イロニー 的 な 主 体 としてのウィトゲンシュタインについて -WS ウィトゲンシュタイン:その 生 と 思 想 から 受 け 取 りうるもの 提 題 要 旨 - 鬼 界 彰 夫 1.ウィトゲンシュタインから 我 々が 受 け 取 りうるものとしての 哲 学 の 仕 方 ウィトゲンシュタインから 我 々が 受 け 取 りうるもの とは 彼 以 外 からは 受 け 取 ること のできないもの あるいはできそうにないものでなければならないだろう さもなければ とりたてて ウィトゲンシュタインから と 言 う 必 要 がないからである そして 我 々が 彼 からしか 受 け 取 りえないものとは 他 の 者 にはない 我 々を 惹 きつける 彼 独 特 の 特 徴 と 深 く 結 びついている 何 かでなければならないだろう こうした 観 点 からウィトゲンシュタイン という 哲 学 者 を 改 めて 見 つめてみると 私 が 彼 に 惹 きつけられる 最 大 の 特 徴 とは その 不 思 議 な あるいは 逆 説 的 な 哲 学 の 仕 方 である 確 かに 彼 の 哲 学 の 内 容 思 想 は 独 創 的 であり 深 遠 である しかしそれは 前 期 ウィトゲンシュタインの 思 想 後 期 ウ ィトゲンシュタインの 思 想 などとして 言 語 化 できるものであり その 限 りにおいて 他 の 人 間 が 復 唱 しうるものである 現 にそうしたウィトゲンシュタイン 主 義 者 は 多 く 存 在 する しかし 彼 らの 中 で ウィトゲンシュタインがそうであるように 私 を 惹 きつける 者 は 一 人 と していない このことは 私 が 惹 きつけられているのは 彼 の 思 想 の 抽 象 的 内 容 ではなく 彼 がその 思 想 を 世 と 人 々に 伝 えた 独 特 の 態 度 スタイル 方 法 としての 哲 学 の 仕 方 で あることを 示 している 私 の 提 題 の 主 旨 は この 哲 学 の 仕 方 の 正 体 それに 私 が 惹 き つけられる 理 由 を 探 り そこから 21 世 紀 において 哲 学 という 営 みに 携 わる 我 々が 学 びうる 何 かを 引 き 出 そうと 試 みることにある そうした 試 みにおいて 私 は 彼 の 哲 学 の 仕 方 をイ ロニーとして 理 解 したい そして 彼 という 存 在 そのものを キルケゴールの 概 念 1を 援 用 し 転 換 期 を 生 きた イロニー 的 な 主 体 として 理 解 したい こうした 考 察 はウィトゲンシュ タインの 科 学 に 対 する 独 特 の 態 度 の 意 味 にも 光 を 当 てるものであり 科 学 と 哲 学 の 関 係 を 考 察 する 上 でも 意 味 を 持 つものであると 思 われる 2.イロニーとしてのウィトゲンシュタインの 哲 学 的 実 践 哲 学 という 営 みに 関 する 通 念 からするとウィトゲンシュタインの 哲 学 の 仕 方 は 特 異 であり 同 時 に 否 定 的 である 通 念 に 従 えば 哲 学 という 営 みは 何 らかの 哲 学 的 問 題 に 対 する 解 やその 説 明 あるいはそれらを 導 く 理 論 や 世 界 観 を 言 語 化 し 書 物 等 の 媒 体 を 通 じて 哲 学 者 共 同 体 や 公 衆 に 広 く 提 示 することを 根 幹 とするように 思 われる それに 対 して ウィトゲンシュタインは 本 来 の 哲 学 の 正 しい 方 法 は 語 られうること 従 って 自 然 科 学 1 S.キルケゴール イロニーの 概 念 第 二 部 イロニーの 世 界 史 的 妥 当 性 ソクラテスの イロニー 飯 島 宗 享 他 訳 キルケゴール 著 作 集 21 イロニーの 概 念 ( 下 ) 白 水 社 新 装 復 刊 1995,pp.175-196. 1
の 命 題 従 って 哲 学 とは 何 の 関 係 もないこと これ 以 外 の 何 も 語 らない というものであ る ( 論 考 6.53 奥 雅 博 訳 以 下 同 様 )とか 哲 学 はまさにあらゆることを 立 言 するだ けであって 何 事 も 説 明 せず 何 事 も 推 論 しない ( 探 究 126 藤 本 隆 志 訳 )といった 言 葉 に 象 徴 されるように 生 涯 通 念 的 な 哲 学 のあり 方 には 否 定 的 態 度 を 取 っていたように 思 われる しかしそれは 彼 が 哲 学 を 有 害 なものとみなし その 撲 滅 のために 活 動 したとい うことではなく 通 常 の 哲 学 的 活 動 に 対 して 否 定 的 関 係 を 持 つ 哲 学 いわば 否 定 的 哲 学 あるいは 反 哲 学 的 哲 学 2というべきものを 実 践 しようとしていたということであり それは 自 分 の 著 作 の 表 題 に 哲 学 という 語 を 肯 定 的 な 意 味 で 繰 り 返 し 用 いていることのうちに も 示 されている 更 に 彼 がこうした 否 定 的 哲 学 を 実 践 しようとしたのは 哲 学 の 固 有 の 領 域 が 次 第 に 科 学 によって 侵 食 されてゆくという 歴 史 認 識 3に 基 づいてのことでもない 哲 学 は 徐 々に 科 学 に 取 って 代 わられてゆくといった 思 想 を 彼 は 表 明 していない この 奇 妙 で 不 可 解 なウィトゲンシュタインの 否 定 的 哲 学 の 意 味 を 明 らかにするひとつの 手 がかりが イロニー( 皮 肉 ) という 概 念 だと 思 われる イロニーを 特 徴 付 けるのは 否 定 性 すなわち 真 意 と 表 層 の 言 葉 の 対 立 である より 具 体 的 に 言 えばイロニーには 二 つの 型 がある 4 第 一 は 自 分 が 重 要 だとか 価 値 あるとか 思 わないものについて それを 評 価 するか のように 語 ることであり その 目 的 は 対 象 の 無 価 値 さをより 徹 底 して 明 らかにすることで ある 知 を 豪 語 するソフィストに 対 してソクラテスが 自 らは 無 知 を 装 いながら 対 話 を 進 めるときに 彼 が 取 った 戦 略 はこのタイプのイロニーである これを 肯 定 的 イロニーと 呼 ぼ う 第 二 は 自 分 が 真 に 価 値 あり 重 要 だと 思 う 対 象 に 対 して それが 大 したものでないかの ごとく 語 ったり その 本 来 の 価 値 に 見 合 うだけの 言 葉 を 費 やさなかったりすることである ソクラテスが 若 者 たちに 自 分 の 知 を 無 知 の 知 としてのみ 提 示 したときに 彼 が 用 いたの がこのタイプのイロニーである 人 がこうした 戦 略 を 用 いるのは 自 分 が 真 に 価 値 あると 思 うものが 自 分 の 現 在 の 理 解 や 知 識 を 無 限 に 超 越 していると 感 じるとき そうした 対 象 が 安 易 な 言 語 化 によって 有 限 化 されたり 切 り 縮 められるのを 避 けるためである ソクラテス は 自 己 をどこまでも 無 知 という 場 に 留 めておくことにより 無 限 の 営 みとしての 哲 学 の 可 能 性 を 切 り 開 いたといえるだろう これを 否 定 的 イロニーと 呼 ぼう これら 二 つのイロニーの 概 念 を 論 考 期 5のウィトゲンシュタインの 哲 学 観 に 適 用 し 2 クワインやローティーの 名 を 挙 げるまでもなく 今 日 の 我 々にとって 反 哲 学 的 哲 学 はもは や 珍 しいものではない しかしそれらの 大 半 がウィトゲンシュタインの 哲 学 の 仕 方 の 直 接 間 接 の 影 響 の 下 に 生 起 したということ そしてこうしたある 意 味 で 矛 盾 した 活 動 の 正 体 は 何 か それをあえて 実 践 する 意 味 は 何 か という 基 本 的 問 題 に 対 する 明 確 な 答 えは いまだ 与 えられていないことを 忘 れるべきではない 3 他 方 J.L.オースティンはこうした 歴 史 認 識 に 基 づいた 哲 学 観 を 持 っていた 坂 本 百 大 監 訳 オースティン 哲 学 論 文 集 勁 草 書 房 1991 p.372 参 照 4 cf.キルケゴール 前 掲 書 p.157. 5 ここで 議 論 を 論 考 期 に 限 定 するのには 二 つの 理 由 がある 先 ず 探 究 期 については 全 てがあまりにも 不 透 明 であり 確 固 としたことを 語 るのが 困 難 であること 第 二 に 探 究 期 の 哲 学 観 について 語 るためには 先 ず 論 考 期 の 哲 学 観 をできるだけ 明 らかにし 2
彼 の 否 定 的 哲 学 の 意 味 の 解 明 の 手 がかりとしたい 先 ずは 肯 定 的 イロニーから 上 で 引 用 した 6.53 の 自 然 科 学 の 命 題 従 って 哲 学 とは 何 の 関 係 もないこと という 表 現 は 自 然 科 学 の 内 容 それ 自 身 が 哲 学 的 には 無 意 味 あるいは 無 価 値 であるとウィトゲンシュタイン がみなしていたことを 示 している 6 それゆえ 哲 学 が 述 べることは 自 然 科 学 をおいてはない と 彼 がいう 時 それは 肯 定 的 イロニーであり 自 然 科 学 の 哲 学 的 価 値 に 関 して 間 接 的 だが 深 い 批 判 が 示 されていると 考 えられる 同 様 に 哲 学 の 目 的 は 思 想 の 論 理 的 明 晰 化 であ る 哲 学 の 結 果 は 哲 学 的 諸 命 題 ではなく 諸 命 題 が 明 晰 になることである (4.112) といった 言 葉 で 表 されている 概 念 の 論 理 的 分 析 と 明 晰 化 が 哲 学 の 仕 事 である という 哲 学 観 も 肯 定 的 イロニーの 対 象 であると 理 解 しなければならない これは 分 析 哲 学 とい う 理 念 の 源 泉 であり それを 実 践 している 者 の 立 場 からすればイロニーではなく 真 剣 な 概 念 であるはずのものだが 哲 学 という 観 点 に 立 ち 返 って 考 えるならやはりイロニーといわ ざるを 得 ないものである 7 ここでウィトゲンシュタインが 思 想 の 論 理 的 明 晰 化 として 意 味 しているのは 例 えば ソクラテス 対 話 篇 でなされている 理 念 の 探 求 (あるものの 本 来 のあるべき 姿 の 探 求 )ではなく 単 に 形 式 的 な 知 的 作 業 であり 究 極 的 には 理 想 的 な 辞 書 作 成 へと 収 斂 するようなものである それはあらゆる 分 野 の 学 問 にとって 必 要 な 準 備 的 作 業 ではあるが 特 に 哲 学 に 関 わるものではない 各 学 問 分 野 の 論 点 整 理 を 行 うことが 哲 学 の 本 来 の 任 務 であると 考 える 理 由 は 見 当 たらない 概 念 の 論 理 的 明 晰 化 が 哲 学 本 来 の 目 的 と 無 関 係 であるとウィトゲンシュタインが 考 えていたことは 現 に 彼 がその 著 作 で 行 お うとしていた 作 業 がそうしたものではなかったことに 最 もよく 示 されていると 言 えるだろ う 次 に 否 定 的 イロニーに 移 ろう ウィトゲンシュタインにおいてソクラテスの 無 知 に 対 応 するのが 沈 黙 と 示 し である ソクラテスが 無 知 の 知 によって 哲 学 的 真 理 を 安 易 な 限 定 から 守 ったように ウィトゲンシュタインは 沈 黙 と 示 し によって 語 りえぬ もの (と 彼 が 呼 んだ 最 も 重 要 なもの)を 言 語 的 有 限 化 や 通 俗 化 から 守 ろうとした このこ とは 改 めて 論 じるまでもないと 思 われる 我 々がここで 否 定 的 イロニーと 呼 んでいる 過 程 は 次 のようなテキストに 明 瞭 に 示 されている 4.114 哲 学 は 思 考 可 能 なものを 限 界 づけ これにより 思 考 不 可 能 なものをも 限 界 づけ ねばならない 4.115 哲 学 は 語 りうることを 明 晰 に 描 出 することによって 語 りえぬことを 意 味 する であろう その 上 でそれがどの 程 度 どのように 変 化 したかを 解 明 する 必 要 があること である 6 cf.4.1121,4.1122. 7 分 析 哲 学 には 二 重 のイロニーが 含 まれている ウィトゲンシュタインがイロニーで こ れが 哲 学 だ と 言 ったことを 真 剣 に 受 け 取 り それを 本 気 で 実 践 したというイロニーであ る あるいはそれをイロニーとして 実 践 した 分 析 哲 学 者 もいるかもしれない その 場 合 分 析 哲 学 は ロマン 派 に 比 すべき 屈 折 した 性 格 を 持 つことになろう 3
6.522 だがしかし 表 明 しえぬものが 存 在 する それは 自 らを 示 す それは 神 秘 的 なも のである 7 話 をするのが 不 可 能 なことについては 人 は 沈 黙 せねばならない 3.イロニー 的 主 体 としてのウィトゲンシュタイン 以 上 の 考 察 に 何 がしかの 妥 当 性 があるとして そこからウィトゲンシュタインの 哲 学 につ いて 我 々に 有 意 味 などのような 結 論 が 引 き 出 せるのだろうか 以 上 の 分 析 が 示 しているの は 我 々がウィトゲンシュタインに 惹 かれる 大 きな 理 由 は 彼 の 哲 学 が 同 時 代 の 哲 学 者 に は 見 られないイロニーの 色 彩 を 深 く 帯 びていることだ ということである 問 題 はなぜ 彼 がそうしたイロニーを 行 ったのか あるいは 行 わざるを 得 なかったのかである 周 知 のよ うにウィトゲンシュタインは 特 異 なパーソナリティーを 持 っていた もし 彼 のイロニーが こうしたパーソナリティーに 淵 源 を 持 つものならば それは 個 人 のエピソードに 留 まり 哲 学 にとって 大 きな 意 味 を 持 ち 得 ないことになろう こうした 困 難 に 光 を 投 げかけるヒン トがソクラテスとの 対 比 である ソクラテスのイロニーは 彼 の 性 格 の 産 物 というよりは 複 雑 な 知 的 戦 略 というべきものであり その 後 の 哲 学 史 に 決 定 的 な 影 響 を 及 ぼした 重 要 な 行 為 である もし 上 述 のようにウィトゲンシュタインがイロニーの 人 であるなら 彼 はソ クラテスと 並 ぶ 哲 学 史 上 の 特 異 な 存 在 ということになり ソクラテスに 比 すべき 重 要 な 哲 学 史 的 意 味 を 持 つことになる この 意 味 の 解 明 は 簡 単 な 作 業 ではないが その 手 がかりと なるものとしてキルケゴールの 転 換 期 に 現 れるイロニー 的 な 主 体 という 概 念 を 取 り 上 げ ウィトゲンシュタインに 適 用 してみたい 転 換 期 とイロニー 的 な 主 体 についてキルケ ゴールは 次 のように 書 いている 歴 史 上 のこうした 転 換 期 のそれぞれに 注 目 すべき 二 つの 動 きが 存 在 する 一 方 にお いては 新 しいものを 進 出 させ 他 方 においては 古 いものを 駆 除 しようとするのである 新 しいものを 進 出 させようとするかぎり われわれはここで 新 しいものをはるか 遠 方 に ほの 暗 い 定 かならぬ 輪 郭 において 直 観 するところの 預 言 者 的 人 物 に 出 会 う 預 言 者 的 人 物 は 来 るべきものを 所 有 するのでなく 単 にそれを 予 感 するのである 彼 はそれを 通 用 させることができないばかりか 彼 が 属 する 現 実 にとっては 彼 は 失 わ れた 者 でさえある とはいうものの 彼 のこの 現 実 に 対 する 関 係 は 平 和 的 な 関 係 であ る それというのも あたえられた 現 実 がなんら 対 立 者 を 感 じないからだ 次 に 出 て くるのが 本 来 の 意 味 での 悲 劇 的 英 雄 である 彼 は 新 しいもののために 戦 う 彼 は 彼 にとっては 消 滅 してゆくものであるものを 滅 却 しようと 努 める もっとも 彼 の 任 務 は 滅 却 することよりもむしろ 新 しいものを 通 用 させて それによって 間 接 的 に 過 去 の ものを 滅 却 することである しかし 他 面 において 古 いものを 駆 除 しようとするなら ば 古 いものは 全 くその 不 完 全 性 において 見 られなければならない ここでわれわれ はイロニー 的 な 主 体 に 出 会 う イロニー 的 な 主 体 にとっては あたえられた 現 実 はそ 4
の 妥 当 性 を 全 く 失 ってしまっている その 現 実 は 彼 にとっては いたるところで 人 をうんざりさせる 不 完 全 な 形 式 となってしまっている しかし 他 面 において 彼 は 新 しいものを 所 有 してはいない 彼 は ただ 現 にあるものがイデーに 相 応 しないと いうことだけを 知 っているのである いかにもイロニーの 人 は 或 る 意 味 で 預 言 者 的 である 彼 はつねに 未 来 の 何 ものかを 指 し 示 すからである しかしそれが 何 である かを 彼 は 知 らない イロニーの 人 は 同 時 代 の 隊 列 から 踏 み 出 ており それに 立 ち 向 かう 関 係 にある 来 るべきものは 彼 には 隠 され 彼 の 背 後 に 横 たわる しかし 彼 が 敵 対 的 にそれに 直 面 して 立 つ 現 実 は 彼 が 滅 却 すべきものであり 彼 の 食 い 入 るよ うなまなざしがそれに 向 けられている 8 イロニー 的 な 主 体 とは 時 代 と 思 想 の 大 きな 転 換 期 にあって 来 るべきものを 予 感 しつつ もそれが 何 であるかをいまだ 全 く 知 らず それゆえそれについて 明 瞭 に 語 れず 同 時 に 去 るべき 古 きものの 非 妥 当 性 を 時 代 の 大 勢 に 反 して 限 りなく 強 く 感 じる 者 しかしその 非 妥 当 性 をずばり 言 い 表 す 言 葉 (それは 同 時 に 来 るべきものを 限 定 しうる 言 葉 でなければな らないがゆえに)をいまだ 持 たない 者 である ウィトゲンシュタインがこうした 意 味 での イロニー 的 な 主 体 であることの 厳 密 な 証 明 はこの 小 論 の 及 ぶところではないが キルケゴ ールの 力 強 い 叙 述 は 我 々が 惹 かれてやまないウィトゲンシュタインの 側 面 を 鮮 やかに 描 き 出 しているように 思 われる それは 一 種 の 予 言 的 響 きさえ 持 っているように 思 われる ここではウィトゲンシュタインのイロニー 的 な 主 体 という 側 面 を 示 す 彼 の 言 葉 自 己 と 時 代 の 関 係 に 関 する 彼 自 身 の 言 葉 を 引 用 するに 留 めたい この 書 物 は それの 精 神 に 対 して 友 好 的 に 立 ち 向 かってくれるような 人 々のために 書 かれている その 精 神 は 我 々 全 員 をとりまいているヨーロッパ 文 明 とアメリカ 文 明 の 巨 大 な 流 れの 精 神 とは 異 なっている この 文 明 の 巨 大 な 流 れの 精 神 は 進 歩 におい て 増 大 し 続 けますます 複 雑 になっていく 諸 構 造 を 形 づくることにおいて 現 れるが 本 書 の 精 神 は いかなる 構 造 であれその 明 晰 さと 見 通 しのよさを 求 めて 努 力 すること に 現 れる あの 文 明 の 精 神 は 世 界 をその 周 辺 部 によって その 多 様 性 において 把 握 しようとするが 本 書 の 精 神 は 世 界 をその 中 心 において その 本 質 において 把 握 し ようとする 従 って 文 明 の 精 神 は 諸 形 象 を 次 々と 相 並 べ いわば 各 段 階 を 次 々とあが ってゆくのに 対 し 本 書 の 精 神 は 自 らが 位 置 するところに 留 まり そして 同 一 なもの を 常 に 把 握 しようとするのである 9 4. 我 々の 時 代 における 哲 学 のあり 方 ウィトゲンシュタインの 哲 学 の 仕 方 に 関 する 以 上 の 考 察 から 我 々 自 身 が 今 の 時 代 に 8 キルケゴール 前 掲 書 pp.177-179. 9 奥 雅 博 訳 哲 学 的 考 察 序 文 5
あってどのように 哲 学 をなすべきかについてどのようなことが 引 き 出 せるかについては ワークショップにおいて 参 加 者 と 共 に 考 察 したい 6