外 国 語 から 国 語 へ 沖 縄 における 日 本 語 教 育 史 1 (Von der Fremdsprache zur Landessprache Entwicklungsgeschichte des Japanischen in der okinawanischen Schulerziehung) ヨシムラさやか Yoshimura, Sayaka (ウィーン 大 学 Universität Wien) 要 旨 / Zusammenfassung この 稿 では 学 校 教 育 を 通 し どのようにして 外 国 語 で あった 日 本 語 が 沖 縄 において 国 語 そして 日 常 語 へ と 変 化 を 遂 げて 行 ったのか その 歴 史 をまとめる In diesem Beitrag handelt es sich um die Geschichte der japanischen Standardsprache in Okinawa, genauer gesagt ihr Werdegang von einer Fremdsprache zur Landessprache (kokugo) und eine Erörterung der Frage, wie es möglich war, einer fremden Sprache durch Schulerziehung den Status einer Alltagssprache zu verleihen. 1 はじめに 日 本 語 講 師 としてウィーン 大 学 で 教 え 始 める 前 まで 筆 者 にとって 日 本 語 という 存 在 は 簡 単 には 消 滅 しない 何 か 確 実 なものであるという 印 象 が 強 く 一 言 で 言 えば 日 本 人 が 話 す 言 葉 が 日 本 語 だ という 程 度 の 曖 昧 な 認 識 だった し かし 文 献 を 調 べると 母 語 や 言 語 という 概 念 は 決 して 決 定 的 なもの では 無 い 例 えば 国 語 東 京 言 葉 標 準 語 共 通 語 普 通 語 はすべて 日 本 語 を 示 す 言 葉 である 過 去 を 振 り 返 ると 日 本 語 には 他 にも 様 々な 名 称 が 存 在 している 国 語 が 成 立 したのが 1900 年 頃 だとされ それ 以 前 日 本 語 や 標 準 語 の 定 義 は 未 完 成 であった[イ 1996] 後 にも 触 れるが 言 語 の 定 義 は 非 常 に 曖 昧 であり 困 難 である また セルボ クロアチア 語 を 見 てもわかるように ひと つの 言 語 が 形 成 されるまでには 政 治 的 効 力 が 大 きく 関 与 して いる セルボ クロアチア 語 はセルビア コソボ クロアチ ア ボスニア ヘルツェコビナ モンテネグロの 5 カ 国 で 話 されているが 1991 年 のユーゴスラビア 連 邦 崩 壊 により セ 1 本 稿 は 2012 年 4 月 にウィーン 大 学 へ 提 出 した 修 士 論 文 ( 原 題 : Japanisch als Fremdsprache? Geschichte der japanischen Standardsprache in der okinawanischen Schulerziehung der Meiji-Zeit )の 内 容 に 大 幅 に 加 筆 修 正 を 施 したものである 76
ルボ クロアチア 語 はオフィシャル ステータスを 失 い 現 在 セルボ クロアチア 語 は 正 式 には 存 在 しておらず セ ルビア 語 クロアチア 語 ボスニア 語 モンテネグロ 語 とい うイディオムにそれぞれ 分 離 され 定 義 されている[Kordić 2009] この 実 例 が 示 すように 言 語 という 概 念 は 政 治 的 効 力 によって 大 いに 変 化 し 得 るものであるということがわか る 沖 縄 民 族 の 母 語 だと 言 われている 琉 球 諸 語 も 政 治 的 な 効 力 により 日 本 の 方 言 へと 分 類 されるようになった 2 琉 球 諸 語 日 本 の 方 言 か 個 別 言 語 か 一 般 に 琉 球 諸 語 は 日 本 語 族 に 分 類 されている これは 1895 年 に B. H.チェンバレンが Transactions of the Asiatic Society of Japan に 投 稿 した 研 究 報 告 が 元 になっており そこには 日 本 語 と 琉 球 語 は 同 じ 祖 語 を 持 ち それぞれ 枝 分 かれした と 記 されている しかし この 研 究 でチェンバレンが 扱 ったのは 当 時 琉 球 の 公 用 語 であった 首 里 語 であり それ 以 外 の 琉 球 諸 語 は 取 り 上 げていない 今 日 では 奄 美 沖 縄 与 那 国 八 重 山 宮 古 の5つが 琉 球 諸 語 として 数 えられているが いず れも 方 言 として 定 義 されている 外 間 守 善 らが 指 摘 して いるように 日 本 国 内 で 琉 球 諸 語 は 日 本 の 方 言 であり 決 して 言 語 ではなく 多 くの 日 本 の 言 語 学 者 は 琉 球 語 という 言 語 の 存 在 を 認 めていない[ 外 間 1971: 18] しか し それに 異 議 を 唱 える 研 究 者 もいる 獨 協 大 学 のパトリッ ク ハインリッヒや 中 京 大 学 のましこ ひでのりなどは 日 本 における 言 葉 をすべて 方 言 として 標 準 語 の 下 に 位 置 づけようとする 定 義 を 批 判 している[Heinrich 2010] また 国 際 連 合 教 育 科 学 機 関 のユネスコは 2009 年 に 沖 縄 には6 つの 言 語 が 存 在 し それは 危 機 的 状 況 である という 報 告 発 表 を 行 っている 学 者 の 間 でも 琉 球 諸 語 が 言 語 か 方 言 かというのは 未 だは っきりしていない しかし 実 際 に 琉 球 沖 縄 でどのように 日 本 語 が 学 ばれていたのか 文 献 を 調 べていくと 日 本 語 は 琉 球 沖 縄 にとって 紛 れもない 外 国 語 だったとい うことがわかる これについては 次 の 章 で 詳 しく 述 べるが 日 本 語 が 琉 球 沖 縄 人 にとっての 国 語 ではなく 外 国 語 だったからこそ 初 期 の 授 業 では 翻 訳 や 通 訳 が 必 要 不 可 欠 だったのである すでに 述 べてきたように 言 語 を 定 義 する のは 困 難 であり また 日 本 語 という 定 義 も 非 常 に 曖 昧 で はあるが この 稿 では 歴 史 的 な 流 れを 考 慮 しつつ 東 京 言 葉 ( 山 手 言 葉 )を 基 盤 として 作 り 上 げられた 標 準 語 を 日 本 語 として 話 を 進 める 77
3 中 国 主 義 から 日 本 主 義 化 へ 沖 縄 が 琉 球 と 呼 ばれていた 時 代 日 本 との 交 流 があったと はいえ 琉 球 にとっては 中 国 が 中 心 的 な 存 在 だった 琉 球 の 若 者 にとって 中 国 へ 留 学 することが 何 よりの 出 世 であり そのため 当 時 中 国 の 共 通 語 である 官 話 を 勉 強 するのが 主 流 であった 日 本 が 中 国 から 漢 字 を 導 入 したように 琉 球 は 日 本 から 平 仮 名 のシステムを 学 んだといわれているが 日 本 語 を 勉 強 していたという 学 生 は 少 数 派 だったようで 文 献 を 見 る 限 り 琉 球 にとって 日 本 語 は 中 国 語 の 次 に 重 要 な 外 国 語 だ ったとするのが 妥 当 ではないかと 思 う 日 本 語 が 本 格 的 に 琉 球 の 教 育 システムへ 導 入 されたのは 1880 年 に 会 話 伝 習 所 という 師 範 学 校 が 設 立 されたところから 始 まる 琉 球 が 日 本 の 国 となってすぐ 最 初 のころ 日 本 政 府 は 琉 球 の 学 校 制 度 を 完 全 に 禁 止 した 先 にも 触 れたように 琉 球 の 学 校 制 度 というのは 中 国 を 基 盤 にしたもので その 目 的 は 中 国 への 留 学 と 中 国 の 学 問 である 漢 学 を 学 ぶことだった 1874 年 に 台 湾 出 兵 により 何 とか 公 式 に 中 国 ( 清 国 )と 琉 球 との 交 流 関 係 を 断 ち 切 らせることに 成 功 した 日 本 政 府 は 中 国 中 心 主 義 の 教 育 を 改 革 する 事 に 必 死 であった 琉 球 の 教 育 制 度 を そのまま 残 してしまうと 未 来 の 人 材 である 沖 縄 の 若 者 は 中 国 主 義 のまま 成 長 してしまい これは 日 本 政 府 にとっては かなりの 脅 威 であった そこで 日 本 政 府 は 日 本 の 教 育 制 度 を 完 全 に 導 入 することにより 沖 縄 を 日 本 化 するという 手 立 てを 考 えた しかし 初 期 の 頃 は 旧 エリート 層 の 地 位 にいた 人 々が 中 国 へ 逃 亡 したり 大 きな 反 発 運 動 を 起 こしたりする などの 事 件 が 相 次 ぎ 旧 沖 縄 の 教 育 制 度 を 完 全 に 廃 止 するの が 難 しいという 状 況 になった[ 近 藤 2011: 192] そこで 日 本 政 府 は 旧 制 度 を 残 したまま 学 校 へ 日 本 人 の 教 師 を 送 り 込 む という 形 で 少 しずつ 沖 縄 の 学 校 を 日 本 化 していくとい う 政 策 を 取 ることにしたのである 近 代 化 を 目 的 とした 脱 中 国 主 義 精 神 を 元 にし まだ 日 本 本 土 でさえ 国 語 という 概 念 が 存 在 していなかった 時 期 に 沖 縄 での 日 本 語 ( 国 語 ) 教 育 が 始 まった 4 対 訳 教 科 書 沖 縄 対 話 から 単 一 言 語 の 教 科 書 へ 1880 年 2 月 に 県 庁 内 に 開 設 した 会 話 伝 習 所 は 日 本 語 教 師 および 通 訳 者 を 育 成 するために 設 立 された 日 本 語 を 話 す 僅 かな 沖 縄 人 を 入 学 させ 残 りは 日 本 から 派 遣 された 事 務 局 員 という 少 人 数 でのスタートであった この 会 話 伝 習 所 は 文 部 省 からの 許 可 待 ちのための 暫 定 的 な 施 設 であり 存 在 していたのはたったの 4 ヶ 月 である 正 式 に 文 部 省 から 78
許可が下りてからは すぐに本土と同じ名称の 師範学校 となり 沖縄全土に学生の募集をかけた 会話伝習所 が 沖縄の教育史において重要な理由は その僅か 4 ヶ月の間に 明治初期 沖縄の日本語教育にとって中心的存在だった教科 書 沖縄対話 が完成しているからである 図 1 沖縄師範学校編纂 沖縄対話 上 1880 より抜粋 沖縄対話 には 学務科 が編集を担当したということ しか記載されておらず 肝心の作者は未だにわかっていない 二次的な資料から 恐らく何人か 会話伝習所 にいた沖縄 人が日本語から琉球語 首里語 へ翻訳をしたのではないか という説 服部 1984: 93-94]もあるが詳細は不明である この教 科書は 2 カ国語で書かれており はじめの一文は大きめに日 本語で 次の文は小さく首里語でという対訳式で構成されて いる 始めに日本語 次に首里語という順序で書かれてあり また日本語よりも首里語の方が小さく書かれている つまり 日本語が主要な言語であって 首里語はあくまで補助の言語 として編集された事が一目でわかるように書かれてある 加 えて この教科書には日本語が敬語体で書かれており 本土 での教科書とは大きく違っている 近藤 2006: 75] また 教科 書の大部分が口語体で書かれているというのも 沖縄対話 の大きな特徴である もともと 沖縄対話 は 師範学校で使用する事を目的と して編纂された書物ではあったが 沖縄で小学校が設立され 79
ると 会 話 科 という 科 目 で 教 科 書 として 使 われるようにな った なぜこの 教 科 書 を 使 用 していたのか 正 確 な 理 由 はわ からないが いくつかの 文 献 によると 当 時 本 土 から 派 遣 さ れてきた 教 師 と 生 徒 との 間 には 言 葉 の 問 題 により 上 手 く 意 思 の 疎 通 ができておらず 授 業 をするにも 現 地 語 を 介 してで なければ 授 業 が 成 り 立 たなかった 様 子 が 伺 われる[ 太 田 1932: 103] また 日 本 人 教 師 と 並 んで 通 訳 をつけさせて 授 業 をし ていたという 記 録 もあり 琉 球 沖 縄 人 にとって 日 本 語 は 当 初 外 国 語 のようであったというのは 決 して 誇 張 ではない 伊 波 普 猷 によると 1890 年 代 頃 はまだ 普 通 語 ( 日 本 語 ) を 話 す 沖 縄 人 はかなり 少 なく 当 時 日 本 語 を 話 せるというと 今 でいう 英 語 を 話 せるというような 感 覚 だったという [ 比 嘉 1963: 4] このような 言 語 の 面 だけでも 非 常 に 混 乱 した 中 で 日 本 語 教 育 はスタートしたわけであるが その 授 業 法 は 主 に 暗 記 であった 沖 縄 対 話 にある 文 章 をひたすら 暗 記 させ 毎 日 正 しく 暗 記 ができているかをテストするというのが 主 流 であった テストにも 翻 訳 を 使 い 教 師 が 普 通 語 ( 日 本 語 ) で 質 問 すると 生 徒 は 現 地 語 で 答 え その 逆 のパターンで 交 互 に 日 本 語 と 現 地 語 を 使 い 授 業 で 練 習 していたことがわか っている[ 近 藤 2006: 73] 1888 年 になると 日 本 本 土 と 同 じ 教 科 書 が 導 入 されるようになり それ 以 後 は 対 訳 つきの 教 科 書 ではなく 単 一 言 語 (つまり 日 本 語 のみ)の 教 科 書 が 使 用 さ れていたことが 伺 われる 同 時 進 行 ではないが それと 平 行 するかのように 授 業 で 使 用 される 言 語 も 日 本 語 のみへと 比 重 が 傾 いていく 教 育 機 関 で 日 本 語 教 育 が 本 格 的 に 始 まった 1880 年 から 国 定 教 科 書 が 導 入 される 1904 年 まで 沖 縄 の 小 学 校 で 使 用 されていた 国 語 の 教 科 書 をまとめると 以 下 のようにな る 図 2: 沖 縄 の 小 学 校 で 使 用 されていた 教 科 書 とその 言 語 教 科 書 の 種 類 授 業 内 使 用 言 語 1880 1888 沖 縄 対 話 ( 対 訳 式 ) 琉 球 語 + 日 本 語 1888 1897 検 定 教 科 書 ( 日 本 語 のみ) 琉 球 語 + 日 本 語 1897 1904 沖 縄 県 用 尋 常 小 学 校 読 本 琉 球 語 + 日 本 語 日 本 語 ( 日 本 語 のみ) 1904 国 定 教 科 書 ( 日 本 語 のみ) 日 本 語 この 表 でもわかるように 翻 訳 付 きの 教 科 書 沖 縄 対 話 が 使 われていた 時 期 から 日 本 本 土 と 同 じ 教 科 書 が 使 用 されて いた 時 期 までは 確 実 に 授 業 内 で 首 里 語 (および 現 地 語 )が 使 用 されている つまり この 時 期 には 現 地 の 言 葉 というの が 日 本 語 の 授 業 で 主 要 な 位 置 を 占 めていたということにな 80
り 同 時 に 1900 年 代 はじめまでは 確 実 に 沖 縄 での 日 本 語 教 育 には 現 地 語 が 欠 かせない 役 割 を 果 たしていたことになる しかし そのような 状 況 も 日 清 戦 争 日 露 戦 争 による 日 本 の 勝 利 その 他 様 々な 政 治 的 効 力 により 沖 縄 県 用 に 特 別 に 文 部 省 が 作 成 出 版 した 沖 縄 県 用 尋 常 小 学 校 読 本 (1897 年 )が 導 入 されてから 少 しずつ 現 地 語 排 斥 主 義 という 方 向 へ 進 んでいく その 様 子 が 伺 える 最 初 の 手 がかりとして 琉 球 教 育 という 教 育 誌 に 掲 載 されている 報 告 書 を 見 ると 例 え ば ある 若 い 日 本 語 教 師 が 学 校 の 上 層 部 に なぜ 授 業 で 琉 球 語 を 使 用 したのか [ 沖 縄 県 師 範 学 校 付 属 小 学 校 編 1904: 263] と 責 められる 場 面 が 出 てきていることでも 伺 える 更 にこ の 時 期 から 国 語 の 授 業 内 での 現 地 語 使 用 禁 止 の 傾 向 が 見 え 隠 れしてくるのである 5 現 地 語 禁 止 と 恥 意 識 1903 年 になると 方 言 札 が 登 場 する 方 言 札 とは 学 校 内 の 学 生 同 士 の 会 話 で 現 地 語 を 使 用 した 場 合 に それが 教 師 や 同 級 生 に 見 つかれば 罰 として 首 にかけなければならなかった 板 のことであり 沖 縄 で 作 られた 罰 則 である 方 言 札 をかけら れたものは 教 師 から 説 教 され 教 室 の 掃 除 をさせられるな どの 罰 を 与 えられた 1914 年 から 1919 年 にかけて 沖 縄 の 小 学 校 に 通 っていた 仲 宗 根 によると その 頃 には 方 言 札 は 学 校 で かなり 定 着 しており 常 にどこかで 誰 かが 見 張 っている 感 じがした [ 近 藤 2006: 3]という 方 言 札 はその 後 も 沖 縄 の 学 校 に 受 け 継 がれていき 一 部 の 学 校 では 戦 後 にも 使 用 され ていたことが 確 認 されている[ 井 谷 2006: 161] 方 言 札 が 登 場 する 時 期 授 業 内 では 現 地 語 の 使 用 禁 止 が 定 着 しつつあり その 後 は 授 業 以 外 の 休 み 時 間 にも 禁 止 の 輪 が 広 がっていった 伊 波 普 猷 が 指 摘 しているように 方 言 札 は 現 地 語 を 禁 止 するだけではなく 道 徳 的 な 罪 に 問 われると いう 要 素 も 備 えていた[ 浅 野 1991: 216] 学 校 の 授 業 以 外 では 母 語 で 会 話 していた 生 徒 も このような 徹 底 した 取 り 締 まり により 自 由 に 母 語 で 会 話 することが 制 御 され 母 語 で 会 話 する 事 が 悪 い 事 であるというような 恥 の 意 識 が 教 育 されてい ったといえる 教 育 者 側 からも 現 地 語 排 斥 の 声 は 強 く 沖 縄 で 普 通 語 ( 標 準 語 )を 広 めるために 現 地 の 言 葉 を 厳 しく 取 り 締 まらなければならない という 意 見 が 見 受 けられる[ 帆 足 1903: 363] その 後 も 現 地 語 禁 止 の 輪 は 学 校 内 に 収 まらず 学 校 外 へも 広 まっていった 1930 年 頃 になると 学 生 や 教 師 ら が 学 校 のない 時 間 に 外 へ 出 て 行 き その 周 囲 の 住 民 が 日 本 語 だけを 話 しているかどうか を 確 認 するようになるとこ ろまで 徹 底 した 現 地 語 弾 圧 を 行 った この 一 見 無 謀 なやり 方 81
が 功 をなしたのか 1940 年 代 には 家 庭 でも 兄 弟 同 士 が 日 本 語 だけを 使 うようになり たどたどしい 日 本 語 を 話 す 両 親 を 情 けなく 思 う 子 供 たちが 出 てきたことが 報 告 されている[ま しこ 1997: 152] つまり 沖 縄 人 が 自 分 たちの 母 語 を 恥 だと 認 識 するようになったわけである また 日 本 語 を 話 さない 両 親 のために 学 校 側 が 定 期 的 に 談 話 会 を 主 催 し 通 訳 者 を 通 して 子 供 たちの 教 育 について 説 明 するという 機 会 を 提 供 した[ 近 藤 2006: 178-180] そこでは 優 秀 な 生 徒 に 日 本 語 で 書 いた 作 文 を 読 ませるなどして 日 本 の 学 校 教 育 が 成 功 して いる 様 子 をアピールしていたという 記 録 もある 家 庭 でも 積 極 的 に 日 本 語 で 会 話 するよう 両 親 を 教 育 する 事 も 惜 しまな かった このように 日 本 語 教 育 は 学 校 内 にはとどまらず 生 徒 の 個 人 的 な 生 活 をも 支 配 するようになったといえる 6 おわりに 今 まで 手 に 取 った 日 本 語 教 育 史 関 連 の 書 物 の 中 に 台 湾 や 満 州 などと 同 じく 沖 縄 が 登 場 したことは あまり 見 たこと がない 確 かに 沖 縄 は 台 湾 や 満 州 とは 違 い 植 民 地 ではなかっ た しかし いくら 琉 球 が 沖 縄 という 地 名 に 変 えられ 正 式 に 日 本 の 国 の 一 部 になったといえども 沖 縄 での 国 語 教 育 は 当 時 の 日 本 の 植 民 地 と 変 わらず 現 実 には 外 国 語 としての 日 本 語 教 育 だったのではないだろうか 最 後 に 日 本 語 と 琉 球 朝 鮮 語 アルタイ 語 との 親 族 関 係 という 題 目 で 1948 年 言 語 学 者 の 服 部 四 郎 が 日 本 民 族 学 会 の 紀 要 で 発 表 した 論 文 の 中 から 一 文 引 用 したい 沖 縄 列 島 に 行 われる 言 語 は 九 州 以 東 の 言 語 とは 著 しくこ となり それが 日 本 語 の 内 の 琉 球 方 言 と 呼 ばれた 理 由 は 同 じ 日 本 国 内 に 行 われていること この 地 方 に 内 地 と 同 じ 共 通 語 が 行 われていることであった 琉 球 が 日 本 から 分 離 するとすれば 事 情 は 自 ら 異 なってくる 服 部 1984: 117 この 服 部 四 郎 の 引 用 文 が 示 すように どこの 国 に 属 してい るのかという 政 治 的 な 効 力 により ある 地 域 固 有 の 言 語 は 言 語 ではなく 方 言 とされる 沖 縄 の 日 本 語 教 育 の 歴 史 を 振 り 返 るとき その 事 実 が 浮 かび 上 がってくるのではな いだろうか 82
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