学位論文の内容の要旨 論文提出者氏名 井村紘子 論文審査担当者 主査深山治久副査泰羅雅登 豊福明 論文題目 Characteristic changes of saliva and taste in burning mouth syndrome patients ( 論文内容の要旨 ) < 要旨 > 舌痛症は舌を中心とした口腔粘膜の灼熱感を伴う慢性疼痛疾患であり 更年期以降の女性に多く 口腔乾燥や味覚障害 異常感覚が関連症状として多くみられる 本研究では 病態の特徴を把握するため 唾液成分や性質 全身の抗酸化能 味覚感受性について患者群と対照群とで比較検討を行った 今回の測定から 舌痛症患者における 唾液量低下 粘調度上昇 単位時間当たりの唾液中分泌型 IgA(SIgA) 分泌量の減少およびアミラーゼ活性の上昇が特徴的変化として示された しかし 全口腔法を使用した味覚閾値の検査からは 顕著な変化は観察されなかった また 血清中抗酸化能の測定から舌痛症患者の有意な抗酸化力低下が示され 疼痛に起因する慢性的ストレスを要因としていることが考えられた 抗酸化能も舌痛症における評価項目として利用できる可能性が示唆された 今回得られた唾液の種々のファクターの変化および抗酸化能変化の知見は 舌痛症の病因を理解するうえで有用な知見であると考えられる < 緒言 > 舌痛症 (Burning Mouth Syndrome) は 歯や口腔粘膜の器質的異常がないにもかかわらず 舌および口腔粘膜の 灼けるような あるいは ヒリヒリとした 痛みを感じる慢性疼痛疾患であり 中年以降の女性に多いとされている 舌痛症では自覚的口腔乾燥症状 味覚障害や異常感覚が関連症状として表れることが多いとされている それに関して 舌痛症患者とコントロールとの間の唾液の分泌や成分量の違いを明確にすることを目的とした研究がなされており 安静時唾液量の低下 舌痛症患者の唾液中および血液中の免疫グロブリン濃度の上昇などが報告されている また 味覚については 舌痛症患者で電気味覚閾値が高いとの報告があり 4 基本味の味覚低下に関してはいくつかの報告が散見されるが 味覚閾値を測定した報告は 1 例のみである そこで, 本研究では 口腔乾燥感 味覚低下および口腔内異常感覚を引き起こす要因として どのような唾液分泌量低下や唾液成分の変化 味覚変化が舌痛症患者で生じているかを明らかにし その病因との関連を検討することを目的とした - 1 -
< 方法 > 舌痛症が好発する更年期以降の女性患者を舌痛症群 同年代の健康女性を対照群として 下記のように唾液の性状や成分 血清抗酸化能の測定 ならびに全口腔法による味覚閾値検査を行い 2 群間の比較検討から 舌痛症患者の特徴的変化について検討した 1. 唾液の分泌量 性状と成分濃度の測定 1 唾液分泌速度の測定 : 被験者から吐唾法により安静時唾液を 3~7 分間採取し ただちに重量を測定した 唾液重量から 1 分間あたりの唾液分泌速度を求めた 2 唾液の粘性 ( 曳糸性 ) の測定 : 重量測定を行った唾液のうち 60 μl を用いて NEVA METER( 株式会社石川鉄工所 ) により粘性の指標となる曳糸性を測定した 3 唾液中分泌型 IgA(SIgA) 濃度の測定 : 残りの唾液を-20 で冷凍保存した後 測定当日に解凍し 3000 rpm にて 15 分間遠心分離を行って その上清を測定に用いた 上清中の SIgA 濃度を 唾液 SIgA 間接酵素免疫測定キット (Salimetrics 社 ) を用いて測定した 4 唾液中 α-アミラーゼ活性の測定 : 測定用ストリップスを舌下に 30 60 秒間静置し 唾液をストリップ先端に吸収させ その唾液中のαアミラーゼ活性をアミラーゼモニター ( 株式会社ニプロ ) により測定した 2. 血清抗酸化能の測定被験者の正中肘静脈より 2 ml の血液を採取し 3000 rpm にて 10 分間遠心分離を行った後血清を冷凍保存した 測定日に冷凍保存血清を解凍し 抗酸化能測定キット PAO( 日研ザイル株式会社 ) にて血清抗酸化能を測定した 3. 全口腔法による味覚検査 8 段階の濃度の甘味 塩味 酸味 苦味およびうま味の味溶液を用い 被験者から 3 ml を口に含んだ際の感じ方について回答を得た 各味について低濃度から始めて濃度を上げていき 味を正しく認知できる最低濃度 ( 認知閾値 ) を求めた 味の質を変える際には 純水で十分なうがいを行った 4. データ分析統計分析ソフト IBM SPSS 21(IBM 社 ) を用いて Student s t-test により 2 群間比較を行い p < 0.05 の場合を有意差ありとした 本研究は 東京医科歯科大学歯学部倫理委員会の承認 ( 第 834 番 ) を得て実施した < 結果 > 1. 舌痛症群の臨床的特徴本研究の舌痛症群は 口腔内にヒリヒリとした疼痛や灼熱感を有しており 痛みの部位としては舌尖が最も多かった また痛みの強さは VAS (Visual Analog Scale) における平均値が 41.5±16.2 (S.D.) mm で範囲は 24 から 68 mm であった 病悩期間は 1 か月から 36 か月 ( 平均 :18.7±13.8 か月 ) と広範囲にわたり 個人差が大きかった 口渇感がある患者は 15 名中 10 名 味覚異常を訴える患者は 15 名中 6 名であった カンジダ検査では陽性は 2 名のみであったが 主症状と重なるような重篤なカンジダ感染は見られなかった 血清中亜鉛濃度は 75.29±11.38 µg/dl ( 範囲 :56 から 93 µg/dl) であり 基準 - 2 -
値とされている 70 µg/dl 以下の患者は 4 名であった 2. 唾液性状の比較安静時唾液分泌速度の平均は舌痛症群で 0.323±0.204 g/ 分 対照群では 0.527±0.248 g/ 分であり 舌痛症群において対照群より有意に低い値を示した また 曳糸性の平均値は舌痛症群 14.09±18.17 mm 対照群では 3.94±1.96 mm であり 舌痛症群において有意に高い値を認めた 3. 唾液成分の比較 SIgA 濃度の平均は舌痛症群で 176.14±97.23 µg/ml 対照群で 164.71±158.80 µg/ml であり 両群において有意差がみられなかった しかし SIgA 濃度に安静時唾液分泌速度を掛けた 1 分あたりの SIgA 分泌量は 舌痛症群で 45.01±22.70 µg/ 分 対照群で 75.10±52.73 µg/ 分であり 舌痛症群で有意な減少が認められた 唾液アミラーゼ活性の平均は舌痛症群で 72.00±14.36 ku/l 対照群で 42.47±3.46 ku/l であり 舌痛症群で有意な増加がみられた 4. 血清中の抗酸化能の比較血清中抗酸化能の平均値は舌痛症群で 1016.85±45.45 µmol/l 対照群で 1266.63±43.50 µmol/l であり 血清中の抗酸化能は舌痛症群で有意に低値を示した 5. 味覚閾値の比較舌痛症群における各味覚閾値の平均値 ( 濃度段階 ) は 甘味 :4.40±1.50 酸味:4.27±1.28 塩味 :4.93±1.75 うま味:5.27±2.28 苦味:4.80±02.76 対照群では甘味:3.90±1.13 酸味 :3.23±1.41 塩味:4.53±1.33 うま味:4.37±1.52 苦味:4.77±1.68 であり 酸味において舌痛症群で有意な閾値の上昇がみられたが 他の味では 2 群間に差は認められなかった < 考察 > 口腔乾燥は舌痛症でよくみられる症状の一つで 本研究でも患者の 67 % が口腔乾燥感を訴えていた これまでの研究では 刺激時唾液量の低下がないという報告もあるが 最近の安静時唾液量を測定した研究では 舌痛症群で健康群と比較して有意な低下があると報告されており 本研究結果と一致していた したがって 口腔乾燥感には 安静時唾液の分泌量低下が強く影響すると考えられる さらに 今回 患者群で曳糸性 ( 粘性 ) の増加が認められたことから 舌痛症患者においては唾液減少に伴う乾燥感に加え 口腔内の粘つきや不快感が生じており QOL 低下の要因となっていると考えられた 口腔粘膜免疫の主体を担う SIgA の濃度には 2 群間で差がみられなかったが 1 分間の SIgA 分泌量は舌痛症群において有意に低い値を示した SIgA 濃度は舌痛症患者において有意に高いとの報告もあるが 舌痛症患者では唾液量が少ないため SIgA が濃縮されて高い濃度となった可能性が考えられる 今回の結果では SIgA の単位時間当たりの分泌量が低下しており 口腔内免疫能が低下している可能性が示唆された 唾液中 α-アミラーゼ活性は慢性的なストレスの評価に用いることができるとされており 今回 舌痛症群において唾液アミラーゼ活性が有意に高い結果が得られた 他の研究でも舌痛症患者で唾液アミラーゼ活性が高いと報告されており 舌痛症患者では慢性的疼痛により日常的にス - 3 -
トレスが高まっている可能性が考えられた 一方 抗酸化能は高血圧やアルツハイマー症などの各種疾患のマーカーとして利用され 全身状態を評価するファクターとして注目されている 血清中の抗酸化能が舌痛症群において有意に低値を示したことから 全身の酸化ストレスへのコーピング力が低下している可能性が考えられた ストレスによって抗酸化能が低下するとの報告もあることから 舌痛症患者では唾液アミラーゼ値の上昇に示されるように 慢性的なストレスが全身的な抗酸化能を低下させている可能性が考えられた 味覚については 全口腔法による味覚閾値検査で甘味 塩味 うま味および苦味の閾値に舌痛症群と対照群では有意な差がなかったが 酸味閾値のみ舌痛症群で上昇がみられた 舌痛症患者において全口腔法による4 基本味の閾値検査ではコントロールと有意差はないと報告がある一方で 局所的刺激による舌痛症患者の電気味覚を含めた味覚検査では低下が報告されている このことは 患部では味覚感度の低下が生じているが 全口腔法ではこの低下が患部以外の領域の高感受性によって補完されるため 顕著な変化がみられなかったと推測される 舌痛症患者の味覚異常を検出するには 臨床で使用されているテーストディスクのような局所的刺激法が適していると考えられた 今回は舌痛症群でのみ血清亜鉛値の測定をしており 対照群との比較検討はしていないが 過去の文献の報告値と比べると 舌痛症患者では血清亜鉛値が低い値を示しており 舌痛症の一病態として 亜鉛の低値が考えられる 今回の唾液測定から 舌痛症患者における 唾液量低下 粘調度上昇 単位時間当たりの SIgA 分泌量の減少およびアミラーゼ活性の上昇が特徴的変化として示された しかし 全口腔法を使用した味覚閾値の検査からは 顕著な変化は観察されなかった 一方 血清中抗酸化能の測定から舌痛症患者の有意な抗酸化力低下が示された この要因としては疼痛に起因する慢性的ストレスが考えられた このことから 抗酸化能も舌痛症における評価項目として利用できる可能性が示唆されるとともに ストレスを軽減させる手助けの必要性が示唆された 今回得られた唾液の種々のファクターの変化および抗酸化能変化の知見は 舌痛症の病因を理解するうえで有用な知見であると考えられる < 結論 > 舌痛症患者において 唾液量低下 粘調度上昇 単位時間当たりの SIgA 分泌量の減少およびアミラーゼ活性の上昇が特徴的変化として示された 全口腔法を使用した味覚閾値の検査からは 顕著な変化は観察されなかった 血清中抗酸化能の測定から舌痛症患者の有意な抗酸化力低下が示され 疼痛による慢性的ストレスが要因となっていることが考えられた - 4 -
論文審査の要旨および担当者 報告番号甲第 4966 号井村紘子 論文審査担当者 主査深山治久副査泰羅雅登 豊福明 ( 論文審査の要旨 ) 舌痛症は舌を中心とした口腔粘膜の灼熱感を伴う慢性疼痛疾患であり 更年期以降の女性に多く 口腔乾燥や味覚障害 異常感覚が随伴症状として多くみられる 舌痛症とこれらの随伴症状との関連を調べた研究は実施されているが 舌痛症と随伴症状との関連を示す一致した結果は示されておらず 病態については十分解明されていない 今回 井村は口腔と全身の健康状態に関する客観的指標を用いて 舌痛症の病態を把握することを目的とし 舌痛症が好発する更年期以降の女性患者を舌痛症群 同年代の健康女性を対照群として 唾液の成分や性質 全身の抗酸化能ならびに味覚感受性について比較検討を行った 対象は本院ペインクリニックの舌痛症患者 15 名と 対照群として健康女性 30 名とした 測定項目として 非侵襲的であり簡便に採取が可能な唾液量 唾液粘度の評価として曳糸性 口腔粘膜免疫の重要な因子である唾液分泌型 IgA (SIgA) とした さらに全口腔法での 5 基本味の味覚検知閾値を測定した うま味に関して舌痛症との関連を検索した研究は見られず 本研究の新規な点である さらに全身の評価として唾液 α-アミラーゼ活性の測定を行った 被験者より血液を採取し 得られた血清より酸化ストレス消去力としての抗酸化能を測定した 酸化ストレスは冠動脈疾患の発症や加齢に関連することが知られており 全身の酸化ストレスを除去する力としての抗酸化能を舌痛症の病態の把握のために測定した研究はなく 本研究の新規な点である 本研究で得られた結果は以下のとおりである 1. 唾液検査では 舌痛症群は対照群に比べ 有意に安静時唾液量の減少 粘度上昇 単位時間当たりの SIgA 量の減少が認められた 2. 舌痛症群と対照群の間には 酸味以外の味覚閾値に有意な差が認められなかった 3. 舌痛症群で唾液 α-アミラーゼの高値が認められた 4. 血清抗酸化能の測定では 舌痛症群における抗酸化能の有意な減少を認めた 以上より 井村は舌痛症の病態として安静時唾液量の減少と粘度の上昇から口腔乾燥感が生じていること さらに抗酸化能の低下から免疫力の低下やストレス状態が高まっている可能性を示した 本研究は 難治性の疼痛疾患である舌痛症の診断方法や治療法の確立に寄与し 今後の口腔顔面痛の診断と治療の発展にも貢献できると考えられた さらに この成果は広く歯科医学 医療の進歩発展に寄与するものと判断できる よって本論文は 博士 ( 歯学 ) の学位を請求するのに十分価値あるものと認められた ( 1 )