高橋源一郎 歎異抄 が現代に示唆するもの 2017/9/16 親鸞が説いた非正規の思考 高橋大学院生と 幼児洗礼をめぐる宗教論争を研究した後 3.11( 東日本大震災 ) が起きました 大学は春休みで 直後から多くの学生が東北へボランティアに行きました その頃 一人の女子学生が僕にメールを送ってきました 3 月 20 日ぐらいだったと思います 私もボランティアに行くべきなんでしょうか みんな行っているけれど いまひとつ行く気になれない そう学生は言っています 僕はすぐに みんなが行く必要はない 行きたいと思えば行けばいいし 行かなきゃいけないから行くもんじゃないだろう とメールを返しました 自分ではけっこういいこと言ったつもりだったのですが あれ 誰かが同じこと言ってたな と気づきました それは 親鸞の 歎異抄 ( 作者は親鸞に師事した唯円とされる ) です 1
高橋源一郎 ( たかはし げんいちろう )/ 作家 明治学院大学教授 改めて 歎異抄を読み返したら これがめちゃくちゃ面白い 昔読んだときはあまり関心を持たなかったけれど 現在の僕たちに非常に示唆的なことを言っており とても驚きました 去年何度も浄土真宗の 2 つの寺で講演するくらい ちょっとした親鸞の専門家になってしまいました ( 笑 ) 興味深いことに その内容は バルト クルマン論争 に近いのです すごく簡単に言うと 親鸞は 非正規 非対称を説いています 親鸞の教えは 端的にいうと 南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば浄土に行かれる というシンプルなものです でも この教えには反論があります 当時の代表的僧侶 貞慶上人や明恵上人から非難されたのですが その批判がクルマンの批判とそっくりなのです 1950 年代のヨーロッパでの批判と同じような批判を 今から 900 年近く前の日本でやっていた 貞慶 明恵の批判は力強く どう考えても彼らの批判は正しく思えます どんな批判かというと 南無阿弥陀仏と唱えれば 誰だって浄土に行けるなんてバカなことがあるものか 念仏は本来 菩提心や無限の慈悲の気持ちがあったうえで唱えるもの その菩提心もなく 口先だけで唱えても そんなものは宗教ではない という批判です 2
親鸞の肖像画 ( 写真 : アフロ ) 3
正しいですよね 普通に考えるとそうです ところが親鸞は 口だけでいい と言っています また 念仏は何回唱えるかという論争でも 親鸞は 1 回でいい というか唱えなくてもいいくらいの話をしています すると 何もすることがなくなり 最終的に宗教でもなくなってしまう 修行はしなくていい お経も唱えなくていい 菩提心もなくてもいい 口で念仏だけ唱えればいい その念仏も最後まで唱えなくてもいい これでは もはや宗教なのかというところまで行ってしまいますね では なぜそこまで行ってしまうのか 親鸞が生きたのは 平家が滅び 鎌倉幕府が成立していく戦乱の時代です そういう中で仏教が非常に盛んになります しかし 幕府は称名念仏禁止令を発令して 親鸞の師匠の法然を弾圧します 念仏だけで良い は 危険思想だったわけです 当時 ほとんどの人間は農民で文字が読めません だから お経を読んで修行ができるのは ごく一部のエリートだけ 文字が読めない人に 修行したり 菩提心を持てと言っても 土台無理ですね 仏教は 貞慶や明恵のようなエリートのための宗教だったのです しかし 親鸞は一般の人々の中へ入っていった すると 生活に苦しむ庶民が仏教に救いを求めても 出家は難しいから 念仏を唱えることしかできないという現実がわかります 要するに 親鸞自身がエリートの世界から降りたのです 高橋源一郎 ( 作家 明治学院大学教授 ) 4
自由は非対称の世界にある ところで 親鸞の教えである 念仏を唱えるだけで OK は 実は文学の考え方そのものです 一般的な文学理解では 真実があって それを言葉で表現するものが文学だとされます でも 作品を実際に書いている人間からすると 当然だけど 文学は言葉だけで 真実なんてない そうだよね 島田さん ( 笑 ) 島田そうですね 島田雅彦 ( 小説家 ) 高橋真実があるかどうかなんて だれにもわからない 信じられるのは言葉だけです それが いわば文学の立場で それは親鸞が言っているのとまったく同じです 言葉だけでいい さらに 本当は何を思ってるかも どうでもいい どうせわからないから それが 親鸞がたどり着いた境地なんです その境地は 貞慶や明恵が言った正規の思考 あるいはロジックとはかけ離れています 宗教ではなくなるぎりぎりまで行ってしまうラインですから 現代だったら ずいぶん変わったこと言う人だね と言われるような生々しい考え方です 5
論理としては貞慶 明恵が正しいと言えるのですが 現実に苦しんでいる人たちにとって ちゃんと彼らのところまで着地する言葉を発したのは やはり親鸞だったと思います しかも その考え方の根本にある 言葉だけでいい は 僕たち文学者にとっては 非常になじむ言葉です 岸さんの断片の話も クルマン バルト論争 も この親鸞の話も それぞれ宗教であったり 社会学であったりしますが 彼らが立ち向かっていった正規の考え方とは 僕の言葉で言うと 文学がいつも向こう側に見ている仮想敵 です もちろん 実際に敵対しているのではありません この社会を固定化させている この社会に住む人たちを一つのロジックの中に閉じ込めている考え方 それを僕は正規の思考だと思うのですが それは非常に対称的だったり ストーリーがあったりします でも 断片的であったり 非論理的に見えたり 対称性が損なわれたりする考え方の中にこそ 自由の可能性があるのではないかと思います 僕自身は 宗教とはほど遠い人間で 当然悟りも開いていませんけれど 親鸞は思想家に見えます 鎌倉時代の僧侶は 現代とは違って 思想家 社会運動家だった だから 一向一揆などが起きたのでしょうね 思想家で活動家と言ったら マルクスのような存在かもしれません だから 親鸞を読んでいると 資本論 を読んでいる あるいは聖書の論争を読んでいるような気がしてきます やはり共通するものがあるのでしょう それが 断片的 非正規 非対称です 6
単純化の網から逃れる方法 最後にもう一つ 複雑性についてお話しします ここまでお話ししたことを簡単にまとめてしまうと 今 社会が持っている あるいは社会が人々に押しつけている 正規の思考 というものは 僕たちを洗脳しようとします 一つの社会が提示する物語を受け入れるという形で その正規の思考の根本には 一対一 等価交換の原理が働いており 対称性があって わかりやすい そういうものに僕たち自身も洗脳されてしまっているのではないかと思います では どうすればよいのか 洗脳から逃れる方法の一つが 複雑性 です これは文学の側から見たスキルというか やり方です 著書 ぼくらの民主主義なんだぜ でも書いたのですが 要は 社会はわれわれに向けて すべてを単純化して考えるように仕向けてきます 一見 僕らは矛盾と戦うように見えて その実 単純化作業の中に取り込まれてしまう では そういう社会が投げかけてくる網 ( 落とし穴 ) からどう逃れたらよいのか 7
ウクライナ問題で考えてみます ロシアとウクライナがクリミア半島を巡って戦争を した 実はまだ続いています このウクライナ問題を 現代思想 が特集にしまし た 専門家が語っているのですが その中に作家が 3 人入っていました クリミア半島を訪れる露 プーチン大統領 ( 写真 : ロイター / アフロ ) そのうちの一人 ロシアのイリア ウリツカヤの論考がとても素晴らしかった ウリツカヤにとって クリミアは小さいころから訪れていた 第二の故郷でした それで彼女はクリミアの出来事 空気 人々の声を小説のような情景として描いたのです それを読んだとき 僕はハッとしました 他の専門家はみんな証拠を出して どっちが正しい 間違っていると議論をしています しかし 彼女だけは まったく政治的な論考には参加していません 正しい 間違いという証明は一切ない代わりに 彼女はクリミアが実在することだけを書きました 実在は 正しさとは無縁です ただ あるだけです 彼女の小説から クリミアの複雑な現実という時空間が浮かび上がってきます 僕は これこそまさに作家がやるべき仕事だと感銘を受けました 8
日本でいうと 魚釣島ですね 国境問題を論じる人はいますが あの島の空気 歴史 生活を描写する人はいません 一方 歴史資料をもって何が正しいかという言い方は正規の思考です その合理性の中で 僕たちはモノを考えさせられています これこそ僕らが陥っている この社会に仕掛けられた網 落とし穴という罠です その意味で ウリツカヤは ただ存在させるという非正規の思考をやった その結果 複雑なクリミアの実在を僕たちは感じることができるのです でも また論争が始まると すべては単純化されて どっちが正しいかという話になってしまう だから 僕らはその正しさに抵抗して複雑さに立てこもる それがウリツカヤの戦略です 素晴らしい 優れた戦略だと思います こうして 世界や社会は 僕たちに 正しいか 間違っているか という単純化 正規の思考 あるいは合理性といったものを押し付け 作家はそれに抵抗するためのやり方を 2000 年かけて磨いてきたのです ウリツカヤのやったような仕事を やはり作家がやるべきです 社会学者は どちらかというと 正規の思考の持ち主が多いので やはり正しさからはかけ離れている作家にプラスがあるのかなと思います 戦後の向こう側ということで 本日はこれからの社会のために必要なロジックや言葉のお話をしました 平成の後に どんな言葉が必要になるかを考えると 小説は売れなくなるかもしれませんが 文学は出番が増えるというのが僕の楽観的な予想です その理由は 今までしゃべった通りです 9
* 明日の討論編に続きます ( 構成 : 栗原昇 撮影 : 大隅智洋 ) 10