阪神 淡路大震災からの教訓政策研究大学院大学教授安藤尚一 1 概要 1995 年 1 月 17 日の早朝 マグニチュード 7.3 の兵庫県南部地震が発生した 神戸市で震度 7の激震を観測し 戦災復興区画整理が不十分な地域などで大規模火災が発生した 地震で約 25 万棟の住宅 建築が全半壊し 約 6400 名が亡くなった 建設省 ( 当時 ) で省エネやプレハブ住宅の担当だったことから筆者は 応急仮設住宅建設促進の業務でこの阪神 淡路大震災にかかわった 仮設住宅の設置期限は2 年とされているが 5 万戸の仮設住宅の解消には5 年かかった これは復興住宅建設や復興まちづくりに時間を要したからである 復興とまちづくり 都市計画制度との関係を見る上で 神戸市を中心とする阪神 淡路大震災からの復興は 東日本大震災の被災地の復興にも通じ 今後の都市計画やまちづくりのあり方への示唆を与える以下の教訓を含んでいる 2 都市型災害阪神 淡路大震災の特徴は都市型災害である 1959 年の伊勢湾台風の経験を元に災害対策基本法が 1961 年に作られ その後 日本の災害では風水害が大部分を占めていた それが 1995 年の阪神 淡路大震災で 地震により当時戦後最大の人的 経済的被害を生んだ 損失額は主に建築物の倒壊により直接被害額だけでも約 10 兆円と見積もられた 地震では建築基準法で新耐震基準を 1981 年に制定することになった 1978 年宮城県沖地震や 2004 年新潟県中越地震もあったが 阪神 淡路大震災が超高層建築や地下鉄 高速道路などのある近代都市で 最高の震度階が生じた初めての震災である これを契機に災害対策基本法が改正され 自衛官派遣や広域体制の強化などにより機動的に大災害に対応できるようになった 都市型災害の特徴は 1 人口も投資も集中している地域なので被害が巨大化しやすい 2 複雑な経済社会システムで 中にはこれまで災害を経験していない最新システムも含まれる 3 地域の絆が農村に比較して弱い 4 多くの関係者で復興計画やまちづくりの合意を短期に得る必要がある といった点である 日本では都市型災害時は都市計画事業で復興を図る場合が多く 震災や戦災の後は歴史的に土地区画整理事業が多用されてきた 高度経済成長期も新市街地の多くが土地区画整理事業で整備され このため 土地区画整理事業は都市計画の母と呼ばれている 3 都市火災と復興まちづくり市街地火災は江戸時代以前からの日本の都市の宿命であった 死者のほとんどが火災による 1923 年関東大震災と日本全国の都市が焼失した戦災を経て 建築基準法や都市計画法は都市部における火災対策がその柱の一つになっている 具体的には防火 準防火地域で
燃えやすい建物は新築できないようにしてあるが 戦災に遭わなかった地域は危険なまま残されている 通常時であれば地域の消火活動が機能して都市火災にはならないが 阪神 淡路大震災時には多くの古い住宅が倒壊し 神戸 西宮など計 200 カ所以上で火災が発生して 水道水が出ないため消火ができず 大火災となった市街地が多い 幸い震災当日は風がほとんどなく 地域住民による共助もあり ある一定の範囲で火災は収まったが もし風が吹いていたら火災による被害はさらに拡大していたとされる 火災に遭った地域の復興事業で 市では街路を拡幅すると同時に公園や水路などを整備した またかつて住宅が密集していた地域では 再開発で中高層化することにより耐火 耐震建築化するとともに敷地内の空地を増やしている ただし 戸建て住宅に住みたいなどの理由で他の地域に移り 以前に比べて安全にはなったが人口が減った地区もある また この震災の復興まちづくりで特筆すべきは 2か月間という短期間に復興計画の大枠を住民の合意を得て決め その後何百人といる地権者等と詳細な計画を詰めるという 2 段階の都市計画 を実施したことである 2か月はまちづくり準備のための建築制限の期限であり ルールを守りつつ柔軟な対応ができたのもまちづくりに慣れた市の職員がこの地域に多くいたからである 住民もハザードマップなどで危険性をある程度認識はしているが 日常生活に支障はなく 防災まちづくりや個別に改修する動機はない この課題は残念ながら全国的に課題のままである 特に密集市街地や災害の危険性が高いなどの課題を抱えた地域では 住民と市や企業の話し合いによるまちづくり活動を普段から行っていることが 災害等のいざという時に 共助 救助活動や復興の合意形成が早く進むことが この阪神 淡路大震災の経験からみてとれる 4 応急仮設住宅と地方分権仮設住宅の建設は災害救助法に基づき厚労省が所管であるが 施行者は都道府県でありその支援を建設省が行った ここで 国交省所管の公営住宅は都道府県営と市町村営があるのに対し 応急仮設住宅はすべて都道府県施行であることに注意が必要であろう 当時 神戸市など自前で仮設住宅を造れる市は県がなぜ施行するのか疑問に思っていた 地方分権の現在 制度設計をするなら景観法や建築基準法と同様に 市町村が行うことは可能だが市町村がしない場合は都道府県が行う という行政執行に穴が出来ない体制があり得るだろう しかし 応急仮設住宅の様に常にあるわけでない行政の場合は 広域に責任を持つ都道府県の方が 過去の経験からいざという際の迅速な対応が可能である 避難所 仮設住宅 復興住宅という救助から復興への生活再建の仕組みが 食料も支援する避難所から 家賃は無料だがそれ以外の生活費 ( 食料 電気ガス水道 ) は個人負担の仮設住宅 次に減額はあるが家賃を支払う復興住宅 ( 多くは公営住宅 ) へと自立を促すようにできていることを実感した 災害多発国日本の知恵のひとつといえる なお災害救助法は同様に生活再建を図るための生活保護法がベースになっている
5 経済復興とまちづくり阪神 淡路大震災では インフラ復興 3 年 住宅復興 5 年 人口の回復 10 年であった これは数ヶ月で復興した電気 ガスを始め上下水道 鉄道 港湾施設や高速道路まで社会基盤の復興が約 3 年で終了し 復興公営住宅の建設と仮設住宅の解消が約 5 年かかったのに対し 神戸市の人口が震災前に戻るのに約 10 年かかったことによる 住宅や経済活動は 時限的な公的融資や税制の優遇措置があっても 民間の割合が高いため政府の計画通りには進みにくい 1995 年頃は円高やバブル崩壊による企業の海外進出や業界再編が行われていたこともあるが 神戸市で震災により約 10 万人減った人口が元に戻ったのが 2005 年である 震災直後には神戸に工場を持っていた企業が 工場施設が震災で倒壊したり神戸港が使えなかったりしたため 首都圏や海外に移転した その移転跡地の一部は復興住宅用地や新たな公共施設用地として 復興まちづくりの拠点地区として使うことができた しかし 神戸市の従業者数や事業所数は 関西経済の低迷もあり現在も震災前を下回っている 経済政策分野でも神戸市や阪神間の市では 震災以前から全国でも先進的な取り組みが行われてきた 神戸市株式会社とも言われた 六甲山北側にニュータウンを作りその掘削土でポートアイランドや六甲アイランドなど人工島を作るという施策やまちづくり協議会方式なども神戸市が始めたものである 市に経験があったため大震災からの復興が順調に進んだともいえよう ただし 今回の復興に当たって 兵庫県が先導的に果たした役割も大きく 市町村間の調整の他 復興拠点の整備や国際的な情報発信 国内の他の自治体の支援まで 精力的に大震災の教訓を生かしている 6 社会復興とまちづくり物的復興や経済復興の陰に隠れがちだが社会面も重要である 1995 年は ボランティア元年 といわれ 1998 年に NPO 法が制定されたのも阪神 淡路大震災時のボランティア活動がもとになった それまでも市民団体による無償の支援活動はあったが 阪神 淡路大震災では個人レベルでも 避難所の運営や炊き出しなどにボランティアとして活動する人が多く出た そしてそのような自主的な活動を組織的に支えるために制度も作られた また この他社会的な側面では 防災教育 災害文化 語り継ぎ や 国際防災 などのキーワードがあるが 阪神 淡路大震災では心のケアが新たな社会的課題となった この経験は 2004 年のスマトラ沖地震などでも役に立ち なぜ自分が生き残ったのか という心理状態に陥る人々を支援することができた 兵庫県は こころのケアセンター を設立し PTSD やトラウマケアの研究研修を全国に先駆けて行っている 阪神 淡路大震災が契機となった社会的取り組みはこのほかにも 仮設住宅や復興住宅での孤独死を防ぐことや人と防災未来センター等を通じて大震災を子供たちや全国の防災関係者に伝えることなど様々な取り組みが行われている
被災地の復興にあたり 自助 共助 公助に加え 外からの支援にも感謝しつつ 将来 の世代がしあわせになることを目標にし 関係者がよく話し合うことは防災に限らずあら ゆるまちづくり 地域づくりに共通することである 7 耐震基準とまちづくり阪神 淡路大震災では 都市構造物にこれまで経験しなかった被害が数多く見られた 特に阪神高速道路の倒壊は土木構造物の耐震基準の見直しと全国の高速道路や橋脚の耐震補強につながった 鉄道や地下鉄の構造物にも被害が生じたが 早朝だったことから幸い人的被害は少なかった 神戸市役所や三宮周辺の古い事務所ビルで層崩壊した建物も多かったが 地震時には人はいなかった 死者の8 割以上は老朽住宅の倒壊が原因であった 地震発生が冬の早朝だったのでほとんどの住民が自宅で寝ており 倒壊した家屋による圧迫や窒息で亡くなった方が大部分である 一方 1981 年の新耐震基準に合致した建築物には 震度 7の揺れがあった地域でもほとんど被害は見られなかった ここでの教訓は 震度 7でも人命を守る対策を全分野で講じておくことと すでに建設されている構造物については震度 7でも人命を守れるようなレベルに改修 補強することであろう 建築物は民間が所有者である割合が高いため 耐震改修促進法 が 1995 年に制定された この時期はバブル崩壊後の景気対策も兼ねて公共施設については数次の補正予算で耐震改修が進められた なお 建築基準法はこの震災後も耐震基準の基本的な水準を変えなかった 新耐震基準設定後は基準強化に伴って既存建築物の耐震診断と必要な場合の耐震改修が行われたが 1981 年以降建設のものは神戸で経験した地震に耐えられると当時判断をした 建築基準法は 最低基準 を定めるものであり 過剰投資とならない水準に設定されているので より高い安全性を必要とする施設では免震や制震などの新技術も活用して 物的被害も防ぐことが必要である また ソフトについて言えば いざ建物が倒壊しても大震災時には公的機関による救助はあまり期待できないので 自らまたは隣近所で助け合い 救助活動をする ことが教訓であろう 非常に厳しいが阪神 淡路大震災以降 様々な場で コミュニティ防災 と言われている背景である 8 阪神 淡路と東日本大震災との比較以上 阪神 淡路大震災からの教訓を自分なりにまとめてみた まだ復興の初期ではあるが 2011 年 3 月 11 日の東日本大震災と比較してみたい 特に阪神 淡路大震災との相違点は 1 震災は広域にわたったが 致命的な災害は津波によるもので 人的経済的被害は浸水地域に集中していること 2 原子力災害の発生や複数の県にわたることもあり 国の役割が大きいこと 3 国も地方も財政が 1995 年より悪化しており 財政出動が容易ではないこと 4 被災地の多くは高齢化が進み活性化が必要な地域であり 地域の将来展望を
描きにくい地域であったこと 5 都市地域もあるが ほとんどが農林漁業を主な産業とす る地域であるといった点がある ( 阪神 淡路大震災でも淡路島は都市型でなかったが ) と はいえ 阪神 淡路大震災の経験が全く通用しないわけでない ( 参考文献等 ) 阪神 淡路大震災教訓集人と防災未来センター (DRI) 2008 復興まちづくりの評価手法に関する共同研究(UNCRD) 他 2009 BRI, (2011), Report of 2011 off the Pacific coast of Tohoku Earthquake, 写真等 内閣府 (2011). 中央防災会議専門調査会報告 2011 年 9 月 28 日, 同参考図集 警察庁(2011). 平成 23 年東北地方太平洋沖地震の被害状況と警察措置 2011 年 12 月 国土交通省国土地理院 (2011). 津波浸水域の土地利用別面積について 2011 年 3 月 国土交通省(2011). 津波防災まちづくりの考え方 2011 年 7 月 国土交通省住宅局 (2012). 応急仮設住宅着工 完成状況 2012 年 4 月