2 1 耽美の沼
美の沼2耽吉村滋3 耽美の沼 2 2
目次薊の花 7 Azami no Hana Shigeru Yoshimura Copyrights: (c)2012 Shigeru Yoshimura, Tycoon llc. Cover Illustration and Design: Reiko Fujimori Published: 2012 Categorie(s): Novels, Japanese Publisher: TYCOON LLC Source: http://www.tycoon-com.com/ 5 耽美の沼 2 4
の花7 耽美の沼 2 薊カバーイラスト&デザイン/藤森玲子6
8 9 耽美の沼 2 序章私の友人にこうゆう男がいました だしぬけに変なことをいいだすとお思いになるかもしれませんが お暇でしたらしばらく聞いて戴けないでしょうか 話は三年前に遡るんですが 今だにあの夜の情景を思い浮かべる度に 目の前にある凡てのものが 音もなくのけぞり倒れるような 衝動を覚えざるを得ません 彼は轢死したのでした 勿論自殺です 丁度今夜みたいに 秋雨のそぼ降る宵の事でした 警察からの報せで現場に急行した私は 線路の傍に菰を掛けられた 異様な肉塊ともつかぬものを見せつけられたのです それが彼の死体でした 余りに凄愴な生と死のからくりに 私は失神せんばかりでした そして黒いゴム引きの合羽を着た警官の姿が 恰も死への誘導者のような 不吉な恐怖をそそったのでした どうして彼は自殺してしまったのだろうか?然し そういった考えは後になって過去数年間の彼との交友の一駒一駒を心に描く度毎に 私自身の人生観に暗い翳を落し始めた 生活の間隙とでも申しますか 兎に角いたたまれぬ寂しさに吸込まれるとき フッと襲いかかってくる感懐で 其の時 未だ彼の死は 何だか脳の一隅を浮遊している白い組織みたいなものにす
10 11 耽美の沼 2 など 飯は食わなくとも酒は欲しいものですからね 殊にNは何よりも一杯の焼酎に 目頭を熱くして喜びました Nは酔いが廻ってくるにつけ 文学の話に熱してくるのでしたが そんなとき私は彼の蒼白な顔全体から ピリピリした感覚の束でも放射してくるような感じを受けました Nはよくこんなことをいっていました 俺は詩のない生活を考えることは出来ない 人は蜃気楼でもみているのかと笑うかもしれない 然しそんな人は 単なる物欲のみの生活が如何に退屈なものか知らない おめでたい人種だ 文明が進み世の中がせちがらくなるにつれて 益々物質と詩とはお互いの中に強く自己を反映してゆくだろう ね 君 そうじゃないか 私が貴方にお話しようと思っているのは Nの自殺の直接の原因と思われる 彼の恋愛事件についてなんです 私は表面に表れた事の経過以外に 彼の心境の変化をつぶさに知るわけがありませんが 死後私に残した彼の日記によって どうやら事件の全貌を汲取ることが出来たと思うんです 私達が間借りした自由が丘の家は 年取った後家さんと婚期を控えた末娘との二人暮しでした そして前庭を隔てて同じ屋敷内に 長男夫婦が家庭を持っていました 長男夫婦には四つと二つの女の児がいて 由美子という奥さんは 私達田舎出の青年には一寸近づきにくい程の美貌の持主でした わずかばかり額に落ちかかった髪を小指で掻きあげながらにっこり笑う彼女は 少し強すぎると思われる位の目鼻立ちの深い刻みが理知の仄めきを添え がなかったのです 勿論或る漠然とした予感が 全くなかったというわけではありませんが 私は其の頃まで死というものについて さして深い考察をしたこともなく それだけに彼の苦悩についても 冷淡だったといわねばなりますまい 彼を仮にNと呼んでおきましょう Nとは旧制高校以来の友達で 私達は高等学校を卒業した春 大学受験のため上京したのですが Nは東大の英文科に合格し 法科を志望した私は落第の憂き目をみなければなりませんでした 然し私は郷里に帰るのがどうにもいやで その儘或る商事会社にはいれたのを幸に Nと一緒に間借りすることにしたのです 最初私達は東横沿線の自由が丘に 六畳一間借りることが出来ました Nは作家志望で殆ど学校に行くこともなく しょっちゅう創作に専念している模様でしたが 貧しい彼の家からは充分送金を受けるわけにはゆかず 結局アルバイトをしなければなりませんでした そんなわけで 彼の創作も思うままにならず 常に生活の不安に悩まされていたことは 彼が忌々しそうに 髪の毛を掻きあげながら書きかけては捨ててしまう 生活描写の断片にも 明らかに認められることでした 尤も私にした処で わずかばかりの給料でしたが どうにか生活を支える分には事欠かなかったのです それで時々私は 新宿辺りの屋台店に彼を誘いました そんなことなら Nの生活を少しでも補助したらよさそうなものだとお思いになるかもしれませんが 当時の私達にとって 時たまの酒は必需品だったのです どうにもやりきれない あの忌々しい焦燥に脅かされるとき
12 13 耽美の沼 2 其の晩 床に就いてからNが告白した話は 私の心に苦い羨望をかりたてるに充分でした 然し 私は表面何喰わぬ顔で 彼の心を捕らえ始めたという 由美子さんへの恋情に 友情的な態度を示したのです Nの話によれば 彼が由美子さんに心を惹かれ始めたのはもう随分前からのことで どうにも仕様のない立場から 秘かに一人思いの苦しみをなめてきたが つい此の間 偶然渋谷で買物に出ていた彼女に出会い 誘われるままにお茶を御馳走になった事があった 別にこれという話をしたわけではないが 何となく態度の片鱗に示してくれる好意や それかと思うと 突然高圧的に年長者の威を保とうとする彼女の話しぶりから推して 多少なりとも 心の平静を失っていたのじゃないだろうか というのです それなり彼は黙り込み 私の返事を待つ模様でもなかったので 私は電気を消して眠ってしまったんですが 夜中にフト目を醒ましてみると 彼は何やら創作に耽っている様子でした 彼等の関係は 其後表面これということもなかったんですが 内面に鬱積する感情はつのるばかりで わずかの隙を求めては爆発してしまいそうな 緊迫したものへと進んでいったのです そして 何時しか夏も過ぎて秋風が立ち始め 夜になると しきりにすだく虫の声が 青白く障子に映る季節になりました 由美子さんの主人は 一月余りの予定で関西方面に出張していました 或る日のこと 私は会社の同僚に誘われて銀座へ廻り 自由が丘の駅に着いたのは もう随分夜も更けて 一 二軒の商店だけが遅い戸締りを始めかけた頃でした 屋敷町に入ると 一定のそれに全体から受ける上品な感じが 何となく 都会の女 というものを感覚的に捉えた青年の憧れを誘うに充分でした 夏の風が吹き始めた頃 或る晩 私達は片隅に置かれた涼み台にかけていました やっと日が落ちて 薄闇が刷毛でなでるように辺り一面に拡がると どこからともなく吹いてくる風が八ツ手の葉をひるがえし 其の度に羽虫の群がっている赤い街燈の光が 葉かげを透して地面にチラチラ戯れていました 其の付近一帯は台地になっていて 雑木林の黒い塊りが畑地の間に点々と盛上り 遠く商店街の上空辺りを染めている赤い灯を見るのは 何となく郷愁を誘うものでした Nもきっと郷里のことでも考えていたのでしょう すると 下駄の音がして 由美子さんがやってきました 今晩は 何て気持のいい夜でしょう 私もお仲間に入れて頂戴ね ええ 私ね さっきお菓子こしらえたのよ よかったら召し上がらない そういって 彼女は持っていた紙包みを涼み台の上に拡げました 由美子さんは 白地にトンボ模様の浴衣を着ていましたが 湯上りとみえて 無造作にときつけた髪を紐で結え 薄く化粧した口もとに微笑をほころばせていた姿は 今なお眼底に灼きついている位 成熟しきった女の濃艶な美しさをたたえていました 私は急に華やいだ気分になり 彼女と世間話を始めたんですが Nは時たま調子を合わせるだけで 相変らず膝を抱いたまま じいっと何か考えに耽っている様子でした