新約単篇 マタイによる福音 異邦人に望みを与える マタイ 12:15-21 異邦人 という言葉は 私たちには 外国の人 という文字通りの意味か 一昔前の歌にあった 疎外されて心の通じない人 位の響きしか持たないかと思います しかし 聖書で使われる 異邦人 は もともとユダヤ人が使った差別用語に由来し 度し難い外道 とか 神の救いの対象にもならぬ者 という 最悪の意味の言葉でした その 異邦人 と 信心深く清い者 との差別が 人間の目にはあっても 神の目には無い と断言されたのが ナザレのイエスでした そのお言葉を自分の耳で聞き 自分の目で見た人のショックを表わしたのが マタイの 異邦人は彼の名に望みをかける という引用句です マタイはこの言葉を 彼が親しんだ旧約聖書の七十人訳から取りました マタイが驚嘆したこの時点から 20 数年後に これを更に激越な表現にしたのが タルソのパウロの宣言でした この私は異邦人のための使徒である ( ローマ 11:13) 使徒の言葉には 強烈な皮肉もこめられています 私は毛並みの良い 信心深い人のお世話をする使徒ではない と言うのです これには エリートのユダヤ人も怒り狂って パウロを消すまでは断食だ という誓いを立てたと言います ( 使徒 23:12) 使徒言行録という巻物は ルカ伝の続編ですが 特にその後半は一言で言えば 異邦人にイエスが救いを与えた という真実に ユダヤ人エリートがこぞって抵抗した歴史です ( 使徒 28:27) 今日のマタイの驚きをこめたコメントは その予告のような言葉でした - 1 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
ところでマタイは イエスの言動の中に何を見てショックを受けたのでしょう 15 節と 16 節の描写に その一部が暗示されますが さほど明瞭ではありません ご自分のことを言いふらさないようにと戒められた という一行の連想が 辛うじて引用句の 5,6 行目と結びつく程度です 恐らくマタイは前の頁の終りにあるイエスの行為 神聖な安息日に障害者の病気を癒して ファリサイ派の度肝を抜いたこと に衝撃を受けたのです そしてその後も 従う大勢の群集を だれかれ無しに受け入れて 皆の病気をいやし ながら 世の宗教家がやるような宣伝を禁じて 病者に仕えることに専念されるお姿に感動したのです でも 不思議なのは 引用されたイザヤの詩の中で二度繰り返される 異邦人 が 実際には ここの物語には出て来ないことです マタイの頭の中の画面では イエスに 従う大勢の群集 が やがてパウロが伝える福音で救われる 異邦人 と重なって見えたのだと思います 信心深く清い者 と凡そ縁遠い人たちが この時の 群集 です 目の前におられるイエスが一体どなたなのか その本質を見抜いていないどころか イエスを信じる信仰 を持つでもなく ただただ 自分の病気を治してくれる治療者としてしか見ていない人たちです ただ彼らは 世間の 敬虔な ユダヤ教徒のように自分を疎外もせず 軽蔑もせずに 自分をひとりの人間として尊重して自分に手を置いてくれる人を ナザレのイエスの中に見ました それは後に 外道の異邦人 が見たもの 神の救いの対象にも値しない (?) 不信仰の異邦人 が見たイエスと同じでした マタイの驚きは そこに焦点を合わせています 14. ファリサイ派の人々は出て行き どのようにしてイエスを殺そうかと相談した 15. イエスはそれを知って そこを立ち去られた 大勢の群衆が従った イエスは皆の病気をいやして 16. 御自分のことを言いふらさないようにと戒められた 17. それは 預言者イザヤを通して言われていたことが - 2 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
実現するためであった 18. 見よ わたしの選んだ僕 わたしの心に適った愛する者 この僕にわたしの霊を授ける 彼は異邦人に正義を知らせる 19. 彼は争わず 叫ばず その声を聞く者は大通りにはいない 20. 正義を勝利に導くまで 彼は傷ついた葦を折らず くすぶる灯心を消さない 21. 異邦人は彼の名に望みをかける わが僕 は わが子 とも訳せる言葉 です イザヤの詩は 42 章のこの 見よ わが僕 から始まって 先日ご一緒に読んだ 53 章の 彼は見るべき面影はなく まで 古代ギリシャ語訳は一貫してこの同じ句 オ ペース ム で訳しました 父の意思に従う 僕の極致 であり 父の愛を一身に受けた 子の極致 でもある人が そこにいて 父が愛しなさるのは こんな愛し方なのだ と言わんばかりに だれかれ無しに同じ人間として扱って 手当て をなさったのです 福音書の中でこの わが子 が始めて出るのは イエスがヨハネの手でヨ ルダン川の水に沈められて 水の中から立ち上がられる場面です そのとき 天がイエスに向かって開いた イエスは 神の霊が鳩のように 御自分の上に降って来るのを御覧になった そのとき これはわたしの愛 する子 わたしの心に適う者 という声が 天から聞こえた 神の霊 が降るのがヨハネの目にもはっきり見えた( ヨハネ 1:32) という証言は 聖霊が父と子を結んだと考えるよりも このイエスご自身が生ける神の命の息吹そのものである 真実を 絵に描いたように示しています 神の激しい風 ( 息 ) が 猛威を振るい始める瞬間の絵です しかし マ - 3 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
タイの目を引いたのは その 神の風 であり 命の息 である人の 激し さ ではなくて 優しさ と 温かさ でした 彼は傷ついた葦を折らず くすぶる灯心を消さない 正義を勝利に導くまで 自分で立っている力も無いほど 茎が潰れた葦でも折らずに 生かして立たせてやりたい そんな 優しさ が 病人に触れるイエスの手に込められていました 信仰も持たない群集の一人ひとりを 一個の人間として見ておられた 主の僕 が そこにおられました くすぶって燃え上がらない灯心など 能率主義 成績主義のエリートならすぐ 捨てて入れ換えるでしょう しかし 神の愛の極致であるこの人は その弱い灯心が炎を上げて輝く美しい姿を その時点ですでに見ておられたから 臭い灯心でもお消しにならなかったのです こんな方が私のために命を下さったから 今日の私があり あなたがあります 正義を勝利に導く の正義 異邦人に正義を知らせる の正義は ふつう人間が 悪と正義 と区別する時の 正しさ ではありません イザヤ書の クリシス ( 原典では ミシュパート ) は 神ご自身が正しいと判断された正しさを内容としています つまり 異邦人である私が人間の目にどう映ろうとも こいつは欠陥人間だ くすぶり灯心だ 折れた葦の茎だ と人が判定しようと 神ご自身は わが霊で命を与えて生かしたぞ と断言なさる そんな 正義の判定 です イエスはそんな判定を 異邦人に知らせた そしてその 判定 が人間の 判定 をやがて覆す (20) その時まで 彼は 傷ついた葦 と くすぶ る灯心 を絶対に捨てない それが この詩の中心です - 4 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
私がこの 彼は傷ついた葦を折らず くすぶる灯心を消さない という詩 に始めて接したのは 大阪市大の学生の時 私は 21 歳の若者でした マタイ 伝も文語体で こんな訳文でした 彼は 傷へる葦を折ることなく 煙れる亜麻を消すことなからん 異邦人も彼の名に望を置かん その時から 50 年以上が経ちました 私たちと一緒にこの箇所を読んで感動した若者たちは イエス様の優しさ に打たれましたし イザヤ書の詩の美しさと マタイの引用の素晴らしさに動かされました でも 異邦人に神ご自身の判定を伝える 異邦人は彼の名に望みをかける というその 異邦人 の位置に自分を置いて 生きてみた人は それほど多くなかったのかも知れません もちろん それでも良いわけです 一時的に病を癒されただけの群集 自分を一人の人間として扱って 個人の尊厳を与えてくれたイエスの美しいイメージを 一生大事にして それだけで去って行った群衆 イエスの目は その人たちにも注がれていました 信仰で生き抜いた人だけを イエスは大事にされた訳ではありません 神ご自身の判定 が最終的に 勝つ 驚きを経験した人は 決して 人間の判定 に今洩れている人を 見下しはしないし イエスの復活の命がまだ その人たちに奇跡を生み出す日を 望み見ているのです 地上の歩みを間もなく終えようとする者にとって 何より確かなこと嬉しいことは この一人の 異邦人 がイエスの名に 望みを置いて 生きさせて頂いたことです やはり あの時からずっと 異邦人として聖書を読んできて良かった! というのが 異邦人の実感です (2002/12/29) - 5 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
研究者のための注 1.3 行目末尾にあるギリシャ語の読みをローマ字で表わすと ta ethni となります もともと 民族 を表わす名詞で 英語の形容詞 ethnic は 民族的 の意味 ethnology, ethnography は 民族学 です 片仮名の エスニック は エスニック料理 エスニック衣装 などに使われるようになりました 2. 聖書的概念の 異邦人 の背景にはヘブライ語の ゴイーム ~yiag があります イザヤ 42:4 で LXX が と訳した語は MT 原文では ゴイーム ~yiag ではなく イッイーム ~yyiai( 島々 ) です LXX は 島々 が場所ではなく そこに住む人々 海の彼方に住む 尊重されない 人々と解したものでしょう 3. わが僕 をも わが子 をも表わす my boy に相当する七十人訳のギリシャ語 オ ペース ム の原典 MT に使われた語は アヴディー ydib.[; です 4. ヨルダンの水から上がったイエスへの天からの声は マタイ マルコ ルカとも オ ペース ム ではなく オ ヨース ム ですが イザヤ 42:7 の言葉と二重写しにしているのは明らかです を に置き換えたのは 信仰告白として パウロ書簡で慣例化した 神の子 に合わせたものでしょう 5. イエスの上に 神の霊 が降るのが ヨハネの目にもはっきり見えた ( ヨハネ 1:32) という証言は 聖霊が父と子を結んだと言うより このイエスご自身が 生ける神の命の息吹そのものである 真実を示すという見方は 2002 年 8,9 月織田昭新約単篇の 神は霊である 神の息から命を受ける に次ぐ 2003 年 2 月の完結編 神の息吹としてのイエス を参照してください 私はギリシャ哲学から搾り出された 三位一体 的な説明より 筋が通っているように思います 6. マタイが 18,20 節に LXX から引用した クリシス とイザヤ原典の ミシュパート jp'v.mi の意味は 織田昭 マタイによる福音 371 頁の説明を参照 7. 神ご自身の判定 はパウロの語彙で言えば 神の義 となります 主の僕 はこの恵みの判定を 十字架の死と復活の命で可能にして下さいました とすれば 信仰を貫いた 誇りも空しく 信じないで去った 誇りも空しいのです - 6 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.