正 義 と 平 和 協 議 会 第 九 回 公 開 講 演 会 正 義 を 行 い 慈 しみを 愛 し へりくだって 神 と 共 に 歩 む 2007 年 1 月 13 日 ( 土 ) 目 白 聖 公 会 司 祭 香 山 洋 人 なに しゅ み ま え で 6 何 をもって わたしは 主 の 御 前 に 出 で たか かみ いと 高 き 神 にぬかずくべきか や つ ささ もの 焼 き 尽 くす 献 げ 物 として とうさい こ う し み ま え で 当 歳 の 子 牛 をもって 御 前 に 出 るべきか しゅ よろこ 7 主 は 喜 ばれるだろうか いくせん お ひつじ いくまん あぶら なが 幾 千 の 雄 羊 幾 万 の 油 の 流 れを とが つぐな ちょうし わが 咎 を 償 うために 長 子 を じ ぶ ん つみ たい み 自 分 の 罪 のために 胎 の 実 をささげるべきか ひと なに ぜん 8 人 よ 何 が 善 であり しゅ なに まえ もと 主 が 何 をお 前 に 求 めておられるかは まえ つ お 前 に 告 げられている せ い ぎ おこな いつく あい 正 義 を 行 い 慈 しみを 愛 し かみ とも あゆ へりくだって 神 と 共 に 歩 むこと これである (ミカ 書 6 章 6~8 節 新 共 同 訳 ) 0 はじめに 2005 年 6 月 聖 公 会 神 学 院 を 会 場 に 東 京 教 区 正 義 と 平 和 協 議 会 の 一 日 研 修 が 行 われた その 時 の 資 料 の 末 尾 に 正 義 と 平 和 協 議 会 の 姿 勢 について という 拙 文 を 付 した 今 回 それを 読 み 直 したが 再 読 に 耐 えない 内 容 に 意 気 消 沈 したものの 今 日 ここでお 話 すべき 内 容 はほとんどそこ に 書 かれている 気 がする また 世 界 の 聖 公 会 が 何 を 大 切 にする 教 会 なのか そして 日 本 聖 公 会 は 東 京 教 区 は 何 を 大 切 にする 教 会 なのか 正 義 平 和 人 権 などをキーワードとした 諸 文 書 を 調 べる ことで 浮 かび 上 がらせたいというあの 時 の 作 業 についても さらに 時 間 をかけて 完 成 させる 必 要 が あるとはいえ 18 ヶ 月 後 の 今 全 く 新 しい 何 かが 浮 かんでくるわけではなかった そこで 今 回 は ドナル ドールの 霊 性 と 正 義 という 本 を 軸 にミカ 書 6 章 のみ 言 葉 を 黙 想 しな がら 正 義 について 学 びなおしてみようと 思 う 実 はこの 作 業 も 2000 年 に 行 われた 祈 りの 花 束 (ナザレ 修 女 会 )の 黙 想 を 下 敷 きに 発 展 させてみたにすぎない Ⅰ.キリスト 者 にとっての 正 義 平 和 とは 正 義 という 言 葉 には 抵 抗 がある という 人 は 少 なくない 最 も 正 しい 戦 争 よりも 最 も 不 正 な 平 和 を とはローマの 哲 学 者 キケロの 言 葉 だそうだが 大 東 亜 共 栄 圏 の 新 たな 構 築 へと 向 かう 社 会 に 暮 らしながらアメリカのイラク 攻 撃 を 目 の 当 たりにした 我 々には 説 得 力 のある 言 葉 かもしれな い だから 正 義 などという 唯 一 の 基 準 は 支 配 者 の 言 語 であって 押 し 付 けがましく 暴 力 的 だと 1
いう 批 判 が 可 能 だ こういう 相 対 主 義 はわからなくもない いわゆる 人 権 外 交 にしても 実 は 自 国 の 利 益 を 主 張 しているのに 正 義 の 見 方 顔 をして 悪 を 懲 らしめているようで こうした 現 実 を 知 れば 知 るほど 正 義 とか 人 権 という 言 葉 には 嫌 気 が 差 してくる しかしこれは 逃 げだと 思 う もはや 普 遍 的 なものなどないというポストモダン 的 な 立 場 は 政 治 的 理 念 や 宗 教 などの 大 きな 物 語 を 拒 んで ローカルな 価 値 個 々の 物 語 を 大 事 にしようとしたのだが これでは 結 局 アメリカのよ うな 擬 似 帝 国 や 巨 大 資 本 の 力 には 対 抗 できないのではないだろうか それが 逃 げであるだけならい いが それはもう 一 つの 力 への 意 思 である という 批 判 は 傾 聴 の 価 値 がある 法 哲 学 者 井 上 達 夫 は 普 遍 の 再 生 ( 岩 波 書 店 2003 年 )の 中 で 普 遍 性 や 正 義 を 否 定 する 脱 構 築 に 疲 弊 し 結 局 は 天 皇 の 戦 争 責 任 を 不 問 に 付 し アメリカの 覇 権 主 義 の 前 に 敗 北 していく 知 識 人 たちの 姿 を 批 判 し もう 一 つの 覇 権 主 義 に 発 展 しかねないこうした 脱 普 遍 主 義 に 代 わって 内 発 的 普 遍 主 義 を 唱 えている 今 回 正 義 の 問 題 を 正 面 から 扱 った 著 作 としてすでに 古 典 的 評 価 を 得 ている 共 生 の 作 法 ( 創 文 社 1986 年 )の 再 読 も 試 みたが 井 上 の 法 哲 学 的 議 論 はあまりに 難 解 で 十 分 理 解 して いるとはいいがたい しかし 生 半 可 な 了 解 であることを 恐 れずにいえば 現 代 世 界 は 正 義 平 和 人 権 といった 普 遍 的 概 念 を 放 棄 することで 結 局 は 地 域 的 平 和 の 世 界 化 一 極 覇 権 主 義 を 容 認 し てきた 今 こそ 国 家 を 相 対 化 し 覇 権 主 義 を 抑 制 し かつ 多 元 性 を 担 保 する 新 たな 普 遍 主 義 的 価 値 が 必 要 であり それは 可 能 だと 井 上 はいっている と 思 う 国 際 的 資 本 の 発 達 によって 世 界 はひとつの 市 場 ひとつの 地 域 となった いわゆるグローバル 化 の 到 来 だ しかし 旧 約 聖 書 時 代 の 中 近 東 諸 国 家 の 関 係 に あるいは 古 代 ローマ 帝 国 のあり 方 にす でにグローバル 化 とその 中 で 生 きるための 知 恵 が 先 取 りされていた という 理 解 があるらしい 初 期 のキリスト 教 が 地 中 海 世 界 に 広 がっていく 過 程 が まさにローマ 帝 国 によって 完 成 されていた 越 境 の 原 理 に 便 乗 したプロセス グローバル 化 のプロセスであった 境 界 があるところには 他 者 が 存 在 する 他 者 よそ 者 客 人 マレビト これらの 人 々は 自 分 たちの 伝 統 や 文 化 とは 異 なっ た 価 値 観 で 生 きる 人 々だ 人 間 はこれらの 人 々に 対 して 敬 して 遠 ざけるか 差 別 して 排 除 するか あるいは 共 生 して 新 たな 伝 統 と 文 化 を 創 造 するか いずれかの 態 度 を 迫 られてきた 周 囲 にどのよ うな 圧 力 があったにせよ 初 代 教 会 は 脱 イスラエルの 道 を 選 択 することで イエス=キリスト 告 白 という 唯 一 の 価 値 を 頼 りに 他 者 との 関 係 を 積 極 的 に 受 け 止 めて 共 生 を 実 現 する 新 しい 価 値 すなわ ち 神 の 国 の 実 現 という 壮 大 な 実 験 を 開 始 した 共 生 のために 必 要 なもの それは 地 域 的 な 伝 統 や 文 化 に 裏 打 ちされた 狭 い 価 値 観 ではなく 誰 に でも 共 感 できる 原 則 普 遍 的 なルールだ 帝 国 は 軍 事 力 や 経 済 力 を 背 景 にして 地 域 的 な 価 値 を 普 遍 化 しようとする しかし 真 の 共 生 は 特 定 の 伝 統 や 文 化 によってではなく 誰 にでも 共 感 できる 価 値 によるネットワークの 構 築 であり そこで 想 定 される 普 遍 的 概 念 が 正 義 の 概 念 だ 帝 国 は 自 らの 価 値 の 実 現 を 正 義 と 呼 び 帝 国 への 服 従 を 幸 福 と 呼 ぶ しかし 神 の 国 はそうした 帝 国 的 正 義 の 概 念 を 転 覆 する ある 意 味 で 正 義 とはグローバル 化 した 世 界 における 最 低 限 の 共 通 理 解 グローバル ミニマムと いえるかもしれない そして 平 和 とは そのような 正 義 が 実 現 し 人 々の 尊 厳 が 最 大 限 尊 重 されてい る 状 態 グローバル ミニマムが 保 たれている 状 態 を 指 している しかし すべての 人 が 納 得 でき る 状 態 としての 平 和 は ヘブライ 語 シャロームの 語 源 とは 反 するが 完 全 な 状 態 ではありえ ない 帝 国 の 作 り 出 す 平 和 は 弱 者 の 忍 耐 を 要 求 する しかし 神 の 国 の 使 信 がもたらす 平 和 はすべて の 人 ことに 力 ある 人 々に 一 定 の 忍 耐 を 要 求 するはずだ 平 和 のために 忍 耐 すること 他 者 との 共 生 のために 自 分 の 欲 求 を 制 限 することは 自 己 犠 牲 であって 欲 望 のままに 生 きるわがままな 人 間 2
利 己 的 な 人 間 にとって これはとうてい 耐 えられない 状 態 といえるだろう 正 義 の 理 念 に 忠 実 であり 平 和 を 維 持 するための 自 己 犠 牲 を 受 け 入 れるために 人 間 には 一 定 の 成 熟 度 が 求 められている しかし そのように 成 熟 した 人 間 になることは 不 可 能 なほど 困 難 だ 正 義 とは 実 にやっかいな 言 葉 だ 人 間 はそれぞれ 全 く 異 なった 物 語 の 中 を 生 きているし 一 つ 一 つの 物 語 に 誠 実 であろうとすればするほど こちらを 立 てればあちらが 立 たない という 現 実 の 前 で 我 々は 立 ち 往 生 してしまう 特 に 力 のある 者 たちは 自 分 の 得 ている 特 権 を 行 使 するために 忍 耐 し ない 権 利 自 分 の 主 張 を 通 す 権 利 を 行 使 したくなる だから 正 義 のための 自 己 犠 牲 忍 耐 を 引 き 受 け 続 けることは 容 易 ではない これは 実 に 容 易 ではない ということを 我 々は 肝 に 銘 じておく 必 要 がある 神 の 国 の 使 信 に 基 づく 正 義 と 平 和 は 自 分 の 弱 さを 認 めつつ 他 者 との 共 存 のために 忍 耐 することを 含 んでいる これは 自 己 犠 牲 であり 十 字 架 を 甘 受 することであり 復 活 にのみ 希 望 を 託 すような 営 みだ このことに 無 頓 着 な 人 間 が 軽 々と 語 り 行 動 する 正 義 のことを 我 々は 安 価 な 正 義 と 呼 ぶことにしよう それはまやかしの 正 義 であり 実 現 しても 平 和 をもたらさない 正 義 だ 人 間 ならではの 現 実 ともいえる 葛 藤 や 緊 張 を 軽 く 見 た 安 価 な 正 義 は 常 に 存 在 してきた しか しもう 一 つのやっかいな 正 義 は 権 力 が 主 張 する 偽 装 された 正 義 だ 王 皇 帝 帝 王 天 皇 将 軍 などといった 存 在 が 発 揮 しようとした 現 実 の 政 治 的 権 力 の 試 みは みな 正 義 に 基 づいていた が それら 偽 装 された 正 義 によって 真 の 平 和 が 実 現 されることはなかった そこで 生 み 出 され た 平 和 はローカルな 平 和 (pax romana)でありグローバルなものではなかった そして 我 々にとっ ての 問 題 は 神 の 名 による 正 義 も 多 くの 場 合 安 価 なそして 偽 装 された 正 義 であり それらは 決 して 平 和 をもたらさないということだ 正 義 は 異 質 な 他 者 との 出 会 いを 繰 り 返 してきた 人 間 が 普 遍 的 に 共 有 可 能 な 理 想 として 追 求 されてきた しかし 人 間 の 歴 史 において 宗 教 がはたして 来 た 役 割 は 正 義 の 追 求 に 関 しては 残 念 ながら 否 定 的 なものだった 時 に 宗 教 は 正 義 に 反 し 人 権 を 蹂 躙 し 平 和 を 破 壊 してきた 宗 教 は 地 域 的 境 界 が 無 くなりつつある 世 界 にあって 地 域 を 越 えた 新 たな 境 界 を 作 り 出 し 維 持 することができる 最 後 の 大 きな 物 語 のひとつだ これらの 中 でキリスト 教 が 作 り 出 した 境 界 の 役 割 は 大 きく その 責 任 は 重 い このことを 自 覚 しない 限 り キリスト 教 はいつ までも 自 己 満 足 的 な 安 価 な 正 義 を 再 生 産 し 続 けてしまうはずだ それは 説 得 力 がないばかりで なく 実 に 有 害 だ しかしグローバル 化 した 状 況 の 中 で 他 者 と 共 に 生 きる 道 を 選 択 しないこと は 不 可 能 だ 我 々はすでに 他 者 と 共 に 生 きている それを 自 覚 してもしなくても Ⅱ. 霊 性 (spirituality)をめぐって 正 義 と 平 和 はキリスト 教 だけの 主 張 ではない むしろ 宗 教 的 信 念 は 正 義 の 実 現 と 平 和 の 維 持 を 妨 げる 境 界 を 生 み 出 しかねない 危 険 性 を 持 っている もともと 信 仰 は 目 に 見 えない 何 かだが それ が 生 み 出 す 伝 統 や 習 慣 は 目 に 見 えるものとして 人 々の 生 活 に 影 響 を 及 ぼしているし キリスト 教 も 地 域 ごとに 独 自 のスタイルを 生 み 出 している 目 に 見 えない 信 仰 が いつの 間 にか 目 に 見 えない コード(code 暗 号 規 則 ) と 化 して 巨 大 な 境 界 を 生 み 出 し 他 者 を 排 除 する そのコードは 仲 間 内 の 結 束 を 生 み 出 すと 同 時 によそ 者 を 峻 別 する 暗 号 と 化 す メンバー 同 士 ではもはや 説 明 を 必 要 と しない 伝 統 や 慣 習 は 目 に 見 えない 暗 号 のようなものだ しかし 境 界 が 無 く 誰 でも 参 加 可 能 な 世 界 の 原 則 は どうすればいいのか という 方 法 が 常 に 公 開 されているということにある その 方 法 を 理 解 し 受 け 入 れることができれば 誰 でも 参 加 可 能 になる 世 界 本 来 キリスト 教 はそうした 場 暗 3
号 ( 因 習 )のない 世 界 を 目 指 していたはずだった しかし 結 果 としてキリスト 教 によって 形 成 さ れた 教 会 は 目 に 見 えないコードに 支 配 された 閉 ざされた 社 会 無 形 の 伝 統 や 因 習 に 縛 られ た 地 域 社 会 だった これらはすべて 人 間 の 弱 さによって 作 られた 歴 史 であり 現 実 だ だから 我 々はそれをただ 批 判 し て 見 せるのではなく こうした 現 実 を 認 定 し 行 き 詰 まりを 実 感 したうえで そこから 突 破 するこ とに 意 を 注 ごう ここでは そうした 行 き 詰 まりから 解 き 放 たれるための 力 脱 出 するエネルギー の 源 を 自 らの 中 に 持 とうとする 営 みの 総 体 を 霊 性 spirituality という 言 葉 で 表 現 してみたい 1 悪 しき 霊 性 主 義 Spiritualism ここではペルーのカトリック 神 学 者 解 放 の 神 学 の 提 唱 者 として 有 名 なグスタボ グティエレ スを 参 考 にしながら 霊 性 とは 何 かについて 学 んでみたい Well,25-28 キリスト 教 の 霊 性 の 中 世 的 伝 統 は 修 道 生 活 を 模 範 として 形 成 されてきた そのため 真 の 霊 的 生 活 は 特 別 な 環 境 の 中 で しかも 専 門 家 ( 修 道 者 )によってのみ 可 能 であり 信 徒 の 霊 性 もこれを 理 想 として 語 られることとなる このような 修 道 院 的 霊 性 の 特 徴 は fuga mundi( 世 からの 逃 避 ) であり 言 い 換 えれば エリート 主 義 でもある 福 音 書 に 登 場 する 信 仰 厚 き 人 々( 律 法 学 者 フ ァリサイ 派 )も 律 法 遵 守 が 可 能 な 環 境 に 生 きるエリートたちだった しかし 初 期 修 道 院 運 動 の 霊 性 のキーワードは 殉 教 だったという キリスト 教 が 権 力 機 構 化 する 以 前 修 道 生 活 とは 終 末 に 備 える 生 き 方 の 模 範 であり それは 同 時 に 常 に 殉 教 に 備 えるライフスタイルを 意 味 していた 個 人 的 な 霊 性 志 向 は 内 的 生 活 といわれ そこでは 個 人 の 意 向 意 図 が 重 視 され 行 動 に ついては それがもたらす 結 果 や 効 果 ではなく 意 図 によって 評 価 された グティエレスはこう した 傾 向 を 悪 しき 霊 性 主 義 と 呼 ぶ それは 聖 書 の 持 つ 社 会 的 歴 史 的 意 味 合 いを 内 面 化 す るフィルターとなってしまう このフィルターを 通 すことで たとえば 金 持 ちとラザロの 物 語 (ルカによる 福 音 書 16 章 19 節 以 下 )は 富 める 者 と 貧 しい 者 の 物 語 ではなく おごれる 者 と 謙 遜 な 者 の 関 係 に 転 化 されてしまう ここでは 謙 遜 な 金 持 ち も おごれる 貧 者 も 可 能 とな る エリート 主 義 や 個 人 主 義 と 結 びついた 霊 性 は 現 実 からの 逃 避 出 来 事 の 抽 象 化 を 促 進 させる ここからは イエスに 従 う という 命 題 は 内 面 化 され 抽 象 化 される この 霊 性 からは 連 帯 協 働 と いった 共 同 体 としての 解 放 への 取 り 組 みは 生 まれてこない 2 分 裂 した 霊 性 本 来 修 道 院 的 霊 的 生 活 は 祈 りと 活 動 の 合 一 を 生 み 出 してきたはずだ 祈 るように 働 き 働 く ように 祈 る という 理 想 像 は 現 代 に 継 承 される 修 道 院 運 動 が 生 み 出 した 精 華 だ 6 世 紀 ヌルシア のベネディクトゥスは 自 らの 共 同 体 運 動 の 発 足 に 際 し 清 貧 従 順 貞 潔 を 誓 う 戒 律 を 作 り ora et labora( 祈 り 働 け)をモットーにモンテカッシーノに 最 初 の 修 道 会 を 設 立 した しかしキリス ト 者 の 生 活 においては いわゆる 霊 的 生 活 と 社 会 奉 仕 祈 りと 活 動 は 二 つの 極 をなしている ora et labora はエリート 的 霊 性 個 人 的 霊 性 によってしか 実 践 不 可 能 なのだろうか 他 者 は 私 たちが 神 に 到 達 するための 道 であるが 神 との 関 係 は 他 者 と 出 会 い 真 の 交 わりを 持 つための 前 提 条 件 である Well,172 グティエレスはこのようにいうことで キリスト 教 信 仰 における 隣 人 と 神 の 不 可 分 性 を 述 べている 同 時 に 彼 は 隣 人 は 神 とより 近 いものとなるための 一 つの 機 会 道 具 ではない ~ 人 間 を 目 的 とした 人 間 の 愛 こそが キリストと 真 に 出 会 う 唯 一 の 道 で 4
ある TL,208 とも 述 べている キリスト 者 にとって 神 への 到 達 が 目 標 ではないし キリスト 抜 きの 人 間 愛 も 不 可 能 だ とグティエレスは 語 る 我 々はどちらか 一 方 を 選 ぶことはできない 神 を 愛 することが 隣 人 を 愛 することであり 隣 人 を 愛 することが 神 を 愛 すること これがペルーのリマ でスラムの 青 年 たちとともに 生 きてきたカトリック 司 祭 グティエレスが 到 達 したキリスト 教 の 霊 性 の 原 則 だ 確 かにマタイ 福 音 書 25 章 の 諸 国 民 への 裁 き はこのことをいっている しかしここで 誤 解 して はならないのは キリスト 者 は 神 に 奉 仕 するため 便 宜 的 に 最 も 小 さいものの 一 人 に 仕 えるの ではないということだ 隣 人 は 神 に 近 づくための 手 段 道 具 ではない また 神 は 我 々が 行 う 最 も 小 さいもの への 善 行 に 対 するご 褒 美 として それを 神 ご 自 身 への 奉 仕 として 換 算 してやろ うというのではない 最 も 小 さいものの 一 人 とは 神 ご 自 身 であり この 神 の 他 に 我 々が 仕 えるべ き 神 はいない これを 兄 弟 のサクラメント と 呼 んだ 神 学 者 がいるが(イヴ コンガール) カト リック 神 学 において 聖 別 されたパンがキリストの 身 体 それ 自 体 であるように 貧 しい 隣 人 はキリス ト 自 身 だという もちろん 宗 教 と 無 縁 の 人 々にとって 人 間 愛 の 前 提 に 神 は 無 用 だ だから 最 も 小 さいものの 一 人 に 奉 仕 をすることは ただそれだけですばらしいことであり それは 信 仰 の 有 無 に 関 わらず 誰 もがなすべき 普 遍 的 価 値 だといえるだろう にも 関 わらずキリスト 者 は それが 神 ご 自 身 への 奉 仕 であるというメッセージを 無 視 できない たしかに キリスト 抜 きの 人 間 愛 は 不 可 能 だ という 主 張 はキリスト 教 信 仰 から 発 せられた 信 仰 告 白 であり キリスト 者 の 霊 性 の 根 底 に 関 わる 問 題 だ も し 我 々が 神 との 関 係 抜 きで 最 も 小 さいものの 一 人 への 奉 仕 を 実 践 したいと 願 うなら それは 自 ら 信 仰 を 内 面 化 し 抽 象 化 した 悪 しき 霊 性 主 義 になってしまうことになる 正 義 の 実 践 は 誰 もがなすべき 普 遍 的 な 行 為 であり 信 仰 があるから 正 義 の 実 践 ができるのではな い ただ 我 々は 隣 人 との 関 係 を 神 抜 きには 考 えられない 信 仰 にすでに 入 っている だから 我 々は もっとも 小 さなものの 一 人 との 出 会 いを 神 との 関 係 抜 きには 受 け 止 められないのだ 神 を 抜 きに 語 れば 我 々も 人 間 愛 だけを 中 心 とした 真 円 形 の 正 義 愛 平 和 を 語 りうるだろうし 逆 に 神 だけを 中 心 とした 純 粋 な 信 仰 を 語 りうるかもしれない しかし 我 々は 神 と 人 間 という 二 つの 中 心 を 備 えた 楕 円 を 真 理 とし どちらをも 無 視 しないこと それらは 分 かちがたく 一 体 であり しかし 決 し て 混 同 されはしないのだと 力 説 してきたはずだ こうした 緊 張 関 係 を 放 棄 した 正 義 とか 愛 とか そ こから 生 み 出 される 平 和 は 真 実 ではない と 私 たちは 信 じているはずだ 普 遍 的 概 念 としての 正 義 は 同 時 に 公 平 さを 意 味 している しかし 神 の 国 の 使 信 としての 正 義 は 我 々が 期 待 する 公 正 さではなく 貧 しいもののために 実 現 される 公 正 さだ これは 機 会 の 平 等 ではなく 結 果 の 平 等 といってもいいだろう 富 める 人 が 空 腹 のまま 追 い 返 されないかぎり 飢 えた 人 がよいもので 満 たされることはない(ルカによる 福 音 書 1 章 53 節 ) 3 統 一 された 霊 性 霊 性 とは 厳 密 な 根 本 的 意 味 としては 霊 の 支 配 のことである ~(また) 霊 性 に 導 かれた ある 具 体 的 な 福 音 を 生 きる 道 である 主 の 前 で 全 ての 人 と 連 帯 して 主 と 共 に 人 々の 前 で 決 然 と 生 きることである そ れは 強 烈 な 霊 的 体 験 から 生 じるもので ~ある 人 々は 解 放 の 過 程 への 参 加 の 結 果 として この 体 験 を 生 きはじめている TL,211 解 放 の 霊 性 は 隣 人 すなわち 抑 圧 されている 人 々 搾 取 されている 社 会 階 級 軽 蔑 される 人 種 支 配 さ れる 国 に 対 する 回 心 を 中 心 とするであろう 我 々の 神 への 回 心 とは この 隣 人 への 回 心 を 含 むものなの 5
である 福 音 的 回 心 は 実 際 あらゆる 霊 性 の 試 金 石 なのである 回 心 とは 我 々 自 身 の 根 本 的 変 革 を 意 味 する TL,212 グティエレスは 隣 人 への 回 心 という 言 葉 を 使 う TL,197 もし 神 との 関 係 が 隣 人 との 関 係 と 不 可 分 であるならば 我 々は 隣 人 に 向 かって 回 心 することで 真 の 回 心 ( 神 への 帰 還 和 解 )へと 一 歩 を 踏 み 出 すに 違 いない そして 隣 人 への 回 心 とは 連 帯 して 生 きる ということだ かつてマ ニラの 小 さなスラムで カトリックの 修 道 者 がコーディネートする 聖 書 の 会 に 出 たことがある ご みの 山 から 換 金 できるものを 探 し 生 計 を 立 てる 人 々の 輪 の 中 に ペプシ に 勤 務 する 金 持 ちが 加 わ っていた 貧 しい 人 々のために 献 金 したいというこの 信 心 深 い 男 に 対 し 修 道 者 は まず 彼 らの 信 仰 と 知 恵 に 学 びなさいと 促 したという 時 間 と 空 間 を 共 有 することで 真 の 回 心 と 連 帯 が 生 まれてく る それが 富 める 者 の 解 放 ( 救 い)に 不 可 欠 なプロセスだから とその 修 道 者 は 語 っていた 霊 性 とは 自 分 自 身 のもっとも 深 い 部 分 神 との 出 会 いの 場 自 分 自 身 を 形 成 し 動 かすもの 燃 え 尽 きな い 心 尽 きない 井 戸 正 義 のために 闘 う 精 神 自 分 の 心 はらわた 我 々が はらわた で 感 じること それは 優 れて 深 く 人 間 的 な 体 験 であり 神 が 私 たちの 生 に 現 れているこ とを 知 るよい 機 会 を 与 えてくれる 神 の 私 への 現 れは 人 間 的 なものである そして 私 がより 深 い 人 間 性 を 身 につければ 神 の 手 は 容 易 に 私 に 触 れる 人 は<はらわた>から 動 かされるような 体 験 において 最 も 人 間 的 であるということは すで に 述 べてきた このように 定 義 した 上 であえてこういおう < 神 は はらわたにおられる> 以 上 Dorr 41 はらわた という 言 葉 から 連 想 される 福 音 書 の 記 事 を 読 んでみよう そのころまた 群 衆 が 大 勢 いて 何 も 食 べる 物 がなかったので イエスは 弟 子 たちを 呼 び 寄 せて 言 われた 群 衆 がかわいそうだ もう 三 日 もわたしと 一 緒 にいるのに 食 べ 物 がない 空 腹 のまま 家 に 帰 らせると 途 中 で 疲 れきってしまうだろう 中 には 遠 くから 来 ている 者 もいる 弟 子 たちは 答 えた こんな 人 里 離 れた 所 で いったいどこからパンを 手 に 入 れて これだけの 人 に 十 分 食 べさせることができるでしょうか イエス が パンは 幾 つあるか とお 尋 ねになると 弟 子 たちは 七 つあります と 言 った そこで イエスは 地 面 に 座 るように 群 衆 に 命 じ 七 つのパンを 取 り 感 謝 の 祈 りを 唱 えてこれを 裂 き 人 々に 配 るようにと 弟 子 たちに お 渡 しになった 弟 子 たちは 群 衆 に 配 った また 小 さい 魚 が 少 しあったので 賛 美 の 祈 りを 唱 えて それ も 配 るようにと 言 われた 人 々は 食 べて 満 腹 したが 残 ったパンの 屑 を 集 めると 七 篭 になった およそ 四 千 人 の 人 がいた イエスは 彼 らを 解 散 させられた (マルコによる 福 音 書 8 章 1~9 節 新 共 同 訳 ) c.f. かわいそうだ と 訳 される splagchnizomai スプラングニゾマイ は 通 常 憐 れむ と 訳 される 直 訳 的 には 内 臓 が 動 く ヘブライ 人 にとって 内 蔵 は 怒 り 愛 痛 み 同 情 共 感 などの 感 性 が 宿 る 場 所 だった 日 本 語 では 胸 はら に 該 当 する これと 異 なるのが 知 的 な 理 解 の 座 である 頭 だ はらわたが 煮 えくり 返 る という 言 葉 がある これは 抑 えようのない 怒 りを 表 現 する 言 葉 だ 本 田 哲 郎 は 怒 り こそが 隣 人 愛 の 原 点 であり 連 帯 の 動 機 だと 語 る(この 点 はのちに 述 べる) 自 分 自 身 も 痛 むような 共 感 ( 共 苦 compassion)こそが 人 間 を 根 底 から 突 き 動 かす 本 田 は 群 集 が かわいそうだ を この 民 衆 に はらわたをつき 動 かされる と 訳 している マルコ( 及 び 並 行 個 所 のマタイ 15 章 )の 四 千 人 の 給 食 は イエスは 憐 れんで という 福 音 記 者 の 言 葉 としてではなく 福 音 書 中 唯 一 イエス 自 身 の 台 詞 として かわいそうだ(スプラングニ 6
ゾマイ) が 登 場 する 個 所 だ(そしてこの 個 所 は 日 本 聖 公 会 の 聖 書 日 課 では 一 度 も 主 日 祝 日 の 聖 餐 式 においては 登 場 しない) これはイエスの 切 なる 訴 えだ ここでは 君 たちが 養 え というような 弟 子 教 育 の 意 図 (マルコ6 章 他 )は 消 されている 飢 えた 群 集 を 見 たイエスは あまりにひどい! と 思 う そしてそれを 自 分 の 心 の 中 で 内 的 ( 私 的 )に 思 い 巡 らせるのではなく 仲 間 を 呼 び 寄 せて ひ どすぎる! といって 怒 りに 震 える 思 いを 吐 露 する そしてわずかな 資 源 ( 七 つのパンとわずか な 小 魚 )で 目 の 前 の 圧 倒 的 な 現 実 に 立 ち 向 かおうとした ドールによれば 霊 性 とは 個 人 的 信 心 ではなく 存 在 の 全 領 域 に 関 わるものであり この 世 から の 救 い ではなく この 世 の 救 い に 向 かう 姿 勢 のことだ それは 現 実 からの 逃 避 ではなく 現 実 へと 参 与 することを 意 味 している 彼 は カトリック 詩 人 シャルル ペギーの 詩 を 引 用 する ひとりで 救 われるな みんなで 救 われよ 神 のみ 前 には 大 挙 していでよ Ⅲ. 霊 性 の 三 つの 側 面 -ドナル ドールとともに- 人 よ 何 が 善 であり 主 が 何 をお 前 に 求 めておられるかはお 前 に 告 げられている 正 義 を 行 い 慈 しみを 愛 し へりくだって 神 と 共 に 歩 むこと これである (ミカ 書 6 章 8 節 ) < 諸 訳 の 比 較 > * 正 義 を 行 い 慈 しみを 愛 し へりくだって 神 と 共 に 歩 むこと これである ( 新 共 同 訳 ) *ただ 公 義 を 行 い 慈 しみを 愛 し へりくだってあなたの 神 と 共 に 歩 むことではないか ( 口 語 訳 ) * 公 義 を 行 い 慈 しみを 愛 し 心 してあなたの 神 と 共 に 歩 むことである ( 岩 波 版 鈴 木 佳 秀 訳 ) *Only to act justly, to love loyalty, to walk humbly with your God.(REV) *Only to this, to act justly, to love tenderly, and to walk humbly with your God.(JB) * 正 義 を 実 践 すること 快 く 恵 みに 報 いること( 絶 えず 愛 を 好 んで 行 うこと) 心 して 神 と 共 に 生 きていくこと ( 韓 国 共 同 翻 訳 ) *Achtet auf das Recht, erweist einander Gutes, tut nichits ohne euren Gott.(die Bibel in heutigen Deutsch) 正 義 と 慈 悲 の 実 践 そしてへりくだった 生 き 方 預 言 者 ミカが 示 す 神 のめぐみに 対 する 人 間 の 応 答 の 三 要 素 は のちにマタイによって 正 義 慈 悲 誠 実 ( 新 共 同 訳 )の 三 要 素 に(23 章 23 節 ) ルカによって 正 義 の 実 行 と 神 への 愛 の 二 要 素 に(11 章 42 節 ) 改 定 された c.f.マタイ 23 章 を 口 語 訳 は 公 平 あわれみ 誠 実 韓 国 共 同 翻 訳 は 正 義 慈 悲 信 義 佐 藤 研 訳 ( 岩 波 版 )は さばきと 憐 れみと 信 頼 英 語 訳 のほとんどは justice, mercy, faith (faithfulness) ミカ 書 の 新 共 同 訳 へりくだって に 該 当 するヘブライ 語 tsana は 謙 遜 さ へりくだり だが 七 十 人 訳 はこれを 神 と 共 に 歩 む 備 えをすること とし マタイはその 部 分 を pistis( 信 仰 信 頼 ) とした 新 共 同 訳 が pistis を 誠 実 と 訳 す 根 拠 は 不 明 本 田 訳 は 該 当 個 所 を 解 放 のための 裁 き 痛 みを 共 感 すること 信 頼 を 持 ってあゆみを 起 こすこと として いる 本 田 は pistis をすべて 信 頼 を 持 ってあゆみを 起 こす と 実 践 を 含 めた 意 味 として 訳 して いる ルカ 11 章 を 口 語 訳 は 義 と 神 に 対 する 愛 と 韓 国 共 同 翻 訳 は 正 義 を 行 うことと 神 を 愛 す 7
ること 佐 藤 研 訳 ( 岩 波 版 )は さばきと 神 の 愛 と KJV などは judgment and the love of God RSV などは justice and the love of God 本 田 は 低 みからの 裁 きと 神 を 大 切 にす ること としている 本 田 は krisis ( 裁 き 批 判 語 源 的 には 分 離 識 別 判 断 )を 低 み からの 裁 き と 訳 している 以 下 ドナル ドールの 霊 性 と 正 義 を 手 引 きにしながら 霊 性 の 三 つの 側 面 について 考 えてみ よう 1.へりくだって 神 と 共 に 歩 む( 自 分 自 身 の 宗 教 的 回 心 )intra-personal *walk humbly with your God. (REV) * 心 してあなたの 神 と 共 に 歩 むことである ( 岩 波 版 鈴 木 佳 秀 訳 ) * 心 して 神 と 共 に 生 きていくこと( 韓 国 共 同 翻 訳 ) *tut nichits ohne euren Gott.( 神 なしに 何 事 もするな)(BHD) 我 々はそれぞれ 深 く 個 人 的 な 宗 教 的 回 心 に 招 かれている この 回 心 は あるいは 突 然 の あるいは 段 階 的 なものであるというより いくつかの 劇 的 な 突 き 抜 ける 体 験 (break-through)をともなって ゆっくりした 成 長 をとげる ~ 本 当 に 問 題 なのは 回 心 の 過 程 よりも その 結 果 である Dorr,22 神 の 摂 理 を 感 じ 取 ることは 神 が 私 を 個 人 として 愛 してくださるという 認 識 から 始 まるものには 違 いないが そこで 終 わってしまうものではない そこで 終 わってしまえば 宗 教 的 回 心 も 個 人 の 信 仰 も 全 て 神 と 私 自 身 との 純 粋 に 私 的 な 事 柄 に 還 元 されてしまう Dorr,23 自 分 自 身 の 中 には 神 の 摂 理 を 感 じ 取 る 心 の 土 台 としてのある 種 の 平 和 と 心 の 平 安 が 不 可 欠 で あり これは 祈 りの 積 み 重 ねによって 生 み 出 される へりくだり である キリスト 者 はこのよう な 平 安 への 強 い 憧 れを 持 ちながら 生 きている しかし 平 安 への 強 い 欲 求 は 他 者 ( 外 界 世 界 )との 断 絶 (= 修 道 院 的 霊 性 )への 誘 惑 となりかねない しかし 自 分 自 身 の 宗 教 的 回 心 つま り 神 なしには 生 きていけない という 体 験 は 自 分 の 生 き 方 行 動 計 画 や 方 向 と イエスの 生 涯 との 一 致 と 不 一 致 を 見 極 めるための 重 要 な 原 点 ( 座 標 軸 )となる 鈴 木 佳 秀 によれば へりくだっ て という 訳 はウルガタ 訳 の 影 響 によって 箴 言 2:2 と 共 に へりくだって と 訳 されてきた 伝 統 が あるが 原 意 については 諸 説 あり 最 近 は 思 慮 深 く 熟 慮 して などが 提 唱 されているという 箴 言 2:2 は 新 共 同 訳 では 心 を 向 けて とされている 神 とともに 歩 む とは 心 して 歩 むことで あり あなたの 神 だけに 心 を 向 けて 歩 むことであり み 心 が 何 であるかを 熟 慮 して 歩 むことだ そ れは 我 々にとって イエスを 道 しるべとして 歩 むこと イエスの 道 を 歩 むこと イエスとともに 旅 することだ 2 慈 しみを 愛 す( 自 分 自 身 の 道 徳 的 回 心 )inter-personal *erweist einander Gutes= 互 いに 善 を 示 す( 示 し 合 う) 現 代 ドイツ 語 訳 はあえて 互 いに 善 を 示 す 行 う と 意 訳 している ここでいわれている 慈 しみ という 概 念 は 関 係 性 を 前 提 としたもの つまり そこには 他 者 の 存 在 があり 互 いに(einander) 慈 しむ 愛 し 合 うという 関 係 性 が 重 要 だ 慈 しみを 愛 する とは 自 分 自 身 の 道 徳 的 な 回 心 を 意 味 す る inter-personal な 戒 めだ そして 道 徳 的 な 回 心 は 他 者 との 出 会 いのための 条 件 であり 他 者 と の 出 会 いだけが 道 徳 的 回 心 を 可 能 とする 8
道 徳 的 に 回 心 した 人 は 他 者 に 心 から 関 心 を 抱 くようになり 他 者 の 話 しを 聴 く 人 となる 他 者 を 信 頼 し 自 分 をゆだね 自 分 を 相 手 に 開 くこと しかし 他 者 に 自 分 を 開 くことは 危 険 を 犯 す 行 為 に 他 ならない 従 って 道 徳 的 回 心 は 進 んで 危 険 を 冒 す 覚 悟 を 意 味 している 道 徳 的 回 心 とは 誠 実 であること 共 にいる 能 力 を 持 つこと 道 徳 的 な 回 心 を 経 たものだけが 慈 しみ 深 く 愛 する ことが 可 能 となり 霊 性 の inter-personal な 側 面 を 保 持 し 得 る 連 帯 の 条 件 としての 回 心 についてグティエレスは 次 のように 言 っている 隣 人 への 回 心 とは 隣 人 の 内 なる 神 への 回 心 でもある TL,215 自 分 の 罪 を 認 めることは 断 ち 切 った 友 情 を 取 り 戻 したいという 望 みを 意 味 し 許 しと 和 解 へと 人 間 を 導 く Well,152 ( 貧 しい 人 々への 奉 仕 は) 自 分 自 身 を 与 える 愛 の 業 であって ただ 義 務 を 果 たすということではない それ は 貧 しい 人 々の 世 界 に 関 わり 不 正 や 欠 乏 に 苦 しむ 人 々との 真 の 友 情 の 絆 で 結 ばれていなければ 実 現 の 難 しい 具 体 的 で 真 実 な 愛 の 業 である 連 帯 は 抽 象 的 な 貧 しい 人 々とではなく 血 の 通 った 生 身 の 人 間 との 結 びつきであり 愛 と 友 情 そしてやさしさがなければ 連 帯 の 真 の 行 動 はありえない ~ 真 の 愛 は 対 等 な 人 間 関 係 においてのみ 存 在 する Well,159-160 3 正 義 を 行 う( 政 治 的 回 心 )commitment *act justly= 正 しく 行 う 正 義 =ミシュパート(シャファト)は 裁 く 正 しく 治 める といった 社 会 的 正 義 公 正 を 意 味 する 言 葉 (これに 対 しツェダカー/ツァダクは 自 動 詞 的 な 正 しくあること 正 しさ という 概 念 ) 正 義 (ミシュパート)を 行 う 正 しく 行 うというのは personal な 領 域 を 越 えた 公 的 領 域 における 道 徳 性 を 意 味 している 公 的 な すなわち 政 治 経 済 などあらゆる 次 元 で 公 正 な 関 係 を 構 築 する こと このことは 不 公 正 不 正 義 の 現 実 の 中 での 個 々 人 の 道 徳 的 な 回 心 を 前 提 とする そして 道 徳 的 回 心 によって 人 は 連 帯 可 能 な 存 在 となる これが 政 治 的 回 心 だ 政 治 的 回 心 はミシュ パート( 社 会 正 義 )をもたらすために 闘 う 正 義 を 行 うことは 自 分 自 身 の 生 き 方 であると 同 時 に 共 同 体 の 姿 でなければならない そのことを 呼 びかけるのが 預 言 者 であり 預 言 者 的 霊 性 とは 人 々を 励 まして 今 ある 秩 序 に 立 ち 向 かわせ 社 会 正 義 の 要 求 する 根 源 的 な 変 革 を 求 めさせるもの Dorr,23 だ イエスは 洗 礼 者 ヨハネとともに 預 言 者 の 系 譜 に 立 っていた 教 会 の 働 きは 王 的 祭 司 的 預 言 者 的 三 重 の 職 務 といわれている 個 人 的 な 道 徳 を 公 共 性 の 領 域 に 適 応 させるための 励 ましが 教 会 に 求 められている 正 義 を 行 うとは 正 しく 行 うこと 正 しく 生 きることでもある 我 々はあらゆる 次 元 で 何 かを 行 い ながら 生 きているが それを 正 しく 行 うことができないでいる 正 しく 行 うとは 正 しい 基 準 に 照 らして 行 うことであり 私 的 な 価 値 同 族 的 な 価 値 (ローカルな 正 義 )を 相 対 化 することを 意 味 している 我 々の 基 準 はイエス キリストであり 神 の 国 の 使 信 だ 我 々はそれを 理 念 的 に あるい は 最 大 限 の 想 像 力 を 動 員 して 行 おうとするが それだけでは 自 分 の 居 場 所 を 変 えることなく 視 線 だけを 変 更 するだけだ 正 しく 行 う ためには 視 点 を 改 めること すなわち 回 心 (meta-noia) が 必 要 となる 回 心 とは 内 心 の 作 業 ではない 回 心 は 自 分 の 考 え 方 を 変 えるのではなく 自 分 の 立 ち 居 地 を 変 えること ものの 見 方 を 変 えるのではなく 自 分 の 居 場 所 を 変 えることだ 回 心 とは 視 線 の 変 更 ではなく 視 座 の 変 更 を 意 味 している だから 本 田 は metanoia を 低 みからの 見 直 し と 訳 している 9
c.f.グティエレスによれば 回 心 とは 貧 しく 抑 圧 される 者 の 解 放 の 過 程 に 自 ら 関 わること 明 快 に 現 実 的 に 具 体 的 に 関 わることである 漠 然 と 賛 成 して 関 わるばかりでなく 状 況 分 析 と 行 動 戦 略 を 練 って 関 わることである TL,212 公 的 領 域 における 回 心 は 社 会 の 仕 組 みに 対 する 理 解 と 参 与 を 意 味 する この 回 心 が 真 実 なもの かどうかは 貧 しい 人 抑 圧 されている 人 弱 い 立 場 に 置 かれている 人 の 権 利 を 守 り 尊 重 している か 否 かによって 知 られる Dorr,33 へりくだって 神 と 共 に 歩 む ( 宗 教 的 回 心 個 人 的 領 域 ):これなくしては 偽 りの 神 の 支 配 から 自 由 になれない( 偽 りの 神 = 野 望 貪 欲 不 安 疑 い ) 慈 しみを 愛 する ( 道 徳 的 回 心 対 人 的 領 域 ):これなくしては 隣 人 から 信 頼 されない 人 間 心 を 閉 ざした 人 間 不 誠 実 で 頼 りない 不 忠 実 な 人 間 のままである 正 義 を 行 う ( 政 治 的 回 心 社 会 的 領 域 ):これなくしては 神 への 信 仰 が 個 人 的 対 人 的 な 領 域 のものにとどまってしまい 神 は 歴 史 と 全 世 界 の 主 であるという 福 音 のメッセージを 証 し することが 出 来 ない キリスト 者 の 生 とは 神 の 救 いの 業 に 対 する 応 答 を 生 きること( 何 をもって 私 は 主 のみ 前 に 出 て いと 高 き 神 にぬかずくべきか ミカ 6:6) 偽 りの 神 ( 利 己 心 )から 自 由 な 者 として 隣 人 に 心 を 開 いて 連 帯 し 正 義 の 実 践 を 通 して 神 が 歴 史 と 世 界 の 主 であることを 証 しする という 三 つの 領 域 三 つの 側 面 をバランスよく 保 つことが 霊 性 の 課 題 となる アイルランド 出 身 のカトリック 神 学 者 ドナル ドールの 霊 性 と 正 義 ( 原 著 1984 年 邦 訳 1989 年 )は 大 変 すぐれた 著 作 だ イエズス 会 社 会 司 牧 センターによる 日 本 語 訳 のきっかけは フィリピ ンの 無 血 革 命 に 際 して 重 要 な 役 割 を 果 たしたクラベール 司 教 の 紹 介 だったという 聖 公 会 において も 霊 性 と 正 義 は 社 会 正 義 に 関 する 決 議 が 集 中 した ランベス88 とそれに 先 立 つACC 会 議 の 中 で 参 考 文 献 としてあげられている ドールはアフリカでの 司 牧 活 動 とラテンアメリカでの 調 査 を 背 景 としてこの 本 を 書 いたという ドールはこの 外 にも 宣 教 論 などについて 多 くの 本 を 書 いて いて カトリックに 限 らず 世 界 の 教 会 に 影 響 を 与 えている 彼 は 西 欧 の 神 学 者 である 自 分 が 非 西 欧 で 働 く 経 験 を 通 して 西 欧 神 学 のゆがみを 是 正 しなければならないという 発 見 をしたという その 意 味 ではアジアの 教 会 にとって 示 唆 に 富 む 指 摘 が 多 い たとえばそのひとつが 神 の 摂 理 が 宿 命 論 や 逃 避 論 になってしまうことだ 宿 命 論 は 無 責 任 さを 肯 定 する 人 間 には 何 の 責 任 はなくすべ ては 神 の 御 心 だということで 人 は 現 実 から 逃 避 する 信 仰 深 い 人 は 神 の 摂 理 を 大 事 にする 傾 向 が ある それが 自 分 を 神 に 明 け 渡 す 心 であればいいが 宿 命 論 や 逃 げの 論 理 になってはいけないと 思 う しかしドールは 現 実 から 逃 げずにしっかりと 絶 望 すること そして 神 の 介 入 を 切 に 祈 ること が 必 要 だという これが 貧 しい 人 々とともにする 祈 り である 霊 性 と 正 義 は 神 学 理 論 の 書 で はなく 実 践 的 な 手 引 きの 要 素 も 含 んでいる 開 発 教 育 教 会 の 構 造 改 革 など 実 践 的 な 側 面 につ いてもやはり 示 唆 に 富 む 指 摘 は 多 い c.f.アルバート ノーランは 宿 命 論 こそが 信 仰 の 正 反 対 の 言 葉 であり ほとんどの 人 がほとんどの 時 間 抱 いている 態 度 だという たとえば それについては 何 もできないよ 世 界 を 変 えるなん てできないさ 実 際 的 に 現 実 的 にならなければダメだよ 希 望 なんてない 陽 の 下 に 新 し いことは 何 もない 現 実 は 受 け 入 れるしかない という 言 葉 としてあらわれる そして これらは 神 の 力 をほんとうに 信 じてはいない 人 たちの 言 明 である 彼 らは 神 が 約 束 されたことを 本 当 10
に 希 望 してはいないのだ ノーラン,51 先 に 紹 介 したように ドールの 主 張 のポイントは 宗 教 道 徳 政 治 それぞれの 領 域 における... 回 心 の 重 要 性 と それぞれのバランス の 重 要 性 だ こうした 着 眼 点 はいかにもカトリック 神 学 的 だ し 実 際 彼 は 教 皇 庁 正 義 と 平 和 委 員 会 の 顧 問 も 務 めた 人 物 だ こうしたバランス 感 覚 は 多 くの 人 の 共 感 を 呼 ぶに 違 いないが どこか 歯 がゆいところがないわけでもない グティエレスは 同 じミ カ 書 6 章 を 取 り 上 げながら to act justly=to participate in creating a just society to love tenderly=responsible action to walk humbly with God=a grace-filled life ( 正 義 を 行 うこと= 公 正 な 社 会 創 造 への 参 与 慈 しみ 深 く 愛 すること= 責 任 ある 行 動 神 とともにへりくだって 歩 むこと=めぐみに 満 ちた 生 活 ) という 解 釈 を 示 しているという Brown,124 神 の 救 いの 業 に 対 する 応 答 を 生 きるとは すなわち 宗 教 的 道 徳 的 政 治 的 という 異 なった 三 つの 次 元 における 回 心 であると 受 け 止 めるドールに 対 して 公 正 な 社 会 の 創 造 に 参 与 し そこで 責 任 ある 行 動 をとって 生 きることは なんとめぐみに 満 ちたことだろうか と 一 つの 生 き 方 として 受 け 止 めるグティエレスの 霊 性 に より 魅 力 を 感 じるのは 私 だけだろうか Ⅳ. 本 田 哲 郎 社 会 活 動 の 霊 性 (スピリチュアリティ) ここで 本 田 哲 郎 の 意 見 を 改 めて 紹 介 したい カトリック 神 父 でフランシスコ 会 に 属 する 聖 書 学 者 である 本 田 は フランシスコ 会 聖 書 研 究 所 や 日 本 管 区 長 などを 経 たのち 大 阪 の 釜 ヶ 崎 で 日 雇 い 労 働 者 支 援 の 働 きを 行 いながら 聖 書 学 者 としての 発 言 を 続 けている その 中 心 的 メッセージに 触 れるためには 彼 の 新 約 聖 書 私 訳 小 さくされた 人 々のための 福 音 - 四 福 音 書 および 使 徒 言 行 録 - にあたるのが 一 番 いいが ここでは 朝 日 新 聞 の 書 評 でも 絶 賛 され いまや 一 般 読 者 をも 獲 得 した 釜 ヶ 崎 と 福 音 から 社 会 活 動 の 霊 性 (スピリチュアリティ) の 内 容 を 紹 介 する 釜 ヶ 崎 192 以 下 まず 前 提 として 本 田 は 聖 書 は 神 感 inspiration の 書 であるが それはギリシャ 語 原 典 を 読 む 場 合 にのみ 当 てはまるのであり 解 釈 の 結 果 である 翻 訳 がすべて 神 からのメッセージ とはい えないという 立 場 に 立 っている だからといって 原 典 を 読 めないと 聖 書 は 分 からないというエリー ト 主 義 ではなく 本 田 自 身 が 学 んできたことをベースに 小 さくされた 人 々のための 福 音 として 聖 書 翻 訳 をやり 直 した そこで 彼 は 原 著 者 の 言 わんとするところを 忠 実 に 訳 出 する 作 業 を 試 みたの だが その 最 重 要 なのは 翻 訳 者 が 神 の 視 点 視 座 をどれくらい 共 有 できるかだという 神 の 視 点 に 立 つとは 一 番 下 にいる 人 々を 通 して 救 いと 解 放 がもたらされることを 受 け 入 れることだ そ のことを 受 け 入 れた 上 で 聖 書 を 翻 訳 し その 視 点 から 聖 書 を 読 むならば 我 々の 日 々のなすべきこ とはおのずと 見 えてくるはずだ という 福 音,723-732 11
社 会 活 動 の 霊 性 は 南 アフリカのカトリック 神 学 者 アルバート ノーランの 講 演 を 下 敷 きに 本 田 自 身 の 経 験 を 踏 まえて 書 かれたものだのという この 中 で 本 田 は 貧 しい 人 々との 連 帯 とは.. 自 分 自 身 も 貧 しくなることではないと 主 張 する( 自 分 も 貧 しくなる というのはフランチェスコに 代 表 される 修 道 院 的 霊 性 と 言 えるだろう) そうしたところでこの 社 会 に 貧 しい 人 が 一 人 増 えるだけ だ 必 要 なのは 貧 しくされている 彼 ら 自 身 の 願 いと 判 断 と 行 動 の 選 択 に 信 頼 して その 実 現 のために 連 帯 したり 協 力 すること であり そのために 持 っているものを 捨 てるのではなく 持 っているものを 有 効 に 活 用 することこそが 重 要 だという 本 田 が 提 案 する 連 帯 へのステップは 1 痛 みの 共 感 から 救 援 活 動 へ 2 救 援 活 動 の 行 きづまりから 構 造 悪 の 認 識 へ- 怒 りの 体 験 3 社 会 的 政 治 的 行 動 へ- 構 造 悪 と 闘 う 貧 しい 人 たちの 力 4 単 純 な 貧 者 賛 美 から 真 の 連 帯 へ の 四 つだ 救 援 活 動 のなかに 善 意 にのみ 支 えられた ほどこし 分 かち 合 い 中 心 の 活 動 が 含 まれ ている 救 援 活 動 は 基 本 的 に 焼 け 石 に 水 だ これは 釜 ヶ 崎 での 16 年 間 の 体 験 が 語 らせた 言 葉 だ ろう 我 々の 霊 性 にとって 重 要 なのは 善 意 に 満 ちた 分 かち 合 い ではどうにもならない 現 実 その 現 実 の 前 に 憤 ること 怒 ること 自 分 のわがままからくる 威 圧 的 な 怒 りではなく 痛 みの 共 有 から 湧 き 上 がる 解 放 を 求 める 怒 りの 自 覚 であり この 怒 りが 社 会 正 義 を 実 践 するエネルギーだと 言 う 怒 りはしいたげられた 者 への 共 感 であり 同 時 に 富 める 者 や 権 力 者 に 回 心 (メタノイア)を 促 す 熱 い 思 いであり これが 聖 書 の 語 る キリストの 怒 り だ そして 我 々が 正 義 に 反 する 社 会 の 仕 組 みと それを 平 気 で 受 け 入 れる 自 分 たち 自 身 に 怒 りを 向 けるとき 我 々にはキリストの 思 いを 共 有 するための 道 が 開 かれる c.f.この 点 に 関 してグティエレスは 聖 書 の 中 で 貧 しさは 人 間 の 尊 厳 に 逆 らう 従 って 神 の 意 思 に 反 する 恥 ずべき 状 況 とされている と 述 べ ヘブライ 聖 書 における 困 窮 した 弱 い 身 をか がめた 哀 れなな どの 語 群 には すでに 反 抗 の 意 がほのめかされている これらのことばは 単 なる 描 写 に 留 まらず 一 つの 立 場 を 示 している この 立 場 は 貧 しさに 対 する 力 強 い 拒 絶 に おいて 明 確 にされる 貧 しさの 描 写 にただよう 雰 囲 気 は 一 種 の 義 憤 である と 述 べている TL,291 本 田 の 社 会 正 義 のための 霊 性 論 の 主 眼 は 小 さくされた 人 々 が 解 放 の 主 体 であるという 点 だ (もちろんこのことはグティエレスにとっても あるいは 韓 国 の 民 衆 神 学 にとっても 中 心 的 テーマ だ) 彼 らは 社 会 的 弱 者 だが 弱 い 立 場 に 追 いやられた 人 々であって 実 際 に 弱 い 人 間 ではない そし て 本 田 は 我 々 中 流 以 上 のキリスト 者 は 聖 職 者 を 含 め 教 える 立 場 ではなく 学 ぶ 立 場 だと 強 調 する 社 会 構 造 によって 抑 圧 されている 人 々こそ その 構 造 の 矛 盾 を 突 き 変 革 するための 洞 察 力 に 富 ん でいる そして 真 の 連 帯 のためには 我 々が 陥 りがちな 弱 者 賛 美 を 克 服 する 必 要 がある 彼 らは 神 の 国 のさきがけとして 選 ばれた 民 だが それは 彼 らが 貧 しいからであって 正 しいからではない もちろん 富 める 者 も 貧 しい 者 も 等 しく 過 ちを 犯 すが そのタイプが 違 う だから 大 切 なのは 両 者 で は 発 想 や 選 択 基 準 が 違 うということであり だから 我 々は 貧 しくされた 人 々の 感 性 に 学 ぶ 必 要 があ るのだと 機 会 があれば 釜 ヶ 崎 と 福 音 を 直 接 読 んでいただきたいが ここでは 社 会 活 動 の 霊 性 の 最 後 の 部 分 を 紹 介 する これらは 一 人 ひとりが 行 動 を 起 こし 実 践 する 中 で 体 得 していくことかもしれません ~わたし たちはみんな このプロセスのどこかにいるはずです ある 人 たちは 自 分 のずっと 先 を 歩 んでおり 12
ある 人 たちはこの 霊 性 のあゆみを 始 めたばかりかもしれません ~しかし 後 からくる 人 たちの 戸 惑 いや 疑 問 は 自 分 も 通 ってきた 道 です 理 解 できるはずです そして この 福 音 のあゆみに 伴 う 苦 し みこそ わたしたちが 霊 的 に 成 長 していくしるしであると 正 しく 評 価 することもできるはずです わ たしたちは 互 いに 非 難 したり 反 発 したりすべきではありません 福 音 による 社 会 活 動 すなわち 正 義 と 平 和 と 喜 び のために 道 を 歩 もうとするわたしたちみんなに 必 要 なことは 互 いに 受 容 し 励 ま し 支 えあうことであり このプロセスのどの 段 階 にあろうとも わたしたちが 貧 しくされている 人 たち との 関 わりを 大 事 にしているかぎり 彼 らを 通 してはたらく 同 じ 聖 霊 に 導 かれていることを 認 め 合 うこ とができるのです 信 仰 とは イエス キリストが 身 をもって 告 げた 福 音 に 信 頼 してあゆみを 起 こす ことです やってみて できたところまでが 自 分 の 信 仰 なのだと イエスは 示 唆 しているように 思 いま す 釜 ヶ 崎,228 Ⅴ. 教 会 が 行 う 正 義 の 実 践 平 和 の 実 現 一 昨 年 の 資 料 に 付 された 文 章 でもそうであったように ここでもあらためて 自 分 自 身 の 内 面 をさ らけ 出 すつもりで 戯 画 を 描 いてみたい 我 々の 教 会 には 天 皇 靖 国 憲 法 など 政 治 的 課 題 を 扱 うことに 反 対 する 意 見 がある しかしこのことを 考 える 前 に ほとんどの 場 合 教 会 がこれらの 課 題 について 行 っていることは 問 題 の 指 摘 や 反 対 意 思 の 表 明 反 対 運 動 への 連 帯 の 表 明 であって それほど 深 刻 な 政 治 活 動 ではない にもかかわらず 反 対 者 は これらの 課 題 が 教 会 の 中 に 持 ち 込 まれることに 異 を 唱 えている おそらく ある 人 は 天 皇 に 親 しみを 感 じ 天 皇 制 をよいものと 信 任 し 靖 国 神 社 の 必 要 性 を 認 識 し 場 合 によっては 国 家 護 持 を 支 持 し 自 主 憲 法 制 定 国 軍 の 創 設 さらには 核 武 装 を 願 っている そして そのような 人 々は 自 分 自 身 の 信 念 や 立 場 と 教 会 が 発 する 声 明 などとの 立 場 が 異 なることで 居 心 地 の 悪 さを 感 じている さらには 正 義 だ 平 和 だと いう 言 葉 が 教 会 内 に 登 場 するたびに 自 分 自 身 のそうした 立 場 が 教 会 によって 公 に 非 難 されている と 受 け 止 め それに 対 する 異 議 を 申 し 立 てている 自 分 もクリスチャンの 一 人 であり そういった 信 念 を 持 った 一 信 者 であり そのことを 認 めてもらわない 限 り 信 仰 生 活 を 維 持 できないと あるい は 教 会 (この 場 合 は 日 本 聖 公 会 東 京 教 区 )が 議 論 の 分 かれる 政 治 的 課 題 に 触 れることは 反 対 意 見 を 持 っている 人 々の 神 経 を 逆 なですることであって 自 分 自 身 はそれを 容 認 するとしても それ によって 教 会 の 評 判 が 落 ちてしまっては 新 たな 入 信 者 の 獲 得 ( 伝 道 )の 妨 げになることを 心 配 して いるのかもしれない 政 治 と 宗 教 については 触 れてはいけない というのはパーティートークのマナーだそうだ これ に 野 球 やサッカーの 話 題 もご 法 度 に 違 いない これらは 主 義 主 張 信 念 信 仰 贔 屓 に 関 わる 内 容 なのでどうしても 対 立 が 生 じてしまうから 社 交 的 会 話 には 不 向 きなのだ だから 自 己 紹 介 の 後 は 極 力 論 争 を 生 まない 話 題 たとえば 天 気 とか 最 近 見 た 映 画 とか 家 族 のことなどがふさわしい に 違 いない そこはお 互 いがいい 雰 囲 気 を 作 り 上 げるために 最 大 限 の 努 力 をする 場 社 交 の 場 だか らだ 教 会 内 でも 同 じことが 言 えるかもしれない 政 治 や 信 仰 をテーマに 会 話 を 交 わそうとすると 立 場 が 違 うとか 裁 いているとか せっかくのいい 雰 囲 気 が 壊 れてしまう 危 険 性 がある だからと りあえず 政 治 や 信 仰 については 牧 師 が 説 教 時 間 内 に 限 って 一 方 的 に 語 ることが 無 難 であり 信 徒 は 政 治 や 信 仰 について 語 りたい 時 には 公 にではなく 牧 師 に 向 かってのみ 語 ることが 安 全 策 だと 感 じて いる かもしれない 教 会 は 政 治 に 関 わるべきではない ここには 政 治 に 対 する 嫌 悪 感 と 誤 解 がある 嫌 悪 感 の 13
原 因 は 政 治 家 たちがろくなことをしていないからだし 誤 解 の 原 因 は 政 治 的 という 日 本 語 の 用 法 にある 三 省 堂 の 大 辞 林 では 広 義 には 諸 権 力 諸 集 団 の 間 に 生 じる 利 害 の 対 立 などを 調 整 統 合 することにもいう と 書 いてある しかし 自 分 の 利 益 を 実 現 するためにこそこそと 根 回 しをする そんな 姿 を 政 治 的 という 本 来 の 意 味 は 利 害 の 対 立 を 調 整 することらしいが どう せ 人 間 は 自 分 の 利 益 のために 立 ち 回 るのだから 政 治 的 動 きは 卑 怯 な 行 為 だという 感 じがあるに 違 い ない だから 小 学 校 で 習 ったような 民 主 主 義 的 手 続 き 意 見 の 表 明 とか それに 対 する 反 対 の 表 明 とか そういうことも 政 治 的 と 命 名 された 瞬 間 潔 くないこと 俗 っぽいこと 利 己 的 なこと 力 まかせの 暴 力 という 悪 いイメージで 塗 り 固 められてしまうのかもしれない このような 状 況 が 実 際 にあるとして そんな 中 で 正 義 平 和 人 権 をテーマに 語 ることそれ 自 体 が 闘 いのようになってしまう たとえそれがただ 単 に 総 会 決 議 を 報 告 したり 問 題 の 指 摘 をしたり 反 対 の 意 思 を 表 明 したり 何 かの 運 動 への 連 帯 を 表 明 したり 署 名 を 求 めたり 祈 りを 求 めたりす る 行 動 であっても それがなにか 特 別 で 深 刻 な 政 治 的 活 動 であるかのような 気 がしてしまう しか し 本 来 不 正 な 現 実 の 中 で 真 に 正 義 を 求 めて 闘 うということはこの 程 度 のことではなく より 深 刻 な 自 己 犠 牲 を 覚 悟 しなければならないはずだ だから 教 会 が 行 っていること 管 区 の 正 義 と 平 和 委 員 会 や 東 京 の 正 義 と 平 和 協 議 会 が 行 っていることは 正 義 と 平 和 のための 闘 いなどではなく そうし た 働 きを 紹 介 したり 課 題 に 注 意 を 喚 起 したり 連 帯 を 呼 びかける 程 度 のことに 過 ぎない もちろ ん 大 して 政 治 的 活 動 でもない 私 たちの 多 くはまだ 罪 と 闘 って 血 を 流 すまで 抵 抗 したことはない(ヘ ブライ 人 への 手 紙 12 章 4 節 ) 教 会 が 行 っている 正 義 や 平 和 に 関 する 活 動 のほとんどは 牧 会 の 領 域 に 関 わることがらだ つまり 教 会 が 直 接 社 会 変 革 のために 実 力 を 行 使 したり 法 改 正 のために 国 会 や 地 方 議 会 に 圧 力 をかけたり 投 票 行 動 に 影 響 力 を 発 揮 できるのはごく 限 られた 地 域 での 話 しだ もし 日 本 のような 社 会 において 教 会 が 正 義 や 平 和 に 関 して 実 行 力 を 発 揮 しようと 思 えば 教 会 が 社 会 的 に 一 目 置 かれている 必 要 が ある 道 徳 的 に 秀 でた 集 団 である 彼 らのいうことには 耳 を 傾 ける 必 要 がある と 世 間 が 認 めるよう な 存 在 でなければならない もしそれが 望 めないとすれば 教 会 はメンバー 一 人 一 人 が 正 義 や 平 和 を 実 現 するための 活 動 にまい 進 することを 期 待 するしかない これが 教 会 として 行 えるもっとも 有 効 な 正 義 と 平 和 に 関 わる 実 践 であり これは 牧 会 の 領 域 に 関 わることがらだ 本 田 神 父 が 言 うよう に 共 感 とボランティア 活 動 憤 り そして 具 体 的 な 政 治 活 動 と 連 帯 といったプロセスはメンバー 一 人 一 人 が 体 験 することだ しかし 教 会 は そのように 生 きるメンバーを 励 ましたり その 中 で 生 じる 徒 労 感 を 共 有 してともに 祈 ったり 教 会 としてできうるかぎりの 協 力 をすることはできるはず だ たとえば 募 金 を 集 めるとか 署 名 に 協 力 するとか ボランティアを 募 るとか 集 会 やデモへの 参 加 を 呼 びかけるとか そうすることで 共 感 の 輪 を 広 げることができるかもしれない あるいはそ のメンバーの 取 り 組 みが 間 違 った 方 向 に 進 んでいたり 愛 の 心 を 失 っているようであればそれを 回 復 するための 助 言 を 行 うことも 教 会 にできる 働 きかもしれない メンバーの 一 人 が 心 を 砕 いているものに 目 を 向 け ともに 痛 みを 分 かち 合 い ともに 祈 り 助 言 を 惜 しまないこと これはまさに 牧 者 の 務 めだろうし それが 福 音 にとって 重 要 な 正 義 や 平 和 に 関 する 働 きであるとすれば なおさら 教 会 はこのことに 力 を 注 ぐ 必 要 があるはずだ こうした 関 係 を 作 り 上 げるために 必 要 なことは 信 頼 関 係 だろう 正 義 や 平 和 のために 働 くのは 教 会 本 来 の 務 めであ り 公 正 な 社 会 の 創 造 に 参 与 し そこで 責 任 ある 行 動 をとって 生 きることは なんとめぐみに 満 ち たことだろうか とメンバー 一 人 一 人 に 語 りかけること 教 会 がなすべき 基 本 的 なことがらとして 14
の 牧 会 が 正 義 と 平 和 の 実 現 へと 結 びつくことを 確 かめておく 必 要 がある 正 義 人 権 平 和 を 主 張 する 人 は それが 正 しいことであり 教 会 にとって 大 事 にすべきことが らであることを 十 分 承 知 の 上 で 正 しく 語 ることになる しかし 正 義 や 平 和 を 求 めるその 人 自 身 が 正 しかったり 平 和 の 使 徒 だったりするとは 限 らない だから 教 会 の 中 で 正 義 や 平 和 を 語 る 際 に 少 なからず 生 じる 不 協 和 音 は 語 り 手 と 聞 き 手 双 方 に 存 在 する 誤 解 に 基 づいているかもしれない しかし 重 要 なことは 語 っていることが 正 しいかどうかではない 人 は 誰 でも 自 分 が 正 しくないこと を 承 知 しているし 心 のどこかでは 世 界 の 不 正 義 貧 困 や 犯 罪 に 胸 を 痛 め 罪 の 意 識 を 感 じている 誠 実 なキリスト 者 であればその 程 度 は 強 くなるはずだ そうであればなおさら 正 しい ことが 語 られると 自 分 が 責 められているのかもしれない という 気 分 にならないだろうか そして 語 る 側 は そうした 刺 激 を 与 えることを 承 知 の 上 でアジテーションを 行 うことはないだろうか しかし 良 心 に 訴 える 手 法 の 効 果 はあやふやだ 正 義 を 語 る 人 間 自 身 どこかで 良 心 への 訴 え を 経 験 し 回 心 へのあゆみを 始 めた 者 のひとりに 違 いない しかしその 時 の 訴 えの 真 実 さは 訴 えの 正 しさではなく 訴 える 人 その 事 件 現 場 の 真 実 さではなかっただろうか 我 々が 簡 単 にそれに 取 って 代 わることができるとは 思 えない 真 実 を 語 っているのは 我 々ではなく 貧 しくされた 人 々 小 さくされた 人 々 虐 げられた 人 々 飢 え 渇 いた 人 々だ それは 現 代 における 十 字 架 事 件 の 現 場 で あり 我 々はそれを 目 撃 し 証 言 しているに 過 ぎないのではないだろうか そして 我 々に 可 能 なこと は そうした 人 々や 事 件 と 出 会 い はらわたをつき 動 かされた のだということを 自 分 自 身 のこ とがらとして 誠 実 にへりくだって 語 ることではないかと 思 う 牧 会 という 言 葉 は 信 徒 の 世 話 をする という 意 味 では 終 わらない 人 間 を 人 間 として 大 切 にす ること 人 間 の 中 の 人 間 であったイエス キリストへの 信 仰 にふさわしい 態 度 に 違 いない 神 への 愛 は 隣 人 愛 と 切 り 離 せないものである というだけでは 十 分 ではない 神 への 愛 は 隣 人 愛 を 通 してでなければ 表 されないことを 付 け 加 えなければならない そればかりか 神 は 隣 人 の 内 にあっ て 愛 されるのである LT,206 ヨハネの 手 紙 を 下 敷 きにしたグティエレスのこの 言 葉 を 文 字 通 り 受 け 止 めるならば これまで 多 くの 場 合 教 会 は 神 の 愛 し 方 を 誤 ってきたことを 反 省 しなければな らないかもしれない 霊 性 という 言 葉 の 本 義 は 全 体 的 holistic ということだ 政 治 的 経 済 的 宗 教 的 などすべての 次 元 をまとめた 状 態 について 注 意 を 喚 起 しようということが 霊 性 という 言 葉 を 使 うことの 本 当 の 意 味 だろう 修 道 院 や 祈 りの 集 い 宗 教 的 に 美 的 に 研 ぎ 澄 まされた 場 面 だけが 霊 的 なのではな い 我 々が 自 分 自 身 と 隣 人 とを 能 力 や 用 途 ごとの 部 品 単 位 で 切 り 刻 むことなく 全 体 として 受 け 止 めてみようと 思 うセンスそのものが 霊 的 であり 何 より 自 分 自 身 が 大 地 に 深 く 根 をおろしている 感 覚 を 自 覚 し そこから 被 造 物 の 尊 厳 を 感 知 する 営 みが 霊 的 なことだと 思 う 我 々の 理 想 は 正 義 を 行 い 慈 しみを 愛 し へりくだって 神 と 共 に 歩 む ことだ そして 公 正 な 社 会 の 創 造 に 参 与 し そこで 責 任 ある 行 動 をとって 生 きることは なんとめぐみに 満 ちたことだろうか と 心 底 実 感 し そのことを 分 かち 合 える 仲 間 をひとりでも 多 く 見 出 したい 参 考 文 献 ドナル ドール 時 代 が 求 めるキリスト 者 の 生 き 方 (イエズス 会 社 会 司 牧 センター 訳 女 子 パウロ 会 1989 15
年 )( 原 題 :Spirituality and Justice) Dorr グスタボ グティエレス 解 放 の 神 学 ( 関 望 山 田 経 三 訳 岩 波 書 店 1985 年 ) TL グスタボ グティエレス 解 放 の 地 平 を 目 指 して (カトリック 正 義 と 平 和 協 議 会 訳 新 教 出 版 社 1985 年 )( 英 題 :We drink from our own wells) Well 本 田 哲 郎 小 さくされた 人 々のための 福 音 ( 新 世 社 2001 年 ) 福 音 本 田 哲 郎 釜 ヶ 崎 と 福 音 ( 岩 波 書 店 2006 年 ) 釜 ヶ 崎 R.M.Brown, Spirituality and Liberation, Overcoming the great fallacy, The Westminster press, 1988. Brown アルバート ノーラン キリスト 教 以 前 のイエス ( 篠 崎 榮 訳 新 世 社 1994 年 ) ノーラン 16