行為のデザインとしてのゲーム ゲームと遊びを再定義する 松永伸司東京芸術大学 京都ゲームカンファレンス 2014 年 3 月 8 日
自己紹介 東京芸術大学美術研究科博士課程 美学と芸術の哲学を専攻している ビデオゲームを哲学的観点から研究している とくにビデオゲームにおける意味作用 たとえばゲームメカニクスと表象ないし物語の相互関係などに焦点をあわせている
導入 ゲームが本質的に行為に関わっているのは明らか しかし 意外にも 行為の観点からゲームを定義する試みはない 私の考えでは ゲームの本質的特徴は (1) ゲームを行為のデザインの一種として捉えたうえで (2) ゲームを他の種類の行為のデザインから区別するものを探ることによって明らかになる
行為のデザインとはなにか ゲームをデザインするとは 既存の行為を制約するか 新しい行為を作り出すかのいずれかである (J. Searle の 統制的規則 構成的規則 の考えによる ) 建築物は 行為を物理的に制約する 規範や法律は 行為を精神的に制約する 道具や機械は 新しい物理的行為をすることを可能にする 社会制度や儀式は 新しい社会的行為を定義し そのことによって その行為を作り出す もちろん ゲームはこれらぜんぶである
行為はどのようにデザインされるか おおざっぱに言えば 行為は以下の要素からなる (1) 行為の目的 (2) その目的に対する可能な手段の集合 (3) その手段についての行為者の理解 行為をのデザインは これらのいくつかあるいはすべてを人為的に作り上げたり操作したりすることによって可能になる
ゲームに固有な特徴はなにか ゲームを他の種類の行為のデザインから区別する特徴はなにか How 説ゲームが他の種類と異なるのは それがどのようなしかたで ( なにによって ) 行為をデザインするのか という点においてである What 説ゲームが他の種類と異なるのは それがどのような種類の行為を生み出すかという点においてである
HOW 説 How 説は以下のようなもの ゲームはルールにもとづいて行為をデザインする 目標と手段が厳密に定義されている 行為の結果が量化可能である ゲームはその結果として勝ち負けを持つ しかし how 説はまったく不十分 というのも ゲーム以外のもの ( 株取引 試験 裁判等々 ) もまた これらの特徴を持つから
WHAT 説 What 説は ゲームが作り出すのはどんな種類の行為なのか と問うもの この問いに対する非常に単純だがもっともな答えは次のようなもの それは遊びという行為 あるいは少なくともゲーム遊びという行為である
外在的 vs 内在的 とはいえ 遊び あるいは ゲーム遊び とはなにか 外在的アプローチは 遊びを それとは異なるものとの関係において定義する 内的アプローチは 遊びを それ自身の性質の観点から定義する 両者は相互に排他的ではない 実際 多くの理論は 両者を組み合わせて遊びやゲームを定義している
外在的アプローチ : 現実からの分離 古典的定義は ゲームや遊びに固有のものとして以下の特徴を強調してきた すなわち 現実からの あるいは日常的関心からの分離である 無関心性 (J. Huizinga) 非生産的 (R. Caillois) 安全性 (Ch. Crawford) マジックサークル (Salen & Zimmerman) 交渉可能な帰結 (J. Juul)
なんでそれするの? 哲学者の G. E. M. Anscombe によれば 一般に行為は以下のようなもの なんのためにそれするの? と聞かれた場合 それをする理由を答えられるもの 日常的な行為の場合 そのような問いと答えをどんどん続けていくと 最終的にそれ自体が望ましさの特徴づけになるような理由に到達する (Anscombe, Intention, 37)
日常的行為における なんで ツリー 望ましい 望ましい 仕事したい お金ほしい 生活に必要だし あの服もほしいから ナンデ かわいいからね! ナンデ ナンデ
ゲーム遊びにおける なんで ツリー 最終面いくためでしょ ナンデ キノコないとこの面こすのつらい ナンデ 姫助けたいし それがこのゲームの目的でしょ! キノコとりたい ナンデ 望ましいわけではない
望ましさのテスト テスト 1 このボタンを押したらあの服がもらえます 押しますか? テスト 2 このボタンを押したらゲームをクリアできます 押しますか?
いうても 面白いからでしょ! たしかにこれは望ましさの特徴づけではある しかし それはゲーム遊びの行為 ( たとえば キノコをとる ) をする理由ではない それは そのゲームに参加する ( つまり そのゲームを始める あるいは続ける ) ことの理由である
自己目的的行為としての遊び というわけで 外在的アプローチは以下を示唆する ゲーム遊びの行為は その目的ではなく手段が望ましいものである ゲームの目標は たんにその手段をもたらすためだけのもの いわば その目的が手段であり その手段が目的である 哲学者の Bernard Suits は この特徴を 自己目的的 と呼ぶ.
内在的アプローチ ゲーム遊び行為が持つどんな性質が望ましいものあるいは自己目的的なものなのか もっともな答え : 気持ちいい行為 没入を伴う行為 ( フロー ) 挑戦的な状況における行為 学習のプロセスの部分としての行為
私の提案 遊びとは 自己目的的かつ美的な行為である 美的行為 という概念は 美的判断 という概念のアナロジー 美的判断 ( それは美しい 優美だ バランスがいい けばい 等々 ) は 繊細さ ( センス ) の行使を必要とする判断 (F. Sibley) 美的判断におけるセンスは受動的 しかし 能動的なセンスもあるのでは?
行為において要求されるセンス 身体的センスなにをすべきかわかっている場合でも それをするために身体的行動のセンスが要求されることがしばしばある たとえば スポーツとかアクションゲーム等々において 決断のセンス与えられた目的の手段としてなにをすべきかを決めるときに しばしば思考と決断のセンスが必要になる たとえば パズルゲームや戦略ゲーム等々において
事例 : 過激な身体的センス Maverick Bird みたいな激むずアクションゲーム as Maverick Bird
事例 : 決断のセンス ほとんどの戦略ゲームや Rogue とかその子孫のような戦略指向の RPG
事例 : 身体センスがあれば戦略はいらない Hotline Miami
事例 : 洗練された組み合わせ Portal, Braid, Limbo といったアクション指向のパズルゲーム
事例 : カジュアルなセンス Angry Birds はぬるいセンスしか必要ないが 印象深いゲームプレイを提供する
美的行為の作りかた? これは超難問 思うに : 美的行為を作るための方法を一般化することはできない 美的性質を作る方法が一般化できないのと同じように できることは それを構想し 作り テストし そしてチューニングすることだけではないか
結論 ゲームとは 自己目的的かつ美的な ( センスを要求する ) 行為を作り出す ( よう意図されている ) 事物である
ありがとう! 私の主張の要約 ゲームは行為のデザインの一種である How 説は ゲームを それがどのようなしかたで行為をデザインするかという点で定義する What 説は ゲームを それがどんな行為を作り出すのかという点で定義する What 説は 外在的アプローチと内在的アプローチに分かれる ゲームは自己目的的かつ美的な行為のデザインである Email matsunagashinji@gmail.com Twitter @zmzizm