ以前のものと考える 4.5m C' C 明灰色砂層 白色砂層 明褐色砂層 黄色砂層 灰色砂層 火山灰 縮尺 1 100 1. 2.m B' B' E 3.5m 3.5m E カ ク ラ ン ① C' 3.5m 4.m C' 表土 表土 ④ D ④ D' C C B 第55図 9 ト レ ン チ土 62層 断 面 図 及 び 検 出 遺 構 E 縮尺 4.m 9トレンチ土層断面図及び検出遺構 3.m 第55図 E B 4.5m A' 4.m 3.m A' ① ④ 1 50 1. 2.m

82 A A カクラン ⑵ 遺物 ア 9トレンチ 多くの遺物が出土した 表土や撹乱された箇所からは 官軍墓地に伴う仏具や陶磁器類が出土したが 近年のも のと混在して出土したため 図化せずその下層から出土 ⑧ 黄橙色のブロック したものだけを図化した 砲台が構築された時期だけで なく複数の時期の遺物が混在しており 浚渫土によるも のと考える イ 1トレンチ 第58 59図 多くの遺物が出土した 表土や撹乱された箇所からは 官軍墓地に伴う仏具や陶磁器類が出土したが近年のもの と混在して出土したため 図化せずその下層から出土し たものだけを図化した ここには官軍墓地に伴うと思わ ⑦ れるものは出土していないが 砲台が構築された時期だ けでなく複数の時期の異物が混在しており 浚渫土によ ④ るものと考える B' 8 5トレンチ 遺構 遺物ともに検出しなかった また 撹乱が激し く砲台の時期やそれ以前の層も検出できなかった ⑨ ⑦ 4.m B' B 石列 表土 ① C' 3.m B 黒色土 ⑦ 5.m ⑧ C C C' ⑬ ⑪ ⑦ ④ 樹 痕 4.m ⑪ ⑭ ⑮ 石D 石C ⑩ ⑧ ⑧ 石B ⑦ 3.m ⑦ ⑫ ⑬ 石A ⑧ 表土 ① 公園の造成土 火山灰 黄橙色のブロック混じり ④ 瓦礫混じりの層 黄褐色土 硬化面 旧地表面の灰色土 炭化物混じり ⑦ ⑦ シラス ⑦ ⑧ ⑨ ⑩ ⑪ ⑫ ⑬ ⑭ ⑮ A' 4.m 3.m A' 色砂層 黄褐色砂層 明褐色砂層 灰褐色砂層 ラミナ 炭化物 茶色混灰色砂層 明茶褐色砂層 赤灰色凝灰岩 混礫明茶褐色砂層 縮尺 第56図 第56図 1トレンチ土層断面図及び検出遺構 10 トレン チ土層断面図及び検出遺構 63 1 50 1. 2.m

83 第57図 表13 9トレンチ出土遺物観察表 出土区 掲載番号 挿図番号 57 9トレンチ出土遺物 種別 分類 器種 産地 77 染付 碗 碗 9T 78 染付 皿 皿 9T 79 染付 皿 皿 8 染付 皿 皿 層位 法量 胎土の色調 釉 種類 色調 薬 口径 底径 器高 部 位 白色 透明釉 畳付は釉剥ぎ 白色 透明釉 底部蛇ノ目釉剥ぎ 9T 白色 透明釉 畳付は釉剥ぎ 9T 灰白色 透明釉 残存部全部 81 磁器 皿 皿 9T 白色 透明釉 底部蛇ノ目釉剥ぎ 畳付は釉剥ぎ 82 染付 皿 皿 9T 白色 透明釉 底部蛇ノ目釉剥ぎ 83 陶器 蓋 蓋 白薩摩 9T 最大径5 5 淡黄色 透明釉 外面のみ 84 陶器 蓋 蓋 薩摩 9T 最大径7 8 橙色 鉄釉 外面のみ 85 磁器 瓶 瓶 急須 9T 灰白色 透明釉 内側 口唇部のみ 86 陶器 鉢 植木鉢 琉球 9T 赤褐色 にぶい橙色 64 時 期 備 考 底部 重ね焼痕 回転ナデ 回転ナデ 18世紀代 瓶の口 急須 把手 回転ナデ 貼付植物

84 第58図 1トレンチ出土遺物① 65

85 第59図 表 トレンチ出土遺物 1トレンチ出土遺物観察表 染付 磁器 青磁 染付 磁器 磁器 陶器 染付 陶器 陶器 染付 染付 磁器 磁器 染付 磁器 磁器 磁器 15 陶器 磁器 磁器 陶器 陶器 11 陶器 墓石 瓦 瓦 瓦 瓦 瓦 分類 器種 産地 碗 丸碗 碗 碗 在地 染付碗 碗 皿 皿 波佐見 皿 皿 人形 人形 瓶 土瓶 薩摩 鉢 角鉢 鉢 擂鉢 薩摩 鉢 擂鉢 薩摩 碗 碗 在地 碗 丸碗 坏 小坏 福建省 碗 端反碗 皿 皿 肥前 蓋 蓋 壷 壷 壷 壷 鉢 鉢 薩摩 甕 甕 皿 皿 碗 碗 瓶 土瓶 薩摩 鉢 擂鉢 薩摩 鉢 鉢 薩摩 甕 甕 墓石 墓石 瓦 桟瓦 瓦 サイド 瓦 桟瓦 瓦 桟瓦 瓦 桟瓦 出土区 掲載番号 挿図番号 種別 層位 法量 口径 底径 器高 胎土の色調 部 位 ⑦ ⑦ ⑦ ⑦ ⑦ ⑦ ⑦ ⑦ ⑦ ⑦ ⑧ ⑧ ⑧ ⑧ ⑧ ⑧ ⑧ ⑧ 10T ⑧ 23.8 黄灰色 鉄釉 口唇部無釉 10T 10T 10T 10T ⑬ ⑬ ⑬ ⑬ 白色 白色 にぶい赤褐色 にぶい赤褐色 透明釉 透明釉 鉄釉 鉄釉 畳付は釉剥ぎ 残存部全部 残存部全部 残存部全部 10T ⑬ 15. にぶい赤褐色 鉄釉 底部無釉 10T 10T 10T 10T 10T 10T ⑦ ⑧ ⑬ ⑬ ⑬ 最大径10 0 最大径8 0 最大径14 4 透明釉 透明釉 透明釉 透明釉 透明釉 透明釉 鉄釉 透明釉 鉄釉 鉄釉 透明釉 透明釉 透明釉 透明釉 透明釉 透明釉 鉄釉 透明釉 薬 10T 10T 10T 10T 10T 10T 10T 10T 10T 10T 10T 10T 10T 10T 10T 10T 10T 10T 最大径3 7 脚部径9 5 白色 白色 白色 灰白色 白色 白色 橙色 白色 暗赤褐色 にぶい橙色 白色 白色 白色 白色 白色 白色 灰黄色 灰白色 釉 種類 色調 縦1.5 横1.5 長さ4 黄灰色 厚さ1 7 灰白色 暗灰色 厚さ1 9 灰白色 灰色 厚さ1 6 褐灰色 灰白色 灰色 厚さ2 1 灰白色 灰色 厚さ2 2 灰白色 灰色 66 時 期 備 考 残存部全部 畳付は釉剥ぎ 畳付は釉剥ぎ 青磁 畳付は釉剥ぎ 蛇ノ目釉剥ぎ 重ね焼 畳付は釉剥ぎ カケ 補修 外側のみ 脚部無釉 回転ナデ 残存部全部 18世紀代 上手 口唇部無釉 ハケ目 口唇部回転ナデ 口唇部一部無釉 口唇部重ね焼痕 回転ナデ 内かきあけ 畳付は釉剥ぎ 幕末 残存部全部 畳付 高台内底無釉 18世紀末 19世紀初頭 徳化窯 残存部全部 畳付は釉剥ぎ 18世紀代 はりささえ 上手 残存部全部 つまみ 底部付近無釉 内側無釉 回転ナデ 沈線 内側無釉 かまぼこけずり出し 首段差 貝目 ハケ目 回転ナデ 底部蛇ノ目釉剥ぎ 回転ナデ ハケ目 三角 ケズリ出し 回転ナデ ハケ目 底部外面ヘラ 四面文字書き ローリング 2枚重ね ローリング ローリング

86 第5節 1 総括 考える なお石垣の傾斜は いずれのトレンチでも75度 調査成果 前後であった 第4節の調査成果を砲座 胸墻の石垣 土塁 チキリ 胸墻の土塁については 3 8トレンチの調査結果か ら ルース台風の被害箇所が推測される箇所を除いた胸 表15 墻石垣に伴う箇所に残存していると考える 砲座 護岸についてまとめると表15のようになる 祇園之洲砲台跡調査成果 更に 胸墻石垣の天端の チキリ石 の残存の有無と 胸 墻 護 大砲を置いた砲座の硬化面を検出し 広範囲に残存して いる状況をつかむことができた 土塁の構築法とを対比してみると チキリ石 が残る 胸墻石垣の造り方や形状 土塁の残存状況をつかむこと ができ チキリ石と土塁の構築法から薩英戦争前のもの が残存している範囲と薩英戦争直後に改修が行なわれた 範囲を区別できた あるのに対し チキリ石 も チキリ穴 もない1ト 3トレンチでは土塁が砂と土が交互に積まれた版築土で レンチでは砂と土を交互に使用するものの 整然とした 版築層とはなっていない チキリ石 については 11 岸 石垣 石畳について薩英戦争前の砲台建設時のものも 残っており 薩英戦争後の改修時の姿を留めていると考 えられる トレンチの調査で チキリ石 のあるものが古いもの 遺 であることが分かっている 史料に見られる祇園之洲砲 物 薩英戦争前(1853年 1863年)とその直後の改修及び明 治1年の官軍墓地設営以後(1863年 1877年)などに ついて 細かな層位的差異は出土遺物では判断できな かった 台跡の改修は 1858(安政5)年の改修と薩英戦争後の 改修である 二つの改修のうち大規模であったと考えら れるものは薩英戦争後の改修であるため(附編参照) チ この成果を基に残存範囲を下図に示した キリ石 がある箇所が 砲台築造時や薩英戦争前の胸墻 胸墻の石垣は 現在露出しているもの全てが祇園之洲 が残る箇所で チキリ石 の無い箇所が薩英戦争後に 砲台のもので チキリ石 の残存範囲を赤で示した 改修された箇所であると考える (巻頭図版4 5) Y=-47 ていると考える Y=-475 性のある石列が検出できたため 砲台以外の層が残存し ている範囲で公園の園路より内側全てに残存していると Y= トレンチで検出できたため 胸墻の石垣が残存し Y=-485 胸墻のない9 1トレンチでは 官軍墓地に伴う可能 Y=-49 砲座は 撹乱を受けているが 2 4 C X= 薩英戦争記念碑 1E 像 高麗 橋 現場事務所 西南 の 戦没 役官軍 者慰 霊塔 ⑩ ⑬ 4.79 ⑪⑫ 4.38 砲台跡 稲荷川 碑 X=-1546 ① 5.96 ⑦ 碑 ④ 4.5 碑 橋 江 ⑨ X= 玉 郎之 三五 岩永 碑 W.C 4.67 X= X= X= ⑧ ルース台風被害箇所 Y=-47 Y=-475 Y=-48 Y=-485 凡例 Y=-49 *世界測地系 砲座の硬化面残存範囲 護岸石垣 石畳の残存範囲 胸墻の石垣 土塁の残存範囲 砲台築造時 薩英戦争直後に改修した石垣が残っている部分 胸墻の石垣 土塁の残存範囲 薩英戦争直後の改修 胸墻の石垣 チキリ の残存範囲 砲台築造時のまま残存 第6図 はトレンチ はトレンチ番号 祇園之洲砲台跡残存範囲 67

87 2 鹿児島市調査との比較 ⑴ 胸墻石垣 ( 第 62 図 ) 平成 9 年度に鹿児島市教育委員会 ( 以下市教委 ) が現在玉江橋が移設されている箇所の調査を行った際に,7 段の胸墻の石垣が確認されている 今回調査した4,6 トレンチは6 段の石垣であるため,2トレンチで石列の左右で6 段と7 段に分かれたものが段数を維持してそのまま続いているようである 今回の調査と同様に, 石垣は砲台跡の基盤層である砂層の上に直接構築され, 胴木等は使用されていない また, 市教委の調査では石垣に付随した階段も調査されているが, 今回調査を行った箇所には残存していなかった 石垣天端の チキリ石 については, 特に記載がないため不明である 砲座についても硬化面が検出されているが,6 7,12トレンチで検出した敷石や, 弧状に並ぶと考えられる石列も検出されていない ⑵ 胸墻土塁の石列 ( 石組 )( 第 61~63 図 ) 1トレンチで胸墻の土塁の下部から石列を検出した 1 段のみの検出であるが, 基盤層である砂層に直接構築され, 正面が胸墻の石垣と反対の海側を向き, 胸墻の石垣から約 1m 離れて並行する これと同様の石列 ( 石組と報告 ) が, 市教委が調査した際にも検出されており, 正面が海側を向くこと, 胸墻石垣との幅が約 1mであり, 胸墻に並行することは共通する 市教委の調査で検出したものは, 数段積まれていることが異なるものの同じ遺構であると考える 市教委の調査では更に, 石列 ( 石組 ) に伴う階段が検出されているが, 今回の調査では検出できなかった ⑶ 石列 ( 石組列 )( 第 61 図 ) 9,1トレンチで間地石を持つ石列を検出した 同様の遺構が市教委の調査でも現在西田橋が移設されている箇所で検出されている 今回調査のものは1 段で市教委の調査時のものは数段と段数に差があるが構造はよく似ている しかし, 市教委の発掘調査報告書の中では, 祗園洲砲臺圖 薩藩海軍史 の図で砲台の山側に記載されている長方形状もしくは弧状のものに比定している この図を見ると胸墻が太いへの字で描かれ, その両脇に細い線で石垣もしくは土塁のようなものが描かれている 9 1トレンチで検出したものがここにあたるものかは層が安定しておらず, 不明である また,1トレンチの下部で検出した礫敷もこの石列と並行しているが, 標高に大きな開きがあり, これが前述のものであり, 間地石を持つ石列が砲台以後のものであるかも不明である 鹿児島市埋蔵文化財報告書 祇園之洲砲台跡 に転載 加筆 第 61 図 鹿児島市調査の遺構位置図

88 第 62 図鹿児島市調査の遺構図 1 第 63 図鹿児島市調査の遺構図 2 3 古絵図 古写真との比較調査成果と古写真 古絵図との比較を行っていくが, 先ず, 比較する古絵図 古写真に見える祇園之洲砲台について記載し, その後, 検討を行うことにする ⑴ 薩英戦争絵巻 ( 附編参照 ) 薩英戦争絵巻に見える祇園之洲砲台については, 附編にも記載されているが, 備砲は, キスト砲架が採用されていることがうかがえる 残念ながら胸墻や弾薬庫などについては, 詳細な記述がされていない ⑵ 明治 5 年撮影 ( 巻頭図版 8 下 ) の古写真明治 5 年に明治天皇が鹿児島へ行幸された折り, 鹿児島港に浮かぶ軍艦を撮影したものに祇園之洲砲台の一部が写っている その部分から, 砲座には内陸側へ張り出す半円形の砲床の軌条があり, そこにキスト砲架の大砲が配備され, 軌条の両サイドには胸墻に階段が設置されていること, 胸墻は大きく屈曲して広がる部分があること, 砲座の内陸側に弾薬庫があることが分かる ⑶ 祗園洲砲臺圖 薩藩海軍史 ( 第 32 図 ) 描かれた年代が不詳の図である 同本中には祇園之洲砲台の他に新波止砲台, 弁天波止砲台, 大門口砲台, 天保山砲台を描いたものもある この絵から, 祇園之洲砲台が海側に護岸を持ち, 護岸から平場を隔ててへの字状の胸墻の土塁が盛り上がり, その後方に砲座があることがわかる 胸墻は平行な太い線で表現され, そこに方眼もしくは大砲と思われるものを1 箇所描いている また, ここには方位を示す文字と海へと延びる線も描かれている 更に火薬庫と思われるものが, 胸墻の真中付近に描かれる ⑷ 祗園洲砲臺之圖 薩藩砲臺圖稿本 ( 第 33 図 ) 明治 5 年頃に描かれた図である ( 鹿児島市教育委員会編 祇園之洲砲台跡 田村省三氏付論 77~82 頁 ) 同稿 本中には, 祇園之洲砲台の他に天保山砲台, 新波止砲台, 弁天波止砲台, 大門口砲台に加えて薩英戦争後の築造である東福寺ケ城砲台と風月亭砲台も描かれている この絵図からも 祗園洲砲臺圖 同様な砲台の構造がうかがえる しかし, への字状を呈する胸墻の頂点になる部分は古写真や現在の胸墻の状態と同じく大きく屈曲しており, 祗園洲砲臺圖 と異なる 火薬庫の位置については古写真と同じである また, 横墻についてもよく描かれ, 備砲を直線で描き, その両サイドに階段と思われる短い直線を描いている 更に, 胸墻等の軍事的な場と離れた箇所に新波止砲台の古絵図, 現状や天保山砲台の古絵図や発掘調査成果に見られるような荷揚場も描かれている ⑸ 調査成果との比較以上 3 点の古絵図,1 点の古写真について概要を記載した この中で現状に近いものは,(2) の古写真と (4) の 祗園洲砲臺之圖 である このことは, 胸墻の石垣がへの字状を呈する頂点部分で大きく屈曲することによる この2 点には, 軌条や軌条脇の階段, 横墻, 荷揚場, 火薬庫など現在は見られないものも描かれている これらは, 祇園之洲砲台に官軍墓地が造営され, その後収骨されたことや市営アパートが建設されたこと, 数度にわたる公園整備, 眼前の埋立地の構築, 高麗橋と玉江橋の移設等この地において幾度と無く大規模な土地の改変があったため, その都度少しずつ改変されてきた結果であると考える しかし, 護岸と胸墻についてはルース台風で破壊された箇所を除きよく残存しており, 今回の調査成果と市教委の調査成果から, 高麗橋, 玉江橋の周辺についても祇園之洲砲台と官軍墓地の層や遺構が広範囲に残存していることが予想される 次いで古絵図中での遺構の位置について考えたい 祗園洲砲臺圖 薩藩海軍史, 祗園洲砲臺之圖 薩

89 藩砲臺圖稿本 の2 点の図はともに胸墻はへの字状に描かれ, 胸墻から延びる細い土塁のようなものが両脇に描かれている また,2 点ともに砲台は, 土塁もしくは石垣で周辺と仕切られた空間として描かれている 胸墻の形状と, への字状の頂部の屈曲については先述したとおりであり, 現状と重なる この胸墻から延びる細い土塁 石垣のようなものは, 胸墻の西側に設置した9トレンチで明確な痕跡をとらえることができなかった 検出した間地石を持つ石組がそれに当たる可能性もあるが, 撹乱を受け, 増築のような痕跡もあり, 官軍墓地に関する遺物も多く出土していることから, 時期の特定ができなかったため不明である 胸墻の西端も今回の調査で検出できなかったが, 現状は西端は近年積み直されたものであるものの, 古絵図中での胸墻の屈曲部と現状の屈曲部が同一箇所であることからすると, この積み直しがある現状の西端から9トレンチまでの間に本来の胸墻の西端があると考える 次は砲台全体の両端についてであるが, 西側は第 6 図に祇園之洲砲台の現況測量図を示している範囲が2 点の古絵図に土塁もしくは石垣で周辺と仕切られた空間として描かれている箇所にほぼ相当すると考える 砲台西側の家屋は官軍墓地の直ぐ脇に建てられた家屋であること ( 家主談, 地籍図より ) による 東側については, 市教委が玉江橋移設地の調査を行った際の調査成果を見ると, ここはまだ胸墻のあった場所であり, 砲台の東端は, 更に東側, 現在マンション等が立ち並ぶ場所にあると考える その詳細な場所については, 砲台跡から連続して延びる護岸の石垣が途中でとぎれ, コンクリートを使い新しく造り直されており, 一部破壊されているものの砲台跡の石垣はその新しく造られた石垣の内側にあるようであり, 不明である このように, 祇園之洲砲台跡の発掘調査成果は, 古絵図や古写真とよく対比でき, 古絵図中で検出遺構の位置を特定できた また, 残存している層や遺構も広範囲に及び古絵図に描かれた範囲の推測もできた 薩摩藩が欧米列強の軍事力, 国力を知り, 近代化へと向かうきっかけとなった薩英戦争において実際に砲撃戦を交えた砲台跡についてこのような成果を得られたことは, 非常に意義が大きい 他に類を見ない砲台跡であり, 後世に引き継ぐべき遺産である 第 64 図明治 5 年撮影の鹿児島港古写真部分拡大第 65 図 祗園洲砲臺之圖 薩藩砲臺圖稿本 部分拡大第 66 図祇園之洲砲台跡東側現状写真図中の白線が砲台の護岸の石垣痕跡現在の護岸が図中右で砲台の石垣を隠すようにつくられている - 7 -

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92 第 5 章天保山砲台跡 第 1 節遺跡の位置と環境 1 地理的環境天保山砲台跡は, 鹿児島県鹿児島市天保山町 24 番に所在する ( 遺跡位置図 ) 遺跡は, 鹿児島湾に流れる甲突川の河口に位置し, 眼前に桜島を眺める 遺跡周辺は沖積平野であり, 度重なる洪水で河口が土砂で埋まり流れが遮られたため, 幕末期に河口を浚渫して広げているうちに土砂置き場が埋立地となり, その上に築かれた砲台である 2 歴史的環境 ⑴ 天保山砲台跡略歴砲台の所在する埋立地は, 天保年間に甲突川河口に土砂がたまり支障をきたしたため, 河口の浚渫を繰り返すうちに土砂置き場が大きな埋立地となり, 天保年間にできたので天保山と呼ばれるようになった 以下が天保山砲台の略歴である 185( 嘉永 3) 年に第十一代藩主島津斉興によって砲台が築造され, 以後, 数度にわたり砲撃訓練, 練兵訓練が行われた場所である 1858( 安政 5) 年島津斉彬は天保山砲台での訓練の帰路急病にかかり死去した 近くには島津斉彬の碑が残る 1863( 文久 3) 年の薩英戦争 ( 島津忠義 ) では打撃を受け戦争直後に改修が行われた 明治以降になると, 明治 5 年の明治天皇行幸の際にお召艦隊との軍事訓練が行なわれた記事はあるが, それ以後は, 明治 1 年の西南戦争後に管轄が兵部省に写ったこと以外に天保山砲台についての記載が激減する その後, 来歴は不明な点が多いが, 昭和 7 年には, 天保山砲台の一部を含む大規模な護岸工事が行われ, 現在も幕末期の遺構をこの護岸が護っている 鹿児島市は, 史的評価を考慮し,1974( 昭和 49) 年に天保山砲台跡を鹿児島市指定史跡とした ⑵ 天保山砲台跡周辺の歴史 薩藩海軍史 に 向江船手略圖 ( 第 67 図 ) があり, 図から砲台の背後となる場所に水路が巡らされていることが分かる また, 旧薩藩御城下絵図 ( 第 69 図 ) を見ると安政年間には甲突川の奥には城下町が広がり, 甲突川河口付近には向江船手等があり, 天保山砲台も描かれている 安政年間に佐賀藩で描かれた 薩州見取絵図, 薩英戦争を記録した 薩英戦争絵巻 には天保山砲台に築山が描かれている ⑴でふれたように, 明治以降天保山砲台跡の記載が激減する 周囲にすむ住人も少なかったようであるが, 天保山砲 台周辺は松林越に桜島を望む絶好の景観から, 以後, 旅館などが建ち並ぶ景勝地となっていったようである また, 鹿児島湾に面した砲台南側には, 塩田がつくられ, 塩の生産が盛んに行われるようにもなっていった 大正 3 年の桜島の大爆発の際には, 噴火の影響で起きた津波により周辺の塩田が水に浸かり, 塩田は大きく破壊されたということも知られている 江戸時代において軍事的にも, 物流拠点としてもよく整備された鹿児島港は, 明治時代になると, 大型船舶による大量輸送を行うために一部を取り壊したり埋め立てるなどして大きく姿を変えていった そのなか, 鹿児島港とは甲突川で隔たれた天保山砲台は, この港湾工事からまぬがれて形を変えずにいたが, 昭和になり, 先ず天保山砲台の河口に面した北側部分の前面が埋立てられ姿を変え,197 年代以降海岸部が次々と埋立てられ, 与次郎ヶ浜が整備されていった 第 67 図向江船手略図 薩摩海軍史 より第 68 図薩英戦争絵巻尚古集成館蔵

93 第 69 図旧薩藩御城下絵図鹿児島県立図書館蔵 第 7 図川尻調練場 ( 天保山 ) 臺場圖 薩藩海軍史

94 第 2 節発掘調査の方法 1 発掘調査の方法今回の発掘調査は, 天保山公園内に砲座石列, 石垣, 土塁が露出している箇所を中心に, 古絵図を参考にトレンチを設定して行った 各トレンチは, 古絵図で石畳状のものが描かれている場所に1 2トレンチと2トレンチ, 露出している石垣を境に, 砲座の構造と残存状況及び石垣正面の構造と残存状況を調査するトレンチと石垣の天端や裏込の構造 残存状況及び土塁の構築法や残存状況を調査するトレンチの2つを対にして, 東側から3 トレンチ,4トレンチ,5トレンチ,6トレンチ,7トレンチを設定し, 築山に8トレンチ, 石垣が露出していない平場に17トレンチ,18トレンチ,19トレンチを設定した また昭和 7 年に護岸工事が行われている周辺に9, 1,11,12トレンチを設定し,17トレンチから12トレン チの中間に15トレンチを設定した また, 地形測量は, 世界測地系を基準に行った 検出遺構の実測や土層断面図の作成は, 任意に設けた点を結び世界測地系を基に行い, 一部実測測量を行った 2 整理作業の方法整理作業は, 鹿児島紡績所跡, 祇園之洲砲台跡, 天保山砲台跡の3 遺跡を総じて行った 第 3 節層序本遺跡は, 大まかに砲座, 胸墻の土塁, 護岸, 中央の焼玉竈を含むその他の砲台関連施設の地区 ( 遺構 ) に区分できる 23か所のトレンチを設定して調査を行ったところ, 層序は地区毎に異なっていた 各地区の基本層所は, 下表のとおりであり, 詳細については, 各トレンチ毎に図示する 表 16 天保山砲台跡の基本層序砲座 土塁 その他 表土公園造成土含む 表土公園造成土含む 表土公園造成土含む 砲座を構成する土層 土塁を構成する土層 埋立地の造成土 ( 砂層 ) 埋立地の造成土 ( 砂層 ) 埋立地の造成土 ( 砂層 ) 第 71 図砂揚場臺場之圖 薩藩砲臺圖稿本

95 第4節 発掘調査の成果 するところが多く 砂揚場臺場之圖 の古絵図中で検 今回の天保山砲台跡の発掘調査は 天保山砲台跡の地 出遺構の位置を特定できたことから古絵図のとおりに残 下の残存状況と現在露出している遺構の構造調査を目指 存していることも分かった し 現状と 川尻調練場 砂揚場 臺場圖 薩藩海軍 また 遺跡の残存状況についても把握することができ 史 第7図 砂揚場臺場之圖 薩藩砲臺圖稿本 第 た 遺跡の残存範囲については 第5節で述べる 71図 の古絵図を参考に23箇所のトレンチを設定して調 出土した遺物の量は多くはなかったが 砲座や胸墻の 査を行った 土塁から出土している 調査は まず 1 12トレンチを設定して行った 出土した遺物の時期は 砲台の時期だけでなくそれ以 この12箇所のトレンチについては調査状況をふまえな 前の遺物も出土している がら必要に応じて拡大し 更にそれらを補うために13ト 更に 遺跡全体でも陶磁器だけでなく瓦器なども出土 レンチから23トレンチを設定して調査を行った しており 種類も生活用具から仏具までと豊富である その結果 キスト砲架を設置した軌条の敷石と 大砲 このことは 砲台築造に使用された土砂が 甲突川の 発砲のために砲兵が昇降したと考えられる階段の組み合 浚渫土であるため 様々な時期の遺物が混在しているも わせを2箇所 海 河口 から砲台内部へとのぼる荷揚 のと考える 場の石畳と側壁の石垣を1箇所など 複数の遺構を検出 以下トレンチ毎に遺構 遺物等の調査成果について説 した これらは 全国的に見ても検出例が少なく 貴重 明していきたい なものである Y=-415 Y=-411 Y=-4115 Y=-412 Y=-4125 Y=-413 Y=-4135 Y=-414 Y=-4145 更に検出遺構は 砂揚場臺場之圖 の古絵図と一致 甲突川 X=-1585 X=-1585 JA厚生連 カ カ カ 4B878 A B B G セ G G X= X=-1581 B E 4. E G D I K 鹿児島厚生連病院 グ 6. F グ 2 J グ G 5. G B B 1 G B 5. H I グ H D8 2 E G 4.12 グ G 22 サ サ サ 3 6 砲台跡 17 L X= イ イ イ イ イ イ 5 イ イ イ グ G イ グ イ イ ハ X= ハ シ 7 ハ サ ハ イ ハ イ イ 3 3 G G ハ ハ サ サ G イ J G G I G J シ ハ サ シ シ 3 ハ ケ ハ ロフティー天保山公園 天保山公園 3 4B879 シ 共月亭 G 3 ハ ハ M X= X= J モ ヒ サ 11 サ モ 2 G 2.44 モ モ モ サ モ ハ 27 G G モ 17 ヒ 18 モ モ サ 28 J モ ハ 17 モ ヒ 22 G モ サ モ 3 モ ハ ハ 26 モ モ サ B881 J 26 ヒ 22 モ モ ハ 2 モ ハ 15 X= モ ハ 22 モ ハ モ モ 24 モ サ G X= モ 16 モ ヒ 17 サ 25 モ モ ヒ 2 サ 28 JA厚生連健康管理センター J モ サ 2 モ サ 荒田川 J 4B88 X=-1583 X=-1583 第72図 天保山砲台跡周辺地形図 第72図 周辺地形図 74 Y=-415 Y=-411 Y=-4115 Y=-412 Y=-4125 Y=-413 Y=-4135 Y=-414 Y=-4145 *世界測地系 25 5m

96 Y=-4125 Y=-413 Y=-4135 Y=-414 甲突川 X=-1585 X=-1585 JA厚生連 カ カ カ 4B878 A B B G セ G G 3.7 B X=-1581 X=-1581 E 4. E G D I K 鹿児島厚生連病院 グ 6. F グ 2 J グ G 5. G B B 1 G B グ H I 5. H 2D8 2 E G 4.12 グ G 22 サ サ サ 3 6 砲台跡 17 L X= サ 3. イ イ イ イ イ イ 5 グ G イ グ イ ハ ハ 7 18 X= ハ サ I 2.69 J G シ イ イ イ 3 ハ イ イ ハ イ イ シ G G ハ ハ サ G イ J G G ハ サ シ シ 3 ハ ケ ハ 天保山公園 3 4B879 シ 共月亭 G 3 ハ ハ M 1 X=-1582 X= J モ ヒ サ 11 サ モ 2 G 2.44 モ モ モ サ モ ハ 27 G G モ 17 ヒ 18 モ モ サ 28 J モ ハ 17 モ ヒ 22 G モ サ モ 3 モ ハ ハ 26 モ モ サ B881 J 26 ヒ 22 モ モ ハ 2 モ ハ 15 モ ハ 22 モ ハ モ モ ヒ 24 モ サ G 25 X= モ 16 モ 17 サ 25 モ モ ヒ 2 X= サ 28 J モ サ 2 モ サ 荒田川 J 4B88 第 7 3 図 天保山砲台跡トレンチ配置図 トレンチ配置図 第73図 75 Y=-4125 Y=-413 Y=-4135 *世界測地系 X=-1583 Y=-414 X= m

97 .5m 1.5m 2.5m 3.5m A' B' D' A' E F' C F D C' A B A E' 3.5m C' C 2.5m コンクリート 1.5m 第74図 1 2トレンチ検出遺構① 縮尺 第74図 チ 検 出 遺 構 ① 1 2 トレ76ン 1 100 m

98 1.5m 2.5m 3.5m D' D.5m 1.5m 2.5m 3.5m B' E E 3.5m E 2.5m 1.5m B 3.5m E' 2.5m 1.5m 3.5m F' F 2.5m 1.5m 縮尺 第75図 第75図 1 2トレンチ検出遺構 1 2 ト レ ン77 チ検 出 遺 構 1 100 m

99 A 表土 公園の 石積み 客土 褐色土 は行わなかった 4.m A' ⑵ 表土 遺物 特筆すべき遺物は無かった 3.m 砂層 カクラン土 コンクリート 2 砂層 2トレンチ 第76図 2トレンチで古絵図に見られる荷揚場の土塁の調査を A 行ったが 土塁の端をつかむことができなかった 東側 A' には現在も標高差約3mの土手が残っているため 元来 縮尺 は 絵図に描かれているようなしっかりとした横墻にあ 1 100 1. 2.m たる土塁があったと考えられる ⑴ 第76図 20トレンチ土層断面図 第76図 2トレンチ土層断面図 遺構 第76図 1 2トレンチで検出した石畳と石垣に伴う横墻の検 出を目的として 砂揚場臺場之圖 薩藩砲臺圖稿本 で横墻の石垣が推定できる箇所に2トレンチを設定して 1 ⑴ 1 2トレンチ 第74 75図 調査を行った 遺構 第74 75図 しかし 石垣等は検出できず 公園整備に伴い積まれ 1 2トレンチの調査では 石畳とそれに伴う石垣 を検出した 石畳の一部は壊されて残っていなかったが た石列を検出したのみであった ⑵ 遺物 残存状況は極めて良好である 砂揚場臺場之圖 薩藩 砲臺圖稿本 に格子目が描かれている位置にあたると考 特筆すべき遺物は出土しなかった 3 3トレンチ 第77 78図 える 3トレンチでは 砲台南西部に露出している砲座と胸 海 河口 からの荷揚場であり このような遺構が砲 墻の石垣 土塁の構造や残存状況の調査を行った 台跡に付随する例は全国的にも珍しい しかし 軌条や階段などの遺構は検出できなかった 検出した石畳は砲台内側最端部で標高が約3m 海側 また 層も複数分層できる状態ではなく 表土や撹乱層 で標高1.3m 全長1mを測り 傾斜角約1度である 以外は黄褐色の砂質土のみであった また 石畳の両側は石垣で囲まれている 砲台内側最端 ⑴ 遺構 第77図 部の下部で幅約9m 石垣天端で約9.2mを測り Cラ インでの石垣の傾斜角が75度である 砲座について 硬化面やその他の遺構を検出すること はできなかった 表土下は砂層であり 上部は若干撹乱 また 海側の最奥部の石垣天端で幅約1.5mを測り を受けていたが 4トレンチで検出した砲座の軌条との 石垣の上部は砲台内から海側へ向かい徐々に開いていく 標高差が少ないため 砲台本来の砲座の層が残存してい 形となっている るようである 絵図中の位置特定については後述するが 石畳に敷かれた敷石は丁寧に成形された切石が並べて 3トレンチは軌条と軌条の間に位置しているため明瞭な ある 長辺は不規則であるが 短辺は.3m程度にそろ 砲座の遺構が検出されなかったものと考える えられており 表面に凹凸はなく滑らかである ア 石垣 石垣の石は正面にスダレ加工が施され その他はつく 4段積まれた石垣を検出した 最下部の標高は約3.8 りの粗い先細りの加工が施され 不規則な形状をしてい mで 2段程度が地中だったと考える 正面にスダレ加 る 横に目地が走る成層積であり 現場合わせの加工も 工が施され 成層積みである 粗い 石は全て凝灰岩であった つくりは全体として雑で 裏込の石も多く入らない 下部構造の調査を行っていないため 胴木などがあっ たかは不明であるが 少なくとも2 3段は地中に埋設 大きさも不定形で不規則な形状をしており 全て凝灰岩 が使用されていた 石垣の傾斜角は約75度であった されているようであり 裏込は石がさほど多くない また 胴木や敷石などは検出しなかった 現在残る石 覆土は 全て昭和期の遺物が入るシラスの客土であっ た 客土で覆われた時期については不明である 垣の天端は元来の天端か もしくはまだ積まれていたと しても7トレンチの結果からあと1段程度であると考え また 検出した最下面が標高1.3mほどであることか る ら 河口 海 からの荷揚場であるとすると 石畳は今 回設定したトレンチの外にまだ続いており 残存してい るものと考える 深さが2mを越えたことと 公園 病院との境である ことから 安全を記すためこれ以上の拡張をしての調査 78

100 A A 5.5m C' C 土 4.5m カクラン 3.5m 4.5m B' B' 土④ 5.5m 土① 土 土④ 3.5m 土① 土 土 土④ 磁器 NO.2 C' C B' 土① 石 垣 C C' ホ B B 階段 B ホ① ホ 土④ 砂層 胸墻土塁 土 客土 シラス 白色 土 黒色土 火山灰 旧表土 ホ① ホ ホ A' 5.m 4.m 3.m A' 縮尺 土① 表土 黒色土 火山灰 土 褐色土 表土と砂層が混じる 土 シラス 1 100 1. 2.m 縮尺 表土 桜島火山灰 明黄灰色砂質土 黄褐色砂質土 砲座シラスの軽石混 第 7 7 図 第77図 3 ト3トレンチ土層断面図及び検出遺構 レンチ土層断面図及び検出遺構 79 1 50 1. 2.m

101 イ土塁砂のみで積まれ, 浚渫土砂を用いて積み上げたことがうかがえる 現在は風雪に耐えず崩壊しているが, 本来はしっかりとした土塁であったと思われる ⑵ 遺物 ( 第 78 図 ) 遺物は, 砲座, 胸墻の土塁ともに出土があったが, 砲台の時期だけでなくそれ以前の遺物も出土している また, 遺跡全体でも陶磁器だけでなく瓦器なども出土しており, 種類も生活用具から仏具までと種類に富んでおり, 砲台築造に使用された土砂が, 甲突川の浚渫土であるため, 様々な時期の遺物が混在しているものと考える ア碗 1は, 染付の筒形碗で雪持ち笹が描かれている 9 は, 染付碗で見込みにコンニャク印旛の文様が描かれている 1 11は, 染付碗の底部である 11は, 見込みに蛇の目釉剥ぎが施され18 世紀から19 世紀のものである 1 は,18 世紀後半のフタ虫が描かれているものである イ皿 2は, 染付の皿,3 は, 白薩摩の皿である ウ鉢 5は, 薩摩焼の擂り鉢であるエ甕 6は, 薩摩焼の甕で苗代川産の19 世紀終末から2 世紀初頭のものである オ壷 4は, 薩摩焼の壷で, 産地は分からないが18 世紀前半頃のものである 肩部から胴部にかけて内面には指頭圧調整の痕跡がよく残っている カその他 8は, 焙烙の把手である 7は, 素焼きの人形の一部と考えられる 器厚も薄く, 胎土も精製された緻密なものである 4 4トレンチ ( 第 79~81 図 ) ⑴ 遺構 ( 第 81 図 ) 現在露出している軌条の構造を調べるためにL 字にトレンチを設定し, 胸墻の構造を調べるために軌条から1 m 4mのトレンチを設定した 結果, 軌条の構造と3トレンチと一直線上に並ぶ胸墻の石垣の基部を検出した また, 軌条の先にある石組が 7トレンチとの比較から軌条に伴う階段であることがわかった ア砲座標高約 4.3m, 外側の軌条の径 7.6m, 内側の軌条の径約 4.5m, 個々の石の短辺約.6mの軌条を検出した 外側の軌条の敷石は, 外側にゆく程長辺が短く, 中心部程長いものを敷いている また, 内側の軌条の真中から軌条の円弧の中心に向かい成形されていない石を2 個配してあった 7トレンチでも見られたが用途は不明である このような砲床の軌条の調査例には福井県おおい町松ヶ瀬台場があり, 軌条の円弧の中心からキスト砲架の固定のための軸を入れたピットが検出されているが, 本軌条のこの場所には, 天保山砲台跡の記念碑が建てられており調査することができなかった 祇園之洲砲台跡で検出した硬化面等は無く, 砲座は砂で構築されていた イ轍軌条の石の上面には, キスト砲架の車輪が通った轍が残っていた 天保山砲台で砲射訓練が行われていたことを示している ウ階段 7トレンチの結果と比較すると, その位置関係から, 軌条の北東側にあるH 型の石は階段の最下段部分ではないかと思われる エ石垣最下段の1 段を検出した 最下面の標高約 3.9mで1 ~2 段が地中となる構造が推測できる 正面にスダレ加工を施し, 成層積みで積上げる 傾斜角度は不明である つくりが全体として雑で正面から先細り, 裏込は石が多く入れられておらず, 胴木等は検出されていない ⑵ 遺物 ( 第 8 図 ) 遺物の出土は少なく, 図化できるものも少なかった 砲台の時期だけでなくそれ以前の遺物も出土している また, 遺跡全体でも陶磁器だけでなく瓦器など, 生活用具から仏具までと種類に富む 砲台築造に使用された土砂が, 甲突川の浚渫土であるため, 様々な時期の遺物が混在しているものと考える 12は, 竜門司焼の18 世紀後半の碗である 13は, 耐火レンガである 耐火レンガが砲台に伴うものであるのか, 浚渫土に由来するのかは不明である 5 5トレンチ ( 第 82,84,85 図 ) ⑴ 遺構 ( 第 84 図 ) ア石垣 5トレンチ (2 15m) では, 石垣の最下段の1~2 段のみを検出した 最下面の標高約 4.6mで1~2 段は地中であったと考える 正面にスダレ加工を施し, 成層積みで積まれている - 8 -

102 第78図 表17 3 4トレンチ出土遺物観察表 出土区 掲載番号 挿図番号 79 3トレンチ出土遺物 層位 法量 種別 分類 器種 産地 1 染付 碗 筒形碗 肥前 2 染付 皿 皿 3 磁器 坏 坏 4 陶器 瓶 徳利 薩摩 3T ホ 5 陶器 鉢 擂鉢 薩摩 3T ホ 6 陶器 甕 甕 口径 底径 器高 胎土の色調 釉 種類 色調 薬 部 位 3T ホ 8. 白色 透明釉 残存部全部 3T ホ 12.8 灰白色 透明釉 残存部全部 黄白色 透明釉 残存部全部 灰黄色 鉄釉 オリーブ黒色 残存部全部 17. 灰褐色 鉄釉 オリーブ黒色 底部外面無釉 灰黄褐色 鉄釉 オリーブ黒色 口唇部無釉 白薩摩 3T ホ 6.8 苗代川 3T ホ 4. 時 期 備 考 雪持笹 染付 18世紀前半 回転ハケ目 指おさえ ハケ目 19世紀末 2世紀初頭 ハケ目 苗代川 7 人形 人形 人形 3T ホ にぶい橙色 ナデ 指おさえ 指紋 8 土師質 土器 焙烙 焙烙 3T ホ 淡黄色 砂粒少ない 9 染付 碗 碗 肥前 3T 土④ 灰白色 透明釉 1 染付 蓋 蓋 肥前 3T 土④ 3.6 白色 透明釉 畳付は釉剥ぎ 11 陶器 埦 埦 3T 土④ 4.6 灰色 鉄釉 暗赤褐色 腰部 高台内底無釉 12 陶器 埦 埦 龍門司 4T ホ⑦ 3.9 にぶい 褐色 透明釉 淡黄色 腰部 高台内底無釉 4T 土⑦ 淡黄色 8 13 レンガ レンガ 耐火 レンガ 81 18世紀後半 コンニャク印旛 18世紀後半 砂粒少ない 回転ヘラ調 整 蛇ノ目釉剥ぎ 重ね 焼痕 18世紀後半 ヘラ 蛇ノ目釉剥ぎ 化 粧土 砂粒多い ナデ

103 A' A 標石 土① 表土 土 暗黄褐色砂層 火山灰 土 暗灰色火山灰 土④ 黄褐色砂層 土 暗灰色火山灰 土 暗黄褐色砂層 土⑦ 黄褐色砂層 胸墻土塁 5.m A' A ① シラス 砲座円弧中心点 ④ 公園の補修 4.m カクラン 植物痕跡 ⑦ 縮尺 1 100 1. 2.m コンクリート 第79図 イ 敷石 第79図 4トレンチ土層断面図 4トレンチ土層断面図 石垣の最下段から約3.5mの範囲に人頭大から拳大の 円礫が敷いてあった これが軌条に伴うものであるかは 不明である ウ 階段 5トレンチ東側に凝灰岩の切石があった 石は現位置 13 を保っていないが 4 7トレンチの軌条の標高とほぼ 12 同一であり 形状も4トレンチで階段の最下段部分を想 定したものとよく似ているため これも軌条の階段で 原位置は保ってはいないが 大きく移動していないと考 える そのため ここにも砲床や軌条があったことが想定で 第8図 きる エ 4トレンチ出土遺物 石列 石垣から約5m離れたところで 直線に並ぶ石列を検 出したが 天保山砲台のその他の石が凝灰岩のみである また 遺跡全体でも陶磁器だけでなく瓦器など 生活 用具から仏具までと種類に富む ことに対し この石列は凝灰岩の他に軽石などの石材を 砲台築造に使用された土砂が 甲突川の浚渫土である 使っていること 石列周辺の土が乱れていることから ため 様々な時期の遺物が混在しているものと考える 砲台に伴わない新しい時代のものと考える このことは 6 2トレンチ 7トレンチ胸墻の土塁 8トレンチで検出 6トレンチ 第83図 トレンチの北東側に2m 2mのトレンチを設定して した石列についても同様である 胸墻の土塁の調査を行った 標高5mから2m程掘り下 ⑵ げたが 撹乱を受けていない層は分層できるような状態 遺物 第85図 遺物の出土は少なく 図化できるものも少なかった 砲台の時期だけでなくその前の遺物も出土している ではなく全て黄褐色の砂であった また 遺物の出土も なかった 82

104 ホ① B 4.5m B' 83 4.m C 4.m 暗黄褐色砂層 黄褐色砂層 砲座 ホ ホ⑦ ホ⑦ 暗灰色火山灰 黄褐色砂層 ホ④ ホ 暗灰色火山灰 ホ 火山灰 4.5m G' C' A コンクリート 4トレンチ検出遺構 4トレンチ検出遺構 4.m 4.5m 砲座円弧中心点 第81図 G' 第81図 A' 砲台跡標石 C' D E D E 樹根 4.m 4.5m E 4.m 4.5m D' D' E 5.m A' A 縮尺 1. 1 50 ホ① 2.m ホ① 4.m ホ① ホ ホ⑦ ホ① F 4.5m F 4.m ホ 暗黄褐色砂層 ホ カ ク ラ ン G 表土 B' ホ ホ① ホ⑦ B ホ① F F ホ 深堀 C G 4.5m 4.m

105 A A B B 造成土 シラス ④ 黄褐色砂層 胸墻土塁 灰色砂質土 胸墻土塁 表土 ① ④ ① 火山灰 ⑮ B ⑫ 黒色土 旧表土か 5.m B 4.m 縮尺 1 100 1. 2.m ⑭⑬ 第83図 6トレンチ土層断面図 第83図 6トレンチ土層断面図 ⑫ カクラン ⑦ 7トレンチの階段の調査成果からすると 胸墻の土塁 の天端は 標高5.5m程度が推測できるため 6トレン チは もう少し高さがあったものが風雪に耐えず 崩壊 したものと考える 7 7 13 14トレンチ 第86 9図 露出している軌条の中心に砲座から土塁まで一直線に のばした7トレンチを 階段が露出しているところに13 トレンチを 13トレンチと対になる箇所に14トレンチを ⑦ ① ① ④ ⑦ ⑧ ⑩ ⑪ ⑫ ⑬ ⑭ ⑮ ⑩ ⑪ 表土 暗灰色火山灰 設定して調査を行ったが 調査の最終段階でこれら全て 公園造成土 暗灰色の火山灰 をつなげて調査を行った 暗灰色の火山灰 褐色砂層 ⑴ 遺構 第87 88図 褐色硬質砂質土 現在露出している軌条の構造を調べるためにトレンチ 黄褐色砂層 褐色砂層 を設定した後 胸墻の構造を調べるために軌条から1m 灰色硬質砂質土 褐色砂層 8mのトレンチを設定した 黄褐色砂層 灰色土 火山灰混の旧表土 結果 軌条の構造と5トレンチと一直線上に並ぶ胸墻 明褐色土 シラスの小石混 の石垣の基部を検出した また 軌条の先にある階段は 黄褐色砂層 砲座 軌条 胸墻石垣 階段の三つのと組み合わせで砲床を構 成していることが分かった そのため4トレンチのH形 A A 4.m 3.m 硬化面 2.m の石も階段であると考える 縮尺 第82図 第82図 1 100 1. ア 2.m 砲座 標高4.3m 外側の軌条の径約7.2m 内側の軌条の径 4.4m 個々の石の短辺約.6mの軌条を検出した 外側 5トレンチ土層断面図 5トレンチ土層断面図 の軌条の敷石は 外側にゆく程長辺が短く 中心部程長 いものを敷いている 表18 5トレンチ出土遺物観察表 出土区 掲載番号 挿図番号 種別 14 染付 碗 碗 5T ⑮ 5.7 白色 透明釉 畳付は釉剥ぎ 陶器 甕 甕 薩摩 5T ⑮ 黄灰色 鉄釉 黒色 口唇部無釉 ハケ目 16 陶器 鉢 擂鉢 薩摩 5T ⑮ にぶい橙色 鉄釉 黒色 残存部全部 ケズリ 貝目 分類 器種 産地 層位 法量 口径 底径 器高 胎土の色調 84 釉 種類 色調 薬 部 位 時 期 備 考 重ね焼痕 蛇ノ目釉剥ぎ

106 B' A 3.5m ⑮ B' B B A 4.5m 3.5m 2.5m 5トレンチ出土遺物 第85図 14 A A ⑮ 1.5m 2.m 1. 1 50 縮尺 C' C C' C 4.5m 3.5m ⑮ 2.5m 第84図 トレンチ検出遺構 第84図55トレンチ検出遺構

107 更に, 軌条敷石は合わせ面に詰め物はなく, 単純に切石を弧状に敷いたものである 合わせ面の加工は丁寧なものであると思われる また,1 段で構成され, 不動沈下防止のために下に破砕礫などの石を若干敷き込み構築されている 表面は丁寧に加工され凹凸がないが, 側面は天端から1cm程だけを丁寧に加工し, 他は粗い加工のままである 地中に埋められ, 構造上露出することのない部分であるため, 作業工程の省略が行われたものと考える 軌条の内側にある石列の円弧の頂点から, 軌条の円弧の中心に向かい成形されていない石が配してあった 4 トレンチでも見られたが用途は不明である このような砲床の調査例は, 福井県おおい町松ヶ瀬台場があり, 軌条の円弧の中心からキスト砲架の固定のための軸を入れたピットが検出されている 本軌条のこの場所には, 大きな松の木があり調査することができなかった 祇園之洲砲台跡で検出したような硬化面はなく, 砲床は砂と土を突き固めた硬化面で構築されていた 砲座の構造を調べるためにトレンチを軌条から延長して調査を行った 表面は既に流失しているものの, 築造時の砲座の盛土と考えられる黄褐色の砂層が一部残存していた イ轍軌条の石の上面には, キスト砲架の車輪が通った轍が残っていた 天保山砲台で砲射訓練が行われていたことを示している ウ階段階段のような切石が見えたため,13トレンチを設定して調査を行った その結果, 胸墻の石垣を構築した後に隙間無く積まれた階段であることが分かった 階段は5 段で最下段は地中になっていたものと考える Fラインの様相から, 階段の最上段は, 胸墻石垣の天端に載っていたことが分かる そのため, 胸墻石垣は,7トレンチ検出の胸墻の石垣と併わせ考えると石を4~5 段積上げたもので, 天端の標高が5m 程度と推測でき, 石垣の高さ8~9cmが推測できる 祇園之洲砲台と比較すると, 地上にある石垣が1 段少なくその分だけ砲座から見た胸墻の高さが低いものである オ石垣 7 14トレンチで最下段の2 段を検出した 最下面は標高 3.8mで1~2 段は地中だったことが分かる 正面はスダレ加工が施され, 成層積みで積まれている 石は全て凝灰岩で, つくりが全体として雑で正面から先細る形状である 裏込は石が多くなく, 胴木等は検出されていない 石垣の傾斜は, 約 75 度である オ土塁 7トレンチでは, 胸墻の土塁の調査も行った 胸墻の石垣から1~1.5m 離れたところに6に覆われた石列を検出したが,6はトレンチ全体に広がり,6までは, 江戸時代末の遺物とともにガラスや近年の鉄片などが出土したため, 石列及び土塁の上部は昭和期の盛土で構築されたものであると考える そのため, 断面図中の4のみが本来の土塁の層であり,4 以下は残存していると考える 胸墻の石垣も最下段の地中になっていた2 段だけが残っていることから, 胸墻が大きく壊れていた箇所を砲台の形状を意識して近代以降に修復されたものであることを示している ⑵ 遺物 ( 第 89 9 図 ) 遺物は, 土塁からの出土はあったが, 砲台の時期だけでなくそれ以前の遺物も出土している 砲座からは孔のあいた鉄製品が1 点出土したのみである 同様な孔のある鉄製品が 旧集成館 鋳物場跡 発掘調査報告書 1991 年株式会社島津興業にも掲載されているが用途不明である また, 遺跡全体でも陶磁器だけでなく瓦器など, 生活用具から仏具までと種類に富む 砲台築造に使用された土砂が, 甲突川の浚渫土であるため, 様々な時期の遺物が混在しているものと考える トレンチ ⑴ 21 22トレンチ現在露出している石垣の調査を行った その他のトレンチ同様に裏込の石はあまり使用されず, 直接砲台の盛土層である黄褐色の砂層から積上げてある ⑵ 23トレンチ 1 2トレンチと3トレンチの間にある胸墻の石垣に付く階段の調査を行った 地中となっている下部までコンクリートで補強されており, 新しく積み直された可能性が高いと考える 6 8トレンチ ( 第 図 ) 現状で築山がある箇所が 砂揚場臺場之圖 薩藩砲臺圖稿本 ( 第 71 図 ) の中央部に描かれた施設であるか調べるためにトレンチを設定した 6が安定した盛土層のようであるが, 砲台建設前の浚渫や砲台時のものと思われる時期の遺物に混じり鉄くずや新しい陶磁器が出土し, 頂部にある円形のコンクリートの設置と公園整備に伴い変形されていた そのため, 砲台の時期のものであるか分からなかった

108 A 7 トレンチ 第93図 遺構 第93図 砂揚場臺場之圖 薩藩砲臺圖稿本 第71図 に描 石あ かれている火薬庫やスロープ等の砲台関連施設の残存状 況を調査するためにトレンチを設定した カクラン 土 土④ コンクリート 土① 土 ⑴ 土① 土 土 土④ 土 公園整備のために撹乱を受けていたが 19トレンチで 硬化面を検出し 18レンチで灰赤色の凝灰岩の破砕礫を カクラン いては不明であり 砂揚場臺場之圖 薩藩砲臺圖稿本 の中に描かれた施設等にも該当するものが無く不明であ 土 旧表土 表土 桜島火山灰 茶褐色砂質土 褐色土 黄褐色砂層 胸墻土塁 明黄褐色砂層 隅丸方形に敷き詰めた遺構を検出した 用途や時期につ る 8 9 トレンチ 砲台の残存度を調査するために設定したが 撹乱が激 しく 砲台構築やそれ以前の浚渫に伴うと思われる層は A F 土 土④ 検出できなかった ウラ込 石垣 A 5.m 4.m 3.m 砲座円弧中心点 外側砲座敷石 乳白色砂層 灰色シルト 桜島火山灰 灰褐色砂層 小礫混 灰色シルト 桜島火山灰 乳白色砂 灰褐色砂層 小礫混じらず 乳白色砂層 A 4.m 3.m 縮尺 1 100 1. 2.m 第86図 第86図 7トレンチ土層断面図 7トレンチ土層断面図 87

109 A F D D' C' B' A B E F' 砲座円弧中心点 C E 5.5m B' B 4.5m 5.5m D' D 4.5m 縮尺 第 8 7第87図 図 77トレンチ検出遺構① トレンチ検出遺構① 88 1 50 1. 2.m

110 F 石垣 クギ 南 ホ ホ④ 樹痕 石 南 樹 痕 ホ ホ④ ホ① ホ① ホ④ ホ① A 石 内側の 敷石 B ホ 北 ホ⑦ 北 4.4m 4.m 未堀 4.6m 4.m ホ④ ホ① ホ④ クギ 5.m 4.m 5.m 4.m m F' ホ⑦ ホ④ m 根 樹痕 ホ④ 3.5m ホ① ホ⑦ ホ ホ 5.5m ' 4.5m 第88図 トレンチ検出遺構 第88図 77トレンチ検出遺構 2.m 1. 1 50 縮尺 3.5m 7トレンチ出土遺物① 第89図 表土 火山灰 茶褐色砂質土 褐色土 旧表土 黄褐色砂層 砲座 明黄褐色砂層 明灰色砂質土 砲座 表土 褐色土 ホ① ホ ホ ホ④ ホ ホ ホ⑦

111 第9図 表19 7トレンチ出土遺物観察表 分類 器種 鉄 不明 不明 18 染付 碗 筒形碗 染付 陶器 陶器 皿 埦 壷 22 瓦 瓦 23 陶器 瓶 陶器 磁器 磁器 染付 瓶 碗 碗 碗 皿 埦 壷 瓦 軒 瓦 急須 土瓶 土瓶 碗 端反碗 碗 28 染付 皿 29 3 陶器 陶器 31 陶器 32 瓦器 素焼 瓶 鉢 鉢 甕 鉢 火鉢 産地 出土区 掲載番号 挿図番号 種別 7トレンチ出土遺物 層位 7T 砲床 長さ23 5 幅2 8 厚さ0 8 胎土の色調 釉 種類 色調 薬 部 位 7. 白色 透明釉 残存部全部 7T 表 7T 土 7T 土 白色 灰黄色 明褐灰色 透明釉 透明釉 不明 畳付は釉剥ぎ 腰部 高台内底無釉 外面のみ施釉 7T 肥前 肥前 法量 口径 底径 器高 表 7T 土 黄灰色 薩摩 7T 土 にぶい赤褐色 鉄釉 黄褐色 残存部全部 薩摩 在地 7T 7T 7T 7T 4.2 にぶい橙色 鉄釉 オリーブ灰色 灰白色 透明釉 白色 透明釉 灰白色 透明釉 灯明皿 在地 7T 土 土瓶 擂鉢 鉢 甕 薩摩 薩摩 7T 土 5.9 7T 土 薩摩 7T 土 7T 土 土④ 土 土 土 胴部径11 0 残存部全部 残存部全部 残存部全部 畳付は釉剥ぎ 畳付は釉剥ぎ 白色 透明釉 蛇ノ目釉剥ぎ にぶい橙色 鉄釉 暗オリーブ色 内面 胴部無釉 明赤褐色 鉄釉 オリーブ灰色 口唇部 内面無釉 にぶい赤褐色 鉄釉 オリーブ黒色 明黄褐色 9 底部外面無釉 時 期 備 考 18世紀末 雪持笹 19世紀初頭 山水 18世紀代 回転ナデ 京焼風 帆かけ舟 ハケ目 中 スタンプ つぎ目 ナデ 砂粒少ない 回転ナデ 指おさえ 回転ナデ ローリング 赤絵 近代以降 蛇ノ目釉剥ぎ 重ね焼 広東碗の蓋 灯明皿へ転用 18世紀代 回転ナデ 回転ナデ 回転ハケ目 ハケナデ 底 貝 目 透し 回転ナデ

112 A A ① コンクリート片 ④ くず 瓦 レンガ片 淡褐色細砂層 褐色中砂層 ⑦ 凝灰岩 根 川砂 シラス 腐植質混 38 安山岩 根 39 第92図 8トレンチ出土遺物 ④ ① A A 褐色壌土 火山灰混 黄褐色シルト質土 灰色シルト質土 黒褐色砂質土 黄褐色砂層 白色軽石混 乳白色砂層 ⑦ 灰色砂層 シラス 暗褐色土混じる 第91図 第91図 表2 縮尺 1 100 1. 2.m 8トレンチ土層断面図 8トレンチ土層断面図 8トレンチ出土遺物観察表 出土区 掲載番号 挿図番号 92 3.m 2.m ① ④ 種別 33 磁器 碗 丸碗 在地 8T 表土 11. 灰白色 透明釉 残存部全部 19世紀代 梵字文 34 染付 碗 碗 在地 8T 表土 3.6 白色 透明釉 畳付は釉剥ぎ 19世紀代 梵字文 35 青磁 瓶 瓶 苗代川 8T 表土 白色 青磁釉 内側無釉 36 素焼 玩具 おはじ き 8T 表土 にぶい橙色 37 陶器 鉢 擂鉢 8T 表土 34.4 口唇部無釉 ハケ目 38 染付 碗 丸碗 8T 8.2 白色 透明釉 残存部全部 新 39 陶器 埦 埦 8T 3.8 にぶい黄橙色 透明釉 腰部 高台内底無釉 分類 器種 産地 薩摩 肥前 層位 法量 口径 底径 器高 胴部径8 3 胎土の色調 釉 薬 種類 色調 にぶい赤褐色 鉄釉 暗オリーブ褐色 91 部 位 時 期 備 考 土瓶スク鉢 ナデ 京焼風 2つ絵 型ぬき

113 92 ① ⑦ 18T ⑨ ① ⑦ A ⑨ 硬化面 ① ④ 硬化面 ④ 硬化面A カクラン 19T ④ 17T ⑨ ⑦ ① ⑦ ⑦ カクラン A シラス 深堀 ⑦ ズリ ⑧ B シラス ⑦ ⑧ ⑧ 硬化面A A ⑦ ① ⑪ 1 1 ⑧ ⑩ C D ① ⑦ ⑦ 硬化面 明褐色土 ④ ① コンクリート魂 硬化面A B ① カクラン カクラン ⑫ ⑦ 深堀 温水管 電気線の カクラン A ⑩ ⑦ 硬化面 A ⑨ 18T 北側 シラス 硬化面B ④B C ④ トレンチ土層断面図 ① ① 炭化物 ① その他のトレンチ土層断面図 第93図 検出範囲 硬化面 ⑨ ズリ ズリ ズリ ズリ検出面 深堀 ⑦ 凝灰岩破砕礫 ズリ 深堀 ⑦ ベルト ベルト断面はこの面 ④ ① ⑧ カクラン 第93図 ⑩ カクラン ズリ面 ⑦ ① 硬化面 黒色火山灰 カクラン 硬化面と⑦の境 B 硬化面 硬化面 樹痕 17トレンチ① ⑪ 2.m 3.m 2.m 3.m 2.m 3.m 2.m 3.m 火山灰 灰色砂層 硬質 褐色砂層 瓦礫混じる 明褐色砂層 瓦礫混じる 縮尺 1. 1 100 2.m ①表土 公園整備 暗灰色の火山灰 19トレンチ ④暗灰色の火山灰 明褐色土 褐色砂層 瓦礫,ガラス,鉄,軽石混 ⑦黄褐色砂層 瓦礫,ガラス,鉄,軽石混 ⑧黄褐色砂層 地山 ⑨肌色のシラス 小石 小軽石混 ただし 硬化面Aのシラスは明灰色 ⑩黄褐色砂層 軽石混 地山 ⑪白色砂層 硬化面は明褐色 19トレンチ ⑩ ⑪ ⑫ 褐色土 シラス 粘質土 瓦礫混 褐色砂層 褐色硬質土 黄褐色砂層 砲台の土 褐色砂層 瓦礫混 ⑦ ⑧ ⑨ 暗灰色火山灰 暗灰色火山灰 褐色土 橙色土ブロック混じる 表土 ④ ① 17トレンチと18トレンチ ①表土 黒色土 火山灰混じり グランド造成土 火山灰層 ④茶灰色の水性堆積層 シラスのような火山灰土 軽石混じり 砂層 川砂 17トレンチ①

114 第5節 総括 山砲台が鹿児島市指定文化財に指定されたときには既に 1 古絵図 古写真との比較と稿本中での位置 土砂に埋もれ 全く地表に現れていなかったと考えられ ⑴ 石垣 指定範囲から外れている 4トレンチで検出した胸墻の石垣と3トレンチの胸墻 埋土は一時に埋められたような様子で かつガラスや の石垣は一列に並び 同じものと思われる また同様に 鉄くず タイルなど比較的新しいものが石畳の直上まで 7トレンチで検出した胸墻の石垣と5トレンチの胸墻の ある 調査時に聞き取り調査を行ったが いつ埋められ 石垣も同じものと思われる たかは分からなかった 周辺の状況から判断すると隣接 しかし この2つの石垣は並びが一直線上に並ばず する河口の埋立て時の可能性が高い 間隔を空けて互い違いになっている 調査では 水際までを検出できなかったため 調査区 砂揚場臺場之圖 薩藩砲臺圖稿本 (第71図)の図 外にまだ続いていることが想定できる そのため 古絵 を見ると北側に胸墻の石垣の並びが横墻の左右で異なっ 図(第7 71図)に描かれている護岸の石垣も調査区外 ている箇所があり 図中のこの部分に先の石垣に間隔が の埋立地に残存している可能性が高い あいている部分が相当すると考える そのため 4トレ 8トレンチは砲台跡の中心部にある 調査の結果 公 ンチが先の横墻のすぐ脇になり 実際の間隔や7トレン 園整備やコンクリートの構築物で大きく撹乱され絵図中 チ横に高まりがあることを考慮すると7トレンチが一つ の焼玉竈であるか判断がつかなかった 周辺住民の方に 東側の横墻のすぐ横の位置になると考える も聞き取りを行ったが 新しくつくられたものか 以前 また 絵図中には 胸墻の石垣に が描かれており からあったものかを記憶されている方がいなかった これが砲床の階段の表現であると考える ⑵ 石畳 1 2トレンチで荷揚場の石畳と側面の石垣を検出し た これは 砂揚場臺場之圖 薩藩砲臺圖稿本 中に 格子目が描かれている箇所に相当する これは先述の石 垣の並びから4トレンチ 7トレンチの位置を 砂揚場 臺場之圖 図中で比定した位置関係とも合致する 天保 凡例 石畳 石畳側面石垣 軌条 砲座階段 階段痕跡 胸墻石垣 胸墻石垣のズレ 横墻 推定 護岸 推定 第94図 第94図 遺構位置推定図 遺構位置推定図 93

115 2 薩英戦争絵巻中の天保山砲台次いで薩英戦争絵巻中 ( 第 68 図 ) での天保山砲台を見てみると, 描かれている大砲の砲架にキスト砲架は見られない 新波止砲台についても同様にキスト砲架が描かれず, 祇園之洲砲台や弁天波止砲台, 大門口砲台にキスト砲架が描かれていることと異なる このことから, 天保山砲台には薩英戦争時キスト砲架の大砲は配備されていなかった可能性がある そうすると, 薩英戦争絵巻に描かれた大砲からは天保山砲台にキスト砲架用の石敷の軌条がなく, 砲眼 ( 砲門 ) を持つ胸墻であった可能性も考えられる ( 祇園之洲砲台は薩英戦争時には砲眼のない胸墻に造り替えられていた可能性がある 附編 135 頁参照 ) 天保山砲台跡のキスト砲架の軌条は一部露出しているため以前から紹介されており, 今回の調査で全体を調べることができた 軌条は, キスト砲架に用いられる砲床の構造物であるため, これが造られていなかった時期に築造された天保山砲台に築造時からあったものとは考えられない しかし, 砲台の改変を考古学的な見地から判断する材料は, 今回の調査で得ることができなかった 3 天保山砲台の残存状況今回調査したトレンチで トレンチについては, 層が4トレンチや7トレンチで調査した層と全く異なる層で, コンクリート造りの構築物を造る際に撹乱されていたり, かつて地表面であったことをうかがわせるような層もなかった 天保山砲台の現在の状況は, 昭和 7 年に護岸工事が行われた後, 埋立てが行われた姿であるが, 大正時代以前に作成された地図を見ると, 現在のようなU 字状の地形で描かれておらず, レの字状に描かれ, 砲台の一部が既に消失していることが想起され, このような砲台の消失や度重なる周囲の海岸線の台風被害等から守るために護岸が行われたものであろう 鹿児島地方法務局に残る和紙の地籍図 ( 作成年代不明, 書き込み修正あり ) を見ると, 第 95 図に波線で示した箇所から南東側が公園地でそれより北が原野となっている それぞれ地番が異なり, この箇所に修正等は見られない また, 先の地籍図を縮尺を合わせて現地形図に当てはめてみると, 護岸と思われるものの範囲が9トレンチ付近から始まることは一致するが, 現状とその範囲が一致しない そのため, 第 95 図の地籍図に誤記載があったことを推測したものを書き加えて2 本提示した いずれにせよ, トレンチは先に述べたように地図や地籍図から判断すると昭和期の埋立部分であることが想定でき, 天保山砲台の残存は,9トレンチで トレンチの様相と異なる層があることを考慮すると9トレンチと1トレンチの間から12トレンチの少し北側を通る線より北側に砲台の元来の地形と層が残存 している可能性が高い 更に, 大正以前の地図に現在軌条などが残存している部分と考えられる砲座の盛土と考えられる波線が描かれ, 砂揚場臺場之圖 薩藩砲臺圖稿本 ( 第 71 図 ) の図中にある背墻のようなものが波線で描かれている 現在の状況でこの背墻にあたると考えられる部分は, コンクリートと石垣で囲われた土手となっており, 一部は中国の長沙市と鹿児島市が姉妹都市盟約を結び, それを記念して建てた 共月亭 の一部となっている この工事が行われる以前の写真には松の生えた土塁のようなものが写っており, この工事がそこにあるものを利用しているとすれば共月亭を含む土手にも砲台の一部が残存する可能性がある 今回は, 植樹されている松のため調査が 第 95 図天保山砲台跡波線は地積図に見られる公園地と原野の境は地積図ラインは修正ライン 第 96 図明治 4 年代の地図 ( 縮尺不同 )

116 できなかった 4 調査成果 第4節の調査成果を石畳 砲座 土塁 護岸について まとめると表21のようになる このことから砲台の層が残存する範囲については前項 までと併せて第97 98図であると考える 天保山砲台調査成果 砲座 胸墻 キスト砲架を置いた砲座の軌条敷石 階段の組み 合わせを2箇所検出した 軌条に轍が残存してい る状況をつかむことができた 胸墻石垣の構造や残存状況 土塁の残存状況をつ かむことができた また古絵図との比較も行った 石畳 護岸 砂揚場砲臺之圖 薩藩砲臺圖稿本 に描かれてい る石畳を検出した 国内の砲台跡の事例と比較し ても河口や海に下る石畳は珍しく貴重である 古絵図に描かれている護岸は 検出されなかった 現在埋立地の下であると思われる 遺物 薩英戦争前(185年 1863年)とその後などについ て 細かな層位的差異は出土遺物では判断できな かった 第97図 残存範囲図 セ G 23 2 鹿児島厚生連病院 グ 6. グ ⑳ グ G ① グ ④ 表 グ 4. G 4. サ サ サ 3 砲台跡 J G イ ⑰ イ サ サ 3 3 イ イ イ G イ イ イ イ イ 3. イ 5. ⑯ ⑲ ハ ハ イ イ G グ G イ グ イ イ ハ ハ ⑱ 2.69 シ ⑦ ハ サ ⑨ ⑧ 3 ⑮ 天保山公園 凡例 石畳 石畳側面石垣 軌条 砲座階段 階段痕跡 第98図 胸墻石垣 胸墻石垣のズレ 横墻 推定 護岸 推定 良好な残存範囲 95 G

117 第 99 図砲台各部位の名称

118 第 6 章総括 第 1 節鹿児島紡績所の推定位置尚古集成館が所蔵している鹿児島紡績所の機械配置図によると, 紡績所の規模は約 75m 2mとなっている 第 27 図にあるように,2トレンチ布基礎のラインと, 3トレンチ布基礎のラインとの間隔は約 2mである 第 3 章 6 節で述べたことを踏まえ, 総合的に判断すると, この2つの布基礎は鹿児島紡績所の南北部分の基礎部分だと考えられる 尚古集成館蔵写真 9 鹿児島紡績所機械配置図 1トレンチ布基礎 ( 一番下の平たい礫 ) は他のトレンチの布基礎に比べ,1~2cm程度レベルが高い しかも, 布基礎の方向が西に向かっており, 鹿児島紡績所本体の基礎部分とは考えにくい 明治 5 7 年の古写真には紡績所本体の建物の西側に石造建築と木造建築の建物が一棟ずつ写っている ( 写真 9 参照 )1トレンチの切石布基礎は, この石造建築の倉庫らしき建物のものではないだろうか そして,1トレンチの坪地業はこの木造建築の基礎部分なのではないだろうか そうすると, トレンチを設定する際に参考にした, 薩摩のものづくり研究会報告書 薩摩藩集成館事業における反射炉 建築 水車動力 工作機械 紡績技術の総合的研究 で報告されている古写真のコンピュータ解析による配置復元図 ( 以下, 復元図 とする ) とのズレが生じることになる ただ, 復元図 は鹿児島紡績所の敷地高を, 機械工場の敷地高 -5cm と仮定しているので, 調査結果とのズレがでてくるのが当然かもしれない このズレは, 平成 23 年度に実施された鹿児島紡績所技師館の発掘調査概要報告書 ( 鹿児島市教委 ) でも指摘されている 調査の結果, 技師館の推定位置がやや北東方向にずれることを想定しているのである 復元図 の推定位置を, 技師館と同様にやや北東方向にずれるものと考えると,1トレンチ検出の布基礎 坪地業は, 古写真に見られる紡績所本体の手前の石造建築物 木造建築の位置に重なってくる これらのことを総合的に判断し, 鹿児島紡績所の推定位置を第 1 図に示した 東西の基礎部分は検出できなかったが, 南北の基礎部分は2~3トレンチのラインで間違いないだろう その東西の位置関係も手前の石造建築と木造建築物から想定できる 今回の調査では, 鹿児島紡績所の敷地全体の範囲を特定することはできなかったが, 古写真 地籍図等から推定した範囲を第 1 図に示した これについては, 今後の調査 研究に期待したい 鹿児島紡績所は, 薩英戦争後にイギリスの技術を導入し, 建設された日本初の洋式紡績機械工場であり, その後の日本の紡績業の先駆けとなった その工場本体の位置が特定できたことは大きな意義がある 写真 1 明治 7 年頃の磯地区 長崎大学附属図書館蔵 長崎大学附属図書館蔵 写真 11 明治 7 年頃の鹿児島紡績所

119 98 2 5.49 T 尚古集成館蔵 3 T-2-1 電 電 5.43 T-2 C地点 5.71 T-3-2 線 日豊本 磯旧街道 T B地点 5.53 2トレンチ 国道10号線 5.58 T-1-1 T-3-1 T-3 電 4. 3トレンチ 5. T 5 17 1 23 6 機械工場 尚古集成館 2 異人館 3 紡績工場 4 紡績工場付属屋 5 鍛冶屋 6 掘立小屋 7 木材倉庫 8 二階木材 9 旧機械工場 1 地金庫1 11 地金庫2 12 地金庫3 13 建物A 14 木炭倉庫A 15 木炭倉庫B 1 8 7 9 11 第1図 鹿児島紡績所の推定位置 m 木炭倉庫C 金物小物工場 小道具工場 役所 鋳物工場 鍛冶工場 土蔵 製薬場 アルコール工場 鑚開機工場 建物B 建物C 建物D 建物E 建物F 薩摩藩集成館事業における反射炉 建築 水車動力 工作機械 紡績技術の総合的研究 薩摩のものづくり研究会 P51 図4 第二期集成館配置復元図 を一部改変 鹿児島紡績所の敷地推定範囲 技師館の推定位置 鹿児島市教委23年度調査概要報告書より 第二期集成館の推定配置図 薩摩のものづくり研究会報告書より 鹿児島紡績所およびその関連施設の推定位置 1トレンチ 4

120 第 2 節薩英戦争時の薩摩藩の砲台について 1 祇園之洲砲台と天保山砲台の比較第 4 5 章で祇園之洲砲台跡の発掘調査成果と天保山砲台跡の発掘調査成果について述べ, 各砲台跡について若干の考察をした その文中で両砲台の検出遺構の差について少し述べたが, 再度ここで両砲台の検出遺構の差について考察してみたい 考察は, 平面形状, 断面形状, 砲座の構造と砲床の軌条, チキリ石, 階段, 荷揚場について行う ⑴ 平面形状両砲台とも西洋の書籍を参考に設計されたものと考えられる曲線の胸墻を持つことは共通しているが, 祇園之洲砲台がへの字状の形状であるのに対し, 天保山砲台は, 半円形の形状である点は異なっている また, 本文中に掲載した砲台の平面図の古絵図 ( 第 32,33,7,71 図 ) を見ると, 背墻について, 祇園之洲砲台跡が明瞭な土塁として描かれていないことに対し, 天保山砲台には, 明瞭な土塁と考えられる背墻が描かれている 遺構は検出できなかったが, 天保山砲台跡の古い地図や写真に背墻と考えられる土塁が見られ, コンクリートで固められてはいるものの現在もその位置に松の古木が生えた土塁があることを5 章で述べた その他については, 残念ながら祇園之洲砲台で検出した石列や礫敷, 天保山砲台跡で検出した礫敷については用途などが不明であり, 他の古写真や古絵図に見られる砲台跡関連施設についても遺構を検出することができなかったため詳細に両砲台跡について比較することができなかった ⑵ 断面形状断面形状については, 発掘調査成果と本文中掲載の古絵図との対比, 両砲台とも河口を埋立てた場所に築造されていることを考えると, 海に面した護岸から砲台内部へ構造を見ていくと, 第 99 図に示したように, 護岸の天端から広がる平場, 砲台内側を石垣で畳む胸墻の土塁, 砲座 砲床, 斜面もしくは荷揚 往来のためのスロープ, 砲台関連施設の建つ平場となっており, 共通している ⑶ 砲座 ( 砲床 ) の軌条天保山砲台跡でキスト砲架の軌条を2 箇所検出した 軌条は, 丁寧に整形された切石を用い内側と外側の2 条で一組となっていた 更に, 砲射訓練が行われていたことを示すキスト砲架の車輪の轍が付いていた 祇園之洲砲台では, 軌条は検出できなかったが, 明治 5 年撮影の古写真 ( 巻頭 8) 中にキスト砲架の下に軌条と考えられる半円形のものが写っている また, 同年撮影の磯地区の写真にも海岸に設置されたキスト砲架の大砲の下に軌条が写っている 更に 薩藩砲臺圖稿本 の下絵と思われる図に大砲を表現したものとともに2 条の半円が描かれている砲台もある しかし,2 点の古写真, 薩藩砲臺圖稿本 は, ともに明治 5 年頃の記録であるため, 薩英戦争当時の姿と直接的に結ぶことはできない そのため, 薩英戦争時の姿については, 薩英戦争を記録した薩英戦争絵巻によるところが大きい 薩英戦争絵巻に描かれた配備砲の差については,4 章 5 章で述べた また, 附遍でも文献資料等からの考察も得ている この軌条について, 薩英戦争絵巻や文献史料から, 祇園之洲砲台に薩英戦争当時には設置されており, 天保山砲台には無かったということは可能性を指摘できるものの, 考古学的には実証できなかった ⑷ チキリ石 石垣祇園之洲砲台跡の胸墻石垣の天端, 石垣の積直しが見られた11トレンチの下段の石垣で チキリ石 が確認できた 2つの石を繋ぐことで石垣の石がズレにくくする工夫であると考えられる この チキリ石 は, 天保山砲台跡では用いられていなかった その他, 祇園之洲砲台跡周辺に現存している江戸時代の遺構を見てみると, 護岸等が残る新波止砲台跡の現存している部分, 島津氏の居城であった鹿児島城に現存している石垣, 磯の集成館等に残る石垣, 石塀, 疎水溝, その他の鹿児島城下に残っている石垣等や祇園之洲砲台に移設復元された西田橋, 高麗橋, 玉江橋の石橋にも チキリ石 は見られない このように祇園之洲砲台跡で見られた チキリ石 は, その他の当時の現存する遺構には見ることができず, 特異なものである なぜそのようになったのかについては, 祇園之洲砲台の築造, 改修について, 命令, 工法, 設計図や工人などについて詳細に記載した史料がないため不明である 全国的にみてみると, 胸墻に石垣を設置する例はあまりみられない そのため, 胸墻の石垣に チキリ石 を用いるかについては比較することができなかった 国内のほとんどの砲台は, 胸墻は土を積み上げてつくられた土塁そのもので, 胸墻の砲台内部側に何らかの施工をした例として, 山口県下関市前田砲台跡の古写真や 五稜郭防禦戦の図 等の若干の古絵図に見られるように砲台内側に木材を葺いたものが数例あるのみである このほか, 鹿児島県根占砲台, 長崎県長崎市四郎ケ島砲台のように規模の大小があるものの胸墻を全て石垣で構築する例もある その他に, 砲台の構築物や石造構築物に チキリ石 もしくは チキリ工法 が用いられた例をみてみる 砲台の構築物では, 兵庫県神戸市の舞子砲台跡, 和田岬砲台跡, 今津砲台跡で鉄製の チキリ もしくはその痕跡が検出されている その他, 神奈川県神奈川台場などでも チキリ工法 が見られる 石造構築物では, 江戸城の石垣に チキリ工法 が見られ, 岩手県盛岡市の橋野鉱山で鉄製の チキリ がみられ, 熊本県内に残る石橋の多くに チキリ石 がみら

121 れる このように, 石造構造物に チキリ工法 をとることは, 当時全国に広がっているようであるが, その出自など不明な点が多い そのため, 祇園之洲砲台跡でみられた チキリ石 について, 祇園之洲砲台跡周辺の当時の遺跡でみることができず, 外来の技術のようであるが, その経路等については不明である ⑸ 階段天保山砲台跡では軌条に伴い検出することができた しかし, 各軌条に伴う1 箇所ずつの2 箇所と痕跡を1 箇所検出したのみであり, 古絵図中には多くの階段が描かれていることとは異なる 階段についても軌条同様に祇園之洲砲台跡では検出することができなかったが, 平成 9 年度の鹿児島市教育委員会の発掘調査時に胸墻に付く階段が調査されている また, 古写真, 古絵図中には階段がみられ配備された大砲ごとに大砲の左右に階段が付いていた様子がうかがえる ⑹ 荷揚場天保山砲台で1 箇所検出した 丁寧に成形された凝灰岩が敷かれた石畳と両側の石垣とで構成される 祇園之洲砲台からは検出されなかったが, 第 29,3, 33 図を見ると海へ突きだした格子目のスロープ状のものが描かれており, これが祇園之洲砲台跡の荷揚場であると考えられる この位置については, 既に破壊されているのではなく, 第 4 章で述べたように砲台の北側は現在祇園之洲砲台跡が公園として利用されている範囲よりも本来は広く, 砲台の北側で護岸の石垣が近年つくられた護岸の内側に残存している可能性が高いことから荷揚場もここに残存している可能性が高い その他の鹿児島湾岸の砲台跡について, 薩藩海軍史, 薩藩砲臺圖稿本 中には祇園之洲砲台跡と天保山砲台跡の他に, 弁天波止砲台, 新波止砲台, 大門口砲台が描かれ, 薩州見取絵図 に弁天波止砲台 ( 附編参照 ) が詳細に描かれている これらを見ると, 新波止砲台, 弁天波止砲台には荷揚場が描かれており, 大門口砲台については, 明瞭に荷揚場と考えられるものは描かれていない このように大門口砲台を除き,4 箇所の砲台跡については, 古絵図中に荷揚場が描かれており, 砲台に荷揚場を設置することが, 鹿児島湾 ( 城下 ) に築かれた砲台の特徴であるようである しかし, 砲台に荷揚場を併設することは全国的には珍しいものである その他の例としては, 東京都品川区品川台場がある ⑹ 古絵図の作風以上祇園之洲砲台と天保山砲台跡の比較をしてみたが, 祇園之洲砲台の 祗園之洲砲臺之圖 薩藩砲臺圖稿本 ( 第 33 図 ) の図について, この本中に収録されて 第 11 図祇園之洲砲台跡の荷揚場推定位置図中の白丸が荷揚場推定位置いるその他の4つの砲台跡の描き方と若干異なる部分がある その1 点目は, 階段を祇園之洲砲台は-で描くことに対し, その他の砲台は, で描かれている点である 2 点目は, 祇園之洲砲台では石垣の表現が全てについてなされていないが, その他の砲台では全ての石垣を格子目で表現している点である この差が何に由来するのか不明であるが, 表現方法が異なっていても必要な情報が描かれ, 現状と合致する部分もあるため, 上記の考察に影響は無いものと考える 2 砲架と古絵図これまで薩英戦争絵巻に見られる砲架について, 各砲台で差があることについて触れた また, 附編に置いても考察がなされている 祇園之洲砲台跡 新波止砲台については, 薩英戦争時にはキスト砲架の配備がなされ, 砲台の改築が行われている そのため, 祇園之洲砲台については, キスト砲架の採用に伴い, 薩英戦争時は現在の状況に近い姿になっていたと考えられる 天保山砲台については, 築造時にはキスト砲架の大砲が藩内で採用されておらず, どの砲台にも配備されていないことから, 築造時は, 回転式ではない砲架の大砲が配備され, 砲眼を持つ胸墻と軌条のない砲座 ( 砲床 ) であったことが推測される そのため改修されキスト砲架用の軌条を持つ現在の姿になっていることは明確であるが, 改修時期について, 考古学的見地から判断することはできなかった 薩州見取絵図, 旧薩藩御城下絵図, 薩藩海軍史, 薩藩砲臺圖稿本 に描かれた砲台について比較してみると, 前 3 者に描かれた砲台は, 防護壁としての胸墻が - 1 -

122 描かれているのみで 薩藩砲臺圖稿本 のように様々な砲台関連施設などを持つ様子は描かれていない 薩州見取絵図 に描かれた祇園之洲砲台と弁天波止砲台には, 方形の砲床と砲眼のある胸墻が描かれている 旧薩藩御城下絵図 に見られる砲台跡も胸墻に砲眼を描いたと考えられる凹みが描かれ, 薩藩海軍史 に見られる砲台も胸墻には砲眼と考えられるものが描かれる 特に 薩藩海軍史 中の砲台の図には, 方向を示す文字と直線が描かれている これらは, キスト砲架の大砲が整備されていく前の回転式ではない砲架の大砲が配備されている状況を示した図であると考えられる 薩藩海軍史 中の砲台の図は, 年代が不明であるが, このことからキスト砲架の配備前の年代が考えられ, 薩英戦争後に築造された東福寺ケ城砲台, 風月亭砲台, 磯の砲台 ( 巻頭写真 8)( いずれも鹿児島市 ) が描かれていないことからも薩英戦争前のものである可能性が考えられる しかし, 薩藩海軍史 の図は, この本の出版のために書かれた絵図ではないため, 掲載に取捨選択があったとすれば上記の考えは成立しないものとなるが, 詳細に調査し, 執筆された本であるため, そのようなことはないと考える 附遍において, 弁天波止砲台の薩英戦争時の姿について考察がなされ, 方形の砲座 ( 砲床 ) について述べられている このことについて, 祇園之洲砲台跡と天保山砲台跡の調査成果からは改修時期の特定ができず, 考古学的に積極的に裏付けることはできないと考える しかし薩摩藩から遠く離れた小松藩の砲台ではあるが, 福井県おおい町松ヶ瀬台場 2 号台場跡の検出遺構をみると, 半円形の土を積み上げたのみの胸墻と胸墻端に構築された火薬庫, 砲座, 背墻が検出されている 胸墻は, 砲台内側では階段状をなしている 砲座には, 胸墻に沿い中央に胸墻の円弧とは逆を向き, 砲台内部から胸墻に向かって開く半円形の軌条を持つ砲床 1 箇所とこの砲床の両脇に方形の砲床が2 箇所ずつ, 計 5 箇所の砲床が検出されている この5つの砲床のうち, 半円形の軌条を持つ砲床の箇所では胸墻の砲台内側が階段状とはならず, 天端は内側へ突き出た平坦面を持つ構造である おそらくここにはキスト砲架の大砲が配備され, この平坦面は弾薬を前から詰めるための施設と考えられる その他の4つの方形の砲床の箇所では, 胸墻に砲眼が開けられており, ここに配備された大砲は, 回転式でない砲架のものと考えられる この状況を附遍,4 5 6 章で述べた砲座 砲床についてあてはめてみると合致するようである また, 松ヶ瀬台場跡の周囲にある鋸崎台場跡でも良好な方形の砲床と胸墻の砲眼の組み合わせが検出されている また, 松ヶ瀬台場跡の報告書中に全国の幾つかの砲台の台場図が掲載してある その中には, 松ヶ瀬台場のも のはなく, 鋸崎台場の絵図が掲載されている 発掘調査で検出した砲眼の位置に台形もしくは五角形で描かれた箇所に 砲眼 と明記されている これは 薩藩海軍史 で砲眼を描いたと推測した箇所とは描き方が異なるが, その他に掲載されているものの中に 薩藩海軍史 で砲眼を描いたと推測した箇所と同様に描かれたものがみられる これらは全て砲眼を描いたものとみて間違いないと考え, これまでの考察を補強するものである 絵図や調査事例をいくつかみてきたが, 江戸時代末期に外国船の来航を阻止するためにつくられた日本の砲台は, 当初回転式でない砲架の大砲であった 回転式でない砲架の大砲にとっては沿岸から大砲が直接見えないように胸墻をつくり, 砲射を遮らないように砲眼の凹みをつくる必要があったが, 後に配備されていくキスト砲架では砲眼は無用であり, 砲眼の凹みでない胸墻は, 場合によっては砲射の際に邪魔になった そのため, 薩摩藩の砲台は, キスト砲架の配備に伴い, 順次砲眼の撤去と軌条の設置を行い, 更には胸墻等の全面改修をも行って洋式砲台へと変革がなされていったと考えられないだろうか 改修は, 詳細な記録がないため不明であるが, 数次に及んだ可能性もある 3 全国の砲台跡 ( 台場跡 ) との比較最後に薩摩藩の砲台跡と全国の砲台跡の幾つかとの比較を行ってみたい 最初に, 薩摩藩内の砲台跡について個々の比較を行い薩摩藩内の砲台について考えたい 先に述べたように, 祇園之洲砲台, 新波止砲台, 弁天波止砲台, 天保山砲台には荷揚場が併設されていた 大門口砲台では, 絵図面を見る限り荷揚場の有無は明確でない 胸墻については, 個々の差が大きい 砲台関連施設が設置される位置も個々の差が大きいようである このことが何に由来するのかは不明であるが, 薩藩海軍史 が胸墻と護岸程度だけを描いているため不明な点が多く, 新波止砲台と弁天波止砲台が既存の人工島に造られたため, 一概に比較できないかもしれないが, 個々の砲台が, 薩藩海軍史 に描かれる姿の, 和式砲術を採用し, 設計に関して統一された見解 ( 設計図というべきか ) のもとにつくられていなかったものが, 薩藩砲臺圖稿本 に描かれる姿へと改修されていったと考えられ, 洋式砲台への変革とキスト砲架の配備によりある程度統一されたものに変わっていったことがうかがえる 次いで全国の砲台跡についてみてみる 由良台場や大阪天保山砲台, 松ヶ瀬台場では, 洋式砲台が採用されている 祇園之洲砲台 天保山砲台と平面形や設置される施設, 断面構造など共通する部分も多い しかし, 細部についてみると,1 先述した砲台内側に石垣を持つか, 木材を葺くか, 土のみかという胸墻の構

123 造,2 火薬庫の設置位置が砲台内部の中央, 胸墻の端部, 土塁で小屋を囲む, 半地下式の構造をとる,3 一段低い砲台中央部から大砲を砲座に上げるスロープの設置の有無とその位置,4 横墻の有無等各砲台で異なる点が多く, 同じ設計で造られたとは考えられない状況である このことは, 江戸時代末に各藩が砲台の設計について書かれた洋書を参考に, 情報を交換しあう中で, 砲術師範のもと藩独自の見解と設計図をつくり, 築造箇所にあわせた 現場あわせ を行いながら砲台を築造していった結果であり, また, キスト砲架の配備と不配備など配備砲の差も砲台の構造に影響していると考える 第 13 図 福井県おおい町松ヶ瀬台場跡検出遺構 2 第 12 図福井県おおい町松ヶ瀬台場跡検出遺構 1 小松藩松ヶ瀬 鋸崎台場発掘調査報告書 大飯町教育委員会 2 年 3 月より転載

124 SUMMARY Japan had achieved a drastic level of modernization since the end of the Edo Period until the Meiji Period in a very short period of time and was the first country to do so aside from western nations. Amongst others, the technological advances initiated by Shimadzu Nariakira in the 185s contributed tremendously to the early phase of Japan's modernization. This time, an excavation survey was conducted at Kagoshima Spinning Mill Site, which was a major factory of the Shuseikan Project. A similar survey was also conducted at Gionnosu Battery Site and Tenpozan Battery Site, where the British Navy and Kagoshima fought during the Anglo-Satsuma War, and vital elements in stories describing Japan's modernization by the Satsuma Clan. This document tries to clarify the findings. 1. Kagoshima Spinning Mill Site Kagoshima Spinning Mill is Japan's first western style mechanical spinning mill constructed in 1867 by Shimadzu Tadayoshi, successor to Shimadzu Nariakira. At the time of the establishment of the factory, Godai Tomoatsu had spinning machines procured from England and seven British engineers were invited to stay on the site. The plant was in use until it was closed in Next to the spinning mill, Kagoshima Spinning Engineer's Residence (Foreigners' Residence) was also constructed. Because the actual building of Kagoshima Spinning Mill no longer remains, its exact location is not known. Therefore, the objective of this excavation survey was to determine the exact location of the building. (i) Remains were revealed by the excavation survey in three different phases. Phase I: The cornerstones of a wooden building and stone walls. Phase II: Aeruginous colored dirt floors. Phase III: The foundations of a stone building. All remains uncovered in these three phases belong to the late Edo Period. Looking at the strata from the archeological perspective, it was determined that Phase I was the oldest, which was then followed by Phase II and III. (ii) The axial directions of remains in all three different phases were found to be identical. Additionally, remains discovered by the Education Board of Kagoshima City in 1999 were at almost the same altitude and were facing the same direction. Therefore, it is considered that the 1999 remains are the same building as that found in Phase III. Furthermore, the Phase III remains discovered this time are in line with the estimated location and direction of Kagoshima Spinning Mill as reported by the "Satsuma Monodukuri (Manufacturing Technology) Research Society." In addition, based upon the comparison between the discovered remains and existing literature and old photographs, the following can be deduced: Phase I remains are the residence and accompanying items of the Shimadzu family. Phase II remains are possibly related to a coin casting mint. Phase III remains are Kagoshima Spinning Mill and its related facilities. Therefore, it is believed that the exact location of Kagoshima Spinning Mill has been determined. (iii) Kagoshima Spinning Mill was Japan's first western style spinning mill and it laid the foundation for the Japanese textile industry. Therefore, it is significant that the foundation part of the building was identified. *Note 1 "coin mint": The Satsuma Clan conducted coin minting with permission from the Shogunate Government. It was constructed in //// but was burnt down in 1863 during the Anglo-Satsuma War. According to records, Kagoshima Spinning Mill was constructed on the remains of the mint. 2. Gionnosu Battery Site Batteries were made in 1853 by Shimadzu Nariakira. This battery site bore the brunt of the hard fighting during the Anglo-Satsuma War in 1863 and it was believed to be destroyed by bombardment by the British Navy. After having realized the difference between the level of technology in Japan and western nations through this war, the Satsuma Clan started proactively seeking closer relations with Britain in order to obtain scientific technology and as a result drastically promoted the industrial modernization of Japan. Currently, the remains of protective walls can be seen at Gionnosu Battery Site. However, there are many unknown elements regarding the construction of the batteries, including shape and construction method. Therefore, an excavation survey was conducted to clarify such elements. (i) The structure and remaining range of the stone walls, the embankment2) of protective walls, the gun platforms where cannons were installed were identified by this time's excavation survey. It was also discovered that these remains exist in a condition close to that of the period between construction of the battery before the Anglo-Satsuma War until the repair work after the war. It was also discovered that the battery configuration is similar to that shown in photographs taken in 1872 as well as pictures from Drawing of Gionnosu Battery 祗園洲砲臺之圖 in Satsuma Battery Manuscript 薩藩砲臺圖稿本 3)

125 (ii) The protective walls are comprised of the outer embankment and inner stone walls. "chikiri" stones4), which are a combination of two stones, were used on some walls but not others. The embankment where "chikiri" stones were used was constructed with sand and piled soil alternately. The embankment made without "chikiri" stones used a mixture of sand and piled soil. The difference between the two is considered to represent the original protective walls before the Anglo-Satsuma War and the repaired walls after the war. (iii) Gun platforms where cannons were installed remained throughout the inner part of the protective walls. At Trench 6, it was discovered that to avoid subsidence, a large amount of stones were laid on top of the soil molded to construct the platform. (iv) From (i) through (iii), it can be concluded that the Gionnosu Battery Site remained well-preserved until the end of the Edo Period, and fully matches illustrations in old maps and photographs. It is also valuable as a battery site that was in actual use in Japan. *Note 2 Embankment: a bank made of soil Note 3 Drawing of Gionnosu Battery 祗園洲砲臺之圖 in Satsuma Battery Manuscript 薩藩砲臺圖稿本 : A book that contains Gionnosu Battery drawings made around 1877, and other drawings of battery sites belonging to the Satsuma Clan. Note 4 Chikiri Stone: A stone that served as a wedge to avoid misalignment of other stones in a wall. It was mortised with the part of a stone that was facing the other one. 3. Tenpozan Battery Site Tenpozan Battery was constructed by Shimadzu Narioki in 185. The bombardment from here is considered to be the event that triggered the Anglo-Satsuma War. After having realized the difference between the level of technology in Japan and western nations through this war, the Satsuma Clan started proactively seeking closer relations with Britain in order to obtain scientific technology and as a result drastically promoted the industrial modernization of Japan. Currently, the remains of protective walls can be seen at Tenpozan Battery Site. However, there are many unknown elements regarding the construction of the batteries, including shape and construction method. Therefore, an excavation survey was conducted to clarify such elements. (i) Three items were discovered. The paving stones in half-circle gun carriage rails used to change the direction of a gun, two sites of a series of staircases thought to be used by bombardiers to move up and down to insert gun powder and cannonballs before firing the cannons, and the site of a stone pavement at a landing platform leading from the sea (river mouth) to inside of the battery site. (ii) There are only two cases where paving stones for half-circle gun carriage rails were found during an excavation. The only other example is the excavation survey made at Matsugase Battery Site in Ohi Town, Fukui Prefecture. In historical records, there are drawings thought to be half-circle gun carriage rails in sketches contained in Satsuma Battery Manuscript 薩藩砲臺圖稿本, old photographs of Gionnosu Battery Site in Iso District (1872), old photographs of Maeda Battery Site (Shimonoseki City, Yamaguchi Prefecture), and old drawings of Shinagawa Battery Site (Shinagawa Ward, Tokyo). (iii) The landing platform is illustrated in the Drawing of Sand Pit Battery 砂揚場臺場之圖 in Satsuma Battery Manuscript 薩藩砲臺圖稿本 5). The location of the remains is in line with that of the drawing. In Japan there are very few examples where a landing platform by the sea is established at a battery site. Aside from the Tenpozan Battery, another example is the Shinagawa Battery of Shinagawa Ward, Tokyo. It was not possible to investigate the entire landing place this time because the site extended beyond the excavation survey range. Consequently, it was discovered that the protective walls of the battery site also extend outside the survey range, meaning the actual battery was larger than the one that can be seen at the current battery site. (iv) The stone of the protective walls seen at Tenpozan Battery are in two rows and were not laid in a straight line. In Drawing of Sand Pit Battery 砂揚場臺場之圖 in Satsuma Battery Manuscript 薩藩砲臺圖稿本 the stone walls depicted are also not in line. The actual site and that seen in the illustration are considered to be the same place. The drawing also conforms with the excavation findings at the series of staircases, the stones for the half-circle gun carriage rails, as well as the location of the landing platform. (v) From (i) through (iv), it is clear that the Tenpozan Battery Site remained well-preserved until the end of the Edo Period, and fully matches with illustrations in old maps and photographs. It is also valuable as a battery site that was in actual use in Japan. *Note 5 Drawing of Sand Pit Battery 砂揚場臺場之圖 in Satsuma Battery Manuscript 薩藩砲臺圖稿本 : The drawing of Tenpozan Battery recorded in this book, where batteries of the Satsuma Clan drawn around 1877 were compiled

126 図版

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128 図版1 鹿児島紡績所跡1トレンチ ① ④ ① 石垣検出状況 石垣深掘 坪地業 ④ 15 石垣検出状況 石垣深掘 緑青のある三和土

129 図版2 鹿児島紡績所跡1トレンチ ① ④ ① 1トレンチ検出遺構 布基礎検出状況 布基礎検出状況 ④ 16 1トレンチ検出遺構 反対から 布基礎検出状況 布基礎検出状況

130 図版3 ④ ⑦ ⑧ ① ⑦ 1トレンチ土層断面 2トレンチ硬化面検出状況 2トレンチ布基礎検出状況 2トレンチ布基礎中のレンガ No16 ④ ⑧ 17 1トレンチ土層断面 2トレンチ硬化面検出状況 2トレンチ布基礎検出状況 2トレンチ遺物出土状況 鹿児島紡績所跡1 2トレンチ ①

131 図版4 鹿児島紡績所跡3トレンチ ① ④ ⑦ ④ 坪地業検出状況 布基礎検出状況1 布基礎検出状況3 ① ⑦ 18 坪地業検出状況 坪地業検出状況 布基礎検出状況2 布基礎検出状況4

132 図版5鹿児島紡績所跡1 トレンチ出土遺物

133 図版6 鹿児島紡績所跡 1トレンチ出土遺物 11 79

134 図版7鹿児島紡績所跡1 トレンチ出土遺物

135 図版8鹿児島紡績所跡 トレンチ出土遺物

136 図版9鹿児島紡績所跡2 トレンチ出土遺物

137 鹿児島紡績所跡図版 トレンチ出土遺物

138 図版 祇園之洲砲台跡 11 ① ④ ⑦ ① 1トレンチ石垣天端 1トレンチ土層断面 1トレンチ土層断面 2トレンチ砲座硬化面 ④ ⑦ 115 1トレンチ石垣裏込 1トレンチ石列 2トレンチ石列

139 図版 祇園之洲砲台跡3 4トレンチ 12 ① ④ ① 3トレンチ石垣天端 3トレンチ石垣裏込 3トレンチ土層断面 ④ 116 4トレンチ石垣天端 4トレンチ石垣 4トレンチ土層断面

140 図版 ① ④ ⑦ ① 6トレンチ石垣 6 7トレンチ土層断面 b-b トレンチ土層断面 ④ ⑦ 117 6トレンチ砲座硬化面 6トレンチ土層断面 6トレンチ土層断面 a-a 土層断面 祇園之洲砲台跡6 7トレンチ 13

141 図版 祇園之洲砲台跡6 7 14 ① ④ 11 トレンチ 12 ⑦ ① 6トレンチ石垣天端 6トレンチ石列 11トレンチ下層石垣 ④ ⑦ 118 6トレンチ石垣天端 6トレンチ敷石 11トレンチ砲座硬化面 12トレンチ石列

142 図版 祇園之洲砲台跡8 15 トレンチ 13 ① ④ ⑦ ① ④ 8トレンチ石垣天端 8トレンチ深堀 13トレンチ砲座硬化面 護岸石垣天端 石畳 ⑦ 119 8トレンチ土層断面 護岸石垣 護岸石垣天端 石畳

143 図版 祇園之洲砲台跡9 16 トレンチ 1 ① ④ ① 9トレンチ石列 9トレンチ石列 9トレンチ土層断面 1トレンチ石敷 ④ 12 1トレンチ石列 1トレンチ石敷

144 祇園之洲砲台跡上段 1 トレンチ, 中段 3 トレンチ, 下段 4 トレンチ出土遺物 図版

145 祇園之洲砲台跡図版 上段 6 7 トレンチ, 中段 8 トレンチ, 下段 9 トレンチ出土遺物

146 祇園之洲砲台跡1 トレンチ出土遺物 図版

147 図版 天保山砲台跡1 2 2 ① トレンチ 2 ④ ⑦ ④ ⑧ ⑦ 5. ① 4. ⑧ ① ⑧ 荷揚場石畳 荷揚場石畳 荷揚場石畳 2トレンチ ④ 荷揚場石畳 124 ⑦ 荷揚場石畳 荷揚場石畳 荷揚場石畳

148 図版 ① ④ ⑦ ⑧ ① ⑦ 調査前状況 軌条検出状況 石垣検出状況 胸墻土塁断面 ④ ⑧ 125 階段痕跡 中央の配石 石垣検出状況 轍痕 天保山砲台跡4トレンチ 21

149 図版 天保山砲台跡7トレンチ 22 ① ④ ⑦ ⑧ ① ⑦ 軌条 石垣 階段検出状況 軌条内断面 軌条内断面 砲座断面 ④ ⑧ 126 石垣覆土断面 軌条内断面 中央配石 胸墻土塁断面

150 図版 ① ④ ⑦ ⑨ ① ④ 8トレンチ土層断面 3砲座断面 石垣 3トレンチ石垣裏込 3胸壇土塁断面 ⑨ 21トレンチ石垣裏込 127 ⑧ ⑦ ⑧ 8トレンチ土層断面 5トレンチ敷石 5トレンチ土層断面 5トレンチ石垣裏込 天保山砲台跡8 3 5トレンチ 23

151 図版 天保山砲台跡 24 ① ④ ⑦ ① ④ 18トレンチ検出硬化面 17トレンチ土層断面 9トレンチ 15トレンチ ⑦ 11トレンチ 128 ⑧ ⑧ 17トレンチ土層断面 12トレンチ 1トレンチ

152 天保山砲台跡上段 3 トレンチ, 下段左 4 トレンチ, 下段右 5 トレンチ出土遺物 図版

153 天保山砲台跡図版 上段 7 トレンチ, 下段 8 トレンチ出土遺物

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156 祇園之洲砲台跡 薩英戦争時のイギリス艦隊の進路 131

157 る 市来四郎はその様子を 春日艦等ノ水夫ハ 各所ノ砲台ニ上リ砲架ヲ破潰シ 火門ニ釘ス と記してい註52る 西南戦争によって鹿児島の砲台群はその歴史に幕を下ろすことになったのである 註1 斉興公史料 三三三 天保八年山川港ニ英艦渡来ノ事実 2弘化元年八月 従大和下状 ( 琉球王国評定所文書 第二巻)3 薩藩海軍史 中一四五頁4 斉興公史料 三三五 封内沿海之守備 5原剛 幕末海防史の研究 三〇五頁6 7 斉興公史料 五四七 安田助左衛門日記抄 8 鎌田正純日記 9 根占町郷土誌 1 薩藩海軍史 上 仏英艦琉球に来りて互市を請ふ 11芳即正 調所広郷 二一三頁12 薩藩海軍史 中二一頁13 斉彬公史料 第四巻 順聖公御事跡并年譜 14 斉興公史料 六二七 鎌田正純日記抄 15 薩藩海軍史 中二一頁16 佐賀藩銃砲沿革史 二〇七頁17 斉興公史料 七〇六 安田助左衛門日記抄 18 斉興公史料 六八四 総覧 19 斉彬公史料 第一巻一三七 安田助左衛門日記抄 2 斉彬公史料 第一巻一九八ノ五 妙円寺 日新寺其他御参詣行列 21 薩藩海軍史 中一五〇頁22 斉彬公史料 第一巻二二六 総覧 23 新納久仰雑譜 嘉永六年一月十二日条24 斉彬公史料 第一巻二六二 藩内事跡総覧 に同じ27 新納久仰雑譜 安政元年八月二十四日条28 斉彬公史料 第一巻二七四 高輪 田町両邸ニ砲台建築ノ請願 29 薩藩海軍史 中一五二頁3 斉彬公史料 第二巻五三七 越前藩士阿部又三郎 村田巳三郎ノ来麑 31 新納久仰雑譜 323に同じ33 薩州見取絵図 は 鍋島藩主家に伝わったものが財団法人鍋島報效会に 武雄鍋島家に伝わったものが武雄市歴史資料館にある 新波止砲台の図は武雄市蔵のものにはない 34カッテンディーケ 長崎海軍伝習所の日々 邦訳水田信利(平凡社東洋文庫二六 九四頁)35 薩藩海軍史 中一五六頁36 長崎海軍伝習所の日々 一一一頁37 薩藩海軍史 中三九二頁38 忠義公史料 第二巻一七三 軍制改革令 39 薩藩海軍史 中三九二頁4 忠義公史料 第二巻三六五 諸砲台装置砲数 四〇四 鹿児島湾内各所砲台装置ノ砲数 41 薩藩海軍史 中四三〇頁42 新納久仰雑譜 安政五年七月八日条43 キューパー提督の公式報告書翰 (金井圓編訳 描かれた幕末明治 雄松堂出版)44アーネスト サトウ 一外交官の見た明治維新 上一〇九頁45 薩藩海軍史 中五五一頁46 忠義公史料 第六巻六〇二 神瀬砲台築造ノ形状 輸入砲については 薩藩海軍史 中五九一頁には九十ポンド砲など八十九門のアメリカ製大砲を購入したとある 47 薩藩海軍史 中一五八頁48 薩藩海軍史 下一〇一五頁49 忠義公史料 第七巻一 島津忠義祇園之洲砲台射撃ヲ臨検ス 5 鹿児島県史 第三巻五七一頁51田村省三 祇園之洲台場と薩摩藩の海防政策 (鹿児島市教育委員会 祇園之洲砲台跡 )52 丁丑擾乱記 二五 勅使鹿児島御着 ( 西南戦争 第一巻収録)

158 門口 天保山砲台と砲撃戦を交えながら南下 谷山で一夜を過ごし 翌四日 鹿児島湾を後にした この時 沖小島の和式砲術隊も奮戦したが 命中弾を与えても 威力不足で軍艦にダメージを与えることが出来なかった 二日間にわたる戦闘で薩摩側は西欧の科学技術の凄まじさを身を以て思い知らされた 洋式忌避の風潮は一掃され 西欧の科学技術導入を進めた斉彬の政策が見直されることになった 藩は直ちに砲台の修復に着手 焼失した集成館に仮工場を築き二十四斤砲の製造に力を注いだ 斉彬没後に中断されていた神瀬砲台も 七月十八日築造工事が始まり 長崎にいた中原猶助は二百斤から五十斤までの鉄製砲四十門余を購入し註46た さらに 祇園之洲砲台の北側の東福ヶ城 風月亭の両所と磯に砲台が新造され 東福ヶ城砲台には 二十四封度砲一門十八封度砲一門十二封度砲四門二十拇臼砲一門十五拇臼砲一門が 風月亭砲台には十二封度砲二門六封度砲一門 磯砲台には軽砲数門が配備され註47た また 旧式な砲車を備えていた新波止砲台 天保山砲台もキスト砲架に改められたようで 両砲台の跡には キスト砲架用の半円形の石組が残されている 幕末 明治期の砲台薩摩藩は 砲台修復と並行してイギリスとの和解を模索していた 十一月には薩摩藩が賠償金を支払い(幕府立て替え) 犯人を捜索することを約束する(イギリス側が事実上不問に付す)ことで和解が成立した それに伴って 対外的な危機感も薄れた 逆に薩英戦争頃から幕府との関係が悪化 薩摩藩の軍備も外国軍艦の来航に備えたものから 国内戦に向けたものへとシフトしていった このため神瀬砲台の築造は再び中止され 海防体制は薩英戦争時から若干強化されただけの状態に留まった そして その状態で明治維新を迎えたのである 明治三年七月に鹿児島藩が兵部省に提出した兵器届に 大砲二百七拾八門 とある この中には短四斤砲(八十門)のような陸戦用も含まれているが 百五十ポンド砲(二門) 八十ポンド砲(十八門)と並んで六十ポンド後装砲(九門)が記されている 大きさから六十ポンド後装砲は台場砲と思われ註48る 翌明治四年二月 藩主島津忠義が祇園之洲砲台の射撃訓練を視察しているが これは 舶来元込砲ノ試撃 であったとい註49う また 同年 鹿児島城下の砲台の備砲および兵力は 調練場(天保山)が砲十一門 兵百五十名 大門口砲台が七門 七十八名 弁天波止一番が八門 八十八名 同二番が八門 九十名 新波止が八門 八十三名 祇園之洲九門 四十名 東福城 風月亭が八門 九十名 計五十九門 六百十九名であっ註5た 明治五年 明治天皇が鹿児島を巡幸し 集成館 新波止砲台などを視察した お召艦隊と天保山 洲崎(大門口) 弁天波止 祇園之洲上(東福ヶ城 風月亭か?)祇園之洲下砲台と模擬砲撃戦も行われた また 天皇に随行したカメラマン内田九一は磯や祇園之洲の写真を撮影している 鹿児島県立図書館にある 薩藩砲台図稿本 は明治天皇の巡幸に際して作製されたものと考えられてい註51る 明治天皇の鹿児島巡幸から五年後 西南戦争が勃発した その最中 明治十年三月 西郷軍と政府軍が熊本方面で死闘を繰り広げている時に 勅使柳原前光が護衛の陸軍一大隊半 巡査七百を護衛に従え 伊東祐麿海軍少将が率いる軍艦春日 筑波 龍驤に分乗して鹿児島にやって来た その際 伊東少将に対し砲台 集成館 旧火薬局の処分が命じられており 涯軍部隊がその命に従い砲台を破壊していったのであ

159 結局 備砲の一部換装を除いて 斉彬が亡くなった後の状況のまま文久三年六月二十七日のイギリス艦隊来航を迎えることになった 来航時の備砲ついては 忠義公史註4料 や 薩藩海軍註41史 に資料が掲載されているが 数字が一致しない 薩藩海軍史 の資料が大砲ごとに配置人名を記したものも含まれており 最も正確なのではないかと思われる 薩藩海軍史 に記された備砲は左の通 砂揚場(天保山)二十四听短砲二 三十六听爆砲(ボンカノン)二 二十拇臼砲二 十八听短砲二 八十听爆砲一 六听野戦砲二大門口三十六听爆砲三 二十拇臼砲一 野戦砲四南波戸(臨時砲台)野戦砲二 臼砲三弁天波戸百五十爆砲一 五十封度臼砲二 八十封度加農二 三十六封度十二新波戸三十六听爆砲五 百五十爆砲一 六听野戦砲三 二十拇臼砲一 八十听爆砲一祇園之洲二十四听長砲四 八十听爆砲一 二十拇臼砲一桜島横山(袴腰)二十四听短砲一 十八听二 十五拇忽砲一烏島十二听野戦砲二 六听野戦砲一洗出(赤水)十八听短砲一 十二听短砲二 十听野戦砲一 六听野戦砲二沖小島三貫目砲五 百目砲十これら備砲の射程だが 安政五年七月八日 天保山砲台で八十ポンド砲 三十六ポンド砲 十八ポンド砲の砲撃訓練が行われた際 約三千メートル離れた神瀬を標的にしてい註42ることから 少なくとも三千メートルはあったと思われる 城下中心部辺りで 鹿児島城下と桜島の距離は約四千メートル 城下と桜島に砲台を配置すれば 正面海域は十分にカバーできたのである また 弾丸は球形弾で 内部に導火線を入れて燃焼時間を調整できるようになった木管を使って爆発させる炸裂弾と 鉄のかたまりで 砲台に備えられた玉焼竈で真っ赤になるので加熱して発射する焼玉(ホットショット)などがあった 戦闘は七月二日正午頃にはじまった この日早朝 イギリス側は交渉を有利にしようと薩摩藩所有の汽船の拿捕に踏み切った 薩摩側はこれを戦闘行為と見なし 艦隊に向け砲撃を開始したのである イギリス側は戦闘準備を調えてなく 足手まといになる薩摩藩の汽船を焼却し 湾奥に離脱 戦闘準備を調えた上で 花倉(現鹿児島市吉野町)沖から単縦陣で南下し 薩摩側の砲台と激しい砲撃戦を交えた この時の様子を イギリス艦隊のキューパー提督は 命中率のいい砲撃にさらされ かなり苦戦 した註43と アーガス号に搭乗していた外交官アーネスト サトウも 旗艦ユリアラス号の艦長とウィルモット中佐が 第七砲台(新波止砲台)から発射された球形弾にあたって戦死 十インチの破裂弾(百五十ポンド砲弾か?)が艦(ユリアラス)の主甲板で炸裂 堂々たる軍艦もすっかり窮地に陥った と記してい註44る 一方 着発信管が付いた椎の実形の砲弾を発射するアームストロング砲も威力を発揮し 薩摩側に甚大な被害を与えた 特に祇園之洲沖でレースホースが座礁 これを救助するため祇園之洲砲台に集中攻撃を浴びせたため 祇園之洲砲台の砲は 一門を残して破壊された 弁天波止砲台も一時退去が命じられ 新波止砲台も火門に釘を打ち 弾薬を破棄して撤退せざるを得ない状況に陥ってい註45る 夕刻に一日目の戦闘が終わり イギリス艦隊は桜島の小池沖で夜を明かした そして 翌三日 桜島の袴腰 烏島 沖小島 城下側の大

160 れる キスト砲架採用以前の砲架は 背の低い箱形の砲車で 下部に四つの車輪が付いていた( 薩英戦争絵巻 新波止砲台部分参照) 砲車は 発射の反動で後方にさがった大砲を前に押し戻すのは容易だが 砲を左右に振ることは困難であった このため砲座も前後の移動を想定しただけの方形で 射界も限られていたため 射界部分に砲門を設け その周りは高い防護壁が築かれていたのである キスト砲架の採用により左右に射界が広がり 砲座が方形から 内陸側に半円形に広がるものに変わり 射界を遮る防護壁が撤去されたのであろう 先に紹介した 薩州見取絵図 の弁天波止砲台図は 方形砲座が描かれている 薩藩海軍史 には 弁天波止 新波止など城下の砲台図が収録されている いつ頃の状況のものか定かではないが 弁天波止砲台の図は 薩州見取絵図 に類似しており またいずれも砲門らしきものが描かれており 砲車時代の状況を描いたものと思われる また 文久三年(一八六三)の薩英戦争の様子を描いた 薩英戦争絵巻 では 祇園之洲 弁天波止 大門口砲台はキスト砲架となっている 薩英戦争までに 弁天波止 大門口砲台でも祇園之洲同様の改造が行われたことがうかがえる 安政四年閏五月頃 福井藩士たちが弁天波止砲台を見た時に大砲が備えられていたのに 二ヶ月後 佐賀藩士たちが見た時にはなにもなかったというのも 旧式砲架からキスト砲架への換装 改造が行われている最中であったとすれば理解できる また 薩英戦争絵巻 に 新波止 天保山の両砲台の備砲が旧式砲架のまま描かれているのは キスト砲架への換装 砲台の改造が 斉彬生前に完了 着手されていたものに止まったことを示しているのであろう 薩英戦争文久二年八月 武蔵国生麦村(現横浜市)で薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件(生麦事件)がおこり イギリス側は薩摩藩に犯人処刑と賠償金支払いを求めた 薩摩藩はこれを拒否するとともに イギリス艦隊による報復攻撃に備え防衛体制の強化を図った とはいえ 藩首脳部の中に 斉彬のように西欧の科学技術に通じたものがいなかったため 洋式では 兎角人心之帰嚮薄ク 慶長以前ノ制ニ従ヒ と 西洋式歩兵調練を廃止して 戦国期のものに復す有様であった 砲台の備砲に関しては 是迄之通西洋ノ規則ニ基キ とされたものの 万事彼之法制ヲ学ヒ候儀ハ 我国風ニ不応儀モ可有之 成丈簡易ニシテ行レ安キ様可致研究 という指示が出されてい註38る また 桜島の沖に浮かぶ沖小島に 新たに砲台が築造されたが 天山流砲術師範青山愚痴が担当したもので 小口径の和式砲を置いた程度のものであった 新波止砲台に関しても 前述の様に物主川上右膳が 砲門なしに涯々御築直し有之度御座候 と願い出ていた註39が 薩英戦争絵巻 では 備砲が旧式砲架のまま描かれているので 改造はおこなわれなかったものと思われる 祇園之洲砲台 ( 尚古集成館蔵 薩英戦争絵巻 )

161 野戦砲四門 七百戔野戦砲一門があったと 弁天波止砲台図には 長凡百二十間 横幅八間 高水面ヨリ二間半 備砲ノ義ハ製造中ノ由ニテ未タ無之候事 と注記がある また天保山砲台は台場備砲として 七百目野砲 十五ドイムモルチール 六封土カノン等之由 とあり 祇園之洲砲台については備砲等の記載はない 翌安政五年三月 カッティンディーケら長崎海軍伝習所のオランダ人教官たちが 幕府軍艦咸臨丸に乗船して鹿児島を訪れた カッティンデーケは 鹿児島の市街地は高い類壁に囲まれた一連の砲台の後方につらなる平野にある 岩石で造られた波止場 無数の銃眼 鹿児島の備えはゆきとどいている と高く評価し 月ノ砲台 の様子を この砲台の周壁は土で作り その表面を石で畳んである 砲は二十四ポンドから百五十ポンドまでの各種のものが二十門据え付けられてある そのうち百五十ポンドのパイアン砲(ペキサンス砲か)はすこぶる綺麗に鋳上げられてあった と記してい註34る 新納久仰雑譜 には 祇園之洲台場へ上陸 細々蘭人等へ委敷見セ とあるので 月ノ砲台 とは祇園之洲砲台のことと思われる この時 斉彬は鹿児島の防衛体制についてオランダ人たちに意見を求め オランダ人側は 桜島沖の神瀬に八稜形 桜島洗出(赤水)に三稜形 砂揚場(天保山)に六稜形の砲台を築き 三ヶ所から挟撃できるようにすべきとアドバイスし註35た 斉彬はこれを容れ まず神瀬で砲台建設に着手した 二ヶ月後 カッティンディーケは神瀬で工事が始まっているのを見て (岩礁の)一部が岩で固められ それが水上保塁になるのだと聞かされた時の我々の驚きたらなかった こんなにも早く これほど費用も掛かるであろう大事業が実施されようとは また我々の言がこれほど尊重されようとは 全然予想もしなかった と驚いてい註36る しかし その二ヶ月後 安政五年七月斉彬が急死した 急激な近代化 工業化に批判的であった前藩主島津斉興が実権を握り 斉彬が興した集成館事業を大幅に縮小させた 砲台整備砲事業もその例外ではなく 神瀬砲台の築造は中止されたのである また 斉彬は 亡くなる前 砲台の改造にも取り組んでいた 新納の日記 安政五年四月二十六日の条に 新橋下台場(新波止砲台)之儀ニ付 別テ御趣意違之筋ニテ大形之至致取扱候旨御叱リ承知仕 と また斉彬の死後だが安政五年十一月五日に 祇園ノ洲砲台当分修復中 同年十二月四日 祇園之洲台場当分御修甫 尤此節ハ砲門ナシニ御築立相成 今日迄ニ大体之成就 とある 新波止では斉彬の指示と違った工事がおこなわれてしまったというが 詳細は不明 祇園之洲砲台の 砲門ナシニ というのは 文久三年 新波止砲台の物主(指揮官)川上右膳が 異船掛場に依ては 過半其砲門に不掛も有之 台場砲門相廃し 弁天波戸同様土手築 砲門なしに涯々御築直し有之度御座候 と 砲門が射界を遮るので撤去して土手に造り直して欲しいと願い出てお註37り 祇園之洲でも同様な理由で改造が行われたのであろう とすれば 祇園之洲砲台の改造は キスト砲架を採用したことに伴うものと思わ新波止砲台 ( 尚古集成館蔵 薩英戦争絵巻 )

162 祇園之洲砲台を 束柴ヲ以テ築キ 側面 裏面ノ外前面 上面ハ柴 擬製一門 と 軸要塞砲と言われるもの ヲ植へ 八十斤暴母 四門 七百目 で 砲架の前方を固定し 門 十 二 斤 長 二門 新製十二斤 後方に横向きの車輪を着 在 と 大門口砲台を 祇園洲同様柴束ヲ以テ造リ 二十九拇天砲 一門 十五拇長 けたもので 砲架後方を 一座 二十拇天砲一座 八十斤暴母 一門 二十四斤迦炳同 十八斤 た新型の砲架である 端 押して狙いを定める 弾 同 三十六斤暴母 ら佐賀藩士が鹿児島を訪れ また同年七月 千住大之助 註32 二門 二十拇和微砲一門 二十九寸及ヒ二十寸 三 門 全 備 ノ 上 ハ 百 五 十 封 度 一 門 既 ニ 砲 台 中 ニ 一 丸を発射すると反動で上 ノ天砲ハ皆鉄台ニテ見事 と そして 毎炮台火薬庫アリ 原法ノ如 三門 二十四斤長 部構造物が後ろにスライ ク穴蔵ナリ 内郭広二間半ニ二間 高七尺許 と記している 三門 三十六斤暴母 ドし それを前に押し返 して発射位置に戻すため の大きな車輪状のハンド 弁天波止砲台図 佐賀県武雄市蔵 薩州鹿児島見取絵図 薩州見取絵図 を書き残し 註33 ている その中に新波止と弁 天 波 止 砲 台 の 図 が あ り 天 保山調練場 図に天保山砲台 が 鋳 製 方 図 に 祇 園 之 洲 砲台が小さく描かれている 新波止砲台の図には 台場 長凡六十間 幅八間 水面ヨ リ 高 二 間 半 砲 眼 ヨ リ 砲 眼 迄 四 間 で 当 分 仮 備 と し て 二 十 拇 モ ル チ ー ル 二 門 十二拇長ホーウィツエル一 門 ペキサンス形三十六ポン ドボンカノン二門 六ポンド 137 ルが付いている 明治五 年に撮影された磯地区や 祇園之洲砲台の写真に 十二門 新波止砲台の様子を 弁天洲同様惣石 垣 大砲全備ニ不相成 当今仮ニ 二十拇天砲二座 三十六斤暴母 門 三十六斤暴母 子を 此所ハ不残石ニテ築キ 八十斤暴母迦炳 ボンベカノン 八 祇園洲要害第一ノ場所故 大砲モ皆壮大 と記し 弁天波止砲台の様 部等は薩摩藩領内に十六ヶ所の砲台があり 就中 弁天洲 新波戸 安政四年 前述のように福井藩士阿部らが鹿児島を訪れている 阿 砲重量四 八トンに達する ンドボンカノンが展示されている この砲は 砲身長約四 五メートル の大砲であった 靖国神社の境内に薩摩藩が鋳造した青銅製百五十ポ ンは 弾丸重量百五十ポンド 約六十八キロ 幕末期 日本最大級 写っている大砲は すべてこのタイプである 百五十ポンドボンカノ キスト砲架の大砲 北海道大学附属図書館蔵 函館戦争日記

163 鹿児島城下の南部 川尻砂揚場(天保山) 洲崎宇都浜(大だい門もん口ぐち)に砲台を建設するよう命じら註17れ 天保山砲台は六月十七日に落成し註18た さらに 安田等は同年六月から翌嘉永四年三月にかけて 串木野羽島 指宿知林島 垂水 内之浦 桜島 久志 秋目 出水 阿久根など領内各地で砲台を築いてい註19る 斉彬時代の砲台整備事業嘉永四年二月 島津斉彬が藩主に就任した 五月には藩主としてはじめて帰国し 十月から十一月にかけて薩摩半島を視察した その際坊津 枕崎 頴えい娃石垣 山川湊 指宿大山崎等の砲台を視察註2し 翌五年 成田正右衛門 田原直助に洋式築城書を参考に各地の砲台を改造するように命じ註21た なお 斉興時代に砲台築造に活躍した安田助左衛門は 斉彬時代の資料にその名を見なくなる 斉彬が嫌っていた調所に近い人物であったことが影響しているのかもしれない 斉彬時代 最初に完成したのは大門口砲台であった 嘉永五年の 総覧 十二月二十七日の項に 大門口洲崎新射場ノ前海岸ヲ埋メ 砲台ヲ築メ玉フ 大門口砲台ト唱フ とあ註22り 嘉永六年一月十二日 家老の島津豊後 新納久仰らが完成した砲台を見分しに行ってい註23る この大門口砲台が 嘉永三年に安田等が築造を命じられた洲崎宇都浜(大門口)のことか定かではない 大門口砲台については 嘉永六年の 藩内事跡総覧註 24三月二十二日の項にも 大門口屋久島蔵ヲ城下築地御茶屋趾ニ移シ 其趾ニ砲台ヲ築ク とある 斉彬は 時には砲台全体を取り壊して改築を命じることもあったという註25が 大門口砲台も移設あるいは大規模な改造が行われた可能性もある さらに 藩内事跡総覧 には 三月二十九日 今和泉郷(現指宿市)ニ砲台ヲ築キ 大砲数門ヲ備へ 七月十日 小舟ニ召シテ 下町海岸其他新築ノ砲台ヲ覧玉フ 七月二十七日 祇園洲埋地ニ砲台築造ヲ命シ玉フ 十月二十四日 祇園洲及ヒ下町新波戸両砲台ヲ巡視シ玉ヒ 構造ノ精粗親覧セラレ 尋テ砲発試験セシム 閏十月二十四日 公小舟ニ架シテ 各砲台ヲ洋中ヨリ覧玉ヒ 後祇園洲及ヒ新波戸ニ莅マレ 砲発試験ヲ覧玉フ とある 祇園之洲砲台は嘉永六年十月に成就註26し 新波止砲台は 安政元年(一八五四)八月に完成 同月二十四日 新納久仰らが 成就見分 をしに行ってい註27る また 嘉永六年九月 江戸でも海に面した高輪藩邸 田町藩邸に砲台を設置したいと幕府に願い出て その許可を得て砲台を設置してい註28る なお 薩藩海軍史 には 弁天波止砲台も新波止砲台と同時に落成したとある註29が 安政四年四月から同閏五月頃に薩摩藩の近代化の様子を視察した福井藩士阿部又三郎らは 弁天洲砲台未タ成就ニ及ス と記してい註3る このように砲台整備は着々と進み これと並行して新型砲の鋳造 改良も進められた 新納の日記でも 五十封度鉄台も此節出来 今日初而打方有之 (安政二年二月十日) 中之塩屋江大砲試打見分ニ差越候 大砲はキスト台新製相成 此節初而之打方 (安政三年七月三日) 中之塩屋へ百五十封度試打有之 百五十封度ハ初テ御出来相成珍敷物 余国ニテモイマタ壱弐ヶ所出来相成居 此御方ニテハ江戸へ一挺出来相成居 爰元ニテハ此節初テノ御製造 (安政四年五月十六日)と 砲台の備砲の強化 改良に関する記述が見られるようにな註31る なお 五十封度鉄台 は五十ポンド旧砲の砲架を鉄で造ったものと思われる キスト砲架とは ボンカノンなど大型の台場砲に用いられ

164 させ註6た 続いて 弘化四年七月 安田および成田正右衛門 竹下清右衛門 地方検者伊地知三之助を佐多 小根占(現南大隅町)に派遣し砲台を築かせた 安田らは七月二十三日に赴任し 八月十一日には鹿児島に戻ってい註7る 極めて短期間で完成しており 天保十五年に築造された松山台場とさほど変わらない簡単な構造だったと思われる また この時造られた小根占砲台は 嘉永元年二月 斉興が 十二斤砲 七百目砲の遠撃を視察した小根占辺田村海岸の砲註8台のことと思われ 当初から小型の洋式砲が配備されていたことがうかがえる なお その跡は南大隅町辺田の台場公園にあるが 現存する石垣などは文久二年(一八六二)イギリス艦隊の来航に備えて強化された際のものだとい註9う なお 工事を担当した安田は 弘化元年フランス艦が那覇に来航した際 その対処のため用人二階堂行建らとともに琉球に渡海を命じられた人物註1で 琉球から戻った後は 調所に藩士たちの軍役負担を明確にするため給地高改正と軍制改革を進言し その掛となってい註11た その関係で斉興時代は砲台建設の中心的役割を果たしたのだと思われる 成田は前述のように御流儀師範 田原直助 竹下清右衛門はその門人で ともに鋳製方に出仕していた 嘉永三年 天保山で八十ポンド砲の試射が行われた際 藩主斉興が 打ち方致すものは 清右衛門 直助両人のほかこれなし と語るほどの腕前であったとい註12う また 田原は斉彬時代も大砲鋳造 砲台築造 洋式船建造などで活躍した 竹下は調所の縁者で(調所の生母が竹下家の出) 斉彬時代は江戸藩邸での砲台築造に従事し 安政元年(一八五四) 前水戸藩主徳川斉昭に請われて水戸に赴き那珂湊反射炉の建設に従事 斉彬の没後 安政六年に帰国している 元治元年(一八六四)から集成館機械工場(現尚古集成館本館 重要文化財)の建設に取り組み 維新後は陸軍に出仕(砲兵大尉)している 法亢六左衛門は不詳 弘化四年十月 調所が軍役方取調掛に命じた六名の中に 御作事奉行見習法亢六左衛門 の名が見え註13る 翌嘉永元年には 藩主斉興が大隅巡視に赴いており その途中 二月六日に福山牧場(現霧島市)に於いて砲術訓練を視察している その際使用されたのは 五十斤臼砲一 十六斤臼砲二 十五吋忽砲二 二十四斤野戦重砲二 十八斤野戦重砲二 十二斤野戦重砲二 六斤野戦重砲二 七百目野戦砲十 五百目野戦砲十五 ゲベール銃隊十二隊(一隊九十六名) 天山流銃手百二十名(十匁火縄銃) 同百目野砲六註14で 順調に洋式砲の鋳造が進んでいたことがうかがえる 五十斤臼砲や二十四斤野戦重砲は運搬に牛数頭を要する巨砲だったという また斉興は その五十斤臼砲を根占砲台の備砲とするように命じている 嘉永三年には 鋳製方で八十ポンドボンカノン砲が完成し註15た これは重量が八十ポンド(約三十六キロ)の弾丸を打ち出すことが出来る巨砲である 安政元年 佐賀藩士本島藤太夫がオランダ海軍将校ハビュースに大砲について質問した際 ハビュースは 六十ポンド以上のペキサンスボム加農の方有効なり 六十ポンドボム弾は一発にてよく敵艦を撃沈す 八十ポンド以上は其功愈々顕著なり と答えたとい註16う 西欧で軍艦攻撃に有効といわれるレベルの大砲鋳造に成功した薩摩藩は 砲台建設を本格化させていく まず 正月から三月にかけて 安田 成田 田原および上野彦助が 薩摩藩領の西端に位置する長島から東端に位置する志布志に至るまでの海岸を視察し砲台建設予定地を選定している 四月には安田等が

165 に強い衝撃を与えた 日本でも西欧列強の進出に対する危機感が高まったが 薩摩藩の場合 それが現実問題として降りかかってきたのである まず アヘン戦争の翌年 天保十四年 イギリス艦が琉球八重山 宮古島に来航し イギリス国王の命令と称して測量を強行していった 翌弘化元年(一八四四)にはフランス艦が那覇に来航して通商を求め これ以後毎年のように西欧列強の艦船が来航し 薩摩藩はその対応に追われるようになった 西欧と日本の軍事力の差を認識していた薩摩藩は 琉球王府に対し もし戦争になったら 三 四歳之童子を以相撲取等え相手為致候も同然 で勝ち目はなく 少も武器を不動 異国人共申出之機変ニ応し 弁話を以申諭候様 と註2 交渉を通じて穏便に退去させるように指示するとともに 国元では西欧と軍事力の差を縮めるべく 西欧の科学技術を導入して近代化事業に着手した 斉興らは 弘化三年(一八四六) 上かん町まち向築地(現鹿児島市浜町 石橋公園一帯)に青銅砲 燧石銃を製造する鋳い製せい方ほうを 中村(同鴨池)に理化学薬品の研究 製造をおこなう中村製薬館を創設 これと並行して山川 佐多 根占 鹿児島など沿岸部要衝に砲台を築いて防衛体制を固めた また 嘉永二年(一八四九)頃 滝たき之の上かみ火薬製造所の製法を洋式に改めるなどの改革をおこなった 嘉永四年 薩摩藩主に就任した斉彬は 近代化の動きを加速させ 鹿児島の郊外 磯に鉄製砲を鋳造するための反射炉 熔鉱炉 鑽開台を建設 その周囲にガラス工場や蒸気機関研究所を建て これらの工場群を 集成館 と命名した そして 集成館 を中核に 造船 造砲 紡績 ガラスなど多岐にわたる事業を展開した 斉興時代の砲台整備事業 薩藩海軍史 に 砲台の創設は 斉興公時代に在り 其最も早きは山川港外方の松山台場にして 天保十五年(弘化元年)砲術師範園田与藤次等命を奉じて築造せり 之と同年に枕崎台場を同港の南東角瀬崎に築造したり とあ註3る 斉興公史料 に収録された年月不詳の 封内沿海之守備 では 山川 佐多(現南大隅町)に砲台が築かれたとし 此時斉興公山川 佐多其他ノ沿海ニ砲台ヲ築カシム 従来沿海ニ砲台ノ設ナシ 当時築造シタルヲ初メトス 従来兵器局 御兵具所トモ唱フニ備フル処ノ大砲数十門アリト雖モ 悉ク旧式ノ製ニシテ弾量 鉛弾量 軽小三四貫目ヲ最大トシ 海防ノ用ニ適セス 茲ニ於テ大小砲製造所ヲ創設シ 新式ノ大砲ヲ鋳ンコトヲ令セラレタリ とあ註4る 薩摩藩は アヘン戦争 それに続くイギリス フランス艦の来航で危機感を強め 砲台建設に着手したのである その構造 備砲は明らかではないが これより先 幕府や盛岡 弘前藩などが ロシア船の来航や江戸湾への外国船進入を防ぐために築いた砲台は 主に一貫目以下の和式砲を一~数門程度備え 胸墻もない簡単な造りであったとい註5う 薩摩藩の松山台場なども同じレベルであったのであろう 弘化三年に鋳製方が創設されると それに伴って砲台建設も盛んになってくる まず同年十月 世子斉彬が南薩を巡見し砲台建設候補地を視察した 翌弘化四年五月には 家老調所広郷も側近の安田助左衛門を伴って山川 指宿の砲台建設予定地を視察している 調所は さらに砲術師範の成田正右衛門 田原直助にも予定地検分を命じ 安田および法ほう亢が六左衛門 地方検者中島藤兵衛を掛に任じて 六月朔日に指宿大山崎ならびに山川権現ヶ尾で砲台建設に着手 同月九日に成就

166 ボンベカノン ボンカノンとも呼ばれた ボンベン弾という破裂弾(榴弾 炸薬が詰められ爆発する弾)を発射できる大口径カノン砲 カノン砲は砲身が長く 主に仰角十五度以下の平射弾道による遠距離射撃用大砲で 海岸防御の主力砲であった これらの大砲は まず日本の在来技術で鋳造が可能な青銅砲として製造され 一八五〇年代には 反射炉などを用いて鉄製砲の鋳造が試みられるようになった そして こうした大砲が砲台に配備されていったのである 薩摩藩領への外国船来航と軍備の強化西欧諸国の艦船の多くは 十六世紀のポルトガル人同様 東南アジアから北上して中国 日本を目指してきた このため 薩摩藩は日本の他地域よりも早く西欧の艦船と接触した ペリー艦隊の浦賀来航より約三十年前 文政七年(一八二四)には薩摩藩領の宝島(現鹿児島県十島村)で 牛を強奪したイギリス船員と島役人が銃撃戦を交え 船員一名を射殺するという事件(宝島事件)が起こった 事件後 薩摩藩は島津権五郎久兼ら二百八十名余りを宝島に派遣 約一ヶ月間警備に当たらせるとともに 射殺した船員の死体を添えて 事件のあらましを長崎奉行に報告した この年 水戸藩領の大津浜(現北茨城市)にも武装したイギリス人船員が上陸して問題を起こしており 両事件の報告を受けた幕府は 翌文政八年 無二念打払令(異国船打払令)を交付して 外国船は見つけ次第 打ち払うよう命じたのである そして この無二念打払令に関わる事件も薩摩藩領で起こった 天保八年のモリソン号事件である モリソン号はアメリカの商船で マカオで日本人漂流民を乗せて浦賀に来航した 漂流民送付を名目に交渉に臨み 日本側から通商許可を得ようとしたのだが 浦賀奉行所は無二念打払令に基づきモリソン号を砲撃した このためモリソン号は入港を諦め 次に鹿児島湾の入口に位置する山やま川がわ(現指宿市)に来航した 薩摩藩も城代家老島津久風(日置家)を山川に派遣 幕命に従い砲撃を加えて追い払った(モリソン号事件) ただしすべて空砲だったとい註1う モリソン号事件で 海防体制強化の必要性を感じた薩摩藩主斉興は 翌天保九年 家臣鳥居平八 平七兄弟を長崎の洋式砲術家高島秋帆のもとへ派遣し洋式砲術の導入を図った 平八は長崎で死去 天保十三年 斉興は高島流の砲術を 御流儀砲術 の名で採用 平七を成田正右衛門と改名させ 御流儀砲術師範とした またこの間 一八四〇年に中国でアヘン戦争が勃発した アジア最大 最強と目されていた清国は 西欧の島国イギリスに完敗し 一八四二年 香港割譲などを認めた南京条約を締結して植民地化の道を歩み始めた そしてこの情報は逐一日本へも伝えられ 有識者たち百五十ポンドボンカノン ( 複製 仙巌園 ) 百五十ポンドボンカノンは 幕末に日本で造られた最大級の大砲

167 鹿児島県内には 祇ぎ園おん之の洲す砲台跡(鹿児島市)や天てん保ぽ山ざん砲台跡(同) 新しん波は止と砲台跡(同 重要文化財) 根ね占じめ砲台跡(南大隅町)など数多くの砲台跡が残されている その全容および築造されていった経緯については 藩文書がほとんど残されてなく 斉興公史料 斉彬公史料 などに関係資料が若干収録されているだけで不明な点が多い すでに 数少ない資料を使って 薩藩海軍史 や 鹿児島県史 には 薩摩藩が築造した砲台の概要がまとめられているが 再度 残された資料を再検討し 薩摩藩の砲台整備状況を振り返ってみたい 西欧列強の進出と大砲鋳造十九世紀 植民地化政策を採る西欧列強が東アジアに進出してきた これに強い危機感を感じた日本の有識者たちは 西欧の科学技術を導入して軍備の強化 近代化に着手した これが日本の近代化のはじまりであった 日本の有識者たちが特に脅威と感じたのが 強力な大砲を多数装備し 大海原を自由に動き回る蒸気軍艦であった これに対抗するため まず洋式砲術が採用され 洋式砲を多数鋳造し それを沿岸部要衝に築いた砲台(台場)に配備するようになったのである 日本でも造られるようになった大砲は次のようなものであった モルチール(mortier )天砲 いわゆる砲身の短い臼砲である 焼玉や炸裂弾などを大射角で発射することができた ホーウヰツスル(houwitser )忽砲 忽微砲 モルチールより砲身がやや長い小型砲 軽量により移動用の野戦砲などに用いられた 平射 曲射ともに可能だったが 弾丸は小型で 射程も短い カノン砲(kanon )加農砲 直射撃(真っ直ぐに射撃し 目標を打ち抜く)を目的とした砲 比較的射程も長かった カロナーデ(carron )カルロン カノン砲の一種 艦載用の短砲 ペキサンス砲(paixhans )百幾撤私砲 フランスの海将ペキサンスが一八二〇年頃に発明した榴弾用カノン砲(bombekanon ) 薩摩藩の砲台整備事業舶来大砲図 ( 佐賀城本丸歴史館蔵 ) 上がモルチール 下がホーウヰツスル

168 照国公感旧録 4 斉彬公史料 第三巻一三三 池田正蔵話筆記 5松尾千歳 薩摩藩の西洋技術導入の一考察 斉彬時代の紡績事業について (鹿児島大学 近世薩摩における大名文化の総合的研究 )6 史談会速記録 第一七一輯75に同じ84に同じ9 新納久仰雑譜 ( 鹿児島県史料 )安政四年三月五日条1今井貞吉 歴嶋史 11薩摩のものづくり研究会 近代日本黎明期における薩摩藩集成館事業の諸技術とその位置づけに関する総合的研究 (以下 日本黎明期 と略す)第五章補論 玉川寛治 集成館で製作された日本最初の 力織機 とそれで織った帆布 12絹川太一 本邦綿糸紡績史 第一巻一四六頁13 忠義公史料 第二巻 六二七 五代才助上申書 14鹿児島市教育委員会 献上本薩藩の文化 三一〇頁 玉川寛治 鹿児島紡績所創設当初の機械設備について ( 産業考古学会報 四一)15 日本黎明期 第五章一 玉川寛治 鹿児島紡績所とその後の日本紡績業 16 本邦綿糸紡績史 第一巻一三九頁17 斉彬公史料 第四巻 竪山武兵衛公用控 安政二年十二月十一日条18 日本の美術 四四七 堀勇良 外国人建築家の系譜 九〇頁19 本邦綿糸紡績史 第一巻八九頁2 日本黎明期 第二章三 水田丞 建築関連資料および遺物に窺う鹿児島紡績所建物の実態 21 本邦綿糸紡績史 第一巻四三頁22 献上本薩藩の文化 三六頁 山角善助談 23 本邦綿糸紡績史 第一巻三八頁24 鹿児島県史 第三巻七六頁25尚古集成館蔵 明治六年ヨリ同十一年ニ至ル諸会社届 2625に同27市来四郎 丁丑擾乱記 一二五 島津忠義県官ノ不当ヲ論ス ( 鹿児島県史料西南戦争 第一巻収録)2825に同じ29 本邦綿糸紡績史 第一巻一一六頁3 本邦綿糸紡績史 第一巻一〇四頁31 本邦綿糸紡績史 第一巻一〇二頁3225に同じ33 西南戦争 第三巻収録3425に同じ35国立公文書館蔵内閣文庫 鹿児島県史料 大蔵省歳出官庁之部 36須長泰一 富岡製糸場の機械掛石川正龍について ( ぐんま史研究 二三号 二〇〇五年) 岡本幸雄 薩摩藩営紡績所の技術者 職工 わが国紡績史上における役割 ( 薩摩藩の構造と展開 一九七六年)

169 費地とも遠いために競合できず 経営はますます困難になっていった そして 明治三十年 庇護者である島津忠義の死去を機に 鹿児島紡績所は廃止された 働いていた熟練職工は各地の紡績工場に分散 機械は堺の紡績工場へ またその一部は鹿児島の山形屋製綿工場(現カクイ)に売却され 現在 カクイに売却された梳綿機 ローラー磨針機などが尚古集成館に寄託 展示されている 鹿児島紡績所の技術とその伝播鹿児島紡績所は イギリスから輸入した紡績機械を備えた我が国初の洋式紡績工場で 機械の取扱などはホーム等イギリス人技師が当たった ホームは二年 他の技師は三年契約であったが みな一年で帰国している 薩藩の文化 鹿児島紡績百年誌 などは 戊辰戦争がはじまったため 身の危険を感じて帰国したという説を採っているが もしそうであれば 彼らの帰国後 鹿児島紡績所は操業を続けることが出来なかったであろう また 堺紡績所を建設した際も再び外国人技師の招聘が必要だったはずである イギリス人技師たちが教えた薩摩の職工たちは 郡元や田上水車館で紡績事業に従事していた者たちである 使っていた機械はヨーロッパのものに比べると稚拙なものであったかもしれないが 原理は同じである イギリス側は 技術を教えるのに二 三年はかかると思っていたが 薩摩の職工たちは 紡績に従事した経験があったため 短期間で技術を習得 イギリス人技師たちは任期を残して帰国することができたのであろう 動力となった 蒸気機関にしても 斉彬時代に自分たちで造り上げている その蒸気機関を見たオランダ海軍将校カッティンディーケは 大きさは十二馬力クラスだが 本物を見たこともない連中が 造る機械もないなかで造っているため 蒸気漏れがひどく二馬力程度しか出ていないが これを造った人に脱帽すると書き残している 不完全なものだったかもしれないが 動くものを造り上げているのである 薩摩の技術者たちは 蒸気機関の部品の一つ一つに至るまで どんな役割を果たしているか理解していた このため 一八六〇年代 蒸気船 蒸気機関を輸入できるようになると 外国人の手助けなしに使いこなすことができたのである 紡績事業に携わった石河確太郎は 斉彬時代に蒸気船建造にも関わっており 鹿児島紡績所でも石河らの知識 経験がものを言ったはずである 短期間でイギリス製の機械を使いこなせるようになっていたからこそ イギリス人技師たちが帰国した後も 鹿児島紡績所は操業を続けることが出来たし 堺紡績所が創設された際は イギリス人技師たちが果たした役割を 鹿児島紡績所の技師たちが果たすことができた そして 維新後 各地に築かれた紡績工場 富岡製糸場(群馬)や愛知 広島の官立紡績所 玉島(岡山) 市川(山梨) 三重 下野(栃木)などに築かれた十基紡には石河確太郎が必ず関与していたし 鹿児島 堺紡績所の技術者たちが石河の手足となって現地に移住 薩摩で培った知識 経験を広めていったのであ註36る 註1 斉彬公史料 第三巻三六六 無名建言 (安政五年五月二十八日付島津斉彬建白書)2鹿児島市教育委員会 薩藩の文化

170 り供給されたもので 梳綿機二台 三頭三尾練篠機一台 四十八錘始紡機一台 九十六錘練紡機二台 四百五十二錘スピンドルゲージ一吋八分の三ミュール四台で これは堺紡績所にならったものであっ註31た 導入の結果は 新納が明治十一年六月付の願書に 一昨九年十月迄右機械建付製紙試検候処 兼テノ目論見ヨリ糸品位宜出来増 摂河辺人望多ク 代価モ旧綛糸ヨリ高価ニテ と記しているように良好であっ註32た しかし 明治十年二月には西南戦争が勃発し 鹿児島紡績所は休業に追い込まれた さらに 四月二十七日には西郷軍の虚を突いて政府軍が鹿児島に上陸 これを知った西郷軍が鹿児島奪還のため舞い戻ってきたため 鹿児島で激しい戦闘が繰り広げられた 五月九日から六月二十六日頃にかけては紡績所近辺でも戦闘があり 五月二十五日の戦闘では紡績所に付随する石炭倉庫が焼失した その様子は 磯島津家日記註 33に 夜十二時比ニモ候ハン 薩兵分隊磯岸ヲ下リ 紡績方前岸ヘ造作有之石炭小屋ヘ火ヲサシ 官兵ノ諸塁ヘ進撃ノ勢ヲ見セ候処 官兵頻リニ動揺発砲スルコト烈敷 砲竹林ヲ焼クカ如シ と記され 新納も 会社格護ノ金銭綛反物類其他緊要成品悉ク掠奪セラレ 加之石炭モ格護蔵共ニ焼燼 諸職人等も諸方江致分散 操綿ハ不積下 石炭ハ総テ焼失 長々機械運転も不致故 何れ取離拭磨キ等不致候而不相叶 尤此涯石炭 繰綿 賃米等要用之物品買入代金も全く無之 と記してい註34る 紡績所一帯は 多賀山(紡績所の南西にある台地) 集成館を拠点とする政府軍と 吉野雀ケ宮(紡績所北側の台地)を拠点とする西郷軍とが激突する最前線となり 近づくこともままならず 機械も放置された状態となり 戦争が終わってもすぐに使える状態ではなくなったのである さらに 戦争が終わると 明治政府が 承恵社や紡績会社など県が関与していた特殊会社の調査に乗り出してきた 大蔵卿大隈重信 内務卿伊藤博連名太政大臣三条実美宛上申書案には 鹿児島県旧治績之儀者不明瞭之廉不尠 就中承恵社之儀者各件ニ干渉シ 其成立公私判然不致 甚不都合至極之事 承恵社ニ致連及候紡績会社始諸会社ノ如キハ総テ承恵社之手続ヲ以調査シ 官有建家等之儀ハ其証跡ニ拠テ公私ヲ区分可致 とある こうして調査された結果 其内紡績器械場ニ於ケル其官有タル証跡現本項調中 紡績器械所 時アリ 五百円 存スルカ如シ 依ツテ該場丈ケハ千円ヲ 附シテ其修覆等ヲ助ク云々トアリ建設依頼之時歴并ニ目下取扱振等詳細取調 全ク官有ニ帰シテ可ナラン という意見も出たが 紡績会社ト雖トモ何等ノ関係ヲ有スルヤモ知ルヘカラザレハ 是亦承恵ノ付属ト看做シ 前条ノ手続キ(承恵社ヲ明治九年九月中許可シタル一個ノ私社ト看做シ 此際現況ヲ観察スル)ヲ以テ調査シテ可ナラン ( 松平内務権大書記官ヨリ協議ノ主旨 )と 商社組織のまま存続が認められ 出資者とされた島津家に帰属することになっ註35た この記録の冒頭に 明治十一年六月十三日 と書かれており これが 政府による審議が終了し結論が出された日時と思われる 結論が出されるまでは 紡績所の帰属も定まらず 経営再建どころか営業再開もままならなかったのである そして 結論が出された翌月 鹿児島紡績所は 指宿の豪商浜崎太平次に機械共々貸与され 浜崎の手で経営再建が図られた だが 業績は改善せず 同十五年 浜崎が破産したため島津家の経営に復した 明治十五年から同二十七年まで伊集院篤 二十七年からは宮里正清が所長となって復興を図ったが 日本各地に次々と建てられた紡績工場に比べ 設備 機械も古く また消

171 間の生産高は 明治二年六月 鹿児島藩(明治二年の版籍奉還後に鹿児島藩となる)が明治政府に提出した草案録高調によれば白木木綿六万五千二百七十七反 綛二千六百五十一斤であっ註24た またその製品も 出来綛反物大阪等江繰登候処 摂河辺之人望不少 当県下ニおひても人望多く註 25と一部製品を除き おおむね好評だったようである 明治三年には 鹿児島紡績所の分工場として築かれた堺紡績所が操業を開始した 鹿児島紡績所は 原料の綿花の多くを関西方面に依存しており また製品の販売先も関西が主であったため 堺に土地を求めて紡績所を建設したのである 石河確太郎が中心となって建設に取り組み イギリスヒッギンス社製ミュール二千錘紡機が導入された 鹿児島紡績所と違い外国人による指導はなく 鹿児島紡績所から新納太および浜田市郎ら男女職工六名が派遣され技術指導に当たっ註26た 明治四年 廃藩置県によって 従来の藩がなくなり新たに県が設置された その際 明治政府は県が受け継ぐ資産と藩主の個人資産の分離を求め あわせて官商不許可の方針を打ち出した ただ 鹿児島は 藩政ノ流レ込トモ云カ如シ註 27という状況で 鹿児島藩の資産は 島津家個人のものと鹿児島県のものとに分けなければならなかったのだが 大部分の事業は 藩政時代同様 区分が不明確なまま県に引き継がれ 島津家が出資し県に経営委託するという形が採られていた 鹿児島紡績所も会社組織となったが 会社組織といっても 鹿児島県が経営に参画する特殊会社で 新納や三原ら紡績所職員は辞令を県庁から与えられてい註28た 献上本薩藩の文化 には 明治四年鹿児島紡績所は商通社と改称し 三原甚五左衛門 坂本廉四郎があいついで社長就任したとあるが 商通社は明治十二年園田彦左衛門が承恵社を受け継ぐ形で設立し 翌年島津家の所有となった商社である また 尚古集成館にある 明治六年ヨリ同十一年ニ至ル諸会社届 に収録された三原の経歴には 明治四年紡績方掛 としかなく 三原が社長に就任したという記述はない 記されているのは 明治六年に新納太が社長に就任したことである 坂本廉四郎については紡績関係史料には名前が出てこない 坂本は戊辰戦争で本営付となって京都守備につき 維新後は市来郡長を勤めている 歴代社長については改めて調べる必要があろう また 会社組織となった頃 紡績機械の一部シイントル并ゲラムデ(絹川氏はシリンダー ドツフアーであろうと推測している)が損傷し 操業に支障をきたすようになった 明治六年には修理も限界に達し シイントル并ゲラムデをイギリスに注文した その代金が四千五百ドル これに長崎からの運賃及び新たに購入した糊付機械一式が二千七百円余かかった これは運転資金のなかから支払ったが その直後 養蚕会社が廃止され 養蚕会社への貸付金明治七年までの元利金一万三千五百円余が回収不能に陥っ註29た このため紡績所は運転資金に事欠くようになったのである なお 養蚕会社も養蚕業の保護育成のため鹿児島県が設立した特殊会社であった こういった状態であったが 生産量の拡大 効率化のため 明治八年 旧佐土原藩(薩摩藩支藩)の紡機千八百錘の払い下げを受けた これは 佐土原藩が紡績事業を始めようとして 明治四年イギリスから輸入していたもので 資金欠乏により佐土原藩が事業を断念したため 明治政府に買い取られていたのである 購入費用は一万二千百十六円五十銭 これを一年六百五円八十二銭五厘宛 二十ヶ年賦で支払うという条件であっ註3た なお 佐土原藩が購入した機械類は マンチェスターのカルテス パー アンド メードレーよ

172 木建築事務所を開業していた建築家であ註18る 彼がどのような経緯で鹿児島紡績所建設に携わったかは残念ながら分からない 松岡は慶応元年からイギリス人ウォートルス(Waters 機械取立方) 同マキシムタイラー(白糖製造方)とともに奄美大島で機械精糖工場を築いたことがあった その経験を買われたのであろう 慶応三年一月二十六日には 工務長ジョン テットロウ(Jon Tetlow )らが紡績機械とともに鹿児島に到着した 喜望峰 長崎経由で六ヶ月程の船旅であった なお機械を搭載した帆船レディーアリス(Lady Alice )も薩摩藩が購入し 宝瑞丸と名付けて鹿児島神戸間の航海に従事させたという註19が この船の記録は見出だせない 薩摩藩は豊瑞丸という船を所有していたが これは元治元年に購入した元英国製汽船 ナンバーワン で レディーアリスではない 鹿児島紡績所は およそ半年後 慶応三年五月に竣工した 建設を監督していた松岡が総裁(所長)となり 新納太 三原甚五左衛門らが新たに紡績掛として赴任した イギリス人技師たちは 司長イー ホームの下 汽鑵 混打綿 梳綿 粗紡 竪錘精紡 斜錘紡の六部門に分かれ 職工たちの指導にあたった なお 工場はイギリスでの設計とは若干異なっていた 例えば 前述の機械配置図(尚古集成館蔵)では 紡績所本館の屋根は二つの棟を並べた形式で 本館と別館の長さは同じとなっている ところが残された写真を見ると 本館の屋根は寄棟造桟瓦葺の大屋根で 建物の長さも同じではなく 別館が本館よりかなり短くなっている 広島大学の水田丞助教授は配置図の別館右端の WEREHOUSE (倉庫) が建設されていないと指摘 あわせて 他の部分の平面構成は 発注した機械設備にあわせて建てられている筈なので 本館中央部に設けられた突出した玄関部をのぞき 機械配置図とほぼ同じに建設されたと見るべきだと述べてい註2る また古写真から 紡績所の建物本体は 本格的な洋風建築意匠の建物となっていたことがうかがえる ただ並行して建てられ 現存する技師館の場合 外見は洋風だが 小屋組など目に見えないところは和風建築で 寸法も寸尺法となっていることを考えると 紡績所の建物も 同様だったと思われる 建築部材についても 慶応元年に竣工していた集成館機械工場(現尚古集成館本館)と同様 溶結凝灰岩が用いられている 甲突川に架かっていた五大石橋や波戸 石仏など 鹿児島ではこの溶結凝灰岩が古くから盛んに用いられており その技術 経験が活かされた 窓は 集成館機械工場のものより大きいが 機械工場同様 嵌め殺しであった このため 夏場は場内が蒸し風呂状態となり 職工たちはみな素っ裸で働いていたとい註21う 本格的な洋風機械紡績工場といっても 建物は西欧建設の模倣ではなく かなり薩摩の技術 経験も反映されたものだったのである 操業状況鹿児島紡績所の使用職工はおよそ二百人 鹿児島紡績所の操業開始とともに田上水車館などが廃止されたため これらの工場から移されてきたとい註22う イギリス人技師による教育も順調に進んだ ホームは二年 他の技師たちは三年契約で来日していたが 皆一年で帰国した 帰国の際 技師たちは鹿児島紡績所で製造した糸 布の見本を持ち帰り 運転良好であると報告したとい註23う また 当初は一日十時間労働で 一人平均四十八貫の綿糸を紡ぎ 白木木綿および縞類を織っていた 年

173 る なお 今井の文中 池田鼎水は水車館の責任者池田正蔵で 石河確太郎(正竜)は 大和国高市郡畝傍石川村(現奈良県橿原市)出身の蘭学者 斉彬に招聘され薩摩藩士となっていた 石河は 斉彬の下で反射炉や蒸気船建造 紡績事業などに携わった 特に紡績については 斉彬から紡績に関する洋書(紡績カタログ)を見せられ 将来の産業を制するものは紡績であると教示されて以来 特に強い関心を持つようになったという 鹿児島紡績所の設立文久三年(一八六三)七月 薩摩藩はイギリス艦隊と戦火を交えた 世にいう薩英戦争である この戦争を機に 薩摩藩内は西欧 とりわけイギリスの科学技術導入を積極的に図るようになった 紡績に関しては 石河確太郎が同年十一月朔日付の建白書で紡績機械を輸入してもらいたいと願い註12出 翌元治元年(一八六四)五代友厚も留学生のヨーロッパ派遣等を願い出た上申書に 諸糸綿ヲ織ル機械 を購入するよう提案してい註13る 薩摩藩はこれらの提案を採用した 慶応元年(一八六五) 薩摩藩は イギリスへ十五名の留学生を派遣した際 留学生に随行した使節新にい納ろ久ひさ脩のぶ 五代友厚らに紡績機械の購入と紡績技師招聘を命じた 新納らは プラットブラザーズ社(Platt Brothers & Co. )に紡績工場の設計と技師派遣を依頼 同年十一月 その設計に基づき開綿機一台 梳綿機十台 練篠機一台 始紡機一台 開紡機二台 練紡機四台 斜錘精紡機三台(千八百錘) 竪錘精紡機六台(千八百四十八錘)等をプラットブラザーズ社に 力織機百台をストックポートのべリスフォード汽鑵社(Berrisford Engineering Co. )に 伝導装置をマンチェスターのホレン ホプキンソン社(Wren & Hopkinson Co. )に発注し註14た 当時 イギリスでは 綿花を紡いで糸をつくる紡績と 原糸を織って布をつくる製織が それぞれ専門の工場に分かれているのが一般的で 紡績 製織一貫工場は少なかったらしいが この時薩摩藩が発注した機械は 紡績と製織のものが組み合わされたもので 鹿児島紡績所が当初から紡績 製織一貫工場として計画されていたことを示している なぜ薩摩藩が紡績 製織一貫工場を建設しようとしたのか定かではないが 産業考古学会の玉川寛治会長は 集成館事業における大幅機を使った製織の経験に基礎を置いた からであろうと推測してい註15る また紡績所の設計者は プラットブラザーズ社の技師エッチ エインレー(H.Ain 註16ley ) 尚古集成館に JAN.9TH の日付の入った紡績工場の機械配置図(97 頁参照)がある この日付を旧暦になおすと慶応元年十一月二十三日 新納たちが機械発注時にもとにした設計図というのは この配置図のことと思われる 紡績工場は 慶応二年十一月二十六日(西暦一八六七年一月一日)起工した 敷地は 文久三年の薩英戦争で焼失した鋳銭所の跡地であった 鋳銭所は 琉球で使用する琉球通宝を鋳造するため 安政二年 島津斉彬が今和泉島津氏の磯屋敷を譲り受けて建てたものであ註17る また 紡績工場と並行して技師館(異人館)の建設もはじまった この頃までには 司長イー ホームおよびシリングフォード(Shilingford ) サッチクリフ(Sutcliff ) ハリソン(Harrison )らの技師が到着しており シリングフォードが勝手方用人松岡政人 作事奉行折田年秀とともに建設にあたった シリングフォードは横浜で土

174 たものと思われ 実在しなかった可能性が高註5い 次いで 安政五年頃 田た上がみ村御穂崎(現鹿児島市田上一丁目)と永なが吉よし(現鹿児島市永吉町)に水力機織場を設けた 田上水車館 永吉水車館である 田上水車館も池田が支配人を勤めた また石いし谷たに(現鹿児島市石谷町)にも水車館があったが 詳細は不明である 水車館で使用された紡績機械については 長崎の商人青木休七郎が輸入したヨーロッパ製の紡績機械という説と 大和国から招いた卯吉郎が考案したものという説があり 薩藩の文化 鹿児島紡績百年誌 など多くの書籍が輸入機械説を採っている だが 輸入機械説の元となっている青木の註話6は 関係したという人物の多くが斉彬時代ではなく 次の忠義時代の人であったりするなど矛盾が多く信用に値しな註7い 一方 卯吉郎説は 郡元水車館の責任者であった池田が 此械ノ製造ハ大和国ヨリ御雇下ノ卯吉郎ト申スモノノ工夫ニ出タリ 綿 絹両様見事ニ織物出来 と述べてお註8り 石谷水車館を視察した新納久仰も 島津石見殿抱ノ山元宇助ト申他所者ノ差図ニテ造立ノ水車 と註9 安政六年に田上水車館を訪れた土佐藩士今井貞吉も (五月二日)午後池田鼎水ノ官舎ニ抵リ石川覚太郎(石河確太郎)及山本弥吉ニ逢フ 共ニ大和州ノ人 鹿府ニ来リ仕ルト云フ 石川覚太郎ハ横文原書ニ通シテ弟子数十人ヲ導ク 質篤実静慎ナリ 山本弥吉ハ車機ヲ以仕フ 造ル所織布製油ノ水車アリ と記してい註1る 池田の言う 卯吉郎 新納が記した 山元宇助 今井が記した 山元弥吉 はおそらく同一人物であろう また 郡元水車館で使われた大幅織機の図が 安政四年に鹿児島を訪れた佐賀藩士千住大之助らが描いた 薩州見取絵図 の中にあるが これは西洋で使われていたものとは異な註11る この点も独自に考案されたものが使われていたことを示してい郡元水車館図 ( 佐賀県武雄市蔵 薩州鹿児島見取絵図 ) 画面上部の台地は紫原 中央を新川が流れ その両岸に 3 つの工場がある 左上が紡績工場 下の二つは食品加工 製油工場郡元水車館 大幅織機図 ( 佐賀県武雄市蔵 薩州鹿児島見取絵図 )

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高橋公明 明九辺人跡路程全図 神戸市立博物館 という地図がある 1663年に清で出版された地 図で アジア全域 ヨーロッパ さらにはアフリカまで描いている 系譜的には いわゆ る混一系世界図の子孫であることは明らかである 高橋 2010年 この地図では 海の なかに 日本国 と題する短冊形の囲みがあ テキストのなかの明州 高 橋 公 明 1 地図にひかれた2本の線 清国十六省之図 図1 という地図が名古屋市の蓬左文庫にある 中国製の地図を基本にして 朝鮮半島や日本列島を充実させて 1681年 延宝9 に日 本で木版印刷されたものである すでに江戸幕府は日本人が中国へ行くことを禁じていた 時代にあたる この地図のなかで目につく特徴の一つは 海のなかに2本の赤い線が引い てあることである いずれも東西に引かれており

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