日本において英語でマクロ経済学を教えるとは? 2017 年 7 月 12 日 一橋大学経済学研究科齊藤誠
なぜ, 日本において英語で経済学を教えるのか? 正統的な解答 国際標準の普遍的な経済学を国際言語である英語で教えることで, 日本の大学の経済学部も, 国際的な大学教育市場に積極的に参入していく しかし, はたして, 普遍的な経済学たるものがあるのであろうか? はたして, 普遍的な経済学の英語のテキストがあるのであろうか? 2
経済学のローカルな側面 数理経済学や計量経済学は, できあがった内容はきわめて普遍的であるが, それでは, その問題意識や発想の根っこのところは, 文化や制度に影響されていないだろうか? 教えるときに用いられる例示は, 文化依存的ではないであろうか 応用的な側面を持つ経済学分野では, 当たり前のことであるが, それぞれの経済社会のありように規定される部分がきわめて大きい 3
それにもかかわらず, なぜローカルな経済学を母語でなくて英語で教えるのか? あらためて考えてみると 米国や英国の教科書を使う意味 ローカルな米国経済やローカルな英国経済を現在進行形の教材で学ぶことができる 日本経済のローカルな側面を英語に翻訳する貴重な機会 複数のローカルな経済の比較から, 経済学をより深く学ぶことができる 外国人の学生が比較経済の環境で日本経済を学ぶことができる 日本人の学生が比較経済の環境で日本経済を学ぶことができる ごくごく当たり前のように言われている政策発想が, 案外に米国経済の実情を強く反映していることも多い あたりまえのことであるが, 英語で語られることも, すべてが普遍的とはいえない むしろ, 米国や英国でよく読まれている学部教科書は, それぞれの国の経済事情を反映していることが多い 日本経済を含めた多くのローカルな経済が英語で語られる必要があるのでないだろうか? 4
やはり, 国際化の実情を踏まえると, 英語による経済学教育の実践は不可避であるが, その実践については工夫が必要ではないであろうか? 避けなければならないこと ローカルな部分をユニバーサルな部分として絶対に伝えないこと ぜひとも進めなければならないこと さまざまなローカルな部分とユニバーサルな部分について, 優劣を付けることなく, いずれも尊重すること そんな視点から, 大学教育の国際化を, マクロ経済学という一つの分野で考えてみたい 5
中級マクロ経済学で用いている教科書 Olivier Blanchard, Macroeconomics, 2016. なぜ, 使ったのか? アメリカ経済というローカルな経済に関するデータに満ち溢れている アメリカの政策現場で用いられているロジックが丁寧に説明されている 比較経済, 特に欧州経済との比較について十分な紙幅が割かれている ( 著者がフランス人であることも影響している ) 6
米国経済ローカルこてこての教科書に 日本経済ローカルこてこての素材を ふんだんにちりばめてみようという趣向 7
物価を通して, 日本経済のローカルさ, 米国経済のローカルさを浮き彫りにしてみよう 米国経済では, 物価が経済の体温計として機能してきた さまざまな物価指標が同じ方向に動くことから, 経済で活動する人々が物価に対するイメージを共有しやすい 物価動向は, 財市場と労働市場の需給状況を反映している その結果, インフレ率が重要な政策指標や政策目標として位置付けられた 日本経済では, 物価がかならずしも, 経済の体温計でなかった 何本も体温計がある ( 異なる物価指標が異なった方向に動く ) それぞれの体温計の精度がそれほどよくない それにもかかわらず, 他国の方法に従ってインフレ率を重要な政策指標と位置づけるようになった 米国経済と外国経済, 日本経済と外国経済 のそれぞれのかかわりがずいぶんと異なっている 8
さまざまな体温計 付加価値 ( 労働 資本所得の合計 ) の価格指標としてのデフレーター GDP デフレーター GDI デフレーター GNI デフレーター 財の価格指標としての物価指数 消費者物価指数 企業物価指数 指標の変化が乏しい場合には 指標の変化率ではなく 指標の水準で見ること! 9
米国の GDP デフレーターと消費者物価指数 10
日本の GDP デフレーター, 消費者物価指数, 企業物価指数 11
交易条件と物価指標 交易条件とは, 輸出物価 / 輸入物価で計られた指標 交易条件の改善 : 安く輸入し, 高く輸出することで, 所得が海外から国内へ流入する 交易条件の悪化 : 高く輸入し, 安く輸出することで, 所得が国内から海外へ漏出する 交易条件の悪化 ( 改善 ) の物価指標への影響 海外への所得漏出 ( 流入 ) で GDP デフレーターは低下 ( 上昇 ) する 輸入物価の上昇 ( 低下 ) で消費者 企業物価指数は上昇 ( 低下 ) する 12
日米の交易条件 ( 輸出物価 / 輸入物価 ) 13
日米の交易条件動向の背景 米国経済のケース 製品と原材料の両方を自国内で生産している 北米大陸で水平的な分業が進んでいる 米ドル建て貿易契約が広く用いられている 日本経済のケース 製品輸出, 原材料輸入のパターンが依然として支配的である 外貨建て貿易契約が広く用いられている その結果, 日本経済の交易条件は, 一次産品価格の動向, 円相場, 製品輸出の国際競争力に左右されやすい 14
交易条件を反映する GDP デフレーターと交易条件を調整した GDI デフレーター 15
交易条件を介したインフレ目標と経済厚生の乖離 2014 年半ばから始まった原油価格の下落 交易条件の改善 海外からの所得流入による実質所得の改善 消費者物価指数の低下 インフレ目標からの乖離 2014 年から 15 年は 原油価格低下がネガティブにとらえられたが 実は 2000 年代半ばの原油価格高と円安 交易条件の悪化 国内で生み出された所得の海外への漏出 GDP デフレーターの低下と消費者物価指数の上昇 2000 年代半ばは 戦後最長の景気回復といわれたが 実は 16
交易条件の影響を受けない実質経済成長率と交易条件を調整した実質経済成長率 17
日本の物価は体温計として精度が低い インフレ率 ( 消費者物価上昇率 ) が労働市場の需給 ( 失業率 ) を反映しにくい 労働市場の需給 ( 失業率 ) と生産活動の程度が必ずしもリンクしていない その結果, インフレ率は, マクロ経済のパフォーマンスを図る体温計としてうまく機能しない 18
日本経済の特徴 1: インフレ率と労働需給のきわめて緩やかな関係 19
日米のフィリップス曲線 日本のフィリップス曲線 米国のフィリップス曲線 日本経済では, インフレ期待が現在までの経緯に大きく左右されて形成される傾向が強い 20
日本経済の特徴 2: 生産活動と労働市場のきわめて緩やかな関係 21
日米のオークン法則 日本のオークン法則 米国のオークン法則 日本経済では, 正規労働で経済環境にかかわりなく労働退蔵が行われる傾向があることから, 生産活動と労働市場の関係が弱くなる傾向がある 22
日本経済における政策指標としてのインフレ率 日本経済では 立場の異なる人々の間で 物価 へのイメージが集約しない 物価 や インフレ が何を意味しているのかよく分からない インフレ目標とは, 1 将来の物価のあり方について認識を共有し, 2 将来のインフレ率について安定した相場観が形成されているときにはじめて, マクロ経済のアンカーとしての役割を果たす 23
安定的な米国の期待インフレ率と不安的な日本の期待インフレ率 24
物価という指標を通してみても, ローカルな日本経済とローカルな米国経済の違いが浮き彫りになる 物価目標導入をめぐる政策論争 米国の人々は, 米国経済の分析で培われたフィルターを用いて, 日本の金融政策を批判した 日本の人々も, 米国経済の分析で培われたフィルターを用いて, 日本の金融政策を批判した 米国経済のローカルな部分, 日本経済のローカルな部分を公平に比較し, その結果が英語で語られる公の空間がなかった 国際化が進む中で, 日本において英語で経済学を教える意義も, この辺にあるのではないであろうか 公論でよりよい経済政策を目指して 25
グローバライゼーションの中でそれぞれの国のローカルな要素を英語 ( 国際言語 ) で語る機会として 英語による経済学講義を捉えてみてはどうであろうか? 26